前回までに中世小唄として生まれた恋歌が、歌舞伎や能の舞台で踊られ、風流踊りとして全国に広がり祖先供養の盆踊りとして踊られるようになること、その伝播に大きな役割を果たしたのが修験者や聖などであることを見てきました。今回は、盆踊りとして踊られていた風流踊りが、いつから、どうして雨乞踊りと言われるようになったのかを探って見ようと思います。まず雨乞の歴史について簡単に押さえておきます。
古代には、雨を降らせるのは神々と信じられていました。そのため験の高い僧侶が神に祈祷して雨を降らせるという信仰が生まれます。その原形が空海の京都の神泉祈雨伝説です。ここで空海は善女龍王を招聘して雨を降らせたとされます。
空海の神泉祈雨 蛇の姿をした善女龍王が現れ雨を降らせた
それを継承したのが醍醐寺や高野山で、雨乞と云えば真言系修験者の専売特許のようになります。その際に、祈願の対象は善女龍王だったので、雨乞祈祷の寺院には善女龍王が勧進されます。その善女龍王信仰が讃岐に正式に伝えられるのは、江戸時代の初めの善通寺だったことは以前にお話ししました。
善通寺の善女龍王社(善通寺東院)
以後、讃岐では、髙松藩が白峰寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺に、雨乞祈祷を命じるようになります。ここまでで押さえておきたいのは、中世の人達は、雨乞祈祷は験の高い僧侶(修験者)が行うもので、庶民が雨乞をして効き目があるとは考えていませんでした。庶民が踊るのは、その祈祷が成就した時で、そのお礼として踊っていたのです。つまり、雨乞祈願の踊りではなく、雨乞成就のお礼踊りという意識です。滝宮念仏踊りも、雨乞成就祝いの踊りだと由緒書きには記されていますし、七箇村念仏踊りも踊っている当時の人々は雨乞踊りとは思っていなかったことは以前にお話ししました。ところが江戸時代の後半から明治になると、自分たちの踊りは雨乞踊りだと主張する由緒が現れるようになります。その背景に何があったのかを今回は見ていくことにします。
19世紀の文政年間に出された髙松藩の倹約令です。ひな祭り、鯉のぼり、八朔の飾り馬、家の修理、旅行禁止、三味線禁止などが並んでいます。そして最後に盆踊り禁止とあります。ここからは、江戸時代後半になると盆踊りが禁止されていたことが分かります。これに対して、庶民はいろいろな抵抗対応をします。そのひとつが、うちの踊りは盆踊りではありません、雨乞のための踊りですという正当化・大義名分の主張です。この攻防が繰り返される中で、由緒の中に、雨乞のためのおどりと書かれるようになったと私は考えています。それでは、明治の盆踊りがどんなものだったのかを見ておきましょう。
盆踊りをめぐって、禁止しようとするお上と、踊らせろと反発する庶民のやり取りが続いたようです。そこで讃岐の庶民が考えたのが次のような方策でなかったのでしょうか。
こうして江戸時代末以後に書かれた由緒書きには、この踊りは雨乞のために踊られる踊りであることが強調して書かれるようになります。その口外には、これは盆踊りではないという大義名分が含まれます。以上をまとめておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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讃岐の善女龍王信仰 白峰寺は、高松藩の雨乞祈祷寺院だった
明治政府は、盆踊りを猥雑で風紀を乱すものとして禁止した
古代には、雨を降らせるのは神々と信じられていました。そのため験の高い僧侶が神に祈祷して雨を降らせるという信仰が生まれます。その原形が空海の京都の神泉祈雨伝説です。ここで空海は善女龍王を招聘して雨を降らせたとされます。
それを継承したのが醍醐寺や高野山で、雨乞と云えば真言系修験者の専売特許のようになります。その際に、祈願の対象は善女龍王だったので、雨乞祈祷の寺院には善女龍王が勧進されます。その善女龍王信仰が讃岐に正式に伝えられるのは、江戸時代の初めの善通寺だったことは以前にお話ししました。

以後、讃岐では、髙松藩が白峰寺、丸亀藩が善通寺、多度津藩が弥谷寺に、雨乞祈祷を命じるようになります。ここまでで押さえておきたいのは、中世の人達は、雨乞祈祷は験の高い僧侶(修験者)が行うもので、庶民が雨乞をして効き目があるとは考えていませんでした。庶民が踊るのは、その祈祷が成就した時で、そのお礼として踊っていたのです。つまり、雨乞祈願の踊りではなく、雨乞成就のお礼踊りという意識です。滝宮念仏踊りも、雨乞成就祝いの踊りだと由緒書きには記されていますし、七箇村念仏踊りも踊っている当時の人々は雨乞踊りとは思っていなかったことは以前にお話ししました。ところが江戸時代の後半から明治になると、自分たちの踊りは雨乞踊りだと主張する由緒が現れるようになります。その背景に何があったのかを今回は見ていくことにします。
19世紀の文政年間に出された髙松藩の倹約令です。ひな祭り、鯉のぼり、八朔の飾り馬、家の修理、旅行禁止、三味線禁止などが並んでいます。そして最後に盆踊り禁止とあります。ここからは、江戸時代後半になると盆踊りが禁止されていたことが分かります。これに対して、庶民はいろいろな抵抗対応をします。そのひとつが、うちの踊りは盆踊りではありません、雨乞のための踊りですという正当化・大義名分の主張です。この攻防が繰り返される中で、由緒の中に、雨乞のためのおどりと書かれるようになったと私は考えています。それでは、明治の盆踊りがどんなものだったのかを見ておきましょう。
明治初年の山形県の盆踊りを描いたものです。
①上段に真ん中の歌い手を中心に大きな輪ができています。②その下には、さまざまな小集団が同時並行で踊っています。これが踊り込みです。
衣装や仮面・持ち物がさまざまで、まるで仮装行列と仮面舞踏会が合わさったような雰囲気です。ある意味では、ムラの象郷文化祭ともいえそうです。そして楽しそうです。非日常的で、羽目を外す最大のイヴェント 恋の告白日 しかし、庶民には楽しいイヴェントでも支配者にとっては、破廉恥な風紀の乱れと移ります。そのため江戸時代後半になると倹約令とのからみで、各藩で禁止令や制限令がだされるようになります。そして、明治になると近代的国家にはふさわしくないと各県で禁止令が出されます。
1874(明治6)年に愛媛県(香川県を併合中)の禁止令です。(意訳)
ここからは香川県でも明治初年には、盆踊りが禁止されたことが分かります。当時の盆踊りの模様を明治21年の雑誌は、次のように記します。
盆踊りをめぐって、禁止しようとするお上と、踊らせろと反発する庶民のやり取りが続いたようです。そこで讃岐の庶民が考えたのが次のような方策でなかったのでしょうか。
こうして江戸時代末以後に書かれた由緒書きには、この踊りは雨乞のために踊られる踊りであることが強調して書かれるようになります。その口外には、これは盆踊りではないという大義名分が含まれます。以上をまとめておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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