讃岐に鎌倉幕府が送り込んだ新補地頭(しんぽじとう)について以前にお話ししました。彼らは、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込んできた東国の御家人たちでした。御家人は武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」といったところでしょうか。その一覧表が次の表です。
東国から讃岐にやってきた地頭たち
二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、三度目の来襲に供えるために、東国の御家人を西国に転封させるという軍事力のスウイング戦略を行います。この時に、讃岐に地頭としてやってきた東国武士団が秋山氏です。今回は、秋山氏について見ていこうと思います。
テキストは高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①です。
寛永五年(1628)に秋山一忠が作成した系図を見てみましょう。
秋山氏の祖は、新羅三郎義光に始まる「本国甲斐国青嶋之者」と記されています。
清和源氏流の「甲斐源氏」は、平安時代後期に源義光の息義清か常陸国から甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ入り、甲府盆地一帯に勢力を拡大します。秋山姓は、義清の孫光朝が甲斐国巨摩郡秋山(同県南アルプス市秋山)を拝領し、ここに拠点を構えたことから生まれたと研究者は考えているようです。
源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した時に、惣領武田信義が率いる「甲斐源氏」一族は、その大半が勝者の源氏方について参戦します。秋山氏も源氏方に付きます。ところが光朝の妻が平重盛の娘であったことから、頼朝に冷遇され、秋山氏は一時的に没落したようです。
しかし、光朝は承久三年(1221)武田信光に従い、鎌倉幕府方として後鳥羽上皇方と弓矢を交えます。いわゆる承久の乱です。この戦功によって、秋山氏は武家としての名誉を回復します。その後、光朝の嫡男光季(阿願入道)は、子息泰長(源誓)・孫泰忠(日高)と共に讃岐へやってきます。 蒙古襲来に備え、幕府の命で安芸国へ西遷した武田氏と同じような処遇と研究者は考えているようです。
現在の南アルプス市に「秋山」の字名が残っていて一族の「秋山光朝館跡」も史跡とされています。地元では、ここが秋山氏発祥の地とされているようです。
「秋山家記」(秋山家文書)には「青島」を故地としていますが、それがどこなのかは分かりません。旧甲西町秋山の東南にあたる釜無川と笛吹川の合流地点付近に江戸時代に青島新田という地名が残っています。この新田の開拓者としてスタートしたのかもしれないと研究者は考えているようです。どちらにしても、この地で治水・灌漑工事などを行いながら所領の拡大を行っていたのしょう。それが幕府の「西国防衛力の向上」という政策の中で、讃岐高瀬郷に所領を得て一族の嫡男がやってきたようです。

このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。

このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。

秋山氏系図 「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とある
先ほどの系図の下段の一番右側に「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とあります。拡大して見てみましょう。
系図的には讃岐秋山氏は、この阿願入道=光朝からはじまります。
入道と称するのは、彼が日蓮宗の熱心な信徒で入信していたためです。その註を見ると、次のように記されています。
号は 秋山又兵衛で、甲州青島の住人である。政和4年に讃岐に来住した。嫡子は病身のため嫡孫泰忠を養子として所領を相続させた。
これには、疑義がありますので後ほど述べます

本門寺(三豊市)
実質的な秋山氏の祖 秋山孫次郎・泰忠は歴戦の勇士で長寿だった
祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠については
「号は秋山孫次郎。正中2年法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
とあります。現在の下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。孫次郎泰忠は11通もの置文(遺言状)を残しています。その最終年紀は、永和2(1376)年です。仮に弘安最末年の11(1288)年に讃岐へやって来たとしても、通算88年も讃岐で過ごした事になります。
いったい泰忠は何歳で讃岐にやってきたのでしょうか。
乳呑み児で、故郷の甲斐の「青島」を離れ高瀬郷にやってきて、およそ90歳以上生きていたようです。当時としては、祖父の阿願と同じように異常なまでの長寿ということになります。
実質的な讃岐秋山氏の祖になる泰忠について見ておきましょう
泰忠は、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱の時期を生き抜いた武将のようです。長い従軍生活の中で、波瀾万丈の人生を送ったようです。彼の実戦での記録は、その片鱗が秋山家文書の中の4通からうかがい知ることができるだけです。秋山氏は、南北朝の争乱期には、北朝方として活動しています。泰忠は病弱の父に代わって、秋山氏惣領として一族と高瀬郷域の武士団を率い、畿内はじめ西国各地を転戦する日々を送ったのでしょう。
秋山文書から泰忠に関する文書を年代順に見ていきましょう。
秋山源誓の置文(秋山家文書)
①鎌倉時代末期の元徳三(1331)年十二月五日の年号が入った秋山源誓の置文です。
本文 漢字変換文さぬきのくにたかせのかうの事、 讃岐の国高瀬郷のこといよたいたうより志もはんふんおは、(伊予大道より下半分をば)まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし (孫次郎泰忠譲るべし ただし)よきあしきはゆつりのときあるへく候(良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、(兄弟の中に譲り手あらば)
はんふんのところおかみへ申して、 (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために(知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし (誠めの条)(此の如し)
秋山)源誓(花押)
元徳三年十二月五日
置文とは、現在及び将来にわたって守るべき事柄を認めたもので、現在の遺言状的な性格を持つようです。財産相続なども書かれています。 この置文は、源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。
讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る
とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎に、譲られたことが分かります。しかし、これは現在のような土地所有でなく「下高瀬の地頭職」の権利です。
伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていたようです。その北側の高瀬郷(下高瀬)を孫次郎泰忠が相続したことになります。これは高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことを意味します。大見地区は、この時点では下高瀬に属していました。
同時にこの史料からは源誓が、孫次郎泰忠の父も分かります。秋山氏の家系が
「祖父 阿願 → 父 源誓 → 子 孫次郎泰忠」
とつながっていたようです。
ところが後の秋山氏系図は先ほど見たように「父 源誓」を「病弱者」として無視し、祖父阿願から直接孫の孫次郎泰忠に相続されたとします。そして「父 源誓」の名前は系図からも抹殺されています。
この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
秋山家系図
この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
①「父 源誓」は日蓮信徒でなかったために秋山家の系譜から排除された②泰忠の相続が孫に相続させるという異例のものであったために「祖父から孫」への「相続先例」を「創出」した
これくらいしか今の私には、出てきません。系図上での「父 源誓」抹殺の背景はよく分かりません。 最後に
「もし後日に、この地頭職を悔い返す事態が起こったときには、兄弟に適任者がいたならば、申し出て知行するように」
秋山氏の所領開発は、どのように行われたか
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」
ここからは、最初に拠点とした丸亀平野の下金倉郷と比べて、高瀬郷が未開発の土地で、しかも狭かったことがうかがえます。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため古代から放置されたままになっていた地域です。それならどうして、丸亀から下高瀬に拠点を移したのでしょうか。それが次の疑問となっていきます。それは「塩田開発」にあったと研究者は考えています。
秋山文書の中に「すなんしみやう(収納使名)・くもん(公文)・「たんところみやう(田所名)」といった地名が出てきますが、これは今も三野町内に残る砂押・九免明・田所です。この地域を中心に高瀬郷の大見地区の段斜面を開発したことがうかがえます。
泰忠が相続したのは「高瀬郷の伊予大道より下半分」の「下高瀬」の土地です。そこには現在の大見も含まれていましたし、三野津湾沿いの「新浜」などの塩浜も地頭職分として含まれています。これが泰忠の領地的なスタートラインだったようです。この最少の土地を、甲斐からやって来きて以後、一族はじめ名主・百姓ら手で懸命に開発したのでしょう。そこには開発に携わった名主たちの名前が地名として残っています。
秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
孫次郎泰忠の墓 墓碑には延文4年日高大居士と刻まれている
秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。
「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」
泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」「しおはま(塩浜)」「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここから秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾や宇多津の平山の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。このような経済力が泰忠の軍事活動を支える基盤となっていたのでしょう。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
本門寺本堂
足利尊氏下知案
②建武三年(1336)足利尊氏より勲功の賞として高瀬郷領家職があたえられた文書です。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、
勲功の賞として宛行う所なり、
先例を守り、沙汰致すべし、将軍家の仰せに依って、下知件の如し建武三年二月十五日(細川顕氏) 兵部少輔在御半(細川和氏 )阿波守秋山孫次郎殿(泰忠)
二行目一番下は「依」で終わっています。そして三行目の「将軍家」と続きます。ここには一字空白があります。これをは「閥字(けつじ)」と云い尊称する場合に、一字から三字の空白、あるいは改行する「平出」によって尊敬の意を表する方法のようです。閥字より平出の方がより尊敬の意を表すといいますが、ここでは両方の方法が採られています。
「領家」とは、土地の収益に対する権利の意味で、この文書全体の解釈は、合戦の功労賞として土地の収益に対する権利を与えるので、これまでの作法や先例をまもり、権利を執行しなさい」という意味になります。それを将軍足利尊氏に代わって、兵部少輔と阿波守が伝えるという形式です。
「下知状」とは末尾に「下知」と記されていることからきています。
差出人の二人は、この時期に将軍足利尊氏から四国方面の代官として任されていたために、下知状の差出人となったようです。この後、両名は讃岐国守護・阿波国守護に任命されています。宛所の秋山孫次郎は、泰忠です。
この文書の背景としては、前年の建武2(1335)年に足利尊氏は畿内から瀬戸内を経て、九州方面に逃走しました。この文書は、尊氏が再び上京するまでの間に、瀬戸内海沿いの武士団の棟梁たちにを味方に付けるために檄を飛ばした文書のようです。つまり、参戦して軍功を挙げれば「高瀬の郷領家職」を宛がうので軍を率いてやってこいということになるのでしょうか。もちろん、泰忠は、尊氏方について参戦したようです。
本門寺境内の泉
その翌年の建武4(1337)に細川顕氏から秋山孫次郎泰忠に出された細川顕氏書下です。
細川顕氏書下(秋山家文書)
讃岐の国財田(の凶徒蜂起の由)、其聞え(之有るの)間、(月城太郎次郎周頼、助房)宇足津に差し下す所(なり)、(早く当国に下向せしめ、諸)事の談(合)に加わり、(在国の一族相催し、且つ)地頭御家人(相共に誅数に廻らるべきの□)状、此の如く候建武四(1337)年三月廿六日(細川顕氏)(兵部少輔)秋山孫(二郎殿)
( )部分が江戸時代の書写から補った部分です
意訳しておくと
讃岐国財田で南朝方の凶徒が蜂起したと報告が入っている。阿波の月城太郎次郎周頼、助房らに鎮圧を命じるように宇足津に指示している所である。早く帰讃して、討伐軍に合流し、作戦計画に加わり、在国の一族を率いて地頭御家人が協力し鎮圧するように命じる。建武四(1337)年三月廿六日
当時の足利尊氏の動きを年表で確認しておきましょう
1335年8月足利尊氏が征東将軍として鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。1336年1月尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。2月 足利尊氏が豊島河原などで敗北し、九州へ敗走。
3月 足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。4月 足利方は仁木義長などを九州へ残して再び上京する。5月足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。8月光明天皇が即位して北朝が開かれる。12月後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開く。
この文書で使われている「建武四年」とは、北朝方の使用した年号で、南朝方はこの前年に「延元」という年号に改元しています。後醍醐天皇の檄により熊野行者たちが支援する南朝方に、阿波や財田の山岳武士団が呼応し、活動が活発化していた時期です。
「月城」は、現在は「つきしろ」ですが、阿波国の月成(つきなり)氏のことのようです。「宇足津」は讃岐国守護が居た場所で、守護所は円通寺付近にあったとされます。差出人の「兵部少輔」は、讃岐守護の細川顕氏です。
「財田凶徒」とは、徳島県の西野氏所蔵文書にも「財田凶徒」の記事が見えることから、南朝方の大規模な勢力であったようです。この時期の讃岐国では、南朝方の勢力が山岳地帯に拠点を持って活動していたことがうかがえます。
秋山泰忠は、この書状を受け取った時点では讃岐国以外に転戦中だったことがうかがえます。足下の財田方面で南朝が蜂起したので、急いで帰国するように命じられていると解釈できます。それでは「財田の凶徒」の本拠はどこだったのでしょうか。また、その勢力は? このあたりもよく分かっていないようです。
本門寺境内
③観応二年(1351)には、細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職が兵糧料所として預け置かれた書状です。

細川頼春書状(秋山家文書)
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間、兵糧所として、預け置く所なり、先例任せ、沙汰致すべきの状、件の如し観応二年八月十三日 (細川頼春)在御判散位秋山孫次郎(泰忠)殿
この文書は案文のようですが、直状形式で発給者が直接に秋山孫次郎(泰忠)に対して所領を預けています。文書が出された観応(1351)年は、讃岐武士団が細川頼春・頼有方(主に西讃地方)と同顕氏方に分立している時期で、中央では観応の擾乱が起こっていた頃にあたります。同じ年の9月5日付細川頼春預ケ状(紀伊国安宅文書)と同じ筆跡・スタイル・同じ署名なので、「散位」とは細川頼春で、観応の擾乱の働きに対する恩賞と研究者は考えているようです。
秋山氏が総領・泰忠の下に、讃岐守護細川氏に従って武功を上げていった結果としての恩賞のようです。足利尊氏から細川頼春・頼有と、「勝ち馬」に乗り続けることによって、秋山氏は三野郡での権益を着実の拡大していたようです。
ここまで泰忠は、現役であったようです。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
このように歴戦の強武者として活躍した泰忠も、ようやく引退の時を迎えます。
しかし、必ずしも平穏の毎日ではなかったことが、残された11通の置文・譲状から見えてきます。その最初のものは、文和二(1353)年の置文と譲状です。以後足掛け23年以上の間、合戦による傷に痛みながら時に病床にあっで老骨に鞭打ちつつ置文を書き続けています。老後の泰忠が、子や孫たちに何を言い遺したかは、また別の機会に見ることにします。
以上をまとめておきます
高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①
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以上をまとめておきます
①西遷御家人として元寇後に讃岐にやってきた秋山氏は最初は那珂郡金倉郷に拠点をおいた。
②3代目秋山泰忠の時に高瀬郷に拠点を移し、氏寺として日蓮宗本門寺を建立した。
③秋山氏は下高瀬を中核として、塩田開発になど周辺地域に勢力を伸ばした。
④塩生産が秋山氏の財政基盤と成り、南北朝の軍事行動や、本門寺創建などの資金となった。
⑤そして、室町期には細川氏の被官として、国人へと成長を遂げてきた。
⑥しかし、分割相続に伴い一族間の抗争が繰り返されるようになり、所領の細分化が進み、その勢力は衰退していく。
⑦それに引き替え、香川氏は西讃守護代として守護細川氏に代わって勢力を伸ばし、細川氏の御料所を押領するなど戦国大名化への道を歩み始める
⑧戦国期になると、秋山氏は細川氏の被官から香川氏の家臣へと転化する。
最後まで おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①














