瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:称名院

琴平町の象頭山という呼び名は、近世以後に金毘羅大権現が鎮座して以後の名前です。それまでは延喜式内社の大麻神社が鎮座する山として、全山が大麻山と(現象頭山を含め)呼ばれていたと私は考えています。
ブラタモリ こんぴらさん - めご の ひとりごと

 この山はNHKのブラタモリでも紹介されていましたが、金比羅本殿が建つ地点から上は安山岩でできていて、所々に岩肌を露わにした山様を見せます。金毘羅本殿の奥には、岩窟があるとされます。その外に山中には風穴などもあり、奥社の背後も岩壁となっています。これらの岩窟や瀧(断崖は)は、修験者たちの格好の修行場ゲレンデとなり、彼らの聖地となります。山岳信仰の高まりととともに、善通寺の「奥の院」として修行に励む修験者たちのゲレンデとなり、時代が下ると、そこに山岳寺院が出現したことがうかがえます。これらの寺院は、善通寺→瀧寺→尾背寺→中寺廃寺→萩原寺と山岳寺院ネットワークでつながり、修験者たちの活発な交流が行われていたことが、史料から見えてきます。そこには、多くの修験者たちが入り込み、「中辺路」修行を行っていたことがうかがえます。
 金毘羅大権現以前の、この山の宗教施設を順番に挙げておくと次のようになります。
①式内社大麻神社(忌部氏の氏神?)
②瀧寺(中世の山岳寺院)
③称名寺(中世の阿弥陀・念仏信仰の寺院)
④三十番社
⑤松尾寺金光院を別当とする金毘羅大権現
ここからは、近世に金毘羅大権現が流行神として出現する以前に、大麻山にはそれに先行する宗教施設があったことが史料からは分かります。
もうひとつのこの山の性格は、「死霊のゆく山」でした。
中世以来、小松荘の人たちにとっては、死者を葬る山でした。現在も、琴平山と愛宕山の谷間を流れる清流沿いには、小松荘以来の墓地である広谷の墓地が広がります。そこには、墓を守る墓寺も建てられ、高野聖達の念仏布教活動が行われていたようです。いわゆる「滅罪寺」もあったのでしょう。
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丸亀平野から見る大麻山
 一方、丸亀平野の里人から見れば、この山は祖先が帰っていく甘南備山で、霊山でした。神体でもあるこの山を仰ぎ見て、気象の変化が占われたのかも知れません。そのような処には、中世に成ると、拝殿が姿を現すようになります。それが多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)なのかもしれません。中世以前においては、大麻山は霊山で、信仰の山だったと私は考えています。
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今回は金毘羅大権現登場以前の宗教施設である称名寺を訪ねてみます。 テキストは前回に続いて、山本祐三「琴平町の山城」です。ここには、称名寺付近の詳細な地図が載せられています。この地図を参考に実際に私も訪ねて見ました。その報告記でもあります。

称名寺 「琴平町の山城」より
称名寺周辺地図(「琴平町の山城」)
称名院へは、ホテル琴参閣の裏のあかね幼稚園のそばから山に伸びる道を辿ります。この辺りは「大西山」と呼ばれ、山から流れ出す谷川沿の橋がとりつきになります。
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大門口
地図上には「大門口」あります。称名院(後の称明寺?)の大門跡と伝えられます。確かに、両側が狭まった所に大門が建っていたような雰囲気がします。しかし、研究者は後に道を付けるために切通したものと一蹴します。
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大門口を振り返って見た所
 ここを抜けると、空間が開け目の前に田んぼが現れます。なんでこんな所に・・と思っていまいますが、金毘羅宮の神田のようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭3

6月には田植え祭が毎年行われ、田舞の歌が奉納される中で、早乙女(巫女)が苗を植える姿が見られます。神前にお供えするお米が古式に則って、栽培されています。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭7

 さらに管理道を真っ直ぐに登っていくと、左手に伸びる広場に神馬(しんめ)の墓があります。ここからは琴参閣の向こうに西長尾城の城山が望めます。
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さらに林道を登り、原生林の中に入っていきます。砂防ダムの建設のために付けられた林道は、今は役割を終えて廃道になっていますが人が通るには快適な道です。
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薄暗くなった中を、すぐに右手にカーブすると森の中の大木の根元に、朽ちそうになった小さな祠が迎えてくれました。
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ここが、称名寺跡のようです。確かに周辺は広い平坦地です。しかし、林道整備の際に、造成された土地かも知れませんが、この盆地状に開けた所が称名寺跡としておきます。史料には、ここからは、五輪塔に用いた石が多く見られ、瓦も見つかることがあると記されています。

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 林道を上っていくと、谷川のせせらぎが響き、下には砂防ダムの湖面が見えます。さらに登ると林道の分岐点が現れ、そこに池があります。森の中に青い水面を見せる池で、趣を感じさせてくれました。
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しばし佇んでいたのですが、五月末の快晴の温かい日なので、ヤブ蚊の襲来を受けました。早々に退散します。里山歩きには、防虫ネット付きの帽子と長袖と防虫スプレーが必需品であることを忘れていました。 
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称名寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶の道範です。
道範は、和泉国松尾の人で、高野山正智院で学び文暦元年(1224)には、その院主となり、嘉禎三年(1237)には金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材でした。それが内部抗争の責任を取らされて、仁治三年(1242)、讃岐に流されます。
 道範は、赦免される建長元年(1249)までの8年間を讃岐国で滞留します。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んでからは、かなり自由な生活を送っています。例えば、宝治二年(1248)には、伊予まで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。
 その年十一月に、道範は尾背寺(まんのう町本目)に参詣をしています。この寺は、善通寺創建の時の柚(そま)山で、建築用材を供給した山と伝えられています。この時も、当時進められていた善通寺復興のための木材確保のためであったかもしれません。尾背寺も中世は、山岳寺院と多くの修行僧がやってきて書経なども行っていたことが、大野原の萩原寺に保存されている聖教の書き付けから分かるようになっていたようです。
 一泊した翌日、道範は帰路に称名院を訪ね、次のような記録を残しています。
「同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。
松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」  (原漢文『南海流浪記』)
 このあと、道範から二首の歌を念々房におくり、念々房からも二首の返歌があったようです。さらに、同じ称名院の三品房の許へこれらの贈答歌のことを書簡に書き送ったようです。三品房からの返書に五首の腰折(愚作の歌)が添えられ届けられています。
ここからは次のようなことが分かります。
①「九品の庵室」は、九品浄土の略で、この寺は浄土信仰のの寺
②念々房と三品房という僧侶がいた。念々房からは念仏信仰の僧侶であることがうかがえる
③三品房の書状には、称名院は弘法大師の建立であるとも記されている。
ここからは、まばらな松林の景観の中に、こじんまりとした洒脱な浄土教の庵寺があり、そこで念仏僧(高野聖?)が、慎ましい信仰生活を生活を送っていたことが見えてきます。以前に見た弥谷寺の念仏僧侶と同じような生活ぶりがうかがえます。
 私も称名院跡で、いろいろと想像してみようとしたのですが、その試みはヤブ蚊たちによってもろくも打ち砕かれたことは、先ほど述べた通りです。
瀧寺について
 道範は、念々房が不在だったために、その足で瀧寺を訪れ、『南海流浪記』に次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」

 『西讃府志』(1852年)には、次のように記されています。
『南海流浪記』ニ宝治2年(1248)11月18日 参詣瀧寺 坂十六町  此寺東向高山有瀧  古寺礎石等庭々有之 本堂五間 本佛御作千手云々 此寺ハ大麻山ナル葵瀧ノアタリニアリシト云博ヘリ
 今ハ何ノ趾モ見エズ 又同書二称名寺卜云フモ載ス 是ハ此山ノ麓ニテ 今地ノ名二残リテ 其趾アリ 
意訳変換しておくと
「南海流浪記」には、1248年11月18日に、称名寺から坂を16丁(1,7㎞)ほど登った瀧寺に参拝した。この寺は、東向きの高山にあり、近くに瀧がある。古寺の礎石が庭に散在している。本堂は五間で、本佛は弘法大師御作の千手観音と云う。この寺は大麻山の葵瀧のあたりにあったと伝えられている。 今はなにも残っていないが、同書には称名寺も載せている。 この寺はこの山の麓にあった寺院で、 今は地名のみが残っている。 

瀧寺のロケーションとしては、称名院から坂道を16丁ほど上った琴平山の中腹で、近くに瀧があると記します。この瀧は「葵の滝」と考えられてきました。本尊仏は、御作とあるので弘法大師作の千手観音菩薩だったとします。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとする研究者もいます。そうすると、道範は、千手観音と記しますので、ここには矛盾が出てくるようです。
 「琴平町の山城」は、瀧寺の位置について次のように記します
象頭山頂近くの「葵滝」の位置は、急斜面でとても寺が立地できる所ではない。(中略)
大麻山の東側中腹に東に向って派出した尾根の根元部鞍部を「木戸口」といい、これはその東向き尾根に戦国時代にあっ大麻山城の入口(虎口)のことである。(中略)
 平成12年4月22日(土)私たち5人は「大麻山城」の調査に行った。尾根に到着してから、松田ら三人は城の縄張図を採りはじめたが、私と淀川氏の二人はそれをせず、手持ち無沙汰だったので、「木戸口」そばに「瀧寺跡」の標識があったので、そのあたりをあちこち歩いてみた。「瀧寺」がどんな寺か当時知らなかったもののいわば時間つぶしの呈で歩いてみたのである。しかし寺跡の礎石や瓦なども見つからず、何も収穫はなかった。その辺りはやや平坦地で面積もかなり広く、寺院を建てるには適当な場所だと思った。
  として、大麻山城の「木戸口」の鞍部に「瀧寺」があったと推定します。
道範以後の称名院は、どうなったのでしょうか。
道範が称名寺を訪れてから約150年後の応永九年(1402)に撰集された『宥範縁起』に登場します。宥範は、以前にお話ししましたが「善通寺中興の祖」として、中讃では当時は最も尊敬された僧侶です。そこのころの宥範は、
「嘉暦二年(1327)……小松の小堂に閑居し給へり。」

と、隠退をしようとしていた時期でもあったようです。しかし、その高名・学識のために、それもかなわず、さまざまの仕事や要職に引っ張り出されます。隠居地としていた「小松の小堂」と称名(明)院は、同じ寺内か同義と研究者は考えているようです。なぜなら、『宥範縁起』の後段に次のような同様の記述が見えるからです。
「安祥寺の一流、底を極め、源を尽く給て、販国之後、小松の小堂に、生涯を送り御座す處に、…」

 と、あって宥範は余生を小松の地、なかでも大麻山近辺にある隠居寺で過ごすという意志が見えます。そして、この記述が、金毘羅と宥範を結びつける材料にもなったようです。
金刀比羅宮神饌田 御田植祭
  
   この後は、称名院の名は見えなくなります。
称名院という寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての地名だけが残ったようです。金刀比羅宮文書中の、慶長十四年(1609)9月6日付の生駒一正の判物に、
  「一 城山、勝名(称名?)寺如前々令寄進候事」

慶長十八年(1613)正月14日付生駒正俊判物に同文、同年同月16日付生駒家家老連署寄進状に、「……勝名寺林……」
 年未詳正月19九日付生駒一正寄進状に
  「照明(称名)寺山……」
 などと出てきます。現在の金刀比羅宮でも、この地を「正明寺神田御田植祭」のように「正明寺」と表記されています。
これらの「しょうみょうじ」は、称名院の遺称地と研究者は考えているようです。
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現在「正明寺」と呼ばれる旧地名の盆地状の場所を称名院跡であると町誌ことひらは比定しています。

 称名院を、道範が訪ねたときは、宝治二年(1248)の冬11月でした。
町誌ことひらは、そのころ、法然房の直弟であった讃岐出身の僧侶を紹介しています。京都九品寺の覚明房長西です。長西は、讃岐国三谷(飯山町)の出身で、19歳の時出家して法然房の門下となり、その後に九品寺流の派祖になった人です。29歳で師の法然がなくなると、諸国の高徳の僧を訪ねて行脚を重ね、讃岐を拠点に念仏布教を行います。讃岐での布教の時の弟子に、覚心、覚阿らがいたようです。これらの人々が讃岐で活動していた時期と、道範の配流の時期が一致することを町誌ことひらは指摘します。

 道範は、覚海に学びその門下四哲の一人として不二思想を身につけていたようです。また、真言念仏にも傾倒して『秘密念仏紗』を著し、念仏義も追及しています。つまり、念仏信仰に強い関心を持っていたことがうかがえます。ここからは、先ほど見た称名院の念仏者と道範は、かねてより親交があったと研究者は考えているようです。
 称名院の九品の庵室といい、念仏者といい、九品の浄土を思う浮かべるには、いいロケーションだったのではないでしょうか。彼らが、念仏布教ために法然の配流地である小松荘を選んだとも考えられます。そういう視点で見ると、浄土宗の文書に出てくる「讃岐国西三谷」は、「鵜足郡三谷(飯山町三谷)」か、もしかして「那珂郡三谷(琴平町)」、つまり、称名院かもしれないと研究者は考えているようです。その根拠としてあげるのが石井神社の由緒に、
  「……源朝臣重信、……那珂郡小松庄三谷に城を構へ」

 とあることです。小松庄に三谷という所があって、城を築くに相応しい土地だったようです。その地が後に、寺地となっていたという推理です。
最後に『古老伝旧記』は、称名院について、次のように記します。
当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。

 ここには、浄土信仰、念仏信仰の寺、西山の氏神としての称名院の姿が見えます。なお、金毘羅の民が氏神として祭ってきていた称明寺(称明院の後身?)の鎮守社が慶長年間(1596~)に廃絶します。それを継承して、旧小松郷五力村の氏神と大井八幡神社に祀ったと伝えられます。称名寺の鎮守社がこのエリアの産土神であったことがうかがえます。

この称名寺の管理権を握ったのが当時の長尾城主の甥である宥雅のようです。
宥雅は、この称名寺を拠点に新たな宗教施設を、この山に創建しようとします。そのために作り出したのが金毘羅神です。これは「綾氏に伝わる悪魚伝説 + インドの蕃神クンピーラ + 薬師信仰」をミックスした新たな流行神でした。これを、この称名寺の上方の岩穴付近に、松尾寺の守護堂として建立します。こうして、称名寺が「下の堂」、金比羅堂が「上の堂」という配置が出来上がります。しかし、それもつかの間、長宗我部元親の讃岐侵入で宥雅は堺に亡命を余儀なくされます。新設された金比羅堂は、南光院という土佐の修験者のリーダーの管理下に置かれることになります。そして、四国の修験道のメッカとして機能していくようになるのです。これは以前にも述べたとおりです。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
山本祐三「琴平町の山城」
町誌ことひら第1巻 中世の宗教と文化
参考文献


金刀比羅宮宝物館の十一面観音について
明治の神仏分離で、金毘羅大権現の仏像たちは全て追い出されて、金毘羅大権現は金刀比羅宮に変身しました。入札で引き取り手のある仏は、他の寺に移っていきました、引き取り手のないものは、燃やされたことが当時の禰宜であった松岡調の日記には書かれています。そして、金刀比羅宮には仏様はいなくなった・・・・はずなのですが二体だけ残されて、宝物館に展示されています。当時の金刀比羅宮の禰宜松岡調が、このふたつの仏だけは残すと決めた仏像です。金毘羅さんにとって、それだけ意味のある仏であったようです。
宝物館に行くと、松尾寺観音堂にあった十一面観音像が迎えてくれます。
11金毘羅大権現の観音
十一面観音(金刀比羅宮)
 もともとこの観音様は聖観音として伝来してきました。しかし、正面に立って見ると頭上の化仏が指し込められていた穴跡が見えます。聖観音ではなく、十一面観音だったことが分かります。

1 金毘羅大権現 十一面観音2
十一面観音(金刀比羅宮)
 左手に持っていた蓮の花を挿した花瓶も失われています。観音を乗せていた蓮華座もありません。よく見ると裳には華文を描いた彩色が残っています。
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         十一面観音(金刀比羅宮)
藤原時代前期の作とされて、今は重文指定を受けています。
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この十一面観音が神仏分離以前には、松尾寺の観音堂に安置されていたようです。

2.象頭山山上3 ピンク
本堂左側にあるのが松尾寺の観音堂

私はてっきり、この観音さんが本尊だとおもていたのですが、そうではないようです。江戸末期の『金毘羅参詣名勝図会』には、観音堂の本尊は「聖観音菩薩」で、この「十一面観音」は本尊の「前立て」として安置されていて、「古作」であると記されています。江戸末期には、化仏も失われ、花瓶も失われていたので、前立てとして脇役の位置に甘んじていたようです。

DSC01029観音堂

 さて、本題に入っていきます。観音堂が松尾寺の本堂として最初に創建されたのは戦国時代末でした。十一面観音の方は、それよりずっと古い藤原時代前期の作です。本堂と十一面観音の時代が一致しません。
金毘羅大権現観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂(讃岐国名勝図会)

ここからは、創建された本堂に、どこからか十一面観音を持ち込んできて、いつの時代からは聖観音とされていたことが分かります。

金毘羅観音堂略図
十一面観応が安置されていた観音堂平面図
 それでは、この十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか
まず考えられるのは、大麻山中にあった古刹の滝寺・小滝寺からやってきたという説です。

金毘羅宮の学芸員を長く勤めた松原秀明氏は「金毘羅信仰と修験道」の中で
①観音堂の本尊は、道範の『南海流浪記』に出てくる大麻山の滝寺の本尊を移したもの
②前立の十一面観音は、その麓にあった小滝寺の本尊であったもの
 滝寺とは、どこにあったお寺でしょうか。

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滝寺は現在の葵の瀧辺りにあったいわれる

奥社からさらに、大麻山方面へ工兵道が伸びていきます。この道は戦前の善通寺11師団の工兵たちが演習で作ったので、工兵道と呼ばれています。ほぼ水平のの歩きやすい山道で、野田院古墳辺りに抜けていきます。その途中に、切り立った屏風岩という崖があり、高さはありますが水量は乏しい瀧が現れます。今は地元では、葵の瀧と呼ばれているようですが大雨の降った後は見応えがあります。金毘羅さんの中で、私のお勧めポイントです。ここは修験者の行場としてふさわしいところで、象頭山に全国から集まった「天狗」たちの聖地だったところと私は考えています。

 滝寺と呼ばれた寺院の本尊は?
仁治四年(1243)事に讃岐に流された高野山のエリート僧侶、道範は讃岐での生活を『南海流浪記』に残しています。

史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記 洲崎寺版
 放免になる前年の宝治二年(1248)年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねた帰路に、琴平山の称名院に立ち寄ったことが次のように記されています。

「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった。院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきたようです。
 道範は念々房がいなかったので、その足で滝寺に参詣し、次のように記しています。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (『南海流浪記』)

ここから分かることは
①道範が秋も深まる11月末に滝寺を訪れたこと
②坂を1,6㎞ほど登ると東向きに瀧があり
③古い寺の痕跡を示す礎石も所々に残り  → 古代山岳寺院?
④本堂は五間四方で、千手観音を本尊(?)とする山岳寺院
  大きさが五間というと山中にあるにしては、立派な本堂です。注目したいのは本尊です。「本仏御作千手云々」で「御作」とあるので弘法大師手作りなのでしょう。「千手」とあるので千手観音菩薩と考えられます。しかし、研究者が注目するのは最後の「云々」です。これは伝聞で、断定の「也」ではありません。ここからは宥範は、実際には瀧寺の本尊の観音さまを見ていなかったとも考えられます。そうだとすれば

「金刀比羅宮所蔵の十一面観音像は、滝寺の本尊であった」

という説とも矛盾しないというのです。「本仏御作千手云々」をどう解釈するかの問題になります。

「滝寺の千手観音 → 松尾寺観音堂の十一面観音」説

は、紙一重で生き残っていることになります。実は、これは金比羅神の本地物問題とも関わってくることのようです。そして、研究者が頭を抱えている問題でもあるようです。ここでは十一面観音が滝寺からやって来たということは、認められない立場の研究者の説を見ていくことにします。

称名寺 「琴平町の山城」より
金刀比羅宮神田の上にあった称名寺

十一面観音は、麓の称名寺からやってきたという説もあります。
称名寺の本尊については、道範は何も記していません。江戸時代の多聞院に伝わる『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。

「当山の内、正明(称名)寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」

意訳すると
象頭山に昔、称名寺という古寺があり、大門や緒堂があった。地域の鎮守として信仰され、西山村の氏神も祀られていたという。本堂には阿弥陀如来がまつられている。それが今の院内の阿弥陀仏である。

 地元では、阿弥陀如来が祀られていたと伝えられます。浄土教の寺としての称名院の姿がうかがえます。ここには十一面観音が称名院にあった痕跡はありません。高野聖に近い念仏聖がいた気配がします。

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称名寺跡の祠
 近世以前の象頭山には、金毘羅神の出現以前に滝寺・称名寺や大麻山などの宗教施設があり、地元の人々の信仰の対象となっていたことが分かります。同時に、霊山として修験者の行場としても機能していたようです。しかし、十一面観音を本尊とする寺院は周辺には見当たりません。
 金比羅神を創出し、金比羅堂を建立した宥雅にとって、十一面観音はどうしても手に入れ、安置したい仏でした。なぜなら金比羅神の本地物は、十一面観音とされていたからです。十一面観音は、どこからやってきたのでしょうか?  その前に、金比羅堂建立について、触れておきます。
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称名寺跡付近から眺めた小松荘

 松尾寺及び金毘羅堂は、いつだれによって建立されたのか
 松尾寺の創建は、古代や中世に遡るものではなく戦国時代末のことであったと現在の研究者の多くは考えるようになっています。その根本史料としてあげられるのが松岡調の『新撰讃岐風土記』に紹介されている次の金比羅堂の創建棟札です。
 (表)「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉 
于時元亀四(1573)年発酉十一月廿七日記之」
 (裏)「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
ここからは次のような事が分かります。
①元亀四年(1573)に宥雅は、松尾寺境内に「金毘羅王赤如神」を祀る金毘羅堂を建てた
②その新築された堂と堂内で祀られた本尊の開眼法要の導師を高野山金剛三昧院の良昌が勤めた
 この棟札は、以前は「本社再営棟札」とされていました。しかし、この内容からは、金毘羅神が鎮座するための金毘羅堂を新しく建立したと読めるのです。「再営」ではなく「創建」なのです。
大麻山と象頭山 A
象頭山
松尾寺のある象頭山は霊山で、修験者の行場も数多くあります。
最初に、ここに行場を開いたのは熊野行者であったようで、熊野行者が祀る薬師如来を本尊として松尾寺が開かれたようです。そのため金毘羅堂では「金毘羅王赤如神」を祀っていても、松尾寺の本尊は薬師如来で、それを春族の宮毘羅大将をはじめとする十二神将が守るという形がとられていた研究者は考えているようです。

 しかし、金毘羅神の本地仏は十一面観音なのです。
十一面観音を本尊とする本地堂(観音堂)が新たに必要になります。そのため寛永元(1624)年までには観音堂が、現在の金刀比羅宮本社前脇に建ってられたようです。そして、ここに十一面観音を安置することで、金毘羅神の由緒の歴史性と正統性が確立されることになります。
次に導師を勤めた良昌とは、何者なのでしょうか?
高野山大学図書館蔵の『折負輯』は、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

とあって、ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺の管理も任されていたようです。天正8(1580)年に亡くなっていることが分かります。
 法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。また、島田浄土寺は、同寺旧蔵の『讃留王神霊記』には綾氏の氏寺記され、神櫛王の「大魚退治伝説」の発信地のひとつです。以前に、「金比羅神=クンピラーラ + 神櫛王伝説の悪魚(神魚に変身)」説を紹介しました。金毘羅堂落慶供養導師良昌と島田浄土寺・法勲寺と「大魚退治伝説」とを結ぶ因縁が、金毘羅信仰成立にも絡んでいると研究者は考えているようです。

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神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表) 
悪魚伝説については何度も触れましたが、できるだけコンパクトに紹介しておきます
  法勲寺には、寺院縁起として次のような悪魚退治伝説が、伝えられてきました。
 景行天皇の時代、瀬戸内海には呑舟の大魚が棲んでおり、舟を襲ってば旅客に莫大な被害を与えた。そこで朝廷では、日本武尊の子で勇猛な神櫛王(武卵王)に悪魚を退治させるように命じた。神櫛王はみごと悪魚を退治したので、讃岐国を与えられ国造としてこの地を守ったので、人々は彼を、讃留霊王と呼ぶようになった。讃留霊王が亡くなると、法勲寺の西に墓がっくられて讃留霊王塚と呼んで法勲寺が供養してきた。

というのが、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説の粗筋です。
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説

神櫛王の悪魚退治伝説
悪魚は退治されてもその怨念は鎮まらず、たたりとなって悪疫や争乱を引き起こします。そこで、悪魚の怨念を鎮めるために、退治された悪魚の屍が流れ着いたという坂出市の福江浜には、悪魚を祀る魚の御堂が建てられます。
 宥雅は56歳の時、無量寿院縁起を筆録しています。
その中には悪魚退治伝説が含まれていました。宥雅は、法勲寺に伝わる悪魚退治伝説のことをよく知っていたのです。宥雅は、西長尾城城主の弟とも甥とも云われます。彼は長尾氏一族の支援を受けて、1573年に松尾寺境内に金毘羅堂を創建します。その数年前の1570年頃には、十一面観音を本尊として祀る松尾寺を、長尾城主の長尾大隅守高家を始めとする一族の支援を得て建てます。
 新しく建立した松尾寺を守る守護神として、今までの三十番神では役不足と考えた宥雅は、強力な力を持った蕃神の勧進を考えます。その結果生み出されたのが流行神の金毘羅神だという説です。その際に、金比羅神の「実態」イメージとして借用したのが「悪魚退治伝説」に登場する「悪魚」でした。これを「神魚」としてイメージアップして、金比羅神へと変身させていったのです。

   その辺りのことを研究者は次のように、述べます
 大魚を、仏典のワニ神クンビーラや大魚マカラと融合させていかめしく神として飾り立てたのが、金毘羅王赤如神だ。写本した無量寿院縁起の中で宥雅は、悪魚のことを「神魚」だと記している。金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、仏典のクンビーラやマカラで飾り立てられた神魚であったといえる。古くよりワニのいない日本で、ワニとされたのは海に棲む凶暴な鮫であった。鮫=悪魚で、悪魚の姿は仏典に見える巨魚マカラと習合する事で巨大化し、呑舟の大魚となったといえよう。『大集念仏三昧経』には、「金毘羅摩端魚夜叉大将」とあって、ワニ神クンピーラと大魚の摩端魚(マカラ)を結び付けて、夜叉を支配する大将としていた。退治された悪魚は死して鬼神となり、夜叉=鬼神であったから、悪魚は夜叉の大将として祀られる事となった。

 以上をまとめると次のようになります。
①金毘羅堂の創建と悪魚退治伝説には密接な関連がある
②悪魚退治伝説は法勲寺の縁起であって、
③廃絶した法勲寺の寺宝類を預っていたのが良昌で、彼は島田寺も管理していた
④良昌は松尾寺内の金毘羅堂の開眼法要を行っている。
  この上に立って、研究者は次のステップに飛躍します。
松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺にあったのではないかというのです。そして、次のような仮説を立ち上げていきます。
①法勲寺の管理を委ねられた良昌は、その再建の機会をうかがっていた
②宥雅が松尾寺を建立することを聞いて、宥雅に十一面観首を譲ってその管理を頼んだ
③金毘羅堂の創建には、廃絶した法勲寺の悪魚退治伝説を受け継ぎ、後世に伝える期待が込められていた
つまり、現在の宝物館にある十一面観音は、もともとは法勲寺の本尊で、島田寺で保管されていた仏が、松尾寺本堂(観音堂)に持ち込まれたという説になります。
良昌が管理責任者だった頃の法勲寺は、どんな状態だったのでしょうか
法勲寺は室町後期に失火が原因で焼失して廃絶し、焼け残った仏像や聖典・仏具などを島田寺に預けていたと云います。しかし、島田寺も長宗我部元親の讃岐侵攻で焼けてしまいます。その後、生駒親正が讃岐の領主となって入国して高松に城をつくった時に、法勲寺は菩提寺として高松城下に移されてで再建されます。その法勲寺の属寺として、飯山の島田寺も再建されたようです。後に、法勲寺は親正の法名弘憲にちなんで、弘憲寺と呼ばれるようになります。
 再度確認しておくと良昌が法勲寺と島田寺の管理を任されていた頃、法勲寺は伽藍もお堂もない、状態で、焼け残った仏像や寺宝類を島田寺に預けていたと、研究者は考えているようです。
そのような中で良昌は、当時は島田寺に保管されていた十一面観音を宥雅に譲り、松尾寺で金比羅神の本地仏として祀ることを提案したのではないでしょうか。この時の良昌の頭の中には

松尾寺の本尊 薬師如来
=守護神 金比羅神 
=その本地仏・十一面観音

という図式があったのかもしれません。逆に考えると、十一面観音を本地物とする蕃神を新たな松尾寺の守護神とすることを、提案したのは良昌だったとも小説なら書けそうです。もちろん、悪魚伝説もセットになります。
 良昌にしてみれば、高野山にいて故郷の法勲寺や島田寺の荒廃には、心を痛めていたはずです。
そのような中で、悪魚伝説が金比羅神に姿を変えて伝えられることは、神櫛王=讃留霊王伝説を後世に伝え、ひいては綾氏創生伝説を引き継いでいくことにもなります。宥雅が松尾寺・金比羅堂を建立するのを聞いて、良昌は全面的な支援を行うことを決意したのでしょう。新たな地方寺院の建立に、故郷の讃岐の事とは云え、高野山のトップに近い高僧がやってくるというのは普通ではありません。そのくらいの背景があったと考えても不思議ではないでしょう。
もう一度、十一面観音を見てみましょう。
1 金毘羅大権現 十一面観音1

 蓮華座は失われていますが、その形態から十一面観音であることはとは明らかです。松尾寺の十一面観音は、もとは法勲寺のものという仮説はどうでしょうか。史料的な裏付けはありませんが、近世直前の金毘羅さんの動向を考える上では、私にとっては刺激剤となりました。
年表で宥雅と金比羅堂を取り巻く状況を最後に確認しておきましょう
元亀4年1573 宥雅が金毘羅宝殿を建立。良昌が導師として出席
天正元年1573 本宮改造。
天正7年1579 長宗我部元親の侵入を避けて宥雅が泉州へ亡命。
                土佐の修験者である宥厳が院主に
                元親側近の土佐修験者ブレーンによる松尾寺の経営開始 
天正9年1580 長宗我部元親が讃岐平定を祈って、天額仕立ての矢
       を松尾寺に奉納。
天正11年1583 三十番神社葺替。棟札には、「大檀那元親」・
「大願主宥秀」      
天正12年1584  讃岐は元親によって平定。
天正12年1584 長曽我部元親が仁王堂を寄進(賢木門改造)
                棟札の檀那は「大梵天王長曽我部元親公」願主は 「帝釈天王権大法印宗信」
 当時の象頭山は、三十番神、松尾寺、金比羅大権現の並立状態。

以上の仮説をまとめておくと次のようになります
① 松尾寺の観音堂の十一面観音は、松尾寺建立よりもずっ
  と古い藤原時代前期の仏像
② 松尾寺と金毘羅堂の創建は、宥雅と高野山金剛三昧院の
良昌の二人の僧侶の協力によって行われた
③ 良昌は法勲寺の寺宝類を管理する立場にあり、十一面観 音は焼け残った法勲寺の寺宝の一つであった

最後に高松に移され生駒親正の菩提寺となった弘憲寺について見ておきましょう
1 弘憲寺 讃留霊王G

 この寺には、江戸時代に描かれた讃留霊王(神櫛王)の肖像画があります。ここからは、弘憲寺が法勲寺を継承する寺であることがうかがえます。同時に、生駒藩時代には讃留霊王信仰が藩主によって広まっていた形跡もあります。

 弘憲寺の本尊は、平安時代の木像不動明王立像です。

木造不動明王立像|高松市
高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』は、この不動明王について、次のように記します。
 不動明王は、身の丈109センチの檜(ひのき)の一木造りで岩坐の上に立っておられる。頭の髪は、頂で蓮華(れんげ)の花型に結(ゆ)い、前髪を左右に分けて束ね、左肩から垂らす。腰には短い裳(も)をまとい、腰紐で結ぶ。このお姿から、印度の古代の田舎の童子の髪の結い方や服装がうかがわれる。額にしわをよせ眉をさかだて、左の目は半眼に右目はカッと見開く。いわゆる天地眼(てんちがん)で、左の上牙で下唇を右の下牙で上唇をかみしめ、忿怒相(ふんぬそう)をしている。不動信仰の厳しさを感じさせられる。
 全身の動きは少なく、重厚さの中に穏やかさを感じさせ、貞観彫刻から藤原彫刻への移行がみえる。旧法勲寺(ほうくんじ)(飯山町)から移されたと伝えられている。
この不動明王も、もともとは法勲寺にあったもののようです。不動明王は修験者の守護神ですから中世には、法勲寺や島田寺も修験者の寺であったことがうかがえます。しかし、修験者が守護神として身につけた不動明王は、空海によってもたらされた「新しい仏」で、白鳳・奈良時代にはいなかった仏です。奈良時代に開かれた法勲寺の本尊としては、ふさわしくありません。創建当時から本尊とされていたのは、不動明王以外の仏が本尊であったと考えるのが自然です。
それでは、法勲寺の本来の本尊は何だったのでしょうか
 第1候補として挙げられるのが観音菩薩です。そうだとすれば、金毘羅大権現の松尾寺の十一面観音は法勲寺のものであった可能性がでてきます。しかし、それを裏付ける史料はありません。あくまで仮説です。
松尾寺は別当寺として金毘羅大権現を祀り、この松尾寺の中心が観音堂でした
そういう意味では、十一面観音は金毘羅信仰の中でも重要な位置を占めていたわけです。そして、松尾寺は観音霊場でもあった痕跡があります。十一面観音は平安時代からの微笑を浮かべるだけで、その由来に関しては何も語りません。
参考文献
○松原秀明「金毘羅信仰と修験道」(守屋毅編『民衆宗教史叢書 金毘羅信仰』、雄山間発行、一九九六年)
○『琴平町史』巻一 (琴平町発行、一九九六年)
○「金毘羅参詣名勝図会」「讃岐国名勝図会」(『日本名所風俗図会 四国の巻』、角川書店発行)


金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

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丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
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真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

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金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
200017999_00083大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

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琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
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大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
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象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

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 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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