瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海の家族

DSC04474
             空海の誕生場面(弘法大師行状絵詞)
空海の誕生場面を弘法大師行状絵詞では、次のように記します。(意訳)

「讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直氏の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。広い庭には犬が飼われています。けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母(右上)」

これが後世の画家達がイメージした多度郡司佐伯直氏の家です。しかし、戸籍に残された郡司の家は、これとは、まったくちがう様相をしていたことを教えてくれます。最近まで「日本で一番古い」とされてきた「 筑前国嶋郡川邊里戸籍」から、佐伯直家を今回は見ていくことにします。

筑前国嶋郡川邊里」戸籍 奈良

 「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍の一部です。 縦27cm、横64.5cmの和紙に、縦書きで28家族438人分の情報が一人一行ずつで記されています。

筑前国嶋郡川邊里」戸籍 奈良拡大

最初に登場するのが戸主で、姓名、年齢、税の区分、続柄が記されます。以下は、配列は血縁順です。全面には「筑前国印」の朱印が隙間がないほどびっしりと押されています。

肥君猪手の戸籍 筑前国印

どうして白鳳時代の戸籍原本が、今に伝えられたのでしょうか。
大宝律令(701年)によって、全国に律令の周知徹底が進みます。そんな中で翌年の大宝2年(702年)に、この戸籍は作られています。当時の戸籍は三通作成され、一つは地元(国)に保管、残り二つは中央に送られるように命じられます。そこで郡衙では、50の戸(=家)が集まった郷(ごう)ごとに一巻の戸籍がつくりました。それが国府に集められて、国府印を隙間がないほどベタベタ押して、中央政府に送られたのです。これも農民達が背負って都まで運んだのでしょう。
 全国から集まった戸籍の数は、一万巻にもなりました。戸籍は6年毎に作られたので、政府の倉庫はいっぱいになります。そこで保管期限を30年として、期限を過ぎると反故(ホゴ)として、東大寺などに払い下げました。紙は貴重なものでしたから、寺や写経所では巻物になっていた戸籍を、手頃な大きさに切ってメモ用紙にしました。そのため残っている戸籍の裏には、当時のメモや写経が書かれているものがありますし、大きさもバラバラです。戸籍として、つなぎ合わせてみると途中が無い部分もあるようです。以上をまとめておくと、反故にされた戸籍は、寸断されメモ用紙として使われ、その一部が正倉院に残ったことになります。正式名称は「重要文化財 表 筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡、紙背(裏)千部法華経校帳断簡」です。

それでは、この戸籍はいつ作られたものなのでしょうか。
大宝律令(701年)が出されて、国郡里(郷)の行政区分が定められます(国郡里制)。その翌年に、この戸籍は作られています。実際に戸籍が作られ、一人ひとりを古代国家が掌握し、土地支給を行う「個別人身支配体制」が始まっていたことが、この戸籍からは裏付けられます。それでは戸籍を見ていくことにします。まず概要を挙げておきます。
①記載方法1行1名で、戸口(個人)の配列は血縁順
②戸の終わりには与えられた区分田総数が記される
③文字のある部分と紙の継目の裏には「筑前国印」を捺している。
④文字は六朝風で整然と書かれている。
⑤筑前国嶋郡川辺里は、今の福岡県糸島郡志摩町馬場あたりで、嶋郡の郡衙所在地 
⑥裏は天平20年(748)の『千部法華経校帳』の断簡になっている
⑦戸籍の保存期間が過ぎて、写経所に払い下げられ裏面利用されたもの
川邊里(郷)の中で、最も人数の多い戸(大家族)の「肥君猪手(ひのきみのいで)」を戸主とする家族です。
「筑前国嶋郡川邊里」戸籍1

  まず右から1行目 
A「①戸主 追正八位上勲十等②肥君猪手 年伍拾参歳 ③正丁大領 ④課戸」

戸主は「正八位上勲十等」位を持つ肥君猪手で、年齢は53 
大領(郡司)の肥国猪手は、熊本(肥国)の「火の君」の流れを汲む嶋郡で最有力の豪族です。多度郡の空海の実家である佐伯直氏と同格クラスでしょう。大領職にあるので、その職田として6町(6㌶)が別に支給されています。
③の「正丁」は21歳以上60歳以下の男子
大宝律令の年齢区分

④「課戸」は、課税対象者で納税の義務者。
⑤口分田は全体で13町6反120歩(約14ヘクタール)
2行目
B「庶母 宅蘇吉志須弥豆賣(やかそのきし すみずめ) 年陸(六)拾伍(65)歳 老女」
「庶母」とは実の母ではなく義母のこと。とすると妻の母か、父の後添え?
C 3行目は「妻 哿多奈賣(かたなめ) 年伍拾貳(52)歳 丁妻」
 52歳の正妻。姓がないので、2行目の庶母と同姓の宅蘇吉志(やかそのきし)
D 4行目。「妾 宅蘇吉志橘賣(たちばなめ) 年肆拾?(47)歳 丁妾」
 妾47歳も同じ姓の宅蘇吉志
E 5行目「妾 黒賣(くろめ) 年42歳」で二人目の妾。
F 6行目「妾 刀自賣(とじめ) 年35歳」三人目の妾。
 黒賣も刀自賣も姓がないので、これも宅蘇吉志?
以上を整理しておくと、
庶母 宅蘇吉志の須弥豆賣 65歳妻    
〃     哿多奈賣 52歳妾  
橘賣   47歳妾    
〃   黒賣   42歳妾    
〃   刀自賣  35歳妾
姓がみな宅蘇吉志となります。これをどう考えればいいのでしょうか?
吉士氏は渡来人系であることを前回お話ししました。紀記には、吉士氏の一族が次のように登場します。
①良馬をもたらした「阿知吉士」
②論語十巻・千字文一巻をもたらした「和迩(わに)吉士」
その他の活動もまとめると、新羅や百済、唐との外交交渉に活躍し、半島派遣軍の将や、屯倉の税の徴税・管理責任者として活躍する海の民だったようで、各地に吉志部が置かれていました。
以上の読み取った情報からは、次のような事が推察できます。
①5人の女性がいずれも宅蘇吉志(やかそのきし)の出身であること
②彼女らの年齢構成から考えると姉妹であったこと
③ケース1 庶母と正妻が姉妹であり、妾3人は別の姉妹。姓が一緒なのは親戚筋か。
④ケース2 年齢的には庶母と正妻が親子とは考えにくいので、正妻と妾3人が4姉妹。
⑤ケース3 戸主の肥君猪手は53歳。庶母が産んだとは考えにくいので、庶母の須弥豆賣は父の妾であった可能性。
⑥少なくとも、肥君家は親子2代に渡って宅蘇吉志家と婚姻関係にあったこと
ここからは、古代の女性たちが嫁いでも旧制を名のり続けていたことが分かります。結婚で姓が変わるというのは、後世になってからのようです。また、姉妹を妾にするというのは、日本書紀の天皇家にはよく見られます。天武天皇は兄天智天皇の娘4人を妻にしています。聖徳太子のあの入り組んだ複雑な姻戚関係も事実であったことに納得がいきます。古代では、このような婚姻関係は中央でも、地方でも一般的であったことがうかがえます。さらに⑥からは、肥君家と宅蘇吉志家が婚姻を通じて、強く結びついていたことがうかがえます。
 肥君猪手の戸籍は、第7行目から彼の「子」「子の妻」「孫」へ、それから戸主の「弟」「妹」へ、男から女へと記述されます。
第7行は長男の「肥君興呂志(よろし) 29歳 嫡子」とあり、正妻との間の長男。
第8行目には「勲十等 肥君泥麻呂(ひじまろ) 27歳 妾橘賣男」とあります。泥麻呂には18歳の妻との間に男女2人の子供があります。
 ここで注目したいのは、妾の子・泥麻呂が勲十等の位階をもち、嫡子である興呂志が無位であることです。どうしてなのでしょうか? 何かの論功行賞・売官・国家への寄付などが考えられますが、このあたりは私には分かりません。ただ思い出すのは、空海の父佐伯直田公も無冠でした。
  こうしてみると肥君猪手は、妻や妾たちとの間に次のように子をもうけています。
正妻と2男1女
第一妾と5男2女
第二妾と1男
第三妾との間には子供がない。
肥君猪手には、子が12人、孫が10人いたことになります。それが一緒に生活していたことになります。現在では考えられないものですが、古代にあってはこれが普通だったようです。当時の家族は、この構成単位くらいまでは、一つの屋敷内に同居していたのだろうと研究者は考えています。
しかし、一緒に生活していたのは、これだけではありません。次のような一族もいました。
■ 寄口(きこう)
古代戸籍の親族呼称は「いとこ」までで、それより遠い親類や縁者を寄口(きこう:よりく)呼びました。彼らも一族として住む労働力の担い手でした。肥君家には3家族14人が記されています。
■ 奴婢(ぬひ)
有力者の家には奴隷がいました。奴(やっこ)は男、婢(めやっこ)は女です。彼らは牛馬同様に主人の持ち物で、売買や贈与される存在でした。魏志倭人伝の中に卑弥呼が、魏へ生口(せいこう)と呼ばれる奴婢を送っています。川邊里の戸籍が造られた8世紀初頭でも、奴隷制度は残っていたようです。肥君猪手の戸籍には「戸主奴婢」10人、「戸主母奴婢」8人、「戸主私奴婢」18人、所属不明1人、計37人と記されています。

その他を加えて合計すると、老若男女あわせて124人の大人数になります。

筑前国嶋郡の大領(郡司)・肥君猪手の家族構成

こうしてみると郡司の家族構成は、大家族制度だったことが分かります。空海の佐伯直家もこのような大家族制だったはずです。このような大家族になると、普通の広さの家屋では入りきれません。おそらく、古墳時代の豪族の家のような大きな家だったことが推察できます。それでも百人近くの家族が一軒の家に住めたとは思えません。広い敷地の中に、いくつもの家が建ち並び、それぞれの小家族が生活していたことが考えられます。そして、その中には結縁者以外の寄口や奴婢たちもいたことを押さえておきます。
 郡司は役人としてだけでなく、口分田を耕作し、収穫した種籾を周辺の農家に貸し与えて利息をとることなどでも富を蓄積していきました。また開墾が奨励されると、親族や周辺の農民なども動員しながら開墾を行い、私有地(初期荘園)を広げていきました。国司の下であっても、郡司である地方豪族は役得の「中間利益」も多く一定の力を保持していきます

河辺里(郷)のその他の戸と人数を見ておきましょう。各戸の人数(戸口)の多い順に並べたものです。
肥君猪手の戸籍
これを見ると、郡司の戸口124人というのは飛び抜けて多く、20~30人が普通の規模だったことが分かります。その中で、以上をまとめておきます。また、37人もの奴婢を持っているのも郡司の家だけです。空海の佐伯直氏の家にこのくらいの奴婢がいたのかも知れません。

筑前国嶋郡の郡司・肥君猪手の戸籍

以上のような視点で佐伯直氏の系図を見てみます。
1 空海系図

この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直氏の場合は道長と記されています。彼の戸籍にも、妻や妾・そして兄弟や自分の息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並んでいたことが推測できます。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。ここでは、戸籍に戸長とある道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。

また、空海と弟の真雅が年齢が離れているのも、父田公に何人かの妾がいて、異母兄弟だったと考えれば不自然ではなくなります。「筑前国嶋郡川邊里」の戸籍は、佐伯直氏の家族構成を考える上でもいろいろな情報を与えてくれます。



前回までは円珍(智証大師)を生んだ那珂郡の因支首氏の改姓申請の動きを見てきました。実は、同じ時期に空海の実家である佐伯直氏も改姓申請を行っていました。円珍の母は空海の父田公の妹ともされていて、両家は非常に近い関係にあったようです。今回は因支首氏に先行して行われていた佐伯直氏の改姓運動を見ていこうと思います。テキストは武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の家系や兄弟などを知るうえでの根本史料とされるのが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。
ここには、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら十一名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたときの記録が記されています。公的文書なので、もっとも信頼性のある史料とされています。空海の甥たちは、どのようなことを根拠に佐伯直から佐伯宿禰への改姓を政府に申請したのでしょうか。
「貞観三年記録」の全文を十の段落に分けて、見ていきましょう。

①讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

意訳変換しておくと
①多度郡の佐伯直田公の息子や甥など佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、彼らの男の貞持・貞継・葛野、豊雄、豊守、栗氏ら十一名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職に移されたこと。

ここに登場する空海の弟や甥たちを系図化したものが下図です。
1佐伯家家系
佐伯宿禰の姓を賜わった九名の名があげられています。このなかで他の史料でその実在が裏付けられるのは、空海の弟の鈴伎麻呂と甥の書博士・豊雄のふたりだけのようです。
鈴伎麻呂に付いては、『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月甲申二十二日)条に、 次のように記されています。
詔(みことの)りして曰(のたま)はく、天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと勅(おほみこと)大命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る.巡察使の検(けむ)して奏し賜へる国々の郡司等の中に、其の仕へ奉(まつ)れる状(さま)の随(したがう)に勤み誉しみなも、冠位上(あげ)賜ひ治め賜はくと。勅(おほみこと〉天皇(むめら)が大命(おほみこと)を衆(もろちろ)間き食(たま)へと宣(の)る。正六位上高向史公守、美努宿輌清貞、外正六位上久米舎人虎取、賀祐巨真柴、佐伯直鈴伎麿、久米直雄口麿に外従五位下を授く。

この史料は、天長二年(835)8月丁卯(27日)に任命され、同年十二月丁巳(十九日)各国に派遣された巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司の中から褒賞すべき者ものに外従五位下を授けたときの記録です。このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に佐伯直鈴伎麿がいます。
   松原弘宣氏は、これについて次のように記します。
この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえる。

 ここからは、この記録に出てくる佐伯直鈴伎麿は空海の弟と同一人物とし、多度郡の郡司(大領)を務めていたとします。

ここからは、空海に兄弟がいたことが分かります。
一番下の弟・真雅は、当時は天皇の護持僧侶を務めていました。真雅と空海の間には親子ほどの年の開きがあります。そのため異母兄弟だったことが考えられます。
 段落②です
②是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。

意訳変換しておくと

②この改姓・改居は、空海の甥に当たる書博士・豊雄の申し出をうけた大伴氏本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏した。

 伴(大伴)善男は、貞観三年(861)8月19日に、左京の人で散位外従五位下伴大田宿爾常雄が伴宿爾の姓を賜わったときにも、上奏の労をとっています。その時も、家記と照合して偽りなきことを証明し、勅許を得ています。その時の記録に記された善男の官位「正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫」は、この当時のものに間違いないようです。ここからは、善男が、伴(大伴)氏の当主として、各方面からの申請に便宜をはかっていたことが裏付けられます。この記述には問題がなく信頼性があるようです。
3段目です
③『書博士正六位下佐伯直豊雄の款に云はく。「先祖大伴健日連公、景行天皇の御世に、倭武命に随いて東国を平定す。功勲世を蓋い、讃岐国を賜わりて以て私宅と為す。

意訳変換しておくと

③書博士の佐伯直豊雄は申請書に次のように記している。先祖の大伴健日連は、景行天皇のときに倭武命にしたがって東国を平定し、その功勲によって讃岐国を賜わり私宅としたこと。

前半の「大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したこと」については、『日本書紀』景行天皇四〇年七月戊成(十六日)条に、次のように記されています。
天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(みことおほ)せたまひて、日本武尊に従はじむ。そして同年の条に甲斐の国の酒折宮(さかわれのみや)において、報部(ゆけひのとものを)を以て大伴連の遠祖武日に賜う。

 ここからは、大伴武日連は日本武尊の東国平定に従軍し、甲斐の国で兵士を賜わったと伝えられています。しかし、これを讃岐の佐伯直豊雄が「先祖の大伴健日連」とするのは「問題あり!」です。これは大伴氏の先祖の武勇伝であって、佐伯直の物語ではありません。この辺りに佐伯直の系譜を、大伴氏の系譜に「接ぎ木」しようとする意図が見えてきます。


4段目です
④健日連公の子、健持大連公の子、室屋大連公の第一男、御物宿爾の胤、倭胡連公は允恭天皇の御世に、始めて讃岐国造に任ぜらる。

意訳変換しておくと
④その家系は、健日連から健持大連、室屋大連、その長男の御物宿爾、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連が允恭天皇のとき讃岐国造に任ぜられた。
1佐伯氏
『伴氏系図』
「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれている
道長の父が田公になっている

佐伯家の家系を具体的に記したところです。健日連から倭胡連にいたる系譜の「健日連― 健持大連 ― 室屋大連 ― 御物宿爾」
の四代は、古代の系譜に関してはある程度信頼できるとみなされている『伴氏系図』『古屋家家譜』とも符合します。健日から御物にいたる四代は、ほぼ信じてよいと研究者は考えています。
5段目です
⑤倭胡連公は、是れ豊男等の別祖なり。孝徳天皇の御世に、国造の号は永く停止に従う。

意訳変換しておくと
倭胡連は豊男らの別祖であること、また孝徳天皇のときに国造の号は停止されたこと。

  前半の倭胡連は豊雄らの別祖であるというのは、きわめてミステリックな記述と研究者は指摘します。なぜなら、みずからの直接の先祖名を記さないで、わざわざ「別祖」と記しているからです。逆に、ここに「貞観三年記録」のからくりを解く鍵がかくされていると研究者は考えているようです。これついては、また別の機会にします。
  後半の孝徳天皇のときに国造の号が停止されたことは、史実とみなしてよいとします。
『日本書紀』巻二十五、大化二年(六四六)正月甲子(一日)条から、国造の号は大化の改新に際して廃止され、新たにおかれた郡司に優先的に任命された、と考えられているからです。それまでは、国造を務めていた名家であるという主張です。

6段目です

⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。

意訳変換しておくと

豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の両大師の功績による。しかし、空海の一族であるわれわれ田公一門は、まだ改居・改姓を賜っていない。

第六段の前半は、豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっていることです。
真持の正史に残る記述を並べると次のようになります。
承和四年(837)十月癸丑(23日)左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月己西(7日)正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年(846)七月己西(十日)従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月丁未(十六日)従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月十四日乙未 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす
同五年(863)二月十日癸卯 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和の介とす。

ここからは確かに、真持は承和四年(837)に長人らと佐伯宿禰の姓を賜わっていることが分かります。また「左京の人」とあるので、これ以前に左京に移貫していたことも分かります。同時に改姓認可されている長人の経歴をみると、前年の承和三年(836)十月己酉(十二日)条に、次のように記されています。

讃岐国の人散位佐伯直真継、同姓長人ら二姻、本居をあらためて左京六条二坊に貫附す。

真持もこのときに長人と一緒に左京に本貫が移されたようです。ちなみに、生活はすでに京で送っていた可能性が高いようです。
  正雄の経歴も正史に出てくるものを見ておきましょう。
嘉祥三年(850)七月乙酉(十日)讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月七日甲申 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
ここからは、正雄は真持よりも13年遅れて宿爾の姓を賜い、左京に移貫していることが分かります。以上から申請書の通り、本家筋の真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
  
第6段の後半は、真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるとする点です。
実恵の経歴については、この時代の信頼できる史料はないようです。道雄には、『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月己西(八日)条に、次のような卒伝があります。
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

道雄の誕生地は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海の下で真言宗を学んだことが分かります。実恵、道雄については、古来より讃岐の佐伯氏出身とされていて、信頼性はあるようです。

 実恵は承和十四年(847)十一月十三日に亡くなっていますので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居をサポートすることはできません。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっています。正雄の改姓については、支援サポートすることはできる立場にあったようです。
 とすると、真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)のことなので、こちらには東寺長者であった実恵の尽力があったと考えられます。ここからは研究者は次のように考えているようです。
A 実恵は真持一門に近い出自
B 道雄は正雄一門に近い出身
どちらにしても、佐伯道長を戸長とする佐伯一族には、いくつかの家族がいて、本家筋はすでに改姓や本貫地の移動に成功していたことが分かります。この項目は信頼できるようです。

7段目です
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。

意訳変換しておくと
⑦実恵・道雄の二人は、空海の弟子であり、田公は大僧正空海の父である。

前半の実恵・道雄が空海の弟子であったことは、間違いないので省略します。後半の「田公は空海の父」とするのは、この「貞観三年記録」だけです。

8段目です
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。

意訳変換しておくと

⑧空海の弟の大僧都真雅は、東寺長者となっているが、本家筋の実恵・道雄一門に比べると、我々田公一門への扱いは低い。

 真雅が田公一門の出身であることは、彼の卒伝からも明らかです。『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、

僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)

とあって、次のことが分かります。
①もとは佐伯直で讃岐国多度郡に住んでいたこと、
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと
また、真雅は貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となったばかりでした。この時を待っていたかのように、改姓申請はその翌年に行われています。
 後半の「実恵・道雄一門に比べるとその高下は明らかである」というのは、実恵・道雄一門の佐伯氏の人たちが、すでに佐伯宿爾への改姓と京職への移貫をなしとげていることを指しているようです。この段落も疑わしい点はないようです。

9段目です
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。

意訳変換しておくと

③空海の甥・豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえみて悲歎することが少なくない。なにとぞ本家の正雄等の例にならって、田公一門にも宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

書博士・豊雄については、この「貞観三年記録」にしか出てきません。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたとしておきましょう。
「往時をかえりみるに悲歎することが少なくない」というのは、空海の活躍に想いを馳せてのことなのでしょうか。この言葉には、当時の田公一門の人たちの想いが込められていると研究者は考えているようです。
最後の10段目です
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらずと。之を従す。

意訳変換しておくと
以上の款状の内容について、伴善男らが大伴氏の「家記」と照合した結果、系譜上に偽はなかった。よってこの申請を許可する。

  この記録は、大きく分けると次のように二段落に分けることができるようです。
A 前半の①と②は、佐伯宿禰の姓を賜わった鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続柄と、この申請について伴宿爾善男(大伴氏)が関わったこと
B 後半の③から⑩には、書博士豊雄が作成した款状、 つまり官位などを望むときに提出した願書と善男がその内容を大伴氏の「家記」と照合したこと
 「貞観三年記録」の記事の信憑性について、段落ごとに研究者は検討しています。一つ一つの記事は、大伴氏が伝えてきた伝承などにもとづくものがあったとはいえ、ほぼ信頼していいようです。

しかし、研究者にとって疑問残ることもあるようです。
第一は、佐伯連の始祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、すっぽり欠落していることです。
1佐伯氏
大伴氏系図

第二は、大伴氏の系図には、空海の父・田公が「少領」と尻付きに記されていることです。ところが「貞観三年記録」の田公には、官位は記されていません。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。
凡そ郡司には、性識清廉(しょうしきせいれん)にして、時の務(つとめ)に堪えたらむ者(ひと)を取りて、大領(だいりょう)、少領と為よ。強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に工(たくみ)ならむ者(ひと)を、主政(しゅしょう)、主帳(しゅちょう)と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。〈其れ大領、少領、才用(ざいよう)同じくは、先ず国造(こくぞう)を取れ。)

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領(郡司)であったとすれば、必ず位階を持っていたはずです。しかし、「貞観三年記録」の田公には、位階が記されていません。史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料です。そのため「貞観三年記録」にしたがって、空海の父・田公は無位無官であった、と研究者はみなします。
以上をまとめておくと、次のようになります。
①田公一門の直接の先祖をあげないで、「別祖である」とわざわざ断ってまで中央の名門であった佐伯連(宿禰)に接ぐこと、
②佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から田公までの間が、すっぽり欠落していること、
③「貞観三年記録」の倭胡連公までと田公の世代とは、直接繋がらないこと
④倭胡連公のところで系譜が接がれていること
これらの背景について、研究者は次のように考えています。
この改姓申請書は、空海の弟真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、佐伯直氏が空海一門であることを背景に、中央への進出を企て申請されたものであること。 つまり「佐伯直氏の改姓・本貫移動 申請計画」なのです。それを有利に進めるために、武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労を依頼します。さらに、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借用します。それに田公以下の世代を「接ぎ木」したのが「貞観三年記録」の佐伯系譜だったようです。
 そのために大伴氏の系図にみられるように、讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断ってまで記し、そこに「接ぎ木」しています。
 讃岐国・佐伯直氏のひと続きの家系のように記されていた系譜は、じつは倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿禰氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものだったと研究者は指摘します。
「是れ豊雄らの別祖なり」以下の歯切れの悪い文章が、この辺の事情を雄弁に物語っているようです。それでは、別の視点から「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、信頼できる部分はどこなのでしょうか。
 それは、田公以下の十一名の世代だけは、空海の近親者として信じてよい、と研究者は考えているようです。空海には、郡司として活躍する弟がいたり、中央の書博士になっている甥もいたのです。
 また、『御広伝』『大伴系図』などにみられた伊能から男足にいたる四代の人たち、「伊能直――大人直―根波都―男足―田公」の系譜も、ある程度信頼できるようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
関連記事

このページのトップヘ