瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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4344103-26円珍
円珍(讃岐国名勝図会1854年)

円珍が書残している史料の中に、慈勝と勝行という二人の僧侶が登場します。
円珍撰述の『授決集』巻下、論未者不也決二十八に次のように記されています。
又聞。讃州慈勝和上。東大勝行大徳。並讃岐人也。同説約二法華経意 定性二乗。決定成仏加 余恒存心随喜。彼両和上実是円機伝円教者耳。曾聞氏中言話 那和上等外戚此因支首氏。今改和気公也。重増随喜 願当来対面。同説妙義 弘伝妙法也。
 
  意訳変換しておくと
私(円珍)が聞いたところでは、讃州の慈勝と東大寺の勝行は、ともに讃岐人であるという。二人が「法華経」の意をつづめて、「定性二乗 決定成仏」を説いたことが心に残って随喜した。そこでこの二人を「実是円機伝円教者耳」と讃えた。さらに驚いたことは、一族の話で、慈勝と勝行とが、実はいまは和気公と改めている元因支首氏出身であることを聞いて、随喜を増した。願えることなら両名に会って、ともに妙義を説き、妙法を弘伝したい

ここからは、慈勝と勝行について次のようなことが分かります。
①二人が讃岐の因支首氏(後の和気氏)出身で、円珍の一族であったこと
②二人が法華経解釈などにすぐれた知識をもっていたこと

まず「讃州慈勝和上」とは、どういう人物だったのかを見ておきます。
『文徳実録』の851(仁寿元年)六月己西条の道雄卒伝は、次のように記します。

権少僧都伝燈大法師位道雄卒。道雄。俗姓佐伯氏。少而敏悟。智慮過人。師事和尚慈勝。受唯識論 後従和尚長歳 学華厳及因明 亦従二閣梨空海 受真言教 

意訳変換しておくと

権少僧都伝燈大法師位の道雄が卒す。道雄は俗姓は佐伯氏、小さいときから敏悟で智慮深かった。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳・因明を学んだ。

ここには、道雄が「和尚慈勝に師事して唯識論を受けた」とあります。道雄は佐伯直氏の本家で、空海の十代弟子のひとりです。その道雄が最初に師事したのが慈勝のようです。それでは道雄が、慈勝から唯識論を学んだのはどこなのでしょうか。「讃州慈勝和上」ともあるので、慈勝は讃岐在住だったようです。そして、道雄も師慈勝も多度郡の人です。
 多度郡仲村郷には、七世紀後半の建立された白鳳時代の古代寺院がありました。仲村廃寺と呼ばれている寺院址です。

古代善通寺地図
  7世紀後半の善通寺と仲村廃寺周辺図
 佐伯氏の氏寺と言えば善通寺と考えがちですが、発掘調査から善通寺以前に佐伯氏によって建立されたが仲村廃寺のようです。伽藍跡は、旧練兵場遺跡群の東端にあたる現在の「ダイキ善通寺店」の辺りになります。発掘調査から、古墳時代後期の竪穴住居が立ち並んでいた所に、寺院建立のために大規模な造成工事が行われたことが判明しています。
DSC04079
仲村廃寺出土の白鳳期の瓦

出土した瓦からは、創建時期は白鳳時代と考えられています。
瓦の一部は、三豊の三野の宗吉瓦窯で作られたものが運ばれてきています。ここからは丸部氏と佐伯氏が連携関係にあったことがうかがえます。また、この寺の礎石と考えられる大きな石が、道をはさんだ南側の「善食」裏の墓地に幾つか集められています。ここに白鳳時代に古代寺院があったことは確かなようです。この寺院を伝導寺(仲村廃寺跡)と呼んでいます。
仲村廃寺礎石
中寺廃寺の礎石
この寺については佐伯直氏の氏寺として造営されたという説が有力です。
それまでは有岡の谷に前方後円墳を造っていた佐伯家が、自分たちの館の近くに土地を造成して、初めての氏寺を建立したという話になります。それだけでなく因支首氏と関係があったようです。とすると慈勝が止住していた寺院は、この寺だと研究者は考えています。そこで佐伯直氏一族本流の道雄が、慈勝から唯識論を学んだという推測ができます。

一方、東大寺の勝行という僧侶のことは、分からないようです。
ただ「弘仁三年十二月十四日於高雄山寺受胎蔵灌頂人々暦名」の中に「勝行大日」とある僧侶とは出てきます。これが同一人物かもしれないと研究者は推測します。
 慈勝、勝行のふたりは、多度郡の因支首氏の一族出身であることは先に見たとおりです。この二人の名前を見ると「慈勝と勝行」で、ともに「勝」の一字を法名に名乗っています。ここからは、東大寺の勝行も、かつて仲村郷にあった仲村廃寺で修行した僧侶だったと研究者は推測します。
智弁大師(円珍) 根来寺
智弁大師(円珍)坐像(根来寺蔵)

こうしてみると慈勝、勝行は、多度郡の因支首氏出身で、円珍は、隣の那珂郡の因支首氏で、同族になります。佐伯直氏や因支首氏は、空海や円珍に代表される高僧を輩出します。それが讃岐の大師輩出NO1という結果につながります。しかし、その前史として、空海以前に数多くの優れた僧を生み出すだけの環境があったことがここからはうかがえます。
 私は古墳から古代寺院建立へと威信モニュメントの変化は、その外見だけで、そこを管理・運営する僧侶団は、地方の氏寺では充分な人材はいなかったのではないかと思っていました。しかし、空海以前から多度郡や那珂郡には優れた僧侶達がいたことが分かります。それらを輩出していた一族が、佐伯直氏や因支首氏などの有力豪族だったことになります。
 地方豪族にとって、官位を挙げて中央貴族化の道を歩むのと同じレベルで、仏教界に人材を送り込むことも重要な意味を持っていたことがうかがえます。子供が出来れば、政治家か僧侶にするのが佐伯直氏の家の方針だったのかもしれません。弘法大師伝説中で幼年期の空海(真魚)の職業選択について、両親は仏門に入ることを望んでいたというエピソードからもうかがえます。そして実際に田氏の子供のうちの、空海と真雅が僧侶になっています。さらに、佐伯直一族では、各多くの若者が僧侶となり、空海を支えています。
そして、佐伯直家と何重もの姻戚関係を結んでいた因支首氏も円珍以外にも、多くの僧侶を輩出していたことが分かります。

円珍系図 那珂郡
円珍系図 広雄が円珍の俗名 父は宅成  

空海が多度郡に突然現れたのではなく、空海を生み出す環境が7世紀段階の多度郡には生まれていた。その拠点が仲村廃寺であり、善通寺であったとしておきます。ここで見所があると思われた若者が中央に送り込まれていたのでしょう。若き空海もその一人だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  佐伯有清 円珍の同族意識 智証大師伝の研究所収 吉川弘文館 1989年」

   弘法大師御遺告 文化遺産オンライン
御遺告
かつて空海の得度・受戒は「20歳得度、23歳受戒」説が信じられてきました。
それは真言宗教団が空海自筆として絶対の信頼をおく『御遺告』に次のように記されているからです。

二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一
意訳変換しておくと
空海二十歳の時に、岩渕の僧正を招いて、和泉国槙尾山寺に出でた。ここで髪を下ろし、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらた。その名を教海と称し、後に改めて如空とした。

『御遺告』はかつては自筆であるされていましたが、今ではあまりにもその内容に矛盾があって疑わしいとされるようになっています。早くは契沖阿閣梨なども『応需雑記』で偽作であるとのべ、新義真言宗豊山派の学者のあいだでも、否定説が強くなります。権田雷斧師は次のように述べます。

「断じて云く、御遺告の文章頗るほ指俗習にして、空海の詩文集等の文章と対照せば、甚拙劣粗荒なること火を見るが如し、具眼の人、誰か高祖の真作と信ぜん。否信ぜんと欲するも能はざるなり」(豊山派弘法大師一千年御遠忌事務局『文化史上より見たる弘法大師伝』(昭和八年)所載)

御遺告1P
御遺告
 『御遺告』という宗教的権威から解き放たれて空海の出家を考える研究者が現れるようになります。その場合に、史料学的となるのは公式記録である①『続日本後紀』(巻四)の空海卒伝と、空海自著である②『三教指帰』と③『性霊集』の3つになるようです。
①の『続日本後紀』の空海卒伝は、825年3月21日の入滅をうけて、25五日に大政官から弔問使発向とともにしるされたものです。
これ以上に確かなものはない根本史料です。空海卒伝は嵯峨太上皇の弔書にそえられたもので、空海葬送の棺前でよみあげられた追悼文の一部と研究者は考えているようです。内容も、簡明明瞭で要をえた名文で、『御遺告』の文章の比ではないと研究者は評します。このなかに、次のように記します。
「年三十一得度 延暦二十三年入唐留学

ここには31歳で得度したことが明記されています。教団の出す大師伝出版物は、かつてはこの「三十一」の横に小さく「二十一カ」を入れていたようです。しかし、「続日本後紀』の本文にはこれがありません。真言教団からすれば空海が、大学退学後に得度も受戒もせずに、優婆塞として放浪していたことは認めたくなかったようです。また、空海が31歳ではじめて公式得度して沙弥となった中年坊さんであるとは、教団の常識からすると考えらないことだったのかもしれません。のちには公式文書も、この31歳を得度ではなく、受戒(具足戒をうけて比丘僧となる)の年としてきました。かつての真言教団は『御遺告』と矛盾するというので、31歳受戒説さえも無視してきたことを押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
空海得度を記した度牒官符(太政官符)

 『続日本後紀』の31歳得度説については、以前にお話ししましたので簡単に要約しておきます。
江戸時代の『梅園奇賞』という書が、石山寺の秘庫で見たという空海得度の度牒官符(得度をみとめた公式記録)を影写して載せています。これは805(延暦24年)9月11日付で、空海の名前が見えますす。この日付は、空海は入唐中で、長安で恵果阿閣梨から金胎両部の灌頂をうけたころになります。つまり、日本にはいない頃です。度牒の内容は
①留学僧空海が、延暦22年(あとで、23年と書き人れ)4月7日に出家得度して沙弥となったこと
②それを延暦24年の日付で、2年後に証明したものであること
この内容については、優婆塞だった空海が入唐直前の31歳で得度して、その手続きが2年後に行われたことが定説化しているようです。
この度牒の奉行をした正五位下守左少弁藤原朝臣貞嗣、左大史正六位武生宿而真象も実在が証明されています。貞嗣の官位も「公卿補任」でしらべるとぴつたり合うようです。この度牒の史料的確実性が裏付けられています。

三教指帰 冒頭
三教指帰冒頭部
 空海(真魚)は『三教指帰』序に、次のように記します。
志学(十五歳)にして上京し二九(十八歳)にして櫂市(大学)に遊聴(遊学)した、

しかし、それ以後の31歳まで13年間の生活を、空海はまったく語りません。
大師伝にのせられた諸種の「伝説」も見ておきましょう。
①弘仁上年(816)「高肝山奏請表」(『性霊集」巻九)
「空海少年の日、好て山水を渉覧す」

②『三教指帰』序
「優に一沙門あり。余に虚空蔵求聞持法を呈す。(中略)阿国(阿波)大滝嶽に踏り攀じ、土州(土佐)室戸崎に勤念す」「或るときは金巌(加面能太気(かねのたき)=吉野金峯山)に登り、而して雪に遇ふて炊填たり。或るときは石峯(伊志都知能太気(いしつちのたけ)=石鎚山)に跨つて、以て根を絶つて戟何たり

これらをみると廻国聖の修行姿を伝えるものばかりです。これらの記述に従って多くの書物が「大学退学後の空海の青年期=山岳修行期」として描いてきました。
三教指帰(さんごうしいき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

『三教指帰』一巻下に登場する仮名乞児(かめいこつじ)は、若き日の空海の自画像ともされます。

その仮名乞児が次のように云っています。
阿畦私度は常に膠漆(こうしつ)の執友たり。光明婆塞は時に篤信の檀主たり

ここからは仮名乞児が私度僧や優婆塞と深くまじわっていたことが分かります。そして彼は割目だらけの本鉢をもち、縄床(御座、あるいは山伏の引敷)をさげ、数珠・水瓶・錫杖を手に、草履をはいた行装だったと記します。
「三教指帰」(巻下)には、罪あるものの堕ちる地獄のありさまをくわしく語っています。
これも景成の「日本霊異記』にみられるような堕地獄の苦を説く唱導に似ています。ここから研究者は、空海は勧進もしていたのではないかと推察します。
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性霊集 益田池の部分
『性霊集』には、空海のつくった「知識勧進」の文がたくさんおさめられています。
その中には万濃池(讃岐)、益田池(大和)などの社会的作善があります。ここからは空海が律師・僧都の栄位を得ても、勧進聖的活動をわすれていない姿が見えます。他にも勧進関係の場面を挙げて見ると
①『性霊集』1巻8には、油や米の寄進をえて一喜一憂したこと
②「知識華厳会の為の願文」には、勧進願文の常套文句がもちいられていること。
③「高野山万燈会の順文」も、万燈会で一燈一灯を万人の作善であつめること
④「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」では、「一塵は大嶽を崇うし、 滴は広海を深うする所以は、同心豹力の致す所なリ。伏して乞ふ、諸檀越等、各々銭一粒の物を添へて、斯の功徳を相済ヘ」
と記されていること、
⑤同書(巻九)には「東寺の塔を造り本る材木を曳き運ぶ勧進」があること
⑥「鐘の知識を唱うる文」「紀伊国伊都郡高野寺の鐘の知識の文」などもあること、
以上からは空海には、優婆塞聖として知識勧進に関わった経験があることが裏付けられます。こうした空海の勧進の手腕を見込んで、嵯峨天皇は当時資金難でゆきずまっていた東寺の造営を委ねたとも考えられます。すぐれた勧進者は東大寺を再建した重源のように、土木建築や彫刻に秀でた配下の聖集団をもっていました。空海もやはり勧進聖集団を統率していたと考えることができそうです。だからこそ土木事業から仏像制作にいたるまで、いろいろな場面に対応できたのかもしれません。空海の消息をあつめた『高野雑筆』には、康守・安行のような勧進聖とみられる弟子も出てきます。
このように空海の18歳から31歳で入唐するまでの伝記のブランクは、優婆塞聖の生活を送っていたと研究者は推測します。
空海の庶民仏教家としての基礎は、このときに形成されたのではないでしょうか。数多くの社会事業もそのあらわれです。もちろんこの期に、顕密の学業や修行をつんだでしょうが、それはあくまでも私度優婆塞中のことです。そのため大師伝作者は、幼少年時代と入唐後の行跡をくわしく語りながら、青年時代は空白のまま残したのかも知れません。
 この空海の青年時代は、のちに現れる高野聖の姿にダブります。空海の衣鉢をついだのは、高野山の学僧たちだけでなく、高野聖たちも空海たらんとしたのかもしれません。

以上を整理しておくと
①真言教団は、空海の得度・受戒について『御遺告』に基づいて「20歳得度、23歳受戒」説をとる。
②しかし、学界の定説は『続日本後紀』の空海卒伝に基づいて「31歳得度」説が有力になっている。
③大学退学後、入唐までの空海青年期は謎の空白期で、史料は「山岳修行」以外には何も記さない。
④青年期の空海は優婆塞として、山岳修行以外にもさまざまな勧進活動を行っていた気配がある。
⑤そして、帰朝後は土木工事や寺院建設、仏像制作など多岐にわたる勧進集団を、配下において勧進活動も勧めた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献       テキストは「五来重 優婆塞空海   高野聖59P」
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空海の生涯は謎だらけなのですが、その中の一つが、いつ出家・得度を受けたかです。これについては、『遺告二十五ヶ条』には次のように記します。
二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一.

 遺告二十五ヶ条は、空海の言葉を記したとされてきましたので、真言宗にとっては疑うことの出来ない「聖書」でした。そのため「二十の年に及べり」から空海の得度については「二十歳得度」説がとられてきました。この説だと大学を途中で退学して、正式に出家した後に山林修行に入り、四国の山や海で修行をしたことになります。
 ところが戦後になって、「三十一歳得度説」が有力視されるようになってきました。

この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
年三十一にして得度す。
延暦廿三年入唐留学し、青龍寺恵果和尚に遇い、真言を稟け学ぶ。(中略)
化去の時、年六十三

ここには空海が31歳で得度し、延暦23年(804)に入唐したと記されています。「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」と、得度と人唐を書き分けていますので、このふたつが連続はしているが同時ではなかったとされてきました。つまり、入唐直前に得度したというのです。留学僧に選ばれ入唐するために、慌てて得度したようにも思えてきます。
 また、31歳まで得度していなかったとすると、四国での山林修行は正式の僧侶としてではなかったことになります。さらに踏み込むと、空海が仏教に正面から向かい始めたのはいつからなのかという問題にもなります。それは二十歳という早い時点ではなかったことになります。

もうひとつの問題は、空海の31歳が何年に当たるかです。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
 しかし、得度した31歳を、何年のこととするかについては、現在では延暦22(803)年説と23(804)説の2つがあります。どちらにしても、空海の出家は入唐と密接なかかわりがあるようです。今回は、空海の出家と入唐の関係を見ていくことにします。テキストは  武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の入唐留学については、次のように考えられてきました。
第16次遣唐使の第一回目は、延暦22年(803)4月16日に難波津を出帆します。ところが5日後に、瀬戸内海で暴風に遭って航行不能となります。そのため、この年の派遣はやむなく中止されます。この時には空海は乗船していなかったとされてきました。
 嵐に遭ったものは不吉だとして、渡航停止を命ぜられた留学僧の欠員補充のため、新たに選任された一人が空海だと云うのです。つまり、延暦23(804)年の第二回目の出帆に間に合わせるために「急遠あつめられた」のが空海だったという説です。
空海の出家・入唐の根本史料としては、「空海卒伝」以外に次の2つがります。
①延暦二十四年(805)九月十一日付太政官符(「延暦二十四年官符」)
②大同三年(808)六月十九日付太政官符(以下、「大同三年官符」)
今回は①の延暦24年大政官符を中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文を見ていくことにします。延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年大政官符(中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文)

□政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位
      上佐伯直道長戸口同姓真魚
右、去延暦廿二年四月七日出家□□、□
□承知、依例度之、符到奉行、
□五位下守左少丼藤原貞副 左大史正六位上武生宿爾真象
延暦廿四年九月十一日

「去る延暦廿二年四月七日出家口□」の日付は、空海卒伝の「年三十一にして得度す」の年とぴったりとあいます。つづいて、「省、宜しく承知すべし。例に依って之を度せよ。符到らば奉行せよ」とあります。この官符の趣旨は延暦二十二年(803)四月七日に出家した空海に、前例に準じて度牒を発給するよう、太政官から治部省に命じたものです。根本史料と云われる由縁です。

短い通達文ですが、それまでになかった空海についての次のような重要な情報がいくつも含まれています
①空海の本貫が讃岐多度郡方田郷であること
②空海の戸主(戸籍筆頭者)が正六位上 佐伯直道長であることで位階をもっていること
③空海の幼名が真魚であること
④延暦22年4月7日に出家したこと

この「延暦二十四年官符」が注目されるようになるまでは、空海の出家は22歳のことだとされていました。それがこの史料の出現で大きく揺さぶられることになります。旧来の立場からは偽書説も出されてきました。
空海 太政官符

この太政官符は、本物なのでしょうか?
この太政官符は、今は大和文華館に収蔵されているようです。この史料が知られるようになったのは、案外新しく戦後のことのようです。本当に本物なのでしょうか、偽書ではないのでしょうか?。研究者が、この史料をチェックして、どう評価しているのかを見ておきたいと思います。

「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
空海 太政官符2
「延暦二十四年官符」野里梅園編『梅園奇賞』所収

「延暦二十四年官符」が、はじめて紹介されたのは、文政十一年(1828)に発行された野里梅園編『梅園奇賞』二集だったようです。
太政官符 野里梅園編『梅園奇賞』二集
野里梅園編『梅園奇賞』二集
右中に「石山寺什太政官符」とあるので、石山寺に伝来したものを手本として発行されたことが分かります。しかし、それが注目を集めることはありませんでした。この官符が注目されるようになったのは、戦後になってからのようです。
ヤフオク! -「中村直勝」の落札相場・落札価格
中村直勝博士蒐集古文書

 「再発見」のきっかけとなったのは昭和35年(1960)に、中村直勝氏が蒐集した古文書を収録した『中村直勝博士蒐集古文書』が出版されたことです。刊行時の解説は、簡略なものであまり注目を集めなかったようです。この中村直勝氏が蒐集した平安末期書写の案文を「中村蒐集官符」と研究者は呼んでいるようです。こうして、同じ内容の文書が2つ現れたことになりました。
『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」と「中村蒐集官符」は、どんな関係になるのでしょうか?
『中村直勝博士蒐集古文書』の解説は、次のような簡単なものでした。
「この案文の原本と思われるものが「梅園奇賞」二集に収められており、それも同じ個所が欠字になっている」

ここからは、これが「案文」であり、「梅園奇賞」所収のものが原本と考えられていたことが分かるだけです。そのためほとんどの研究家は無視したようです。
空海 朝日選書 461 (上山春平 著) / 株式会社 wit tech / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
 この問題を本格的に考察したのは上山春平氏でした。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
「虫損その他欠損部分の形状を入念に模写しているばかりでなく、文字の形まで実に精密に模写している」
文字を忠実に写した例として、「貞嗣」を「貞副」とする点と「朝臣」を右傍らに小さく追記してある。
つまり、「中村蒐集官符」が原本で、『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」が模写であるとしたのです。上山春平の報告で、この史料は広く世に知られるようになります。そこには、空海の得度が「延暦22年4月7日に出家」と明記さています。これは、それまで真言宗が採ってきた「二十歳得度」説を否定するものです。その結果、大きな反響を呼ぶことになり、「延暦二十四年官符」=偽作説まで出てきました。

空海 太政官符2

二つの史料を比べて見て、一目で分かるのは大政官印の有無です。
『梅園奇賞』所収の官符には「太政官印」が五つ描かれています。これに対して「中村蒐集官符」には全くありません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
それを実際に見た研究者は、次のように報告しています
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

一行目 上端の字は、従来推定されているように、「太」とみなしてよい。
二行目は、通常の官符どおり一字下げで始まり、 一字目は残画から「留」とみなしてよい。
二行割注の最後、「真魚」の「真」は「魚」を墨書した上に「真」を重ね書きしている。
三行目、下端の三字は、空海の出家・入唐にかかわる、この官符のもっとも重要な箇所であるが、残念ながら判読不能というしかない。
この史料を用いる場合の問題点を、研究者は次のように挙げます
第一 この官符が正文なのか、案文なのか
第二 空海の年齢が記載されていない点。
第二 解文が付けられていない点。
第四 「延暦廿二年四月七日」は作為的な改点か否か。
第五 官符の日付・延暦二十四年九月十一日をどう理解するか。
第一は、「中村蒐集官符」は正文・案文のいずれであるのか、の問題です。
研究者は「中村蒐集官符」は案文であるとします。その理由として挙げるのが次の3点です
①まず書写されたのはいつかという問題です。かつて、藤枝晃氏は紙質とその筆跡から、延暦二十四年(805)当時の原文書であるとしました。しかし、その後は平安末期ごろに書写されたものとみています。
②二つ目は、正文であれば自分の署名は自著するはずなので、書き誤ることはありません。ところが「中村蒐集官符」では、「貞嗣」を「貞副」と書き、「朝臣」を傍書しています。正文では考えられない所があります。また、自著であれば、書体が異なっていなければならないのに、すべて一人の筆跡です。さらに、「真魚」の「真」が「魚」の上に重ね書きされている点も正文とはいえないと研究者は考えています。
③三つ目は、正文であれば「太政官印」が捺されているはずです。その痕跡すら見当たりません。このように、「中村蒐集官符」を正文とみなす要素は何一つありません。これは、案文のようです。
第二は、「延暦二十四年官符」に空海の年齢がないことです。
確かに、空海の本貫だけ記されて、年齢がないのは疑わしいといえます。しかし、この文書が備忘のための写し、すなわち案文であるとすれば、この文書を偽文書とみなす決め手とはなりえないと研究者は考えています。
第三は、解文、すなわち下の役所・被官から上申したときの文書がないことです。
確かに、この官符には解文にあたるものはありません。しかし、解文のない大政官符もいくつかあるようです。

第四は、日付の延暦24年9月11日を、どのように理解するかということです。
なぜならこの時は、空海の長安滞在中だからです。それなのに、なぜこの時期に発給されたのかという疑問、あるいは疑いです。「発見」当初は、これが最大の問題で、「偽作」とする根拠とされたようです。
  しかし、その後の研究の中で、この日付は、あまり大きな問題ではないとされるようになります。なぜなら、得度の日から二年以上遅れて度縁が発給された例がほかにもあるからです。
その例とは、最澄の度縁です。最澄は宝亀十一年(778)11月12日、近江国国分寺で得度しています。けれども、度縁が発給されたのは足かけ三年後の延暦二年(781)正月20日でした。これは官吏の事務処理の遅れ、つまり税の徴収に必要な帳簿作成の最終リミットにあわせて事務処理を行なったことによるものだったようです。空海の場合も同様のことが考えられます。この官符の発給の遅れは、私度僧のまま入唐したといった資格にかかわってのことではないこと、ましてや空海の責任でもなかったのです。現在では、事務的な手続き上の問題と考えられるようになっているようです。
以上から中村直勝氏が蒐集された平安末期書写の「延暦二十四年官符」は、信憑性の高い史料であると現在では考えられるようになっているようです。
さらに、その信憑性を高める理由として研究者が挙げるのがつぎの三点です。
第一は、「中村蒐集官符」の伝来の仕方です。この史料は単独で伝来してきました。そのため空海の伝記史料をはじめ、その他にまったく引用されていません。後世にある目的にのために偽作・改竄されていたのであれば、いろいろな所に引用され「活用」されたはずです。偽作とは、そのような目的のためにつくられるものなのですから。ところが「中村蒐集官符」には、そのような痕跡がまったくありません。「中村蒐集官符」は、空海の出家に関わる貴重な文書として、平安時代に書写されたものと研究者は考えています。
第二は正史の卒伝は、信頼できる史料に準拠して記録されたと考えられていることです。
とくに「空海卒伝」の場合、公的史料と個人的な史料の二つが使用されたと考えられます。「空海卒伝」の「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」の箇所は、公的史料が拠りどころとなったとされる所で、その公的史料とはほかでもない「延暦二十四年官符」(今はない原本)であったと研究者は考えています。
第3は、「中村蒐集官符」が書写されたころの空海の生年・没年についてです。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。

 このようにして、「空海卒伝」「中村蒐集官符」から導き出される空海出家は、延暦二十二年の四月七日です。それは「留学の末に連なれり」は単なる謙譲の修辞ではなく、やはり空海は急遽に留学僧に選任されたことを裏付けているようです。これらの史料確認の上で、研究者は次のような説を組み立てていきます。
 第一回目の遣唐使船が難波津を出帆したのが延暦二十二年四月十六日でした。
とすると、「中村蒐集官符」にいう「延暦廿二年四月七日出家入唐す」は、遣唐大使への節刀の儀が終わり、まさに出帆が秒読みに入った時点になります。留学僧として入唐する許可が出されたので、官僧の資格を満たすために、あわただしく出家の儀式をすまされたことがうかがえます。
 1回目の出港の際には、空海は乗船していなかったというのが通説ですが、研究者はそれに対して次のような異論を出します。
 空海は延暦22年(803)4月16日、難波津を進発した第一回目の遣唐使船に乗り込んでいた。最初に選任された留学僧の一人であった。よって、空海の出家得度は延暦22年(803)4月7日であり、留学僧として入唐が許可されたのは得度の9日前であって、官僧の資格を満たすためにあわただしく得度をすませ、4月16日には船上の人となって難波津をあとにした

これは、裏返すと次のような主張でもあります。
①「中村蒐集官符」は案文ではあるけれども、その記載内容は信頼するに足るものである
②したがって、空海の得度は官符の記載どおり、延暦二十二年(803)四月七日であって、延暦23年4月7日を改竄したとみなす説は成り立たない。
③官符の日付・延暦24年9月11日から、空海が私度のまま入唐したとみなす説も成り立たない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
         武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」


前回までは円珍(智証大師)を生んだ那珂郡の因支首氏の改姓申請の動きを見てきました。実は、同じ時期に空海の実家である佐伯直氏も改姓申請を行っていました。円珍の母は空海の父田公の妹ともされていて、両家は非常に近い関係にあったようです。今回は因支首氏に先行して行われていた佐伯直氏の改姓運動を見ていこうと思います。テキストは武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の家系や兄弟などを知るうえでの根本史料とされるのが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。
ここには、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら十一名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたときの記録が記されています。公的文書なので、もっとも信頼性のある史料とされています。空海の甥たちは、どのようなことを根拠に佐伯直から佐伯宿禰への改姓を政府に申請したのでしょうか。
「貞観三年記録」の全文を十の段落に分けて、見ていきましょう。

①讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

意訳変換しておくと
①多度郡の佐伯直田公の息子や甥など佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、彼らの男の貞持・貞継・葛野、豊雄、豊守、栗氏ら十一名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職に移されたこと。

ここに登場する空海の弟や甥たちを系図化したものが下図です。
1佐伯家家系
佐伯宿禰の姓を賜わった九名の名があげられています。このなかで他の史料でその実在が裏付けられるのは、空海の弟の鈴伎麻呂と甥の書博士・豊雄のふたりだけのようです。
鈴伎麻呂に付いては、『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月甲申二十二日)条に、 次のように記されています。
詔(みことの)りして曰(のたま)はく、天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと勅(おほみこと)大命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る.巡察使の検(けむ)して奏し賜へる国々の郡司等の中に、其の仕へ奉(まつ)れる状(さま)の随(したがう)に勤み誉しみなも、冠位上(あげ)賜ひ治め賜はくと。勅(おほみこと〉天皇(むめら)が大命(おほみこと)を衆(もろちろ)間き食(たま)へと宣(の)る。正六位上高向史公守、美努宿輌清貞、外正六位上久米舎人虎取、賀祐巨真柴、佐伯直鈴伎麿、久米直雄口麿に外従五位下を授く。

この史料は、天長二年(835)8月丁卯(27日)に任命され、同年十二月丁巳(十九日)各国に派遣された巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司の中から褒賞すべき者ものに外従五位下を授けたときの記録です。このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に佐伯直鈴伎麿がいます。
   松原弘宣氏は、これについて次のように記します。
この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえる。

 ここからは、この記録に出てくる佐伯直鈴伎麿は空海の弟と同一人物とし、多度郡の郡司(大領)を務めていたとします。

ここからは、空海に兄弟がいたことが分かります。
一番下の弟・真雅は、当時は天皇の護持僧侶を務めていました。真雅と空海の間には親子ほどの年の開きがあります。そのため異母兄弟だったことが考えられます。
 段落②です
②是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。

意訳変換しておくと

②この改姓・改居は、空海の甥に当たる書博士・豊雄の申し出をうけた大伴氏本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏した。

 伴(大伴)善男は、貞観三年(861)8月19日に、左京の人で散位外従五位下伴大田宿爾常雄が伴宿爾の姓を賜わったときにも、上奏の労をとっています。その時も、家記と照合して偽りなきことを証明し、勅許を得ています。その時の記録に記された善男の官位「正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫」は、この当時のものに間違いないようです。ここからは、善男が、伴(大伴)氏の当主として、各方面からの申請に便宜をはかっていたことが裏付けられます。この記述には問題がなく信頼性があるようです。
3段目です
③『書博士正六位下佐伯直豊雄の款に云はく。「先祖大伴健日連公、景行天皇の御世に、倭武命に随いて東国を平定す。功勲世を蓋い、讃岐国を賜わりて以て私宅と為す。

意訳変換しておくと

③書博士の佐伯直豊雄は申請書に次のように記している。先祖の大伴健日連は、景行天皇のときに倭武命にしたがって東国を平定し、その功勲によって讃岐国を賜わり私宅としたこと。

前半の「大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したこと」については、『日本書紀』景行天皇四〇年七月戊成(十六日)条に、次のように記されています。
天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(みことおほ)せたまひて、日本武尊に従はじむ。そして同年の条に甲斐の国の酒折宮(さかわれのみや)において、報部(ゆけひのとものを)を以て大伴連の遠祖武日に賜う。

 ここからは、大伴武日連は日本武尊の東国平定に従軍し、甲斐の国で兵士を賜わったと伝えられています。しかし、これを讃岐の佐伯直豊雄が「先祖の大伴健日連」とするのは「問題あり!」です。これは大伴氏の先祖の武勇伝であって、佐伯直の物語ではありません。この辺りに佐伯直の系譜を、大伴氏の系譜に「接ぎ木」しようとする意図が見えてきます。


4段目です
④健日連公の子、健持大連公の子、室屋大連公の第一男、御物宿爾の胤、倭胡連公は允恭天皇の御世に、始めて讃岐国造に任ぜらる。

意訳変換しておくと
④その家系は、健日連から健持大連、室屋大連、その長男の御物宿爾、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連が允恭天皇のとき讃岐国造に任ぜられた。
1佐伯氏
『伴氏系図』
「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれている
道長の父が田公になっている

佐伯家の家系を具体的に記したところです。健日連から倭胡連にいたる系譜の「健日連― 健持大連 ― 室屋大連 ― 御物宿爾」
の四代は、古代の系譜に関してはある程度信頼できるとみなされている『伴氏系図』『古屋家家譜』とも符合します。健日から御物にいたる四代は、ほぼ信じてよいと研究者は考えています。
5段目です
⑤倭胡連公は、是れ豊男等の別祖なり。孝徳天皇の御世に、国造の号は永く停止に従う。

意訳変換しておくと
倭胡連は豊男らの別祖であること、また孝徳天皇のときに国造の号は停止されたこと。

  前半の倭胡連は豊雄らの別祖であるというのは、きわめてミステリックな記述と研究者は指摘します。なぜなら、みずからの直接の先祖名を記さないで、わざわざ「別祖」と記しているからです。逆に、ここに「貞観三年記録」のからくりを解く鍵がかくされていると研究者は考えているようです。これついては、また別の機会にします。
  後半の孝徳天皇のときに国造の号が停止されたことは、史実とみなしてよいとします。
『日本書紀』巻二十五、大化二年(六四六)正月甲子(一日)条から、国造の号は大化の改新に際して廃止され、新たにおかれた郡司に優先的に任命された、と考えられているからです。それまでは、国造を務めていた名家であるという主張です。

6段目です

⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。

意訳変換しておくと

豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の両大師の功績による。しかし、空海の一族であるわれわれ田公一門は、まだ改居・改姓を賜っていない。

第六段の前半は、豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっていることです。
真持の正史に残る記述を並べると次のようになります。
承和四年(837)十月癸丑(23日)左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月己西(7日)正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年(846)七月己西(十日)従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月丁未(十六日)従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月十四日乙未 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす
同五年(863)二月十日癸卯 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和の介とす。

ここからは確かに、真持は承和四年(837)に長人らと佐伯宿禰の姓を賜わっていることが分かります。また「左京の人」とあるので、これ以前に左京に移貫していたことも分かります。同時に改姓認可されている長人の経歴をみると、前年の承和三年(836)十月己酉(十二日)条に、次のように記されています。

讃岐国の人散位佐伯直真継、同姓長人ら二姻、本居をあらためて左京六条二坊に貫附す。

真持もこのときに長人と一緒に左京に本貫が移されたようです。ちなみに、生活はすでに京で送っていた可能性が高いようです。
  正雄の経歴も正史に出てくるものを見ておきましょう。
嘉祥三年(850)七月乙酉(十日)讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月七日甲申 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
ここからは、正雄は真持よりも13年遅れて宿爾の姓を賜い、左京に移貫していることが分かります。以上から申請書の通り、本家筋の真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
  
第6段の後半は、真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるとする点です。
実恵の経歴については、この時代の信頼できる史料はないようです。道雄には、『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月己西(八日)条に、次のような卒伝があります。
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

道雄の誕生地は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海の下で真言宗を学んだことが分かります。実恵、道雄については、古来より讃岐の佐伯氏出身とされていて、信頼性はあるようです。

 実恵は承和十四年(847)十一月十三日に亡くなっていますので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居をサポートすることはできません。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっています。正雄の改姓については、支援サポートすることはできる立場にあったようです。
 とすると、真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)のことなので、こちらには東寺長者であった実恵の尽力があったと考えられます。ここからは研究者は次のように考えているようです。
A 実恵は真持一門に近い出自
B 道雄は正雄一門に近い出身
どちらにしても、佐伯道長を戸長とする佐伯一族には、いくつかの家族がいて、本家筋はすでに改姓や本貫地の移動に成功していたことが分かります。この項目は信頼できるようです。

7段目です
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。

意訳変換しておくと
⑦実恵・道雄の二人は、空海の弟子であり、田公は大僧正空海の父である。

前半の実恵・道雄が空海の弟子であったことは、間違いないので省略します。後半の「田公は空海の父」とするのは、この「貞観三年記録」だけです。

8段目です
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。

意訳変換しておくと

⑧空海の弟の大僧都真雅は、東寺長者となっているが、本家筋の実恵・道雄一門に比べると、我々田公一門への扱いは低い。

 真雅が田公一門の出身であることは、彼の卒伝からも明らかです。『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、

僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)

とあって、次のことが分かります。
①もとは佐伯直で讃岐国多度郡に住んでいたこと、
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと
また、真雅は貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となったばかりでした。この時を待っていたかのように、改姓申請はその翌年に行われています。
 後半の「実恵・道雄一門に比べるとその高下は明らかである」というのは、実恵・道雄一門の佐伯氏の人たちが、すでに佐伯宿爾への改姓と京職への移貫をなしとげていることを指しているようです。この段落も疑わしい点はないようです。

9段目です
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。

意訳変換しておくと

③空海の甥・豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえみて悲歎することが少なくない。なにとぞ本家の正雄等の例にならって、田公一門にも宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

書博士・豊雄については、この「貞観三年記録」にしか出てきません。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたとしておきましょう。
「往時をかえりみるに悲歎することが少なくない」というのは、空海の活躍に想いを馳せてのことなのでしょうか。この言葉には、当時の田公一門の人たちの想いが込められていると研究者は考えているようです。
最後の10段目です
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらずと。之を従す。

意訳変換しておくと
以上の款状の内容について、伴善男らが大伴氏の「家記」と照合した結果、系譜上に偽はなかった。よってこの申請を許可する。

  この記録は、大きく分けると次のように二段落に分けることができるようです。
A 前半の①と②は、佐伯宿禰の姓を賜わった鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続柄と、この申請について伴宿爾善男(大伴氏)が関わったこと
B 後半の③から⑩には、書博士豊雄が作成した款状、 つまり官位などを望むときに提出した願書と善男がその内容を大伴氏の「家記」と照合したこと
 「貞観三年記録」の記事の信憑性について、段落ごとに研究者は検討しています。一つ一つの記事は、大伴氏が伝えてきた伝承などにもとづくものがあったとはいえ、ほぼ信頼していいようです。

しかし、研究者にとって疑問残ることもあるようです。
第一は、佐伯連の始祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、すっぽり欠落していることです。
1佐伯氏
大伴氏系図

第二は、大伴氏の系図には、空海の父・田公が「少領」と尻付きに記されていることです。ところが「貞観三年記録」の田公には、官位は記されていません。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。
凡そ郡司には、性識清廉(しょうしきせいれん)にして、時の務(つとめ)に堪えたらむ者(ひと)を取りて、大領(だいりょう)、少領と為よ。強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に工(たくみ)ならむ者(ひと)を、主政(しゅしょう)、主帳(しゅちょう)と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。〈其れ大領、少領、才用(ざいよう)同じくは、先ず国造(こくぞう)を取れ。)

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領(郡司)であったとすれば、必ず位階を持っていたはずです。しかし、「貞観三年記録」の田公には、位階が記されていません。史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料です。そのため「貞観三年記録」にしたがって、空海の父・田公は無位無官であった、と研究者はみなします。
以上をまとめておくと、次のようになります。
①田公一門の直接の先祖をあげないで、「別祖である」とわざわざ断ってまで中央の名門であった佐伯連(宿禰)に接ぐこと、
②佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から田公までの間が、すっぽり欠落していること、
③「貞観三年記録」の倭胡連公までと田公の世代とは、直接繋がらないこと
④倭胡連公のところで系譜が接がれていること
これらの背景について、研究者は次のように考えています。
この改姓申請書は、空海の弟真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、佐伯直氏が空海一門であることを背景に、中央への進出を企て申請されたものであること。 つまり「佐伯直氏の改姓・本貫移動 申請計画」なのです。それを有利に進めるために、武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労を依頼します。さらに、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借用します。それに田公以下の世代を「接ぎ木」したのが「貞観三年記録」の佐伯系譜だったようです。
 そのために大伴氏の系図にみられるように、讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断ってまで記し、そこに「接ぎ木」しています。
 讃岐国・佐伯直氏のひと続きの家系のように記されていた系譜は、じつは倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿禰氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものだったと研究者は指摘します。
「是れ豊雄らの別祖なり」以下の歯切れの悪い文章が、この辺の事情を雄弁に物語っているようです。それでは、別の視点から「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、信頼できる部分はどこなのでしょうか。
 それは、田公以下の十一名の世代だけは、空海の近親者として信じてよい、と研究者は考えているようです。空海には、郡司として活躍する弟がいたり、中央の書博士になっている甥もいたのです。
 また、『御広伝』『大伴系図』などにみられた伊能から男足にいたる四代の人たち、「伊能直――大人直―根波都―男足―田公」の系譜も、ある程度信頼できるようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
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生野本町遺跡           
生野本町遺跡(善通寺氏生野町 旧善通寺西高校グランド)

 多度郡の郡衙跡の有力候補が生野本町遺跡です。この遺跡は善通寺西高校グランド整備のための発掘調査されました。調査報告書をまとめると次のようになります。
①一辺約55mの範囲内に、大型建物群が規格性、計画性をもつて配置、構築されている。
②遺跡の存続期間は7世紀後葉~9世紀前葉
③中心域の西辺に南北棟が2棟、北辺に東西棟が3棟の大型掘立柱建物跡
④中心の微髙地の一番高いところに郡庁設置?
ここからは条里制に沿って大型建物が計画性を持って配置されていることや、正倉と思われる倉が出てきています。「倉が出てきたら郡衛と思え!」がセオリーのようなので、ここが多度郡の郡衛跡と研究者は考えています。また、条里制に沿って建物群が配置されているので、南海道や条里制とほぼ同じ時期に作られたようです。

稲木北遺跡 条里制
下側の太線が南海道 多度郡衙はそれに面した位置にある

この郡衛の建設者として考えられるのは、空海を生んだ佐伯直氏です。

佐伯直氏は、城山城の築城や南海道・条里制施行工事に関わりながら国造から郡司へとスムーズにスライドして勢力を伸ばしてきたようです。そして、白鳳時代の早い時期に氏寺を建立します。それが仲村廃寺で、条里制施工前のことです。しかし、南海道が伸びて条里制が施行されると、この方向性に合う形でさらに大きな境内を持った善通寺を建立します。つまり、二つの氏寺を連続して建てています。

四国学院側 条里6条と7条ライン

四国学院内を通過する南海道跡(推定)の南側

 同時に、多度郡司の政治的な拠点として、新たな郡衛の建設に着手します。それが生野本町遺跡になるようです。そういう意味では、佐伯直氏にとって、この郡衛は支配拠点として、善通寺は宗教的モニュメントして郡司に相応しいシンボル的建築物であったと考えられます。
 今回は、この郡衙て展開された律令時代の地方政治の動きを、中央政府との関係で見ていこうと思います。テキストは「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」です。

 地方における郡司の立場を見ておきましょう。
   古代律令国家は、かつての国造を郡司に置き換えます。そして、国造の職務の大部分を郡司に引き継がせることで、スムーズに律令体制へと移行させました。律令下では、佐伯直氏のような郡司クラスの地域の有力者は、これまでのように勝手に人々を自らの支配下に置いたり、勢力を拡大したりすることはできなくなります。
 その一方で、多度郡司というポストを手に入れます。郡司からすれば国司の言うことさえきいておけば、後は中間で利益を挙げることができました。地方有力者にとって郡司は、「おいしいポスト」であったようです。郡司にとっての律令体制とは、「公地公民」の原則の下に自分の権益が失われたと嘆くばかりのものではなかったことを押さえておきます。 

考古学の成果からは9世紀から10世紀にかけては、古代集落史において、かなり大きな変化があった時代であったことが明らかにされています。
古代集落変遷1
信濃の古代集落存続期間
上の信濃の古代集落の存続期間を見ると、次のようなことが分かります。
①古墳時代から継続している村落。
②7世紀に新たに出現した集落
③集落の多くが9世紀末に一時的に廃絶したこと。
 ①の集落も8世紀末には一旦は廃絶した所が多いようです。近畿の集落存続表からも同じような傾向が見られるようです。ここからは6世紀末から7世紀初頭にかけてが集落の再編期で、古墳時代からの集落もこのころにいったん途切れることがうかがえます。これをどう考えればいいのでしょうか。
いろいろな理由があるでしょうが、一つの要因として考えられるのは条里制です。条里制が新たに行われることによって、新しい集落が計画的に作られたと研究者は考えているようです。

それでは、9世紀から10世紀にかけて、それまでの集落の大半が消滅してしまうのはどうしてなのでしょうか
これは逆の視点から見れば中世に続く集落の多くは、平安時代後期(11世紀)になって、新しく作られ始めたことになります。この時期は、ちょうど荘園公領制という新しい制度が形成される時期にあたります。このことと集落の再興・新展開とは表裏の関係にあると研究者は考えています。
 つまり、条里制という人為的土地制度が7世紀に古代集落を作り出し、そそ律令制の解体と共に、古代の集落も姿を消したという話です。また上の表から分かるように、古墳時代から続いてきた集落も、十世紀にはいったん途絶えるとようです。ここから西日本では、平安時代のごく初期に、集落の景観が一変したことがうかがえます。

稲木北遺跡 三次郡衙2

それでは各地の郡衙が存続した期間を見ておきましょう。
郡衙というのは、郡司が政務を執ったり儀式を行うところである郡庁と、それに付属する館・厨家・正倉・工房などからなる郡行政の中心的な施設です。
郡衙遺跡変遷表1

上表からは次のようなことが分かります。
①7世紀初頭前後に、各地の郡衙は姿を現す
②早い所では、8世紀前半には郡衙は姿を消す。
③残った郡衙も10世紀代になるとほとんどの郡衛遺跡で遺構の存続が確認できない。
ここからは、郡衙の姿があったのは7世紀初頭から10世紀の間ということになります。
律令制が始まって百年後には、衰退・消滅が始まり、2百年後には姿を消していたことが分かります。9世紀後半から10世紀にかけて、それまで律令国家の地方支配の拠点であった郡衛が機能しなくなっていたようです。この背景には、郡司をとりまく情勢に大きな変化があったようです。その変化のために郡衛(郡家)は衰退・消滅したようです。
ちなみに、多度郡衙候補の生野本町遺跡の存続期間も7世紀後葉~9世紀前葉でした。空海の晩年には、多度郡衙は機能停止状況に追い込まれ、姿を消していたことになります。
稲木北遺跡 三次郡衙
 三次郡衙(広島県三次市) 正倉が整然と並んでいる

郡衙の衰退で、まずみられるのが正倉が消えていくことです。
  さきほど「倉が並んで出てくれば郡衛跡」と云いましたが、その理由から見ておきましょう。律令体制当初は、中央に収める調以外に、農民が納入した租や使う当てのない公出挙(くすいこ)の利稲(りとう)は、保存に適するように穀(稲穂)からはずされた籾殻つきの稲粒にされて、郡衙の倉に入れられました。多度郡全域から運ばれてきた籾で満杯になった正倉には鍵をかけられます。この鍵は中央政府に召し上げられ、天皇の管理下に置かれてしまい、国司でさえも不動穀を使用するには、いちいち天皇の許可が必要でした。そのため倉は不動倉、中の稲穀は不動穀と呼ばれることになります。こうして郡衙には、何棟もの正倉が立ち並ぶことになります。
 不動倉(正倉)を設ける名目は、いざという時のためです。そもそも神に捧げた初穂である租を大量にふくんでいますのですから、おいそれと使ってはならないというのが、最初のタテマエだったようです。ところが、その不動穀が流用され、中央政府に吸い上げられるようになります。不動穀流用の早い例としては、東国の穀を蝦夷征討の軍糧に流用したものがあります。それが恒常化していくのです。
 現実はともかく郡衙には正倉と呼ばれる倉があって、その理念は次のようなものでした。

「あそこに貯えられていますお米は、おじいさん、おばあさん、そのまた先の御先祖様達が、少しずつ神様にお供えしてきたもので、私たちが飢饉にあったら、天子様が鍵を開けてみんなに分けて下さるのですよ」

 ある意味では、立ち並ぶ正倉は律令支配を正当化するシンボル的な建築物であったと云えます。生野本町遺跡だけでなく多度郡には稲木北遺跡からも複数の倉跡が出てきています。また、飯野山の南側を走る南海道に隣接する岸の上遺跡からも倉跡が出てきました。これらも郡衙か準郡衙的な施設と研究者は考えているようです。

 研究者が注目するのは、この正倉の消滅です。
本稲を貯めておく所が正倉でした。しかし、8世紀後半になると設置目的が忘れられ、徴税されたものは、さっさと中央に吸い取られてしまうようになります。そうなると倉庫群の必要はなくなります。そればかりではありません。郡庁は、郡司が政務を執り、新任国司や定期的に巡行してくる国司を迎えるなど、儀式の場としても機能していた建物でした。これが消えます。この背景には、郡司制度の改変・哀退があったようです。
 8世紀に設置された時の郡司には、かつての国造の後裔が任じられて、権威のある場所であり建物でした。それがこの間に郡司のポストの持つ重要性は、大きく低下します。古代集落と郡衙の消滅という現象も、律令体制の解体と関わりがあったことをここでは押さえておきます。

その変化を生み出したのが受領国司の登場です。
 それまでの律令国家の地方行政は、都から派遣された国司によって運営されていました。国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官で、この連帯責任制によって運営されました。
 
 ところが、9世紀後半になると、国司のなかの最上席の者に権限と責任が集中するようになります。この最上席の国司が受領(ずりょう)と呼ばれ、受領が中央政府に対して各国の租税納入の全責任を負う体制が確立します。
 そして徴収は、これまでの郡司にかわって、受領国司が請け負うことになります。その見返りとして政府は国司に任国の統治を一任することにします。「税を徴収して、ちゃんと政府に納めてくれるなら、あとは好きにしてよろしい!ということです。その結果、受領国司は実入りのいいオイシイ職業となり、成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)が繰り返されることになります。
 郡司に代わって徴税権を握った受領国司は、有力農民である田堵を利用します。
 10世紀になると、受領は任国内の田地を「名」と呼ばれる徴税単位に編成し、有力農民をそれぞれの名の納税責任者である「負名」にして、租税の納入を請け負わせます。このような徴税の仕組みを「負名体制」と呼びますす。
受領国司

田堵が請け負った田地は、田堵の名前をとって名(みょう)とか名田と呼ばれました。太郎丸が請け負えば太郎丸名、次郎兵が請け負えば次郎兵名になります。このように田堵は名の耕作・経営を請け負っていますから、負名とも呼ばれるわけです。
 田堵(負名)のなかには、国司と手を結んで大規模な経営をおこなう大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる者も現れます。彼らは、やがて開発領主と呼ばれるまでに成長します。

田堵→負名→大名田堵→開発領主

さらに、開発領主の多くは在庁官人となり、国司不在の国衙、いわゆる留守所(るすどころ)の行政を担うようにもなります。

 それが負名体制の成立によって、郡司に頼らずに、受領が有力農民(名主)を直接把握する徴税体制ができあがったことになります。

つまり郡司の存在意義がなくなったのす。その結果、郡司の執務場所である郡家(ぐうけ)が衰退し、受領の執務場所である国衛の重要性が増していきます。受領は、田所・税所・調所など、国衛行政を部門ごとに担当する「所」という機関を設け、それを統轄する目代(もくだい)に郎等をあて、行政の実務を担わせるようになります。このような体制が出来上がると、官物・臨時雑役という新たな租税が徴収できるようになります。
 一方受領国司は、臣家の手下たちを採用し、徴税と京への輸送・納入任者である専当郡司に任命もします。
これは、いままで富豪浪人として、あれこれと国司・郡司の徴税に反抗してきた者たちを、運送人(綱丁)にしてしまうことで、体制内に取り組むという目論見も見え隠れします。国司から任用された人々は、判官代などといった国衙の下級職員の肩書きをもらいます。
 受領は、負名(ふみょう)や運送人(綱丁)などの地域の諸勢力を支配下に置いて、軒並み動員できる体制を作り上げました。
こうなるとますます郡司の出る幕がなくなります。受領にとって、郡司の存在価値は限りなく低下します。同時に、その拠点であった郡衙の意味もなくなります。各地の郡衙が10世紀初頭には姿を消して行くという背景には、このような動きが進行していたようです。  
 こうして地方の旧国造や郡司をつとめていた勢力は、中央貴族化することを望んで改名や、本貫地の京への移動を願いでるようになります。空海の佐伯家や、円珍(智証大師)の稻首氏もこのような流れに乗って、都へと上京していくのです。

  多度郡衙と空海の生家の佐伯直氏との関係で見ておきましょう
空海が善通寺で誕生していたとすれば、その時に多度郡衙は生野本町に姿を見せていたはずです。その時の多度郡司は、空海(真魚)の父田公ではありません。

1 空海系図52jpg
空海の系図 父田公は位階がない。戸籍筆頭者は道長

田公は位階がないので、郡長にはなれません。当時の郡長候補は、空海の戸籍の筆頭者である道長が最有力だと私は考えています。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
  延暦24年9月11日付 太政官符 
ここには「佐伯直道長戸口 同姓真魚(空海幼名)」とあります


道長の血筋が佐伯直氏の本流(本家)で、いち早く佐伯氏から佐伯直氏への改名に成功し、本籍を平城京に移しています。それが空海の高弟の実恵や道雄の家系になると研究者は考えているようです。空海の父田公は、佐伯直氏の傍流(分家)で改名も、本籍地移動も遅れています。
 空海の生まれたときに、善通寺と多度郡衙は姿を見せていたでしょう。
岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に伸びる南海道

後世の弘法大師伝説には、幼い時代の空海は、善通寺から一直線に東に伸びる南海道を馬で府中にある国学に通学したと語ります。国学に通ったかどうかは、以前にお話しように疑問が残ります。
 それから約百年後の9世紀末に、国司としてやって来ていた菅原道真の時代には、国府から額坂を越えて馬を飛ばして、多度郡の視察にやって来た道真の前に、善通寺の伽藍の姿はあったかもしれません。しかし、多度郡衙はすでになかった可能性があります。この間に、多度郡衙には大きな変化があったことになります。

10世紀になると郡衛が衰退・消滅したように、国衛も変貌していきます。
国衙遺跡存続表1

8世紀の半ばに姿を見せるようになった各国の国衙は、中央政府の朝堂配置をコピーした国庁が造営され、それが9世紀代を通じて維持されます。しかし、10世紀になるとその基本構造が変化したり、移転する例が多く見られるようになることが上図からも分かります。これも郡衙の場合と同じように、律令体制の解体・変質をが背景にあると研究者は考えています。
 それまでの儀礼に重点をおいた画一的な平面プランには姿を消します。そして、肥前国国衙のように、10世紀に入ると極端に政庁が小さくなり、姿を消していく所が多いようです。しかし、筑後や、出羽・因幡・周防などの国府のように、小さくなりながらも10世紀を越えて生き延びていく例がいくつもあります。讃岐国府跡も、このグループに入るようです。やがて文献には、国庁ではなく国司の居館(館)を中心にして、受領やその郎党たちによる支配が展開していったようすが描かれるようになります。
受領国司

  以上をまとめておきます
①旧練兵場遺跡は、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国をなす」のひとつで、善通寺王国跡と考えられる。
②この勢力は古墳時代には、野田院古墳から王墓山古墳まで連綿と首長墓である前方後円墳を築き続ける
③この勢力は、ヤマト政権と結びながら国造から郡長へと成長し、城山城や南海道建設を進める。
④郡司としての支配モニュメントが、生野本町遺跡の郡衙と氏寺の善通寺である。
⑤空海のが生まれた時代は、郡衙は多度郡の支配センターとして機能し、戸籍などもここで作られた。
⑥しかし、8世紀後半から律令体制は行き詰まり、郡衙も次第に縮小化するようになる。
⑦菅原道真の頃に成立した国司受領制の成立によって、郡司や郡衙の役割は低下し、多度郡衙も姿を消す。
③以後は受領による『荘園・公領制』へと移行していく

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「 坂上康俊   律令国家の転換と日本  講談社」
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空海入唐の地を訪ねた-(2) (中国) - 何気ない風景とひとり言

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀宿禰大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。あるとき「一沙門」と出会い大学を辞し、「虚空蔵求聞持法」を修することで仏教に傾倒し、そして延暦16年(797)に『聾瞽指帰』を著して出家宣言を行い、さらに仏道修業に専念していった
 
「卒伝」の記述は、「一沙門」との出会いが記されています。そして山林修行を経て「聾瞽指帰(改訂されて三教指帰)」執筆に至たという経過です。しかし、ここには「大学を辞した」ということについては何も触れられてはいません。大学を二・三年で退学したというのは、あくまで想像です。
 これに対して、空海は大学を中退していないのではないのか、きちんと卒業した後に『聾瞽指帰』を描いたのではないかという説が出されています。今回は、これを見ていくことにします。テキストは   牧伸行 入唐前の空海 です。

空海については分からないことが多いのですが、どうして得度したばかりの無名の僧侶が遣唐使の留学僧に選ばれたもその疑問の一つです。大学を卒業後していれば、充分な資格を有していたことになります。
吉備大臣入唐絵巻 [978-4-585-05423-8] - 2,640円 : Zen Cart [日本語版] : The Art of  E-commerce

この参考例になるのが吉備真備のようです。
彼は下級武官下道朝臣国勝の子ですが入唐前に從八位下を授位されています。そこに至る経過を見てみると、15歳前後で大学に入学し、六・七年を経て貢試、その結果「進士甲第」という成績を納めて、養老選叙令秀才出身条によって従八位下を授位されます。その上で、入唐留学生に選ばれます。
 つまり、大学寮出身コースから入唐留学生へという道を歩んでいるのです。ここからは、六・七年という年数が、当時の大学を卒業するのに要した年数と考えることができます。この年数は空海が大学に入学し、その後延暦16年(797)までの消息の分からない空白の期間とほぼ一致すると研究者は指摘します。

 空海は大学において、どの課程に属していたのでしょうか?
このことについて空海自身は何も述べてはいませんし、卒伝にも何ら記述はありません。ただ『空海僧都伝』には、次のように記されています。
入京時遊大學。就直講味酒淨成。讀毛詩尚書。問左氏春秋於岡田博士

ここに「岡田博士」から左氏春秋を学んだとあります。これは『続日本紀』延暦十年(791)12月丙申(十日)条に、「外從五位下岡田臣牛養爲大學博士」とある大学博士岡田牛養と研究者は考えます。そうすると、この年は空海が中央の大学へ入学した年でなので、岡田博士が岡田牛養で実在の人物と推測できます。 
 職員令大学寮条には、博士・助教・音博士・書博士・算博士のコースがあって、このうち博士は「教授經業」を担当しています。さらに、学令博士助教条に「凡博士助教。皆取明經堪師者」とあるので、明経博士であったことが分かります。以上から、空海は当時の大学において本科であり、かつ主流であった明経道に在籍して経道を学んでいたとするのが定説のようです。
明経道を学ぶ学生が、同時に儒教・道教・仏教の知識を得ることはできたのでしょうか?
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
聾瞽指帰 登場人物が最初に記されている

『聾瞽指帰(空海が50代になって改稿したのが三教指帰)』は、儒教を「亀毛先生」、道教を「虚亡隠士」、仏教を「仮名乞児」の3人の登場人物がそれぞれの長所を主張し、議論を戦わせるという「対話討論形式」の芝居仕立ての展開が取られます。まるで戯曲を読むような印象を受けます。亀毛先生の儒教は、虚亡隠士の支持する道教によって批判されます。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されます。これは論理的に云うと「弁証法的な手法」で、「日本における最初の比較思想論」で、「思想の主体的実存的な選択を展開した著作」と「ウキ」には評価されていました。そんな風に私は見たことがなかったので「ナルホドナ」と感心しました。

仙台市博物館 on Twitter: "【特別展「空海と高野山の至宝」後期展示 好評開催中!】 能筆で知られた空海自筆の書、国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき)」が後期から展示中です。(画像は本展チラシより)  空海24歳の、仏教を目指す意志を記した書です。内容解説のパネルも ...
聾瞽指帰

 当然、「聾瞽指帰」の中には、多くの文献が引用されることになります。
研究者が数えると、引用件数は漢籍類69種・仏典関係59種になるようです。引用されている69種の漢籍類のうち、『周易』『尚書』『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』は、明経道で教科書として使われています。紀伝道(文章道)の教科書である三史(『史記』『漢書』『後漢書』)『文選』『爾雅』も引用されています。これは、空海が在籍していた明経道だけでなく、他の課程についても造形が深かったことがうかがえます。
 また空海は15歳の時から叔父の阿刀大足から学問の指導を受けていたと自ら述べています。これらの知識的蓄積があって書くことができたものです。。
弘法大師御筆 国宝聾瞽指帰 全3巻(山本智教解説) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

「聾瞽指帰」は、延暦16年(797年12月23日)に書き上がってきます。空海24歳の著作になります。大学入学は18歳の時でしたから、それから6年後のことです。この時点で空海は、大学を卒業していたと研究者は云うのです。

「聾瞽指帰」の中で道教の部分については、論旨が最も弱く不明確であると研究者からは指摘されています。
つまり空海の道教理解は、不十分であったようです。その理由として、我が国では教団道教が根付かなかったことが挙げられます。道教という宗教組織としてではなく老荘思想・老子的心境といったものの理解の方が中心に行なわれていたためのようです。そのため『淮南子』『神異経』『神仙経』『荘子』『抱朴子』『列仙伝』『老子』『老子経』『老子内伝』等の一通りの道教経典に目を通すだけの、専ら書物からの理解のみを行ったとします。
 それに対して、仏教については、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点で、かなり深い理解があったと研究者は考えているようです。このことは、「仮名乞児論」の内容及び引用文献から見えてきます。

しかし、これを書き上げたときの空海は、まだ仏門には入っていなかったと研究者は考えいます。
 虚空蔵求聞持法を始めたときの空海は、これが仏教の修行とは思っていなかった形跡があります。求聞持法を「一切の教法の文義暗記」のために行ったと空海は称しています。何のための文義暗記か。大学を辞めていなかったとすれば、「大学での勉学」のためと考えるのが自然ではないでしょうか。この時点では、仏典暗記とは云えないことは先述したとおりです
 大学での儒学修得にあき足りなさを感じた空海は、肉体的な修行に飛びこんだことが考えられます。それはあくまで大学の勉学のためのサイドワークで、仏教修行とも考えずに始めたということになります。  
聾瞽指帰の仏教に関する内容も山林修行の実践を終えて身を以て体験した内容ではなく、むしろ、道教と同じく書物からの理解だったとします。つまり、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点では、山林修行者として経験に基づく記述内容は、今だ見えないと云うのです。

そして24歳になって大学を卒業する段階になって、さてどうするかということになります。 三教指帰は、大学卒業と虚空蔵求聞持法修行をひとまず終えた空海が、どの方角へ向うか考えた末の産物だったのではないでしょうか。

 空海が大学在籍中には、南都六宗は諸寺は姿を見せていました。
奈良盆地のそれらの寺院は、文明開化のモニュメントであり、文化センターの役割を果たし始めています。その中で空海が仏教を学び、仏典類の閲覧を行なうためには、大学生という確かな身分を持っていた方が都合が良かったのではないでしょうか。逆に、大学生という身分を捨ててしまえば、これらの寺院への出入りも出来なくなります。
御遺告2
御遺告
 『御遺告』には、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
①の20歳の得度を、そのまま受けいれる研究者は少数派です。ここには空海が「山林修行」をおこなったことは、どこにもでてきません。あるのは『大日経』を捜し求めたことだけです。大日経を捜し求め、久米寺の東塔で見ることができたと記されます。正式の得度を受けていない沙門が国家管理下の国営寺院に出入りが許されたのでしょうか。ここからも大学生の身分であった方が仏教を学ぶとしても活動はやりやすかったように思えてきます。
大学に在籍し、サイドワークとして道教・仏教についての知識を学ぶ時間的な余裕はあったのかを研究者は見ていきます。
学令先読経文条には、次のように記されています。
「凡學生。先讀經文。通熟。然後講レ義。毎旬放一日休假
ここからは毎旬(十日毎)に一日の割合で休暇が認められていたことが分かります。
 同令請假条には、次のような規定があります。
凡學生請假者。大學生經頭。國學生經所部國司。各陳牒量給

臨時の休暇願の手続きの規定があり、同令放田假条では、
凡大學國學生。毎年五月放田假。九月放授衣假。其路遠者。仍斟量給徃還程。

田假・授位假に関する規定が定められていて、ある程度のまとまった期間の休暇があったことが分かります。そして、同令不得作楽条には、極端な例ですが、次のように記されています。
凡學生在學。不得作樂。及雜戲。唯彈琴習射不禁。其不率師教。及一年之内。違假満百日者。並解退。

 学生の日常生活の心得に関する規定の中に、「違假満百日者。並解退」とあるので、百日未満であれば「不正休暇」も大目に見られていたようです。
以上から、大学在学中であっても、道教・仏教の知識を深めて行く時間的な余裕は作り出す事ができる環境であったことがうかがえます。
それでは大学に在学しながらも「仮名乞児論」のように「或登金巖。而遇雪坎。或跨石峯。以絶粮軻。」というような修行を行なうことができたのでしょうか。
 役小角に代表されるような山岳修行者、私度僧たちは古くからいたことが分かっています。それは空海が開いたとされる霊場が、空海以前にすでに信仰対象とされていたことからもうかがえます。独古や三鈷・錫杖をもった修験者が讃岐の大川山の周辺で修行を重ねていたことは、中寺廃寺跡から出土した古式様式の三鈷の破片からも分かります。空海に実体験は無くとも見聞による著述は決して不可能ではなかったと研究者は考えているようです。
また、大学在学中であっても、一定期間の休暇は認められていました。
さらに『聾瞽指帰』の日付である延暦16年(797)は、大学卒業に必要な六年、国学・大学を通じて就学可能な期限である9年を経た翌年に当たります。つまり、15歳で国学に入学してから数えて9年目、空海24歳の年に当たると云うことです。10年間の在籍が認められていたので、空海は大学を辞すること無く、一年間は仏道修行を行なうことができたことになります。
 その1年を利用して「卒業研修」として「阿波國大瀧之嶽」「土左
國室戸之崎」で山林修行を行ったということも云えそうです。四国の辺路修行場であり、大学卒業後に故郷四国の修行地を回ったと考えることも可能になります。そう考えると、空海が修行のために大学をドロップアウトしたと考える必要はなくなります。延暦15年(796)に大学を卒業し、その実践のために山林修行に四国に向かったという話もできそうです。
 その場合に、空海が「一沙門」と出会ったのは延暦16年(797)以降と考える必要はなく、空海の仏教に対する造詣の深さを考えると、短期間に独学で学んだと考えるよりも、信頼のおける学僧について学んだと考えた方が現実的だとします。

以上をまとめておくと
①定説では「空海は都の大学に入ったが儒教に嫌気がさして、虚空蔵求聞持法に興味を抱き大学を中退した」とされていきた。
②しかし、根本史料には空海が大学を中退したとはどこにも書かれていない。
③空海は18歳で大学に入学後、24歳まで大学で、儒教だけでなく仏教や道教を学び卒業した。
④卒業後に、その成果として著したのが「聾瞽指帰」で、仏教の道を選択し、山林修行に入って行った。
⑤空海はドロップアウトすることなくエリートとしての道を歩み続け、それが留学僧として選抜されることになった。
 三教指帰序文や御遺告に後世の作為があるとされるようになり、根本史料としての信頼性が揺らぎ始めています。その中にあって、研究者たちは信頼できる史料に基づいて空海の歩みをもう一度見直そうとしているようです。これは何十年もかかる作業になることが予想できます。「空海は大学を卒業していた」説や「空海=摂津誕生説」もそのような動きの一環なのでしょう。
その向こうに新たな空海像が描かれるのを楽しみにしています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 

岸の上遺跡 イラスト
飯野山の南を東西に一直線に走る南海道

讃岐には、若き日の空海(幼名真魚)は、「国学(地方大学)」で学ぶために毎日、額坂を越えて通学していたという話があります。空海の父田公の館は、現在の善通寺周辺にあったとされます。讃岐の国学は、建立されたばかりの国分寺周辺か、府中の国府周辺にあったとされます。そのため善通寺から東に一直線に伸びる額坂街道を馬を駆けって通ったというのです。
DSC04491
空海の平城京への出立(弘法大師行状絵詞) 騎馬の若武者姿

確かにこのルートは、発掘調査で南海道であることが分かってきました。幅が8mもある大道が、丸亀平野の条里制に沿って、善通寺を横切っていきます。この大道を馬で駆ける真魚の姿は、絵になる光景です。しかし、これは本当なのでしょうか。真魚が、讃岐の国学で学んだのかどうかを史料で見ていくことにします。

岸の上遺跡 多度郡条里と南海道jpg
四国学院内を通っていた南海道

 空海は15歳の時に母方の叔父である阿刀大足に就いて学んだことは、空海の著書である『三教指帰』の序文に書かれているので事実のようです。
それでは、大学や国学で学んだというのは本当なのでしょうか。
 『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(835)3月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。

  讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。①年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。②十八遊學槐市。③時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。
ここには
①15歳で、外舅(母の兄)阿刀宿禰大足について漢学を学び、
②18歳で平城京の大学明経科に入学した。
③ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
ここには空海は、阿刀宿禰大足について学んだことは語っていますが、国学で学んだことは何も触れていません。空海は国学に入学したのでしょうか。
  唐の律令制度を学んで作り上げた大宝律令以後は、原則的にはこの国は「法治主義国家」です。政治は法令によって運営されていきます。例えば古代律令下の教育機関としては、中央には大学が、諸国には国学が設置されて官吏養成が行われることが定められています。
学令大学生条に定められた就学規定には、次のように記されています。
凡大學生。取五位以上子孫。及東西史部子爲之。若八位以上子。情願者聽。國學生。取二郡司子弟爲之。大學生式部補。國學生國司補。並取二十三以上十六以下聰令者爲之。
  意訳変換しておくと
およそ大學生。五位以上の子弟か、東西史部の八位以上の子弟で、入学希望があったものを入学させよ。地方の國學生については郡司の子弟を入学させよ。大學生式部補と國學生國司補の年齢制限はそれぞれ、23歳以上と16歳以下の者とする。

これが大学生と国学生に関する規定です。この規定に従って空海の入学資格を見ておきましょう。まず15歳という年齢については国学への入学については問題ないようです。年齢からして、国学へ入学した可能性はあります。しかし、もうひとつの条件である官位についてはどうでしょうか。「國學生については郡司の子弟」とあります。
 空海の生家である佐伯直氏は、旧讃岐国造であったことが『日本三代実録』に記されています。通説では代々多度郡の役人を勤めた家柄で、田公自身は郡の少領であったとされます。しかし、『日本三代実録』には田公の位階は記されいません。一方田公の子供達(空海の兄弟)には位階があります。ここから空海の父田公は、無位無官であった可能性が高いと研究者は考えています。
選叙令郡司条には、次のように記されています。
凡郡司。取下性識清廉堪時務者上。爲大領少領。強幹聰敏工書計者。爲主政主帳。其大領外從八位上。少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造

ここには郡司の選定基準として「少領外從八位下敍之。其大領少領才用同者先取國造」とあります。田公が少領であったとすると、低くとも外従八位下という官位を持っていなければならないことになります。例え主政・主帳であったとしても考課を経たのであれば、何らかの位階を与えられていたはずです。ここからも田公は無位無官であったとことが裏付けられます。そうすると、空海は国学の入学規定である「郡司子弟」の条件に当てはまらないことになります。つまり、空海には入学資格がなかったことになります。
 しかし、残された道があります。『令義解』学令大学生条の子弟に冠する註には「謂 子孫弟姪之屬也」とあります。空海が所属する戸の戸主である佐伯直道長が正六位上という位階を持っていて、何らかの官職に就いているので、この条件をクリアできたと考えることはできます。以上から空海は郡司の子弟として国学に入学することは可能であったとしておきましょう。

 しかし、問題は残ります。先ほど見たように空海が書いたとされる『三教指帰』には、15歳で伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足に教えを受けたと記されている点です。これをどう考えればいいのでしょうか。叔父阿刀大足については、次のように伝えられています。
①空海の母の実家阿刀家の後継者で摂津が本貫
②伊予親王の侍講(家庭教師)であった人物で、漢学の俊才であった
③叔父阿刀大足が讃岐に残した痕跡は何もない
これでは空海は15歳になって、讃岐の国学に通いながら平城京にいる叔父の阿刀大足から英才教育を受けたという話になります。このためには空海は「分身の術」を身につけていなければなりません。阿刀大足が、讃岐の国博士として赴任してきていたという話もありません。そもそも阿刀氏の痕跡は讃岐にありません。伊予親王の侍講であったという経歴から考えると、阿刀大足は平城京に居住していたと考えるのが自然です。これをどう考えればいいのでしょうか。
讃岐の豪族6 阿刀氏? 空海が生まれたのは摂津の母親の実家? : 瀬戸の島から
難波津と阿刀氏の本拠地
 この謎を解消するのが「空海=摂津誕生説」です。
当時の通い婚の通例として、空海は阿刀氏の本貫である摂津に生まれ、そこで生育し英才教育を受けたという説です。この説では、空海は讃岐の国学には入学せずに上京した、あるいは最初から摂津で生まれ育ったことになります。どちらにしても、空海が南海道を馬を走らせ、府中の国学に通ったという説は成立しがたいようです。

跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
跡部(阿刀)神社(八尾市亀井)阿刀氏の本貫・河内国渋川郡跡部郷

空海が平城京の大学に入学したのは18歳と記されています。
これは、就学規定で定められている年齢には当てはまりません。下級官人であっても八位以上の子弟であれば、特別に入学は可能でしたが、『令集解』学令大学生条の註には次のように記されています。

「問 八位以上子。情願任者聽。畿内外同不。答。畿外不取。又外六位以下不取也。但並得任國學生耳」

 ここからは、その特例が認められたのは畿内の官僚だけだったことが分かります。讃岐国出身の空海がこの方法で大学へ入学することはできません。これに対して。
「当時の学制に何らかの変更があったのかも知れない」
「伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足等の力で入学できた」
という例外的な措置として入学したという説もありますが、律令規定は国家の柱なので、「ゆるぎたらるぎ」で運用はしていません。伊予親王の侍講であった叔父阿刀大足の影響力を過大評価するのも慎むべきでしょう。
むしろ、次の「学令通二経条」に注目すべきと研究者は指摘します。

凡學生通二經以上求出仕者。聽擧送。其應擧者。試間大義十條。得八以上。送太政官。若國學生雖通三經。猶情願學者。申送式部。考練得第者。進補大學生。

ここには地方の国学から中央の大学へと進む道も成績や条件次第では開かれていたことが記されています。空海が讃岐の国学から大学に進んだとすれば、このコースを辿ったと考えた方がよさそうです。
 十五歳で国学に入学した空海は、基準である三年あるいは四年で二経以上に通じ、そして考練得第して十八歳の時に大学に入学したという説も捨てられないことになります。
跡部神社|八尾|物部一族である阿刀連が、その祖神を祀ったと伝わる神社の本当の祭神とは? | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
阿刀氏の氏神 跡部神社

以上をまとめておきます。
①従来の善通寺生育説では、讃岐の国学に通ったとされるが、「三教指帰」には15歳で、叔父阿刀太刀の教えを受けるようになったという記述と矛盾する。
②「空海=摂津生誕説」では、阿刀氏の母の実家である摂津で空海は生まれ、幼い時から叔父阿刀太刀の英才教育を受けたとされる。ここでは、空海の本貫は讃岐国多度郡だが実際の生育は摂津の阿刀氏の母の元であったとされる。
③「空海=摂津生誕説」では、空海が平城京の大学に入学するためには、父親の官位が低すぎるという問題がおきる。
以上のように、解決への詰み手がなくなってしまいました。空海の国学や大学入学問題についても、分からないことが多いようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

三教指帰註 巻頭 大谷大学博物館2
三教指帰 (大谷大学)

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
延暦十六年(797)『聾瞽指帰』(のち『三教指帰』と改題)を著して(中略)仏教への出家を宣言した」
  しかし、『三教指帰』に対しては、次のような疑義が出されています。
  『三教指帰』には同じ延暦16年(797)12月1日の日付を持つ『聾瞽指帰』がある。『聾瞽指帰』と『三教指帰』とは序文と巻末の「十韻之詩」等がちがっていて、上記のような序文はない。そのためこの序文は、後に付け加えられたものではないか。つまり、この部分は空海が書いたものではない

『三教指帰』が後世の偽作であるとしても、『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(八三五)三月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。
庚午。勅遣下二内舍人一人。弔法師喪。并施中喪料上。後太上天皇有二弔書日。眞言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崎磁未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。讀此眞言百万遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來レ影。自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
 與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化去之時年六十三。

これは、835年三月丙寅(廿一日)条の空海卒去記事に続く文章で、空海の卒伝が記されています。『続日本後紀』は、空海が亡くなった後34年目に当たる貞観十八年(869)8月に完成しているので、空海伝の中でも最も早く成立したものの一つになります。『御遺告』や『三教指帰』序文への信頼度が低下する中で、その信頼度を挙げてきた史料になるようです。ここに書かれていることを、見ておきましょう。
①「讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直」
 姓は佐伯氏ではなく佐伯直であること。空海の本籍地は讃岐国多度郡と記すも、そこが空海の生地であるとは書かれていない。そして、善通寺も屏風ヶ浦も出てこない。
②「年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。
 15歳で阿刀宿祢大足について、儒教などの学問を始めた。阿刀宿祢大足は、空海の母の兄にあたり、皇太子の家庭教師を務めるほどの学者であったようです。空海が多度郡で生まれたとするなら、15歳の時には平城京の阿刀氏の館に上京していたことになります。
③「十八遊學槐市」 18歳で平城京の大学に入学したこと
④その後の虚空蔵求聞持法を受法したこと

しかし、ここには空海の「15歳での入京」や「大学ドロップアウト」については、なにも触れられてはいません。空海が大学を辞して山林修行の一優婆塞として再出発したというのは、『御遺告』と、それに基づいて作成された多くの空海伝によって語られている説です。『御遺告』については、その名の通り空海の遺言と信じられ、かつてはその内容を疑うことが出来ませんでした。しかし、戦後の研究者が明らかにしてきたのは、『御遺告』の中には後世の「作為」があることです。『御遺告』に書かれていることを、一度疑ってみて空海の生涯を見直そうという動きが研究者の中にはあるようです。

空海の出自等について
卒伝に「讃岐國多度郡人。俗世佐伯直」とあるので、讃岐国多度郡出身であり、佐伯直氏であったことが分かります。また『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条には、「讃岐國多度郡故佐伯直田公」について「田公是大僧正也」あり、父は佐伯直田公であったと記します。
 
 空海の出自について、現在の研究者たちが根本史料とするのは入唐の直前に作成された延暦24年(805)9月11日付太政官符案です。この平安末期の写本が、大和文華館に収蔵されています。内容は、遣唐使の一員として入唐することになった留学僧空海への課税停止を命じた内容です。これを見てみましょう。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
        延暦24年9月11日付 太政官符

大政官符 治部省
 留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上
 佐伯直道長 戸口同姓真魚
右、去る延暦廿二年四月七日出家し入唐す。
□承知すべし。例に□之を度せよ。符到らば奉行せよ.
□五位下□左少弁藤原貞副 左大史正六位上武生宿而真象
延暦廿四年九月十一日
空海(幼名真魚)の戸籍は「讃岐國多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口眞魚」と記します。
①「讃岐國多度郡方田郷」と国郡名に加えて郷名まで記されていますが「方田郷」については「弘田郷」とするのが有力です。
②「戸主正六位上佐伯直道長」
戸主としては佐伯道長とあります。ここから戸主の道長を空海の父と考える説が、後世にはでてきました。「戸主が父」という後世の先入観から、空海の父を道長と誤解したのです。道長は空海の所属する戸の戸主であったことは確かです。でも父ではないと研究者は考えています。
同じようなことは、空海の親族になる最澄についても云えるようです。
最澄の場合、宝亀11年(780)11月10日付の「近江国府牒」や延暦二年(783)正月20日付の「度牒案」に「戸主正八位下三津首淨足戸口」とあります。しかし、伝記類では父が三津首百枝とあります。最澄も戸長と父親は、別人だったことが分かります。

奈良時代の戸籍と戸口のことを見ておきましょう。
 戸とは戸籍の戸ですが、これを今の戸籍のイメージで見ると分からなくなります。先入観という色眼鏡を一旦外す必要があります。日本国憲法の戸籍は、夫婦単位とその間に生まれた子供が一緒に入ったものです。ところが、この時代は一つの戸に、百人もの人数を含んでいました。なぜこんなことになるのかというと、戸籍と班田収授の法に行き着くようです。
 古代国家の成立を「個別人身支配体制の確立」という視点から捉えると、ひとりひとりの人間を国家が戸籍で管理できる体制の出現と規定できます。それでは、今のように家毎に戸籍台帳を作ったのかというとそうではないようです。現在の小家族・核家族ごとに戸籍を作って、その家に支給する口分田を計算するのは煩雑で、非現実的です。そこで考えられたのが、組内とか縁家とかいう呼び方を持つ集団です。地縁や血縁で固まっているような、お互いに顔見知りの集団をまとめて把握しました。その集団に対して戸籍が作られます。そこには血縁関係のある一族が書き上げられ、一つの戸とされました。それから男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。
 つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長がいて、その人が税を集めました。田舎の納税組合の組合長さんみたいなものでしょうか。戸主が、戸全部の税を集めます。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位としての戸というのがあって、その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。
 こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。
佐伯直氏の戸主の話にもどります。
この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直道長です。彼の戸籍には、彼の兄弟や息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並ぶことになります。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年9月11日付 太政官符

「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、道長は正六位上の位階を持っています。
これは多度郡の郡司を勤めるには充分すぎるほどです。一方、空海の父田公の位階がありません。正史では「無冠」でした。つまり、田公は郡司を勤められる立場にはなかったことになります。とすると、佐伯直氏は郡司を務める家であっても、空海の田公は、その資格はなかったことになります。戸籍上は戸主佐伯道長に属するけれども、その本流ではなかったことになります。
 1 空海系図52jpg
松原弘宣氏は、佐伯氏の系図を作成し次のような見解を述べます、

「讃岐国の佐伯直氏が多度郡の部領氏族であり空海を出した一族であることはよく知られて」おり、「倭胡連公、是豊雄等之別祖也」とある。ここからは田公系列以外の佐伯直氏がその直系と考えられる。さらに、佐伯直氏は国造の系譜をひいていることと、道長が正六位上の位階を有していることから、道長が佐伯氏の本宗で、多度郡の郡領であった可能性が高い。(中略)
以上の検討より、多度郡の佐伯直氏は、系図に示した佐伯直田公の系列以外に、図六のような系譜が想定され、この系譜が佐伯直氏の本宗で、奈良時代における郡領を出していたと考えられるのである。
  以上をまとめておくと
①空海の戸籍からは本貫が「讃岐國多度郡方田郷」と記され、「方田郷」は「弘田郷(善通寺)」とされてきた。
②「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、戸主は道長であることがわかる。しかし、道長が祖父であるかどうかは分かならい。道長は官位を持ち、郡長も務めた一族の長であると考えられる。
③一方、空海の父田公は無位無冠で郡長を務めた人物とはいえない。ここから「田公ー空海」は、佐伯直氏の本家ではなく、傍系のひとつの血筋と考えられる。
④佐伯家の本家は後に空海氏の後継者となった実恵の生家などが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 
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前回は、空海を唐から連れ帰ったのが判官・高階真人遠成の船であったことをお話ししました。遠成が乗っていった船と出港時期にについては、次の二つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の第四船として、同じく出発し、漂流の後に遅れて入唐したとするもの(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
その辺りのことを、今回は見ていこうと思います。
     テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
 高階真人遠成とその船については、代表的な論考は次の通りです。
一、木宮泰彦『日支交通史』上巻、 1926年
二、大庭脩「唐元和元年高階真人遠成告身について―遣唐使の告身と位記」1967年
三、高木紳元「兜率の山・高野山への歩み」1984年
四、茂在寅男「遣唐使概観」1987年
五、佐伯有清『若き日の最澄とその時代』1994年
遠成の船が延暦の遣唐使の第四船だったかどうかの観点で、 これらの論考を分類すると次のようになります。
①第4船らしいと推測する立場  木宮泰彦・茂在寅男
②第4船であったと確定する立場   大庭脩・佐伯有清
③第3、第4船ではなく新造船であったという立場 高木紳元

①の「第四船らしい」と最初に推測したのは、木宮泰彦氏で次のように記します。
延暦の遣唐使の第四船は唐に赴いたか否か明らかでない。空海・橘逸勢等が判官高階遠成と共に大同元年八月に帰朝しているのは第四舶ならんか。

と、遠成の船が第四船であった可能性を約百年前に示唆しています。
②の第四船であった説を代表する大庭脩氏は次のように記します。
第三船は判官正六位上三棟朝臣今嗣が乗っていたので、第四船に高階真人遠成が乗っていたことは疑いなく、第四船の消息のみが全く不明ということになる。(中略)
第四船に乗船していた遠成は、恐らく風に流されて遭難したのであろう。そしてその経過を知るよすがもないが、九死に一生を得て唐に到り着き、長安まで行ったのであろう。その時期は明らかではないが、本告が元和元年正月二十八日付の中書省起草の勅であるから、大使葛野麻呂等一行が長安に滞在し、告身を授けられた貞元二十一年十二月よりまる二年後にあたる。(中略)
 彼は大使藤原葛野麻呂と共に帰って来なかった以上大使等の出発後に長安につき、帰国の便を待っていたのであろうから、長くみれば、約一年半は長安で生活していたと考えられる。
大庭脩氏のポイントを要約すると、次のようになります。
①遠成は大使葛野麻呂一行が長安を離れた永貞元年(805)2月10日より後に、長安にたどりついた。
②遠成の船は延暦22年(804)7月6日、肥前国松浦郡田浦を出帆した第四船であり、九死に一生を得て唐に到りついたものである
③遠成は、その後、長安に約1年半滞在した
つまり、第1・2船と同時に出港したが、何らかの理由で第4船は長安への到着が大幅に遅れ、長安にやって来たときには第1・2船の正使・副使は長安を離れた後であった。にもかかわらず遠成は、その後、長安に約1年半滞在し、帰国時に空海を伴ったという説になるようです。どうも私には合点がいかない説です。

同じく第四船であったとする佐伯有清氏は、次のように記します。
ちなみに第四船の消息は、まったく記録されていない。ただし第四船の遣唐判官の遠成が唐の元和元年(806)正月28日、唐朝から中大夫・試太子充の位階・官職を賜わっており、同年(大同元年)十月、留学僧の空海、留学生の橘逸勢をともなって帰国している。帰国の復命は、同年十二月十三日であった。この日に高階遠成は、遣唐の功を賞されて従五位上の位を授けられている。遠成の行動を追ってみると第四船は、難航のすえ、かなり遅れて唐に着岸したようである。遠成は、延暦二十四年の年末ごろに長安に入り、使命を果すことができたのである。

佐伯説は、遠成の船を第四船とみなし、遠成の長安到着を延暦24四年の年末ごろとします。

そのような中で高階真人遠成の入唐目的を新たな視点で語る新説が出てきました。高木諦元氏の説を見ておきましょう。
ちょうどその頃、高階真人遠成が遣唐判官として長安に入り、帰朝の途につくところであった。この時期に、高階遠成が国使として入唐した目的が何であったかは定かでない。『日本後紀』巻十三によれば、帰国した遣唐大使藤原葛野麿が節刀を返還し、朝廷に帰朝報告をしていた頃、詳しくいえば延暦二十四年(805)七月四日に、一般の船が肥前国松浦郡庇良(ひら)嶋、いまの平戸島から出帆して遠値嘉(おちか)島を目指し、唐国へ向おうとしていた。この船は第十六次遣唐使船四艘のうちの行方不明になった第3船であって、判官の三棟今嗣(みむねいまつぐ)らが乗船していた。運悪しく、この船は再び遭難して孤島に漂着し、浸水しはじめた。三棟今嗣らは射手数人を船に残して脱出し、かろうじて生きのびることができた。やがて績が切れて船は漂流しはじめ、積んでいた国信物などとともに行方が知れなくなった。任務を放棄したかどで、判官三棟今嗣は懲罰に付されている。
一年前に難破して入唐を果せなかった第3船を、いま再び渡海せしめようとしたのは、あるいは新たに即位した順宗への朝貢のためであったとも思える。ただ朝貢のためだけであったかどうかは定かでないけれども、しかし、どうしても使節を再び派遣しなければならなかったことは事実であった。三棟今嗣にかわって、遣唐判官には急拠、大宰府の大監であった高階真人遠成が任命された。『類衆国史』に「遠成は率爾に使を奉じて、治行(旅行の準備)に退あらず。その意、衿むべし」とあるのが、そうした事情をうかがわせる。また『朝野群載』には、高階遠成に対する唐朝の位記を載せて「その君長の命を奉け、我が会同の礼に超る。冥法を越えて万里、方物を三際に献ず」とある。「会同の礼」とは、常期ではなく事あるごとに来朝して礼謁することをいうから、やはり、高階遠成の入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったろう。(中略)
 高階遠成が長安へ到着した月日は定かでないが、慶賀の意を表すべき皇帝が予期していた順宗から憲宗にかわっていたとはいえ、所期の目的は達成したことになる。

高木説には、全く新しい視点が二つあります。
その第一は、『類衆国史』の「率爾に使を奉じて、治行に退あらず」に注目して、遠成は延暦24年7月に再び遭難した第三船の判官三棟今嗣にかわって急遽任命され、唐に向ったとみなすこと
第二は『朝野群載』所収の「会同の礼」に注目して、遠成入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったとしたこと
  この説は、派遣目的が分かりやすく時間系列も納得がいくので、小説などではこの説にもとづいて高階真人遠成の遣唐使船の登場が描かれることが多いようです。
しかし、この新説に対しては、次のような疑問点が研究者からは出されています。
第一の疑問点は、805年7月4日に難破した第3船の判官三棟今嗣にかわって、大宰府大監の高階遠成が急遽、遣唐判官に任命されたととする点です。しかし、これが可能であるためには、次のような手続きが求められます。
①第三船の遭難報告が太宰府から都にとどけられる
②朝議での再度の派遣決定と、派遣する官吏の選定
③新遣唐使船建造と新皇帝即位への貢納物の準備・調達
④出発
つまり、使節団長の首のすげ替えだけではすまない話のようです。
 高木説は「中国皇帝の代替わりの新帝への朝貢礼謁のための特別の派遣」としますが、そう簡単に進むことではないようです。まず、遣唐使を派遣するには莫大な費用が必要でした。たとえ、財政面の負担をクリアしても、派遣する官吏の選定があります。前回見たように遣唐使船には一隻について、150名前後のスタッフが必要でした。ただ単に頭数をそろえればいいのではありません。遣唐使は、知乗船事・訳語などの職掌別の専門家集団です。その上、遭難して死者を出した船に乗っていた者は、不吉であるとして忌み嫌われ、再び派遣されるスッタフからは、はずされました。つまり、大部分のスタッフを新たに選ぶ「人材一新」が求められます。これは短期間にできることではありません。
 新たに大宰府の大監を務めていた高階遠成に判官への就任命令が届いたのは、いつごろなのでしょうか。
それからスタッフ選定が行なわれたとしても、都から大宰府への連絡には駅伝制を使っても4~5日は要したようですので、太宰府の遠成への通達は早く見積もっても7月下旬になったはずです。

 すぐに再び遣唐使派遣を考えた場合、帰国したばかりの遣唐大使・藤原葛野麻呂らが乗船していた第一船と、判官の菅原清公らが乗っていた第二船を、派遣することは検討できます。しかし、一度東シナ海を航海したこの隻船は、長い航海のためにボロボロになっていたようです。すでに中国の福州から明州に回航された時点で、第一船は一ヵ月余りの修理を必要としていました。また、乗組員のすべてが大宰府近辺で確保できたかどうかも問題になります。このように考えてくると、船の調達も無理筋のような感じがしてきます。
 問題の第二は、新皇帝への土産物、すなわち貢納品の調達です。
『延喜式』巻三十、大蔵省の「賜蕃客例」には、大唐の皇帝への賜物の規定が事細かく記されています。遠成の入唐の目的が唐の新帝への朝貢礼謁であったとするならば、贈り物は欠かせません。
その準備に時間を要したはずです。前回見たように、通常の遣唐使派遣は3年前には、正使・副使が決定し、貢納品などの準備を整えていました。遠成が前任者にかわって急遽派遣されたという説は、船の確保と貢納品の調達という問題をクリアできないと研究者は考えています。
 次に遠成一行の長安到着がいつであったかを推察し、そのことから逆算して、遠成等の日本出発の時期を見ておきましょう。
遠成は、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位記を授けられています。ここからこの時点で長安に滞在していたことが分かります。それなら遠成らは、いつごろ長安に入ったのでしょうか。遠成一行が長安に到着したのは、位記を授けられた前年、すなわち延暦24年(805)の年末頃ではなかったかと研究者は推測します。それは、前年の第一船の高野麻呂一行が何としても新年の朝賀の儀に間に合うように、「星に発ち星に宿り、晨昏兼行す」と昼に夜をついで長安への旅を急ぎに急いだことから想起されます。大唐帝国に朝貢にやってくる各国の使節団は日本だけではありません。日本は朝貢国のひとつにしかすぎません。唐側は、新年の年賀の挨拶にやって来ることを最も重視していたようです。
 遠成も当然、「新皇帝による最初の新年朝賀の儀」への参加を目指していたはずです。だとすると逆算して、いつごろ日本を出発しなければならい計算になるのでしょうか。
 前年の第一・二船は7月6日に、肥前国田浦を出帆しています。
①福州に漂着した第一船の一行は、12月23日に長安到着
②明州に上陸した第二船の一行は、11月15日に長安到着
 翌年の正月の朝賀の儀に列席するためには、7月中の日本出発がタイムリミットだったようです。これを先ほど見た第三船の遭難から再度の派遣決定、派遣吏員の選定、船の確保と整備、貢納物の調達といったことを重ね合わせると、急遽遠成が遣唐使判官に任命されても、すぐに出発することは無理だったことが推測されます。
 以上から修理された第三船遭難後に、遠成が急遠判官に任命され、派遣されたとみなす説は無理筋だと研究者は考えているようです。

第4の疑問点は、遠成の入唐目的が新帝への朝貢礼謁だったという点です。
高木説は、遠成は第3船の判官今嗣にかわって派遣されたものとします。とすると、前任者であった今嗣の入唐の目的も、新帝への朝貢礼謁のためであったことになります。本当に、今嗣の入唐は新帝への朝貢礼謁のためだったのでしょうか。
新帝への朝貢礼謁のためとされる使節派遣は、いつ決定されたかという点を、時間的経過で追ってみます。
唐朝の皇帝が亡くなって、徳宗から順宗に移ったとの知らせがわが朝廷にもたらされたのは、第一船の遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告書によるものだったことはまちがいないでしょう。葛野麻呂は、延暦24年(805)6月5日、対馬島下県郡に帰着し、同月八日付で長文の帰国報告書を都に書き送っています。そこには、次のように記します。
廿一年正月元日於入己元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雅王(徳宗)通崩。春秋六十四。廿八日臣等於・五天門・立レ使。始着素衣冠。是日太子(順宗)即‐皇帝位・。

ここには、貞元21年(805)正月23日徳宗が64歳で崩御し、代わって1月28日順宗が帝位についたことが記されています。この6月8日付の帰国報告書は、当時の山陽道の駅伝の通信能力からして4~5日後には都に届けられていたはずです。この報告書をみて、ただちに新帝順宗への朝貢のための使節派遣が決定されたとは思えないと研究者は云います。派遣の議は、正使の藤原葛野麻呂の上京・復命をまち、直接詳しい報告をきいた上で、執り行なわれるというのが手順ではないかと云うのです。肥前から藤原葛野麻呂が上京し復命したのは7月1日です。
第3船が肥前を出帆したのは7月4日です。
第3船がずいぶん以前から出発の準備を万端ととのえていて、出発のゴーサインをまつばかりとなっていたとしても、時間的には間に合わない計算です。もし仮に、6月8日付の葛野麻呂の帰国報告書を見て、朝議で派遣決定がされたとしても、先ほど見たように150名もの遣唐使スタッフの選定、遣唐使船の確保、貢納物調達の時間を考えると、20日足らずの短期間に、出帆までこぎつけられたとは不可能と研究者は考えているようです。
 以上から遠成が、葛野麻呂の帰国報告書にもとづいて新帝への朝貢礼謁のために派遣されたとは云えないとします。今嗣の乗った第三船は、葛野麻呂の帰国とは全く別の目的・理由で、唐に向かったことになります。しかし、それがなんであったのかは分からないままです。

高階遠成の入唐が新帝への朝貢礼謁のためであったかどうかを肩書きの視点で見ておきましょう。
遠成の入唐の際の肩書の記載を年代順に見てみると、すべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」「判官」です。遠成の肩書は「判官」です。高階遠成が、新帝への朝貢礼謁という特別の任務を帯びて新たに派遣されたとすれば「遣唐判官」の肩書きは相応しくないと研究者は指摘します。今嗣にかわって遠成が派遣されたとしても、今嗣の肩書も「判官」でした。また今嗣が乗っていた船は「遣唐使第三船」と記されています。新帝への朝貢使として新たに派遣されたのであれば、正使も遣唐使船もその役割にふさわしい肩書をもって入唐したのではないかという疑問です。船も第三船ではなく、第一船とするのが相応しいはずです。しかし、今嗣・遠成の肩書はともに「判官」であり、今嗣の船は第三船と記されています。

    以上から研究者は次のように結論づけます。
①遠成の船は、第三船ではなかったこと。
今嗣の遭難から再度の派遣決定・出帆にいたる時間的経過、遠成の長安到着の時期などを勘案すると、遠成が今嗣にかわって派遣されたとみなすことはできない。第3船は、座礁し、貢納物を乗せたまま行方知れずとなっているので、遠成の船は第三船ではない。
②遠成の肩書はすべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」など「判官」と記す。
遠成は「判官」の資格で入唐したのであって、新皇帝即位祝賀の特別の任務を帯びて入唐したとは思えない。延暦の遣唐使の一員であったと考えるのが妥当。このときの遣唐使船四隻のなか、第一・二船は、無事に任務を終えて帰国し、第三船は、行方知れずとなっている。残るのは第四船だけでなので、遠成が乗った船は第四船だったとしか考えられない。
③大同元年(806)12月13日、遠成の復命記録には次のように記されているだけである。
 大同元年十二月壬申、遣唐判官正六位上高階真人遠成授従五位上、遠成率爾奉使、不違治行、其意可衿、故復命日持授焉、

ここには、簡単に入唐した事実が簡略に記されているだけです。もし特別の任務を帯びての入唐使節だったのなら、それにふさわしい文言があってしかるべしと、研究者は考えているようです。このことも、遠成の入唐が特別の任務を帯びたものでなかったことを物語るものだとします。

  以上から、高階遠成は、第三船の判官三棟今嗣にかわって派遣されたのではなく、入唐の目的も新帝への朝貢拝謁のためではなかったと研究者は結論づけます。だとすると遠成の入唐目的はなんだったのでしょうか。ここで最初に示した「遠成の船は延暦の遣唐使船の第四船」説にもどります。

記録に、「率爾に使を奉り、治行に違あらず」とあるので、遠成は延暦の遣唐使の派遣が決定された当初に任命された判官ではなかったと研究者は考えます。では、いつ選ばれたのでしょうか。延暦の遣唐使は延暦22年(803)4月16日難波津を出発しますが、5日後に瀬戸内海を航行中に嵐に遭い、この年の派遣は中止されたことは前回にお話しした通りです。そこで船の修理後、翌年7月6日に、四隻の遣唐使船はそろって肥前国松浦郡田浦を出帆します。しかし、翌日7日には第三・四船との火信がとだえてしまいます。
  このとき第三、四船は、おそらく再度遭難したと研究者は考えているようです。そして、第三船は座礁・漂流し行方不明となります。第四船は博多にもどり、改修を受け翌年の延暦24年になってあわただしく出発したというのです。その際に、それまでの判官では不吉だというので、新たな判官が選ばれます。それは大宰府に在住していた人々を中心に人選が行なわれます。

『日本後紀』延暦二十四年(805)七月十六日の条は、第三船の三たびの出発と遭難、そして判官今嗣らへの処罰のことだけしか記されていません。しかし、このとき第三船とともに第四船も出発していたと研究者は考えています。遠成がいつ長安に到着したかは分かりませんが、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位を賜わっています。ここからは遅くともこの年のはじめには長安に到着していたことになります。そして逆算すると、遅くとも前年の七月には九州を出発していなければならないことになます。それは第三船の出発した7月4日と、時間的にぴったり一致します。
  以上から、高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと次のようになります
①急遠判官に任命された遠成を乗せた第四船は、延暦二十四年(805)七月四日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③これに対して第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」として、評価しようとする動きもあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

入唐 遣唐使船

遣唐使船復元模型

空海と最澄は、延暦23年(804)七月出帆の遣唐使船で入唐を果たしています。この時の4隻の船の内の第1船に空海、第2船に最澄が乗船していました。この遣唐使船について、私はよく分かっていませんでした。特に、第3・4船の動きが不可解なのです。今回は、この2隻に焦点を当てながら九州をはなれるまでの動きを追ってみたいと思います。テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
この時の遣唐使団について、従来から問題とされている点を挙げると次のようになるようです。
① 延暦の遣唐使の目的は何だったのか。わが国に何を持ち帰るために派遣されたのか。
② その成果は、どうだったのか。この遣唐使によって、何がわが国にもたらされたか。
③ 遣唐使の組織は、どのようであったか。
④ 遣唐使船の最後の寄港地はどこだったのか。
⑤ 延暦の遣唐使は、国書を持参していたのか
⑥ 空海が帰国時に乗船した判官高階真人遠成の船は、何の目的で再度入道したのか。はたして延暦の遣唐使の第四船だったのか否か。

この中の②については、空海と最澄による密教の請来がすぐに答えられます。しかし、その他については、今も議論が続いているようです。今回は③④⑥について、現時点で研究者はどのように考えているのかを見てみることにします。
③の遣唐使の組織について、研究者は次のような表を作成しています。
空海入唐 遣唐使スタッフと報酬
延喜式の遣唐使スタッフと手当表

遣唐使は「臨時業務」だったので、その都度編成されていました。そのため組織の規模・構成は、その都度異なるようです。延喜五年(905)に完成した『延喜式』には、遣唐使のスタッフに支給される手当が別表のように規定されています。今でもサラリーを見ると、組織におけるその人物の位置や重要度がある程度は分かります。そんな世俗的な視点で遣唐使たちへのサラリー(支給品)を見てみましょう。
ちなみに留学生・学問僧(留学僧)は「施四十疋、綿百屯、布八十端」とあります。これを上表で見ると副使のサラリーとほぼ同じ待遇であったことが分かります。ここからは、留学僧・還学僧に対する待遇の高さと期待がうかがえます。
 また大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・学問僧・還学僧のスタッフには、「別賜」として彩吊と費布が別に支給される規定になっています。 ここからは、留学僧が遣唐使の中枢メンバーであったことがうかがえます。

延暦の遣唐使の総人員はどのくらいで、どんな人物が任命されたのでしょうか
延暦の遣唐使は、宝亀九年(778)12月の送唐客使以来、24年ぶりの派遣でした。延暦二十年(801)8月庚子(十日)遣唐使の任命が行なわれ、藤原葛野麻呂が大使に、副使には石川道益が任ぜられ、あわせて判官・録事それぞれ四名も発令されます。前後の遣唐使の総人員は、次の通りです
霊亀二年(716)八月癸亥(二十日) 557名
天平四年(732)八月丁亥(十七日) 594名
承和元年(834)正月       651名
ここから推測すると延暦の遣唐使も600名前後で構成され、四船に分かれて出発したとされています。その中で具体的な人名が分かっているのは、次表の二十数名だけのようです。これは本宮康彦・森克己・鈴木靖民・田島公の各研究者たちによって、明らかにされている人物名を表にしたのものです。

空海入唐 遣唐使スタッフ氏名一覧
○がついているのが、各研究者がスタッフであったと認める人物です。空海や最澄・橘逸勢などは、もちろん全員の○がついています。しかし、留学僧の霊仙・金剛・法道・護命・永忠に関しては、意見が分かれていようです。大使・副使・判官・録事などについては「定説」となっているようです。確定的な人物名を記しておきます。
大使 藤原葛野麻呂、
副使 石川道益、
判官 菅原清公・三棟今嗣・高階遠成。甘南備信影、
准判官 笠田作
録事 山田大庭・上毛野頴人、
准録事 朝野鹿取、
留学僧 空海・円基、
留学生 橘逸勢・粟田飽田麻呂、
請益僧(還学僧) 最澄
最澄の訳語僧 義真、
係徒 丹福成、
写経生 真立人、
碁師 伴小勝雄、
舞生 久礼真(貞)蔵(茂)・和爾部嶋継、
楽生 舟(丹)部頭麻呂
以上の二十三名は、ほぼ信じてよいと考えられているようです。

出発までの動きを年表で見ておきましょう。
801 8/10 大使に藤原葛野麻呂を、副使に石川道益を任ず。
また、判官・録事各四人を任ず〔紀略13〕
802 4/15 朝野鹿取を遣唐録事に任ず〔補任〕。
9/8 最澄、上表して入唐求法を請う〔叡山伝〕
9/12 最澄の入唐を許す〔叡山伝。釈書1〕
円基。妙澄、天台留学僧として入唐を許される〔叡山伝〕
10/20 最澄が、通訳として義貞を伴うことを請許される
803 2/4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う〔紀略13〕
 3/14 遣唐使に彩吊を賜う〔紀略13〕
   3/18 遣唐使等、朝堂院において拝朝す〔紀略13〕
 3/19 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
  葛野麻呂は御被三領・御衣一襲・金二百両、
道益は御衣一襲。金一百五十両を賜う〔紀略13〕
   4/2 大使・副使等辞見し、節刀を授けられる〔紀略13〕
   4/7 空海、出家得度す〔続後紀4〕。 一説に延暦23年
 4/9 空海、東大寺戒壇院にて具足戒を受く。 
 4/14 遣唐使、難波津頭において乗船す〔紀略13〕
 4/16 遣唐使、難波津を進発す〔紀略13〕
 4/21 遣唐使船、暴雨疾風に遭う。
明経請益生大学助教豊村家長、波間に没す
  4/23 大使藤原葛野麻呂、暴雨疾風に遭い渡航不能を報告す。
   右衛士少志日下三方を遣して、消息を問わしむ
4/25 大使藤原葛野麻呂等、上表す〔紀略13〕
4/28 典薬頭藤原貞嗣・造宮大工物部建麻呂等を遣して、遣唐舶ならびに破損雑物を修理せしめる〔紀略13〕
5/22      遣唐使、節刀を奉還す。
船舶の損壊により渡海するあたわざるによる
  延暦22年(803)発の遣唐使船は、2年前の801年8月には大使と副詞、判官などのメンバーが決定されています。同時に、船が安芸国で建造され始めたようです。そして、802年には最澄の短期留学僧としての派遣が決定しています。しかも、最澄には専属の通訳僧の同行も許されています。ところが空海の名前は、この時にはありません。空海がこの年の検討線に乗っていたかについては、次の2つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の最初から加わっていたとするもの(延暦22年説)
② 一度渡海に失敗し、再度の進発をした時点で加わったとするもの(延暦23年説)

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難波津 住吉神社の鳥居前の碑文
4隻の船が安芸から難波に回航され、諸物資を積み込み、使節が乗り込んだのは4月14日です。その2日後の16日に難波津を出港して瀬戸内海を西航して那津(博多)を目指しました。ところがそのわずか5日後の4月21日に瀬戸内海を航海中に暴風疾風に遭って碇が使用できず、制御不能となり破損し「航行不能」状態になってしまいます。そのため専門家を派遣して修理を行わせています。しかし、短期間で修繕できるものではなかったようで、5月22日には遣唐使団長は「船舶の損壊により渡海するあたわざるによる」と節刀を一時奉還しています。この時には難波津を出発して5日目に瀬戸内海で難破してしまったようです。どの辺りで難破したのか、5日目というと順調なら鞆か尾道あたりでしょうか。被害を受けたのは何隻かなどを知りたいのですが、史料には何も記されていません。

平城京歴史館/遣唐使船復元展示 | 徒然日記 (NO3)

 遣唐使船の歴代総数は40隻あまりですが、そのうち12隻が難破・遭難しています。
無事に渡海できる確率は2/3程度だったことになります。その理由として、従来は次のような理由が云われてきました。
①季節風を知らなかったこと、
②造船技術をはるかに上回る大きさの船を無理に造ったこと、
③前の航海の経験が次の航海にはほとんど生かされていなかったこと、
しかし、①③に関しては、次のような異論も出ています。
①の季節風については、遣唐使の航海に関する史料の検討から、風についての知識は現代のわれわれよりよく知っていて、従来の経験が生かされなかったわけではない。
②の船については、150名近くの乗船のために、全長16m、幅7m前後、総トン数で160トン前後のずんぐりした船だったと推定される。その当時、中国・朝鮮半島諸国で造られる大きい船でも、せいぜい70人乗り程度であったので、遣唐使船は特別大きな船だったことになります。
遣唐使船 ・ 奈良平城宮跡 (奈良県) - 気ままな撮影紀行
復元された遣唐使船(平城京公園)
これに関しては、専門家は、次の二つを指摘されています。
第一は、東シナ海を渡る航路をとる必要や、人とモノを載せる必要から技術力以上の大型の船を造らぎるえなくなり、構造的に無理があった
第二は、船の総重量や荷物を多く積み込みすぎたことも遭難の大きな要因であった。
つまりは、船の大型化と操船に問題があったようです。 延暦22年(803)発の遣唐使船も、同じような問題を抱えていたのでしょう。
 多島海で潮流の複雑な瀬戸内海は、当時の帆走技術では大きな船体の遣唐使船は、操船が難しくて自力航海することはできなかったと専門家は考えているようです。そのため多数の大船(準構造船)で、遣唐使船を曳航したようです。その中で、強風で流されての船体破損事故だったのでしょう。
船が修理されて、翌年に再度出港するまでの動きを年表で見ておきましょう。
804 1/13 □□朝臣今継、三棟朝臣を賜う〔後紀12〕
3/5 遣唐使、拝朝す〔後紀12・紀略13〕
3/25 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
とくに恩酒一堺・宝琴一面を賜う〔後紀12・紀略13〕
3/28 大使藤原葛野麻呂に節刀を授く〔後紀12。紀略13〕
  5/12 空海、大使藤原葛野麻呂とともに第一船に乗り、入唐の途に上る〔集記〕

 この時の遣唐使船は船の修理後、翌年延暦23年(804)3月28日に、改めて、大使藤原葛野麻呂に節刀を授けられています。そして、5月12日に大使藤原葛野麻呂が率いる4隻の船は難波津を出港していきます。この時に、第一船に空海も乗船していたと「集記」にはあります。前年の出港の際には、空海の名前はないようです。難破事件で一年遅れにならなければ、空海の入唐はなかったことになるようです。
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 難波津 住吉神社から出港する遣唐使船

東シナ海へ出て以後の動きを年表で押さえておきます。   
804年7/6遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
9/18 兵部少丞大伴太「万里を新羅に派遣す。未審の二船が漂着した場合のためなり
9/26 最澄、台州に到る。
難波津から約2ヶ月足らずで、那津(博多)を経て、松浦郡田浦までやって来ています。4船は、ここから出発しています。
司馬遼太郎(『空海の風景』)に、次のように記します。
されていたのを読んだことがあるからです。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きる。 
 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つ。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのだ。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。 
 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
 ここで司馬遼太郎氏が書いていることをまとめておくと
①最後の寄港地は、五島列島の久賀島の「田ノ浦」である。遣唐使大使の葛野麻呂が帰国後に提出した報告書(『日本後紀』)に、そう書かれている。
②最後の寄港地である久賀島の「田ノ浦」で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待った
③真夏の逆風の季節をえらんで出帆することから分かるように、当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
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舳先で悪霊退散を祈祷する空海

①について『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を確認してみましょう。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 これが遣唐使大使の正式報告書です。ここには最後の寄港地は「肥前国松浦郡田浦従リ発シ 四船海ニ入ル。」とあります。
「肥前国松浦郡田浦」については、2つの説があるようです。
①ひとつは、現在の平戸の北端の田浦
②もうひとつは五島列島の久賀島の「田ノ浦」

7月6日に「田ノ浦」を発って以後の4船の航路をたどってみましょう。
 順風をとらえて東シナ海を西に進み西方沖で潮に乗って南下しようとします。ところが翌朝に逆風に遭い、強風と逆波にさえぎられて南下できなくなります。帆をあげて西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしますが、済州島の方向に押し流されます。

  肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。

とあるので、夜八時~九時頃に、五島列島を遠く離れた西の海域で四船は、散りぢりになったようです。そして、福州近くの赤岸鎭に漂着する8月10日まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいたことになります。

空海入唐 空海と最澄の漂着地
三井楽を最終寄港地とする立場の航路図
 松浦郡田浦を出て、翌日の7月7日の夜には、漂流を始めたのです。最終寄港地は「肥前国松浦郡田浦」です。今の平戸市北端の田浦の岬の上には弘法大師像が建立され、平戸市と善通寺市が姉妹都市を締結しているようです。
平戸の史跡・名所案内|旅館田の浦温泉(公式ホームページ)
平戸市田浦の弘法大師像

 これに対して五島列島の三井楽町柏崎の海辺には、「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っているようです。
三井楽(みみらくの島)(五島市)
三井楽町柏崎の「辞本涯」 
三井楽も空海が参加した第十六次遣唐使船団の最終寄港地だと名乗りを上げているようです。しかし、つまり平戸と、三井楽では最終寄港地をめぐる争論が展開されてきたのです。

 最澄の乗った第2船は、7月下旬に、明州郡県に漂着し、9月1日には判官菅原清公以下27名が、明州を発ち長安に出発しています。
それでは第3・4船は、どうなったのでしょうか。
「空海の風景」には、次のように記されています。

「第三、第四両船、火信応ゼズ」と書いている。火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
  
   司馬遼太郎氏は、第3・4船は海に消えたというのです。
しかし、史書には2隻は遭難エリアから那ノ津(大宰府)に引き返していることが記されています。そして、船体修理後に翌年の延暦24年7月4日に、肥前国松浦郡庇良島(平戸の田ノ浦)から、遠値賀島(五島列島の福江島)に向けて出港しています。瀬戸内海での難破から数えると3度目の出港になります。ところが第三船は、出港まもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は船を捨てて上陸します。船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったようです。

空海入唐 田浦

第3船の難破事件は大宰府から朝廷に、次のように報告されています。
 遣唐使第3船は、805年7月4日、肥前国松浦郡庇良島から遠値嘉島をさして出帆したところ、南風にあって孤島に漂着し、船は岩間にはさまれ、海水に満たされてしまった。そこで責任者の今嗣らは岸に上がって脱出した。が、船の積荷は公物・私物何一つとして船からおろす暇もなかった。船には数名の射手を残していたが、結が切れて漂流しはじめ、その行方はわからなくなった

  これは、責任問題となったようです。船を見捨て下船した今嗣に対する処罰記事が「日本後紀」にはあります。
船の最高責任者の使命を忘れて、みずからの命をながらえることのみを考え、船の積荷を放棄し、下船した責任を問うて厳罰を加えるべし、との勅が下されます。これは、当然のことでしょう、船長が乗船者がいる舟を放棄しているのですから。どちらにしても、第3船は3度目の出航後に、五島列島の北で座礁難破し、漂流を開始し行方不明になります。3度出港し、一度も渡海できなかった船になるようです。
  最後に第4船を見ておきましょう
第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆します。今見たように第三船は、運悪く三たび難破します。これに対して、遣唐副使判官の高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)を乗せた第四船は、「三度目の正直」で中国にたどり着きます。高階遠成は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀にも参列する栄華を得ます。この時に空海は、密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後だったのです。そこに、突然に、遣唐使がやってきたことになります。前回、お話ししたように、空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,やてきた高階遠成に相談したのでしょう。空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国できるようになったのは、この遣唐使船がやってきたからです。それだけではありません。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
「与本国使諸共帰啓」
空海が皇帝に「与本国使諸共帰啓」を上申書を提出することを認めたからです。これは、現地での彼の独断です。帰国後に朝廷からの処罰を受ける可能性もあったはずです。もし、遠成の許可がなければ、空海の帰国は実現しなかったのです。そういう意味では、遠成は空海の密教招来に手を貸すという大役を果たしたことになります。また彼は皇帝代替わりの新年朝貢の儀にも参列し、中国の史書に名前をとどめる栄誉をうけてもいます。ちなみに空海の名前は、史書にはありません。また他の中国側の史料にも空海の名前はありません。

高階遠成略年譜──空海を連れて帰った人   
806 1 空海・橘逸勢が、高階真人遠成とともに帰国することを請う(性霊集5)
806 8 遠成が空海等とともに、明州を発ち、帰国の途につく
806 10/22 空海が高階真人遠成に託して「新請来経等目録』を進献す(御請来目録)
806 12/13 遣唐判官正六位上高階真人遠成、復命す。
この日、従五位上を特授される(類衆国史99)
811 5/10 従五位上高階真人遠成、主計頭となる
   6/16 従五位上高階真人遠成、民部少輔となる(同右)
812 3/12 民部少輔高階真人、高雄山寺において空海から結縁灌頂を受く
12/19 「従五位下少輔高階真人遠成」と民部省符に署名す(平安遺文1)
813 2/13 従五位上高階真人遠成、大和介となる(日本後紀22)
815 1/7 従五位上高階真人遠成、正五位下に叙せらる(日本後紀24・類衆国史99)
816 1/7 正五位下高階真人遠成、従四位下に叙せらる(類衆国史99)
818 3/21 散位従四位下高階真人遠成、卒す。年六十三(日本紀略前篇14)
  

以上をまとめておくと
①空海が遣唐使の留学僧に選ばれる前年に、遣唐使船は一度出港していた。
②しかし、その時には出航後わずか5日後の瀬戸内海で難破し、航行不能となった。
③翌年に改めて遣唐使船は出港するが、この時に空海は第1船に乗り組んでいる。
④平戸の北の田浦を出た4船は、五島列島を目指すが強風にあり散りじりになった
⑤空海の乗った第1船と、最澄の乗った第2船は、それぞれ中国に漂着し、長安を目指した。
⑥しかし、第3・4船は船に大きなダメージを受けて博多に引っ返し、1年かけて修理した。
⑦そして、再再度出港したが第3船は、孤島に漂着し破船・漂泊、
⑧第4船は3度目の挑戦で入唐を果たし、遣唐副使判官の高階真人遠成長安を皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

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室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

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正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
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       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
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このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

 空海には謎の行動がいくつかあります。そのひとつが帰国後の九州滞在です。
弘法大師・空海は下関市筋が浜町に帰国上陸した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

空海は806年8月に明州の港を出帆しますが、いつ九州へ着いたのかを記す根本記録はないようです。10月23日に、自分の留学成果を報告した「御請来目録」を宮廷に提出しているので、それ以前に帰国したことはまちがいありません。ここで、多くの空海伝は入京を翌年の秋としています。とすれば九州に1年いたことになります。この根拠は大和国添上郡の虚空蔵寺について、「正倉院文書抄」が大同二年頃に空海が建立したと書かれているからです。
空海―生涯とその周辺 (歴史文化セレクション) | 高木 〓元 |本 | 通販 | Amazon

しかし、この文書については、高野山大学の学長であつた高木伸元は、『空海―生涯とその周辺―』の中で、この記述は後世の偽作だと論証しています。そして空海が入京したのは、大同四年(809)4月12日の嵯峨天皇の即位後のことであるとします。そうだとすると、空海は2年半も九州に居たことになります。
 どうして、空海は九州に留まったのでしょうか。あるいは留まらざる得なかったのでしょうか。
この答えは、簡単に出せます。入京することが出来なかったのです。空海は長期の留学生として派遣されています。阿倍仲麻呂の例のように何十年もの留学生活が課せられていたはずです。それを僅かな期間で、独断で帰国しています。監督官庁からすれば「敵前逃亡」的な行動です。空海は、そのために自分の持ち帰ったものや書物などの目録を提出して、成果を懸命に示そうとしています。しかし、それが宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったということです。そこには最澄の「援護射撃」もあったようです。まさに九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。
スポット | たがわネットDB
香春神社
それでは、その間に空海は何をしていたのでしょうか?
その行動はまったく分からないようです。研究者は、二年半の九州滞在中に、宇佐や香春の地など、秦氏関係地をたずねて、その地にしばらく居たのではないかと推測します。この期間が結果として秦氏との関係を深めることにつながったと云うのです。
伊能忠敬が訪れた香春神社がある香春町の街並み。後方は香春岳の一ノ岳 写真|【西日本新聞ニュース】
香春岳のふもとに鎮座する香春神社(秦氏の氏神)
「空海=宇佐・香春滞在説」を、裏付けるものはあるのでしょうか?
①秦氏出自の勤操は、空海が唐に行く前から、虚空蔵求聞持法を通してかかわっていた
②空海は故郷の讃岐でも秦氏と親しかった
③豊前の「秦王国」には虚空蔵菩薩信仰の虚空蔵寺があった。
④虚空蔵寺関係者や、八幡宮祭祀の秦氏系の人々は、唐からの帰国僧の空海の話を聞こうとして、宇佐へ呼んだか、空海自身が八幡宮や虚空蔵寺へ出向いた(推理)
⑤最澄は入唐前に香春岳に登り、渡海の平安を願ている。最澄が行ったという香春へ、空海も出向いた(推理)
⑥「弘法大師年譜』巻之上には、空海は航海の安全を祈願して香春神社・宇佐八幡官に参拝し、「賀春明神」が「聖人に随いて共に入唐し護持せん」と託宣したと記す。
⑦空海は虚空蔵信仰の僧であった。
⑧和泉国槙尾山寺から高雄山寺へ入寺した空海は、「宇佐八幡大神の御影を高雄寺(高雄山神護寺)に迎えている」と書いている。虚空蔵寺のある宇佐八幡宮に空海がいたことを暗示している。


空海に虚空蔵求聞持法を教えたといわれている勤操は、空海の師と大和氏は考えています。そして、次のように推測します。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」

 この期間に勤操は「遊行中」で所在不明となっている。唐から帰国して九州にいた空海に会って、虚空蔵求聞持法についての新知識を聞いたりしていたのではないか

「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」

以上のような「状況証拠」を積み重ねて、2年半の九州滞在中に空海は師である勤操と連絡をとりながら、八幡宮の虚空蔵寺や香春岳をたずねたのではないかと大和氏は推察します。

虚空蔵寺跡

  虚空蔵寺は、辛嶋氏の本拠地辛嶋郷(宇佐地方)に7世紀末に創建された古代寺院で、壮大な 法隆寺式伽藍を誇ったようです。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられます。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺は、この虚空蔵寺を改名したものです。秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があったようです。
法蓮は新羅の弥勒信仰の流れを引く花郎(ふぁらん)とも言われます。
彼は7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学びます。そして、「秦王国」の
霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術(巫術)に長じていたとされます。
 このような秦氏の拠点と宗教施設などで、
空海は九州での2年半の滞在を過ごしたのではないか。その中で今まで以上に、秦氏との関係を深めます。それを受けて、秦氏は一族を挙げて、若き空海を世に送り出すための支援体制を形成してきます。その支援体制の指揮をとったのが空海の師・勤操ということになるのでしょうか。大和氏の描くシナリオは、こんな所ではないでしょうか。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」


以前に空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかについて、探ったことがあります。それは、若き日の空海の師は誰であったのかにもつながる問題になります。この問題に積極的に答えようとしているが大岩岩雄の「秦氏の研究」でした。その続編を、図書館で見つけましたので、これをテキストに空海と秦氏の関係を再度追ってみたいと思います。
秦氏と空海の間には、どんな関係があったのでしょうか。
本城清一氏は「密教山相」で、次のように述べています。(要約)
①空海は宝亀五年(774年)讃岐で出生し、母の阿刀氏(阿刀は安都、安刀とも書く)は新羅から渡来の安刀奈末(あとなま)の流れをくむ氏族で、学者や僧侶、書紀などを数多く輩出した。
②空海は、母の兄の阿刀大足より少青年期に論書考経詩文を学んだ
③空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
④泰氏の政治、経済、開発殖産、宗教等の実力基盤は、治水灌漑等の土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
⑤その中には多くの鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
⑥空海の生涯の宗教指導理念は一般民衆の精神的な救済とともに、物質的充足感の両面の具現にあった。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏への依存意識も空海の中にはあった。
⑦空海は、秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑧空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内に存在し、(中略)空海の平安京での真吾密教の根本道場である東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神である)。これも秦氏を意識している。
⑨空海は讃岐満濃池等も改修しているが、これも秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑩空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。秦氏族の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)があり、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑪平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が八名もある。
⑫讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した氏寺である。
⑬金倉寺には泰氏一族が建立した神羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係は深い。

秦氏と空海

ここからは、空海の生きた時代に讃岐においては、高松市一宮を中心に秦氏の勢力分布が広がっていたこと。それは、秦氏ネットワークで全国各地ににつながっていたことが分かります。讃岐の秦氏の背後には、全国の秦氏の存在があったことを、まずは確認しておきます。

秦氏の氏神とされる田村神社について以前にも紹介しましたが、もう一度別の視点で見ておきましょう。
渡辺寛氏は『式内社調査報告。第二十三巻』所収の「田村神社」で、歴代の神職について次のように記します。

近世~明治維新まで『田村氏』が社家として神主職にあったことは諸史料にみえる。……田村氏は、古代以来当地、讃岐国香川郡に勢力を持った『秦氏』の流れであると意識していたことは、近世期の史料で認めることができる。当地の秦氏は、平安時代において、『秦公直宗』とその弟の『直本』が、讃岐国から左京六条に本居を改め(『日本三代実録」元曜元年〈八七七〉十二月廿五日条)、さらにその六年後、直宗・直本をはじめ同族十九人に『惟宗朝臣』を賜った(同、元慶七年十二月廿五日条)。
 彼らは明法博士として当代を代表する明法道の権威であったことは史上著名であり他言を要しない。……当社の社家がこれら惟宗氏のもとの本貫地の同族であるらしいことはまことに興味深い。当社が、讃岐一宮となるのも、かかる由緒によるものであろうか」

この時代の秦氏関係の事項を年表から抜き出してみると
877 12・25 香川郡人公直宗・直本兄弟の本貫を左京へ移す
882 2・- 藤原保則,讃岐守に任命され,赴任する
883 12・25 左京人公直宗・直本兄弟ら,秦公・秦忌寸一族19人,惟宗朝臣の姓を与えられる
 泰直本から姓を変えた惟宗(これむね)直本は、後に主計頭・明法博士となり、『令集解』三十巻を著します。当時の地方豪族は、官位を挙げて中央に本願を移し、中央貴族化していくのが夢でした。それは空海の佐伯直氏や、円珍の稲城氏の目指した道でもあったことは以前にお話ししました。その中で、讃岐秦氏はその出世頭の筆頭にあったようです。
古代讃岐の豪族3 讃岐秦氏と田村神社について : 瀬戸の島から
讃岐国香川郡に居住の秦の民と治水工事             
『三代実録』貞観八年(866)十月二十五日条には、讃岐国香川郡の百姓の妻、秦浄子が国司の判決に服せず太政官に上訴し、国司の判決が覆されたとあります。その8年後に同じ香川郡の秦公直宗・直本は讃岐から上京し、7年後に「惟宗」の姓を賜り、後に一人は明法博士になっています。秦浄子が国司の判決を不服とし、朝廷に訴えて勝ったのは、秦直宗・直本らの助力があったと研究者は考えているようです。
 この後に元慶6(886年)に讃岐国司としてやってきた藤原保則は讃岐のことを次のように記しています。
  「讃岐国は倫紙と能書の者が多い」
  「この国の庶民はみな法律を学んで、それぞれがみな論理的である。村の畔をきっちりと定めて、ともすれば訴訟を起こす」
 讃岐については、比較的法律に詳しい人が多く、かえってやりづらい。こちらがやり込められるといった地域性が「保則伝」から見えてきます。讃岐国では法律に明るい人が多く、法律を武器に争うことが多いというのですが、その中心には讃岐秦氏の存在がうかがえます。
 このような讃岐の秦氏のひとつの象徴が、都で活躍した秦氏出身の明法博士だったとしておきましょう。

讃岐国一宮 田村神社 初詣 金運 学業 子宝等たくさんのご利益 高松市 | あははライフ

渡辺氏は、田村神社について次のようにも述べます。

 当社の鎮座地は、もともと香東川の川淵で、近辺には豊富な湧き水を得る出水が多い。当社の社殿は、その淵の上に建てられている。(中略)
 このことは、当社の由緒を考える上できわめて重要である。現在、田村神社の建物配置は、本殿の奥にさらに『奥殿』と称せられる殿舎が続き、御神座はこの奥殿内部の一段低いところにある。そしてその床下に深淵があり、厚い板をもってこれを蔽っている。奥殿内部は盛夏といえども冷気が満ちており、宮司といえども、決してその淵の内部を窺い見ることはしないという
(池田武夫宮司談)」

この神社は、創祀のときから秦氏や泰の民が祭祀してきたようです。
『続日本紀』神護景雲三年(769)十月十日条に、讃岐国香川郡の秦勝倉下ら五十二人が「秦原公」を賜ったとあります。現在の宮司田村家に伝わる系譜は、この秦勝倉下を始祖として、その子孫の晴道が田村姓を名乗ったと記すようです。秦勝倉下を祖とするのは公式文書にその名前があるからで、それ以前から秦の民は出水の周辺の新田開発を行ってきたのでしょう。その水源が田村神社となったと研究者は考えているようです。
2 讃岐秦氏1

「日本歴史地名大系38」の『香川県の地名』は、「香川郡」と秦氏を次のように記します
奈良時代の当郡について注目されることは、漢人と並ぶ有力な渡来系氏族である秦人の存在であろう。平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡に、『中満里秦広島』『原里秦公□身』『尺田秦山道』などの名がみえ、また前掲知識優婆塞貢進文にも幡羅里の戸主『秦人部長円』の名がみえる。しかも「続日本紀』神護景雲三年(七六九)一〇月一〇日条によれば、香川郡人の秦勝倉下など五二人が秦原公の姓を賜っている。この氏族集団の中心地は泰勝倉下らが秦原公の姓を賜つていることかるみて、秦里が原里になったと考えられる。
 「三代実録』貞観一七年(875)11月9日条にみえる弘法大師十大弟子の一人と称される当郡出身の道昌(俗姓秦氏)や、元慶元年(877)12月25日条にみえる、香川郡人で左京に移貫された左少史秦公直宗・弾正少忠直本兄弟などは、これら秦人の子孫であろう」
ここからは次のような事が分かります。
①香川郡は渡来系秦人によって開かれた所で「秦里 → 原里」に転じている
②秦氏出身の僧侶が弘法大師十大弟子の一人となっている。
③香川郡から左京に本願を移動した秦の民たちもいた。
2 讃岐秦氏3
「和名抄」の讃岐国三木郡(現在の三木郡)にも、香川郡の秦人の本拠地と同じ、「幡羅(はら)郷」があり、木田部牟礼町原がその遺称地です。近くに池辺(いけのへ)郷があります。『香川県の地名』は「平城宮跡出土木簡に「池辺秦□口」とあり、郷内に渡来系氏族の秦氏が居住していたことを推測させる」と記します。
 以上の記述からも香川郡の幡羅郷と同じ秦の民の本拠地であつたことは、「幡(はた)」表記が「秦(はた)」を意味することからすれば納得がいきます。
白羽神社 | kagawa1000seeのブログ
牟礼町の白羽八幡神社

そして気がつくのは、この地域には「八幡神社」が多いことです。

八幡神社は、豊前宇佐八幡神社がルーツで、秦氏・秦の民の氏寺です。牟礼町には幡羅八幡神社・白羽八幡神社があり、隣町の庵治町には桜八幡神社があります。平安時代に白羽八幡神社周辺が、石清水八幡宮領になつたからのようですが、八幡宮領になつたのは八幡宮が秦の民の氏寺だったからだと研究者は考えているようです。現在は白羽神社と呼ばれていますが、この神社の若宮は松尾神社です。松尾神社は、山城国の太秦周辺の秦の民の氏寺です。松尾神社が若宮として祀られているのは、白羽神社が秦の民の祀る神社であったことを示していると研究者は考えているようです。ちなみに地元では若宮松尾大明神と呼ばれているようです。

讃岐秦氏出身の空海の弟子道昌(どうしょう)  
空海の高弟で讃岐出身の道昌は、秦氏出自らしい伝承を伝えています。「国史大辞典10」には、次のように記されています。
道昌 七九八~八七五
平安時代前期の僧侶。讃岐国香河郡の人。俗姓は秦氏。延暦十七年(七九八)生まれる。元興寺の明澄に師事して三輪を学ぶ。弘仁七年(八一六)年分試に及第、得度。同九年東大寺戒壇院にて受戒。諸宗を兼学し、天長五年(八三八)空海に従って灌頂を受け、嵯峨葛井寺で求聞持法を修した。天長七年以降、宮中での仏名会の導師をつとめ、貞観元年(八五九)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、貞観元年(859)には大極殿での最勝会の講師をつとめ、興福寺維摩会の講師、大極殿御斉会、薬師寺最勝会などの講師にもなつている。貞観六年に権律師、同十六年に少僧都。生涯に「法華経」を講じること570座、承和年中(834~48)には、大井河の堰を修復し、行基の再来と称された。貞観17年2月9日、隆城寺別院にて遷化。
年七十八。

 ここで注目したいのは「大井河の堰を修復し、行基の再来と称された」という部分です。「讃岐香川郡志』も、次のように記します。

葛野の大堰は秦氏に関係があるが(秦氏本系帳)道昌が秦氏出身である所から、此の治水の指揮に与ったのであろう」

さらに『秦氏本系帳』は、詳しくこの治水工事は泰氏の功績であると記します。
葛野大井 No6
葛野の大堰

大井河は大堰川とも書かれ、京都の保津川の下流、北岸の嵯峨。南岸の松尾の間を流れる川です。嵐山の麓の渡月橋の付近と云った方が分かりやすいようです。今はこの川は桂川と呼ばれていますが、かつては、桂あたりから下流を桂川と呼んだようです。
なぜ、ここに大きな堰を作ったのかというと、葛野川の水を洛西の方に流す用水路を作って、田畑を開拓したのです。古代の堰は貯水ダムとして働きました。堰で水をせき止めて貯水し、流れとは別の水路を設けることによって水量を調節し、たびたび起こった洪水を防ぐとともに農業用水を確保することができたようです。これにより嵯峨野や桂川右岸が開拓されることになります。

大井神社 - 京都市/京都府 | Omairi(おまいり)
大井神社(嵯峨天龍寺北造路町)
この近くに大井神社があり、別名堰(い)神社ともいわれています。
 秦氏らが大堰をつくって、この地域を開拓した時に、治水の神として祀ったとされます。秦氏の指導で行われた治水工事の技術は、洪水防御と水田灌漑に利用されたのでしょう。それを指導した道昌は「行基の再来」と云われていますので、単なる僧侶ではなかったようです。彼は泰氏出身で治水土木工事の指導監督のできる僧であったことがうかがえます。ここからも秦氏の先進技術保持集団の一端が見えてきます。
讃岐に泰氏・秦の民が数多く居住していたのはどうしてでしょうか。
それは、讃岐の地が雨不足で農業用の水が不足する土地で、そのための水確保め治水工事や、河川の水利用のため、他国以上に治水の土木工事が必要だったからと研究者は考えているようです。そのため秦の民がもつ土木技術が求められ、結果として多くの秦の民が讃岐に多く見られるとしておきましょう。
 道昌の師の空海は、讃岐の秦氏や師の秦氏出身の勤操らの影響で土木工事の指導が出来たのかもしれません。
満濃池 古代築造想定復元図2

 空海は満濃池改築に関わっていることが『今昔物語集』(巻第二十一)、『日本紀略』、『弘法大師行状記』などには記されます。『日本紀略』(弘仁十二年〈八三一〉五月二十七日条)には、官許を得た空海は金倉川を堰止めて大池を作るため、池の堤防を扇形に築いて水圧を減じ、岩盤を掘下げて打樋を設けるよう指示したと記します。この工事には讃岐の秦氏・秦の民の土木技術・労働力があったと研究者は考えているようです。

技能集団としての秦氏

山尾十久は「古代豪族秦氏の足跡」の中で、次のように述べます。
・各地の秦氏に共通する特徴として、卓越した土木技術による大規模な治水灌漑施設の工事、それによる水田の開拓がある。
・『葛野大堰』・『大辟(おおさけ)』(大溝)と呼ばれる嵯峨野・梅津・太秦地域の大開拓をおこなった。この大工事はその後何回も修理されており、承和三年(836)頃の秦氏の道昌の事蹟もその一環である
最澄と空海 弥勒信仰を中心にして | 硯水亭歳時記 Ⅱ

 空海が身につけていた土木技術や組織力について、空海伝説は「唐で学んだ」とします。しかしそれは、讃岐の秦氏から技術指導を受けたと考える方が現実味があるような気がします。さらに空海の母は阿刀氏です。空海の外戚・阿刀氏は、新羅からの渡来氏族だとされますが秦氏も新羅出身とされます。それは、伽耶が新羅に合併されたからです。阿刀氏も秦氏も同じ伽耶系渡来人で、近い関係にあったと研究者は考えているようです。

  以上をまとめておきます。
①現在の高松市一宮周辺は、渡来系の秦の民によって開かれ、その水源に田村神社は創始された。②讃岐秦氏は土木技術だけでなく、僧侶や法律家などにもすぐれた人物を輩出した。
③空海の十代弟子にあたる道昌も讃岐秦氏の出身で、山城の大井河の堰を修復にも関与した
④空海の満濃池修復などの土木事業は、秦氏との交流の中から学んだものではないか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究
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稚児大師像 与田寺

  戦後の空海研究史については、以前にお話ししました。その中で明らかになったのは、空海が一族の期待を裏切るような形で、大学をやめ山林修行の道を選んでいたことです。これは私にとって「衝撃」でした。「空海=生まれながらにして仏道を目指す者」という先入観が崩れ落ちていくような気がしたのを思い出します。
 佐伯一門の期待の星として、平城京の大学に入りながら、そこを飛び出すようにして山林修行の道を選んだのです。これは当時の私には「体制からのドロップアウト」のようにも感じられました。ある意味、エリート学生が立身出世の道を捨てて、己の信じる道を歩むという自立宣言であったのかも知れません。それまでの「弘法大師伝説」では、空海はどのような過程で仏門へ入ったとされていたのでしょうか。
弘法大師行状絵詞に描かれた「空海出家」のプロセスを見て行くことにします。

〔第四段〕             
大師、天性明敏にして、上智の雅量(がりょう)を備ヘ給ふ。顔回(=孔子の弟子)が十を知りし古の跡、士衡(しこう=陸機。中国晋代の人)が多を憂へし昔の例も、斯くやとぞ覚えける。こゝに、外戚の叔父、阿刀大足大夫(伊予親王の学士)、双親に相語りて日く、
「仏弟子と為さむよりは如かじ、大学に入りて経史を学び、身を立て、名を挙げしめむには」と。
此の教へに任せて則ち、白男氏に就きて俗典を学び、讃仰(さんごう)を励まし給ふ。遂に、即ち延暦7年(788)御歳十五にして、家郷を辞して京洛(けいらく)に入る。十八の御歳、大学に交わり、学舎に遊び給ふ。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)に従ひて
「孟子」「左伝」『尚書』を読み、岡田博士に逢ひて、重ねて「左氏春秋」を学べり。大凡(おおよそ)、蛍雪の勤め怠りなく、縄錐(じょうすい)の謀心を尽く給いしかば、学業早く成りて、文質相備はる。千歳の日月、心の中に明らかに、 一朝(↓期)の錦繍、筆の端に鮮やか
  意訳変換しておきます
大師は天性明敏で、向学心や理解力が優れていた。中国の才人とされる孔子の弟子顔回や、陸機の能力もこのようなものであったのかと思うほどであった。そこで、母の兄(叔父)・阿刀大足は、空海の両親に次のように勧めた。
「仏弟子とされるのはいかがかと思う。それよりも大学に入りて経史を学び、身を立て名を挙げることを考えてはどうか」と。
この助言に従って、阿刀大足氏に就いて俗典を学び、研鑽を積んだ。そして延暦7年(788)15歳の時に、讃岐を出て平城京に入った。
十八歳の時には、大学に入り、学舎に遊ぶようになった。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)から「孟子」「左伝」『尚書』の購読を受け、岡田博士からは、「左氏春秋」を学んだ。蛍雪の功を積み、学業を修めることができ、みごとな文章を書くことも出来るようになった。
 ここには、空海の進路について両親と阿刀大足の間には意見の相違があったことが記されます
①父母は   「仏弟子」
②阿刀大足大  「経書を学び、立身出世の官吏」
一貫して佐伯家の両親は仏門に入ることを望んでいたという立場です。  それでは絵巻を見ていきましょう。
 DSC04489

このシーンは善通寺の佐伯田公の館です。阿刀大足からの手紙を大師が読んでいます。そこには
「仏門よりかは、大学で経書を学び、立身出世の道を歩んだ方がいい。早く平城京に上洛するように」

と書かれています。
 佐伯直の系譜については、以前にも紹介しましたが、残された戸籍を見ると一族の長は「田公」ではありません。田公には兄弟が何人かいて、田公は嫡子ではなく佐伯家の本家を継ぐものではなかったようです。佐伯家の傍流・分家になります。また、田公には位階がなく無冠です。無冠の者は、郡長にはなれません。しかし、空海の弟たちは地方人としてはかなり高い位階を得ています。

1 空海系図

 父田公の時代に飛躍的な経済的向上があったことがうかがえます。
それは田公の「瀬戸内海海上交易活動」によってもたらされたと考える研究者もいます。このことについても以前に触れましたのでここでは省略します。
DSC04491
   平城京に向けて善通寺を出発する馬上の真魚(空海幼名)

絵図だけ見ると、どこかの武士の若君の騎馬姿のようにも見えます。叔父阿刀大足からの勧めに従って平城京に向かう真魚の一団のようです。これが中世の人たちがイメージした貴公子の姿なのでしょう。いななき立ち上がる馬と、それを操る若君(真魚)。従う郎党も武士の姿です。
 空海の時代の貴族達の乗り物は牛車です。貴族が馬に跨がることはありません。ここにも中世の空気が刻印されています。また、田公は弘田川河口の多度津白方湊を拠点にして交易活動をいとなんでいた気配があります。そうだとすれば、空海の上洛は舟が使われた可能性の方が高いと私は考えています。
DSC04494
   平城京での阿刀大足と真魚の初めての出会いシーン

阿刀大足は、伊予親王の家庭教師も務めていて当時は、碩学として名が知られていました。館には、門下の若者達が詰めかけて経書を読み、議論を行ってる姿が右側に描かれます。左奥の部屋では、讃岐から上洛した真魚と阿刀大足が向き合います。机上には冊子や巻物が並べられ、四書五経など経書を学ぶことの重要性が説かれたのかもしれません。この時点での真魚の人生目標は阿刀大足により示された「立身出世」にあったと語られます。
阿刀大足の本貫は、もともとは摂津の大和川流域にあり、河川交易に従事していたと研究者は考えているようです。そのために空海の父田公と交易を通じて関係があり、その関係で阿刀大足の妹が田公と結婚します。しかし、当時は「妻取婚」ではなく、夫が妻の下へ通っていくスタイルでした。そのため空海も阿刀氏の拠点がある大和川流域で生まれ育てられたのではないかという説も近年には出されています。
1 阿刀氏の本貫地
〔第五段〕出家学法 空海が仏教に惹かれるようになったのは?
御入洛の後、石渕(=淵)の僧正勤操(ごんぞう)を師とし仕へて、大虚空蔵、並びに能満虚空蔵等の法を受け、心府に染めて念持し給ひけり。この法は、昔、大安寺の道慈律師、大唐に渡りて諸宗を学びし時、善無畏(ぜんむい)三蔵に逢ひ奉りて、その幽旨を伝へ、本朝に帰り来りて後、同寺の善儀(↓議)大徳授く。議公、又、懃(↓勤)操和尚に授く。和尚此の法の勝利を得給ひて、英傑の誉れ世に溢れしかば、大師、かの面授を蒙りて、深く服膺(ふくよう)し給へり。しかあれば、儒林に遊びて、広く経史を学び給ひしかども、常は仏教を好みて、専ら避世の御心ざし(↓志)深かりき。秘かに思ひ給はく 「我が習ふ所の上古の俗典は、眼前にして一期の後の利弼(りひつ)なし。この風を止めて如かじ、真の福田を仰がむには」と。則ち、近士(=近事)にならせ給ひて、御名を無空とぞ付き給ひける。延暦十六年〈797〉朧月の初日(=十二月一H)、『三教指帰』を撰して、俗教の益なき事を述べ給ふ。其の詞に云ぐ、「朝市の栄華は念々にこれを厭ひ、巌藪の煙霞は日夕にこれを願ふ。軽肥流水を見ては、則ち電幻の嘆き忽ちに起こり、支離懸鶉を見ては、則ち因果の憐れび殊に深し目に触れて我を勧む。誰か能く風を繋がむ。
 ここに一多の親戚あり。我を縛るに五常の索(なわ)を以てし、我を断はるに忠孝に背くといふを以てす。余、思はく、物の心一にああず、飛沈性異なり。この故に、聖者の人を駆る教網に三種あり。所謂、釈(迦)。李(=老子)・孔子)なり。浅深隔てありと雖も、並びに皆聖説なり。若し一つの網に入りなば、何ぞ忠孝に背かむ」と書かせ給へりcこの書、一部三巻、信宿の間に製草せられたり。元は『聾書指帰』と題し給ひけるを、後に『三教指帰』と改めらる。その書、世に伝はりて、今に絡素(しそ)の翫(もてあそび)び物たり。
意訳変換しておくと
「勤操 大安寺」の画像検索結果
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)

空海は入洛後に儒教の経書を学んでいただけではなかった。石淵の勤操を師として、大虚空蔵法を授かり、念持続けるようになった。この法は、大安寺の道慈律師が唐に渡って諸宗を学んだ時に、善無畏(ぜんむい)三蔵から伝えられたもので、帰国後に、同寺の善儀に受け継がれた。それを懃(勤)操和尚は修得していた。英傑の誉れが高い勤操(ごんぞう)から個人的な教えを受けて、大師は深く師事するようになり、仏教に関しての知識は深まった。
 そうすると、儒学を学んでも、心は仏教にあり、避世の志が深かまってきた。当時のことを大師は『三教指帰』の中で、このように述べている
「私が学ぶ儒学の経典は、立身出世という眼前のことだけに終始し、生涯をかけて学ぶには値しないものである。こんな心の風が次第に強くなるのを止めることができなくなった。真の私の歩むべき道とは?」
 そして、近士(=近事)になり、無空と名乗るようになる。延暦十六年〈797〉朧月の初日に『三教指帰』を現して、儒教や道教では、世は救えないことを宣言した。その序言に次のように記した「朝廷の官位や市場の富などの栄耀栄華を求める生き方は嫌でたまらなくなり、朝な夕な霞たなびく山の暮らしを望むようになりました。軽やかな服装で肥えた馬や豪華な車に乗り都の大路を行き交う人々を見ては、そのような富貴も一瞬で消え去ってしまう稲妻のように儚い幻に過ぎないことを嘆き、みすぼらしい 衣に不自由な身体をつつんだ人々を見ては、前世の報いを逃れられぬ因果の哀しさが止むことはありません。このような光景を見て、誰が風をつなぎとめることが出来ましょうか!
  わたくしには多くの親族がいます。叔父や、大学の先生方は、儒教の忠孝で私を縛り、出家の道が忠孝に背くものとして、わたくしの願いを聞き入れてくれません。
  そこで私は次のように考えました。
「生き物の心は一つではない。鳥は空を飛び魚は水に潜るように、その性はみな異なっている。それゆえに、聖人は、人を導くのに、仏教、道教、儒教 の三種類の教えを用意されたのだ。 それぞれの教えに浅深の違いはあるにしても、みな聖人の教えなのだ。そのうちの一つに入るのであれば、どうして忠孝 に乖くことになるだろうか」
DSC04500
勤操(ごんぞう)の住房 建物の下は懸崖で下は幽谷 

ここで空海は虚空蔵法を学んだとします。
これが善無畏(ぜんむい)三蔵から直伝秘密とされる虚空蔵法じゃ。しかと耳にとめ、忘れるでないぞ。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。

DSC04503
   和泉国槙尾寺での空海剃髪
廊下から見ているのは都から駆けつけた空海の近習たちという設定。 剃髪の儀式は戒師の立ち会いの下で、剃刀を使う僧が指名され人々が見守る中で、厳かに行われる儀式でした。ここでは左側の礼盤に座るのが勤操で、その前に赤い前机が置かれ、その上で香炉が焚かれています。

巻 二〔第一段〕                      
大師、遂に學門を逃れ出で、山林を渉覧して、修練歳月を送り給ひしに、石渕(=淵)の勤操、その苦行を憐れみ、大師を招引し給ひて、延暦十二年〈793〉、御年二十と申せし時、和泉国槙尾といふ寺にして、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授け奉る。御諄、教海と号し給ふ。後には、改めて如空と称せらる。
 同十四年四月九日、東大寺戒壇院にして、唐僧泰信律師を嘱(↓屈)して伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を卒して潟磨教授とし、比丘の具足戒を受け給ふ。この時、御名を空(海)と改めらる。
しか在りしよりこの方、戒珠を胸の間に輝かし、徳瓶を掌の内に携ふ。油鉢守りて傾かず、浮嚢惜しみて漏らす事なし。大師御草の牒書、相伝はりて、今に至る迄、登壇受成の模範と仰げり。
意訳変換すると
大師は遂に學門を逃れ出て、山林を行道する修練歳月を送りはじめます。師である勤操は、その苦行を憐れみ、大師を呼び戻して和泉国槙尾寺で、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授けます。これが延暦十二年〈793〉、20歳の時のことです。そして教海と名乗り、その後改めて如空と呼ばれるようになります。
その2年後の延暦十四年(795)四月九日、東大寺戒壇院で、唐僧泰信律師を伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を教授とし、比丘の具足戒を受けました。この時に、名を空(海)と改めます。
DSC04505
東大寺の戒壇院の朱塗りの回廊が見え隠れします。
剃髪から2年後に、今度は東大寺で正式に具足戒を受けたと記されます。これを経て僧侶としての正式な資格を得たことになります。
戒壇院の門を入ると、大松明が明々と燃え盛っています。儀式の先頭に立つのが唐僧泰信律師で遠山袈裟を纏っています。その後に合掌して従うのが如空(空海)のようです。

DSC04507

  切石を積み上げて整然と作られた戒壇の正面に舎利塔が置かれています。その前に経机と畳壇が置かれます。ここに座るのが空海のようです。
 以上をまとめておくと、次のようになるのでしょうか。
①空海は叔父阿刀大足の勧めもあって平城京に上がり、大学で儒教の経書をまなぶ学生となった
②一方、石淵の勤操から虚空蔵法を学ぶにつれて儒教よりも仏教への志がつよくなった。
③こうして、一族や周囲の反対を押し切って空海は山林修行の道に入った
④これに対して、勤操は空海を呼び戻し槙尾寺で剃髪させた
⑤その後、空海は東大寺で正式に得度した
  これが、戦前の弘法大師の得度をめぐる常識であったようです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
空海 太政官符
延暦24年の太政官符には、空海の出家が延暦22(802)年4月7日であっったことが明記されています。これは唐に渡る2年前の事になります。それまでは、空海は沙門(私度僧)であったのです。
 沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
 高野山としては、沙門(私度僧=非公認)という身分のままで各地を修行したというのでは都合が悪かったのでしょう。そこで東大寺で正式に得度したと云うことになったようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

 空海を生み出したのは佐伯氏で、空海の父は田公、そして空海には4人の弟たちがいることを前回は見てきました。その際に史料としたのは、空海の甥たちが佐伯直から佐伯宿爾への改姓と、本貫を讃岐国から左京職に移すことが認められた記録で『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条の記事でした。そして、そこから書かれた次の系譜を参考にしました。しかし、この系譜を見ているといろいろな疑問が沸いてきます。例えば佐伯家は国造を出す家柄で、多度郡の郡司を勤めていたと伝えられます。そこから私は、空海の家が佐伯氏の本家であると思ってきました。しかし、そうではないようです。それを史料から今回は見ていきたいと思います。
1空海系図2

系図で空海の父田公を見てください。位階がありません。
空海の弟たちや甥たちは、地方豪族としては高い位階を持っています。空海の弟の鈴技麻呂は外従五位下で多度郡の郡司を勤めていたようです。甥の豊雄は中央の書博士を勤めています。しかし、田公には何の位階もありません。無冠では、当時のルールで郡司に就くことはできません。歴史書の中には、田公が郡司を勤めていたと記すものもあります。しかし「貞観三年(861)の記事」は正史ですから信頼性が最も高い史料です。田公は、無冠で郡司ではなかったと考えるのが普通です。

「貞観三年(861)の記事」の後半部を、見てみましょう
⑥以下に次のように記されます
⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。
これを意訳すると
⑥豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。このことは実恵・道雄の功績によること。しかし、田公の一門はまだ改居・改姓に与っていない。
⑦実恵・道雄の二人は、贈僧正空海の弟子であること、 一方田公は空海の父である。
⑧田公一門の大僧都真雅は、今や東寺長者となり加護を泰くしているが、実恵・道雄一門に比べると、その高下は明らかであること。
③豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえりみるに、悲歎することが少なくない。だから、なにとぞ正雄等の例に従って、とくに宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。
⑩以上の款状の内容について、伴善男らが「家記」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。

ここからは田公の息子や孫たちと別の系譜が佐伯家には、あったことがうかがえます。そして、それが実恵・道雄を輩出した系譜で、そちらが佐伯家の本流(本家)であったようです。空海や真雅の系譜は佐伯家の中では傍流で「位階獲得競争」の中では遅れをとっていたようです。
 佐伯家の中の本家と分家の関係を探るために、もう少し詳しく史料を見ていくことにします。
⑥には、本家の豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、正雄らは、すでに本貫を都に移し、宿爾の姓を得ていたことが分かります。
系図の実恵・道雄系の真持の経歴を正史で確認すると、
承和四年(837)十月 左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月 正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年  (846)七月 従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月 従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす。
同五年(863)二月 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和介とす。
ここからは、本家筋に当たる真持は、田公の孫たちが佐伯宿雨の改姓申請をする23年前の承和四年(837)十月に、すでに佐伯宿雨の姓を賜わっています。また「左京の人」とあるので、これ以前に都に本貫が移っていたことが分かります。そして、真持はその後は昇進を重ね栄達の道を歩んでいきます。
  つぎに、正雄の経歴を正史で確認しましょう。
嘉祥三年(850)七月 讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
とあり、正雄は真持におくれること13年で宿爾の姓を得て、左京に移貫しています。ここからは、佐伯家の本家筋に当たる真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないと研究者は考えているようです。
  
  それでは、この改姓・改居の実現を空海の甥たちはどのように考えていたのでしょうか
「謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。」

と申請文書には書かれています。真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるというのです。
  実恵、道雄とは何者なのでしょうか
二人共に空海の十大弟子のようです。そして、俗姓は佐伯氏で空海の一族にあたります。
道雄については『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月条の卒伝には、次のように記されます
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

とあって、生国は記されていませんが、佐伯氏の出身であったことが分かります。
  真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)なので、東寺長者であった実恵の尽力があったのでしょう。実恵は承和十四年(847)に亡くなっているので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居には関わりを持つことはなかったようです。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっているので、前年の正雄の改姓に力があったのでしょう。ここからは、
①実恵は真持一門に近い出自であり、
②道雄は正雄一門に近い出身
と研究者は考えているようです。

空海の甥たちの思いは、次のようなことではなかったでしょうか。
  真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場である。なのに空海を出した私たちは未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅は、東寺長者となった。しかし、我々田公の系譜と実恵・道雄一門とを比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。

 地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったことがうかがえます。佐伯一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったのです。空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたようです.

田公の系譜が佐伯家の本家筋ではないことをうかがわせる史料がもうひとつあります。
延暦二十四年(805)九月十一日付の大政官符です。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
平安末期の写本が、大和文華館に収蔵されています。内容は、遣唐使の一員として入唐することになった留学僧空海への課税停止を命じた内容です。見てみましょう。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

大政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上 
佐伯直道長 戸口同姓真魚
右、去る延暦廿二年四月七日出家し入唐す。
□承知すべし。例に□之を度せよ。符到らば奉行せよ.
□五位下□左少弁藤原貞副 左大史正六位上武生宿而真象
延暦廿四年九月十一日
  ここには、空海の本貫の所に
「戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚
とあります。
この戸口の真魚は、空海の幼名です。真魚の戸主は佐伯道長です。父の田公ではないことに注意してください。この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが原則で、戸口の租・庸・調の責任を負うたとされます。一方で、戸口とは戸主のもとに戸籍に書かれた全ての人たちを含みます。多い戸籍には百人近くの戸口の名前が並ぶこともあります。古代の戸籍は、近縁の血縁者の3~5つの家族で一つの戸籍が構成されていたようです。つまり、戸主が父親や祖父であったとは云えないようです。
 戸主の道長は正六位上の位階を持っています。多度郡の郡司を勤めるには充分すぎるほどです。一方、空海の田公の位階を思い出してください。正史では「無冠」でした。位階がありませんでした。つまり、田公は郡司を勤められる立場にはなかったことになります。田公は戸籍上は佐伯道長に属するけれども、その本流ではなかったことになります。
 
松原弘宣氏は、次のような佐伯氏の系図と見解を述べます

「讃岐国の佐伯直氏が多度郡の部領氏族であり空海を出した一族であることはよく知られて」おり、「倭胡連公、是豊雄等之別祖也」とある。ここからは田公系列以外の佐伯直氏がその直系と考えられる。さらに、佐伯直氏は国造の系譜をひいていることと、道長が正六位上の位階を有していることから、道長が佐伯氏の本宗で、多度郡の郡領であった可能性が高い。(取意)

として、 つぎの系譜をあげておられる。
1 空海系図52jpg

そうして、以下のように結論づけます。

以上の検討より、多度郡の佐伯直氏は、図五に示した佐伯直田公の系列以外に、図六のような系譜が想定され、この系譜が佐伯直氏の本宗で、奈良時代における郡領を出していたと考えられるのである。

つまり、道長 ー 真継 ー 真持が本家で、田公の系譜は傍流であったとします。この系図は、田公の系譜が傍流であったことを理解する上では、大いに参考になります。
しかし、別の研究者から次のような疑問が出されています
①倭胡連を讃岐国の佐伯氏の先祖とみなし、佐伯直道長に結びつけられること。
②佐伯直真継・同真持・同長人・同正雄を佐伯直道長の男・孫とみなされること。
③佐伯直真継。同長人・同正雄を同世代の兄弟とみなし、道長の男とみなされること。
④佐伯直真継と同真持を親子とみなされること。
⑤佐伯直氏が多度郡の郡領氏族であったとみなされること。

位上です おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」


空海の家系についての研究史について、代表的な四つの空海伝を見ていきます。
第一は、守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』が挙げられるようです。
文化史上より見たる弘法大師伝

この本は、空海の入定1100年を記念して刊行されたもので、いまから90年以上もまえのものです。当時の空海へのアプローチは、信仰対象としての空海像を描くことにあったようですが、鋭い問題意識や指摘が至る所にちりばめられていて、刺激的な内容です。それまでの空海伝の集大成という内容で、諸説を全て併記・紹介し、あえて結論を出さない姿勢で貫かれています。結論を急がずに読者にゆだねる方法は、読者である私たちが考えるという姿勢を生み出すことにも繋がり好感が持てます。
この本の中で、空海の家系については次のように書かれています。
①佐伯氏には数系あるが、『御遺告』、『空海僧都伝』、『新撰姓氏録』の史料から、空海の家系は神別の佐伯氏であること
②その証拠として、空海の父・田公に連なる11名が宿爾の姓を賜わったときの「貞観三年記録」をあげる。
③これらの諸書と『弘法大師年譜』とを綜合して、つぎの佐伯氏の系譜を提示します。
1 空海系図

 四男一女を出す、今其女を掲ぐ、而して之を分の説により仮に二男って圏績を以てす。

④これは「貞観三年記録」と合わせると不合理な点がいくつか出てきます
⑤そこで、空海の兄弟姉妹の数等を検討し、次のように問題点を指摘しています。
大師の御生母玉依御前と云う方が是等の男女の兄弟を全部生んだか、さうとすると真雅以下の兄弟の年齢と玉依御前との間に首肯し得ない年齢の相違もあり、大師と貞観寺僧正(真雅)が兄弟であって27歳の年齢の隔たり、真雅と真然と伯父甥の間柄で僅かに年齢が3歳しか違って居ない点からすると、真然の父が真雅の弟であり得ないと思われる点等の疑問が生じて来るのである。

 「その通り」と、相づちをうちたくなるのは私だけでしょうか。
空海についての本は、毎年沢山出版されていますが、真雅を初めとする空海の弟たちや甥たちとの関係をきちんと系図を用いて説明したものはほとんどないような気がします。90年前の疑問がいまだに解けていないのが現状なのかもしれません。空海の父母と兄弟の関係、そして空海と甥との関係は、いまだにミステリアスです。

2番目は、渡辺照宏・宮坂宥勝著『沙門空海』です。
 

この本は、中世以後に書かれた2次、3次史料を排して、できる限り根本史料にもとづき、人間空海像を描き出そうとした労作で、画期的なものだと評価されています。戦後の自由な空気の中でこそ生まれた研究成果です。その新しい見解と問題提起は、以後の空海伝研究の指針となったと云われます。しかし、空海の家系に関しては、次のような簡略な記述しかありません。
①まず「貞観三年記録」をひいて、讃岐の佐伯直と大伴・佐伯の両宿爾が同祖であること、空海の父が田公であったことを述べ
②空海も天長五年(828)、按察使として陸奥国におもむく伴国道に詩文を贈り、大伴と佐伯とはふるくから兄弟であったと「佐伯氏=大友起源説」を紹介し、
③佐伯氏には二系統あり、一つは播磨・讃岐などに配置された蝦夷を支配していた地方の佐伯直、 一つはその佐伯直を中央で統括していた佐伯連であって、空海は讃岐の佐伯直の出身であった、と記すだけです。空海の家系については
①佐伯氏が大伴室屋から出ていること
②空海の出自が讃岐の佐伯直であったこと
③父が田公であったこと
に触れているに過ぎません。
3番目は、櫛田良洪著「佐伯氏をめぐる問題」です
この本では讃岐の佐伯氏について、次のようなことが論じられています。
①空海が讃岐の佐伯氏の出身で、田公を父として生をうけたこと。
②その根拠に「貞観三年記録」全文が挙げられ、当時の讃岐多度郡には実恵流、道雄流、そして空海・真雅流などの佐伯氏が広く分布していたことと、讃岐の佐伯氏から多くの名僧が輩出したことを指摘する。
③『新撰姓氏録』などにもとづいて、大伴氏と佐伯氏の関係、中央で活躍していた佐伯氏の人々および佐伯氏の全国的な分布を紹介し、空海は神別の佐伯氏であり、播磨の佐伯氏は皇別とする。
④空海が上洛し、大学に学び、官吏への道に進ませたのは佐伯氏を取り巻く状況が仕向けたとして、一族の佐伯毛人・真守・今毛人らの華々しい功績が紹介される。
⑤最後に、佐伯院の建立など、都を中心に活躍した佐伯今毛人・真守らの事績を記して終わる。
ここからは、空海が生まれる前後の佐伯氏の広がりはある程度は分かりますが、空海の出自については、分からないままです。空海の家系が明確になったとは思えません。家系の説明には系図は不可欠ですが、それもありません。
最後が、高木諌元著『空海 生涯とその周辺』です。
空海 生涯とその周辺

これまでの伝記研究を集大成したともいえる本です。
「今日手にすることができる空海伝の白眉」とも云われているようです。しかし、空海の家系については『沙門空海』同様に、次のように簡略に記されているだけです。
①田公の男・鈴伎麻呂など十一名に宿而の姓が勅許されたときの「貞観三年記録」を全文あげ
②上奏するにいたった背景を推測し
③姓(かばね)に言及する。
④改姓・改居をゆるされた11名はすべて空海の兄弟、甥たちで、このなかに真雅も含まれていたとし、
⑤父の田公とその息子たちをあげ、豊雄が伴善男を介して上奏したのは、大伴氏と佐伯氏が遠祖を同じくすると信じられていたからであった。
と述べます。
そして最後に、「伴氏系図」を次のように紹介します。

佐伯の氏姓を最初に賜ったのは、健日命(武日命)から四代目の歌連のときとするけれども(『続群書類従』七下)、佐伯の姓は佐伯部に由来する。もともと佐伯部は、五、六世紀のころに大和朝廷に征服された蝦夷の存囚であったが、隷民として播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波などに分散配置された。これらの佐伯部を管掌していた地方の国造は佐伯直の姓を称していたのである。空海はその讃岐地方の佐伯直の戸口(ごく)として出生したのである。

と、
①佐伯の名の由来を佐伯部にもとめ、
②歌連から佐伯を称するようになったこと、
③空海は讃岐の佐伯直の生まれであること、
を述べて終わっています。
以上、空海の家系についての先行研究をみてきましたが、用いられている史料は
①昭和初期は天保四年(1823)の得仁の『弘法大師年譜』
②第二次世界大戦後は、「貞観三年記録」
という傾向が見られるようです。
 先行研究を見る中で「何かが足りない」と感じます。

その第1は、系図です。
1空海系図2

空海の家系についての研究を深めていくためには、「佐伯家の系図」が必要不可欠であることを実感します。系図に基づき一族の人物を紹介していくのが、普通のやり方です。それがないまま空海の家系を紹介したことにはならないでしょう。系図が示されているのは90年前の『文化史上より見たる弘法大師伝』だけなのです。

21世紀になってやっと、系図を示して空海の家系が語られる環境が整いだしてきます。それを次回は見てきたいと思います。

DSC01050
佐伯直氏廟 香色山

空海を生み出した佐伯氏とは、どんな豪族だったのでしょうか?

その辺りを、資料的に確認していきたいと思います。同じ佐伯でも佐伯部・佐伯直・佐伯連では、おお
きくちがうようです。

 佐伯直氏について
                                                    空海の生家 佐伯一族とは?

まず、佐伯でから見ていきます。               
「部(べ)」または「部民」とは、律令国家以前において、朝廷や豪族に所有・支配されていた人たちを指します。佐伯部については、長いあいだ、井上光貞氏の次の説が支持されてきました。

 佐伯部とは五世紀のころ、大和朝廷の征討によって捕虜となった蝦夷をいい、佐伯部という名をおびた半自由民とされたうえで、播磨・安芸・伊予・讃岐・阿波の五力国に配置され、その地方の豪族であった国造家の管理のもとにおかれた人々であった」

この説では、捕虜となり、瀬戸内海沿岸地域に配置された蝦夷の子孫ということになります。しかし、この佐伯部=蝦夷説は、佐伯部が軍事的な部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承と今では考えられているようです。
代わって次のような説が一般的です。

「(佐伯部は)対朝鮮半島との緊張のなかで、瀬戸内海地域に「塞ぐ城」として設置されたとは考えにくく、大和政権が西国支配を確立していく過程で設置されたとみるべきであり六世紀初め以前に設置された」

 6世紀に佐伯部が設置されたとするのなら、有岡の地に築かれた王墓山古墳や菊塚古墳の埋葬者が「佐伯部を管理する国造」たちで佐伯直と呼ばれたいう説も成立可能な気もします。
DSC01063
          佐伯直氏廟 香色山
 つぎは、佐伯です。
佐伯直(あたい)については、次のように説明されます。

「佐伯部(軍事部隊?)を管理・支配していたのがその地方の豪族であった国造家であり、その国造家を佐伯直と称した」

空海の生家である讃岐国の佐伯直家も、かつて国造家といわれたこの地方の豪族であった、といわれています。この空海の生家を豪族とみなす説は、佐伯直=国造家=地方の豪族の図式にピタリとはまります。
DSC01053
香色山からの善通寺市街と飯野山

 最後は佐伯連です。
佐伯連は、中央にあって諸国の佐伯直を統括していた家と考えられてきました。
佐伯連は、壬申の乱後の天武十二年(684)十二月、大伴連らとともに「宿禰」の姓をたまわり、佐伯宿禰と称するようになります。この中央で活躍していた佐伯連(のちの宿禰家)は、大伴宿禰の支流にもなります。つまり、大伴氏は佐伯宿禰の本家にあたる一族になるわけです。
次に確認しておきたいのは、これらの3つの佐伯はまったく別物だったと言う点です。
  地方にいた佐伯直と中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰とは、おなじ佐伯と言いながら、まったく別の家でした。つまり、讃岐の佐伯直と中央の佐伯連(宿禰)とのあいだには血のつながり、血縁関係はまったくなかった、と研究者は考えているようです。
 しかし、平安初期のころになると、佐伯とあれば直・連(宿禰)の関係なく、同族であるとの意識が強くなっていたようです。むつかしい言葉で言うと「疑似血縁的紐帯」で結ばれ一族意識を持つようになっていたということでしょうか。
 例えば空海も、天長五年(828)二月、陸奥国に赴任する佐伯蓮の本家に当たる伴国道に詩文を贈り、次のように記しています。

  貧道と君と淡交にして玄度遠公なり。絹素区に別れたれども、伴佐昆季なり。

「伴佐昆季なり」と、大伴と佐伯とは同じ祖先をもつ兄弟である、と記しています。空海も佐伯と、その本家に当たる大伴家の一族意識を持っていたことが分かります。しかし、実際には同じ佐伯でもその後に「直」「連」「宿禰」のどの姓(かばね)が来るかで大違いだったのです。

 佐伯家系を知る根本史料は「貞観三年記録」 
空海の兄弟などを知るうえでの根本史料となるのは『日本三代実録』巻五、貞観三年(861)十一月十一日辛巳条で、「貞観三年記録」と呼ばれている史料です。
 当時の地方貴族の夢は、中央に出て中央貴族になることでした。そのために官位を高めるための努力を重ねています。佐伯家も、空海の兄弟達が中央で活躍して佐伯直鈴伎麻呂ら11名が宿禰の姓をたまわり、本籍地を讃岐国から都に移すことを許されます。その時の申請記録が残っています。

 1 空海系図52jpg
「貞観三年記録」を元に作成された佐伯氏系図
「貞観三年記録」にどんなことが書かれているのか見ておきましょう。
前半は、宿禰の姓をたまわった空海の弟の鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続き柄と、佐伯家の本家である大伴氏の当主が天皇への上奏の労をとったことが記されます。後半は、大学寮の教官の一人・書博士をつとめていた空海の弟・佐伯直豊雄が作成した官位などを望むときに提出する願書と、その内容を「家記」と照合し、勅許に至ったことが載せられています。
 
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善通寺東院 本堂

その中の空海の先祖の部分を意訳要約すると次のようになります。
①先祖の大伴健日連(たけひのむらじのきみ)は、景行天皇のみ世に倭武命(やまとたけるのみこと)にしたがって東国を平定し、その功績によって讃岐国をたまわり私の家とした。
②その家系は、健日連から健持大連公(たけもちのおおむらじのみこと)、室屋大連、その長男の御物宿禰、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連(わこのむらじのきみ)が允恭天皇の時に初めて讃岐の国造に任ぜられた。
③この倭胡連は豊男等の別祖である。また、孝徳天皇の時に国造の称号は停止された。
 これだけ読むと讃岐国の佐伯直氏の先祖について記したように思えます。しかし、これは中央で活躍していた武門の名家・大伴氏に伝わる伝承を「流用」したもののようです。大伴家は佐伯氏の本家であるという意識を空海が持っていたことは先ほど述べました。そのため本家と考えられていた大伴家の話を「流用」しているのです。ともあれ、内容を少し詳しくみておきましょう。
   ①段の前半、景行天皇の時に、大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したことは、『日本書紀』にだけみられる記録です。
 この記事について、研究者は次のように評します。

「これらは伝承であって史実ではなく、大伴連の家につたえられた物語であった。大伴氏が、主として軍事の職掌を担当するようになってから、こうした話がつくられたのであろう」

DSC02710
善通寺東院 本堂

 つぎは①の後半、東国を平定した勲功によって讃岐国を賜り私の家としたことです。
景行天皇時代の讃岐国における佐伯、および国造について次のように記します。

『日本書紀』巻七、景行天皇四年二月甲子(十一日)条に、天皇が五十河媛を妃として神櫛皇子・稲背入彦皇子を生み、兄の神櫛皇子は讃岐国の国造の始祖となり、弟の稲背人彦皇子は播磨別の始祖となった

 また、同天皇五十一年八月壬子(四日)条には、

  日本武尊が熱田神宮に献じた蝦夷等は、昼となく夜となくやかましく騒ぎたてた。倭姫命の「彼らを神宮にちかづけてはならない」との言葉にしたがい、朝廷に進上して三輪山のほとりに安置した。ここでも神山の樹をことごとくきり、近隣にさけび騒いで、人々から脅れられた。そこで天皇は、蝦夷はもとより獣しき心あって、中国(うちつくに)に住まわせることはできない。彼らの願いのままに畿外にすまわせなさい」と命じた。これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の影である。

 この佐伯部の話は、佐伯部が軍事的部であることを主張するために蝦夷の勇猛さにあやかり、七世紀後半に作られた伝承であることは最初に述べました。
 以上より、この①の段落は大伴家の伝承にもとづいて記された記事であり、讃岐佐伯家の史実とみなす訳にはいかないと研究者は考えているようです。しかし、ここからも当時の空海の兄弟達が自分たちが大伴家とつながりのある一族で、ここに書かれた歴史を共有する者達であるという意識をもっていたことはうかがえます。
DSC01152
五岳山 大墓山古墳より

 「貞観三年記録」にみえる空海の兄弟たち 
「貞観三年記録」には、本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを許された空海の身内十一人の名前とその続き柄が、次のように記されています。

 讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位上佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿禰の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき。

ここに名前のみられる人物を系譜化したものが下の系図です。
1佐伯家家系
佐伯直氏系図
このなか、確かな史料によって実在したことが確認できるのは、空海の弟鈴伎麻呂だけのようです。彼については『類聚国史』巻九十九、天長四年(八二七)正月甲申(二十二日)条に、諸国に派遣した巡察使の報告にもとづいて、その政治手腕が高く評価され褒賞として外従五位下を授けられた諸国の郡司六人のなかに「佐伯直鈴伎麿」の名前があります。
ここから中央政府に提出した一族の構成は正しいもので、「空海の一族は郡司の家系であった」という説は、正しかったと言えるようです。そして、空海には多くの兄弟がいたことが確認できます。
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この佐伯家一族を系譜を見ながら気づくことは 
①倭胡連公と空海の父である佐伯直田公とのあいだが破線です。これは実際の血縁関係がないからだといいます。ここで系譜が接がれているのです。つまり大伴健日連-健持大連-室屋大連-御物宿禰-倭胡連公までは、中央で活躍していた佐伯連(のちの佐伯宿禰)が大伴氏から分かれるまでの系譜です。先ほども述べましたが佐伯連氏は、武門の家として名高い大伴氏の別れで、天皇家に長くつかえてきた名門です。
 先述したように、同じく「佐伯」を称しながらも、中央で活躍していた佐伯連氏と地方に住んでいた佐伯直氏とのあいだには、直接の血のつながりはなかったというのが定説です。そのため、倭胡連と田公とを実線でつなぐことはできないようです。
②従来はこの点があいまいに考えられてきたようです。
「倭胡連公は是れ、豊男等の別祖なり」

と記されているのに、讃岐国の佐伯直氏の先祖と大伴家がひと続きの系譜とみなされてきました。

 倭胡連公(わこのむらじのきみ)とは何者なの?                           
  倭胡連公が讃岐国の佐伯直氏の先祖ではなく、中央で活躍していた佐伯連、のちの佐伯宿禰氏の初祖にあたるようです。「倭胡」は『大伴系図』などに「初めて佐伯の氏姓を賜う」と記されている「歌」と同位置人物であるという説が支持されるようになっています。
 このことを「貞観三年記録」は「倭胡連公は、是れ豊雄らの別祖なり」は、まさしく(大伴)豊雄らとは血の繋がらない、佐伯連(のちの宿禰)の始祖のことを指しているようです。だから「倭胡連公」と讃岐佐伯家田公一門との系譜を、実践でつなぐことができないと研究者は考えているようです。
 そうすると、佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、「貞観三年記録」にはスッポリ欠落していることになります。
田公の先祖を記す史料は他にもあって、その一つが三河国幡豆郡の郡司のながれをくむ家につたえられたといわれる『伴氏系図』です。そこには、下のように空海の父・田公から六代さかのぼる世代がみえます。
1佐伯氏
伴氏系図

しかし、この『伴氏系図』も「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていると研究者は考えているようです。

その理由の一つは「平曽古」「平彦」にはともに「連」とあり、つぎの「伊能」「大人」には「直」とあって、高い姓から低い姓に「降格」されている状態になります。もう一つは、「平曽古連」の尻付きに「安芸の国厳島に住す」とあり、「伊能直」の尻付きに「讃岐国多度郡の県令」とあって、姓とともに住所も変わっていることです。この二つのことから、「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれていることは間違いないとします。
  もうひとつの疑問は、大伴氏の系図には、空海の父・田公は「少領」であった記されていることです。
ところが政府に提出された「貞観三年記録」の田公には、位階も官職もまったく記されていないことです。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。

 凡そ郡司には、性識清廉にして、時の務に堪えたらむ者を取りて、大領、少領と為よ。強く幹く聡敏にして、書計に工ならむ者を、主政、主帳と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。其れ大領、少領、才用同じくは、先ず国造を取れ。

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領であったとすれば、必ず位階を帯びていたと思われます。
 しかし、「貞観三年記録」には田公の官位がないのです。政府への申請書に正式の官位が記されていないというのは、そこには記せなかったということでしょうか。
 史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料ですぐれています。よって、空海の父・田公は無位無官であった、とみなしておくしかないというのが研究者の立場のようです。
 高い位階を帯びる空海の兄弟たち   
「貞観三年記録」に登場する人物で、信頼できるのは空海の父田公以下の三代にわたる十二名だけということになるようです。その系譜をもう一度見てみましょう。
1佐伯家家系

 先ほどもいいましたが空海の父である田公には、官位などは一切記されていません。ところがその子ども達の位階は、もし地方に住んでいたとするならば、異常ともいえるほど極めて高いと研究者は指摘します。位階の高い順に整理してみると次のようになります。
 外従五位下  鈴伎麻呂
  正六位上  酒麻呂
  同     豊雄(書博士)
  同     道長(空海の戸主)
  従六位上  貞持
  同     豊守
  正七位下  魚主
  従七位上  葛野
  従八位上  粟氏
  大初位下  貞継
 「選叙令」の基準では、郡司の長官である大領の官位は外従八位上であり、次官である少領は外従八位下と規定されていす。この基準から考えると、空海の兄弟達は郡司など問題にならないくらい、高い位階を持っていたことが分かります。 特に、外従五位下の鈴伎麻呂、正六位上の酒麻呂と豊雄、従六位上の貞持と豊守などは、中央の官人としても十分にやっていける位階を持っています。彼らの官位は中央官位の三十の位階では、従五位下は十四番目、正六位上は十五番目、従六位上は十七番目になります。例えば、国司なら大国の二番目のポストである介と中国の守に、従六位上で上国の介につけたことになります。
 もちろん位階を得ることがが、すぐに官職につくことではなかったので即断はできません。しかし、空海の甥・豊雄は、正六位上で都の大学寮で書博士として活躍しています。

1弘法大師1

空海の兄弟たちは、なぜ高い位階を持つことができたのでしょうか。
 第一は、位階を得るだけの経済力を持っていた、ということでしょう。
弘仁十二年(821)五月、満濃池の修築別当として空海の派遣を要請したときの多度郡司らの申請書(解状)に、次のように願いでています。
 請う、別当に宛てて其の事を済わしめよ。朝使并びに功料もっぱら停止するを従(ゆる)せ。

この「朝使井びに功料もっぱら停止する」とは、空海が別当として池堤の修築にあたるなら、造池使の派遣は不要であり、修築にかかる工事費・労賃・食料費などの一切の費用を、讃岐国の国衛財政から支出することも不要である、と地元の郡司らが申しでているわけです。
つまり「その一切を地元で負担する」ということです。ここからは、池の恩恵を一番こうむっていた多度郡一帯、なかでも当地の豪族と考えられてきた佐伯直氏が、この地域におおきな土地を持ち経済力を有していたかがうかがえます。

1善通寺宝物館8
真魚像
 第二は、空海の母が阿刀氏の出身であったことです。
 しかし、讃岐国に阿刀氏が住んでいたことは、資料的には確認されていません。空海が誕生された奈良末期、阿刀氏の一族は平城京・河内国渋河郡跡部郷(現在の八尾市植松町一帯)・摂津国豊島郡(大阪府豊能郡)・山城国太秦を中心に居住しています。
①畿内の阿刀氏と空海の父・田公が婚姻関係を持っていた、
②空海の教養が桁外れに高かったこと、
このふたつをどう考えればいいのでしょうか?
空海を送り出した讃岐国の佐伯直氏は、郡司というよりも、空海以前から中央への官人を出していた氏族ではなかったかと考える研究者が出てきています。どうやら空海の父・佐伯直氏は早くから中央を志向し、畿内にでて活躍していたのではないか、との推測もできます。それが、空海の父が阿刀宿禰の娘を娶っていたことからもうかがえると研究者は考えているようです。

 空海の父と母の出会いをどう考えるのか?
讃岐と摂津のあいだの古代遠距離結婚が可能なのか?
という疑問が沸いてきます。これについて以前に記しましたので今日はこの辺りで・・
最後までお付き合いいただいてありがとうございました。
参考文献 善通寺の誕生 善通寺史所収
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  満濃池の築造については、
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」
というのが、一般的に語られている話です。 
 それでは、どんな資料に基づいているのでしょうか?
貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館

空海の満濃池築造説を伝えているのは、日本紀略(にほんきりゃく)です。平安時代に編纂された私撰歴史書で、その範囲は神代から長元9年(1036年)までで、成立時期は11世紀後半から12世紀頃ですが詳細は不明で編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないようです。
満濃池築造については「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に次のようにでてきます。 
讃岐国言、始自去年、提万農池、広大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、
若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之         
讃岐国言(もう)す。去年より始め、万農池を堤る。工(広)大にして民少なく、成功いまだ期せず。僧空海、此の土人なり。山中坐禅せば、獣馴れ、鳥獅る。海外に道を求め、虚往実帰。
これにより道俗風を欽み、民庶影を望む。居ればすなわち生徒市をなし、出ずればすなわち追従雲のごとし。今旧土を離れ、常に京師に住む。百姓恋慕すること父母のごとし。
もし師来たるを間かば、必ずや履を倒して相迎えん。
伏して請うらくは、別当に宛て、その事を済さしむべし。これを許す。
さらに現代語に意訳すると
「讃岐国司が朝廷に対して次のように求めた。昨年より築堤を開始しているが、池が工大(広大)であり、人員不足により築堤工事に困難を極めていたため、讃岐国出身で民から父母の如く恋い慕われた空海を修築の別当として派遣して欲しい。
 讃岐国司の清原夏野が満濃池修築の別当として、空海の讃岐帰国を奏上する有名な文章は、日本紀略に記されているのです。つまり、空海亡き後2百年後に書かれたもので同時代文書ではないのです。しかも書かれている内容はこれだけです。ここには護摩壇岩で護摩祈祷をしたことなど、讃岐に帰国して、満濃池修築にあたった様子は何も記されていません。
満濃池
満濃池後碑文

これに対して、空海=満濃池築造
関与をうかがわせるのが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)です
これは名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されているもので、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されています。この時点で、萬農池の歴史を振り返った碑文と考えられています。 碑文の内容は、
1 満濃池の築造の歴史
2 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(八五一~八五四)に行った築造工事の概要
3 最後に、その際に僧真勝が行った修法について
ちなみに碑文全文字が437字で、その6割強にあたる269字を使って、弘宗王の修造工事の概要を述べていて、最後の103字が僧真勝が行った修法の記述に宛てられています。ここから内容的には弘宗王の顕彰碑文であることが分かります。具体的に碑文を見ていきましょう。

萬濃池後碑文[建仁元年(一二〇一)】

満濃池後樋文
   満濃池後樋文

          満濃池後樋文を読み下し文に改めたものを挙げておきます。
この池は大宝年中、国守道守朝臣の築くところなり。
旧記位名を汪(記録)せず。空しく以て嵯歎(さたん=嘆かわしい)す。古人伝えて云く、この堤前世類れ破ると、しかれども文書綸亡して、その実知りがたし。近曽弘仁九年流れ破れ、再び官使を下して、三年の内にすなわち築きなす。
意訳変換しておくと
この池(満濃池)は、大宝年中に讃岐国守の道守朝臣が築いたものである。ところが以後の記録には、それが記録されることもないのは、嵯歎(さたん=嘆かわしい)ことだ。古人伝えて云うには、この池の堤防は何度も決壊しているのに、文書に残っていないので、その実態が伝わっていない。最近では弘仁9年にも決壊し、再び官使を讃岐に下して、三年の内に再築した。
これを要約しておくと
①満濃池は大宝年中(701~704)年に、国守道守朝臣によって築かれた
②その後、
満濃池は何度も決壊したが記録が残っていないので実際のことが伝わっていない
弘仁九年にも決壊し、この時には官吏によって3年以内に再築された。
③の部分が先ほど見た「日本紀略 弘仁十二年五月二十七日条」の空海の登場と一致します。さて、これからが空海の登場かと読み進んでいくと、「萬濃池後碑文」の弘仁九年の記述はこれだけです。わずか漢字一八字のみです。空海の文字は、どこにもでてきません。この史料からは、この時の修復工事を空海が行ったとは云えません。空海=満濃池不関与説を裏付ける史料と云われる由縁です。

そして、讃岐国主の弘宗王が行った築造工事に移ります。
仁寿元年之秋、天下大水超堤上、少剋之間、掃底而流、国中之池大小悉破、一年春有大疫。又荒餓、今茲旱魅八十余日、国虚耗、民無所拠、秋八月権守正五位下弘宗王、含朝之倫旨、在残害之百姓、即巡諸郡、検察損物、兼悠愁苦之民間、
閏八月朔 抒破水 内盤石、始発使失二千余人、平築堤本、五日而上、起自十月上旬 発夫千以下、輪転令築、此苦各築諸郡破堤、三年二月朔、大発約失六千余人、限約十日、戮令築、十一日午剋、大功已畢、爰水(頑)猶高 不可益害、
是以明年春三月、発夫二千余人、更増一丈五尺、通前八丈、
其成事之舷、以俵薦六万八千余枚、嚢口土填深処、由比其功早遂、声満天下、惣公夫単一万九千八百余人、所用物数一 
千几見聞之中、只記大綱、細々之事不題注、
書き下し文にすると
仁寿元年の秋、天下大水、堤上を超え、少剋の間、底を掃いて流る。国中の池大小悉く破る。二年春大疫あり。又荒饑す。今、ここに旱魃八十余日、国既に虚耗して、民拠るところなし。秋八月権守正五位下弘宗王、朝の綸旨を含み、残害の百姓に莅(のぞ)む。すなわち諸郡を巡り、損物を検察し、兼て愁苦の民間を愍む。閏八月朔、始て使夫二千余人を発し、平に堤本を築き、五日にして上る。十月上旬より起こりて、夫千以下を発し、輪転して築かしめ、ならびに水門の盤石を破る。この苦各々諸郡の破堤を築く。三年二月朔、大いに役夫六千余人を発し、限るに十日を約して、戮あわせて築かしむ。十一日午剋、大功已に畢る。爰に水内猶高し。害なかるべからず。、是を以て明年春三月、夫二千余人を発し、更に一丈五尺を増す。前に通じて八丈、その事をなすの体、俵薦六万八千余枚を以て、沙土を嚢んで深き処に填む。これによってその功早く遂ぐ。声天下に満つ。惣公夫単一万九千八百余人、用いるところの物数一千二万余束、およそ見聞の中、ただ大綱を記す。細々の事題を注せず。老僧恭くも国請に応じ、三僧を率い随いて、始より終まで作法練行す。これにおいて仏力を蒙るによって、それ民恙(つつが)なし。国司欣悦して、官に申し上ぐ。聖主衿愍して、満海岳の恩を施したもう。本、所望にあらず。しかるに太守賢君、宵衣公に勤め、肝食疲れを忘れ、口に秘密の真言を唱え、内外、処分の内に、国楽しみ、民富む。海岳と謂うべきは、虚実王祥に頼る。
寛仁四年歳次庚
意訳変換しておくと 
仁寿元年の秋、国中に大洪水が起こって、水は堤の上を超え、しばらくの間に底を掃って流れた。国中の池が大小ことごとく破れた。二年春、悪い病気が大流行して豆がらも成長しなかった。その上、干ばつが八十余日続いて讃岐国内には食べるものも乏しくなり、人々は頼るところもなかった。
 そこで秋八月、権守正口位弘宗王が、讃岐国主となって惨害に苦しんでいる百姓を治めることになった。早速諸郡を巡って災害の程度を調査し、兼ねて愁い苦しんでいる人々を慰撫した。
潤の八月一日、初めて役夫二千岳人を出して、堤を築かせ、五日にして上り起った。十月上旬からは人夫六千人を出し、車の輪がくるくるまわって止まらないように休む暇なく築かせ、大岩石を破って水門を築いた。このような苦しい作業を続けて、破れていた堤を築くことに成功した。
 三年二月一日、大いに役夫六千余人を出して、約十日を限って、力を勁せて築かせたので、十一日午刻、大工事がとうとうできあがった。しかし、水門の高さがなお不足であったので、明年春三月、役夫二千余人を出して、更に一丈五尺を増したので、前通り(内側)を八丈の高さに築きあげた。 このように大工事が早くできあがったのは、俵ごも6万八千余枚に沙土をつめて深い所に沈めたから、これによって早く功をなし遂げることができた。この功績に、驚きの声は天下に満ちた。
 この工事は、一万九千八百余人の人夫を集め、この人々の用いたところの物の数(食料)は、十二万余来の稲である。凡そ見聞の口記大綱は以上のようで、細々の事は、書き上げることができない。
これに続いて、僧真勝の修法と、この修造工事が各階層の人々に喜ばれたことを述べて碑文は終わっています。 もう一度繰り返しますが、この碑文には空海については、何も触れられていません。それよりも仁寿年間の(851~54)に讃岐国守弘宗王が行った築造工事を取り上げ、その成果と功績を讃える内容になっています。これをどう考えればいいのでしょうか。 

弘宗(ひろむね)王とは何者?

弘宗王は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔のようです。各地の国守を歴任したキャリアでもあるようです。853(仁寿二)年2月28日、丹波守から転じて讃岐国守として讃岐にやってきます。「萬農池後碑文」によれば着任後に満濃池の修復工事を行った事になります。その功績が認められたのでしょうか、860(貞観2)年正月16日には右京大夫に、同年8月26日には大和守に任じられています。
 貞観四年、右大臣藤原良相は上書して「地方政治を振興するためには人を得ることが肝要である」と述べ、五人の地方官の名を挙げていますが、その一人に弘宗王が選ばれていて、次のように推薦しています。 
「大和守弘宗王は、すこぶる治名がある。彼は多くの州県を治めた経験があり、地方妁政治について、見識をもった人物である。」
その後弘宗王は、貞観七年正月二十七日、散位従四位下を賜り、弘宗王は越前守に任命され、それから四年間、越前守としてその任にあっています。
讃岐においては、ほとんど知られない人物ですが当時の都ではやり手の地方長官として名前を知られていた人物のようです。讃岐では、空海に光が向けられますので、彼に言及することは少ないようです。また、地元のまんのう町史は、国司在任中に訴えられている事などを挙げて、低い評価を彼にはしているようですから

「萬濃池後碑文」の撰者は? この碑文が作られた背景は?

 弘宗王が讃岐権守に任じられる前年に、彼の子供(男子八人)の王号を改めて、中原真人の姓を賜りたいと申し出て許されています。その後、中原真人の姓をもらった一族のなかからは、朝廷に仕えて文筆の家として活躍する人たちが輩出します。そのため祖先の弘宗王を顕彰するために、その子孫たちが建てた石碑の写しというのが現在考えられている所のようです。
「日本紀略」と「萬濃池後碑文」の記事を年表にして、前後関係を見ておきましょう
大宝年間(701)讃岐国主道守朝臣 満濃池を築く    |
818 弘仁9   万農池が決壊、官使を派遣させ修復させる。
820 弘仁11  讃岐国守清原夏野が、朝廷に築造使の派遣申請・修復着工
821 弘仁12  5月27日、工事難航のため、改めて築池別当として空海の派遣を要請。7月からわずか2か月余りで再築完了。
851 仁寿1 秋 大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852 仁寿2   讃岐国守弘宗王が閏8月より万農池の復旧開始
   翌年3月竣工。夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚使用。(萬濃池後碑文)
881 元慶5  萬農池神に従五霞授けられる。(三代実録)
947 天暦1 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、満濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
1020 寛仁4 萬濃池後碑が建立。(萬濃池後碑文)           
       この頃「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される

            「今昔物語集」に満濃池が登場する。
1184  元暦1 5月1日、満濃池、堤防決壊。
この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。 池の内に集落が発生し、池内村と呼ばれる
年表から分かることは?
① 「萬濃池後碑文」の弘仁9年(818)の決壊は『日本紀略』の弘仁12年(821)の築堤に一致します。ここからは「萬濃池後碑文」の伝える大宝年間(701-704)までさかのぼることは出来ないかもしれませんが、それ以前に「原」満濃池があったことはうかがえます。築造を否定することはできないようです。
② 空海が係わった弘仁12年(821)の修築後も満濃池は破堤しています。
「萬濃池後碑文」は仁寿元年(851)秋、大雨により満濃池をけじめ讃岐国中の池が決壊し、国司(権守)弘宗王は諸郡の池を修築を進めて、仁寿4年(854)に満濃池の修築を完了したと記されています。 
古代史料における決壊・修築の記事はこの2回です。
時代は下りますが幕末の『讃岐国名勝図会』は、治安年間(1021-24)の改修後の元暦元年(1184)の大洪水により破堤したあとは、修築されず田地となったといいます。  

「萬濃池後碑文」に空海が登場しないのはどうしてか?

 「日本紀略」と「萬濃池後碑文」は11世紀前半に相前後して成立した文書です。前者が大きく空海を取り上げ、後者がまったく触れないのはどうしてでしょうか。
 「萬濃池後碑文」の選者の立場として
① 「空海=満濃池築造説」を知らなかった。
② 讃岐国守弘宗王の顕彰のために「空海」を登場させなかった 
現在の「空海=満濃池築造説」では②が指示され「萬濃池後碑文」は偽書であるとか、内容に大きな問題があり、取扱に注意すべきであるという立場を取る専門家が多いようです。
しかし「満濃池後碑」には修復工事にかかわる具体的な数字や行程が記されています。「日本紀略」の空海修繕に関しての「物語的・演劇的」な内容よりも信頼性があると考える専門家もいます。
少し遅れて11世紀後半に成立する今昔物語には「空海=満濃池築造説」に従う物語が2つ取り上げられています。
この背後には、弘法大師伝説の普及があります。当時の大師信仰を信じる真言密教の僧侶や修験者にとっては、「萬濃池後碑文」の内容は受けいれがたいものだったのかもしれません。その「反撃」の流れの中で日本紀略の満濃池築造の記述は、この時期に記されたという仮説は考えられます。
 以上

参考文献 萬濃池後碑文 満濃町誌(116p)


虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰は虚空蔵信仰と同じ職人の信仰です。もともとは虚空蔵菩薩は、もともとは鉱山関係者の信仰する仏だったようです。そして太子信仰も、鉱山関係の人々の間に多いようです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

 今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。
 この祠については、真言宗の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが善女龍王のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。
そして、祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が残る寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には左の善女龍王像が安置されています。この堂は墨書銘「天文二年」(1547)が記されていますので、遅くとも16世紀中頃に雨乞祈祷が行われていたようです。
 ちなみに、龍を背負っていない、女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。
 また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。
像高47.5センチで、製作年代については南北朝時代とされています。

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また、本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。

 さらに、地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっており、一九世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 
 このように空海により行われた雨乞祈祷は、その後は、国家による雨乞行事として、各地の真言寺院で行われて行き、その祈りの対象となった善女龍王は雨乞の神様として信仰を集めていったのです。
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焼山寺

御詠歌は「後の世をおもへば苦行しやう山寺 死出や三途のなんじよありとも」です。
 苦行をしようとおもうということと焼山寺をかけて、ちょっと駄洒落のようになっています。「なんじよ」というのは、どういうふうにあろうとも、どんな具合であろうともという意味を俗語で表したものです。死出の山や三途の川はもっと苦しいんだろうけれども、後の世をおもえばこの山で苦行するのが焼山寺だといっています。ここには非常に厳しい行場がありますが、現在は自然遊歩道になってたいへん歩きやすくなりました。

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 焼山寺と太龍寺と鶴林寺は深山に孤立した霊場なので、四国遍路の難所に数えられています。横峰寺、讃岐の雲辺寺の三か寺は「遍路ころがし」といわれる危険な山でした。遍路が転落して死んだことから、「遍路ころがし」という名前が付いたとおもわれます。
 しかしこのような山こそ、登ってみれば霊場の感を深くします。われわれはその山気に打たれ、罪や心な浄化されたと感じます。これが霊場というものです。いまは、だいたい寺まで車が登ります。難所こそ、来てよかったと特別の感慨にひたれるところです。
 いいところだけを選んで霊場を回られるようおすすめします。本当の霊場といえるとろは二十か所ぐらいでしょうか。そういうところをお回りになると、遍略のありがたさ、あるいは弘法大師の偉大さを感じます。もっとも、そういうところほど難所になっているわけです。

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 空海自身は善通寺から阿讃国境の山脈を越えて一路南下し、吉野川を渡り、藤井寺からこの山道に入ったと推定するのが自然です。藤井寺自体が独立の行場であったというよりも、焼山寺の入口とすることで意味があります。藤井寺に八畳岩という行場があります。しかも、行場の奥の院の本尊が虚空蔵ですから、焼山寺の虚空蔵さんをここで人々が拝んでいたわけです。したがって、ここから入っていくということに意味がありました。


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 現在では焼山寺が伝えた公的な縁起はなくなっています。

焼山寺という名前は、山に住む毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたので焼山というのだとなっています。しかし、そういうことはありえません。もちろん龍などは実在しませんから、毒龍が火を吐いて、全山を火の海にしたという縁起の奥に何か歴史的事実がかくされていると考えるべきなのです。
 縁起というのはいつもそうです。何もないところに話はできません。
歴史がまずあって、神話・伝説、寺社縁起を子どもたちにもわかりやすいようにお話にしたのが昔話です。最初の起こりはちいさな事実ですから、その事実を掘り起こしていくのが昔話の研究であり、伝説の研究であり、神話の研究であり、同時に寺社縁起の研究です。焼山の場合もあとで述べるような事実がありました。

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 山に入ろうとすれば垢離を取らないといけないというのは、山の神秘を守っている人たちがいたからに違いありません。その人たちが、「おいおい、そんな機れたからだでこの山に登ったら、かならず山神が怒るぞ」といったのです。
 山に登るためには、山の神聖を守っている山人に対して、自分はこれだけの精進潔斎、これだけ仏教の修行、密教の修行をして山に登るんだ、あんた方よりも自分のほうがはるかに行ができているんだ、それでは鉄鉢を飛ばしてみせようか、というどとで鉄鉢を飛ばすような一つのマジカルな密教の奇瑞を見せて、相手を説得するという手続きが必要でした。生半可な腕前では山人に追い払われますから、相手を説得するだけの行と力が要ります。また、昔はそういう力を付けるために修行をしたわけです。それは切羽詰まった修行です。

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いちばんの条件は、垢離を取って穢れを祓うということです。

精進がじゅうぶんでないと山の神が怒るというので、かならず垢離を取りました。
いまも毒龍の窟が残っていますが、頂上に近い毒龍の窟から毒龍が飛び出して大師に襲いかかった。大師が仏を念ずると虚空蔵菩薩が出現したというのは、弘法大師が虚空蔵の求聞持法を修めたことを示しています。虚空蔵菩薩が毒龍を岩屋に封じ込めて、その害を絶ったので、この山に登ることができた。大師が虚空蔵菩薩を本尊とする寺を建立したのが焼山寺であると伝えています。 
摩盧山という山号は、音を写したものであることは明らかです。
 縁起は、摩澄山という山号は火を消すための水輪を意味する摩戚から出たものだといっていますが、われわれのサンスクリットの知識からしますと。これを翻訳すると「凶心なるもの・凶暴なるもの・人を殺すもの」という意味です。∃Q2ならば「不毛の地・水のないところ」といり意味ですから、凶饗なものがいる山という意味で摩戚山といったのだろうとおもいます。
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焼山寺
この山は縁起の解釈によって弘法大師の登山修行を論証できます。
 それはこの山には行場が存在し、頂上の奥の院に虚空蔵をまつることによって、ここで求聞持法が行われたことを証明することができるからです。焼山寺の頂上に登りますと、もと虚空蔵菩薩をまつっていたという場所があって、現在は蔵王権現をまつっています。ここまで登るのはIキロ半ぐらいですから、ゆっくり登れば登れます。山全体が自然遊歩道になっていますが、山を全部回るのはなかなか困難かもしれません。
 さて、頂上から少し下がったところに、もとの護摩堂があります。頂上で火を焚いて求聞持法を修行したわけです。求聞持法は虚空蔵菩薩を本尊とします。百日の間に虚空蔵菩薩の喜言を百万遍唱えると、虚空蔵菩薩の力が自分に加わって、すべてのものを暗記することができるといわれました。 

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
本来の地蔵はけっして死んだ人の地蔵ではなくて、宝の仏様です。
土地の中にある鉱物資源でもなんでももっているわけです。それと同じように、虚空蔵は上のほうのすべての功徳をもっています。空にはあまり宝はないかもしれませんが、虚空はすべてのものを生かします。したがって、虚空がすべてのものを蔵するごとく、頼んだことはなんでもかなえてくれる仏様が虚空蔵菩薩です。
虚空はアーカソダあるいは貯蔵するといいます。
W Akagagarbhaが虚空蔵菩薩の梵語の名前です。
阿弥陀仏の名前を南無阿弥陀仏と唱えるように、それを真言にしますと、功徳をいただきたいというのを、「オン・バサラーアラタソノウーソワカ」といいます。
 たいへん唱えにくい真言ですが、それを一日一万遍唱えると、百日目にかならず虚空から星が天降るけれども、その行が生半可であれば、天降ってこないといわれます。
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焼山寺

縁起のもう一つの解釈は、

 この山の山人が修行者の入山を拒否したことが、龍によって入山を妨げられたという話になったという解釈です。山人に対して密教修行者が行力を示すことによって服属させ、従者として食物を運ばせて、食物を補給する力を三面黒天としています。
 三面大黒天はインド以来、厨の神様です。
いまでも比叡山の厨房(台所)には三面大黒天がまつってあるように、食物を補給するのが三而大黒天です。焼山寺にも毒龍の窟前に大黒天堂の跡があります。大黒天堂は寺のほうに移り、本堂の左にあった大師堂を右に移して、大師堂の奥に大黒天堂を建てていました。大黒天の信者が非常に強いので、そういうことにしたといっています。
 山人が入ってきた行者なり高僧なりに服属しますと、その人の行をサポートして、食物を運んだり、水をくんだりしてくれます。それが「採菜・拾薪・汲水・設食」です。食べ物を採ってくれたり、柴灯護摩のために薪を集めてくれたり、水をくんだり、食物を設けるのが山人の仕事です。高野山に弘法大師が入ってくると、山人がそういう仕事をして弘法大師の行を助けた、その山人の後裔が高野山を支えたということも最近わかってきました。

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焼山寺
 真正の霊場には必ず行場があります。

行場のない霊場はいささかあやしい霊場です。
現在は町の中にあるけれども、山の上に奥の院がある、そこに行けば行場があるというところもあります。本当の遍路をなさる方は、奥の院を聞いて、奥の院を回らないといけません。私がそのことの大事さをいうものですから、だんだんと八十八か所でも行場を掘り起こすようになりました。
四国霊場記に次のように書かれています。
奥院へは寺より凡十町余あり。六町ほど上りて祇園祠(八坂)あり、後のわきに地窟あり。右に大師御作の三面大黒堂あり。是より上りて護摩堂あり。是よりI町許さりて聞持窟、是よりあがりて本社弥山権現といふ。是は蔵王権現とぞきこゆ。下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん。地池と云あり。二十間に三十間もありとかや。
 祇園祠は現在は不動尊をまつっています。奥の院までは、十町では足りません。
もっと長いです。不動尊をまつる祇園祠、地窟、三面大黒堂、護摩堂など、道具だてはみなそろっています。弥山といっているのは頂上のことです。弥山という字を書くので須弥山のことだとお寺で書いたりするようになりますが、弥山と書いて「ミセソ」と読みました。安芸の宮島の山上を弥山と呼ぶのは頂上という意味です。伯者大山で弥山といっているのも頂上ということです。
 弥山が頂上で蔵王権現だといっていますが、お寺でもはっきりと、もとは虚空蔵菩薩をまつりたといっています。「下に杖立といふは大師御杖を立玉ふ所となん」というのは見つけることができませんでした。岫池という二十問に三十問のずいぶん大きな池があったたようですが涸れたとみえて、今はありません。
 これよりも35年ほど前に書かれた「四国辺路日記」には、次のようにあります。
扨当山二囃ノ院禅定トテ、山卜二秘所在リ、同行数卜人ノ中占、引導ノ僧二白銀二銭口遊シ、作ノ三面彼憎ご呻/呻ソ先達トシテ山ドツ巡礼ス。右山八町、先、ヤソクニ大師御ノ大黒ノ像在リ。毒岫フ封シ廓玉フ岩屋舟。求聞持ソ御修行ナサレタル所モ在。前二赤井(関伽井)トテ清水在リ。山頭二(蔵王権現立玉ヘリ。護岸ヲ修玉ヒシ檀場在リ。
 ここに出てくる先達を山先達といいます。
いちばん大きな龍王窟は、おそらく山人の住んでいた窟であろうとおもいます。
山人はそういうところに住んでいて山の神聖山人は、ときどき村に下って家々を祓い清めたり、祝福の言葉を述べたりしました。いま山からもって下りて家々に配っているものとして、近江地方では椋の枝があります。立山あたりでは、もとは椋とか榊をもってきたのでしょうが、のちになると立山の山伏が薬草を札に付けて配るということに変化してきます。これも、もともとは人の家づとで、それで十分生活ができたわけです。山人が山づとあるいは家づとをもって定期的に立山の信仰圈を回ったのが、いまの配置売薬の元だといわれています。いまは売薬業者が自動車で薬をもってきて配付して行きますが、もともとは山伏の山づとです。その前は杖をもっていったりしています。
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本堂に向かって右に大師堂、左に三面大黒天堂があり、その左に庫裡があります。
右に少し離れて社神社があります。これは神仏分離後、村の竹林に移りました。
寺が刈らなくなったので荒廃しています。八十八か所の霊場の鎮守は、みなこのように荒れていますが、無理な神仏分離の結果といえましょう。
 大師堂の前には鐘楼と石造宝塔や板碑等の石造物があります。 
衛門三郎の遺跡として、杖杉庵が登山路のなかほどにあります。
 衛門三郎の杖立杉かおりまして、ここに終焉を遂げた衛門三郎の杖を墓標にしたら根づいたとしています。これは、空海の修行に従者があったことを想像させるものです。百日間の求聞持法をする場合、自分で木の実を集めたり、山の芋を掘ったり、野草を集めたりして食事を作るわげにはいきませんので、そういうものを運んでくれる従者が必要でした。山人がそれをしたとすれば、それを大黒天としてまつるということがあったとかもいます。
 衛門三郎が国司の子どもに生まれたいといったので、死ぬときに石を握らせてやった、間もなく伊予の国司に子どもが生まれた。なかなか手を開かないので、無理やり開いてみたら、石を握っていた。すなわちこれが五十一番の石手寺の開創であるという話になってくるわけです。衛門三郎の伝承は、従者の存在を考えるうえで非常に大事なものです。

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五来重:四国遍路の寺より

白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。

古代善通寺地図
古代善通寺周辺の復元地形
聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。もともとここにあったものではなく、後に墓地があったここに集められてきたようです。

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この墓地の北側からは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、本寺の東寺と国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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善通寺東院 赤門
この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。

 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


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善通寺西院
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であるといわれます。

ここを拠点に、中世の
善通寺は再興されます。
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善通寺西院御影堂
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって運営されていたことが分かります。東寺や随心院などの本山支配の下にあったために、善通寺が別当の進退を拒否した文書がたくさんあり、善通寺市史などにも紹介されています。善通寺が衰退すると、別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになります。すると善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺遺跡

善通寺の寺名は「空海の父の名前」と言われますがどうでしょう。

善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。西院のある場所は、時代によって「方田」とも「弘田」とも呼はれていました。すると、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通です。ところが、善通という個人の俗名が付けられています。これは、「善通が中世復興の勧進者」であったためと研究者は指摘します。
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西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂でした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、承元元年(1207)に讃岐に流されます。絵巻物の「法然上人絵伝」第35巻の詞書には、善通寺に参詣した時に金堂に次のように記されていたととします。
「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」

これを読んだ法然は、限りなく喜んだと云うのです。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。
法然上人逆修塔2
法然上人逆修塔(善通寺東院)

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

善通寺によく像た善光寺の本堂も曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。現在は西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったと研究者は考えています。
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善通寺西院と背後の五岳山

 本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。

1 善通寺伽藍図
善通寺の東院と西院
善通寺にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。

善通寺の東院と西院
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