瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秦氏

前回は、山川町の高越山登山口の川田庄を散策して、修験者の痕跡を追いかけました。今回は川田川を遡って、中腹の中ノ郷を目指します。川田川沿いの県道248号を登っていくと、ふいご温泉の看板が眼に入りました。
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高越大橋西側のふいご温泉の看板
「温泉」の名に釣られて、のこのこと下りていきます。そそり立つ岩壁の横に温泉があります。
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                     ふいご温泉
中ノ郷を探った後は、高越山の奥の院まで探索予定なので温泉に入ることはできません。誘惑を振り払って、やってきた道を引き返していると、こんな説明版がありました。

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鞴(ふいご)橋と紅簾片岩の説明版
ここには次のようなことが書かれています。
①ここから100mほど上流の左岸に、名越銅山があった
②明治には、良質の班銅鉱を産出し、それを対岸で製錬するためにめに吊り橋を架けた。
③製錬は、人力の鞴(ふいご)で行われたので、この橋を鞴橋と呼んだ。
④また対岸には飯場もあり、鉱夫たちは鞴橋を渡って出勤した。
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鞴(ふいご)橋
ふいご温泉には、銅山があったのです。そのために立派な吊り橋があり、その跡が絶壁の上の芝生のキャンプ場として活用されています。

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鉱山跡にあるキャンプ場
銅鉱山がここにはあったようです。帰ってきて調べて見ると高越山周辺には、銅鉱山が次の3ヶ所あったようです。
高越山周辺の鉱山跡
高越山周辺の銅山跡
①高越鉱山跡本坑口
②久宗坑口(川田エリア)
③川田山坑口(ふいご温泉)
高越山ふいご温泉周辺の鉱山

これらの鉱山からは含銅硫化鉄鉱などを採掘していたようです。

2密教山相ライン
四国の鉱山と山岳寺院の相関関係図
以前に、四国の中央構造線沿いは「鉱物資源ライン」であったこと、鉱山のあった所には有力な山岳寺院があり、修験者たちの拠点となっていたことをお話ししました。簡単に言うと、「霊山に鉱山あり、そして修験者の拠点であった」という相関図が描けることになります。それでは、この相関関係は高越山にも当てはまるのでしょうか。この関係を説明するには、次のようなキーワードを結びつけて行く必要があります。
秦氏 鉱山開発 修験者 愛宕妙見信仰 虚空蔵信仰

まず技術集団としての秦氏集団を押さえておきます。
技術集団としての秦氏

 鉱山開発を担った秦氏集団が信仰したのが、愛宕妙見(北斗七星)信仰であり、虚空蔵菩薩信仰です。その信仰の中心には修験者たちがいました。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」と表現します。
   空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、空海が室戸岬で虚空蔵求聞持法を修法していた時、口の中に入ってきたというものと同じものでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは関係がありそうです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵


ここまでをまとめておくと次のようになります。
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神(明星)である
③彼らは妙見=北極星と考え、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われる。
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになった。
こうして見ると四国の霊山には、鉱山が多い理由が分かるような気もしてきます。それ媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかという説です。
大仏造営 辰砂分布図jpg

 伊予の辰砂(水銀)採掘に、秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。
伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣された
②小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  内容は、愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓である秦氏を名乗ってきたが、父方の姓(大山安部)へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。ここからは、伊予で秦氏が水銀採掘に従事し、中央政府から派遣された小鎌に協力し、婚姻関係を結んでいたことが分かります。

 松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。

「伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

南伊予の秦氏と神社を一覧化したのが次の表です。

1南予地方秦氏関係神社表
              南伊予の秦氏関連神社と周辺鉱山の産出品

以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘などの鉱山開発を行っていたと言えそうです。こうした動きは、阿波にもあったと私は考えています。阿波も伊予に続く「鉱山ベルト地帯」で、銅鉱や辰砂(水銀)がありました。そこに秦氏が入ってきて、彼らの信仰である妙見信仰や虚空蔵信仰を勧進したという説になります。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。

その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれたさまざまな技術を持った工人集団がいました。彼らの中で鉱山開発や鍛冶などに携わった集団が信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。これらは定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、八幡神・稲荷神・白山神なども秦氏の信仰ですが、これらは周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  それでは、高越山に秦氏や愛宕妙見信仰の痕跡はあるのでしょうか?

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   高越山山頂の弘法大師像 ここからは「秦氏女」との線刻銘がある経筒が出てきた。
秦氏に関しては、弘法大師像の立つ高越山山頂の経塚がありました。ここから出てきた経筒は、12世紀のものとされ、常滑焼の龜、鋼板製経筒で蓋裏に「秦氏女」との線刻銘があり、白紙経巻八巻などの埋納遺物も出てきています。ここからは、高越山信仰の信者として、秦氏がこの周辺にいたことが分かります。
愛宕妙見信仰にはついては、高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、「山上伽藍」について次のような宗教施設があったと記します。
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰   → 虚空蔵菩薩信仰 → 虚空蔵山
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居

ここからは山上には、愛宕権現社があり、麓の「一江(川田)には、虚空蔵権現社が鎮座していたことが分かります。以上から高越山にも「秦氏=愛宕妙見信仰=虚空蔵信仰=鉱山開発」という関係が見えます。高越山は甘南備山の姿をした山、行場のある山としてだけでなく、もうひとつ鉱山資源を産出する山として、秦氏が定住し、そこに愛宕妙見信仰や虚空蔵菩薩信仰が根付いた山と言えそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究 
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 アオバト飛来 大磯町・照ヶ崎海岸:東京新聞 TOKYO Web
塩分補給のために深山から岩礁に飛来するアオバト
 四国山脈の奥に棲むアオバトは、塩水を飲むために海の岩礁に下りてきます。野鳥観察が趣味だったころに、豊浜と川之江の境の余木崎にやってくるアオバトたちを眺めによく行きました。波に打たれながら海水を飲むアオバトを、ハラハラしながら見ていたのを思い出します。アオバトと同じように、人間にとっても塩は欠かせないものです。そのため縄文人たち以来、西阿波に住む人間はアオバトのように塩を手に入れるために海に下りてきたはずです。弥生時代の阿波西部は、讃岐の塩の流通圏内だったようです。その交換物だったのが阿波の朱(水銀)だったことが、近年の旧練兵場遺跡の発掘調査からわかってきたことは以前にお話ししました。
 つまり、善通寺王国と阿波の美馬・三好のクニは「塩=朱(水銀)」との交換交易がおこなわれていたようです。阿讃の峠は、この時代から活発に行き来があったことを押さえておきます。
 7世紀後半に丸亀平野南部に建立された弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺の白鳳時代の瓦は、同笵瓦でおなじ版木から作られていたことが分かっています。ここでも両者の間には、先端技術者集団の瓦職人集団の「共有」が行われていたことがうかがえます。以上をまとめると次のようになります。
①弥生時代の阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていた
②善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が運ばれ、加工・出荷されていた。
③丸亀平野南部の弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われている。
 このような背景の上に、中世になると阿波忌部氏の西讃進出伝説などが語られるようになると私は考えています。 
 そのような視点で見ていると気になってきたのが国の史跡となっている三加茂の丹田古墳です。今回はこの古墳を見ていくことにします。

丹田古墳 位置
           三加茂の丹田古墳
 三加茂から桟敷峠を越えて県道44号を南下します。この道は桟敷峠から落合峠を経て、三嶺ふもとの名頃に続く通い慣れた道です。加茂谷川沿の谷間に入って、すぐに右に分岐する町道を登っていきます。
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丹田古墳手前の加茂山の集落
 加茂山の最後の集落を通り抜けると、伐採された斜面が現れ、展望が拡がります。そこに「丹田古墳」の石碑が現れました。
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           丹田古墳の石碑 手前が前方部でススキの部分が後方(円)部 
標高220mの古墳からの展望は最高です。眼下に西から東へ吉野川が流れ、その南側に三加茂の台地が拡がります。現在の中学校から役場までが手に取るように分かります。この古墳から見える範囲が、丹田古墳の埋葬者のテリトリーであったのでしょう。

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丹田古墳からの三加茂方面 向こうが讃岐山脈

 この眺めを見ていて思ったのは、野田院古墳(善通寺市)と雰囲気が似ていることです。
2野田院古墳3
     野田院古墳 眼下は善通寺の街並みと五岳山

「石を積み上げて、高所に作られた初期古墳」というのは、両者に共通します。作られた時期もよく似ています。彼らには、当時の埋葬モニュメントである古墳に対してに共通する意識があったことがうかがえます。善通寺と三加茂には、何らかのつながりがあったようです。

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帰ってきてから「同志社大学文学部 丹田古墳調査報告書」を読みました。それを読書メモ代わりにアップしておきます。
丹田古墳調査報告 / 森浩一 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

丹田古墳周辺部のことを、まず見ておきましょう。
①丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約220mにある。
②前方部は尾根の高い方で、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。
③丹田古墳周辺の表土は、丹田の地名が示すように赤土である。
④丹田古墳南東の横根の畑から磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布
⑤加茂谷川右岸・小伝の新田神社の一号岩陰からは、多数の縄文土器片が出上
 丹田古墳とほぼ同じ時期に築かれた岩神古墳が、加茂谷川の右岸高所に位置します。丹田古墳と同じ立地をとる古墳で、丹田古墳の後継関係にあった存在だと考えられます。前期古墳が高い所に作られているのに対して、後期古墳は高地から下りて、流域平野と山地形との接触部に多く築かれるようになります。すでに失われてしまいましたが、石棚のある横穴式石室をもった古墳や貞広古墳群はその代表です。貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や円墳の天人神塚など数基が残っています。
 以上から三加茂周辺では、初期の積石塚の前方後円(方)墳である丹田古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳まで継続して古墳群が造られ続けていることが分かります。つまり、ひとつの継続した支配集団の存在がうかがえます。これも善通寺の有岡古墳群と同じです。

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                                丹田古墳の後円部の祠
丹田古墳の東端には、大師の祠があります。この祠作成の際に、墳丘の石が使われたようです。そのため竪穴式石室にぽっかりと穴が空いています。

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石室に空いた穴を鉄編みで塞いでいる

古墳の構築方法について、調査書は次のように記します。
①西方の高所からのびてきた尾根を前方部西端から11m西で南北に切断されている。
②その際に切断部が、もっとも深いところで2m掘られている。
③前方部の先端は、岩盤を利用
④後円(方)部では、岩盤は墳頂より約2、2m下にあり、石室内底面に岩盤が露出している
⑤墳丘は、岩盤上に積石が積まれていて、土を併用しない完全な積右塚である。
⑥使用石材は結晶片岩で、小さいものは30㎝、大きなものは1mを越える
⑦石材の形は、ほとんどが長方形

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墳丘に使用されている石材

⑧くびれ部付近では、基底部から石材を横に5・6個積みあげている
⑨その上にいくに従って石は乱雑に置かれ無秩序になっていく。
⑩墳丘表面は、結晶片岩に混じって白い小さな円礫が見えます。これは、下の川から運び上げたもののようです。築造当初は、白礫が墳丘全面を覆っていたと研究者は考えています。

国史跡丹田古墳の世界」-1♪ | すえドン♪の四方山話 - 楽天ブログ
            白く輝く丹田古墳
そうだとすれば、丹田古墳は出来上がった時には里から見ると、白く輝く古墳であったことになります。まさに、新たな時代の三加茂地域の首長に相応しいモニュメント墳墓であったと云えそうです。

⑪古墳の形状は、前方部先端が一番高く、先端部が左右に少しひろがっている箸墓タイプ
⑫墳形については、研究者は前方後方墳か、後円墳か判定に悩んでいます。
次に、埋葬施設について見ておきましょう。
 先ほども見たように、石室部分は大師祠建設の際に台座の石とするために「借用」された部分が小口(30㎝×50㎝)となって開口しています。しかし、石室字体はよく原状を保っていて、石積み状態がよく分かるようです。
丹田古墳石室
丹田古墳の縦穴式石室

①右室底面の四隅は直角に築かれて、四辺はほぼ直線
②規模は全長約4,51m、幅は東端で約1,32m、西端では約1,28m
③石室の底面は、東のほうがやや低くなっていて、両端で約0,26mの傾斜差
④この石宝底面の傾斜は、尾根の岩盤をそのまま、利用しているため
⑤高さは両端とも1.3mで、中央部はやや低く約1,2m
⑥石室底面は墳頂から約2.2m下にあり、石室頂と墳頂との間は約0,85m
⑦石室の壁は墳丘の積石と同じ結品片岩を使い、小口面で壁面を構成する小口積
⑧底部に、大きめの石を並べ垂直に積み上げたのち、徐々に両側の側面を持ち送り、天井部で合わせている。
⑨つまり横断面図のように合掌形になっていて、 一般的な天井石を用いた竪穴式石室とは異なる独特の様式。
⑩については、丹田古墳の特色ですが、「合掌形石室」の類例としては、大和天神山古・小泉大塚古墳・メスリ山古墳・谷口古墳の5つだけのようです。どうして、このタイプの石室を採用したのかは分かりません。
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ここで少し丹田古墳を離れて、周囲の鉱山跡を見ていくことにします。
①からみ遺跡 海抜1300mの「風呂の塔かじやの久保」にある銅鉱採堀遺跡
②滝倉山(海抜500m)
③三好鉱山(海抜700m)跡
①風呂塔かじやの久保は、奈良朝以前の採掘地と研究者は考えているようです。鋳造跡としては長善寺裏山の金丸山があります。ここの窯跡からは須恵器に鋼のゆあか(からみ)が流れついている遺物が発見されています。
 また三加茂町が「三(御)津郷」といっていたころは東大寺の荘園でした。その東大寺の記録に「御津郷より仏像を鋳て献上」とあります。ここからは加茂谷川の流域には、銅鉱脈があり、それが古代より採掘され、長善寺裏山の鋳造跡で鋳造されていたという推測ができます。残念ながら鋳造窯跡は、戦中の昭和18年(1954)に破壊されて、今は一部が残存するのみだそうです。

三加茂町史 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 三加茂町史145Pには、次のように記されています。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  つまり、丹田古墳の被葬者が三加茂地域の首長として台頭した背景には、周辺の銅山開発や銅の製錬技術があったいうのです。これは私にとっては非常に魅力的な説です。ただ、やってきたのは「漢民族」ではなく、渡来系秦氏一族だと私は考えています。
本城清一氏は「密教山相」で空海と秦氏の関係を次のように述べています。(要約)
①空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
②泰氏の基盤は土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
③その中には鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
④空海は民衆の精神的救済とともに、物質的充足感も目指していた。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑤空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内にある。
⑥例えば東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神)。これも秦氏を意識したものである。
空海の満濃池改修も、秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑧空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。例えば秦氏族出身の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑨平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が8名もいる。
⑩讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した寺社である。
⑪金倉寺には泰氏一族が建立した新羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係も深い。

2密教山相ライン
  四国の密教山相ラインと、朱(水銀)や銅などの鉱脈の相関性

以前に、四国の阿波から伊予や土佐には銅鉱脈が通過しており、その鉱山開発のために渡来系秦氏がやってきて、地元有力豪族と婚姻関係を結びながら銅山や水銀などの確保に携わったこと。そして、奈良の大仏のために使用された銅鉱は、伊予や土佐からも秦氏を通じて貢納されていたことをお話ししました。それが、阿波の吉野川沿いにも及んでいたことになります。どちらにしても、阿波の加茂や郡里の勢力は、鉱山開発の技能集団を傘下に抱えていたことは、十分に考えられる事です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。

「天平以前の日本人が「丹」字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は「に」と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ「そほ」には「赭」の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。

丹田古墳の「丹田」は赤土の堆積層をさします。
ここには銅鉱山や、朱(水銀)が含まれていることは、修験者たちはよく知っていました。修験者たちは、鉱山関係者でもありました。修験者の姿をした鉱山散策者たちが四国の深山には、早くから入っていたことになります。そして鉱山が開かれれば、熊野神社や虚空蔵神が勧進され、別当寺として山岳寺院が建立されるという運びになります。山岳寺院の登場には、いろいろな道があったのではないかとおもいます。  
 同時に、阿波で採掘された丹=朱砂は、「塩のルート」を通じて丸亀平野の善通寺王国に運ばれ、そこで加工されていました。善通寺王国跡の練兵場跡遺跡からは、丹=朱砂の加工場がでてきていることは以前にお話ししました。丹=朱砂をもとめて、各地からさまざまな勢力がやってきたことが、出てきた土器から分かっています。そして、多度津の白方港から瀬戸内海の交易ルートに載せられていました。漢書地理志に「分かれて百余国をなす」と書かれた時代の倭のひとつの王国が、善通寺王国と研究者は考えるようになっています。善通寺王国と丹田古墳の首長は、さまざまなルートで結びつきをもっていたようです。
以上をまとめておきます
①阿波の丹田古墳は高地に築造された積石の前方後方(円)墳である。
②すべてが積石で構築され、白い礫石で葺かれ、築造当初は山上に白く輝くモニュメント遺跡でもあった。
③これは、丹田古墳の首長が当時の「阿識積石塚分布(化)圏」に属するメンバーの一人であったことを示すものである。
④特に、三加茂と善通寺のつながりは深く、弥生時代から「塩=鉱物(銅・朱水銀)」などの交易を通じて交易や人物交流が行われていた。
⑤それが中世になると、阿波忌部氏の讃岐入植説話などに反映されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県教育委員会 丹田古墳調査報告書
三加茂町史 127P 丹田古墳


   大仏造営東京書籍
小学校社会科教科書 東京書籍

  東大寺の大仏造については国家プロジェクトとして越えなければならない壁がいくつもありました。その中で教科書でも取り上げられるのが、東北からの金の産出報告です。しかし、下の表を見れば分かるように、金の使用量は440㎏にすぎません。金は銅像の表面に鍍金(メッキ)されたので、この程度の量です。それに比べて仏像本体となる銅やすすの量は、それよりもはるかに多くの量が必要とされたことが分かります。これの銅の多くは、秦氏によって採掘された「西海の国々」から運ばれてきました。

大仏造営 資材一覧
 この表の中で水銀2,5トンとあります。水銀はなんのために使われたのでしょうか?
金を塗装するためには「アマルガム」を使った技法が用いられてきました。これは、水銀とほかの金属とを混ぜ合わせた合金のことです。水銀は常温では液体の金属なので、個体と混ざって粘性のあるペースト状になります。水銀に金を触れさせると、金は溶けるように水銀と一体化して、 ドロドロとした半液状の 「金アマルガム」となります。

大仏造営 金アマルガム2

  これを大仏本体に塗り付けて火であぶると、沸点の違いにより金アマルガムから水銀だけが蒸発して、最後に金だけが薄く残ります。この技法は、金が水銀に溶けて消えていくように見えるので古来日本では「滅金(めっきん)」と呼ばれ、これが「メッキ」という言葉の語源となったようです。奈良の大仏も、この金アマルガム法によって金の塗装がなされています。

大仏造営 金アマルガム1

先ほど見たように、金440kg、水銀2500kgもの量が使われ約5年の歳月を費やしてようやく塗装作業を完遂させています。
  
東京都鍍金工業組合のHPには、大仏鍍金工程が次のように記されています。
①延暦僧録に「銅2万3,718斤11両(当時の1斥は180匁で675g),自勝宝2年正月まで7歳正月, 奉鋳加所用地」とあるように,鋳かけ補修に5年近くの歳月と約16tの銅を使用
②次に鋳凌い工程で,鋳放しの表面を平滑にするため,ヤスリやタガネを用いて凹凸, とくに鋳型の境界からはみ出した地金(鋳張り)を削り落し,彫刻すべき所にはノミやタガネで彫刻し, さらにト石でみがき上げる。
③鋳放しの表面をト石でみがき上げてから,表面に塗金が行なわれた。
大仏殿碑文に「以天平勝宝4年歳次壬辰3月14日始奉塗金」とあるので,鋳かけ,鋳さらいなどの処理と併行して天平勝宝4年(752)3月から塗金が行なわれたことが分かります。。
  用いた材料について延暦僧録には、次のように記されています。
「塗練金4,187両1分4銖,為滅金2万5,134両2分銖, 右具奉塗御体如件」

 これは金 4,187両を水銀に溶かし, アマルガムとしたもの2万5,334両を仏体に塗ったことが分かります。これは金と水銀を1:5の比率混合になります。このアマルガムを塗って加熱します。この塗金(滅金)作業に5年の歳月を要しています。これは水銀中毒をともなう危険な作業でした。
大仏鋳造は749年に完成し,752年, 孝謙天皇に大仏開眼供養会が行なわれています。大仏の金メッキは,この開眼供養の後に行われています。それは大仏が大仏殿の中に安置された状態になります。
 金メッキが行なわれはじめてから,塗金の仕事をする人々に原因不明の病気がはやりだします。

大仏造営 金アマルガム3

2500kgもの水銀をわざわざ火であぶって蒸発させ、空気中に放出しまくっているのです。ましてや金の塗装作業を開始したのは、すでに大仏殿が完成して、大仏はその内部に安置された後のことになります。気化した水銀は屋内に充満し、水銀ミストサウナのような作業現場となっていたことが想像できます。
 気化した水銀の危険性を知っている私たちからすれば、奈良の大仏に施した「金アマルガム法」による塗装作業は、水銀中毒の発生が起きうる危険な作業現場だったことになります。こうした作業を5年も続けていたので、大仏造立に関わった人々が次々と水銀中毒の病に倒れて命を落としていきます。さらに、大気中や地中を通じての飲料水の水銀汚染により平城京全域にまでその被害が拡大していった可能性もあります。
  当時の人たちは水銀中毒については何も知りません。
反対に古代中国では、水銀は不老不死の効力があると信じられていました。秦の始皇帝は水銀を含んだ薬を常用していたと伝えられます。また始皇帝陵の石室の周辺には水銀の川が造られているとも伝えられます。「水銀=不老不死の妙薬」説は、朝鮮半島を通じて日本にも伝わり、秦氏はその信者であったとも云われます。

加藤謙吉は次のように述べています。
「アマルガム鍍金法が一般化するのは、主として仏像制作に鍍金が必要とされていたことによる。したがって仏工は鍍金法に習熟していることが不可欠となる」
「彼らの仏工としての技術が朱砂・水銀の利用に端を発していると推察できょう」
佐藤任氏は、次のように述べています。
「奈良の大仏鋳造で、金と水銀のアマルガムをつくって像に塗り、熱して水銀をとばし、黄金色の像を造る冶金技法は、それ自体また一種の錬金術であったといえる」

「錬金術」を「錬丹術」というのは、丹生(水銀)を用いる術だからです。このアマルガム錬金技術を伝来していたのが秦の民です。錬丹術は不老不死の丹薬を作り、用いる術で、常世信仰にもとづく秘法でした。秦氏系の赤染氏が常世氏に名を変えたのは、大仏鋳造の塗金にかかわって、黄金に輝く大仏に常世を見たからだとされます。この鍍金に必要な丹生・水銀の採取にかかわったのも秦の民です。

大仏造営 辰砂
辰砂
市毛勲氏は「新版 朱の考古学』で、次のように記します。
「金・水銀は仏像鍍金には不可欠な金属で、水銀鉱である辰砂の発見は古代山師にとっても重要な任務であったと思われる。国家事業としての盧舎那大仏造立であったから、辰砂探索の必要性は平城京貴族にも広く知られていた」

と書き、『万葉集』の次の歌を示します。
大神朝臣奥守の報へ噴ふ歌一首
仏造る 真朱足らずは 水たまる
    池川の朝臣が 鼻の上を掘れ (三八四一)
穂積朝臣の和(こた)ふる歌一首
何所にそ 真朱掘る岳 薦畳 平群の朝臣が、
           畳の上を穿れ  (三八四三)
この二つの歌からは、大仏造立のための真朱(辰砂)の採掘が行われていたことがうかがえます。 
辰砂の鉱床は赤いので、山師(修験者)はこの露頭を探して採掘します。平群朝臣は赤鼻、池田の朝臣は水鼻汁、つまり辰砂の露頭と水銀の浸出を意味するようです。平城京貴族が万葉集歌に辰砂を詠み込んだ背景には、当時の慮舎那大仏鍍金と言う国家プロジェクトが話題になっていたからでしょう。
丹生水銀鉱跡 - たまにはぼそっと

  辰砂(朱砂・真朱)は、硫化水銀鉱のことで、中国では古くから錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されてきました。中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになります。辰砂を 約600 °C に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガス(二酸化硫黄)が生じます。この水銀蒸気を冷却凝縮させることで水銀を精製することが知られていました。
        硫化水銀 + 酸素 → 水銀 + 二酸化硫黄

 魏志倭人伝の邪馬台国には「其山 丹有」と記されています。
古墳内壁や石棺の彩色や壁画に使用されていて呪術的な用途があったようです。辰砂(朱砂)の産地については、中央構造線沿いに産地が限られていて、古くは伊勢国丹生(現在の三重県多気町)、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)、吉野川上流などが特産地として知られていたようです。それ以外には、四国にも辰砂(朱砂・真朱)の生産地があったようです。

大仏造営 辰砂分布図jpg

伊予の辰砂採掘に秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。

伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の人・従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣されたこと
②大山安倍小殿小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  ここには愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓秦氏を名乗ってきたが、父方の姓へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。いろいろなことが見えてきて面白いのですが、ここでは辰砂に焦点を絞ります。

渡来集団秦氏の特徴


 伊予国は文武二年(698)9月に朱砂を中央政府に献上していることが『続日本紀』には記されています。
また愛媛県北宇和郡鬼北町(旧日吉村)の父野川鉱山(日吉鉱山・双葉鉱山)では1952年まで水銀・朱砂の採掘・製錬を行われていました。伊予には、この他に朱砂(水銀鉱)が発見されたという記録がないので、旧日吉村の水銀鉱が『続日本紀』に、登場する鉱山なのではないかとされています。
 伊予国の新居(にいい)郡は、大同四年(809)に嵯峨天皇の諱の『神野』を避けて郡名を神野から新居に改めたものです。
辰砂(朱砂)坑を意味する名称に『仁井』(ニイ)があります。『和名抄』の古写本である東急本や伊勢本は、新居郡所管の郷の一つに『丹上郷』を記しています。これらの郡名・郷名は、朱砂採掘に関わりがあったことがうかがえます。

技能集団としての秦氏

松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。
伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

  以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘を行っていたことにしておきましょう。

 先ほどの疑問点だった「阿倍小殿小鎌」の子孫が、父方の姓を名乗らず、母方の「秦」を名乗り、百年以上たって、ようやく父方の姓を名乗るようになったのか、について研究者は次のように推測します。
①伊予国の「朱砂」採掘は、以前から秦の民が行っていた。
②そのため「伊豫国に遺して、朱砂を採らしむ」と命じられた安倍小殿小鎌は、在地の「秦首が女を要る」必要があった。
③伊予の朱砂の採取も秦の民が行っていたので、秦の民の統率氏族の小鎌の子は、「安倍小殿」を名乗るよりも「秦」を名乗った方が都合がよかった。
④在地で有利な「秦」を百年あまり名乗っていたが、「安倍」という名門に結びついた方が「朝臣」を名のれるのでれ有利と考えるようになった
⑤そこで、一族が秦氏から安部氏への改姓願いを申請した
この記事からうかがえるのは、7世紀半ばの大化年間に中央から辰砂の採掘責任者が派遣されていることです。つまり、その時点で中央政権が「朱砂」の採掘を管理していたことになります。そして、その実質的な採掘権を秦氏が握っていたと云うことです。

 愛媛県喜多郡(大洲市)の金山出石寺の出石山周辺は、金・銀、銅・硫化鉄・水銀が出土し、三菱鉱業が採掘していました。出石山近くには、今も水銀鉱の跡があることは以前にお話ししました。

列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)  日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。 | 日本列島, 日本, 国
 肱川流域・大洲・八幡浜には丹生神社・穴師神社が点在します。
これらは辰砂採取の神として祀られたもので、大洲市の山付平地には古代砂採取址と思われる洞穴と、朱砂の神〈穴御前)を祀る小祠があったと伝えられます。伊予の各地で秦氏が辰砂(朱砂)を採取し、水銀を作り出していたことがうかがえます。

土佐の丹生と秦の民は?
土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がいます。また、長岡郡には仁平元年(1151)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえます。さらに幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)の土佐郡泰泉寺の地名も秦氏に関連するもののようで、秦氏集団の痕跡がうかがえます。これらの分布地域と重なる形で、
吾川郡池川町土居
長岡郡大豊町穴内
土佐郡土佐山村土佐山
などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されていました。
 ニウの名を持つ中村市入田(にうた:旧幡多郡共同村)の地で採取された土壌からは、0、0006%という水銀含有値が報告されています。土佐にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など辰砂採掘とかかわる地名が残ります。その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つことが報告されています。
秦神社 - Shrine

土佐の長宗我部氏は秦河勝の子孫と称します。
高知市鷹匠町の秦神社は、祭神は長宗我部元親です。長宗我部氏の云われ、山城国稲荷神社の禰宜であった秦伊呂具の子孫が信濃国更級郡小谷郷(長野県更埴市)に移り、稲荷山に治田神社(「ハタ」が「ハルタ」になった)を祀っていました。平安時代の終り頃に、秦氏が住む上佐国長岡郡宗部郷(南国市)へ移住し、地名をとって長宗我部氏を称し、領主にまで成り上っていきます。この由緒からは、信濃から未知の土佐へ、秦氏ネツトワークを頼って移住してきたということになります。元親の父が養育された幡多郡は「波多国」といわれ、「旧事本紀』の「国造本紀」は、
波多同造。瑞籠朝の御世に天韓襲命を神の教示に依て、国造に定め賜ふ」
とあります。祖を「天韓襲命」と「韓」を用いていることからも、「波多国」は泰氏の国であることが分かります。
秦泉寺廃寺出土の軒瓦(高知県教育委員会) / 天地人堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 高知市中秦泉寺に秦泉寺廃寺跡があります。
旧上佐郡下の唯一の奈良時代の寺で、『高知県の地名』は、「この寺は古代土佐にいた泰氏建立の寺」という説があると記します。地名の北秦泉寺には古墳時代後期の秦泉寺古墳群があり、須恵器が出土しています。秦泉寺廃寺跡の地は、字を「鍛冶屋ガ内」といわれている扇状地です。
土佐同安芸郡丹生郷については、『土佐幽考』は次のように記されています。
「今号入河内是也。入者丹生也。在丹生河内之章也。比河蓋丹生郷河也」

『日本地理志料』は
「按図有・大井・吉井・島・赤土・伊尾木ノ諸邑。其縁海称丹生浦、即其地也」

この地は現在の安芸市東部、伊尾木川流域になります。松円壽男はこの丹生郷で採取した試料から0,0003%の水銀が、検出されたことを報告しています。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏と丹生の関係については
讃岐では大内・三木・山田・香川・多度・鵜足などに秦氏・秦人・秦人部・秦部など秦系氏族が濃密な分布します。大内部には「和名抄」に「入野(にゅうの)」の郷名があります。東急本や伊勢本は「にふのや」の訓を施しています。『平家物語』は「丹生屋」と記します。同郷の比定地とされる香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、0,0003%という水銀含有値が析出されています。
 入野郷には寛弘元年(1004)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を記します。この戸籍が必ずしも当時の住人の実態を伝えているか疑わしい点もあるようですが、入野郷が秦氏の集住地であったことはうかがえます。
2 讃岐秦氏2
   以上、秦氏につながる地名から辰砂採掘との関連を研究者は列記します。「地名史料」は不確かなものが多くそのまま信用できるモノではありません。しかし、先端技術を持つ秦氏がどうして、四国の奥地にまでその痕跡を残しているかを考える際に、辰砂などの鉱物資源の採掘のために秦氏集団がやってきて採掘のための集落を形成していたというストーリーは説得力があるように思えます。その前史として、鉱脈や露頭捜しに修験者たちが山に入り、その発見が報告されると集団がやってきて採掘が始まる。そして守護神が勧進される。同時に、有力な鉱山産地には国家からの官吏も派遣され、鉱山経営や生産物の管理も行われていたことはうかがえます。
 ちなみにある考古学者は三豊母神山も有力な辰砂生産地で、その生産に携わっていた戸長たちの墓が母神山古墳群であるという説を書いていたのを思い出しました。秦氏の活動パターンは広域で多種多様であったとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


大仏造営 知識寺模型
知識寺復元模型 河内国大県郡
大仏造営という国家プロジェクトを進める上で、聖武天皇が参考にした寺があるとされます。そこには「知識」によって盧舎那仏の大仏が造営され、そして運営されていたので知識寺と呼ばれていました。その姿に感銘した聖武天皇が国家的な規模に拡大しての大仏造営を決意するきっかけとなったと云うのです。今回は大仏発願に、秦氏がどのように関わっていたのかを見ていきます。テキストは 大和岩雄 続秦氏の研究203Pです。
大仏造立の発端になったのが河内の知識寺です。    
聖武天皇が大仏造立を発願したのは、河内国大県郡の知識寺の盧舎那大仏を拝した後のことです。それを『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月二十七日条の左大臣橘諸兄の宣命には、次のように記します。
去にし辰年河内国大県郡の知識寺に坐す盧舎那仏を礼み奉りて、則ち朕も造り奉らむと思へども、え為さざりし間に、豊前国宇佐郡に坐す広幡の八幡大神に申し賜へ、勅りたまはく。「神我天神。地祗を率ゐいざなひて必ず成し奉らむ。事立つに有らず、鋼の湯を水と成し、我が身を草木土に交へて障る事無くなさむ」と勅り賜ひながら成りぬれば、歓しみ貴みなも念ひたまふる。

   意訳変換しておくと
去る年に河内の大県郡の知識寺に安置された盧舎那仏を参拝して、朕も大仏を造ろうと思ったが適わなかった。そうする内に豊前国宇佐郡の八幡大神が次のように申し出てきた。「神我天神。地祗を率いて必ず成し遂げる。鋼の湯を水として、我が身を草木土に交へてもどんな障害も越えて成就させると念じた。

「去にし辰年」は天平12年(740)年のことで、この年二月に難波に行幸しているので、その時に立寄ったようです。ここにはその時に、河内国大県郡の知識寺の虜舎那仏を見て「朕も造り奉らむ」と聖武天皇は発願したと記されています。

大仏造営 知識寺石神社の境内にある心柱礎石
石神社の境内にある知識寺の心柱礎石
盧舎那仏があった知識寺とは、どんな寺だったのでしょうか。
まず名前の「知識」のことを見ておきましょう。私たちが今使っている知識とは、別の概念になるようです。ここでは「善知識」の略で、僧尼の勧化に応じて仏事に結縁のため財力や労力を提供し、その功徳にあずかろうとする人たちことを指します。五来重氏は次のように指摘します。
「東大寺大仏のモデルとなった河内知識寺は、その名のごとく勧進によって造立されたもので、『扶桑略記』(応徳三年六月)には『長六丈観音立像』とあって、五丈三尺五寸の東大寺大仏より大きい。もっとも平安末の『日遊』には『和太、河二、江三』とあって、東大寺大仏より小さいが近江世喜寺(関寺)のより大きくて、日本第二の大仏であった」

 ここで「和大・河二・江三」と出てくるのは、次の通りです。
「和」は大和の東大寺
「河」は河内の知識寺
「江」は近江の関寺
この記述からも平安末には、知識寺の盧舎那仏も「日本第二の大仏」だったことが分かります。つまり、ドラゴンボールに登場する「元気玉」のように生きとし生けるもののエネルギーを少しずつ分けて貰って、大きなパワーを作り出し「作善」を行うと云う宗教空間が知識寺にはあったようです。そのコミューン的な空間と、安置された大仏に聖武天皇は共感し、国家的なレベルでの建設を決意したということでしょうか。
 「造法華寺金堂所解」(天平宝字五年(761)には、知識寺から法華寺に銅を十二両運んだことが記されています。
天平勝宝四年(752)4月9日に東大寺の大仏開眼供養を行っているので大仏造立の十年後のことになります。東大寺でなく法華寺の寺仏製作のために、知識寺から銅を運んでいます。ここからは知識寺は、金知識衆に依って銅や鋼や水銀などが多量にストックされていたことがうかがえます。

大仏造営 知識寺
南河内の知識寺(太平寺廃寺跡)
知識寺(太平寺廃寺跡)について、もう少し詳しく見ておきます。

  この寺は7世紀後半に茨田宿禰を中心とした「知識衆」によって創建されたと伝えられます。河内国大県郡(柏原市)の太平寺廃寺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘され、ここが知識寺跡とされています。知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石は、石神社に残されています。この礎石から推定される塔の高さは50mの大塔だったとする説もあります。知識寺は今はありませんが、その跡は柏原市大県の高尾山麓にあり、後に大平寺が建立されました。

知識寺のある高尾山麓は古墳時代以後に渡来系秦氏の定住したエリアで、秦忌寸・高尾忌寸・大里史・常世(赤染)連・茨旧連などの秦氏系氏族の居住地域です。「大里史」の「大里郷」は大県郡の郡家の所在地で、高尾山の西麓にあたります。
続日本紀』天平勝宝八年(756)1月25日条に、考謙天阜が大仏造立のお礼に知識・山下・人里・三宅・家原・鳥坂等の七寺に参拝したとあります。
『和名抄』の大里郷は「大県の里」の意で、志幾大県主の居住地です。『柏原市史』『大阪府の地名』(『日本歴史地名人系28、平凡社』は、大県主・大里史・赤染氏らを、この郷の出身者と記します。大里史は『姓氏録』は秦氏とします。三宅氏や三宅氏の祖新羅王子天之日矛と、秦氏・秦の民の間には深い関係があります。ここに三宅寺があるのも秦氏との関係なのでしょう。
 知識寺の南にある家原寺は観心寺の廃寺跡とされ、秦忌寸の私寺と推測されます。
家原寺の近くにはには五世紀後半から六世紀後半にかけて築造された「太平寺古墳群」があります。六世紀後半に築造された第二号墳の石室奥壁中央の二体の人物像が、赤色顔料で描かれています。この赤色顔料はこの地に居た赤染氏との関係を研究者は推測します。丹生などの水銀製錬技術者集団であったことがうかがえます。

大仏造営 知識寺地図2
 河内六寺 左北北 すぐ南に大和川が流れていた
このように河内六寺はすべて知識寺(柏原市太平寺)の周辺にあります。
五寺は秦氏系氏族か秦氏と関係の深い氏寺です。彼らは知識衆でも金知識衆であり、彼らの財力と技術が知識寺の盧舎那大仏造立の背景にはあったようです。この大仏を参拝して聖武天皇は大仏造立を決意したのです。そのため孝謙女帝も知識寺と知識寺を含む七寺に、大仏造立完成の御礼参りをしています。この知識寺のある地は、河内国へ移住してきた秦集団が本拠地にした大県の地になります。彼らが鉄工から銅工になって知識寺の盧舎那大仏を造り、その大仏を拝した聖武天皇が、さらに大きな慮舎那大仏造立の発願に至るというプロセスになります。
 朝鮮半島から渡来した秦氏の日本での本貫は、豊前の香春山や宇佐神宮の周辺でした。そこは銅を産出し、鋳造技術者も多く抱えていました。彼らが高尾山に拠点を構え、そこに当時の最先端技術で今までに見たことのないような大仏を8世紀初頭には造立していたようです。
渡来集団秦氏の特徴

ここまでをまとめておきましょう
①大和川が河内に流れ出す髙尾山山麓には、古墳時代から秦氏のコロニーが置かれた。
②彼らは様々は面で最先端技術を持つハイテク集団で、大規模古墳の造営や治水灌漑にも力を発揮してきた
③彼らは豊前の「秦王国」で融合された「新羅仏教 + 八幡神」の信者であり、一族毎に氏神を建立していた。
④その中には豊前での銅製法の技術を活かし「金知識衆」の力で造立された盧舎那仏大仏を安置する寺院もあった。
⑤その仏像と「知識」のコミューン力に感銘を受けたのが聖武天皇である
東大寺大仏建立の理由ー聖武天皇のいう「菩薩の精神」とは | 北河原公敬 | テンミニッツTV

聖武天皇がこの地までやってきたのは、どうしてなのでしょうか。

それは、信頼するだれかのアドバイスを受けてのことだったと思われます。研究者は、そこまで踏み込んで推察しています。
聖武天皇に知識寺参拝をすすめたのは、どんな人物なのでしょうか
秦忌寸朝元と秦下嶋麻呂の二人を研究者は考えているようです。

まず秦朝元について見てみましょう。
朝元は父の弁正が大宝二年(702)の遣唐船で入唐し、現地女性と結婚して中国で生まれたハーフです。父の弁正と兄の朝慶は唐で亡くなり、二男の朝元のみ養老二年(718)の遣唐船で帰国します。『続日本紀』養老三年四月九日条に、秦朝元に「忌寸の姓を賜ふ。」とあります。
 
『続日本紀 二』(岩波書店版)は補注で、次のように記します。
「(前略)朝元のみ、養老二年に帰国した遣唐使に伴われ、十数歳の時日本へ戻ったらしい。医術の専門家であるが、その修得は在唐中に行われたらしい。また中国生まれで漢語に堪能だったので、語学の専門家としても評価されていた」

父と兄を失ない、母国語も充分話せない15歳の少年が、帰国して1年の養老3年4月に「忌寸」の賜姓を受けています。これは異例です。3年6月に皇太子(後に聖武天皇)は、「初めて朝政を聴く」とあります。元正女帝から皇太子執政に移る3カ月前に、朝元が「忌寸」賜姓を受けていることと、その後の朝元の出世ぶりを見ると、聖武天皇の意向で、中国生まれの孤児の少年のすぐれた才能を見抜いての忌寸賜姓なのかもしれません。若き英才発掘を行ったとしておきましょう。
その後の秦朝元の栄達ぶりを追っておきましょう。
『続日本紀』の養老五年(721)正月二十七日条は、秦朝元が17歳で、すでに従六位下で、医術において「学業に優遊し、師範とあるに堪ふる者」と正史に書かれて、賞賜を得ています。
天平二年(730)2月には、中国語に堪能であったから、通訳養成の任を命じられ、中国語の教授になっており、翌年(731)には外従五位下に昇叙し、唐に赴き、玄宗皇帝から父の縁故から厚遇され、天平七年に帰国し、外従五位上に昇進しています。生まれ故郷の唐は朝元が少年時代をすごした地であり、二年間の滞在期間には皇帝にも会っています。天皇勅命での唐滞在が公務であったことは、帰田後に昇進していることが証しています。
 聖武天皇の寵臣であったことは『続日本紀』天平十八年(746)2月5日条に、次のようにあることからもうかがえます。

正四位上藤原朝臣仲麻呂を式部卿とす。従四位下紀朝臣麻路を民部卿。外従五位上秦忌寸朝元を主計頭

ここからは746年に朝元が図書頭から主計頭へ移動しているのが分かります。今で云えば部省から財務省の移動ということになります。この背景を加藤謙吉は、次のように推測します。

「秦氏が朝廷のクラ(蔵)と密接にかかわる立場にあつたことは間違いない。ただそれは秦氏が渡来系氏族に共通するクラの管理に不可欠の高度な計数処理能力を有することとあわせて、この氏がクラに収蔵されるミツキの貢納担当者であったことに起因するとみられる。すなわち朝廷のクラの管掌は、ミツキの貢納というこの氏の基本的な職務から派生した発展的形態として理解すべきであろう」

 非農民の秦の民(秦人)の貢納物は、秦氏を通して朝廷のクラヘ入れられます。
大仏造立にあたっては、大量の銅・水銀。金などの資材と、購入のための資金を必要としました。そのような重要な役職を任せられる能力を、秦氏出自の朝元がもっていたから任命されたのであろう。信頼する人物を抜擢して主計頭に就けたのでしょう。

聖武天皇が知識寺に行幸した740(天平12)年は、朝元が図書頭に任命された天平9年から3年後です。以上の状況証拠から秦氏らによる度合那大仏を本尊にした河内の大県にある知識寺を、聖武天皇に知らせたのは秦朝元と推測します。         

聖武天皇に知識寺行幸をすすめたと推測できる人物がもう一人います。秦下嶋麻呂です。
  聖武天皇は740年2月に河内の大県郡の知識寺を参拝し、その年12月に恭仁宮への新都造営を開始しています。『続日本紀』天平十四年(742)8月5日条に、次のように記されています。

「造官録正八位下秦下嶋麻呂に従四位下を授け、大秦公の姓、丼せて銭一百貫、 絶一百疋、布二百端、綿二百亀を賜ふ。大宮の垣を築けるを以てなり。

「大宮」とは恭仁官のことです。
 これを見ると秦下嶋麻呂は「大宮の垣」を作っただけで「正八位下の造宮録」から十四階級も特進して「従四位下」に異例の特進を果たしています。さら大秦公の姓も与えられています。垣を作ったということ以外に隠された理由があったと勘ぐりたくなります。他の秦氏にはない嶋麻呂の家のみに「大秦公」なのも特別扱いです。
嶋麻昌については、特進後の天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進しています。地震の際の恭仁宮の復旧にあたっていることが分かります。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったのでしょう。造宮にかかわる仕事が本職の嶋麻呂は、二年後の天平十九年二月に長門守に任命されます。この九月から大仏の鋳造が始まります。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
大仏造営長登銅山跡

 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。銅の産出国である長門に秦氏一族の嶋麻呂が長門守として任命されているのです。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂が長門守任命と研究者は考えているようです。
ここからは、天平十四年正月の「十四階級特進」という嶋麻呂の栄進も彼が秦氏で、大仏造立にかかわっていたことが背景にあることがうかがえます。以上のような状況証拠を重ねて研究者は次のように推測します。
 朝元は、中国で生まれ中国育ちだった。そのため、河内国人県郡の秦氏・秦の民らが「金知識」になって、盧舎那大仏を本尊にした寺(知識寺)があることは知っていても、天皇を案内するほど河内の秦氏系知識衆と親しくなく、地理も知らなかった。そのために河内国出身で友人であった造官録の秦下嶋麻呂に、天皇の案内と天皇の宿泊場所、また知識寺にかかわった地元の知識衆に対する交渉などを、朝元は嶋麻呂に依頼した。聖武天皇に大仏造立を決意させた知識寺行幸の功労者が嶋麻呂だったから、官の垣を作らせて、そのことを理由に異例の栄進と褒賞になった。
以上が知識寺の盧舎那大仏のことを天皇に知らせたのは朝元で、行幸の実行の功労者は嶋麻呂という説です。

朝元と嶋麻呂が聖武天皇の寵臣だったことは、次の事実から裏付けられます。
藤原不比等の次男の北家と三男の式家が、なぜか朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしています。当時最大の実力家で皇后も出す藤原本宗家の嫁に、秦氏の朝元と嶋麻呂の娘がなっているのは、2人が聖武天皇の寵臣であったことが最大の理由だと云うのです。
 喜田貞吉や林屋辰二郎は、藤原氏が朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしたのは、二人が巨富をもつ財産家だったからと推論しています。藤原氏が彼らの娘を嫁にした理由として、とりあえず次のふたつをあげておきましょう。
第一に二人が聖武天皇の信任の厚い人物(特に朝元)であったこと、
第二に朝元は資産がなくても主計頭として財務を握っており、嶋麻呂は秦氏集団のボスになっていたこと
朝元、嶋麻呂の朝廷に置ける位置と、秦氏の財力を見ると、縁を結ぶことは将来の藤原氏にとっては利益があると思ったからでしょう。それは大仏造立のプロセスで、秦氏と秦氏が統率する泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力を見せつけられたことも要因のひとつであったかもしれません。「この集団は有能で使える! 損はない」ということでしょう。

技能集団としての秦氏

  以上から聖武天皇の大仏造営については、その動機や実行段階においても秦氏の思惑や協力が強く働いていることを見てきました

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 大和岩雄 続秦氏の研究203P
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松尾大社 | いり豆 歴史談義 - 楽天ブログ

 秦氏といえば山城の秦氏が有名ですが、河内にも多くの秦氏がいたようです。京都に行くと、松尾大社・伏見稲荷大社・木島坐天照御魂神社・養蚕神社・大酒神社や国法第一号の「弥勒菩薩半珈思惟像」のある広隆寺などがあります。少し「事前学習」すると、これらの寺社は渡来集団の秦氏に関係したものであったことが分かります。そして、中・高校でも平安京遷都の背景の一つを「山城の秦氏の協力」と習います。そのためか京都が秦氏の本拠地のように思われがちです。
 しかし、これらの神社や寺のある太秦は、河内出身の泰氏が京(左京)に移住し、山城の秦氏と共に祀った神社や寺のようです。
 長岡京や平安京の造営には、河内出身の秦氏が深く関わっていたようです。それなのにどうして、河内の秦氏が無視されるようになったのかを見ていくことにします。テキストは「大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P」です。

渡来集団 秦氏とは?

  結論から言うと、九世紀初頭に完成した『新撰姓氏録』の中に河内国出身の秦氏のことが書かれていないためです。どうして書かれなかったのでしょうか?。その理由は、河内の秦集団は、「雑」に組み入れられていた秦の民(秦人・秦公・秦姓)であったからと研究者は考えているようです。

河内には秦集団の残した仕事がいくつもあります。まずは、その仕事ぶりを見ていきましょう。
百舌鳥古墳群と古市古墳群(ふじいでら歴史紀行27)/藤井寺市

五世紀代の古市古墳群エリア内には「河内古市大溝」と呼ばれる人工河川があります。
古市古墳群 探訪報告 | かぎろひNOW

これは古市古墳群と同時代に、作られたもので野上丈助氏は、次のように述べています。
「『応神陵』を作るとすれば、大水川・大乗川の流路を制御しなければ、古墳自身がもたない地形的な問題があった。そのため大溝は「『仲哀陵』『応神陵』の巨大古墳の築造を契機にして建設され、後に渡来氏族が定着することで大溝の役割・性格が変った」

 渡来氏族のうち、最も多かったのが秦の民であることは、秦の民(秦人)が河内・摂津の河・港の工事をしたことを記す『古事記』の記事からもうかがえます。秦の民が河内開発プロジェクトのパイオニアだったようです。それは、それまでになかった「新兵器」を秦氏が持っていたからです。
森浩一氏は、その「新兵器」のことを次のように指摘します。

「五世紀後半になると鉄製の鍬・鋤が使用されるが、農耕用より河川・池の築堤・灌漑用水路の土木工事などの工事用具として利用された」

真弓常忠も、『日本古代祭祀と鉄』で次のように述べています。
古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多くの鉄製武器類を副葬することを報告している。それらの鉄製品が、(中略)
 新しい帰化系鍛冶集団の指導によって製作されたことは疑いない。かれらによって古墳時代の生産はさらに一段の進歩を示したであろう。そのことを窺わしめるのが、応神・仁徳朝における河内を中心として集められた大規模な土木工事である。難波堀江・茨田堤・感玖の大溝の築造、百舌鳥古墳群・古市古墳群にみられる巨大な墳丘造築等、五世紀代にこれだけの土木工事が進められるには、絶対に鉄製器具が必要であり、そのためには原始的露天タタラや手吹子による幼稚なタタラ炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならず、その新しい製鉄技術をもたらしたのが(略)韓鍛冶であった。
 最後に記される「韓鍛冶」を、大和氏は「河内の秦の民」と読み替えます。

陪冢出土の工具一覧
5世紀になると上表のように、畿内の古墳からは鉄製工具が出土するようになります。
 その数は河内が最も多く、古市古墳群の陪塚から出土しています。どうして巨大前方後円墳からは出てこないで陪塚から出てくるのでしょうか?
陪塚/羽曳野市
巨大古墳と陪塚

陪塚に埋納されている「農具」は、農業用でなく巨大古墳築造のための土木工事用に用いられた鉄製工具と森浩一氏は指摘していました。単なる「農耕具」ではないのです。渡来人がもたらした新しい鉄製工具は、従来の工具と比べると大きな効果をあげます。陪冢に葬られたのは、このような巨大古墳造営に関わった渡来人と研究者は考えているようです。

神戸市埋蔵文化財センター:収蔵資料紹介:古墳時代収蔵資料一覧:鉄製農工具(てつせいのうこうぐ)
古墳時代の農具・工具 
窪田蔵郎は『鉄の生活史』で、次のように述べています
「農具の鋤、鍬にしても、弥生式文化期より鉄製農具が普及したとはいうものの、庶民にはまったく高嶺の花であって、貴族、豪族から貸与されてその所有地の耕作に従事することがおもで、例外的に自作をする場合には鉄鍬は使わしてもらえず、曲がり木で造った木鍬のようなものが使用されていたようである。(中略)
大古墳を築造するほどの貴族や豪族が、鋤、鍬、のみ、やりがんな、やっとこなどのような農工具類を副葬している理由は、このような生産手段である鉄器の多量な所有者であるというプライドにもとづくものと考えなければ理解できない」
 「プライド=威信財」というによる面もあったのかもしれません。
鉄製の鍬・鋤は農具としてだけの使用されたものではなかったと、森浩一は次のように指摘しています。

河内国の古市古墳群にの大谷古墳出土の鍬・鋤先の幅は76㎜、大和の御所市校上錯子塚古墳の74㎜で、普通より狭いので、「実用品ではなく鉄製模造品とみる説もあるが、鍬・鋤先は農耕以外の土木作業では掘撃する土地条件によっては刀幅の狭いものも必要だから、模造品とはいえない」

 すでに農地化された土地の農作業用は木製品が使われ。荒地を農地にし、水を引く土木作業用に「特殊製品」だったとします。このような新兵器を持って、渡来人達は河内にやって来て、巨大古墳を造営し、河川ルートを変更し、湿田を耕地化していったのです。これは「新兵器」なくしてはできません。そのためには「鍛冶技術」も必要です。彼らは土木技術者であり、そこで使用する工具を自弁する鍛冶集団でもあり、その原料を確保するための鉱山開発者でもあったのです。それが秦の民でした。

技術集団としての秦氏

秦の民は、いつ、どこからやってきたのでしょうか 
秦の民(秦人)の故郷である伽耶の情勢を見ておきましょう。
伽耶の主要国は以下の通りです。
伽耶国家群一覧
朝鮮半島伽一覧表一覧表
朝鮮半島伽耶諸国2
主な伽耶諸国

 金海(官)伽耶国のあった金海市の大成洞古墳群は、1990年から発掘調査が進んでいます。申敬激は金海の大成洞古墳群、東来の福泉洞古墳群の調査から次のように指摘します。

『金海型木榔墓』『慶州型木椰墓』と日本の広域圏での定型化した(朝鮮半島南部における)前方後円墳の出現は、相互に連動するものと理解したい。いいかえれば日本の定型化した前方後円墳の出現契機は、鉄の主な入手源である伽耶地域の深刻な情勢変動とも深い関連があろう。

 「深刻な情勢変動」とは、金海国に対する新羅の圧力です。
倭国が確保してきた鉄が新羅によって脅かされるようになったことを指摘しています。「4世紀には対倭交渉が北部九州から、大和に転換した」とみています。 それまでは倭との交渉は「鉄」をとおしてでした。そのため金海から倭への大量の移住はなかったとします。移住が始まるのは広開王が伽耶まで進出した以後です。新羅が高句麗と組んで真先に侵攻したのは金海の金官国でした。

渡来人増加の背景戦乱

孫明助は5世紀の伽耶の鉄生産について、次のように述べています。
4世紀までは弁韓・辰韓の鉄器文化をそのまま受け継ぎ、伽耶地域では金海勢力が中心になって鉄生産と流通国の掌握がなされてきた。それが5世紀に入り、そのような一律的な体制は崩壊し、新羅勢力の進出とともに伽耶の各国別の鉄生産は本格化されたものと見られる。中略
 5世紀に入り、金海勢力の没落で、鉄生産地は親新羅勢力の東茉の福泉洞勢力の東大地域がその生産流通網を受け継ぐことになり、同時期に咸安と陝川の玉田地域は新しい地域別鉄生産と流通の中心地として浮上する。このような様相は鉄器製作素材の大型鉄挺および有刺利器の出現と独自の形の鋳造鉄斧の製作、新しい形の鉄器製作素材の俸状鉄製品の発生などから見ることができる。
 したがって、伽耶の5世紀の鉄生産は、既存の洛東江の河口域(金海地域)と南旨を境とする南江一帯の咸安圏域、黄江中心の玉田勢力の大伽耶圏域など、大きく三つの生産流通圏を区画することができる。
金海国の製鉄独占崩壊とその後
 

ここには、新羅の進出で、金海での独占的鉄生産が崩壊したことが指摘されています。
そして、金海勢力について次のように述べます。
  「金海勢力の鉄生産は親新羅勢力の東莱の福泉洞勢力がその生産流通権を受け継ぐことになる。とくに、福泉洞22号墳のように長さ50㎝前後の大型鉄挺の出現は、既存の金海勢力が所有していた鉄生産と流通網がそのまま福泉洞勢カヘ移ってきたことを示す」  
 ここには、それまでの金海勢力の鉄生産を担っていた勢力が「親新羅」勢力に取って代わられたことが指摘されています。
それでは「金海勢力」の採掘・鍛冶の鉱人・工人たちは、どこへいったのでしょうか。
その答えが「倭国へ移住」です。「金海勢力」の地は、秦の民の故郷でした。故郷を失った泰の民は、ヤマト政権の手引きで河内への入植を進めたと研究者は考えているようです。それは5世紀前半から6世紀前半までの百年間のことになります。

新羅・伽耶社会の起源と成長 | 「雄山閣」学術専門書籍出版社

李盛周の『新羅・伽耶社会の起源と成長」が2005年に和訳されて雄山閣から出版されています。この本には下図の「嶺南地方の主要な鉄鉱産地と交通路」が載っています。
伽耶の鉄鉱山

これを見ると、鉄鉱産地は金海(官)地域に集中していることが分かります。また各地からの交通路も金海へ通じています。河内の秦の民の多くは、この地からやってきた来たと研究者は考えているようです。
秦の民たちを受けいれたヤマト政権側を見ておきましょう
4世紀古墳時代前期の鉄生産技術は、弥生時代と比べてもあまり進化していないと研究者は考えているようです。ところが5世紀になると大きな変化が見られるようになります。

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より

村上恭通氏は「倭人と鉄の考古学」で、5世紀以後の製鉄・鍛冶技術の発展段階と技術移転を次のように整理しています。

倭人と鉄の考古学 (シリーズ日本史のなかの考古学) | 村上 恭通 |本 | 通販 | Amazon
  第4段階(4世紀後半~5世紀前半)。
鋳造鍬が流入するとともに、輸入素材(鉄挺)による鍛冶生産が発達。鉄製武具の製作がはじまる。5世紀前半に鉄製鍛冶具が伝播し、生産される(5世紀初めに窯業生産(須恵器)が開始するが、炉の構造・木炭窯など製鉄に不可欠な諸技術の基礎となった。
  第5段階(5世紀後半~6世紀前半)
5世紀後半に製鉄(製錬・精錬)技術が伽耶・百済・慕韓から移転する。大阪府大県、奈良県布留・脇剛。南郷移籍などの大規模な鍛冶集落(精錬・鍛冶。金工)が出現する。専業鍛冶として分業化した。この時期、列島内での製鉄が開始する。
  第6段階(6世紀中葉~7世紀)
岡山県千引カナクロ谷製鉄遺跡など列島各地で、製鉄(鉱石製錬)が本格化し、鍛冶金工技術も発展した。飛鳥時代になると砂鉄製錬が技術移転され、犂耕の普及にともない鋳鉄生産がはじまる。
古代製鉄技術の発展


 4世紀後半から5世紀前半に、鉄挺が輸入され、5世紀前半に鉄製の鍛冶具が伝幡したとします。
朝鮮半島から「秦集団」が渡来するのはこの時期です。この時期がターニングポイントになるようで、次のように指摘します。
「鉄器生産や鉄と社会との関わりが大きく揺らぎはじめる画期はⅣ以後である。畿内では新式の甲冑、攻撃用・防御用武器の変革をはじめとして、初期の馬具、金鋼製品など、手工業生産部門で生産体制の拡充と、新たな組織化があった。問題は素材の供給である。
 この時期の畿内における鍛冶の大集団が、生産規模のみの大きさを示すのではなく、生産工程そのものが分化し、精錬はもちろん、製鉄も想定しうる段階にきている。これらが渡来系技術者によって促進されたことはいうまでもない。この時期の朝鮮半島でも鍛冶技術者の階層化が極点に達し、また半島南部地域(伽椰)を例に挙げても、鍛冶上人集団に著しい分派が起こるという。
  この時期、ヤマト朝廷は国力を誇示すべく、武器・武具の充実を図った点は先学の示すとおりであるが、朝鮮半島における工人集団の動向を十分に認識したうえで、目的的に渡来技術者を大規模に受けいれたのがこの時期なのである。
ここからも新羅の伽耶占領以後に、伽耶の金海地域の人々が「河内王朝」の手引きで倭国にやってきて、指定地に入植したことがうかがえます。
古代の鉄生産と渡来人―倭政権の形成と生産組織 | 花田 勝広 |本 | 通販 | Amazon
  以上をまとめたおくと
①伽耶の金海地方で鉱山開発から鉄生成までをおこなっていたのが秦集団であった
②ヤマト政権は、鉄確保のための「現地貿易商社」を組織し、倭からも多くの人員を送り込んでいた。
③ヤマト政権は秦集団を通じて鉄を入手しており、両者の利害関係は一致することが多かった
④新羅の南下で金海地方が占領下に置かれると、多くの秦集団はヤマト政権の手引きで倭国に移る
⑤ヤマト王権は、彼らを管理下に置き、各地に入植させる
⑥河内に入植した秦集団は、先端製鉄技術で農業工具を作り出し、巨大古墳や運河、湿地開発などを行う。
⑦かつて河内湖だった大阪平野の湿地部は、秦集団によって始めて干拓の手が入れられた。
⑧彼らは、平城京への大和川沿いや平安京への淀川沿いに拠点を構え、そこには宗教施設として、寺院や神社が建立された。
⑨秦集団の信仰した八幡・稲荷・白山信仰や虚空蔵・妙見・竃神信仰の宗教施設が周辺に姿を見せるようになった。

秦氏の渡来と活動

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P


以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

秦氏と空海

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一宮となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その8年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、7年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。

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渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。

 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)
 このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという
(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1

「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10」には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、次のように記します。

葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。

大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。

技能集団としての秦氏

山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
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