瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海の満濃池築造

満濃池 讃岐国名勝図会
      満濃池と池の宮(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
 讃岐国名勝図会の満濃池に関する記述と、その意訳変換を資料としてアップしておきます。

真野郷
此地初神野郷と書来りしか、嵯峨天皇御譚神野と申奉りしかハ、字音の同しきか故に、真野郷と改めしならん。其事諸記なしと雖も日本紀略大同四年九月二日乙巳、改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也と見えたり。其後弘仁十二年、富国より奏請して、弘法大師に萬濃池を築しめたまふ時の上書にも、神野郷と記さん事を憚て、真野と改めし物ならんか。後人の考を待。
意訳変換しておくと
真野郷
この地はもともとは、神野郷とされていたが、嵯峨天皇御譚神野と、字音が同じなのでお恐れ多いとして、真野郷と改められたのであろう。その記録はないが、「日本紀略」の大同四年九月二日乙巳に「改伊橡国神野郡、為新居郡。以触上譚也」とある。
 その後、弘仁十二年に弘法大師に萬濃池を修築させた時の上書にも、神野郷と記すことを憚って、真野と改めたものではないか。後人の考を待。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
    矢原邸と諏訪神社(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここでは、真野郷はもともとは神野郷であったという説が出されています。その理由が「嵯峨天皇御譚神野忌避説」です。しかし、これについては史料的な裏付けがありません。その他の古代・中世の史書に
は、「神野」という地名は出てきません。出てくるのは「真野郷」です。また、神野神社も近世前半までは、「池の宮」と記されています。敢えて「神野神社」と記すのは、一部の文書だけです。
 ここには、真野郷を神野と呼ばせたい意図があったことが見え隠れします。それは、神野神社を式内神社の論社とすることだったと、私は考えています。式内社の神野神社は、郡家の神野神社があります。これに対して、池の宮を神野神社として、論社化しようとする動きが近世後半から出てきます。それが満濃池築造と併せて語られ、「池の宮=神野神社」とされて行きます。
  
  讃岐国名勝図会 満濃池1
     矢原邸と諏訪明神(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
続いて満濃池本文を見ていきます。  
萬濃池 
同所にあり。十市池とも云。池の周廻八千五百間、水たまり二て二里三丁、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、富国第一の池なるに依て、萬濃太郎と云。中比廃して山田と成、堤長四拾五間、土廣さ六間、高サ拾弐間半、堤根六拾五間、三面八山也。漑田三万五千八百十石斗。貧呆長十八間、廣さ四尺弐寸、高さ弐尺八寸、穴壱尺六寸、櫓五ケ所二て、賓水穴十ケ所なり。営時水たまり深さ十一間。
意訳変換しておくと
萬濃池 
満濃池は真野郷ににあって、十市池とも呼ばれる。池の周囲は八千五百間、水が溜まると二里三丁(約9㎞)、池の長さ南北九百間、東西四百五十間、讃岐国第一の池なので、満濃太郎とも呼ばれる。中世には、堤が崩壊してその姿を消して、池の中は山田となっていた。
 堰堤の四拾五間、堰堤幅六間、高さ拾弐間半、堤の根元幅六拾五間、三面は山に囲まれている。灌漑面積は三万五千八百十石斗。底樋長さは十八間、廣さは四尺弐寸、高さは弐尺八寸、穴は壱尺六寸、櫓(ゆる)は五つあり、満水時の水深は十一間。

讃岐国名勝図会 満濃池1
      満濃池 その2(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

ここから空海による満濃池築造が次のように記されます
 弘仁十年四月より七月迪、諸国雨ふらさりしかハ、公より諸国に令して池を掘らしむ。富国も溝渠をさらへ、池を築きける。同十一年より此池を築初しかと、目に除る大池なれハ、十二年にいたれともならす。諸人大に倦労れぬ。何ともすへからす。爰に人あり。沙門空海今都にあり、世人ミな其徳を慕ふ事、枯草の雨を待か如し。若爰二来ら八不日にならん、是に於て時の刺史其言を朝廷に奏す。同六月空海詔を奉して爰に至る。民大に歓ひ、堤にもまた日ならすしてなれり。同十三年勅して空海に新銭弐万を給ふ事日本紀略にみえた。

 寛仁四年時の国司碑銘を建さし給ふ。
其文次二出せり。治安年中、堤塘を更改す。爰に雖眼竜あり。此池に住む。傅云、寒川郡志度村の宿願と云者化する所也とそ。後此地を去て海に移る。其時堤防大に壊ると志度寺の縁起にみえたり(注1)。
 又元暦元辰年、大洪水二て 堤基破壊して跡方なくなりて、其後五百石斗の山田となり。人家なとも往々基置して、池の内村といふ。(弘仁十二丑年(む)、開発なして三百六十四年、池中満水なせし也、)
 爾後数多の星霜を経て、寛永三寅年閏四月七日大風雨二て、其後七月に至る法七十五日雨なく、大旱して、秋穀旱罹。一諸民餓死に及ひける。京都も井水涸て、草葉萎て糸になれるか如くなりける。
此年先封生駒の老臣西嶋八兵衛尤之といへる人、此池を再ひ築きにける。 普請奉行八福家七郎右衛門・下津平左衛門也。 今永世の助益となりて、下民其恩沢に 浴せり。生駒家国除の後、同十八年(ゆる)木朽腐しかと、国の大守なきによりて富郡木徳村の農民里正四郎大夫と云者をして、重修の事を幕府へ訴へ出ける。台命によりて富郡五条・榎井・苗田三村を池修補料と定給ふ。
意訳変換しておくと
弘仁十(819)年4月から7月にかけて、諸国では雨が降らず旱魃になったので、朝廷は諸国に命じて池を掘らした。讃岐でも溝渠をさらへ、池を築造した。翌年には、満濃池の築造に取りかかったが、それまでにない大きな池なので、12年になっても完成はしなかった。讃岐の人々は、すっかり疲れ果ててしまったが、どうしようもない。
 ここに人あり。沙門空海が今、都にいる。世人の空海の徳を慕ふことは、枯草が雨を待つかのようである。もし、空海が讃岐に帰国してくれたら・・・。これを讃岐の役人は朝廷に願いでた。こうして821年6月、空海は詔を奉じて讃岐に帰国することになった。民は大に歓び、堰堤は、あっという間に出来上がった。翌年13(822)年には、空海に新銭弐万貫が与えられたと、日本紀略には記されている。

満濃池 古代築造想定復元図2

   寛仁四(993)年 讃岐の国司が碑銘を建立した。
そこには次のように記されていた。治安年中に堰堤を修築したところ、独眼の竜が住んでいた。その竜は、寒川郡志度村の勧進者が龍となったものだと云う。その後、この池を出て海に去った。この時に、堰堤が大破したと志度寺縁起には記されている。
元暦元(1184)年、大洪水で堰堤が破壊して跡方なくなった。池跡は開墾されて、その後五百石ほどの山田となり、人家なども姿を見せて、池の内村と呼ばれるようになった。弘仁十二年に築造されて、364年の間、満濃池は存在していた。
 その後、長い年月を経て、寛永三(1626)年4月7日に大雨があった後、7月まで75日間も雨がなく、大旱魃となった。穀物は育たず、収穫がなく餓死者も出た。京都も井戸が涸れて、草葉は萎えて糸のようになってしまった。

西嶋八兵衛

 このような状況の中で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛と云う人が満濃池を再築することになった。
普請奉行は、福家七郎右衛門・下津平左衛門であった。こうして完成した満濃池は、永世の助益となって、下々の者までその恩沢を与えている。  
 お家騒動で生駒家が転封に騒動後も、寛永十八(1640)年に、池のユルの木材が腐っていまった。そこで、藩主不在の折に、那珂郡木徳村の農民・里正四郎大夫が、ユル替え工事を幕府へ訴へ出た。これを受けて幕府は那珂郡の五条・榎井・苗田の三村を池修補料と定めた。そのためこの三村を池御料と呼ぶようになった。

決壊中の満濃池
池御料の榎井・四条・苗田(白い部分:草色が高松藩)

讃岐国名勝図会 満濃池2
満濃池 その3(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)
上のページを意訳変換しておくと
満濃池の底樋とユルの付け替え工事
 その後、高松藩祖松平頼重の時に、池御料所の代官である岡田豊前守殿・執政稲葉美濃侯に、満濃池修理費用は、高松藩と京極藩で負担することを申し出た。しかし、池修補料は巨額ではないが、三村はそのために、幕命によって設置された天領である、それに背くことは本位ではないという意向が伝えられ、沙汰止みとなった。その後、いくたびもの改修普請工事があったが、先例通りに、底樋やユルの材木費などは、池御料三村の租税で賄われてきた。
  
     ところがどういうことか宝永三(1706)年の改修工事の際に、代官遠藤新兵衛殿より、「以後は(幕府は)関与しない」と通達があり、現在のように高松・京極藩で取り扱うことになった。
 寛永8年の再興以来183年の星霜を経た文化十(1813)年に、苗田村の里正・守屋吉左衛門を中心に、池の底の土砂ざらえを行った。その際に、土砂を堤に土を置いて、六尺高くした。そのことを刻んだ碑銘を不動堂に建てた。
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満濃池の底樋とユル 底樋は四角い箱形
底樋の木造から石造への転換

 柚水木(ゆるき)は嘉永年中(1848)年ころまでは、周囲が3mあまりの巨木に穴を開けて、土中に埋めて、三十三年毎に交換を行う普請を行っていた。この時には、讃岐中の村々より人足数万人出て堤を切開き、土砂を荷ひ、底樋を掘出し、新木を埋めた。工期は、前年の8月より始めて、翌年春までには終えた。その費用は、多額に及び、筆紙に尽し難きい一大工事で、大イベントでもあった。

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満濃池堰堤の土固め

そこで村吏数人と協議して、巨木に換えて石材を使えば萬世不朽になり、費用削減につながり国益になると、衆議一決して、代官所に願い出た。それが許可されると嘉永五(1852)年4月より石材化の工事は始まり、巨木を除いて、石を使用した。
 満濃池樋模式図

底樋について「周囲が3mあまりの巨木に穴を開け・・」とありますが、これは事実誤認です
畿内の宮大工が見積書として一緒に提出した底樋の設計図が何種類も残っています。それは選ばれた最高の松材を使って、最先端技術で造られたものだったことが分かります。決して丸太を掘り抜いたものではありません。明治維新前後に、この辺りの記述は書かれたようですが、30年もすると過去のことが伝わって居ないことがうかがえます。

満濃池 底樋石造化と決壊
    満濃池 その4(讃岐国名勝図会巻11 那珂郡上)

底樋の石造化失敗と満濃池決壊
工事行程では、底樋の土と石がうまく接合せず、所々から水もれが起きた。それに対して、色々と工夫改良をこらして対処して、(1856)年夏には、堤塘はもとのように落成した。この成功で、代官所より関係者に、お褒めの言葉やその功に報いて格式が上げられる者も出た。また、着物や白銀を賜わる者もあり、諸民は安堵の思いをして歓んだ。

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1854年の満濃池の石造樋管(底樋)

 ところが、同年7月4日より樋のそばから水洩が始まった。
次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
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金倉川改修工事で出てきた底樋石材


讃岐国名勝図会 満濃池5

 堤防決壊の被害と教訓
 貯水量が満水でなく、4割程度だったことは不幸中の幸いであった。天は、萬民を加護し、救ったとも云える。流れ出た水が金毘羅の鞘橋を越えて流れたことを考れば、もし満水の時に堰堤が切れていたならば、阿波町屋・金山寺町のあたりまで壱丈六尺高の水が流れ込んできたかも知れないと住民達は噂している。
 川下の村々も同じである。満濃池よりも四里(16㎞)下流の丸亀城下にまで流れ込んで海に落ちることもあると。これを教訓にして、川下の村々の人達も、油断することなく心の備えをすべきである。恐ろしいのは水の勢いである。正直第一にして信心して、仏神の擁護を願ふことである。あなかしこ。是を忘れ給ふな。
 
石造化計画の責任者を責めることなかれ
  底樋を木造から石造に転換したことが、堰堤決壊の原因で、責任はその計画者にあると非難する人もいる。そうではない。この計画は国益を慮り、多くの人々の労苦を思いやり、行った善事である。悪意で行ったものではないので、その人を罪してはならない。
 今昔物語に出てくるる魚が欲しくて満濃池の堤を壊した国司とは、雲泥の相違なのだ。天は、その善心を見て判断を下される。昔の如く堰堤が再び姿を見せる日も近いことだろう。

満濃池決壊拡大図
堰堤の切れた満濃池跡を流れる金倉川
讃岐国名勝図会の前編は安政4(1857)年に公刊されましたが、後編は公刊されることなく草稿本として明治まで保管されていました。その間にも、草稿を受け継いだ長男の手でいろいろな書き込み追加が行われていきます。以下の文章は、明治になってからの追加分になるようです。 

明治維新の長谷川佐太郎による満濃池再築
明治元辰年二至りて、王政復古旧政を御一新あり。
幕府権政を返上なせしかハ、天下一統旧政を改革なし、府藩懸の御政務決りしかハ香川料より主として今の池宮拝殿下二巨萬の大盤石のありしを、同二已年九月八日より、竪四尺除、横三尺五寸除、長弐拾八間除の水道を穿堀て、屈強成天然自然の賓水穴を開口始、同三年五月二至り穿拵て水道成就し、堤根八旧の如く六十間診堤を築重、桜・楓・桐嶋・さつき等を植置て池もとの如く造営成就なせし八、萬代不朽、天萬民を救助なし給ふ。時節到来のなせるなるべし。
 始め木を以て賓水道を通し、弐百年除、三十一年毎賓水木更とて、国中より幾萬の人足を出し、造替なせる民の辛苦をいとび、或人、嘉永年中其木を除きて石となしなバ、萬代不朽の栄なりとて人力を費せらしと。其後一とせも持たす流失なせしかハ斯なし。厚志の切なるを天道照給ひて今の如くなし候共、長谷川喜平次が忘眠丹誠成て数十年の辛労を天照覧なし、死後二至て則なれるも石の水道を思ひ付し八、今の如く自然の水道なれる魁なるべし。爰二於て遠近の諸人、池遊覧せんとて、日毎二弁当・割寵を携へ、爰二至る者の絶間
無りしかバ、堤の上二桟敷・机木を設て遊客を憩しめ、酒肴菓を商ふ者もあり。四時村民の潤となせる八、是も萬民を救ひ給ふ一助なるべし。)
意訳変換しておくと
明治元年になって、王政復古が行われ旧政御一新となった。
幕府が政権を返上したので、天下一統し旧政の改革が行われた。府藩懸の政務が固まると、今の池の宮拝殿の下に巨大な大盤石があることを見つた。そこで、同二年九月八日から、竪四尺除、横三尺五寸、長さ弐拾八間足らずの水道を穿堀することになった。こうして天然自然の底樋水穴の開口工事が始まった。同三年五月二に、隧道は開通した。また60間の堰堤も復活した。
 そこに、桜・楓・桐嶋・さつき等を植えて造営は完成した。こうして萬代不朽、天萬民を救助する満濃池が復活した。時節到来のなせるなるべし。

満濃池底樋石穴図(想像)
明治の底樋隧道化計画

③ もともとは木造底樋で水を通していたために、200年あまりに渡って、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。
④ それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。
⑤ 長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天は御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている。
⑥ こうして多くの人々が、弁当・割寵を携えて満濃池遊覧にやって来る。堤の上に桟敷・机木を設置して遊客に休憩所を提供し、酒肴菓を商う者もある。村民の潤の場として、萬民を救う一助ともなっている。
明治になって加筆された部分を要約しておきます。
①明治になって地下岩盤を開削し、底樋を通すことが計画された
②堰堤も再築され、そこに花木類が植えられた。
③底樋が木造の時代には、その改修のために多くの農民が動員され苦労した。
④それを長谷川喜平次は底樋を石造化することで解消しようとした。
⑤それは失敗したが、その上に現在の底樋隧道化の魁(さきが)けになった。
⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。
以上です。
ここで気がつくことは④⑤で、長谷川喜平次の底樋石造化を高く評価していることです。
これについては、長谷川喜平次については、当時の地元では評価が割れていたこと、特に農民層からは彼に対してや石造化計画を進めた庄屋たちに強い批判が挙がっていたことを以前にお話ししました。その中で、讃岐国名勝図会の作者は、長谷川喜平次を強く擁護していることを押さえておきます。
 長谷川喜平次とともに、底樋石造化を進めたのが三原谷蔵でした。
三原家は、真野村で代々政所を勤める家でした。満濃町誌には次のように記します。

三原谷蔵は、榎井村庄屋の長谷川喜平次と共に、満濃池の樋門を永世不朽のものとするため底樋の石造改修する等、水利開発や農民の救済に尽力した。嘉永元年より真野村庄屋を勤め、その間、安政年中には那珂郡大庄屋に登用され、慶応二年まで一九年の長期にわたって地方自治に貢献した。

つまり、長谷川喜平次を批判することは、大庄屋の三原谷蔵を批判することにつながったのです。そのために周りのとりまきの人たちは、類を及ばさないように長谷川喜平次を擁護したことが考えられます。
長谷川佐太郎

もうひとつ気になるのは長谷川佐太郎の名前が、どこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことがいまでは定説となっています。ところが、讃岐国名勝図会の明治後に加筆された部分には、長谷川佐太郎を登場させないのです。この時点で長谷川佐太郎の評価はいまと違っていたのでしょうか。あるいは意図的に無視しているのでしょうか。今の私には分かりません。

満濃池 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会の満濃池 鶴が舞う姿が描かれてる
最後の「⑥完成した満濃池堰堤は、人々の遊覧の場となっている。」という記述です
ここからは、満濃池が人々の行楽地となっていたことが分かります。堰堤からの四季折々のながめを眺望を、用意された休息所に座って愛でる文化が根付いていたようです。『金毘羅山名勝図会』には、人々が「朱の箭を敷」き「池見」を行ったと記します。

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)
金毘羅参詣名所図会の元絵とされる「象頭山八景 満濃池遊鶴」

以上、讃岐国名勝図会に記された満濃池をみてきまた。私は、以前には、ここには絵図しかないものと思っていました。しかし、実際に全文を見てみると非常に充実した内容です。これ以外にも省略しましたが、今昔物語の記事もあります。昔の人が満濃池の歴史を知ろうとすれば、まず、この図会を見たはずだと思いました。それだけ後の時代に影響を与えた図会であると改め思いました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
歴史資料から見る満濃池の景観変化 満濃池名勝調査報告書111P まんのう町教育委員会 2019年
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  前回は文献的問題から研究者が「空海が満濃池を築造した」と断定しないことをお話ししました。今回は、考古学的な立場から当時の治水・灌漑技術が丸亀平野全域に用水を送ることが出来る状態ではなかったことを見ていくことにします。                           

古代に空海が満濃池を築造したとすれば、越えなければならない土木工学上の問題が次の3つです。
①築堤技術
②治水技術
③灌漑用水網の整備
①については、大林組が近世に西嶋八兵衛が満濃池を再築した規模での試算がネット上に公表されています。これについては技術的には可能とプロジェクトチームは考えているようです。

満濃池 古代築造想定復元図2

②の治水工事のことを考える前に、その前提として当時の丸亀平野の復元地形を見ておきましょう。20世紀末の丸亀平野では、国道11号バイパス工事や、高速道路建設によって、「線」状に発掘調査が進み、弥生時代から古代の遺跡が数多く発掘されました。その結果、丸亀平野の形成史が明らかになり、その復元図が示されるようになります。例えば、善通寺王国の拠点とされる旧練兵場跡(農事試験場 + おとなと子供の病院)周辺の河川図を見てみましょう。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵隊遺跡周辺の河川
 これを見ると次のようなことが分かります。
①善通寺市内には、東から金倉川・中谷川・弘田川の支流が幾筋にも分かれて、網の目のように流れていた。
②その微高地に、集落は形成されていた。
③台風などの洪水が起きると、金倉川や土器川は東西に大きく流れを振って、まさに「暴れ龍」のような存在であった。
このような状況が変化するのは中世になってからのことで、堤防を作って治水工事が行われるようになるのは近世になってからです。放置された川は、龍のように丸亀平野を暴れ回っていたのです。  これが古代から中世にかけての丸亀平野の姿だったことは以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡 土地利用図
 土器川の大束川への流れ込みがうかがえる(飯野山南部の丸亀市飯山町の土地利用図)

古代から中世にかけての丸亀平野では、いくつもの川筋が網の目のようにのたうち回りながら流れ下っていたこと、それに対して堤防を築いて、流れをコントロールするなどの積極的な対応は、余り見られなかったようです。そうだとすれば、このような丸亀平野の上に満濃池からの大規模灌漑用水路を通すことは困難です。近世には、満濃池再築と同時に、金倉川を放水路として、四条川(真野川)の流れをコントロールした上で、そのうえに灌漑用水路が通されたことは以前にお話ししました。古代では、そのような対応がとれる段階ではなかったようです。
 丸亀平野の条里制については、次のような事が分かっています
①7世紀末の条里地割は条里ラインが引かれただけで、それがすぐに工事につながったわけではない。
②丸亀平野の中世の水田化率は30~40%である。
丸亀平野の条里制.2
 かつては「古代の条里制工事が一斉にスタートし、耕地が急速に増えた」とされていました。しかし、今ではゆっくりと条里制整備はおこなわれ、極端な例だと中世になってから条里制に沿う形で開発が行われた所もあることが発掘調査からは分かっています。つまり場所によって時間差があるのです。ここでは、条里制施工が行われた7世紀末から8世紀に、急激な耕地面積の拡大や人口増加が起きたとは考えられないことを押さえておきます。
 現在私たちが目にするような「一面の水田が広がる丸亀平野」という光景は、近代になって見られるようになった光景です。例えば、善通寺の生野町などは明治後半まで大きな森が残っていたことは以前にお話ししました。古代においては、条里制で開発された荒地は縞状で、照葉樹林の中にポツンぽつんと水田や畠があったというイメージを語る研究者もいます。丸亀平野の中世地層からは稲の花粉が出てこない地域も多々あるようです。そのエリアは「稲作はされていなかった=水田化未実施」ということになります。

弥生時代 川津遺跡灌漑用水路
川津遺跡の灌漑水路網
最後に灌漑技術について、丸亀平野の古代遺跡から出てくる溝(灌漑水路)を見ておきましょう。
どの遺跡でも、7世紀末の条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展し、大型の用水路が現れたという事例は見つかっていません。潅漑施設は、小さな川や出水などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。この時期に灌漑技術が飛躍的に向上したということはないようです。
 大規模な溝(用水路)が出てくるのは、平安末頃以降です。
丸亀平野の川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿って、大きな溝(用水路)が出てきました。大規模な溝が掘られるようになったことからは、灌漑技術の革新がうかがえます。しかし、この規模の用水路では、近世の満濃池規模の水量を流すにはとても耐えれるものではありません。丸亀平野からは、満濃池規模の大規模ため池の水を流す古代の用水路跡は出てきていません。
ちなみに、この時期の水路は条里制の坪界に位置しないものも多くあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。
ここでは次の点を押さえておきます。

「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」

 以上から以下のように云えます。
①古代は暴れ川をコントロールする治水能力がなかったこと
②大規模な灌漑用水整備は古代末以後のこと
つまり8世紀の空海の時代には、満濃池本体は作ることができるとしても、それを流すための治水・灌漑能力がなかったということになります。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力がないと、水はやってきません。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
近世の満濃池の灌漑用水網

 しかし、今昔物語などには満濃池は大きな池として紹介されています。実在しなければ、説話化されることはないので、今昔物語成立期には満濃池もあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか。もし、満濃池が存在したとしても、それは私たちが考える規模よりも遙かに小さかったのかもしれません。満濃池については、私は分からないことだらけです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 琴平町に三水会という昔から活発な活動を続ける郷土史探究会があります。そこで満濃池についてお話しする機会がありました。しかし、資料も準備できず、ご迷惑をおかけしたと反省しています。そこで伝えきれなかったことの補足説明も込めて、文章にしておきます。

  満濃池の築造については、一般的に次のように記されるのが普通です。
「当時の讃岐国司が朝廷に対し、満濃池修築の別当として空海を派遣することを求め、その求めに応じた空海が短期間に築造した」

そして地元では「空海が造った満濃池」と断定的に語られることが多いようです。
 しかし、研究者たちは「空海が造ったと言われる満濃池」とぼかして、「空海が造った」と断定的には言わない人が多いようです。どうして「空海が造った満濃池」と云ってくれないのか。まんのう町の住民としては、気になるところです。知り合いの研究者に、聞いてみると次のような話が聞けましたので、紹介しておきます。
 空海=満濃池築造説は、どんな史料に基づいているのでしょうか?

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それは日本紀略(にほんきりゃく)です。「弘仁十二年(821)七月二十五日の条」に、次のように記されています。
 讃岐国言、始自去年、提万農池、工大民少、成功末期、僧空海、此土人也、山中坐禅、獣馴鳥狗、海外求道、虚往実帰、因茲道俗欽風、民庶望影、居則生徒成市、出則追従如雲、今離常住京師、百姓恋慕如父母、若聞師来、必倒履相迎、伏請宛別当、令済其事、許之 (以下略)
意訳変換しておくと        
 讃岐国司から次のような申請書が届いた。去年より万農池を堤防工事を開始したが、長さは広大であるが、動員できる民は少なく、成功は覚束ない。空海は、讃岐の土人であり、山中に坐禅せば、獣が馴れ、鳥が集まってくる。唐に留学し、多くのものを持ち替えた。空海は、讃岐で徳の高い僧として名高く、帰郷を待ち望んでいる。もし、空海が帰って満濃池工事に関わるならば、民衆はその姿を見るために雲が湧くように多数が満濃池の工事現場にあつまるだろう。空海は今は讃岐を離れ、京師に住むという。百姓は父母のように恋慕している。もし空海がやってくるなら、必ず人々は喜び迎え、工事にも望んで参加するであろう。願わくば、このような事情を考え見て、空海の讃岐帰郷が実現するように計らって欲しいと。この讃岐からの申請書に、許可を与えた。

ここに書かれていることを、そのまま信じると「空海=満濃池築造説」は揺るぎないように思えます。しかし、日本紀略の「素性」に研究者は疑問を持っているようです。この書は、正史のような文体で書かれていますが、そうではないようです。平安時代に編纂された私撰歴史書で、成立時期は11世紀後半から12世紀頃とされますが、その変遷目的や過程が分かりません。また編者もわかりませんし、本来の書名もはっきりしないのです。つまり、同時代史料でもない2百年以後に編纂されたもので、編者も分からない文書ということになります。
 お宝探偵団では、「壺や茶碗は由緒が書かれた箱に入っていてこそ価値がある」ということがよく言われますが、文書も一緒です。それを書いた人や由来があってこそ信頼できるかどうかが判断できます。そういう意味からすると研究者にとっては「日本紀略」は同時代史料でもなければ、正史でもない取扱に注意しなけらばならない文書と捉えられているようです。「信頼性の高い歴史書」とは、研究者達はみなしていないようです。

弘法大師行化記
藤原敦光の「弘法大師行化記」
 研究者がなにかを断定するときには、それを裏付ける史料を用意します。
日本紀略と同時代の11世紀に書かれた弘法大師の説話伝承としては次のようなものがあります。
①藤原敦光の「弘法大師行化記」
②「金剛峯寺建立修行縁起」
③経範の「弘法大師行状集記」(1089)
④大江匡房の「本朝神仙伝」
この中で、空海の満濃池築造については触れているのは、①の「弘法大師行化記」だけです。他の書には、満濃池は出てきません。また満濃池に触れている分量は、日本紀略よりも「弘法大師行化記」の方がはるかに多いのです。その内容も、日本紀略に書かれたことをベースにして、いろいろなことを付け加えた内容です。限りなく「弘法大師伝説」に近いもので「日本紀略」を裏付ける文書とは云えないと研究者は考えているようです。つまり「裏がとれない」のです。

これに対して「空海=満濃池非関与」をうかがわせる史料があります。
萬農池後碑文

それが「萬農池後碑文」(まんのうのいけのちのひぶみ)で、名古屋市真福寺所蔵「弘法大師伝」の裏書に残されていて、『香川叢書』に載せられています。碑文の最後には寛仁四年歳時庚申(1020)年の期日が記されてるので、日本紀略と同時代の史料になります。碑文の内容は、次の通りです。
① 満濃池の築造の歴史
② 讃岐国主の弘宗王が仁寿年間の(851~854)に行った築造工事の概要
③ その際に僧真勝が行った修法について
内容的には弘宗王の満濃池修復の顕彰碑文であることが分かります。
内容については以前にお話したので、詳しくはこちらを御覧下さい。


この碑文には、弘仁年間の改修に空海のことは一言も出てきません。讃岐国守弘宗王が築造工事をおこなった事のみが記されています。
つまり同時代史料は、空海の「空海=満濃池築造説」を疑わせる内容です。
以上を整理しておくと
①「空海=満濃池築造説」を記す日本紀略は、正史でも同時代史料でもない。
②日本紀略の内容を裏付ける史料がない
③それに対して同時代の「讃岐国萬濃池後碑文」は、「空海=満濃池築造説」を否定する内容である。
これでは、研究者としては「空海が築造した満濃池」とは云えないというのです。次回は考古学検地から見ていきたいと思います。
  満濃池年表 満濃池名勝調査報告書178Pより
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
818(弘仁9)万農池が決壊、官使を派遣し、修築させる。(高濃池後碑文)
820 讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池復旧を伺い、築池使路真人浜継が派遣され復旧に着手。
821 5月27日、万農池復旧工事が難航していることから、築池使路真人浜継らの申請により、 改めて築池別当として空海派遣を要請。ついで、7月22日、費用銭2万を与える。(弘法大師行化記。日本紀略)その後、7月からわずか2か月余りで再築されたと伝わる。
851 秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊する。(高濃池後碑文)
852 讃岐国守弘宗王が8月より万農池の復旧を開始。翌年3月竣工。人夫19,800人、稲束12万束、俵菰6万8千枚を使用(高濃池後碑文)
881 万農池神に従五位を授けられる。(三代実録)
927  神野神社が式内社となる。
947 讃岐国守源正明、多度郡道隆寺の興憲僧都に命じ、万濃池の地鎮祈祷を行わせる。これ以前に決壊があったと推測される。
平安時代成立の「日本紀略」に空海の満濃池修築が記される。
1020 萬濃池後碑が建立。
1021「三代物語」「讃岐国大日記」に「讃岐那珂郡真野池始めて之を築く」とある。これ以前に廃池となり、この時に、復旧を始めたと推測される。
1022 再築(三代物語。讃岐国大日記)
 平安時代後期成立の「今昔物語集」に満濃池が登場
1184 5月1日、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1201 「高濃池後碑文」成立。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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