瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海の修行地

まんのう町図書館郷土史講座でお話ししたことをアップしておきます。

中寺廃寺講演会ポスター

弘法大師行状絵詞 真魚伝説

本日の与えられたテーマには「若き空海も修行した(?)中寺廃寺のを探る」ですが、真ん中に(?)がついています。これについては、追々お話しすることにして、
今日は次のような三部構成で進めていこうと思います。
①若き空海が、どんな山林修行をしていたのか
②山林修行の場として作られた中寺の構造・特色は、どんなものであったのか
③中寺衰退後の霊山大川山には、どんな修験者ネットワークが形作られたのか
まず、①若き日の空海がどんな山林修行したかを見ていくことにします。上の絵は弘法大師行状絵詞とよばれるもので、空海亡き後に300年ほど経って書かれた絵伝です。赤い服を着ているのが空海で、幼年期は真魚と呼ばれていました。巻物は右から左へ開かれていきます。時間変遷も右から左へと進んでいきます。
①右端が、蓮の花の円座を敷いた雲の上に乗った空海が仏たちと話しています。
②真ん中では「さあ仏ができたぞ」と、土で仏を作りています。
③左端は、出来上がった仏をお堂に安置して祈っています。
こうして空海は小さい頃から、仏と共にあったことが語られます。

弘法大師 行状四天王執蓋事
空海を守護する四天王(弘法大師行状絵詞)
ある日のことです。真魚(空海)がいつものように仙遊寺あたりに遊びに行こうとしています。仏を守護する天部の四天王が、ボデイーガードとして真魚を護っています。四天王の姿は人々には見えません。

四天王に護られた空海
四天王を従えた真魚に跪く役人
しかし、都からやってきた偉い役人には、その姿が見えます。役人は驚いて馬を下り、地面にひれ伏します。その前を真魚は通り過ぎて行きます。絵伝は、空海の幼年期のことをカリスマ化ししていきます。このような話が、後の空海伝説につながって行きます。そんな中で、善通寺でだけで語られるシーンが出てきます。それを見ていくことにします。

空海の捨身行 我拝師山
我拝師山からの真魚の捨身行
 この絵の舞台は、善通寺五岳の我拝師山です。岩場から真っ逆さまに墜ちているのが真魚です。実は落ちているのではありません。説明文には次のように記されています。

弘法大師は、五岳の我拝師山の崖に立ち、次のように誓願した。吾に生きる意味があるならば、仏よ助け賜えと」と念じて、空中に身を踊らせた。すると釈迦(天女)が現れて真魚を救った。

ここでは釈迦の替わりに天女が現れていますが、もともとは釈迦でした。この言い伝えから、ここは釈迦が現れた所ということで出釈迦と呼ばれ、空海が初めて行を行った場所とされました。後には高野聖でもあった西行も、「空海の行場」に憧れ、ここにやってきて修行したことは以前にお話ししました。つまり、中世は我拝師山は空海修行の地として、山岳修験者に人気があった行場であり霊山だったことを押さえておきます。また、命をかけての最終行を「捨身」行とも云います。 この絵以来、空海は五岳で捨身行の修行をしたと語り継がれてきました。それが現在にもつながっています。現在の出釈迦寺の奥の院の鐘楼を見ておきましょう。

出釈迦寺奥の院と釈迦像

 鐘楼の横に近年姿を見せたのが金色に輝く釈迦像です。これは、先ほどの出釈迦のエピソードを受けてのことでしょう。さらに深読みすると、ここは幼年の空海の修行地であるというアピールしているようにも思えます。もうひとつ、出釈迦が今に語り伝えられているものを見ておきましょう。

ふたつの空海像

空海像です。左が高野山、右が善通寺に伝わるものです。どちらも椅子に座り右手に三鈷杵(さんこしょ)を持っています。これは、仏敵を追い払うと共に、自分の弱い心を打ち砕くとされる神聖な仏具です。後でもういちど出てきます。弘法大師の姿は、ほぼ同じです。違うのは、後ろに釈迦が雲に乗って現れています。これは先ほど見た出釈迦のエピソードに由来するものでしょう。善通寺のセールスポイントは「空海誕生の地」でした。同時に、我拝師山で空海がはじめて修行を行ったことをアピールしているものとも思えます。ここでは中世には、幼い空海が我拝師山で修行したと考えられていたことを押さえておきます。
 最初のテーマにもどりますが、中寺と空海をむすぶものは、山林修行です。
それが我拝師山までは辿れるということです。これを中寺でも行ったとすればいいわけです。次に、空海が若き日に行った山林修行とはどんなものだったのかを次に見ていくことにします。その前に、山林修行者と、修験道・修験者の違いを押さえておきます。

山林修行者から修験道へ

空海以前から山野に入って山林修行していた人達はいました。その目的は超能力を身につけるためと、鉄・銅・水銀などの鉱山資源開発のための山師(最先端テクノ技術)や、医学者としての薬草採集などの実利的な面もありました。彼らは渡来系の人達で当時の先端技術や知識を持っていた人達です。空海によって密教がもたらされると、その影響を受けて組織化が進みます。そして、12世紀になると始祖を役行者、守護神を蔵王権現・不動明王として、ひとつの部門を仏教教団の中で構成するようになります。これが修験道です。義経に仕えた弁慶も僧兵であると同時に修験者でした。讃岐に流された崇徳上皇も都に帰れぬ恨みを、「天狗になってこの恨みはらんさん」といい天狗になります。天狗になるために修行する修験者も出てきます。これを天狗道(信仰)と呼びます。そのメッカが白峰寺や象頭山でした。そこには天狗になるために修行するひとたちが沢山いたことは以前にお話ししました。
 整理しておくと、12世紀より以前に修験道もなく修験者もいなかった、いたのは雑多な山林修験者でした。そこで、中世以後を修験者、修験道、それ以前を山林修行者と分けていつこと。空海は古代の山林修行者のひとりになります。
それでは山林修行者は、どんなところで修行したのでしょうか。

山林修行者が選んだ行場とは


彼らが行場として選んだのは「異界への入口」でした。天界への入口として相応しいのは、石鎚などの切り立った山です。そこには多くの行場があり、山林修行者が集まりました。一方、地界(地下)への入口とされたのが、火口や洞窟・滝や断崖でした。洞窟は、地界に続く入口とされましたがそれだけではありません。修行者にとって雨風を凌ぐ、生活の場が必要です。お堂や寺院が出来るまでは、洞窟が生活の場でした。

空海の伝記には、空海の山林修行について次のように記されています。

空海の山林修行

以上を要約すると次のようになります。
A 山林修行の僧中に飛び込んで行動した。(先行する集団がいたこと)
B 具体的な修行内容は、②岩ごもり ③行道 ④座禅だった。
C 短期間でなく⑤何年も行った
 空海が行った修行2

 空海の行った修行を具体的に押さえておきます。
   ①まず岩籠(いわこ)もりごもりです。洞窟は、魑魅魍魎の現れる異界の入口と考えられていました。そこに一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。それだけで一般の人達から「異人」と思われたかもしれません。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。これが「木食」です。洞窟は、生活空間で、修行者が多くなると庵や寺院(奥の院)に成長して行きます。
 ②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。
どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。
それは当時の僧侶が朝廷や貴族から求められたのは高尚な仏の教えだけでなく、旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことでした。そのためには修行を積んだ「験」が高い僧侶が求められます。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントやアイテムが必要で、それが修行だったということでしょうか。そのために東大寺や地方の国分寺の高級国家公務員である僧侶も机に向かうだけでなく、空海のような山林修行を行うことがもとめられるようになります。そうしないと護摩祈祷しても所願成就とはなりません。僧侶としての栄達の道も歩めません。

空海は、どんな修行をおこなったとされているのでしょうか?
絵伝に出てくる修行シーンを見ていくことにします。

阿波太龍寺 宝剣飛来
阿波の大滝山で虚空蔵求聞持法を唱える空海と飛来する宝剣(弘法大師行状絵詞)
阿波大滝山での空海の修行の成就シーンです。空海が座っている所は、よく見ると崖の上の洞窟です。これが大瀧山の不動霊窟のようです。行場として相応しいところです。空海の前には黒い机が置かれています。その上には真ん中の香炉、左右に六器が置かれています。虚空蔵求聞持法というのは、百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。すると、 雲海が切れて天空が明るなります。そして雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。これが修行によるパワーポイントやアイテムの獲得です。しかし、これで修行が終わったわけではありません。成就すると次の行場に向かいます。絵巻は室戸へとつながっていきます。

室戸 明星 空海
室戸で明星が口に飛び込む
太龍寺からの続く雲海が切れると、岬の絶壁を背にして空海が瞑想しています。前は大海原で逆巻く波濤を押し寄せています。すると、輝く明星が室戸の海に降り注ぎます。その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を体験し、身を以て体感し悟りに近づいていきます。これが山林修行です。
  
金剛頂寺 空海
金剛頂寺で禅定する空海と、そこに現れる魔物たち。
この舞台は金剛頂寺です。壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいます。本堂に空海は座って、修行に励んでいます。上の説明文を読んでおきましょう。
「汝ら

金剛頂寺 生木仏像
魔物退散のために生木に仏を彫る空海
木に仏を彫るというのは、魔除けのために空海が行ったことです。このため後の修験者たちも生木に仏を刻むことを行います。生木地蔵などがあれば、そこが修験者や高野聖の拠点であったことが推測できます。また、この魔類や妖怪たちは、柳田國男の民俗学で仏法以前の「地主神」とされます。このように、もともといた神々を追い払ったり、従えながら仏法が定着する姿を語ったというのです。
ここで注目しておきたいのは、室戸岬で生活していたとは書いていないことです。生活していたのは金剛頂寺で、行場が室戸岬で、そこを往復=行道していたと記します。これを整理して起きます。

金剛頂寺と室戸の行道

位置関係を地図で見ておきます。①こちらが金剛頂寺 こちらが室戸岬。20㎞余り離れています。研究者は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマだったようです。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺(ほつみさきじ)となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。ここでは、禅定や巌籠もりだけでなく、行道もおこなっていたことを押さえておきます。
 以上から、どうして山林寺院がこの時代に姿を見せるようになったかをまとめておきます。

山岳寺院誕生の背景

このようなことを背景に、中寺は国衙によって建立されることになります。ここまでが第1部です。

辺路修行から四国遍路へ

  蛇足になりますが、四国遍路の形成について現在の研究者は次のように考えています。
①小辺路は我拝師山や室戸岬のように1ヶ所での修行
②中辺路は、観音寺から七宝山を越えて我拝師山までとか、丸亀平野の七ケ所詣り・髙松平野の七観音巡礼のように、いくつかの小辺路を結んだもの
③さらに中辺路のブロックをいくつか重ねたものが大辺路
こうして、中世のプロの修験者たちは四国の行場で辺路修行を重ねていました。それが近世になるとアマチュアが、これに参入するようになります。彼らは素人の修験者なので、行場での長期の修行はしません。お札だけを奉納する巡礼に替わります。つまり、修行なしの遍路になります。そうすると、行場のある奥の院を訪れる参拝者は少なくなり、お寺は行場のあった奥の院から里に下りてきてきます。そして里の札所をめぐるスタンプラリーとなります。ここでは中世の辺路修行(=行場めぐり)が、四国遍路のベースにあったことされていることを押さえておきます。 今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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大川山は、たおやかに連なる阿讃山脈の中にポツンと抜け出たピラミダカルな姿が印象的です。古くから霊山として人々の信仰対象になっていたことがうかがえます。その前衛峰P753mの直下に、古代の山林寺院がありました。

中寺廃寺地図10

中村廃寺の展望台から望む景色は絶景です。足下には、満濃池が横たわり、輝く湖面を見せています。

中寺廃寺展望台
中寺廃寺の展望台 満濃池が足下に見える
丸亀平野には飯野山・五岳・象頭山など、おむすび山の甘南備山がいくつも顔を見せ、箱庭のようです。遙かには塩飽諸島や庄内半島も望めます。

中寺廃寺 大川からの遠望

修験者にとて展望がある霊山というのは魅力であったようです。空海の若い頃に行った阿波の大滝山や土佐の室戸での修行を見てみると、座禅と行道が中心です。行道は行場と行場を早駆けすることです。この中寺廃寺と霊山である大川山でも、何度も往復する行道が行われていたはずです。それが中世には中寺廃寺を別当寺(神宮寺)、大川山山頂の神社を信仰する神仏混淆の山岳信仰のスタイルが出来上がっていきます。今回は、中寺廃寺が現れる以前の信仰を見ていくことにします。テキストは「上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)」です。 

中寺廃寺 エリア分類
中寺廃寺の4つのゾーン
中寺廃寺は、次の4つのゾーンから構成されています。
Aゾーン(仏ゾーン)  仏堂と塔のある宗教的な中核エリア
Bゾーン(祈りゾーン) 霊山大川山への祈りを捧げる割拝殿と僧坊
Cゾーン 祈りのための石塔が人々によって捧げられた谷間の空間
Dゾーン 古代中世の中寺廃寺が退転した後の宗教空間
この中で最も早く登場するのがBゾーンです。初期の山林修行の活動痕跡が残っているBゾーンから見ていくことにします。

中寺廃寺  全景


Bゾーンは大川山に向かって張り出した尾根上に位置します。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿跡からの大川山
発掘中のBゾーン 割拝殿

Bゾーンからはm上中下三段の平場において、割拝殿(仏堂跡?)と僧房跡数棟が出てきました。
その発掘の過程で出てきたのが、次の銅製の破片です。

中寺廃寺 錫杖


IMG_0054
これを何だと思いますか? ヒント 空海も使っていたものです。

中寺廃寺 三鈷杵・錫杖破片

これは、三鈷杵と錫杖の破片だそうです。しかし、空海がもたらしたとされる三鈷杵とは、少し形がちがいます。空海伝説で語られる「飛行三鈷杵」を見ておきましょう。
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)
空海が唐からの帰国の際に明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。この時の「飛行三鈷杵」とされているものが高野山にはあります。

飛行三鈷杵2

飛行三鈷杵3

この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。現在は重文になっています。この三鈷杵とさきほどの中寺廃寺跡からでてきたものを比べると、形が少し違います。研究者は中寺廃寺跡出土のものの方が古く、空海以前の雑密(雑多な密教修験者)修行者が使っていたスタイルだと指摘します。そうすると中寺廃寺では、空海が現れる前から山林修行者が活動していたことになります。

中寺廃寺 三鈷杵破片2


この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。髙松周辺の四国霊場は、観音霊場巡りで結ばれていたことは以前にお話ししました。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったでしょう。
延暦16(797)年、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽(太龍寺)
②土佐室戸岬(金剛頂寺)
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
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中寺廃寺のB地区の割拝殿や僧坊は、8世紀末まで遡るとされる。

中寺廃寺が8世紀末期には、すでにあったとすれば、それはまさに四国で空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。善通寺に近い中寺を、若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。平城京の大学をドロップアウトした後の空海の足取りは謎とされています。しかし、雑密の山林修行者の集団の中に身を投じたことに間違いはないようです。そのひとつが故郷の讃岐で最も著名であった山林寺院の中寺廃寺であったという説です。

空海入唐 太政官符
  延暦24年(805)9月11日付太政官符(平安末期の写し)

ここには「延暦22年4月7日 出家」と見えます。補足して意訳変換するとすると次のような意になります。
「空海が出家し入唐することになったので税を免除するように手続きを行え」

ここから分かるように、古代律令国家では、出家得度認可権は国家が握っていました。得度が認められた僧尼は国家公務員として、徴税免除となり鎮護国家を祈願しました。国家公務員としての高級僧侶たちに「庶民救済」という視点は薄かったのです。鎮護国家の祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会を行いました。一方で、僧は清浄を保ちながらも、かつ山林修行を通じて個々の法力を強化することが求められました。高い法力を示すためには、厳しい修行が必要とされたのです。ゲームの世界に例えると、ボスキャラを倒すためには、ダンジョンで修行してパワーポイントを貯めることが攻略法の第一歩なのと似ているかもしれません。そのような視点で、中寺廃寺のBゾーンを見てみると、8世紀後半の土器類や、古式の三鈷杵や錫杖が出土していることに研究者は注目します。
 養老「僧尼令」禅行条は、禅行修道のために籍のある寺を離れて山居を求める場合の手続きについて、以下のように規定します。

在京の僧尼の場合は、三綱の連署をもらい、僧綱・玄蕃寮を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。地方の僧尼の場合は、三綱と国郡司を経て、太政官に申し、可否をきいて公文を下す。その山居の場となる国郡は、僧尼の居る山を把握しておかねばならず、勝手に他所に移動してはならない

ここからは律令国家が国家公務員としての僧侶が山林行を行う事を法的に認めていたことが分かります。また、「山居の場となる僧尼の居る山を把握し、山林修行の場を、国衙や郡衙は把握せねばならない」という規定は、修行拠点となる山林寺院を国衙や郡衙は把握しておかなければならなかったことになります。最澄や空海も、こうした法的規制下にあったはずだと研究者は考えています。。 
 山林寺院にかかわる養老「僧尼令」の非寺院条を見ておきましょう。
ここには僧尼が所属する寺院以外に道場を建てて、衆を集めて教化し、みだりに罪福を説くことを禁じています。この道場を山林寺院とみなし、天平宝字8年(764)の詔勅で、逆党の徒が山林寺おいて僧を集めて読経悔過するのを禁じたとする説があります。つまり、当時の山林寺院が律令国家の仏教政策に背いたためだと云うのです。しかし、この法令は道鏡政権が、勝手な布教活動や反国家政治集会を禁止したもので、山林寺院の存在そのものを否定したものではないと研究者は考えています。
 『続日本紀』宝亀(770)10月丙辰には、次のように記します。
天平宝字8年の禁制の結果、

「山林樹下、長く禅差を絶ち、伽藍院中、永く梵響を息む」

山林修行が行われなくなり、修行を行う僧侶がいなくなり弊害が生じたことを嘆き、山林修行の復活を願い出ています。これに応えて、光仁・桓武政権は浄行禅師による山林修行を奨励するようになります。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要な存在とされていたことを押さえておきます。
 
 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くにあります。古代山林寺院が律令制下の国境近くに立地する意味について、次のようなことが指摘されています。
①兵庫県の山林寺院の分布を総合的に検討した浅両氏は、その間に摂津・播磨・丹波三国の国境線をむすぶ情報網があったこと
②加賀地域の山林寺院を検討した堀大介は、8・9世紀の山林寺院が国境・郡境沿いに展開すること
国境管理と山林寺院が密接な関係にあったことを押さえておきます。

律令時代の国境は、次のように国街が直接管理すべき場所でした。
A 大化「改新之詔」では、京師・畿内について、「関塞設置」の規定があります。
B 『日本書紀・出雲国風土記』は、隣接する伯香・備後・石見国との国境に、常設・臨時設置の関があったことを記します。
C 関を通過するための通行手形(過所木簡)などの史料から、7世紀後半以降、9世紀に至るまで、国境施設が具体的に機能していたことが分かります。
   中寺廃寺が讃岐と阿波の国境近くに建てられたのも、国衙が直接管理する施設が国境近くにあったことと無関係ではないようです。つまり、国境パトロールの役割が中寺廃寺にはあったという説です。行場から行場への厳しい行道を繰り返す山林修行者に、その役割が担わされていたのかもしれません
以上を整理しておくと
①大川山は丸亀平野から仰ぎ見る霊山として古代から信仰を集めていた
②8世紀後半になると、山林修行者が大川山周辺で山林修行を行っていたことが分かる。
③それは山林修行者の拠点となった中寺廃寺跡から8世紀後半の土器や、雑密時代の古式法具が出てきていることが裏付けとなる
④8世紀末は空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の群れの中に身を投じる時期と重なる。
⑤四国の大滝さんや室戸・石鎚の行場で、修行した空海は、讃岐国衙管理下にあった中寺廃寺で修行したことが考えられる。
⑥真言・天台の密教勢力が強くなると、護摩祈祷のためには強い法力が必要で、そのためには修行を行い験を高めることが必要とされるようになった。
⑦そのため国家公務員のエリート僧侶の中にも、空海に習って山岳修行を行うものが増えた。
⑧それに対応するために、讃岐国衙主導で中寺廃寺は建立された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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