瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海の捨身

 
4大龍寺11

空海が阿波の大瀧山にやってきたころには、すでに修行を行っていた先行者がいました。空海が四国における行者のパイオニアではありません。空海は修行者の群れの中に身を投じた若き行者でした。
 当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。
4 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も焼山寺山や大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。
4大龍寺12

仏教以前の人たちは、洞窟をどのように見ていたのでしょうか?
 古代の人々は、洞窟は死者の荒魂が出入りする他界への通路(関門)と信じていました。その関門を守るために悪魔、毒龍、毒蛇、鬼などが住むとされてきました。
 『本朝法華験記』(上巻十四話)の「志摩国窟洞宿雲浄法師」は、熊野から志摩への辺路をゆく途中で、海岸の大岩洞に一夜宿り、大毒蛇に呑まれかけた話です。このとき岩洞は、生臭かったとあります。それは、沖縄や南西諸島の海岸洞窟が、風葬洞窟にもちいられたことを思い起こさせます。洞窟に悪魔、悪霊とそのシンボル化された毒龍、毒蛇が住むという説話には、古代原始葬法の追憶と残像があると研究者は考えているようです。
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 また、洞窟が黄泉に通じる関門であったことを思い出させます。
有名な『出雲国風土記』(出雲郡宇賀郷の条)の「脳(なづき)の磯」の「黄泉(よみ)の穴」の伝承です。その遺蹟とされる猪目洞窟(島根県平田市猪目)からは舟型木棺が出土しています。このように古代の洞窟観は黄泉への通路であり、毒龍や毒蛇が住むと思われていたのです。
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そこへ行者達は入っていって、じっと座って禅譲しているのです。
これを見た人たちは
「行者達が、何らかのスーパーパワーで魑魅魍魎を封じ込めたに違いない、彼らは強力な呪力を持つに違いない」
と信じるようになったのかもしれません。窟龍り修行者を支持し、信者が集まってくるようになることは、近世にも見られます。
 しかし、原始修験道の孤独な修行者の窟龍りは、その信者たちによって寺院が建立されると忘れられ、ただ毒龍を封じ込めたという伝承だけが残ります。そして、それが無名の修行者であれば、「それは弘法大師であった」という縁起になっていったようです。
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太龍寺は、青年時代の空海が求聞持法修行をした山と研究者も考えているようです。
ただ空海は「大瀧(おおたき)」獄と書いていますが、現在の寺名は「太龍(たいりゅう)」寺で、山も太龍寺山(602メートル)になっています。いつ山名は変わったのでしょうか? それは後で考えるとして・・

4太龍寺縁起表紙
太龍寺縁起は東寺の賢宝の著した『弘法大師行状要集』応安七年(1374)に引用されているので、これ以前の作であることは確かなようです。
 この中には
「鎌倉末期ごろには太龍寺には滝があった」
と記されています。瀧を落ちる「水はインド雪山の無魏池の水が流れて来た」と密教的縁起らしく大法螺を吹いていますが・・
 さらに、寺から辰巳(東南)に三重の霊窟があると記します。これが今は、なくなってしまった滝近くの「龍の窟」で、この窟が「太龍寺」と呼ばれるようになった所以のようです。
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 その理由は先述したように
「龍を封じ込めたという窟は、山麓や海辺の人々からおそれられた洞窟に修行者が寵って、龍を恩寵神にした」

という言い伝えがあったからでしょう。
しかし、それが忘れられて「龍の窟」の名だけがのこったようです。この寺はこの「龍の窟」によって寺名をつけていますから「弘法大師窟龍り」の伝承は、かなり後まであったようです。 
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   現在のこのお寺の山号は「舎心」山で、舎心というのは心を緩めるという意味です。
 しかし、鎌倉時代にの『阿波国太龍寺縁起』には「捨身」山と記されています。もともとは、身を捨てるほうの捨身だということがわかります。前回の我拝師山でも述べましたが、捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。これが「捨身」行です。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。
 空海が、この山でも捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出てきます。
観ずるに夫れ当山の為体、嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。
即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。

「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には「龍の窟」が出ていましたが、今はありません。セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまったようです。

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 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が、いつの間にか舎心山(心を休める山)となってしまったようです。この山で虚空蔵求聞持法を修したことは、空海自筆の「三教指帰』にも記されています。現在、太龍寺には本堂の南に立派な求聞持堂があります。

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 行場をもう少し絞り込んでみましょう。
それは、「南の舎心」「北の舎心」という二つの舎心岩(捨身岩)と研究者は考えているようです。今は「舎心」と表記されていますが、もともとは「捨身」です。ここは捨身行が行われた行道行場だったようです。
太龍寺伽藍

 絵図右下隅の北舎心岩の上のお堂は、お寺では大黒天堂らしいと伝えます。これは焼山寺三面大黒天の岩からしても、考えられる事のようです。ここは岸壁で空中に橋が架けられています。
 また絵図左上には「南捨身」が描かれ。ここも空中を橋が結んでいます。ここから空海は、南舎心岩と北舎心岩の二つの岩の行場を周りながら行道をおこなったと研究者は考えているようです。
また、中央下には「大瀧」が描かれています。
『阿波国太龍寺縁起』には「三重之霊窟」と書かれています。
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研究者は、今はなくなってしまった洞窟と、そこで行われた「行道」についてを次のように推論しています。
「龍の窟」は、上下に三段に三窟があったものとおもわれ、それは石灰岩質の崖にはよくできる窟である。おそらくその傍か内部を大滝が落ちていたので、「大瀧嶽」の名があったものとおもわれる。しかしカルスト地帯の常として水脈が変化すると滝は涸れ、龍の窟だけのこったために、大瀧嶽は太龍寺となったろうというのが、私の結論である。

4大龍寺8

 研究者は「瀧」にこだわっているようですが、古代の行場は水が流れてなくても断崖絶壁を「瀧」と呼んで地中の異界へ通じる関門=行場と考えていました。だから水が流れる流れないにこだわる必用はないように私は思っています。
さらに、この寺の奧の院と大龍寺山について次のように述べます。
この寺の奥之院は補陀落山といって、太龍寺山の最高峰である。この補陀落山からは太平洋が足下に一望できる。これが辺路修行の寺の重要な条件であり、この山の中腹に南舎心岩も龍の窟もある。南舎心岩の上からは東方に紀伊水道が望まれ、橘港の島々が見える。
 したがってこの岩の上で求聞持法を修すれば、東方の空に虚空蔵菩薩のシンボルである、明星(明星天子)を拝することができよう。このように海を拝み、明星を拝むことのできる山は、辺路信仰と山岳信仰の結合をしめすものとかんがえられる。太龍寺の奥之院が補陀落山であることは、その痕跡の一つとみとめることができる。
 おそらくここで修せられた昔の求聞持法は、龍の窟を出て、南舎心岩に登って、虚空蔵菩薩の真言を一万遍唱えて、夜明けには明星を拝して、その後に舎心岩の南の大巌塊の崖の上から海を拝し、次いで補陀落山に登って南方補陀落浄土を拝んでから、龍の窟に帰ったであろう。
 南舎心岩の南の大巌塊は、南側が直立の崖で、覗きの行ができそうな所であるから、『阿波国太龍寺縁起』にある空海の捨身行は、ここからかもしれないという気がする。この崖の上から大きな島が見えるが、これは牟岐港の沖の大島とおもわれる。この島は天禄三年(九七二)の『空也誄』に、出てくる湯島(紀伊水道の伊島説があるが、これは土佐から遠い)にあたる。
 まさに太龍寺の補陀落山から拝む補陀落観音浄土であったろう。
 このように「窟龍り」の洞窟である「龍の窟」と、求聞持法の禅定地である大滝寺山山頂をめぐる行道ルートが示されます。同時に山頂が補陀落山であり、海の彼方に補陀落観音浄土の島もみえるようです。
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    求聞持法に欠かせないもうひとつが聖火です。
 求聞持法は「行道」修行と「火を焚く」修行がセットになっていたことは、前々回の焼山寺山の所でお話ししました。古代の行者達は、不滅の聖なる火を「海の神」に捧げるために焚きました。
 その痕跡が、この山にも龍燈伝説として残っています
柳田国男の『神樹篇』に「龍燈松伝説」には、この山について次のような一節があります。
 阿波那賀郡見能林村の津峰権現と、同郡加茂谷村舎身山大龍寺との両所は、何れも除夜の晩に山の頂上へ龍燈が上った(阿州奇事雑話) 大龍寺にはおかかと云ふ山中第一の名木があったのを、大仏殿建立の為に豊太閤の時に伐ったと言へば、今では其龍燈も昔話であろう。
 太龍寺に大杉に龍燈が上るという話は、昔は有名だったようです。この杉は弘法大師の杖が成長したという杖立伝説もあったようです。ここには空海の辺路修行と龍燈の関係がうかがえます。
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 もともとは、辺路修行者が海の彼方の常世に向かって聖火を献じました。
ところが、時代が下って「常世」を龍神(海神)の都、龍宮とするようになって、この聖火は龍神に献ずる燈となっていきます。
 空海修行のころには、常世は法華経信仰や密教信仰の影響で龍神になっていたようです。この火は求聞持法修行が行われている霊山では、百日間は消すことはなかったとされます。毎日、霊山に燃やされる聖火を、麓の人々はどんな気持ちで仰ぎ見たでしょうか。
 沖の漁夫や航海者は、夜はこの火を望むことができました。そのような山の峰や巨木は昼には、航海や漁の目印になります。漁夫や航海者は、この火によって修行者の存在を知って参詣し、加護を願うとともに、危難にはこの聖火を念じるようになったというSTORYを考える事が出来ます。実際に、嵐に遭って助かった船は、土佐の青龍寺奥之院のある岬の不動尊に碇を献上しています。
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 原始の海洋宗教では、修行者が海の彼方の龍神のために燈を献ずることでした。それは海辺の洞窟や岬の上で柴を焚くことから、燈龍と呼ばれ、後の常夜燈やお燈明に「変身」していきます。そのような火が焚かれなくなると、危難のときの幻の火に変化し、また龍神の献ずる火があったという話に転換したようです。
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空海という名前についての違和感
 かつて空海という名前を、西安に再建されたばかりの青竜寺で現地の管理人に紙に書いて示したときに、驚いたような顔で「人の名前か?」と問い直されたことを思い出します。当時の中国の人たちにとって「空海」という沙弥名は、掟破りの変な沙弥名に思えたようです。確かに、空海という名前は僧侶の名前としては異質です。
 空海も最初からこの沙弥名を名乗っていたようではないようです。古い大師伝である「金剛峯寺建立修行縁起』に、空海がはじめ無空と称し、次いで教海と名乗り、また如空といったのちに、最後に空海と改めたとあります。その背景には、この大龍寺山や室戸岬で空と海を対象としての四国辺路修行の果てで、空海が選んだ沙弥名と考えれば、彼にふさわしいとも思えてきます。

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以上 今回の要点をまとめておきます
1 辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 行道=「窟龍り」の禅定 + 神木・神岩の廻り
3 虚空蔵求聞持法= 行道 + 聖火(→龍燈伝説へ)
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族

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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
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 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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