瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海の山林修行


前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
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大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
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 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

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 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
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 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 

中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答える「Q&A」を作って見ました。
 なおこの寺の現況については以前に紹介しましたのでこちらをご覧ください。

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大川山からのぞむ中寺廃寺

Q1 中寺廃寺が、大川山の奥に建立されたのはどうして

 大川山(標高1043m)は。丸亀平野から見るとなだらかな讃岐山脈の上にとびだすピダミダカルな頂が特徴的でよくわかる山です。この山は、天平6年(734)の国司による雨乞伝説を持ち、県指定無形文化財となった念仏踊りを伝える大川神社が山頂に鎮座します。讃岐国の霊山・霊峰と呼ぶのにふさわしい山です。
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B地区 割拝殿跡から望む大川山
聖なる山を仰ぎ見る「山岳信仰」と山林寺院は切り離せません。
仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきました。
比叡山延暦寺と日吉大社の関係をはじめとして、「山林寺」に隣接して土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られています。中寺廃寺は、大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所としてスタートしたと考えられます。
大川山を遙拝するなら、どうして山頂に寺院は建てられなかったの?
 大川山が聖なる山で、中寺廃寺はその遙拝所だったからです。
霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚があっても、山林寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。
 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、生活不能な山頂に建てる必要はないのです。
 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀、
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。

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B地区 割拝殿と僧坊 ここからは大川山が仰ぎ見えます

Q3 古い密教法具の破片からは何が分かるの? 

 中寺廃寺跡からは、銅製の密教法具である錫杖や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。これらの法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。このことから寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。
 空海によって密教がもたらされる以前の非体系的な密教知識を「雑多な密教」という意味を込めて「雑密」と呼びます。その雑密の行者達の修行が、行われていたことを示します。
 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶がいました。空海も彼らの影響を受けて「大学」をドロップアウトして、その中に身を投じていきます。ここから出土した壊れた密教法具の破片は、厳しい自然環境の中、呪力修得に向け厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているように思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

若き日の空海(真魚)の山林修行は?

山林仏教の修行者となった青年空海は、二十四歳の時、自らの出家宣言として書き上げた「三教指帰』の序文で次のように述べています。
「ここに一の沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。その経に説かく、「もし人、法によって(正しく)この真言一百万遍を誦せば、すなわち一切の教法の文義(文章と意味)暗記することを得」と。
 ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて、飛頷を讃燧に望み(大変努力して、阿国(現在の徳島県)大滝嶽にのぼりよじ、土州(現在の高知県)室戸崎に勤念す谷、響きを惜しまず、明星(金星)来影す(姿を現す)。        (『定本弘法大師全集』七、四一頁)
空海は求聞持法をおこなった場所として具体的に地名を挙げているのは「大滝嶽」「室戸崎」だけですが、辺路修行として他の四国の聖山・聖地で行った可能性はあります。空海は、正式な得度や度牒を得ない私度僧の立場でこの修行をおこなっていたようです。
 当時、南都仏教の学解僧を中心とする大きな存在があった一方で、山林に入って一定期間大自然と一体化する山林修行や、求聞持法のような古密教的な修行法を重視する実践系の仏教集団が形成されていたのです。むしろ、両者の要素を兼ね備えた僧が周りの尊敬を集められたのです。。
 空海が四国の海辺や山岳が求聞持法の修行地として選んだことは、のちに続く密教山岳僧に大きな影響をもたらします。空海が中国からもたらした体系的な密教の実践エリアとして、この地が選ばれるようになります。空海を始祖の一人とする辺地修行と密接に結びつく聖地となっていくのです。それが平安後期から鎌倉期にかけて「弘法大師信仰」によって統一され、次第に「四国遍路」として体系化されることになります。ここはそんな空間のひとつだったのかもしれません。

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A地区 本堂と塔がある中寺廃寺の中枢地区です

中寺廃寺は、いつごろ存続した山林寺院なのですか

この寺院の活動期は次のような3期に分類されているようです。
  1 8世紀後半~9世紀  大川山信仰と修行場
 尾根の先端B地区において、行者たちの利用が始まります。。この時期には建物跡は確認できません。遺構が残らないような簡易施設で「山中修行場」として機能した時期で、B地区は遙拝書として機能していました。
  2 10世紀~  伽藍出現と維持期
谷の一番奥で標高が一番高いA地区に塔・仏堂が姿を現し、B地区では仏堂・僧房が、C地区おいて石組に遺構群が作られる時期です。この時期は、機能が異なるA・B・Cの3つの空間が愛並び、谷を囲んで向かい合う山林寺院として整った時期です。これには、讃岐国衙や国分寺も関わっているようです。
  3 12世紀以降 消滅期 
各地区から建物遺構が見られなくなる時期です。平安時代末期のこの時期に中寺廃寺は衰退・廃絶したと考えられます。
つまり、空海が活躍する9世紀後半以前から、ここは行場として修験者たちが活動する聖地になっていたようです。そして、平安時代が終わるに併せるかのように破棄され忘れ去られていきました。
国司として赴任した菅原道真は、この寺の存在を知っていたのですか?
 道真が着任した仁和2年(886)の夏のことです。
国府の北にある蓮池の蓮の花が真っ盛りでした。土地の長老が「この蓮は元慶(877 - 84年)以来葉ばかりで花が咲かなかったが、仁和の世になると、花も葉も元気になった」と云います。蓮は仏教ではシンボル花なので道真は「池の蓮花を採取して「部内二十八寺」に分捨する」ように提案すると、役人は喜んで香油なども加えて「東西供養」したといいます。[『菅家文草』巻4、262]。
「部内二十八寺」とは、讃岐の国衙が管理する寺28寺です。
ここから、9世後半の讃岐国には、28もの寺院が活動していたことが分かります。これは、考古学的に存在が確認されている白鳳期の讃岐の古代寺院の数と、ほぼ一致します。古代豪族によって白鳳期に建立された氏寺は、200年後にもほぼ存続していたようです。
 菅原道真が、讃岐国にある寺院数を知っていたのは、古代寺院が各国の国守の管轄下にあったからです。寺院に属する僧侶は、国家が直接管理した東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺に設けた三つの戒壇で受戒(合格し採用)した官僧であり、国家公務員でした。その動向や、彼らが居住する寺院の実態を、国守が把握するのは職務のひとつでもあったようです。
 菅原道真がカウントした「讃岐28ヶ寺」のなかに、この中寺廃寺が含まれているかどうかは、年代的に微妙なところです。9世紀後半は、中寺廃寺の本堂や塔が姿を見えるかどうかのラインのようです。
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A地区 本堂から塔跡の礎石を見下ろします
この寺の造営や維持管理に、讃岐国府は関わっていたのですか?
 繰り返しになりますが、古代律令国家においては、個人が出家し得度することは国家が承認しなければ認められませんでした。僧侶は国家公務員として、鎮護国家を祈願しました。祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会に参加します。一方で、僧は
「清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」
することが国家から求められのです。これが国家公務員としての僧侶の本分のひとつでした。
 9世紀後半の光仁・桓武政権は、僧侶の「浄行禅師による山林修行」を奨励します。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要なことであるとされていたのです
 国家は「僧侶が清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」するための施設整備を行うことになります。このような動きの中で10世紀になると、国衙の手によって山林寺院が整えられていくようになります。大川山信仰や行場としてスタートした中寺廃寺に、本堂や塔があらわれるのもこの時期です。
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僧侶は勝手に山岳修行を行うことはできなかったのですか?

 養老「僧尼令」禅行条は、官僧が修行のために山に入る場合の手続きについて、次のように規定しています。
1地方の僧尼の場合は、国司・郡司を経て、太政官に申請し、許可を公文書でもらうこと。
2その修行山居の場所を、国郡は把握しておくこと。勝手に他に移動してはならない。
 この条件さえ満たせば、官寺に属する僧侶でも山岳修行は可能でした。
また、修行と同時に「僧としての栄達の道」でもあったのです。ここで修行した「法力の高い高僧」が祈雨祈念などを行い、成功すれば権力の近くに進む道が開けたのです。
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山中に山寺を建立する理由は「山岳修行」だけですか? 

 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くに立地します。
古代山林寺院が国境近くに立地する例は、中寺廃寺以外にも、
比叡山延暦寺(山背・近江国境)
大知波峠廃寺(三河・遠江国境)
旧金剛寺  (摂津・丹波国境)
などの数多く見られようです。
国境は、国衙が直接管理すべき場所でした。古代山林寺院の多くが、国境近くに立地するのは、国衙の国境管理機能と関連があるようです。さらに讃岐山脈の稜線を西に辿れば、
尾野瀬寺(旧仲南町)→ 中蓮寺(旧財田町)→ 雲辺寺(旧大野原町)
と阿讃山脈稜線沿いに山岳寺院が続きます。中寺廃寺は当時の行場ネットワークを通じて、他の山岳・山林寺院と結びついていたのかもしれません。これを後の四国霊場の原初的な姿とイメージすることもできます。

遺構や出土物からは、どんなことが分かるのですか?

 A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であるようです。ここにも造営に当たって讃岐国衙の「管理コントロール」が働いていたことがうかがえます。
また、塔心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。そのために赤みを強く帯びています。つまり、地鎮・鎮壇具として埋納するための須恵器は、国衙がこの寺用に作らせた特注品が使われているようです。
小説なら「空海、地元の中寺廃寺で修行する」というテーマで、讃岐にやって来た菅原道真の時代に割拝殿が作られることになり、それを国司である道真が「空海が若き日に修行した寺院」と伝え聞いて、特注制の陶磁器などの制作を命じて、空海由来の寺院として整えられていくたというストーリーが書けそうな材料はそろいます。

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また、B地区で出土した灰粕陶と見間違える多口瓶も、わざわざ播磨の工房に特注して作らせた可能性が高いようです。
 つまり、10世紀の中寺廃寺には、仏具として荘厳性の強い多口瓶を、わざわざ西播磨から取り寄る立場の僧侶がいたことになります。中寺廃寺は、単なる人里離れた山寺ではないことはここからも分かります。この寺は讃岐国衙や讃岐国分寺とストレートに結びついていた寺院なのです。
参考文献
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集
加納裕之  空海の生きた時代の山林寺院「中寺廃寺跡」

                          
                          
                                    


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