瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海と錬丹術

奥の院御廟が確認できるのは12世紀以後

前回は空海が「入定」したとされる高野山奥の院の御廟が、いつごろから存在したのかを見ました。今回は「入定」という言葉がいつ頃から史料に登場してくるのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」です。

まず空海の跡を継いだ、実恵の書簡を見ていくことにします。

1 空海系図52jpg
          佐伯直 空海系図 実恵は佐伯直の本家筋にあたる

実恵は空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあたり、幼い頃から顔見知りだったかもしれません。空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた頃から傍らに仕えていて「空海第一の弟子」とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)、実恵32歳の時になります。晩年の空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
 この実恵の書状は、空海入滅の翌年に、長安の恵果和尚の墓前に報告するために書かれたもので空海の最期を次のように記します。
A 承和三年(836)5月5日付 青龍寺宛て実恵等書状

其の後、和尚(空海)、地を南山に卜して伽藍を置き、終馬の庭とす。共の名を金剛峰寺と曰く。上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火減す。行年六二。

ここには簡潔に「新尽き火減す」とあり、新が燃えつきるがごとく、静かな最期を高野山の金剛峯寺で迎えたことが記されるのみです。「入定留身」については何も触れられませんし、どこに埋葬されたかも記されていません。

B 『続日本後紀」の空海卒伝 貞観11年(870)成立
870年に成立した正史の『続日本後紀』の巻第四の承和三年(835)3月庚午(25日)条の「空海卒伝」は次のように記します。
禅関僻左(へきさ)にして、凶聞、晩(おそ)く伝ふ。使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず自ら終焉の志あり。紀伊国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
ここで注目されるのは「荼毘を相助くることあたわず」と「荼毘」ということばがあることです。
ここから歴史学者は「入滅火葬説」をとなえ、真言宗内からは「入定留身:説が唱えられていることは前回お話した通りです。しかし、この史料からも空海は「化去」し、「禅居に終る」とあって、入定については何も触れられていません。しかし、通常とは違うことばで、空海の最期を記録している点に研究者は注目します。

C 聖宝撰「贈大僧正空海和上伝記」(略称:寛平御伝)  寛平7年(895)成立
これは真言宗内で書かれたもっとも占い大師伝になるようです。撰者は、かつては空海の弟の真雅とされてきましたが、今では醍醐寺開山の聖宝(理源大師)とする説が有力です。ここには、次のように簡潔に記します。
承和二年(834)、病に罹り金剛峯寺に隠居す。三年三月二十一日卒去す。

ここからは空海は病を患っていたことが分かります。
   空海の病気については、『性霊集』補闘抄の「大僧都空海、疾(やまい)に嬰りて上表して職を辞する奏状」に次のように記します。
天長八年(831)庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、831年5月の末に「悪瘡」が体にできて直る見込みがなく、「吉相」を見せることができず死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して自由の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡について「大師御行状集記」では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノのようです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。
「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」からは、空海は自分の意志で高野山に隠居したことが分かります。「卒去」は人の死をあらわす一般的表現です。空海が亡くなって三代あとの時代には、その最期が単に「卒去」と記されています。「卒去」からは「特別待遇」ではなく一般的なニュアンスしか伝わってきません。

D 伝寛平法皇作「諡号を賜らんことを請う表」延喜18年(918)8月11日
寛平法皇が醍醐天皇に空海への大師号下賜を依頼したときのものとみなされてきたもので、次のように記します。
承和二年(834)、病に嬰りて高野の峯に隠肝す。金剛峯寺という是れなり。同三年二月二十一日、和尚卒去す。

この文章については以前にも見た通り、全文が先ほど見たCの『寛平御伝』を下敷きに書かれています。この部分もほぼ丸写しです。寛平法皇(宇田天皇)は、この当時は出家して真言宗教団の中心的存在であったようです。それが「寛平御伝」を下敷きにして、「卒去す」とだけ記していることになります。このこと自体が、この時にはまだ入定信仰について何も知らなかったことを物語ると研究者は考えています。
 添田隆昭師は『大師はいまだおわしますか』(46P)で、次のように記します。

どこにも入定留身したとは書いていない。大師に対する熱烈な思慕を持ち、後世、入定留身説話の主人公となる観賢僧正も、寛平法皇も、まだこの時代には、人定留身というアイデアは生まれなかったと考えられている。

   以上から空海に大師号が下賜される以前の10世紀初めまでは、真言宗内においては、空海の最期を特別視する風潮はまだなかったことが分かります。それが変化し出すのは、大師号下賜以後に書かれた伝記類からのようです。

私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
この悪瘡について「癖瘡(ようそう)」=「悪性の皮膚病説」があることは先に述べた通りです。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。

「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ

また高野山自体が丹生(水銀・朱砂)などの鉱物生産地で鉱山地帯であった可能性があるようです。
そのため空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとする研究者もいます。その根拠としては、次のような点を挙げます。
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     重文 弘法大師・丹生・高野明神像 右下が丹生明神
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が丹生(水銀)や銅を産出する地質であったこと
人定信仰や即身成仏信仰の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は、その上に生まれたものだと云うのです。つまり、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたという説です。
丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

 松田壽男も次のように記します。

空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

例えば空海が若い頃に書いた「三教指帰」の中には、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。
白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

意訳変換しておくと
「白金・黄金は水銀と金である。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されている。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬である。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(=天)に昇る。
ここからは空海が道教の仙人思想と水銀と金の役割を、早くから知識としては知っていたことが分かります。
須恵器「はそう」考

内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないか。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったか。

「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」
  空海は、当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していた節があるというのです。話が大きく逸れたようです。今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高野山丹生明神社
   高野山奥の院の御廟に並んで鎮座する高野・丹生明神社

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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前回は空海と丹生(水銀)との関係を見てきました。その中で松田壽男は次のように述べていました。
「水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことは、後の真言修験に関係する重大な問題である。このことを前提としない限り、例えば即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

 今回はこの課題を受けて、空海と錬丹術について見ていこうと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」です。

ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影(内藤正敏) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 内藤正敏は「ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影―』の中で、空海を錬丹術者と位置づけています。
すぐには信じられないので、眉に唾を付けながら読んでいきます。
内藤氏は応用化学を学んだ専門家なので、煉丹術の化学反応を方程式を駆使してくわしく述べます。そして『抱朴子』巻四金丹編の
「世人は神丹を信じないで草木の業を信じている。草木の薬は埋めればすぐ腐り、煮れば爛(ただ)れ、焼けばすぐ焦げる。自らを生かし得ぬ薬が、どうして人を生かし得よう」

という文章を示して「漢方薬が多くつかう草根木皮でできている薬は効きめがなく、鉱物性の薬品を上等のものと考えている」と指摘します。当時の民間医術で用いるのは「草根木皮でできている薬」ですが、それに対して「鉱物性の薬品」は特殊技術なしには作れない業です。その技術を古代人は「巫術」とみていました。これを『日本書紀』は「巫術」と書いています。
 続いて、内藤正敏は、空海の「巫術」について次のように記します。
「丹薬はこれを焼けば焼くほど、変化はいよいよ妙である。黄金は火に入れて百煉しても消えず、是を地中に埋めても永遠に朽ちない。この二薬を服して身体を錬るから、人は不老不死にできるのだ」と「金丹編」には記される。仙薬の中でも丹つまり水銀化合物と金を中心に考えている。その理由は、金はさびることもなく、熱で熔かしてもまた金になり、永久に変化しない。一方、水銀は熱や化学反応によっていろいろと変化し、しかも、多くの金属とアマルガムをつくって、他の金属を熔かす作用がある。つまり、金を不変、水銀を変化の象徴として考え、これに各種の物質を高温で作用させて、人工的に金や、もっと霊力のある神仙の薬をつくろうとしたのである。

 このような視点で空海の書いた『三教指帰』や『性霊集』を読んでみると、空海は確実に中国式の煉丹術を知っていたことがわかった。あの水銀を中心に数々の毒物を飲む中国道教の神仙術を知っていたのである。そればかりか、空海自身も水銀系の丹薬を飲んでいたらしい。今まで「三教指帰」や「性霊集」について論じた学者は多い。しかし、そうしたことに気づかなかったのは、これらの書物を単に、宗教・哲学・思想という面からしか見なかったからであろう」
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
「三教指帰」(題名は「聾瞽指帰」と書かれている)
 
内藤は、「三教指帰」や「性霊集」を「化学書」として読むと、空海の「化学者・薬学者」の面が見えてくると云うのです。その例として挙げるのが「三教指帰」です。この書は、空海が渡唐前の24歳の時に大学をドロップアウトして、立身出世の道を捨て仏道を歩むことを決意するまでの心の遍歴が戯曲ふうに書かれています。しかし、これを化学書として読むと、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。

白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

「白金・黄金は水銀と金です。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されています。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬です。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(天のこと)に昇ると締めくくっています。
 ここからは空海が『抱朴子』などの道教教典から、神仙術、煉丹術の知識を、中国に渡る以前に、はっきり理解していたことを示していると研究者は指摘します。さらに詳細な記述や熱の入れ方は、空海自身が思想的には仏教を肯定して、道教を否定しようとしながら、体質的には道教の神仙術、煉丹術に異常な興味を示していたことがうかがえると記します。
薬用原料採集補完記録02「錬金術と錬丹術」- 海福雑貨通販部

それでは、これを空海が表に出さなかったのはどうしてでしょうか。
これについては、次のように説明します
「煉丹術の全盛期の唐の長安で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはない。ただ、日本では真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかったただけだと思うのだ」

空海の死に至る病気について、内藤氏はどのように見ているのでしょうか?『性霊集』の補闘抄には、次のようにあります。
巻第九「大僧都空海、疾(やまい)に罹って上表して職を辞する奏状」に、天長八年庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、五月の末に「悪麿」が体にできて直る見込みがなく、死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して白山の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡は『大師御行状集記』では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。

 大僧都辞任の奉状を提出した翌年の天長9年の11月12日から空海は、穀断を始めたことが「御遺告」には記されます。空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないかと研究者は考えているようです。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったかと云うのです。そして、次のように続けます。
「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」

以上のように、内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを指摘します。
錬金術 仙術と科学の間 中公文庫(吉田光邦) / こもれび書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

吉田光邦は「錬金術~仙術と科学の間」で丹生(水銀)の変化について次のように述べています
変化の原因はすべて熱によるものばかりだ。火つまり熱によって、硫化水銀の赤色が、白く輝く水銀となり、ときには酸化して黒くなることも大切な変化と考えられていた。赤は火の色に通じる。そこで火による物質の変化の重要さが、神秘的なものとして認識されることになる。水銀を中心とした色の変化を火の生成や消滅と対応させてゆけば、いっそう複雑な変化の様式を考えることができる。『参同契』のなかに記される錬丹術は、こうしたものである」

煉丹術錬金術違い 錬金術 – Brzhk

鉱物による薬物を記す『神農本草経』(中国の医薬の祖といわれる五世紀中頃の陶引景の著)には、上薬とされる鉱物の薬27種が挙げられています。これらは錬丹術で使われるなじみの薬ばかりです。その中で、不死になるもは水銀だけです。他のものでは効果が見られないと、当時の錬丹術師たちは考えていたようです。その水銀の供給者が秦氏・秦の民だったとしておきましょう。

抱朴子 内篇・外篇 1-2巻 (全3冊揃い)(葛洪 著 ; 本田済 訳註) / ぶっくいん高知 古書部 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

東晋の道教思想家葛洪(かっこう)は「抱朴子」の中では次のように述べています。

三斤の辰砂〔真丹〕と一片の蜜〔白蜜〕を混合して、全部を大麻の実〔麻子〕の大きさの九薬〔丸〕を得るために日光で乾燥すれば、 一年のうちに取れた十粒の九薬は白髪に黒さを回復させ、腐った歯をふたたび生ぜじめるであろう、そして一年以上も続ければ人は不死になるのだ。

「辰砂」は「火に投ずると水銀を造り出す」「死による再生の秘儀」を暗示しているとされています。「白」には、死と再生の意味があったようです。そして「赤」には「不老不死」の常世イメージがあったようです。
丹道篇 外丹 外丹原稱煉丹術,為避免其與內丹相混淆,改稱外丹。 這是以爐鼎燒煉礦物類藥物,製取“長生不死” 仙丹的一種方術。  丹砂(即硫化汞)和汞(水銀)是煉丹的重要原料。 我國的外丹術最遲在秦代已經出現。 道教創立後,道士從方士手裏繼承了煉丹 ...
天工開物に描かれた錬金術と煉丹術

 さらに葛洪は錬金術の理念を、次のように記します
いったい丹砂の性質は、焼けば焼くほど恒久的になり、変化すればするほど霊妙になる。黄金は火の中に入れ、くりかえし精錬しても減少せず、地中に埋めても永久に腐らない。このふたつの物を服用し、人の身体を錬成する。だから人を不老不死にする。

錬金術は錬丹術でもあります。金と丹(丹生)を活用する術だからです。しかし金だけでなく銀・鉛も使います。9世紀の道士孟要甫が残した『金丹秘要参同録』は「修丹の十」には、「坩堝(るつぼ)と炉の制作の規則を知り、そのうえで龍(水銀)と虎(鉛)の法則の学を理解し、鉛と禾(水銀)のもつ究極的な真実の不思議さを認識しなければならない」と記されています。
 ここからは彼らが一定の科学知識と実験精神をもっていたことがうかがえます。そして、丹生(水銀)は錬金術にとって欠かす事の出来ない必需品であったことが分かります。

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空海は、このような当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していたと研究者は考えているようです。そして、丹生に深くかかわっていたのは秦氏集団です。アマルガム鍍金法を用いて水銀を大量に生産した技術を持っていたのは、秦氏・秦の民です。空海の虚空蔵求聞持法の師は、伊勢水銀にかかわる泰氏出身の勤操でした。
須恵器「はそう」考

丹生(水銀)は薬として用いられましたが、空海は単なる薬として用いたのではないことは、彼が虚空蔵求聞持法を習得した僧であったことからうかがえます。空海も当時の錬金術という最先端技術の虜になっていたのかもしれません。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究

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