浄土寺の落書

浄土寺
四十九番の浄土寺は落書で非常に有名です。
厨子に室町時代ごろの遍路の落書があります。本尊は釈迦如来です。
孝謙天皇の勅願で行基菩薩が作ったという縁起は信用がおけませんが、鎌倉時代に再興されたことは事実です。
このお寺を保護したのは、河野水軍の河野氏です。
河野通信という武将が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。熊野水軍が五百隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍は二百五十隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。

浄土寺
河野氏は大三島の大山祗神を一族の氏神にして、守護であると同時に神主を兼ねました。神主は普段は大三島にはおりません。承久の変が起こると、通信は二人の子どものうち長男は京方、次男は鎌倉方に味方させて、自分は長男とともに京方に付きました。承久の変が京方の敗北に終わっても、源頼朝による伊予半国の守護に任ずるという約束は守られます。
通信は斬罪から逃れて、奥州の北上のあ屹りに流されて、そこで死にました。いまの江刺市と北上市の境にある聖塚が通信の墓ではないかとされています。

『一遍聖絵』には、河野通信の孫の一遍上人がお祖父さんの墓を弔いに行って、行道念仏をしたときの景色が描かれています。一遍上人が坊さんになったのも、承久の変で家が没落したからだ、非常に武士的な気迫をもった坊さんであったのも、武将の家に生まれたからだという説もあるくらいです。
浄土寺に空也上人がしばらく留まっていたということから、浄土寺と浄土寺の西の日尾八幡という非常に大きな八幡さんとの間の、みかん畑になっている谷が空也谷と呼ばれています。

本堂の中には室町時代初期ぐらいの空也上人像があります。
こういう伝承があるところは、空也聖(阿弥陀聖)がいたところです。伝説では空也の墓は八つも九つも数えられていますが、それもおかしなことです。
空也聖は念仏を唱えながら諸国を歩いて、空也上人とほとんど同じことをしています。空也が亡くなったときに作られた『空也誄』という非常に信憑性のある伝記には、空也上人は峠で人馬が苦労していると、鍬をもって平らげて通りよくしたということが書かれています。
やがて空也聖が遊行をやめて定住するようになると、葬式を執り行う村が生まれました。そこには空也の墓と称するもの、あるいは空也堂と称するものがあります。
その村の人たちは本当に空也がそこに埋まっていると思って拝んでいたようです。空也聖たちは多少差別されたので、精神的なよりどころとして空也の墓谷や、空也堂を建てていたと解釈して間違いありません。
空也堂にまつっていた阿弥陀さんを三蔵院、あるいは三蔵寺と呼ばれた日尾八幡の別当寺に移して浄土寺という名前に変えたのではないかと推察できます。
そう考えないと、お釈迦様をまつったお寺を浄土寺というのはおかしいわけです。
浄土寺という名前に変わったのは、むしろ阿弥陀様の信仰が強かったということを示しています。

本堂の本尊の厨子に、室町時代の辺路修行折の落書きあり。
これは国宝ですから、めつたに拝観できません。
大永八年(1528)の年号が書かれた落書には、「金剛峯寺谷上惣識善空、大永八年五月四日」と書いてあります。高野山には、現在でも谷上という場所があります。そこの惣識とあるので、大永八年五月四日に善空という大が代表してお参りしたということだとかもいます。
その次は「金剛峯寺満口口同行六人、大永八年五月九日」という落書です。
現在のお遍路さんは、菅笠や札ばさみに「同行二人」と書いています。これは、一人でも弘法大師と二人で歩いているという意味ですが、昔は一人だけれども弘法大師と二人だ。したがって、三人で回ったら同行六人だという数え方はしないので、実際、六人で回ったようです。
その次は「享禄四年七月廿三日 筆 覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」とあるので、四人で参っています。その中でこの落書を書いた人物は覚円だとみずから語っております。

江戸時代に入ると、遍路という字と辺路という宇が混じって使われるようになります。そして、元禄年間以降になると遍路に変わります。
その次の落書には、「四国辺路同行四人川内口津住口覚円廿二歳」と書いてあるので、前の筆者と同じ筆者がもういっぺん自分の年を宣伝するために書いたものかもしれません。
その次に「三川同行口口遍路大永五年二月十九日」という落書の三川は三河です。
その次は平仮名混じりで「四国中えちぜんのくに一せうのちう八いさの小四郎」と書いてあります。「一せうのちう」というのはよくわかりませんが、越前の国の一つの荘の役をしていた八いさの小四郎という者が四国中を参ったということだとおもいます。

そのあとに「四国中辺路」が出てきます。
「四国中辺路口善冊口辺路同行五人のうち阿烏名東住人口大永七年七月六日」の烏は州と同じですから阿烏は阿波です。
それから、「書写山泉俊長盛口口大永七年七月吉日、なれ大師辺照金剛」という落書もあります。みんなでいろいろと書いたものです。