瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秦氏と空海

仏像の種類:虚空蔵菩薩とは】知恵の四次元ポケット!空海の生みの親、虚空蔵菩薩の梵字真言など|仏像リンク
若き日の空海が大学をドロップアウトして、信仰の道へと入っていくきっかけは「虚空蔵求聞持法」の修得にあったとされます。それはドロップアウト後の空海の行動からも分かります。空海は、四国の大瀧山や室戸で「虚空蔵求聞持法」の修得修行を開始するのです。この時の空海には、まだ密教の全体像が見えてはいません。その入口に立ったばかりなのです。そこに至るまでの導き手になったのが秦氏出身の僧侶です。虚空蔵求聞持法の伝来に秦氏が深く関わってきたことについては、以前にお話ししました。今回は虚空蔵菩薩信仰を「鉱山開発」の視点から見ていこうと思います。テキストは大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363Pです。

「虚空蔵」と名前のつく山と鉱山の関係を一覧したものを見ておきましょう。
虚空蔵尊(徳島県阿南市大竜寺山)水銀鉱.
虚空蔵尊(徳島県名西郡神山町下分焼山寺)含銅黄鉄鉱.
虚空蔵尊(高知県室戸市最御崎寺)金鉱.
虚空蔵山(高知県高岡郡佐川町斗賀野)鉢ケ嶺。マンガン鉱。
虚空蔵山(岡山県浅目郡里庄)銅山がある。
虚空蔵山(佐賀県藤津郡嬉野丹生川)水銀、銀を産する波佐見鉱山がある。
虚空蔵酋獄(鹿児島県串木野市)一斤ケ野金山(黄金、黄鉄鉱、輝銀鉱)
虚空蔵尊(岐阜県大垣市赤坂 金星山明星輪寺)金、銀、銅、水銀。
虚空蔵尊(三重県伊勢市朝熊山 金剛証寺)カンラン石、 ハンレイ岩で、鋼、クロームコバルト、鉄、ニツケルをふくむ山.
虚空蔵尊(岐阜県武儀郡高賀山)銅山ら
虚空蔵山(新潟県北蒲原郡安田町)鉄鉱ヽ砂鉄
虚空蔵尊(福島県河沼郡柳津村円蔵寺)銀山川があり、銅山
虚空蔵山(宮城県伊共郡丸森町大帳)山麓に金山部落
虚空蔵山(山形県米沢市)十日野鉱山
虚空蔵寺(岩手県気仙郡店丹・五葉山)平泉の藤原氏時代、伊達氏時代の最高の金の産地で、平泉の金色堂の黄金は、みなここの産金によるという.
虚空蔵尊(青森県岩木山百沢村)鉄鉱.
虚空蔵宮(金井神社 栃木県下都賀郡金井町)「この楽落を小金井郷といふ。この地名小金の湧き出づる井戸に通ずる語源なり」

  ここからは、虚空蔵山と名のつく山の近くには、鉱山があったことが分かります。
 谷有二氏は、「虚空蔵」と鉱山の例を次のように紹介しています。
「埼玉県秩父黒谷の金山遺跡からも、室町時代とおぼしき一寸人分の銅製虚空蔵書薩が掘り出されて」
「和銅山に、往時のものと推定出来る露天掘り跡が、二本の溝のような形で山麓の和銅沢に向かって急谷に落ち込んでいる。和銅山の東側一帯は金山と呼ばれ、選鉱場、精錬所跡からは銅滓、火皿の大きい朝鮮式煙管(キセル)とともに虚空蔵蔵が掘り出された。現在、附近には五ヵ所八本の坑道が明確に残っているが、全部ノミによる掘進坑で、三〇〇~五〇〇年前のものとみられる。江戸時代はもちろん近くは明治38年まで掘り続けるれた」

「上州武尊山麓薄根川沿いで鉄を採つた金山の一峰を虚空蔵山とする。その虚空蔵菩薩縁起では、平安時代の天長一四年に空海が同地で修行したことに始まるとあるが、この『縁起』そのものは戦国時代の永禄11年に書かれたものなので、歴史は相当古いことがわかる」

「東北の例として、「山形県出羽三山の北に1090mの虚空蔵岳がある。山麓を昔から砂金採掘で知られた立谷沢がぐるりと半周するだけでなく、今も山腹には大中島、東山など金銀銅を出す鉱山が働いて、一ッ目伝承もからむ」

「山形県上山市の西2㎞も355mの虚空蔵山がある」が、上山市の南側の「蔵王連峰山形側は金属地帯で(中略)鉱山が目白押しにならぶ」

「宮城県の栗原町と花山村との境にある1404mの虚空蔵山は、それこそ鉱物の真上に乗つたような感覚だ。福島県の蔵の町として知られる喜多方周辺も、鉱物に恵まれていて、ここにも虚空蔵森(304m)」があり、「六世紀のタタラ遺跡が発見された新潟県笹神付にも虚空蔵山があり砂鉄の存在を示している。岐阜県の名山として有名な高賀三山の一峰瓢岳にも虚空蔵尊が祭られているが、これは山麓の銅山と関連がある」

以上からは、虚空蔵信仰の山は鉱山であったようです。別の見方をすると、鉱山がある山が「虚空蔵菩山」と呼ばれるようになったということかもしれません。それには、どんなプロセスがあったのでしょうか?
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 唵のブログ
佐野賢治は「虚空蔵菩薩信仰の研究」で、虚空蔵信仰と鉱山の関係を次のように指摘します。     
「山形県南陽市の吉野鉱山などは『白鷹の虚空蔵さま』の南麓流域にあり、虚空蔵信仰と鉱山の関係を物語る」
「白鷹山北麓の山辺町作谷沢の諏訪神社本殿内には「一つ目小僧」の絵像か描かれ、この地区に炭焼藤太、小野小町伝説、鉱物・鉱山関係の地名や鉄津・鉄製懸仏が残ることからも、古代における産鉄の地であったことは確かであり、虚空蔵信仰関係では作谷沢の館野には虚空蔵山 、西黒森山の麓には『虚空蔵風穴』があり、地中から冷風が吹き出している。また、桜地蔵と呼ばれる岩には虚空蔵菩薩と考えられる磨崖仏が彫られている。このように「白鷹虚空蔵さま」山麓は鉱山地帯であり、その伝承を現在まで濃厚に伝えている鉱山に関係する伝承の豊富な地区である」

そして次のように指摘します
「全国の虚空蔵関係寺院、虚空蔵菩薩像の分析から虚空蔵信仰を主に荷担したのは当山派修験」
虚空蔵菩薩信仰の研究―日本的仏教受容と仏教民俗学 | 佐野 賢治 |本 | 通販 | Amazon

 ここからは、鉱山開発を担った集団が信仰したのが虚空蔵菩薩であり、その信仰の中心には修験者たちがいたというのです。修験者の当山派は醍醐寺を中心とした真言宗の寺院です。宗派の祖は弘法人師空海で、中興の祖は理源大師で、二人ともに讃岐出身とされます。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」とするのものが多いようです。

 空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、弘法大師が土佐国の室戸岬で虚空蔵求聞持法を行じていた時、口の中に入ってきたというものと同じでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは、関係がありそうです
星の信仰―妙見・虚空蔵 | 賢治, 佐野 |本 | 通販 | Amazon

星神信仰については、次の2つの流れがあるようです
1密教的系統(尊星法=天台、北斗法=真吾)
 ①北斗星を祀る密教系の法
 ②①から派生した妙見信仰
 ③虚空蔵求聞持法に拠る虚空蔵信仰から派生した明星信仰
2陰陽道系統(安倍晴明→土御門神道)

このうち秦の民が信仰したのは、もともとは③の星神信仰だったようです。それが後世になると②の妙見信仰と混淆していきます。その結果、秦氏の星神信仰は妙見信仰になっていったようです。秦氏の妙見信仰と星神信仰を見ておきましょう。
妙見信仰 | 真言宗智山派 円泉寺 埼玉県飯能市

それでは妙見信仰とは、いつ誰が伝来したのでしょうか
研究者は次のように指摘します。
「妙見信仰がわが国に伝来したのは、六~七世紀の中頃と考えられる。伝来当初の妙見信仰は畿内の南河内地方など帰化人と関係深い地方で信仰されていたようであるが、次第に京畿内の大衆間に深く浸透していった」

妙見信仰は朝鮮半島からの渡来人によって、仏教伝来と同じ時期にもたらされたようです。「帰化人」とありますが、もっと具体的に云うと、秦の民になるようです。
妙見信仰の史的考察 | 中西 用康 |本 | 通販 | Amazon

 秦氏の妙見信仰を考えるときに取り上げられるのが、河内国茨田部の秦氏の祀る「細(星)屋神社」(寝屋川市茶町・太秦)です。
 この神社は、『延喜式』神名帳に載る茨田郡細屋神社に比定される神社です。しかし、今は小さな祠となって近くの八幡神社の境内に移されています。
星屋神社


泰氏の子孫と称する寝屋川市の西島家文書には「星屋」と称していることからも、渡来した秦氏が天体崇拝思想から、星神を祀ったものと研究者は考えているようです。
 この神社はもともとは「星屋神社」で、妙見信仰による神社だったようです。神社の境内にある案内板にも次のように記されています。
「祭神は秦村の記録に、天神・星屋・星天宮と記され、先祖からの天体崇拝の風俗をここに伝え、星を祭ったと考えられます」

なぜ、星を祭る神社が秦村にあるのでしょうか。その理山は、古代の鍛冶屋と星辰信仰は深い関係にありました。この地にやってきた秦氏が鍛冶や鋳造業に関わる先端技術者集団で、彼らが信仰していたのが星神だったと考えられます。
細屋神社 : 神社参詣 - 大阪府 - 寝屋川市 : 御中主 - 社寺探訪
移築される前の細屋神社(現在は近くの八幡神社に移築)

現在のこの地区の産土神は八幡神社で、近くに大きな本殿や拝殿が鎮座しています。しかし、もとともはこの地は、秦氏の拠点でその氏神として建立されていたのは細屋(星屋)神社だったようです。現在に至る変遷を考えて見ましょう。
①この地に朝鮮半島からやって来た秦の人々は、当時の先端産業である鍛冶関係であった。
②鉱山・鍛冶関係者は星神を祀つていたから、この地に星(細)屋神社を建立した
③後代にこの地の住民は農民化し、それに伴って農民が信仰する八幡神社を産上神にした
④そのため茨田郡の式内社の五社に入っていたのに、八幡神社の摂社になり細屋神社と呼ばれるようになった

『河内名所図会』には、後鳥羽上阜が諸州の名匠を徴して刀剣を造らせたとき、秦村の鍛冶匠秦行綱が、第一に選ばれたとあります。秦村の字鍛冶屋垣内には、秦行綱宅址があります。中世には刀鍛冶へと発展していたことが分かります。
 細屋(星屋・星天宮)神社の伝承には、境内の樹を伐り草を刈ると腹痛をおこすが、秦村・太泰付(現在の寝屋川市大字秦・大字太秦)の人だけには障りがないといわれてきたようです。これもこの神社が泰氏系の神社であったことを示しているようです。秦氏と星信仰と妙見・虚空蔵信仰の関係がかすかに見えてきました。もともとの星(細)屋神社は、鍛冶関係の秦の民が氏神として祀っていた「妙見神」であったことを押さえておきましょう。
番外編】妙見寺(板東妙見信仰の祖) : 大江戸写真館(霊場巡礼編)
妙見信仰と鉱山・鍛冶業とは、どんな関係があったのでしょうか?
鉱山師は妙見=北極星で、天から金属を降らせたと信じていたようです。いくつかの例を挙げてみましょう。
①「金の島=佐渡」の金北山の隣に妙見山
②甲斐の武田氏の軍資金の半ばをまかなった大菩薩山域の妙見ノ頭は、そのものが金山の守護神
③新潟県栃尾市と長岡市境にある戊辰戦争古戦場の榎峠を、妙見山と呼びますが、東には金倉山、半蔵金山がつらなっていています。それは金属の存在を暗示しています。

西日本の岡山県の妙見山を見てみましょう。
日本霊異記には、千年前の鉱夫の悲惨な姿を次のように記します。
「美作国英田部内二官ノ鉄ヲ取ル山有り」
「暗キ穴二居テ、個へ恨ム。生長シ時ヨリ今ロニ至ルマデ、コノ哀ミニ過ギタルハ無シ」
このあたりは鉄が掘られなくなった後も銅、水銀を産するので鉱毒災害も起きていたことがうかがえます。
 岡山市から旭川をさかのぼった赤磐郡金川(御津町)近くにも妙見山があります。ここでは水銀、銅が採れました。苅田、軽部の金属を示すカリ、カル地名と山口吹屋が、それに妙見山があります。また、吉備地方には温羅(カラ)と呼ばれた鬼が左目に矢を受けてたおされる伝承が長く語り伝えられている。これも「一つ目」の変形パターンかも知れません。
 兵庫県養父郡の妙見山(1142m)一帯には金をとった跡があります。その南麓には今もアンチモン等の鉱物が採れて足坂、中瀬などの鉱山が集まり、金山峠は、その昔の運搬路を示すようです。こののあたりも古くは軽部郷と呼ばれていました。
 豊臣家の台所をまかなった金は、大阪府豊能郡能勢町一帯から採られました。今でも妙見鉱山には磁鉄鉱床がありますが、ここの歴史は古く多田源氏の祖・源義仲が砂金を掘って源氏の基礎を築いたといわれます。ここにも蛇の伝説、行基にからまる昆陽池の一ツ目魚伝承、妙見山(662m)がそろってあります。
 どこも鉱山関係者の信仰や言い伝えですが、妙見信仰を持った修験者の影が見えます。以上の記述からも、妙見信仰は
①村に居住する鍛冶職の「小鍛冶」
②鉱山の採鉱、金属精錬の「大鍛冶」
と関係があることがうかがえます。秦の民が信仰する虚空蔵信仰と妙見信仰は結びついていたのは、秦の民の職業と関係しているからのようです。
北斗七星: Fractal Underground Studio
まとめてみると
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神である
③彼らは妙見=北極星を、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われることになる
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになる。

このようにしてみると四国の行場と云われる霊山にも鉱山が多かった理由が分かるような気もしてきます。そして、空海の四国での修行場にも丹生(水銀)鉱山との関係がうかがえることは以前にお話ししました。その媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかというのです。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれた、さまざまな技術をもつた工人集団がいました。彼らが信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。そして、この信仰は主に一般の定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、秦氏の信仰した八幡神・稲荷神・白山神などは、周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
      大和岩雄  虚空蔵菩薩信仰の山の多くはなぜか鉱山  続秦氏の研究363P
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空海の出身地の讃岐の西隣は伊予です。ここにも、秦氏が多く住んでいたと大和岩雄氏は「続秦氏の研究」に記します。伊予の秦氏の存在を、どのように「実証」していくのか見ていくことにします。

技能集団としての秦氏

最初に、大岩氏が注目するのは大洲市の出石山です。

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この山は地図で見ると分かるように、九州に向けて突きだしたの付け根の位置に当たる所にあります。頂上からは瀬戸内海を行き交う船が見える眺望を持ちます。古代以来、九州と豊後灘を経ての海上交通の要衝の地であったことがうかがえる山です。豊後を基盤とした秦氏も、この山を目指して豊後水道を渡ってきたのかも知れません。この山の頂上には出石寺があります。

愛媛 南予にきさいや! 長浜の出石寺に行ってきました。

 大和氏は「日本歴史地名大系39」『愛媛県の地名』の出石寺(しゅっせきじ)に関する記述を次のように引用します。

「喜多郡と八幡浜市との境、標高812mの出石山頂上にある。金山と号し、(中略)・・大同2年(807)に空海が護摩を修し、当時の山号雲峰山を金山に改めたと伝えられている。「続日本後紀」によれは、空海か四国で修行したのは阿波国の大滝之岳と土佐国の室戸岬であるが、空海自らが記した「三教指帰』には『或登金巌而或跨石峰』とあって、金巌(かねのだけ)に加爾乃太気、石峰に伊志都知能人気と訓じてあるので、金巌は金山出石寺をさすものと解され、空海は金山出石寺と石鎚山に登ったとされている」

 ここには、現在の出石山が石鎚と同様に空海修行の地であったと記されます。空海は、大滝山と足摺で修行したことは確実視されますが、その他はよく分かりません。後世の空海伝説の中で、修行地がどんどん増えて、今ではほとんどの札所が空海建立になっています。その中で、出石山も空海修行地だと考える人たちはいるようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル

 佐藤任氏はその一人で、次のように述べます。

「金巌(かねのだけ)は、この出石山(金山出石寺)か、吉野の金峯山のどちらかと考えられている。近年では、大和の金峯山とみる説が多いというが、同じ文脈に伊予の石鎚山とみなされている石峯が出ているから、伊予の出石山とみることも決して不可能ではない。しかも、どちらも金・銀・銅を産する山である」

 もちろん『三教指帰』の「金巌」は大和国の金峯山とするのが定説です。しかし、伊予の石鎚山に空海が登ったという伝承が作られたのは、伊予が丹生(水銀)産地で、秦の民の居住地だったからというのです。佐藤任氏は、伊予の「金巌」といわれている出石山付近には水銀鉱跡があると指摘します。

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堀井順次氏は、伊予の秦氏のことを「山村秘史」に次のように記します。
「伊予の秦氏についての詳しい記述があり、伊予の畑・畠のつく地と想定される。(中略)
  まず東予からたずねると、旧宇摩郡(現川之江市)の県境に「新畑」がある。そこは鉱物資源帯で、秦氏ゆかりの菊理媛祭祀神社が周辺地区に残っているが、秦氏伝承はない。同郡内の土居町には 畑野」があり、秦氏開発の伝承があった。越智郡には今治市に「登畑」があり、近くの朝倉村の多伎神社には秦氏伝承があると言う。玉川町の「畑寺」の地名と、光林寺(畑寺)の由緒にも秦氏の名が残っている。
中予地方では旧温泉郡に畑寺・畠田。新畑等に秦氏を想い、立花郷には「秦勝庭」の名が史書記され、この地方も秦氏ゆかりの地と考えられる。伊予市大平地区に「梶畑」(鍛冶畑)があり、「秦是延」の氏名を刻んだ経筒がそこから出土しているから、やはり秦氏ゆかりの地だろう。

南伊には大洲市に「畑・八多浪(畑並)八多喜(秦城)」等があり、南宇和郡には畑地があって高知県の幡多郡に続いている。
秦氏一族が伊予各地に分散していたことは、 一族が関係する産業の分散を示すものである 古代産業の分布状況は古代創祀神社の跡で推定できるだろう。愛媛県を東西に走る山岳地帯は、すべて鉱業地帯である。南予では石鎚山系のいたるところに銅採出跡がある。
(中略)
他に荷駄馬産業を見落してはならない。駄馬は山塊地帯の鉱業には欠かせない資材・鉱石等の搬送機関だった。律令制以後も近代に至るまで物資運送機関として秦氏の独占下にあった。荷駄馬の飼育地を駄場と言う。駄場地名は全国的に見て四国西南部に集中し、四国では南予地方に集中している。そこには必ず秦氏ゆかりの白山比売祭祀神社があった。
 
 以上のような推論を重ねた上で、伊予の秦氏は、南予地方の工業開発にかかわったとします。
そして次に示されるのが「南予地方秦氏関係神社表」です。
1南予地方秦氏関係神社表

この表から堀井氏は、次のように論を進めます。
「南予地方の古代朱の跡を、考古学領域で考えて、弥生時代まで遡上できるだろう。幡多郡五十崎町の弥生遺跡で採収した上器破片には、鮮やかな朱の跡が残っていた。史書で伊予に関る朱砂の歴史を考えると大化年間に阿倍小殿小鎌が朱砂を求めて伊予に下向して以後、天平神護二年の秦氏賜姓の恩典までの百余年間は、朱砂の線で繋がれていると見てまちがいなかろう。
 これを民俗学の領域で見ると、八幡浜市の丹生神社に始まり、城川町から日吉村まで続いている。その分布状況を迪ると、南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さにはおどろかされる。その中で最近まで稼働していたのは日吉村の双葉鉱山だけだが、その朱砂の線上に多くの歴史が埋もれているにちがいない」
ここでは「南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さ」の存在と秦氏の信仰する神社との重なりが説かれます。これは中世の山岳寺院とも重なり合うことが下の図からはうかがえます。
2密教山相ライン

 佐田岬半島の付け根に位置する出石山の頂上には「金山出石寺」があります。この寺の縁起は次のような内容です。
開創は元正天皇の養老二年(718)6月17日で、数日間山が震動して「光明赫灼とした」。そのため鹿を追っていた猟師作右衛門が鹿を見失ったが、「金色燦然たる光」を放って、千手観音と地蔵尊の像が地中から湧出した。作右衛門はこの奇瑞に感じて殺生業を悔い、仏門に入って「道教」と改名し、仏像の傍に庵をつくり、「雲峰山出石寺」と号した。
 その後、大同二年(807)に空海がこの山に登り、護摩ケ石に熊野確現を勧進して護摩供を修し、この山を「菩薩応現の勝地、三国無双の金山なり」と讃嘆した。
 空海がやって来たかどうかは別にして、この地域からは金・銀・銅・硫化鉄が採掘されていたようで、出石山(金山)には水銀鉱の跡があると云います。
また『続日本紀』文武天阜二年(698)9月条に、伊予国から朱砂を献上させたとあります。
これには秦氏・秦の民がかかわっていたようです。この地に弘法大師信仰が盛んなのは、高野山に丹生神社があり、弘法大師信仰には丹生がかかわるからだと研究者は指摘します。 丹生は泰氏集団と空海に深くかかわり、両者を結びつける役割を果たしていたのかも知れません。ちなみに丹生(にゅう)とは「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物が採取される土地を指す言葉です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。
「要するに天平以前の日本人が“丹”字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は“に”と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ“そほ”には“赭”の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう
それでは、丹生と空海にはどんなつながりがあったのでしょうか。
それは、また次回に・・・
渡来集団秦氏の特徴

参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究


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