中世の修験者を追いかけていると讃岐水主神社の増吽に行き着き、彼が勧進僧侶として大般若経など写経に関わっていることを知りました。彼は、写経ネットワークの中心にいたことが、勧進を進める上での大きな力となってきたと思うようになりました。しかし、具体的に写経とはどんな風に進められていたのか、なかなかイメージが掴めません。そんな中で図書館で出会ったのが「古代の日本 文字のある風景」です。ここには、奈良時代に国家の政策として進められた写経事業が分かりやすくイラスト入りで説明されています。今回は、それを見ていこうと思います。時代は違いますが、奈良時代の写経事業の様子を見ていこうと思います。
奈良時代の仏教を押し進めてきた聖武天皇の母は、藤原宮子(みやこ)という女性でした。
彼女は、藤原不比等の長女で、光明天皇の母ちがいの姉にあたり、文武天皇(軽皇子)の夫人として、大宝元(701)年に首(おびと)親王(聖武天皇)を産んでいます。
彼女は、藤原不比等の長女で、光明天皇の母ちがいの姉にあたり、文武天皇(軽皇子)の夫人として、大宝元(701)年に首(おびと)親王(聖武天皇)を産んでいます。
宮子が亡くなったのは、天平勝宝六(754)年7月19日のことです。正確な年齢はわかりませんが、七十歳前後だったようです。聖武はこの時54歳です。聖武天皇は、この二年前に東大寺の大仏開限会を成功させたあとも、東大寺や国分寺の造営をはじめ、仏教興隆に力を注いでいきます。聖武が没するのは天平勝宝八(756)歳5月2日ですから、母を失った2年後に亡くなります。
藤原宮子が没すると、その直後から、造東大寺司の管轄下にあつた写経所で、梵網経(ぼんもうきょう)100部200巻(一部は上下三巻からなる)など1700巻の大量の写経事業が始められす。これらの書写事業は、宮子追悼のためのものであったようです。
大文化事業である写経行事は、どのようにして行われたのでしょうか?
奈良時代の律令国家には、律令の定めで公的な機関として「写経所」がありました。そこで、国家公務員が大量の経典を写経していました。いわゆる写経のプロ達がいたわけです。正倉院文書には700人を越える写経生の名前があるようです。写経生となるためには試字試験に合格しなければなりません。漢字に早くから親しむ環境が必要だったのでしょうか、その名前から判断すると渡来人やその子孫が大多数のようです。空海の母親の実家である阿刀氏も多くの写経生を輩出しています。写経生になると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執り写経にいそしんだようです。
当時は経巻需要はうなぎ登りでした。全国に展開した国分寺や国分尼寺にも多くの経典が必要です。鎮護国家として仏教の教義的な基礎を支えるために、また、さまざまな仏事に供するためにも、経巻は不可欠です。
当時は経巻需要はうなぎ登りでした。全国に展開した国分寺や国分尼寺にも多くの経典が必要です。鎮護国家として仏教の教義的な基礎を支えるために、また、さまざまな仏事に供するためにも、経巻は不可欠です。
写経所では、写経事業を進める上で事務帳簿を作り、上級官庁の造東大寺司などと文書でやりとりします。その結果、写経所の政所(事務局)には「写経所文書」といわれる文書類が残され、それが正倉院にしまい込まれることになります。正倉院文書の中で、もっとも多くの分量を占めるのが、この写経所文書のようです。この文書の研究が進むにつれて、写経事業がどのように進められていったのか、その実態が明らかになってきました。
藤原宮子の追善のための写経された経巻の制作過程を見ていくことにしましょう。梵網経は、今では中国で作られた偽経とされますが、この当時には、鳩摩羅什の訳と信じられ、大乗戒の基本的な経典として尊重されていたようです。
写経の準備をする
写経事業は、写経所に対して、GOサインが下りることから始まります。この時には、平勝宝六(754)年7月14日の飯高笠目(ひだかのかさめ)によって指示されています。飯高笠目とは、伊勢同飯高郡から都に出て、長く内裏に勤めていた女性のようです。当時の孝謙天皇に仕える高位の宮廷女官ともいえるのでしょうか。そうだとすると、この写経事業の真の発願主は、孝謙天皇であった可能性が高いようです。孝謙天皇の意を受けて、飯高笠目が写経の指示を与えたとしておきましょう。
写経に至るプロセスを見てみましょう。
①写経所は、写経指示を受けると、筆・墨・紙などの必要物資の見積もりを作成して、上級官庁の造東大寺司に提出②造東大寺司は、必要経費や必要物資を写経の発願主に請求③発願主から経費や物資が造東大手司を経由して写経所に送られてくる④7月25日に、写経用の経紙(色紙336張・穀紙3905張)と凡紙309帳が内裏から運び込まれた。これを櫃(木箱)に入れて運ばれ、写経所の責任者が立ち会って確認した上で、受け取った。⑤その2日後に、筆と墨が納入された。
巻物は、どのようにして作られたのか
運び込まれた紙の中で一番多い穀紙(かじかみ)とは、楮(コウゾ)の繊維で作った紙です。写経所に連び込まれた経紙は、1枚ずつバラバラの状態です。これが、案主の上馬養によって、装黄(そうおう) (=表具師)に割り当てられます。これを記録し帳簿も残っています。表具師達は、割り当てられた経紙を「継」「打」「界」の 3工程をへて、経文を書き写せる状態に仕上げ、書写用の巻物にしていきます。
「継」は、20枚の経紙を、大豆糊と刷毛で貼り継いでいく作業「打」は継いだ紙を巻物にして、それを紙などで包んでたたく作業「界」は、「継」「打」の工程をへた巻物に、定規を使って罫紙を引く作業
その後、巻物の右端に三分の一の大きさの紙を端継として貼って、それに仮の軸を付ければ、この段階での装満の作業は終わりです
写経を指示する
経師たちに書写を始めさせる前に、大切なものをそろえる必要があります。それは、写すべきテキストです。テキストは「本経」と呼ばれていたようです。案主(写経責任者)は、この写経事業にかかわる経師の数や、それぞれの従事予定期間などを考えあわせて、必要な本経の数を割り出し、それを事前に集めておく必要がありました。案主の犬馬養は、写経所に備えられている梵網経の数を調べ、不足分は、梵網経を所持している寺院などに借りだしを依頼したのでしょう。これに応えて、外嶋(そとしま)院という法車寺の附属施設から本経九巻が届けられた送状が残っています。
この写経事業には、全部で51人の経師が動員されています。案主の上馬養は、「充紙筆墨帳」という帳簿に、何月何日に、どの経師に上下巻それそれ何巻ずつわたしたのか、筆は何本わたしたのかなどを記録しながら、この作業を監督しています。
上馬養はこれとは別に「充本帳」という帳簿も作っています。こちらには、本経の支給巻数を管理・把握するための帳簿です。このように、案主は、充紙筆墨帳・充本帳という二つの帳簿で、経師たちの作業の内容と進行状況を把握していたことが分かります。
このシーンは案主が、充本帳と充紙筆是帳に記録しながら、経師たちに書写を指示している場面が描かれています。経師を呼び出して指示を与えます。「長く座って足がしびれる」という表現がみえるので、経師紙は、円座に正座して書写していたようです。
経文を書き写す
写経所には、経師(きょうし)・装黄(そうおう)・校正与などの写経にかかわる作業に直接従事する人々のほかに、事務を収りしきっていた案主や、雑使・仕丁などの事務作業にかかわる人々もいました。彼らは、家族のもとを離れて、写経所内に建てられていた宿所に長期にわたって寝泊まりしながら、連日、日の出から日没までの長時間、仕事をし続けています。
このうち「縁の下の力持ち」的な雑使と仕丁についても、研究者は視線を注ぎます。
雑使と仕丁には、衣服や食料などのさまざまな点で経師・装満・校生と待遇に差が付けられていたことが分かります。
雑使は、案主のもとで、文字通りさまざまな仕事を行いました。案主の手助け、造東大寺司や他の官司などへの連絡、よそから物品を受け取ってくること、市に物品を買い出しに行って運んでくることなどです。
仕丁は、律令の規定では、地方の郷(五〇戸からなる末端の地方行政単位)から 2人ずつ、三年交替で中央に送られて労役に服するものです。中央に集められた仕丁たちは、各官司にわりふられ、そこの仕事に従事しました。写経所では、食事の調理、風呂焚き、物品の運搬、案主の手伝い、その他さまざまな雑務を行っています。装填の仕事である「打」の作業を行うこともあったようです。 経師から雑使までは、ときどき休みを収って家族のもとに帰ることができましたが、地方から出てきている仕丁たちは、「一時帰休」なんてことはできません。ずっと写経所に泊まり込んだままでした。
経師たちの仕事をみてみましょう。
作業量については、
①筆の速い経師で 1日に5900字程度、②おそいものでも2300字ぐらいで、③平均して一日に2700字ほどを写しています。
奈良朝写経の謹直な字体で、長期間作業を続けていたことを思い浮かべると、かなりたいへんな作業だったと思えます。根気と精神的な緊張感が求められる作業です。いや、作業ではなく仏への奉仕・祈りと考えていたのかも知れません。
経師たちには、食料のほかに、布施(給料)が布(調布=調として徴収された布)、または銭貨が支給されていました。この布施は、時間給ではなく出来高払いでした。そのため多くの布施を受け取ろうとすると、それだけたくさん写経しなければならず、当然労働時間も長くなります。
しかし、ただ早く多く書写すればよいとわかではありません。誤字・脱字・脱行に自分で気付いて訂正すればペナルティーはありませんでしたが、それを見逃して後の校正作業で見つかるとペナルティーが科せられたました。給料天引きで布施から差し引かれたようです。
書写が終わると経師達は、本経と共に案主に提出します。この時に残った紙や墨なども記録され返却されています。案主は、受け取ると、これを貼り継いで手実(しゅじつ)帳という記録簿を作っています。そして、その記載に誤りがないかを、提出された経巻や他の帳簿類と突き合わせながらチェックしています。
硯は装飾のあまりない円面硯が用いられたようです。書き誤ったときには、刀子(小刀)で削って訂正しました。そのため机の上には、硯・筆・墨・水滴・刀子などが置かれていたはずです。
作業の一段落ごとに、書写した経巻と本経は一緒に返却します。この時、経師は自分の仕事量を記した手実(記録)もいつしょに提出しています。案主は、手実を貼り継いで継文とし、その内容を充本帳や充紙筆墨帳などつきあわせてチェックします。細かい点検が行われていることに、驚かされます。
作業の一段落ごとに、書写した経巻と本経は一緒に返却します。この時、経師は自分の仕事量を記した手実(記録)もいつしょに提出しています。案主は、手実を貼り継いで継文とし、その内容を充本帳や充紙筆墨帳などつきあわせてチェックします。細かい点検が行われていることに、驚かされます。
経師による書写が終わると、つぎは校正です。
案主に提出された経巻は、すぐに校生による校正作業にまわされます。この写経事業の校正作業は八月四日からはじまり、八月八日に終了しています。チェックしたのは7800になります。これに従事した校生は7人で、初校と再校の2回行われています。案主の上馬養や呉原生人も、校正作業に従事していたようです。
史料によると、校生たちの 一日あたりの校正紙数は平均して約230張です。一張には、 行17字25行として425字程度が書かれています。そうすると400字詰め原稿用紙約250枚程度になります。今の小説一冊分ほどでしょうか、かなりの作業量です。校正は相当なスピードで行われたことがうかがえます。校正で誤りが見つかるとペナルティーが科されることなっていました。その基準も決められています。
校正が終わると、校生たちは本経と書写された経巻をまとめて案主に返します。これには、勘出状(校正結果の報告書)が添えられていたようです。案主は、提出された経巻や校帳その他の帳簿類をここでもチェックします。
経巻に仕立てる
脱落や誤字の校正作業が終わると、いよいよ経巻に仕上げる最後の工程です。この工程には、ふたたび装黄(表具師)が登場します。記録帳簿よると、仕上げ作業は8月4日から始められています。校正の開始日も同じ日でから、校正がすんだ巻物から流れ作業のようにどんどんまわされてきたことが分かります。作業は8月7日に終了したようです。仕上げの終わった経巻は、案主のもとに返されます。
案主は、経巻を題師にまわして題を書き込ませす。
出来上がった経巻にタイトルを買い込むのは、名誉であると同時に緊張感のある仕事だったでしょう。経師の中で、特にすぐれたものが担当したようです。
出来上がった経巻にタイトルを買い込むのは、名誉であると同時に緊張感のある仕事だったでしょう。経師の中で、特にすぐれたものが担当したようです。
こうして藤原道子追悼の経典写経事業は完了します。
この経過を見て、まず気づくのが組織化された集団がプロとして作業に当たっていることです。写経所という組織が、律令という国家体系に基づいてとして整備されたもので、その国家組織を一部分とりだして見ているような気がしてきます。同時に文書が国家管理手法として大きな役割を果たしていると云うことです。
参考文献
「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社
この経過を見て、まず気づくのが組織化された集団がプロとして作業に当たっていることです。写経所という組織が、律令という国家体系に基づいてとして整備されたもので、その国家組織を一部分とりだして見ているような気がしてきます。同時に文書が国家管理手法として大きな役割を果たしていると云うことです。
参考文献
「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社