瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:稚児大師像

  善通寺御影とよばれる独特な弘法大師像について興味を持っています。

善通寺御影 香川県立ミュージアム
善通寺御影 香川県立ミュージアム

画は綿糸に節を多くもつ。肉身は朱線で描いて宍色に塗り、衣は、輪郭、文線ともに墨で描き、その描線は太く強い。鋭さをもつ目は虹彩を赤茶色とし、上瞼と目頭、目尻を群でぼかす。過去の修理に際し、柚木から天保三年(1832)の墨書銘が確認されている。それによれば、もと備前の法万寺にあったもので、先住増吽よる宝徳年間(1449~52)の真筆で、増吽自らが旧軸に「如生身(あたかも生身のごとし)」と賛を記していたという。眉が太髪と顎の剃り跡をのこして生身性を強く感じさせ、善通寺御影の遺例のなかでも異彩を放っている。

善通寺御影は、弘法大師の背景に釈迦が描かれているのが大きな特徴です。

空海の捨身行 我拝師山

これは空海が真魚と呼ばれていた幼少の時に捨身行を行った際に釈迦が現れて救ったというエピソードに由来するとされます。このエピソードは中世善通寺の信仰活動の原動力になったともされます。これを描いたのが東讃の与田寺の増吽とされます。増吽には「熊野信仰 + 弘法大師信仰 + 大般若経写経集団 + 仏画作成工房」など、さまざまな要素があったことは以前にお話ししました。増吽が弘法大師像を描くようになった頃の時代背景を知りたいと思っていました。そんな中で弘法大師像作成の変遷について、コンパクトにまとめられている文章に出会いましたので要旨をアップしておきます。テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。
 肖像には、生前に造られた寿像と、没後造られる遺像があります。空海の場合は、生前に造られた記録はないので、総て死後に作られたものになります。その中で一番古い肖像が高野山にあるとされます。それが空海が入定(生死の境を越えて永迎の眼想に入ること)の際に、佐伯直氏出身で空海の高弟・実恵(786ー847)が、真如親王(平城天皇の子で、空海の弟子)に描かせたという画像です。この真如親王筆とされる像が高野山の御影堂には安置されているとされています。この真如親王筆という画像は後世、弘法大師の肖像画の根本モデルとなるのもで、後世への影響は多大なものがありました。でも、実物を見た人はいないようです。しかし、それを写したというものがあります。

 高野山御影堂安置の根本画像第三伝(模写)として伝わるのは大阪・天野山金剛寺の弘法大師像です。
大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
                大阪・天野山金剛寺の弘法大師像
この画像は承安年中(1171~74) に創建された金剛寺御影堂の本尊像で、平安時代最末期の作とされます。この像を元に真如親王様の図様を「復元」すると次の通りです。
①茶褐色の柄衣 (人が拾てたぽろを税って作った袈娑)を縫い、
②斜めに描かれた背もたれのある椅子式の座(方形の床に、短い四脚を設けた台座)に
③ 花文様の敷物を敷いて坐し、
④右手は体を返して五鈷杵(インドの武器で先が五つに分かれた密教法具)を胸前にもち
⑤左手は 数珠を執る
⑥椅子の前には木履と、横には水瓶が置かれる
⑦顔は、右向かって左に少し振る
⑧頭立ちはふくよかで、後頭部が出っ張っている
この空海像は、体を正面に向け、頭部のみを右に振る姿です。こうした描き方は、高僧が後頭部が出っ張っている異相を持つ者が多いので、それを強調する構図であるともされます。どちらにしても真如親王モデルを元にして、数多くの像が産み出されていくことになります。

 空海像 高野山と善通寺の2つの様式

 初期の弘法大師像は単独で描かれるよりも真言八祖の一人として描かれたものが多いようです。
   空海は真言宗の法脈を示すために祖師たちの画像を持ち帰りました。それは空海の帰国の際に、曼荼羅とともに、師の恵果が宮廷画家の李真(りしん)らに制作させたものとされます。

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              長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
これが『請来目録』には、金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)・大広智(だいこうち)(不空(ふくう)・恵果(けいか)・一行(いちぎょう)の五祖師で、各三幅一鋪(三枚の絹を継いだ画面に描かれた掛幅)とあります。教王護国寺に伝わる真言七祖像のうち五幅が、これにあたるとされます。

真言七祖像 不空(東寺 国宝)
さらに、龍猛と龍智は帰国後の弘仁十二年(821)に空海が補作します。これに空海の像が加えられたのがいつのころかは分かりません。しかし、先に真言七祖像の様式に似せて空海像が描かれたことはうかがえます。

真言八祖像 室生寺
真言八祖像 室生寺 右下が空海
 
 空海の肖像が真言八祖の一体として描かれたものとしては、延喜四年(904)に建立された京都・仁和寺円盤院の障子に描かれたものが番古いようです。東京国立博物館には、この障子絵の影響を受けた「先徳画像」という平安時代の白描画像があります。ここでは、空海の肖像画が真言八祖像の一人として描かれるようになったことを押さえておきます。
 奈良国立博物館の真言八祖像を見ておきましょう。

真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像 不空 奈良国立博物館
真言八祖像のうち 金剛智
真言八祖像 金剛智(奈良国立博物館)

真言八祖像 恵果
真言八祖像 恵果

真言八祖像 空海 南海流浪記
真言八祖像 空海 奈良国立博物館 
 奈良国立博物館の真言八祖像について、研究者は次のように評します。
鎌倉時代のもので神護寺本に次ぐ大きさをもち、明快な象形と彩色による清爽な印象の作風を示し、保存も良好な一本として貴重である。恵果と空海は、椅子式牀座(しょうざ)に坐る真如親王モデルが普通であるが、ここでは他の六祖と同じ単純な形の四脚が付くのみの低い牀座に坐らせ、また履き物や水瓶の配し方についても、全体の統一感を重視する風が見受けられる。像をできるだけ大きく表そうとする点にも、構図の特色がうかがわれる。
香川県立ミュージアムの真言八祖像として描かれ弘法大師像を見ておきましょう。

真言八祖像の中の空海像 香川県立ミュージアム
        弘法大師像(香川県立ミュージアム) 真言八祖像のひとつ
香川県立ミュージアム本は室町時代の作とされます。この画像も真言八祖像の一福で、少し周囲が裁断されたところがあるようです。
 顔をやや右に向けて椅子式の座に坐し、右手に五鈷杵、左手に数珠をもつ姿です。真如親王モデルを踏襲しています。しかし、背もたれと肘掛けのない座に坐しています。 座面の濃紺の縁の四隅に方形布が描かれているので、座具は布製と研究者は推測します。その他の三祖師も布製座具です。敷物に坐す八祖像には實金剛寺(神奈川県)や洞光寺(長野県)のものがありますが、数は少ないようです。伸びやかなびやかな描線に穏やかな彩色、具の文様も丁寧に描かれ、室町時代初期までの制作と研究者は評します。
①全体的に真如親王様の図様を忠実に継承している。
②右手は掌を返して五鈷杵を胸前に構え、左手は数珠を執る
③右に振った頭部のふくよかで鼻や唇を小さく表した顔立ち
これを見ると、初期の大阪・天野山金剛寺像本の真如親王タイプをよく継承していることが分かります。平安末期までは、真言八祖像の一部として弘法大師像は描かれていたこと、それは真如親王様式を踏襲していること、そして真如親王モデル自体が真言八祖像の様式上にあることを押さえておきます。
ここまでを整理しておきます。
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 
             
真如親王様は真言七祖像の一部として生まれた。

ところが鎌倉時代後半期になると、様々な図様が描かれてくるようになります。

東寺 談義本尊 弘法大師像
東寺の談義本尊
その代表的なものが東寺に伝わる「談義本尊」像です。これは史料(「東宝記)から正和二年(1313)に後宇多法皇が東寺西院御影堂(弘法大師の肖像彫刻を祀る御堂)に施入されたものであることが分かります。姿は真如親王様と同じですが、背もたれのない椅子に坐っています。

水原堯栄「弘法大師御影」及び「宸翰英華」には次のように記します。

絹本着色。竪四尺五寸八分、横二尺五寸、
桐箱裏に寛延二巳巳年十月補修。于時年預。寶菩提院法印大僧都覺空。
軸の表装に後宇多院宸翰談義本尊。八祖様式、・・・線は潤達遒倒である。
念珠は百八果半装束様である。
床冗は四脚唐草模様金具附上に茵(しとね)をしいてある。
衣袈裟は香染衣である。
東宝記には「大師御影一鋪一幅、後宇多院宸筆、右談義本尊となして法皇施入これあり」等とあるによって明らかである。・

御影の上段には大師「御遺告」の中から後宇多院宸翰で次のように記します。

竊以大法同味興廢任機。師資累代付法在人。鷲峯視聽傳流中洲鐵塔傳教利見烏卯。探流尋源鑒晃討本。大唐曲成既有血脈。日本末葉何無後生。吾初思及于一百歳住世奉護教法。然而恃諸弟子等忩永擬即世也。但弘仁帝皇給以東寺。不勝歡喜。成祕密道場。努力努力勿令他人雜住。非此狹心護眞謀也。雖圓妙法非五千分。雖廣東寺非異類地。以何言之。去弘仁十四年五月十九日以東寺永給預於少僧勅使藤原良房公卿也勅書在別。即爲眞言密教庭既畢。師師相傳爲道場者也。豈可非門徒者猥雜哉・・・」

書き下し文では

ひそかにおもんみれば、大法は同味にして興廃は機に任せり。師資累代付法は人にあり。鷲峯の視聽(お釈迦様が霊鷲山で説法された法は)傳を中州(インド各地)に流る。鐵塔の傳教(南天の鉄塔からでた密教は)烏卯に利見す(すみやかにひろまった)流を探り源を尋ね晃を鑒みて本を討ぬ。(法の流れを探り、源泉を尋ね、暗夜に光の所在をよく考えてそのもとを求める)大唐の曲成に既に血脈有り。日本の末葉、何ぞ後生無んや(日本の真言宗の末徒としても、この教えを後世に伝えないことがあろうか)吾れ初めは思ひき一百歳に及まで世に住して教法を護り奉らんと。然而れども諸弟子等を恃んで永く即世んと擬す也。但し弘仁の帝皇給ふに東寺を以ってす。歡喜に勝えず。祕密道場と成す。努力努力他人をして雜住せしむる勿れ。此れ狹き心にあらず。眞を護るの謀也。圓かなる妙法なりと雖ども五千の分に非ず。廣き東寺といえども異類の地に非ず。何を以ってか之を言ん。去じ弘仁十四年正月十九日東寺を以って永く少僧に給預はる。勅使は藤原良房公卿也。勅書在別。即ち眞言密教の庭となること既に畢ぬ。師師相傳して道場とすべきもの也。豈に非門徒の猥雑すべきならんや。門徒数千万、併しながら吾後生の弟子等祖師吾顔を見ずと雖も心有る者は必ず吾の名号を聞き、恩徳の由を知れ。是吾、白屍の上に更に人の勞を欲するに非ず。密教寿命を護り継ぎ、龍華三庭に開かしめん謀なり。微雲間より見て信否を察すべし。是の時懃有る者は祐を得、不信の者は不幸ならん、努々」)」

 研究者が注目するのは、画像本紙の絹と肌裏紙の間に五輪塔の形の紙型が修理の際に発見されたことです。五輪塔は中世では「釈迦の遺骨=舎利(聖遺物)」とされていたので、弘法大師の姿そのものが舎利と同様に聖なるものとされていたことを示しています。弘法大師を神聖視する思想が、鎌倉時代後半にはますます深化していたことがうかがえます。
神野真国荘(こうのまくにのしょう)と呼ばれた高野山の根本寺領の一つにある遍照寺の弘法大師像です。
紀美野町津川の遍照寺
 遍照寺の真如様(しんにょよう)の弘法大師像

 謹直な描線で輪郭を描いた丁寧な作風から南北朝時代(14世紀)の制作とされます。高野山のまわりでは一番古い大師像になるようです。画像を本尊とすることは珍しいように思いますが、高野山壇上伽藍御影堂の本尊は真如自筆の弘法大師画像と伝えられるので、それを踏襲しているのかもしれません。この遍照寺弘法大師像からは、次のような情報が読み取れます。
①画面上部には、仏の姿を文字によって表す種子(しゅじ)という梵字が書かれていること。
②右から「アーク(胎蔵界大日如来)」「バン(金剛界大日如来)」「キリーク(千手観音)」「ソ(弁才天)」
③この種子は、高野山の鎮守の神である四社明神(丹生明神・高野明神・気比明神・厳島明神)を表したものであること
つまり、ここには「弘法大師 + 四社明神」で5人の神と人が描かれているということになります。弘法大師の方ばかり見ていると、四人の神を見落としてしまいます。しかし、この画像が表す内的世界は、高野山の象徴としての弘法大師と四社明神とが織りなす信仰世界、すなわち高野山浄土ともいえる大きな広がりを含んでいると研究者は指摘します。ここでは弘法大師像の新たな展開が始まっていることを押さえておきます。そして、次の段階になると四明神も姿を見せるようになります。
高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像と呼ばれている画像があります。

高野山金剛峯寺には、「問答講本尊」像
             高野山金剛峯寺の「問答講本尊」像
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席

これは中央に真如親王様の弘法大師像、その前方の左右に高野・丹生の両明神像を配した三尊形式の絵図で、その後には奥の院院廟境内と天野社が描かれています。この絵図は天野社で正応四年(1291)に始められた問答講の本尊として描かれたものと伝えられています。空海がやってくる前の高野山の先住者が信仰していた地主神(その土地の主となって守護する神)や、丹生(朱水銀)採掘者の信仰する丹生神と空海の神仏信仰思想を基に作られたものとであることは以前にお話ししました。このような流れは讃岐へも伝わってきます。

延命院弘法大師四社明神像
       延命院(三豊市) 弘法大師四社明神像 縦136㎝ 横43㎝ 14~15世紀
①右手に五鈷杵 左手に念珠
③弘法大師像の四隅に、高野山の地主神である四社明神像
④上部の色紙形に兜卒天にいる空海が各地に影向することを述べた「日々影向文」
四隅の四社明神像は、向かって右上が丹生明神、左上が高野明神、下段は右が気比明神、左が厳島明神とされます。四神に比べて主人公の弘法大師を大きく描かれています。上段二神の本地仏を表す梵字や、空海を高野山に導いたという二匹の犬のほか、獅子・狛犬などが描かれます。これも鎌倉時代以降の弘法大師入定信仰が高野聖たちによって全国に広められた中で登場してくるものです。「日々影向文」をする弘法大師像と、聖地高野山を象徴する四社明神像を組み合わせた図柄で、弘法大師には生きていることを表すために髭が描かれています。これを見せながら高野聖たちは「大師は生きている、どこにも現れ救ってくださる」と弘法大師信仰を説いたのかもしれません。それが四国霊場成立へとつながります。
 繊細な描線や彩色などから制作時期は南北朝から室町時代初期と研究者は考えています。この時期、弘法大師信仰がさまざまな形で各地に広がり、人々の心に届いていったことを押さえておきます。

神仏習合思想の影響下で製作されたものとしては、「互いの御影」と呼ばれる弘法大師像が有名です。
互いの御影 弘法大師と八幡神

互いの御影の八幡神
互いの御影 八幡神(神護寺)

互いの御影 弘法大師 神護寺
互いの御影 弘法大師像(神護寺)
京都・神護寺の所伝には八幡大菩薩と弘法大師が互いに御影を描いたとものとされます。ここでは当時の真言僧侶や修験者たちは、八幡神と弘法大師を混淆して信仰したことを押さえておきます。この絵の弘法大師は背もたれのない座に坐し、胸元を大きく開けずに、 襟をしめ、衣の袖から筒袖状の内衣があらわれるように描かれています。これもそれまでの真如親王像とは異なっている新しいタイプの弘法大師像です。
四国霊場八栗寺のもともとの本山とされる六萬寺にも弘法大師との神仏混淆を示すものがあります。

香川・六萬寺 熊野曼荼羅図 弘法大師との混淆
        六萬寺 熊野曼荼羅図 横103㎝ 横41㎝ 13~15世紀

熊野三山に祀られる祭神やその本地仏を描いたもので、85番札所八栗寺を奥院とする六萬寺に伝来するものです。三つに区画された部分に次のような仏たちが描かれています
A 中段 熊野十二所権現の本地仏と弥勒菩薩(満山護法)
B 下段 礼殿執(らいでんしつ)金剛を中心として、紅葉する自然景の中に九体熊野王子と座す弘法大師(右下隅の赤四角部分)
C 上段 岩山の中に役行者や大八大童子大威徳明王(阿須賀社)などが見え、右端に那智とその本地仏でる千手観音
 熊野曼荼羅にはモデルがなく信仰形態が変化すると、いろいろな図像が生み出してきました。この画中には弘法大師が描かれています。智証大師円珍を描いた天台系の聖護院本などに対して、真言系の修験に関わるもののようです。ここからは弘法大師信仰と熊野信仰が結びついていて信仰されていたことがうかがえます。一遍は熊野信仰と八幡信仰と阿弥陀信仰を混淆しようとしたことは以前にお話ししました。一遍の試みも、このような動きの上に立って立ってのことだったのかもしれません。
 「一部に補彩もあるが、張りのある的確な線で描かれており、南北朝時代から室町時代の作」と研究者は考えています。

日輪大師像 極楽寺
                 日輪大師像 極楽寺     
 赤い輪の中に紅蓮華の上に座した異形の空海御影です。姿勢や着衣、右手に五鈷杵をとるのは真如親王タイプの弘法大師像に同じですが、左手は掌に五輪塔ささげます。
研究者は次のように評します
日輪の上には小さな月輪、蓮華座の下には輪宝が敷かれ、さらに下方には蛇のようにうねる水波らしきものが描かれ、左右両袖に渦文を表すなど特異な図像である。画面上方に五字四行の文が隷書体で墨書されるが、今その判読は難しい。
 日輪大師は彫像も含めて数例で数は少ない。五輪塔は密教では万物を構成する地・水・火・風・空の五つを象徴的に造形化したものだが、弥勒の持ち物でもある。この図については、空海が高野山で永遠に瞑想を続け、弥勒が下生して生を救済するのを待っているという入定留身信仰を背景に作り出された物という説が出されている。
 密教の灌頂の影響を受けて神道でも灌頂が行われるようになります。その際に掲げられたのが日輪大師像でした。大師信仰の神道への波及という流れを示すものになります。

このような流れの中で登場するのが「善通寺御影」です。

善通寺御影(瞬目大師)善通寺
善通寺の瞬目大師像 
このタイプは先ほど見たように弘法大師自体は真如親王様と変わらないのですが、背景がちがいます。右上方に松山(我拝師山)が描かれ、その上に釈迦如来が現れています。これは弘法大師の我拝師山での捨身伝説が拡がりだしたあとに描かれるようになったものです。ここには善通寺の「弘法大師生誕地」の自己主張と布教戦略がうかがえることは以前にお話ししました。

こうした大師像とまったく異なるのが椎児大師像の出現です。

「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます。

「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」

意訳変換しておくと 
私が5、6際の頃に生まれた家にいた頃に、八葉蓮華の上に座って、諸仏と共に語る夢を見たものだ。しかし、そのことは父母は、もちろん他人に語ることはなかった。この間、父母はひとえに私をを慈しみ「貴物」と呼んだ。

ここに出てくる「諸仏と語る空海の姿」が映像化さたのが大師稚児像です。

稚児大師御影(ちごだいしみえ)※高野山霊宝館寄託2
 稚児大師御影(ちごだいしみえ)清浄心院蔵 高野山霊宝館寄託

箱書に「童形大師」と墨書する。空海が入定する前に弟子・信徒へ後世の為への戒めを25箇条にわたって示された遺言の「御遺告(ごゆいごう)」の中に「5~6歳の頃、蓮華座に座して諸佛と物語る」とあるのに基づいて図像化されたもの。
 袴を着けた垂髪(すいはつ:たれ下げた髪)姿の童形の空海が合掌し、蓮華座に座して、月輪を後背としている。稚児大師像と言えば、本図が普及しているが、中世以前の作例は少なく、清浄心院蔵の稚児大師御影は貴重である。


稚児大師像 兵庫・香雪美術館
             稚児大師像 十三世紀 兵庫・香雪美術館 
肩まで切りそろえた型の髪をきれいに揃えた小袖・袴姿の稚児姿の空海で、蓮華に座っています。蓮華は仏教では聖なる者を生み出す最も重要な花です。その台に座って合掌し、月輪の中に浮かぶ様子は、空海が幼少の頃から仏に近い聖性を備えていたことを象徴的に表したものです。
 また中世には童子を聖なる者とみなしていました。南無仏(なむぶつ)太子(聖徳太子二歳)像や稚児文殊像など童子が多く登場するようになります。こうした童姿の空海画像は「稚児大師」と呼ばれ、十数例が残されていますが、その中でも本作品は最も早い時期のものとされ重要文化財に指定されています。
 稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀
画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。

秘鍵大師
秘鍵大帥像
他にも「般若心経秘鍵」を根拠にして、空海が宮中で般若心経を講じる姿を表した図で、右手に剣、左手に念珠を持つ姿を描く秘鍵大帥像などいつかの型の弘法大師像があります。こうした様々な大師像は中世後期以後に製作されたものが多く、この時期になると多種多様な弘法大師像が描かれるようになります。
 さまざまな弘法大師の画像を見てきましたが、顔立ちや姿は真如親王様が大本になっていて、それを継承していることが改めて分かります。ここでは真如親王タイプの権威が、その後の弘法大師肖像の原形として影響力を持ち続けてきたことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①空海像死後に真如親王に書かれたという肖像画が一番古い
②初期の弘法大師像は真言八祖像の一つとして書かれたものが多く、その数は多くない。
③また様式は真如親王モデルを忠実に踏襲したものが多い
④鎌倉時代以後になって、新宗教の各教団が団結や布教のために教祖像を用いるようなる。
⑤この動きを受けて、真言教団でも弘法大師像が数多く描かれるようになる。
⑥それは真如親王モデルの枠を越えた広がりをもたらす。
⑦こうした中で、善通寺御影や稚児大師像、弘法大師の神仏混淆像などが現れる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

空海6
参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム

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 空海については、さまざまな伝説が作られ語り継がれてきました。それは、高野聖などによって各地に広められていったようです。では、その原型となったものは何なのでしょうか。それはひとつには、空海の生涯を描いた絵伝巻物ではないかと思います。巻物を通じて空海の生涯は語られ、伝説化し、それを口伝で高野聖たちが庶民に語ったのでないのでしょうか。そこで今回は、絵巻物で空海の生涯がどのように描かれ、語られてきたのかをみていくことです。
テキストは 小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊です。

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  まずは「誕生霊瑞」の段から見ていきます。

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孝徳天皇の御時、初めて佐伯の姓を賜はれり。其の祖、日本武尊に随ひて東夷(=蝦夷)を鎮めし功勲、世に覆ふによりて、讚岐国に地を班(わか)ち賜ひき。この所に家居して、胤葉相継ぎて、子孫県令たり。尊堂(母)は阿刀の氏の人也。
夢に天(竺国(=インド)より牢人飛び来りて懐に入ると見て、妊胎あり。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈七七四〉に当たりて、十二の建辰を満ち、十指の爪掌を合はせて、辛酉の日を以て誕生の瑞を示せり。懐妊月余つて、佳期歳に満ちしかども、着帯身を苦しめず、出産の事穏やか也。
彼の聖徳太子の斑鳩に述を垂れ、広智三蔵の神竜に生を降し給ひし奇異の佳祥も、知斯くやと覚え侍り。
意訳変換しておきます。
空海の生まれた佐伯直家は、孝徳天皇の時に、初めて佐伯の姓を賜わった。その祖は、日本武尊に随って東夷(=蝦夷)を鎮めた功勲が認められ、讚岐国に所領を得た。ここに家居して、子孫は県令を代々勤めてきた家柄である。母は阿刀氏出身である。
 母親が天竺(=インド)から聖人が飛んできて、懐に入る夢を見て、懐妊したという。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈774〉に、手を合はせて、辛酉の日に生まれるという吉兆を見せた。懐妊して、出産予定日を過ぎても生まれなかったが、母親は着帯などで苦しむことはなく、出産も穏やかであった。聖徳太子の斑鳩での誕生や、広智三蔵の神竜に生を降した出産もこんな様子だったのだろうと思える。
続いて、絵を見ていきましょう
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讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直田公の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。
広い庭には犬が飼われています。
けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿
板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。
その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母。

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空中に雲に乗った僧侶が描かれます。母君の夢の中に、インドより飛来した聖人が懐に入ろうとするシーンです。
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屋敷の裏手は、下部達の部屋。
寝乱れる男達の姿
早くも起き出した親子の使用人。
父は水を汲み馬屋に運び、子どもは箒で庭掃除

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中庭には厩があり、異変を感じた馬が蹄で床を蹴り上げます。
厩の屋根は板葺きで、重しに木が乗せられています。その向こうには、三鉢の盆栽が並んでいます。この絵巻が書かれたのは14世紀後半のこととされます。その頃には、禅僧達を通じて盆栽ももたらされていたようです。
ここまでの冒頭シーンを見ると、寝殿造りの本宅や厩があり、馬がいます。まるで中世の武士の居館を見ているような気になります。書かれた時代の空気がしっかりと刻印されています。「誕生霊瑞」は、旧約聖書の「マリア受胎告知」を連想させます。空海の誕生が神秘な物として描かれます。

御遺告
御遺告
「御遺告」は、空海が入定に先立つ承和二年(835)三月十五日に弟子たちに対する遺言を記したものと」されてきました。「御遺告」は二十五箇条本で、各項目に「題「目」を立て、弟子に伝えるべき事柄を示されています。第一条には「初示成立由縁起」と題し、東寺の密教道場としてのあり方を説く前段に、空海の伝記が語られます。幼年期の話として、以下の3つが語られます。
①諸仏と語らう夢を見たこと
②母親が空海を懐妊する際に天竺国の聖人が懐に入る夢をみたこと、
③泥土で仏像を作って拝んだこと
これらの逸話が弘法大師伝説の核となり、話が膨らんでいきます。

〔第二段〕    大師蓮華座に載って仏と話す

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大師、御年五、六歳の間、夢に常に八葉の蓮花の上に坐して、諸仏と物語すと御覧ぜられけり。しかあれども、父母にもこれを語り給はず。況や他人をや。
耶嬢(=父母)偏へに慈しみ奉りて、たな心(掌)の玉をも玩ぶが如し。御名をば、多布度(↓貴とうと)物とぞ申しける。
意訳変換しておきます
大師が五、六歳の頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(↓貴とうと)物と呼びました。
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蓮華上に座して仏達と夢の中で談話する大師
同じシーンを別の絵巻で見てみましょう。
弘法大師行状図画3
高野大師行状図画  蓮華に乗り仏と語り合うエピソードは「稚児大師像」のモチーフともなっていく

次は泥土で仏を作って礼拝した話です。

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十二歳の御時、父母相語り給ふ様、「我が子は昔の仏弟子なるべし。夢に大竺の聖人来りて、懐に入ると見て妊胎せり。しかあれば、この子を以て仏家に入れ、沙門となして釈氏を継がしむべし」と。幼少の御耳に是を聞き給ひて、深く喜ぶ御心あり。
幼き御歳なれども、更に芥鶏の遊び、竹馬の戯れなくして、常に泥上を以て仏像を作り、卓木を以て童堂を建て内に据へ礼拝するを事とし給ひけり。
意訳変換すると
十二歳の頃には、父母は「我が子は昔の仏弟子なのでしょう。夢の中に天竺からの聖人が飛来して、懐に入るのを見たら懐妊しました。そうならば、この子を仏門に入れ、沙門とて釈氏を継がさせましょうか」と、話し合いました。それを聞いて、大師は深く喜んだようです。
 幼いときから闘鶏や竹馬の戯れなどには興味を示さずに、いつも泥土で仏像を作り、卓木で堂舎堂を建て、内に据へて礼拝していました。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
高野大師行状図画の同じシーン
 
 できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。
真魚(弘法大師幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、安置する。
その後は地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。
〔第3段〕 四天王執蓋事」
朝廷から讃岐国に派遣された巡察使が、他の子どもたちと遊ぶ大師の後ろに四天王が従う様子を見て驚き、馬から降りて拝礼したという場面を描きます。これは御遺告にはない話です。

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されば、勅使を讚岐国へ下されたりけるに、大師幼くして、
片方の章子に交はりて遊び給ひけるを見奉りて、馬より下り、礼拝して日く、「公は凡加人にあらず。その故は、四人天王白傘を取りて前後に相随へり。定めて知りぬ、これ前生の聖人なりといふ事を」と。
意訳変換すると
民の愁いを問ひ、官吏の誤りを糺すために、当時は巡察使を地方に派遣していました。讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師は幼いので、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこういったというのです
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見える。あの方の前生が聖人であったことが分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童と呼ぶようになりました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
「四天王執蓋事」
 画面右には大師の頭上に天蓋を差しかける持国天はじめ、増長天、広目天、多聞天の四天王が大師を守ります。この左側には馬から降りた勅使が拝礼している様が描かれていますが省略します。

   以上が弘法大師行状絵詞の「誕生霊瑞」に描かれた空海の幼年期のエピソードです。
  東寺蔵の「弘法大師行状絵詞」十二巻本は、応安七年〈1274〉より康応元年〈1289〉までの15年の間に制作されたもので、弘法大師の絵伝の中では、もっとも内容の完備したものとされます。しかし、何かが足りないような気がします。
五岳我拝師山での捨身行のエピソードが抜けています。これを補っておきましょう。

弘法大師高野大師行状図画 捨身
      「誓願捨身事」(第四段)

六~七歳のころ、大師は善通寺の背後にある我拝師山から請願して身を投げます。そこに仏が出現して大師を受け止めたというシーンです。ここは熊野行者の時代から行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していたようです。西行や道範らも弘法大師修行の憧れの地であったようで、ここを訪れ修行しています。
 しかし、この弘法大師行状絵詞には載せられていません。

  稚児大師像の成立
 幼年期の空海を描いた像は、独立してあらたな信仰対象を生み出して行きます。それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになります。その例を見ていましょう。
稚児大師像 兵庫・香雪美術館
              稚児大師像 十三世紀 兵庫・香雪美術館 

肩まで切りそろえた型の髪をきれいに揃えた小袖・袴姿の稚児姿の空海です。空海が弟子たちにのこしたとされる「御遺告」には、五六歳の頃(私は)蓮花八葉にすわって仏たちと語り合う夢をよく見たという幼少期の回想が語られています。それを映像化したものです。蓮華は仏教では聖なる者を生み出す最も重要な花です。その台に座って合掌し、月輪の中に浮かぶ様子は、空海が幼少の頃から仏に近い聖性を備えていたことを象徴的に表したものです。
 また中世には童子を聖なる者とみなしていました。南無仏(なむぶつ)太子(聖徳太子二歳)像や稚児文殊像など童子が多く登場するようになります。こうした童姿の空海画像は「稚児大師」と呼ばれ、十数例が残されていますが、その中でも本作品は最も早い時期のものとされ重要文化財に指定されています。
 色、目鼻立ちがしっかりと描かれ、小袖の袖口からは赤い袖裏地がのぞきます。上方を見る瞳は力強く、その虹彩は青色を帯びており、人を超えた気配も感じられます。八葉蓮華の花びらの花もたおやかに描かれ、神秘的な気品に満ちていると研究者は評します。

稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀

画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます
「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」

 絵詞の文章が「弘法大師御遺告」の文章をそのまま引用しているのが分かります。ある意味、それを絵画で表現するのが弘法大師行状絵詞のひとつの使命であったのかもしれません。
専門家の評価を見ておきましょう。
禿型の髪はきれいに杭られ、白色の肌、上品な衣服が高貴な育ちにあることをイメージさせる。切金で縁どられた光輪の内部は、金泥と群青を塗る。著彩には明度があり裏彩色などの効果かとも思われる。白い小花文を散らした小袖は、褐色の地色の間に金泥を注している.髪部は濃い群青を塗った上に墨で細かく毛筋を描く。肉身を描く線は細く鋭い。目は、瞳を墨でくくり中心に墨をおき、虹彩を金泥で塗り、目尻と目頭には群青をぼかす。実在空海の幼少期の姿が、人間を超えて捉えられる。
 今度は善通寺の御影堂の稚児大師像を見てみましょう。
弘法大師稚児像
善通寺誕生院
 頭髪を美豆良(みずら)に結い、抱衣(ほうい)を着て、腹前に重ねた両手に五輪塔を捧げ持ち、木目をあらわにした着衣部には、金泥で雲文を描いている。美豆良を結った童子形の立像には、聖徳太子十六歳の姿をあらわした孝養太子像の作例が数多く知られているが、本像の形姿はその影響を受けたものと考えられ、また、腹前に捧げ持つ五輪塔は、弘法人師と同体とされる弥勒菩薩の図像に基づく表現とみなされる。ふつくらとした九顔の面相、わずかに厳しさをはらんだ表情などに理想化された弘法大師の姿をみてとることができる。

 寺伝では、大師の叔父・佐伯道長卿の作とされますが、専門家は江戸時代のものと考えているようです。江戸時代になって善通寺で作られた物のようです。 江戸時代になると善通寺では、空海やその父や母の像が作られ始めます。
その背景には、伽藍勧進のための開帳があったことは以前にお話ししました。
京都や江戸で開帳を行う際に、善通寺の呼び物は「空海誕生の地」です。そこで欲しい展示物は? と考えると空海の幼年期の姿や、その父や母の姿ということになります。開帳の目玉として、空海の稚児大師像は展示されるようになり、それが信仰対象にもなっていったようです。弘法大師信仰のひとつの発展系です。そして、父母像も登場します。
空海父 佐伯善通
  空海の父親は、現在の善通寺周辺にあたる讃岐国多度郡を本拠とした当地の有力豪族佐伯直氏の一族田公です。
空海母

 空海の母は、学者の家系である阿刀氏出身の女性とされます。
ちなみに現在も善通寺は父を善通とし、母を「玉寄姫」てしています。そのためこの像も善通公と「玉寄姫」像と呼ばれています。このふたつの専門家の評価を見ておきましょう。
ふたつの像は一木造で、「善通」公像は衣冠東帯を着けた貴族の姿である。母「玉寄姫」像は頭から衣を被り、薄い緑色の地に青海波風(せいがいは)の文様をあしらつた衣を身に着けている。それぞれの厨子には左記の銘文が陰刻され、高祖大師すなわち弘法大師の作とされるが、作風から江戸時代、おそらくは厨子が制作された明和八年(1771)をさほど遡らない時期の作と推定される。

空海の両親像があるのは、善通寺だけでしょう。
まさに誕生院にふさわしい像とも云えます。江戸や上方での開帳の際にも珍しくて人気を集めたようです。イエスとマリアのように母子愛を刺激するのかも知れません。
以上、弘法大師行状絵図の生誕と幼年期について見てきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

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