瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海修行地

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
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延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

原付バイクで室戸岬を五日かけて廻ってきた。「あてのない旅」が目的みたいなものであるが、行当岬には立ち寄りたいと思っていた。ここが辺路修行者にとって、室戸岬とセットの業場であったと五重来氏が指摘しているからだ。
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五重氏の辺路修行者の修行形態に関する要旨を、確認のために記しておきたい。

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修行の形態は?

1 行道から補陀落渡海まで辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬。
3 そこでどういう修行をしたか。一つは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ること。
4 お寺が建つさらに以前のことだから辺路なら海岸に入ると、建物はない
5 弘法大師が修行したと伝わって、その跡を慕って修行者がやってくる。
6 そういう人々のために小屋のようなものが建つ。そして寺ができる。お寺でなくてもお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
7 やがて留守居が住職化することによって現在のお寺になる。
8 鎌倉時代の終わりのころは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 弘法大師が修行したころは建物などはなかったので、窟に籠もった。
10 最初の修験道の修行は「窟龍り」であった。

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修行の形態のひとつが行道。行道とは何か?

1 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回る。
2 円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いている。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行っている。
3 窟脂り、木食、行道をする坊さんが出てくる。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。明治十七年(一八八四)に那智の滝から飛び下りた林実利行者もそのひとり。
5 辺路修行では海に入って死んでいく。補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。熊野の場合も水葬。それまでに、自殺行為にも等しい木食・断食があった。

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  辺路修行では、不滅の聖なる火を焚いた

1 辺路の寺には龍燈伝説がたくさん残っている。柳田国男の「龍燈松伝説」には、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだと結論。
2 阿波札所の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。
3 それが柴灯護摩のもと。金刀比羅の常夜灯、淡路の先山千光寺の常夜灯は海の目印、燈台の役割。
4 葛城修験の光明岳でも火を焚く。『泉佐野市史』には紀淡海峡を航海する船が、大阪府泉佐野市の大噴出七宝滝寺の上の燈明岳の火を闇夜に見ると記載。
5 不滅の聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。
6 それが忘れられて、龍神が海に面した雪仏にお灯明を上げるに転意。
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室戸岬と行当岬

1 室戸では室戸岬と行当岬に東寺と西寺があって、10㎞ほど離れている。
2 室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えて東寺・西寺と名付けられた。
3 その中間の室戸の町に、平安時代の『土佐日記』に出てくる津照寺がある。
4 ところが、それは無視している。平安時代は、東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
5 火を焚いた場所にあとでつくられたのが最御崎寺(東寺)。
  (注 金剛福寺の方が古いことに留意)
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6 行当岬は、現在は不動岩と呼ばれている。
7 もとは行道という村があり、船が入って西風を防ぐ避難港だった。
8 その後、国道拡張で追われて、いまは行当岬の下のほうの新村に移動。
9 行当岬は「行道」岬。波が寄せているところに二つの洞窟があった。辺路で不動さんをまつって、現在は波切不動に「変身」
10 調査により二つの行道の存在を確認。西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩の行道を「小行道」と呼んでいる。
11 四国全体の海岸を回るのが「大行道」。

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12 二つの洞窟のうちで虚空蔵菩薩を祀った虚空蔵窟は東寺が管理しているので、かつて東寺と西寺がひとつになって祀っていたと推察可能。
13 現在では西寺を金剛頂寺と呼んでいるが、平安時代は西寺と東寺を含めて金剛定寺と呼んでいた。
14 足摺岬の場合は、金剛福寺のある山は金剛界。灯台の下には胎蔵窟と呼ばれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているので、両方を回る。
15 密教では金胎両部一体だとされるが、辺路の場合はそういう観念的なものではない。頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで回るから一体化する。
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辺路修行者と従者の存在

1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。安宅聞で強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居(「勧進帳」)の場面からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。
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室戸岬にも、弘法大師に食べ物を世話した者がいた。

1 室戸で弘法大師を世話した者が御厨明神(御栗野明神)にまつられる。厨とは台所のこと。御厨明神にまつられた者は、弘法大師が高野山に登るときに高野山に従いていった。
2 御厨明神は弘法大師に差し上げる食べ物を料理する御供所に鎮座。江戸時代は地蔵さんになる。弘法大師に差し上げるものを最初に「嘗試地蔵」に差し上げて、毒味をした。
3 室戸岬には、洞窟が四つ開いている。右から二番目の「みくろ洞」は地図では「御蔵洞」と表記されているが、もとは「みくりや洞」といって、そこに従者がいた。
4 左端の弘法大師が一夜で建立したという洞窟は、昔は虚空蔵菩薩をまつっていた。そのため求問法持を修したのは、この洞穴ではないか。
5 右端の洞窟は神明窓。現在は「みくろ洞」には石の神殿があって、不思議なことに天照大御神を祀っている。その次のところは何もない。
6 お寺や神社の信仰を、ひとつ前の時代へ、さらにもうひとつ前の時代へとたどっていくと、いまとは違った宗教的な実態がわかってきて、なかなか興味深い。

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四国の辺路を始めたのはだれか  

 弘法大師が都での栄達に繋がる道をドロップアウトして、辺路修行者として四国に帰ってきたとされる。その時に、すでに辺路修行という修行形態はあった。その群れの中に身を投じたということだ。したがって、弘法大師が四国の辺路修行を始めたというわけではない。仏教や道教や陰陽道が入る以前から辺路修行者たちが行ってきた宗教的行為がその始まりといえよう。

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 不動岩周辺は、室戸ジオパークの西の入口として遊歩道が整備されている。そして深海で生成された奇岩が隆起して、異形を見せている。

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奇岩大好きの行者達がみれば、喜びそうな光景が続く。
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海に突き出した地の果てで、行場として最適の場所だったのかもしれない。「小行道」として、不動岩の周りを一日に何回も歩いたのだろう。海辺の辺路の「小行場」のイメージを描くのには、私には大変役だった。 そして、ここを拠点に室戸岬の先端までの「中行道」へも歩き、修行を重ねる。

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この行場からは金剛頂寺への遍路道が残っている。

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ここで辺路修行者がどんな行を行っていたのか、そんなことをボケーッと考えていると、「どこから来たんな」と話しかけられた。
金剛頂寺の檀家でボランテイアで、ここのお堂のお世話をしているというおばさんである。彼女が言うには
「弘法大師さんが悟りを開いたのはここで。室戸岬ではないで。お寺やって金剛頂寺が本家、最御崎寺は分家やきに。ここが室戸の修行の本家やったんで。」
さらに
「ジオパークの研究者が言うとったけど、弘法大師さんの時代は室戸岬の御蔵洞は海の下やったんで。海の中で修行は出来んわな。ここの不動岩の洞窟は海の上。ここで弘法大師さんは、悟られたんや。」と。

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なるほどな・・・。その確信の元にこの絵があるんやなと改めて納得。海の辺路信仰の行場のあり方を考えさせてくれた場所でした。

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