瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秋山源太郎

秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

戦国時代の阿波と讃岐は、細川氏とその臣下の三好氏が統治したために、両国が一体としてみられてきました。そのため讃岐の支配体制を単独で見ていこうとする研究がなかなかでてきませんでした。研究が進むに連れて、阿波と讃岐の政治的動向が必ずしも一致しないことが分かってきます。ここにきて讃岐の政治的な動向を阿波と切り離して見ていこうとする研究者が現れます。今回は16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に押さえておきます。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究17号(2023年) 」です。
馬部隆弘氏は、細川澄元の上洛戦を検討する中で、次の事を明らかにします。
①永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があったこと
②澄元が阿波勢力の後援を受けていたわけではないこと
讃岐は畿内で力を持つ京兆家、
阿波は阿波守護職を世襲した讃州家の分国
で、両家の権限は基本的に分立していたことを押さえておきます。
天野忠幸氏は、もともとは別のものであった阿波と讃岐が、細川氏から三好氏に権力が移る中で、三好氏によって讃岐の広域支配権をめざすようになり同一性を高めていったとします。

讃岐は細川京兆家の当主による守護職の世襲が続きます。

細川京兆家
細川京兆家
他の家に讃岐の守護職が渡ったことはありません。守護代職も東部は安富氏、西部は香川氏が務める分業体制が15世紀前半には成立して、他の勢力が讃岐守護代となることもありませんでした。讃岐は、室町期を通じて守護である京兆家細川氏と二人の守護代によって支配されてきたことを押さえておきます。讃岐に讃州家(阿波守護)が介入してくるのは、16世紀初頭までありません。
讃州家被官系(阿波守護)の人脈が讃岐の統治に介入してくる最初の例が三好之長(みよし ゆきなが)のようです。
三好之長2
三好之長
  三好之長は、三好長慶の曾祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将とされます。之長は、阿波の有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生し、阿波守護であった細川氏分家・讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕えます。

三好家と将軍

ただし、之長ら讃州家から付けられた家臣の立場は讃州家と京兆家に両属する性格を持っていたと研究者は指摘します。当時は、このような両属は珍しいことではなかったようです。

永世の錯乱3

永正の錯乱前後の三好之長の動きを年表で見ておきます
永正4(1507年) 政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦
6月23日 細川政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺される。
  24日 宿舎の仏陀寺を元長らに襲撃され、澄元と近江に逃亡。
8月 1日 細川高国の反撃を受けて元長と長忠は討たれる
   2日 之長は近江から帰洛し、澄元と共に足利義澄を将軍に擁立     
 この時に京兆家当主となった澄元より、之長は政治を委任されたとされます。しかし、実権を握った之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は本国の阿波に帰国しようとしたり、遁世しようとして両者の間はギクシャクします。阿波細川家出身の澄元側近の之長が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていきます。
そんな中で讃岐に出されているのが【史料1】三好之長書状案「石清水文書」です。
香川中務丞(元綱)方知行讃岐国西方元(本)山同本領之事、可被渡申候、恐々謹言
永正参
十月十二日           之長
三好越前守殿
篠原右京進殿
日付は1506(永正3)年10月12日、三好之長が三好越前守と篠原右京進にあてた文書です。内容は、香川中務丞(元綱)の知行地である讃岐国の西方元山(三豊市本山町)の本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。この時期は、政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は三好之長の軍勢によって侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によっ軍事占領され、没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
どうして讃岐守護代の香川・安富氏が讃岐に侵攻するのでしょうか。それは讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方では「蜂起」が起こって、三好之長に軍事占領されたいたことがうかがえます。
さて史料1「三好之長書状案」の宛所となっている三好越前守は何者なのでしょうか?
  それを解くヒントが【史料2】三好越前守書状写「太龍寺重抄秘勅」です。
軍陳為御見舞摩利支天之御礼令頂戴候、御祈祷故軍勝手開運珍重候、即讃州於鶴岡五十疋令券進候、遂武運長久之処頼存候、遂所存帰国之砌、知行請合可申候、恐々頓首、
九月         三好越前守
太龍寺
  意訳変換しておくと
舞摩利支天の御礼を頂戴し、祈祷によって勝利の道を開くことができたことは珍重であった。よって讃州・鶴岡の私の所領五十疋を寄進する。武運長久の頼り所については、(私が阿波に)帰国した際に、知行請合のことは処置する、恐々頓首、
九月         三好越前守判
(阿波)太龍寺
阿波の太龍寺から勝利のための祈祷を行ったとの知らせを受けた三好越前守は、それが戦勝に繋がったとして、讃岐鶴岡の所領を寄進しています。ここからは次のような事が分かります。
①「帰国之砌」とあるので、越前守は讃岐に地盤を持ちながらも阿波を本拠地としていたこと
②篠原有京進も讃州家の被官なので、【史料1】の宛所2名はどちらも讃州家(阿波守護)の被官であったこと。つまり、ここからも讃岐が三好之長による侵攻を受けて、一部の所領が奪われていたことが分かります。ここでは、永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があり、阿波の勢力が讃岐に進出し、所領を持っていたことを押さえておきます。
 こうして阿波勢力の三好氏が京兆家の讃岐に勢力を伸ばしてきます。これに対してする反発も強かったようです。1508(永正五)年に澄元は畿内で勢力を失うと、讃岐経営に専念するようになり、京兆家の讃岐支配を強化する動きを見せます。そんな中で1510(永正七)年に、澄元の奉行人飯尾元運が奉書を発給しています。それを受けて守護代香川備前守に遵行を命じたのは西讃岐守護代家の香川元景で、三好之長ではありません。澄元は讃岐掌握を進める上で、従来の守護代家の香川氏の命令系統を使っていることを押さえておきます。
 永正八年の澄元の上洛戦では、讃岐でも澄元方と高国方の戦闘がありました。
永世の錯乱2

之長はこの時、高国方の西讃岐守護代香川元綱と通じていたようです。その背景には澄元の讃岐経営から排除された不満があったと研究者は推測します。
 三好之長が讃岐進出を進めた背景は何なのでしょうか。
そこには之長が京兆家被官も兼ねていることがあったようです。そのため之長が京兆家から排除されると之長の讃岐進出は挫折します。ところがここで之長にとって、次のような順風が吹きます。
①1511(永正八)年の澄元の上洛戦が失敗
②その直後に細川成之・之持といった当主格が死去し、讃州家が断絶
③そうすると澄元にとって、讃州家再興が優先課題に浮上
④その結果、澄元による阿波勢力掌握が進展
1519(永正16)年の上洛戦で澄元軍の主力は、安富氏・香川氏などの讃岐守護代家と阿波の讃州家被官の混成軍で構成されています。これらの軍勢を率いたのが三好之長です。混成軍だったために主君の細川澄元が病によって動けなくなると、讃州家被官や讃岐守護代家は之長を見捨てて離脱してしまいます。実態は讃岐(京兆家)が阿波(讃州家)を従える形で上洛戦が展開されたことがうかがえます。

 秋山家文書からも秋山氏が澄元に従っていたことが分かります。
1 秋山源太郎 櫛梨山感状
          細川澄元感状    櫛梨合戦 

    去廿一日於櫛無山
致太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日         澄元(細川澄元)花押
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山(琴平町)に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で感状と呼ばれます。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。 この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃と研究者は考えています。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する岡で、後の元吉城とされます。 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行
 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八             (飯尾)
十月十三日         一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

1秋山氏の系図4
秋山氏系図(Aが源太郎)


この文書の出された背景としては、永世の錯乱で香川氏・香西氏・安富氏などの讃岐の守護代クラスの国人らが、澄之方に従軍して討ち死にしたことがあります。そして秋山一族の中でも、次のような対立がおきていました。
①庶流家の源太郎は、細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は、細川澄之方へ
 この対立の発火点が櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられます。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。永世の錯乱という中央での争いで、勝ち組についた方が生き残るのです。管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 この文書の発給人の飯尾元運を見ておきましょう。。
彼は阿波の細川氏の奉行人である飯尾氏と研究者は考えています。ここからは、秋山家の惣領となった源太郎が、最初は細川澄元に接近し、その後は細川高国方に付いて、淡路守護家や阿波守護家の細川氏に忠節・親交を尽くしていることが分かります。その交流を示す史料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。
 どうして、源太郎は京兆家でなく阿波守護家を選んだのでしょうか? それは阿波守護家が細川澄元の実家で、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたようです。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に従軍して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)からも推察できます。
 高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのは以前にお話ししました。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧
まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 1520(永正17)年の澄元の上洛戦は失敗し、澄元本人もその直後に亡くなってしまいます。澄元陣営は、管轄が違う阿波と讃岐を束ねる必要に迫られます。

【史料三】瓦林在時・湯浅国氏・篠原之良連署奉書「秋山家文書」        讃岐国西方高瀬内秋山幸比沙(久)知行本地并水田分等事、数度被成御下知処、競望之族在之由、太無謂、所詮退押妨之輩、年貢諸公物等之事、可致其沙汰彼代之旨、被仰出候也、恐々謹言、
永正十八九月十三日        瓦林日向守   在時(花押)
              湯浅弾正   国氏(花押)
              篠原左京進  之良(花押)
当所名主百姓中

意訳変換しておくと
讃岐国・西方高瀬内の秋山幸比沙(久)の知行本地、并びに水田分について、数度の下知が下されているが、領地争いが起こっているという。改めて申しつける。押妨の輩を排除し、年貢や諸公物について、沙汰通りに実施せと改めて通知せよ 恐々謹言、
永正十八(1521)九月十三日
        瓦林日向守      在時(花押)
       湯浅弾正   国氏(花押)
       篠原左京進  之良(花押)
当所 名主百姓中

1520(永世17)年には、三好之長が上京しますが、細川高国に敗れます。そして、播磨に落ちのびた澄元は急死します。その翌年の永正18年の讃岐への奉書は、奉行人ではなく新当主の晴元の側近たちによって書状形式で発給されています。別の連状に「隣国」とあるので、彼らは阿波にいたことが分かります。ここからは晴元が京兆家の分国として押さえているのは讃岐で、阿波ではなかったことが分かります。しかし、晴元が幼少であることや阿波勢の離反を防ぐために阿波に拠点をおくことを選択したと研究者は推測します。
 研究者がここで注目するのは、連署している3人の側近メンバーです。
①摂津国人の瓦林氏
②晴元側近として京兆家被官となった湯浅氏
③讃岐家被官の篠原之良
彼らは讃岐とどんな関係があったのでしょうか?
③の篠原氏は讃州家被官の立場で【史料3】に署名していると研究者は推測します。
 この時期の三好氏は、西讃岐進出をねらっています。その動きに篠原氏もそれに従っていたからでしょう。晴元が幼少という政治不安を抱える中で、讃岐支配に阿波勢力を排除すると、阿波勢力の離反を招きかねないため、篠原氏を讃岐支配に関与させたと研究者は推測します。
以上をまとめておくと
①16世紀初頭の永世年間の讃岐の支配権は澄元が握っていた
②それを阿波にいる京兆家被官・奉行人が支配を担当した。
③阿波勢力の協力を得るために讃州家被官を出自とする氏族が讃岐支配に関与することはあった。
④しかし、讃州家が直接的に讃岐支配に関与することはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究2023号」
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   甲斐国から高瀬郷の地頭としてやってきた秋山氏を系図で追ってみます。
1秋山氏の系図4

13世紀末に西遷御家人として讃岐にやって来たのは、①秋山阿願光季でした。彼の元で高瀬郷の下高瀬を拠点として居館を構え、新田開発や塩田造成が行われていったようです。その後を継いだのが②源誓のようです。彼からの③孫次郎泰忠への領地の譲状が秋山文書が残っています。ところが、秋山家の正史は、②の源誓の存在を認めません。③泰忠の残した置文や譲り状に、①の祖父光季から譲られたと父を抹消しています。その理由はよく分かりませんが、父の源誓は法華教徒でなかったためかもしれません。
 ③泰忠は、長寿で10歳前後で高瀬郷にやって来て、その後80年以上を過ごしています。その後の活動を年表に示すと、次のようになります。
弘安年中(1178~88)泰忠が祖父や父とともに高瀬郷に来讃。
建武3(1336)年に足利尊氏からの下知状を受け取る
観応2(1352)年の管領細川氏よりの預ヶ状受給
文和2(1353)年 泰忠が最初の置文と譲状を書く
永和 (1376)年 泰忠が最終の置文(遺言)を書く
 泰忠は、最後の置文には「ゆずりはずし(譲外し」を行っています。これは勘当や病気による「廃嫡」で、一旦相続させたものを取り上げることです。相続人としていた嫡男④泰綱を廃嫡し、その次男の⑤孫四郎水田(泰久)を新しい嫡子として、惣領職を相続させることを置文に記しています。泰忠は、この相続のことを「あがん(阿願)のこれい(古例)にまかせて」と記します。祖父阿願から孫である自分に直接譲りを受けた先例を引いて正当化しています。その理由に、孫四郎泰久(水田)の「器量」の良さを挙げ、泰忠にとって「心安」きこと、すなわち、安心を得ることが出来るからであるといっています。
 孫次郎泰忠から孫四郎泰綱への単独相続という形がとられているように見えます。が、その他の息子たちにも土地は譲られ分限に応じて、知行を行っています。兄弟(姉妹)やそれぞれの家人らには各々耕作地があって自営ができるうな体制で、実質的には分割相続です。

 秋山氏は、鎌倉時代から南北朝期のころまでは、分割相続
 一族間で細分化された土地を所有し、それを惣領が統括し、法華信仰による結合力でまとめていこうとしていたようです。しかし、室町時代になると、分割相続をやめます。泰忠直系の惣領による一子相続に変更し、所領の分割を防ぎます。そして所領を集約一元化しながら、一族家人や百姓らをまとめ国人領主として在地領主制を形成していきます。
 この間に秋山氏は、塩浜開発や赤米、エビ等の塩干物、畳表などの地域産品の育成開発を行い、それらの販売を通じて、積極的な商業活動や交易活動を行ったようです。そうした経済力を背景に一族と郷中の発展があったのです。これが本門寺一山の隆盛を実現させ、文安年中(1444年~49)には、11か寺以上の末寺を擁した大寺に育って行きます。
 しかし、秋山氏の嫡流である泰忠の子孫たちにも、15世紀後半がくると危機がやってきます。
 泰忠の後を継いだ⑤水田泰久の傍系・庶流の源太郎の家筋が台頭し主流を譲ることになります。また、上の坊近くの帰来橋の周辺を拠点とする帰来秋山氏も、本家を圧倒していくようになります。

秋山家本家の衰退の背景は、何だったのでしょうか?
  永正三(1506)年 秋山家本家の⑧孫二郎(二代目)泰久は、高瀬郷中村の「土居下地」「二反」分を分家である秋山源太郎に売却しています。その文書を見てみましょう。  
1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村2

1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村3
読み下し文に変換してみましょう。
永代売り渡し申す高瀬郷中村土居下地の事
合弐反有坪者(道そい大しんつくり直米四石則時請取分)
右、件の下地は、私領たりといえ共、用々あるによつて、永代うり渡し申す所実正なり、
しかる上は、子々孫々において(違乱)いらん妨げ申す者あるまじく候、若しとかく(書)申す者候はば、御公方へ御申し、此のせう状の旨にまかせ、下地に於いてまんたく御知行あるべく候、依って後日の為、永代の状件の如し
(孫)
               秋山まこ二郎
永正三年ひのえとら八月二九日       泰久(花押)
秋山源太郎殿
「高瀬郷中村土居下地の事」の「下地」とは、土地そのもの、その土地に関わる権利全てという意味です。「坪」が条里制の場所を示します。「直米四石」とは、米四石を契約成立時に、受け取つたことを示しているようです。銭ではなく「直米」で支払われているのは、銭千枚で一貫文なので、大量の銭を揃えることができない地方では、現物で取引されることが多かったと研究者は指摘します。
 「私領たりといえ共、用々あるによつて」とは、「個人の領地であるのだけれども、必要があるので」

ということでしょう。経済的な困窮で、先祖代々の土地を手放さざるえない状態に追い込まれていたことがうかがえます。
差出者は、秋山孫二郎泰久(二代目)で、「秋山まこ二郎」は秋山惣領家系の家督継承者の幼名です。その泰久から庶流家系の源太郎に土地が売却されたことをしめす証文です。

源太郎に売られた「中村土井」は、本門寺の高瀬川対岸で甲斐源氏の祖先神新羅神社が祀られ、中の坊などのある秋山氏の屋敷地の中枢部であったようです。その「土居(居館)」の一部が源太郎の手に渡ったという意味は軽くはありません。これは秋山家本家の没落を人々に印象づけることになったでしょう。そして、源太郎が新たな秋山一族のリーダーとなったことを告げるものでした。

  この背景には何があったのでしょうか。
系図を見ると秋山泰忠の所領は、
⑤泰久(一代目)→⑥有泰→⑦泰弘→⑧孫二郎泰久(二代目)

へと譲り渡されてきます。
1秋山氏の系図4

しかし、応仁の乱以後の混乱の中で、秋山氏一族内で分裂が起きていたようです。応仁の乱から永正の錯乱時期に、畿内への度重なる出陣を細川家から求められます。その経済的な負担と消耗が重くのしかかります。さらに細川氏の内部抗争(両細川の乱)の際に、勝ち馬に乗れなかったことが挙げられます
 他方で、着々と財力を蓄え、同時期の混乱に乗して本家に代わって台頭してくるのが⑤水田泰久の傍系・A 庶流の源太郎元泰です。源太郎は細川氏と誼を通じることで、高瀬郷の大部分を領有し、確固たる地位を築いていきます。こうして、惣領家から源太郎に秋山氏の主流は移っていきます。
それを決定的にしたのが櫛梨山の合戦での源太郎の活躍です。
 細川澄元感状    櫛梨合戦                      52p
1 秋山源太郎 櫛梨山感状

去廿一日於櫛無山
太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日 澄元(細川澄元 花押)
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で、感状と呼ばれます。その場で墨で書かれたものを二つ折りにしたのでしょう。「去十一日」「七月十四日」などの墨が阪大側の空白部に写っています。
 折り目は、まず中央で折ったのではなく、左部分の宛て名のところを残して半分に折り、裏返して折り目の部分から順々に折っていくというスタイルがとられました。そうすると表部分に、一番最後の宛て名のところが上に出る形となります。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に、届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。こうした家臣団の活動をきちんと記録する専門の書記官もいたようです。
 感状は、後の恩賞を得るための証拠書類になります。
これがなければ論功行賞が得られませんので大切に保管されたようです。そして恩賞として新領地を得た後は、それを報償する絵図も描かれたりしたようです。
  この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃のようです。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する古代の霊山です。麓には式内社の櫛梨神社が鎮座し、ひとつの文化圏を形成していました。中世の善通寺の中興の祖とされる宥範を生んだ岩田氏の拠点とされる地域です。
 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八    (飯尾)
十月十三日 一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。
 讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

この文書の出された背景としては、
応仁の乱の後、幕府の実権を握った細川政元の三人の養子間の対立抗争があります。高国・澄之・澄元の三人の養子の相続争いは、讃岐武士団をも巻き込んで展開します。香川氏・香西氏・安富氏などの守護代クラスの国人らは、澄之方に従軍して討ち死にします。秋山一族の中でも、次のような対立がおきていたようです。
①庶流家の源太郎は細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は細川澄之方へ
1 秋山源太郎 細川氏の抗争

 この対立の讃岐での発火点が先ほど見た櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられたようです。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。
 管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 土地が飽和状態になった段階では、報償を得るためには誰から奪い取らなければなりません。こうして秋山泰忠が願った法華信仰の下に、一族の団結と繁栄を図るという構想は、崩れ去っていきます。 しかし、秋山氏の内部抗争にもかかわらず本門寺は発展していきます。それは、本門寺が秋山氏の氏寺という性格から、地域の信仰センターへと成長・発展していたからです。それは別の機会に見ることにします。
 この文書の発給人の飯尾元運となっています。彼は、室町幕府の奉行人であるか、細川氏の奉行人のどちらかでしょう。飯尾氏は幕府奉行人に数多くく登用されていますが、阿波の細川氏の奉行人となった飯尾氏もいますが、研究者は阿波の飯尾氏と考えているようです。
こうして永正年間には源太郎流が、秋山一族を代表するようになります。
 源太郎は、最初は細川澄元に接近し、忠勤・精励また贈答によって恩賞を受け、のし上がっていきます。その後は、細川高国方に付いて惣領家を完全に圧倒するようになります。秋山源太郎が、細川氏淡路守護家や阿波守護家に忠節・親交を深めていったことが、秋山文書の細川氏奉行人奉書等からうかがえます。
ここからは、従来の讃岐中世史を書き換える構図が見えてきます。
従来の中世の讃岐は
宇多津に守護所を置いた細川京兆家の守護支配下に置かれていた

とされてきました。しかし、細川勝元亡き後の讃岐については、細川氏阿波守護家(官途は代々讃岐守で細川讃州と呼ばれた)の支配が讃岐に浸透していく過程だと研究者は考えるようになっています。阿波守護家が、岡館(守護所=香南町岡)を拠点にして讃岐支配を強めていく姿が見えてくるようになりました。それが後の三好氏の讃岐侵攻につながっていくようです。
 秋山家文書には、源太郎宛の折紙が27点もあります。
発給者は、淡路守護細川(以久)尚春とその奉行人らや阿波守護の奉行人達からの書状群です。これらは、新しい秋山氏の当主である源太郎と在京の上級武士らとの交流の実際を伝えてくれます。源太郎は宇多津を向いていたのではなく、はるか淡路や阿波に顔を向けていたのです。源太郎への指示は岡館(守護所=香南町岡)から出されていたのかもしれません。

 一度一族間で血が流されると、怨念として残り、秋山一族の抗争は絶えなくなります。
源太郎が亡くなると求心力を失った秋山家は、内部抗争で急速に分裂していきます。
一族間の抗争は「喧嘩両成敗」の裁きを受け領地を没収され、細川氏の直轄領とされます。こうして秋山氏は、存亡の危機に立たされます。
 一方、細川氏も内部抗争で弱体化し、下克上の舞台となります。そんななかで戦国大名化の動きを見せ、三野郡に進出してくるのが西讃岐守護代で天霧城主の香川氏です。秋山氏は、香川氏に従属化し家臣団を構成する一員として、己の生き場所を見つける以外に道はなくなって行きます。
 こうして、香川氏の一員として従軍し活躍する秋山氏一族の姿が秋山文書にも見られるようになります。それはまた次の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①西遷御家人としてやってきた秋山泰忠は、高瀬郷の北半分を祖父から相続した。
②秋山泰忠は敬虔な法華信者で、下高瀬に法華王国の建設を目指し、本門寺を建立した
③秋山泰忠は孫に所領を相続させたが、その他の子ども達にも相続分は分け与えた
④秋山惣領家は、応仁の乱以後の混乱の中で衰退していく
⑤代わって分家の源太郎が細川氏の内部抗争の勝ち馬に乗ることで台頭してくる
⑥櫛梨山の合戦での源太郎の活躍以後は、源太郎が新たな統領となって仕切っていく
⑦しかし、源太郎以後は内部抗争のために一族は分裂し、領地を没収される危機を迎える
⑧秋山氏は、戦国大名化する香川氏への従属を強めていく。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 高瀬町史

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