799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる866年 那珂郡の因支首(円珍の一族)秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
ここからは9世紀の讃岐の有力豪族である空海の佐伯直氏やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)が、それまでの姓を捨て、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなっていたことが分かります。以前に円珍の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを見ました。今回は空海の佐伯直氏の改姓申請を追ってみましょう。
どうして、改姓申請や都への本貫地移動申請が出されるようになったのでしょうか。
地方豪族の当時のサクセスストーリーは、中央官僚として活躍し、本貫地を都に移すことでした。そのために、官位を挙げるために実績を上げたり、政府への多額献金で官位を買ったりしています。つまり、故郷を捨てて花の都で中央官僚としてしての栄達の道を歩むことが夢であったようです。
円珍系図
金蔵寺を氏寺とする円珍の因支首氏の場合も、因支首氏という姓では、田舎豪族の響きで格好が悪いと思っていたのかもしれません。同族の伊予国の和気氏は、郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みたと研究者は考えているようです。さて、それならば空海の佐伯氏はどうだったのでしょうか。
佐伯氏の改姓申請に対する中央政府の承認記録が残っているようです。
それが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。この時期は、空海が亡くなって26年後のことになります。空海の父・田公につながる一族11名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国から左京職に移すことを許されたときの記録です。これは「貞観三年記録」と呼ばれ、「公的史料」ですので、佐伯家の系譜を見る上での根本史料とされています。今回は、ここに何が書かれ、何が分かるのかを見ていきます。最初に書かれるのは改姓を認められた空海の①弟たちと②③甥たちの名前と位階が記されています
①讃岐国多度郡の人、
故の佐伯直田公の男(息子)、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂故の正六位上佐伯直酒麻呂故の正七位下佐伯直魚主②鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、③酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等11人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.④是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。
を意訳すると
①②③佐伯直田公の息子たち(空海の兄弟)の
佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、
そして彼らの息子(空海の甥)の貞持・貞継・葛野、豊雄。豊守、栗氏ら11名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職(都)に移されたこと。
佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、
そして彼らの息子(空海の甥)の貞持・貞継・葛野、豊雄。豊守、栗氏ら11名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職(都)に移されたこと。
④この改姓・改居は、書博士豊雄の申し出をうけた大伴氏(この当時は伴氏と称していた)本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏したこと。
この史料から空海に連なる親族を系図にすると、次のようになるようです。
空海系図
最初に、これを見たときに私は「空海には兄弟たちがいたという」驚きを覚えたことを思い出します。この系図から分かることを挙げていきましょう。
①空海の父は「田公」であること。
地元では
地元では
「空海の父は善通であり、父のために建立したお寺なので善通寺とした」
と云われています。しかし、これは近世になって善通寺が「空海生誕の地」に建つことを強調するために流布されたものであることは、以前にお話した通りです。根本史料には空海の父は「田公」と明記されています。
②空海には、4人の弟がいること。
真雅については『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、次のように記します。
僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)
とあって、
①もとは佐伯直で9歳までは讃岐国多度郡に住んでいたこと②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、③空海の実弟であったこと、
が記されています。また、真雅はこの改姓申請が承認される前年の貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となり、宗内で並びなき地位に登ります。
空海行状絵図 三尊と雲に乗って談義する真魚 その奥の部屋では鳩眠る弟が描かれている
空海行状絵図 三尊と雲に乗って談義する真魚 その奥の部屋では鳩眠る弟が描かれている
④空海の兄弟の中で、次男の鈴伎麻呂は実在が確認できます。
『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月条の記録の中に、巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司のなか褒賞すべきものに外従五位下を授けたとあり、このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に讃岐の佐伯直鈴伎麿の名前があります。
松原弘宣氏は、次のように記します。
「この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえるのである。
この鈴伎麿を空海の弟の鈴伎麻呂とみなします。空海の弟は多度郡の郡司を勤めたいたようです。しかし、残りに二人の弟については分かりません。
⑤この記録に女性は出てきません。
そのため母親の名前も、何人かいたとされる姉や妹も分かりません。
そのため母親の名前も、何人かいたとされる姉や妹も分かりません。
⑥空海の弟酒麻呂の息子・豊雄は、書博士として大学寮に出仕していたようです。
彼については、これ以外に史料はありません。しかし、書博士になっているのですから、書は巧みであったことがうかがえます。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたと勝手に想像しています。彼がまとめた空海一族の系譜は、直接に官庁に提出されたわけではないようです。それを取り次ぎ上奏したのは、大物です。
彼については、これ以外に史料はありません。しかし、書博士になっているのですから、書は巧みであったことがうかがえます。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたと勝手に想像しています。彼がまとめた空海一族の系譜は、直接に官庁に提出されたわけではないようです。それを取り次ぎ上奏したのは、大物です。
⑦改姓・改居の上奏を行った伴宿禰善男とは、何者なのでしょうか
「是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言(もう)さく」
と、申請者に名前の出てくる人物は、名門大伴氏の当主のようです。佐伯氏は、大伴氏の出とされ同族意識を持っていたことは、以前にお話ししました。そのために、空海の甥の豊雄が書いた佐伯直氏の系譜を、大伴氏の系譜と照会し、間違いないことを保証し、中央官庁に申請したようです。一族の大物の力を借りているようです。
860年に佐伯直氏から改姓願いが出された背景は?
それは空海の弟・真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、空海一門であることを背景に、中央へのさらなる進出を計ろうとする狙いがあった研究者は考え、次のように記します。
「この計画を有利に進めるために、古来都における武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労をたのみ、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借りて佐伯の興りを記し、それに田公以下の世代を繋ぎあわせたのが、「貞観三年記録」にみられる佐伯の系譜であった」
そのためにいままでの讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断って、そこに系譜を継ぐという行為に表れているといえるようです。
以上をまとめておくきます。
①書博士の佐伯直豊雄が中心となって申請し、佐伯宿爾への改姓と左京職への移貫が勅許されたときの記録「貞観三年記録」からは次のような事が分かる。
②讃岐国・佐伯直氏の系譜は、倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿而氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものである。
③にもかかわらず「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、空海の父・田公以下11名の世代の存在は信用できる。
④また、田公から4代前の
伊能直 ― 大人直 ― 根波都 ― 男足 ― 田公
の系譜も、ある程度信用できる
では、この信頼できる11名の世代から何がわかるのでしょうか?
研究者は、空海の弟や甥たちの位階は、地方在住にしては異常ともいえるほどきわめて高いことを指摘します。次回は、なぜ空海の一族の位階が高かったのかを見ていくことにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」
讃岐の古代豪族 空海の家系についての研究史を見てみると