瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海入唐

空海の生涯は謎だらけなのですが、その中の一つが、いつ出家・得度を受けたかです。これについては、『遺告二十五ヶ条』には次のように記します。
二十の年に及べり。爰に大師岩渕の贈僧正召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向す。此こにおいて髪白髪を剃除し、沙弥の十戒・七十二の威儀を授けらる。名をば教海と称し、後に改めて如空と称す。(中略)吾れ生年六十二、葛四十一.

 遺告二十五ヶ条は、空海の言葉を記したとされてきましたので、真言宗にとっては疑うことの出来ない「聖書」でした。そのため「二十の年に及べり」から空海の得度については「二十歳得度」説がとられてきました。この説だと大学を途中で退学して、正式に出家した後に山林修行に入り、四国の山や海で修行をしたことになります。
 ところが戦後になって、「三十一歳得度説」が有力視されるようになってきました。

この説は、『続日本後紀』巻四、承和二年(825)二月庚午(二十五日)条の空海卒伝を根拠にします。この記録は、貞観十一年(869)8月成立の正史の一つで、空海の一番古い伝記にもなります。そこには、空海の得度・入唐と亡くなったときの年齢が次のように記されています。
年三十一にして得度す。
延暦廿三年入唐留学し、青龍寺恵果和尚に遇い、真言を稟け学ぶ。(中略)
化去の時、年六十三

ここには空海が31歳で得度し、延暦23年(804)に入唐したと記されています。「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」と、得度と人唐を書き分けていますので、このふたつが連続はしているが同時ではなかったとされてきました。つまり、入唐直前に得度したというのです。留学僧に選ばれ入唐するために、慌てて得度したようにも思えてきます。
 また、31歳まで得度していなかったとすると、四国での山林修行は正式の僧侶としてではなかったことになります。さらに踏み込むと、空海が仏教に正面から向かい始めたのはいつからなのかという問題にもなります。それは二十歳という早い時点ではなかったことになります。

もうひとつの問題は、空海の31歳が何年に当たるかです。
「化去の時、年六十三」から逆算すると、空海の誕生は宝亀4(773)とされるので、得度は数え年で延暦22(803)年のことになります。ここからは、卒伝の編者は、空海は延暦22年(803)年に出家し、翌年に入唐留学したと考えていたことがうかがえます。
 しかし、得度した31歳を、何年のこととするかについては、現在では延暦22(803)年説と23(804)説の2つがあります。どちらにしても、空海の出家は入唐と密接なかかわりがあるようです。今回は、空海の出家と入唐の関係を見ていくことにします。テキストは  武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の入唐留学については、次のように考えられてきました。
第16次遣唐使の第一回目は、延暦22年(803)4月16日に難波津を出帆します。ところが5日後に、瀬戸内海で暴風に遭って航行不能となります。そのため、この年の派遣はやむなく中止されます。この時には空海は乗船していなかったとされてきました。
 嵐に遭ったものは不吉だとして、渡航停止を命ぜられた留学僧の欠員補充のため、新たに選任された一人が空海だと云うのです。つまり、延暦23(804)年の第二回目の出帆に間に合わせるために「急遠あつめられた」のが空海だったという説です。
空海の出家・入唐の根本史料としては、「空海卒伝」以外に次の2つがります。
①延暦二十四年(805)九月十一日付太政官符(「延暦二十四年官符」)
②大同三年(808)六月十九日付太政官符(以下、「大同三年官符」)
今回は①の延暦24年大政官符を中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文を見ていくことにします。延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年大政官符(中村直勝氏蒐集の平安末期書写の案文)

□政官符 治部省
留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位
      上佐伯直道長戸口同姓真魚
右、去延暦廿二年四月七日出家□□、□
□承知、依例度之、符到奉行、
□五位下守左少丼藤原貞副 左大史正六位上武生宿爾真象
延暦廿四年九月十一日

「去る延暦廿二年四月七日出家口□」の日付は、空海卒伝の「年三十一にして得度す」の年とぴったりとあいます。つづいて、「省、宜しく承知すべし。例に依って之を度せよ。符到らば奉行せよ」とあります。この官符の趣旨は延暦二十二年(803)四月七日に出家した空海に、前例に準じて度牒を発給するよう、太政官から治部省に命じたものです。根本史料と云われる由縁です。

短い通達文ですが、それまでになかった空海についての次のような重要な情報がいくつも含まれています
①空海の本貫が讃岐多度郡方田郷であること
②空海の戸主(戸籍筆頭者)が正六位上 佐伯直道長であることで位階をもっていること
③空海の幼名が真魚であること
④延暦22年4月7日に出家したこと

この「延暦二十四年官符」が注目されるようになるまでは、空海の出家は22歳のことだとされていました。それがこの史料の出現で大きく揺さぶられることになります。旧来の立場からは偽書説も出されてきました。
空海 太政官符

この太政官符は、本物なのでしょうか?
この太政官符は、今は大和文華館に収蔵されているようです。この史料が知られるようになったのは、案外新しく戦後のことのようです。本当に本物なのでしょうか、偽書ではないのでしょうか?。研究者が、この史料をチェックして、どう評価しているのかを見ておきたいと思います。

「延暦二十四年官符」は、どのような形で「発見」されたのでしょうか。伝来を、まず見ておきましょう。
空海 太政官符2
「延暦二十四年官符」野里梅園編『梅園奇賞』所収

「延暦二十四年官符」が、はじめて紹介されたのは、文政十一年(1828)に発行された野里梅園編『梅園奇賞』二集だったようです。
太政官符 野里梅園編『梅園奇賞』二集
野里梅園編『梅園奇賞』二集
右中に「石山寺什太政官符」とあるので、石山寺に伝来したものを手本として発行されたことが分かります。しかし、それが注目を集めることはありませんでした。この官符が注目されるようになったのは、戦後になってからのようです。
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中村直勝博士蒐集古文書

 「再発見」のきっかけとなったのは昭和35年(1960)に、中村直勝氏が蒐集した古文書を収録した『中村直勝博士蒐集古文書』が出版されたことです。刊行時の解説は、簡略なものであまり注目を集めなかったようです。この中村直勝氏が蒐集した平安末期書写の案文を「中村蒐集官符」と研究者は呼んでいるようです。こうして、同じ内容の文書が2つ現れたことになりました。
『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」と「中村蒐集官符」は、どんな関係になるのでしょうか?
『中村直勝博士蒐集古文書』の解説は、次のような簡単なものでした。
「この案文の原本と思われるものが「梅園奇賞」二集に収められており、それも同じ個所が欠字になっている」

ここからは、これが「案文」であり、「梅園奇賞」所収のものが原本と考えられていたことが分かるだけです。そのためほとんどの研究家は無視したようです。
空海 朝日選書 461 (上山春平 著) / 株式会社 wit tech / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
 この問題を本格的に考察したのは上山春平氏でした。
上山氏は、「中村蒐集官符」の実物調査を踏まえた上で、『梅園奇賞』所収の官符の原本が「中村蒐集官符」そのものである、と結論付けます。その根拠を次のように述べています。
「虫損その他欠損部分の形状を入念に模写しているばかりでなく、文字の形まで実に精密に模写している」
文字を忠実に写した例として、「貞嗣」を「貞副」とする点と「朝臣」を右傍らに小さく追記してある。
つまり、「中村蒐集官符」が原本で、『梅園奇賞』所収の「延暦二十四年官符」が模写であるとしたのです。上山春平の報告で、この史料は広く世に知られるようになります。そこには、空海の得度が「延暦22年4月7日に出家」と明記さています。これは、それまで真言宗が採ってきた「二十歳得度」説を否定するものです。その結果、大きな反響を呼ぶことになり、「延暦二十四年官符」=偽作説まで出てきました。

空海 太政官符2

二つの史料を比べて見て、一目で分かるのは大政官印の有無です。
『梅園奇賞』所収の官符には「太政官印」が五つ描かれています。これに対して「中村蒐集官符」には全くありません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 二つの官符を比較すると、『梅園奇賞』は「中村蒐集官符」の忠実な模写と考えるほかないことは、見てきた通りです。『梅園奇賞』の「太政官印」は、梅園が書き加えたものと考えるほかないようです。もし、『梅園奇賞』所収の官符が「中村蒐集官符」でなく、「太政官印」が捺された正式の官符を模写したとすると、署名の部分は本人の自著のはずですから書体が違ってかき分けらたはずです。また「貞嗣」を「貞副」と書き損じることも、「朝臣」のような傍書もありえないと研究者は考えています。どちらにしても、『梅園奇賞』が手本としたのが「中村蒐集官符」そのものであったことに変わりはないようです。「中村蒐集官符」は、今は掛幅装で紙の台紙に貼られているようです。
それを実際に見た研究者は、次のように報告しています
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2

一行目 上端の字は、従来推定されているように、「太」とみなしてよい。
二行目は、通常の官符どおり一字下げで始まり、 一字目は残画から「留」とみなしてよい。
二行割注の最後、「真魚」の「真」は「魚」を墨書した上に「真」を重ね書きしている。
三行目、下端の三字は、空海の出家・入唐にかかわる、この官符のもっとも重要な箇所であるが、残念ながら判読不能というしかない。
この史料を用いる場合の問題点を、研究者は次のように挙げます
第一 この官符が正文なのか、案文なのか
第二 空海の年齢が記載されていない点。
第二 解文が付けられていない点。
第四 「延暦廿二年四月七日」は作為的な改点か否か。
第五 官符の日付・延暦二十四年九月十一日をどう理解するか。
第一は、「中村蒐集官符」は正文・案文のいずれであるのか、の問題です。
研究者は「中村蒐集官符」は案文であるとします。その理由として挙げるのが次の3点です
①まず書写されたのはいつかという問題です。かつて、藤枝晃氏は紙質とその筆跡から、延暦二十四年(805)当時の原文書であるとしました。しかし、その後は平安末期ごろに書写されたものとみています。
②二つ目は、正文であれば自分の署名は自著するはずなので、書き誤ることはありません。ところが「中村蒐集官符」では、「貞嗣」を「貞副」と書き、「朝臣」を傍書しています。正文では考えられない所があります。また、自著であれば、書体が異なっていなければならないのに、すべて一人の筆跡です。さらに、「真魚」の「真」が「魚」の上に重ね書きされている点も正文とはいえないと研究者は考えています。
③三つ目は、正文であれば「太政官印」が捺されているはずです。その痕跡すら見当たりません。このように、「中村蒐集官符」を正文とみなす要素は何一つありません。これは、案文のようです。
第二は、「延暦二十四年官符」に空海の年齢がないことです。
確かに、空海の本貫だけ記されて、年齢がないのは疑わしいといえます。しかし、この文書が備忘のための写し、すなわち案文であるとすれば、この文書を偽文書とみなす決め手とはなりえないと研究者は考えています。
第三は、解文、すなわち下の役所・被官から上申したときの文書がないことです。
確かに、この官符には解文にあたるものはありません。しかし、解文のない大政官符もいくつかあるようです。

第四は、日付の延暦24年9月11日を、どのように理解するかということです。
なぜならこの時は、空海の長安滞在中だからです。それなのに、なぜこの時期に発給されたのかという疑問、あるいは疑いです。「発見」当初は、これが最大の問題で、「偽作」とする根拠とされたようです。
  しかし、その後の研究の中で、この日付は、あまり大きな問題ではないとされるようになります。なぜなら、得度の日から二年以上遅れて度縁が発給された例がほかにもあるからです。
その例とは、最澄の度縁です。最澄は宝亀十一年(778)11月12日、近江国国分寺で得度しています。けれども、度縁が発給されたのは足かけ三年後の延暦二年(781)正月20日でした。これは官吏の事務処理の遅れ、つまり税の徴収に必要な帳簿作成の最終リミットにあわせて事務処理を行なったことによるものだったようです。空海の場合も同様のことが考えられます。この官符の発給の遅れは、私度僧のまま入唐したといった資格にかかわってのことではないこと、ましてや空海の責任でもなかったのです。現在では、事務的な手続き上の問題と考えられるようになっているようです。
以上から中村直勝氏が蒐集された平安末期書写の「延暦二十四年官符」は、信憑性の高い史料であると現在では考えられるようになっているようです。
さらに、その信憑性を高める理由として研究者が挙げるのがつぎの三点です。
第一は、「中村蒐集官符」の伝来の仕方です。この史料は単独で伝来してきました。そのため空海の伝記史料をはじめ、その他にまったく引用されていません。後世にある目的にのために偽作・改竄されていたのであれば、いろいろな所に引用され「活用」されたはずです。偽作とは、そのような目的のためにつくられるものなのですから。ところが「中村蒐集官符」には、そのような痕跡がまったくありません。「中村蒐集官符」は、空海の出家に関わる貴重な文書として、平安時代に書写されたものと研究者は考えています。
第二は正史の卒伝は、信頼できる史料に準拠して記録されたと考えられていることです。
とくに「空海卒伝」の場合、公的史料と個人的な史料の二つが使用されたと考えられます。「空海卒伝」の「年三十一にして得度す。延暦廿三年入唐留学し」の箇所は、公的史料が拠りどころとなったとされる所で、その公的史料とはほかでもない「延暦二十四年官符」(今はない原本)であったと研究者は考えています。
第3は、「中村蒐集官符」が書写されたころの空海の生年・没年についてです。
平安末期には空海の生年は宝亀五年(774)、亡くなったは承和二年(835)二月・62歳が定説とされていました。そうすると「空海卒伝」の「年三十一にして得度」した年次が延暦23(803)年となることが、当たり前のことだったのです。それにもかかわらず、「中村蒐集官符」は「延暦廿二年四月七日出家入唐す」と記すのです。ここには、当時の流れにおもねることのない立場を感じさせます。作為的なものはないと研究者は考えています。

 このようにして、「空海卒伝」「中村蒐集官符」から導き出される空海出家は、延暦二十二年の四月七日です。それは「留学の末に連なれり」は単なる謙譲の修辞ではなく、やはり空海は急遽に留学僧に選任されたことを裏付けているようです。これらの史料確認の上で、研究者は次のような説を組み立てていきます。
 第一回目の遣唐使船が難波津を出帆したのが延暦二十二年四月十六日でした。
とすると、「中村蒐集官符」にいう「延暦廿二年四月七日出家入唐す」は、遣唐大使への節刀の儀が終わり、まさに出帆が秒読みに入った時点になります。留学僧として入唐する許可が出されたので、官僧の資格を満たすために、あわただしく出家の儀式をすまされたことがうかがえます。
 1回目の出港の際には、空海は乗船していなかったというのが通説ですが、研究者はそれに対して次のような異論を出します。
 空海は延暦22年(803)4月16日、難波津を進発した第一回目の遣唐使船に乗り込んでいた。最初に選任された留学僧の一人であった。よって、空海の出家得度は延暦22年(803)4月7日であり、留学僧として入唐が許可されたのは得度の9日前であって、官僧の資格を満たすためにあわただしく得度をすませ、4月16日には船上の人となって難波津をあとにした

これは、裏返すと次のような主張でもあります。
①「中村蒐集官符」は案文ではあるけれども、その記載内容は信頼するに足るものである
②したがって、空海の得度は官符の記載どおり、延暦二十二年(803)四月七日であって、延暦23年4月7日を改竄したとみなす説は成り立たない。
③官符の日付・延暦24年9月11日から、空海が私度のまま入唐したとみなす説も成り立たない
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 
         武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」

 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて挙げられ、その重要性や招来意図の説明まで記されています。
  同時に、空海と恵果との出会いや密教伝授などについても記されています。実際に朝廷に提出した「帰国報告書」にもあたる根本史料でもあります。今回は、この招来目録の冒頭部分の原文と、読み下し文、現代語訳を並べて読んでいきたいと思います。テキストは「弘法大師 空海全集第2巻  新請来の経等の目録を上る表 真保龍餃訳」です。
招来目録冒頭1
空海の招来目録(京都大学)
読み下し文
新請来の経等の目録を上る表
入唐学法の沙門空海言す。空海去んじ延暦十二年をもつて、命を留学の末に街んで、津を万里の外に問ふ。その年の臓月長安に到ることを得たり。十四年二月十日、勅に准じて西明寺に配住す。ここにすなはち諸寺に周遊して師依を訪ひ択ぶに、幸に青龍寺の灌頂阿閣梨、法の号恵果和尚に遇ふてもつて師主となす。その大徳はすなはち大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子なり。経律を式釣し、密蔵に該通す。法の綱紀、国の師とするところなり。大師仏法の流布を尚び、生民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。 民の抜くべきを歎ず。我に授くるに発菩提心戒をもつてし、我に許すに灌頂道場に入ることをもつてす。
現代語訳
新請来の経などの目録をたてまつる表
入唐学法の沙門空海が申し上げます。
空海は去る延暦二十三年に留)の命令を受けて、海路万里を渡り唐土を訪れました。その年の十二月.都長安に到ることができました。翌二十四年二月十日、勅に従い西明寺を定められ住むことになりました。ここで早速諸寺を巡り、依りどろとなる師を尋ね選んでいくうちに、幸いに青龍寺の灌頂阿閣梨法号恵果和尚にめぐりあうことができましたので、この方を師と定めました。和尚は大興善寺大広智不空三蔵の付法の弟子であります。和尚は経典戒律を究め、真言密教に通達している仏法の統理であり、国の師とする方であります。
この大いなる師は、仏法のひろまることをねがい、人びとを救うべきことに心をくだいていました。私に発菩提心戒(はつぼさつしんかい)を授け、私に潅頂道場に入ることを許し、寿命潅頂を受け位を受けたのは一度でした。
招来目録冒頭2

読み下し文
  受明灌頂に沐すること再三なり。阿閣梨位を受くること一度なり。肘行膝歩して未だ学ばざるを学び、稽首接足して聞かざるを聞く。幸に国家の大造、大師の慈悲に頼つて、両部の大法を学び、諸尊の喩伽を習ふ。この法はすなはち諸仏の肝心、成仏の径路なり。国に於ては城郭たり。人に於ては膏映たり。この故に薄命は名をも聞かず、重垢は入ること能はず。印度にはすなはち輸婆(ゆば)三蔵負展(ふい)を脱冊し、振旦にはすなはち玄宗皇帝景仰(けいごう)して味を忘る。爾しより己還、 一人三公武を接へて耽翫し、四衆万民首を稽して鼓筐す。密蔵の宗これより帝と称せられ、半珠の顕教は旗を靡かして面縛す。
それおもんみれば鳳凰干飛するときは必ず尭・舜を窺る。仏法の行蔵は時を逐ふて巻舒す。今すなはち一百余部の金剛乗教、
現代語訳
ひじでにじり進み、ひざで歩くようにして、謹み深く近づき従って、まだ学んでいなかったことを学び、頭を地につけ礼拝し、両手で師の足に触れて礼拝しながら、まだ聞かなかった教えを聞きました。幸いに国家の大恩と大いなる師の慈悲によって、両部の大法を学び諸尊の喩伽を習いました。この法はすなわちもろもろの仏の肝心にして成仏の筋みちです。国においては城の如く迷いの賊におかされることなく、人にとっては安楽に豊かな暮らしができるものです。
だから不幸で寿命の短い人は、密蔵(教)の名前を聞くこともなく、迷いの深い人はこの教えに入ることもできません。インドでは善無畏三蔵が王位を捨て、中国では玄宗皇帝がその善無長三蔵を信仰して寝食を忘れたのです。これより以後、皇帝と最高位の高官たちがあとに続いて密蔵(教)を深く信仰し、出家の比丘、比丘尼はもとより、在家の善き男子、善き女子も万民ことごとく密蔵(教)に帰依し、密蔵(教)を説き論じています。このことより真言の教えは、諸宗の帝と呼ばれ、半分欠けた珠のような顕教は旗をなびかせてうしろ手にしばられ、顔を前につき出すようなかたちになってしまいました。

さて考えますと、鳳凰が飛ぶときはかならず古の聖皇帝尭・舜の仁徳をかえりみるといいます。御仏の教えの行われたり隠れたりするのは、時代をおって経典を巻いたりひろげたりするのと同じです。今ここに百余部の金剛乗教と
招来目録冒頭3
読み下し文
両部の大曼茶羅海会、請来して見到せり。波濤漢に波ぎ、風雨舶を漂はすといふといへども、彼の鯨海を越えて平かに聖境に達す。これすなはち聖力のよくするところなり。伏して惟れば、皇帝陛下、至徳天の如く、仏日高く転ず。人の父、仏の化なり。蒼生を悲しみて足を濡はし、仏嘱に鍾つて衣を垂る。陛下新たに旋磯を御するをもつて、新訳の経遠くより新たに戻れり。陛下海内を慈育するをもつて、海会の像、海を過ぎて来れり。恰も符契に似たり。聖にあらずんば誰か測らん。空海、闊期の罪死して余ありといへども、病に喜ぶ、難得の法生きて請来せることを。 一燿一喜の至りに任(た)ヘず。
  謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に附して奉表もつて聞しめす。ならびに請来新訳の経等の日録一巻を且もつて奉進す。軽しく威厳を顆して、伏して戦越を増す。沙門空海誠恐誠性謹言。
大同元年十月十二月
入唐学法沙門空海上表
現代語訳
両部の大曼茶雑海会を請来して、まのあたりに見ることができました。海の荒波は唐土にしぶきをそそぎ、暴風雨は私の乗った船を漂流させましたけれど、さしもの大海を渡りきることができ、無事陛下のもと、この国に帰ってきました。これはひとえに陛下のお徳の力のしからしむるところです。
 伏して思いますに、皇帝陛下のお徳は天のようにきわまりないので、み仏の日光も高く法を転じ照らすことができます。人の父でありみ仏の化身です。国民を哀れんで生死の海に足をぬらし、み仏の嘱望にこたえて国土を護り天下をよく治められています。陛下が新しく善政をしかれたので、新訳の経典が遠くから新しく来ました。陛下が海内の人びとを慈育されるので、両部曼茶経の仏像が海を渡ってきました。あたかもこれは符節を合わせ契りを結んだのに似ています。聖人でなければ誰がどうして予測することができたでしょうか。
空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

以下には〔請来経等の目録〕が次のように記されます
(1)新訳旧訳の経典を計142部247巻、
(2)梵字真言讃など計42部44巻、
(3)論疏章など計32部170巻、
(4)仏菩薩金剛天等の像、曼荼羅、伝法阿闍梨等の影など計10舗、
(5)恵果から付嘱された道具9種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種
これらが1点1点具体的に列挙され、説明まで付けられています。

「かつて日本に渡っていないものが、ほぼこの中にある」
と空海は云います。密教経典でもすでに日本に渡っているものは、省かれています。「日本に渡っていないものを持ち帰った」という言葉からは、目録中の経典類は唐に行くまでは空海も見たことがなかったものということになります。そうすると金剛頂瑜伽真実摂大経王経、金剛頂瑜伽略出念誦経、般若理趣経、菩提心論、般若理趣釈、などのほとんどの密教の経典類は、唐で初めて空海が触れたものだったことになります。目録にないのは大日経と虚空蔵求聞持法ぐらいです。
 以前にお話したように、空海の入唐については、次のような見解があります。
「一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたもので、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか。日本にいたときにすでに、密教体系の大筋を理解し、残すところは対面伝授の秘儀と潅頂だけになっていた」

 しかし、招来目録を見る限り空海は、ほとんどの密教経典に初めて長安で接したことが分かります。ここからは、入唐以前の空海が密教体系の大筋を理解していたとは云えないことが裏付けられます。

 空海の生きた奈良時代末に、密教についての情報がどのくらいわが国に入っていたのでしょうか。
 最澄の請来目録では、密教を念誦法門と呼んでいます。ここからは最澄も密教について「呪法に特色のある宗派」くらいに思っていたことがうかがえます。彼も密教の具体的な行法に目を奪われて、その本質にまでは分かっていなかったようです。最澄にしてこれでは、あとは押して図るべしです。当時のわが国では、密教は新式の呪法程度にしか認識されていなかったことになります。空海が持ち帰ってきた経典類の価値が分かる人はいなかったでしょう。空海自身も「密臓」という言葉を使っています。「密教」という言葉を使い始めるのは、もっと後であることは以前にお話ししました。当時は、大日経も金剛頂瑜伽略出念誦経も伝来し、写経されていたことは正倉院の写経所文書から分かっています。しかし、その意味を理解する者は、入唐以前の空海を含めていなかったと云えそうです。
 最澄にしても、自分の伝えた念誦法門の一々の行法に理由付けのあることぐらいは察していたかもしれません。それが空海に「今までの教学では解けない秘密の教法である」と言われて、あわてて勉強しますが、手持ちの貧弱な文献では見当もつかない。頬被りして済ます訳にもいかないので、弱った最澄が、空海に頭を下げて教えを乞うたというのが実態のようです。

 空海が密教を求めて入唐したという見方は、誤ってはいないとしても、正確ではないようです。
以前にもお話ししたように、渡唐前の空海に「密教」という概念があったかどうかも分かりません。金剛頂経の存在も知らなかった可能性の方が高いようです。「空海にあったのは、大日経を体得するという志なのだ。」と云う研究者もいます。
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          長安の絵師たち(弘法大師行状絵詞)
空海が持ち帰った品々は、どのようにして整えられたのでしょうか。
仏典などは新たに写経しなければなりません。
空海が持ち帰った経論は142部247巻にもなります。しかも、すべて日本にはまだ招来されていない新訳のものばかりです。この中の118部150巻は不空が翻訳したばかりの最新のものです。これらは恵果が青竜寺東塔で管理しているものですが、これを空海に渡すわけにはいきません。写経しなければなりません。そのために、恵果は二十余人の写経生に筆写を依頼したと招来目録には記されています。

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招来品を写経する写経生(弘法大師行状絵詞)

恵果がさずけたもののうち、曼陀羅は5種類23幅あります。
それに密教各祖の絵像が5種類15幅を加え、これらをあらたに絵師に描かせます。恵果は、それを長安の一流どころの絵師を用いたようです。帝室供奉の画工である李真など、十余人が青竜寺に招かれて筆をふるったと招来目録は記します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
持ち帰る曼荼羅などを描く絵詞と見守る空海(弘法大師行状絵詞)

密具には、金属製品が多いようです。
五鈷、三鈷、独鈷、鈴、輪宝、渇磨、金剛板、金剛盤、溺水器といったものです。

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法具類を作成する官営工場から招かれたの職人たち(弘法大師行状絵詞)

 恵果はこれら法具類についても、宮廷の技芸員である鋳博士の楊忠信などに、たのんでつくらせています。ほかに、あらたに密教正嫡の阿閣梨の位についた空海が、正嫡の阿閣梨として持たねばならぬ付属物があります。日本の天皇家の例でいえば皇位継承のしるしである三種の神器のようなものでしょうか。これが「恵果からの阿闍梨伝法の印信」八種で、以下のものです。
(5)恵果から付嘱された道具8種
(6)恵果からの阿闍梨伝法の印信13種

招来目録 阿闍梨付属品
仏舎利八十粒
刻白檀仏菩薩金剛像等一寵
曲線大受茶羅尊四百四十七尊
白諜金剛界三摩耶曼茶羅百二十尊
五宝三摩耶金剛
金剛鉢子一具
牙床子
白螺只。
この八種はインド僧金剛智が南インドから唐へ渡ってくるとき招来品で、相続の証として金剛智から不空に伝えられ、不空から恵果に伝えられ、恵果から空海に伝えられたものです。コピーして複製品を作るわけにいきません。空海が持ち帰れば、唐には密教正嫡を証明する八種のシンボルがなくなることになります。これを立場を変えるとどうでしょうか。日本のある宗派の宗主が外国人によって継承され、帰国時に持ち帰られる・・・。これを本当に恵果は行ったのかと、改めて疑問がわいてきます。玉堂寺の珍賀らの僧侶たちが空海の潅頂に対して不穏な空気をみせたというのも当然のような気がしてきます。さらに恵果は、かれ自身が持っていた五点の品々を、自分の形代(かたしろ)として、空海にあたえています。

 最後に、空海と最澄の立場を比べてみましょう。
最澄は請益僧で還学生の資格でやって来ています。目的は唐から日本に必要な文物をもらってくることで、乗っていた船で還ってくる短期間留学です。このため請益の還学生には、身分の高い僧がえらばれることが多かったようです。最澄の場合、すでに内供奉十禅師という天皇の侍僧でした。最澄は入唐の際にも、自分専用の通訳僧を供にし、十分な経費も支給されていました。いわば、日本国代表として唐の文物なり思想なりを買い受けに行く役目です。ある意味、国の文化・宗教バイヤーで、国家を後ろ盾にして経費に糸目をつけずに買い入れることができる立場でした。ある意味、「天台宗を体系」を丸ごと仕入れに行ったとも云えます。そのため最澄は、資金も潤沢で、要人への贈り物もふんだんに用意していたようです。
 例えば天台山へ行ったときには州の長官・陸淳は、最澄を丁寧にもてなしています。そこには贈答作戦があったようです。また天台山では写経生を動員し、紙数にして8532枚という経典や注釈書を書写させて持ち返っています。これらについても、膨大な経費が必要とされたはずですが、その経費を心配する必要はなかったはずです。
最澄の立場と空海を比べて見ると、置かれた位置が初めから違うことが分かります。
 空海に課せられた義務は、20年間かかって密教を学ぶことです。最澄のように密教をシステムごと「移植」する義務はありません。そのための経費も持たされていません。司馬遼太郎はこれを「空海は、恵果から、 一個人としてゆずりうけた」と記します。その経費は、20年間の留学費をそれにあてたとします。しかし、見てきたようにそれだけでも賄いきれない経典や法具類の種類と量です。この「資金源」については、別に触れましたのでここでは省略します。
空海は、日本国から義務を負わせられず、経費をあたえられずして、密教を個人で「移植導入」してしまったことになります。国の仕事として天台宗導入を行った最澄に対し、空海の天台体系への視線は、つまらぬ存在をみるようなものであったとも司馬遼太郎は記します。それは、空海の帰国後の態度の痛烈さは、このあたりに根があると司馬遼太郎は指摘します。
空海は「私費で、そして自力で、真言密をこの国に導入したのです。
支離滅裂になってまとめきれません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 司馬遼太郎 空海の風景(下)
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 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀宿禰大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。あるとき「一沙門」と出会い大学を辞し、「虚空蔵求聞持法」を修することで仏教に傾倒し、そして延暦16年(797)に『聾瞽指帰』を著して出家宣言を行い、さらに仏道修業に専念していった
 
「卒伝」の記述は、「一沙門」との出会いが記されています。そして山林修行を経て「聾瞽指帰(改訂されて三教指帰)」執筆に至たという経過です。しかし、ここには「大学を辞した」ということについては何も触れられてはいません。大学を二・三年で退学したというのは、あくまで想像です。
 これに対して、空海は大学を中退していないのではないのか、きちんと卒業した後に『聾瞽指帰』を描いたのではないかという説が出されています。今回は、これを見ていくことにします。テキストは   牧伸行 入唐前の空海 です。

空海については分からないことが多いのですが、どうして得度したばかりの無名の僧侶が遣唐使の留学僧に選ばれたもその疑問の一つです。大学を卒業後していれば、充分な資格を有していたことになります。
吉備大臣入唐絵巻 [978-4-585-05423-8] - 2,640円 : Zen Cart [日本語版] : The Art of  E-commerce

この参考例になるのが吉備真備のようです。
彼は下級武官下道朝臣国勝の子ですが入唐前に從八位下を授位されています。そこに至る経過を見てみると、15歳前後で大学に入学し、六・七年を経て貢試、その結果「進士甲第」という成績を納めて、養老選叙令秀才出身条によって従八位下を授位されます。その上で、入唐留学生に選ばれます。
 つまり、大学寮出身コースから入唐留学生へという道を歩んでいるのです。ここからは、六・七年という年数が、当時の大学を卒業するのに要した年数と考えることができます。この年数は空海が大学に入学し、その後延暦16年(797)までの消息の分からない空白の期間とほぼ一致すると研究者は指摘します。

 空海は大学において、どの課程に属していたのでしょうか?
このことについて空海自身は何も述べてはいませんし、卒伝にも何ら記述はありません。ただ『空海僧都伝』には、次のように記されています。
入京時遊大學。就直講味酒淨成。讀毛詩尚書。問左氏春秋於岡田博士

ここに「岡田博士」から左氏春秋を学んだとあります。これは『続日本紀』延暦十年(791)12月丙申(十日)条に、「外從五位下岡田臣牛養爲大學博士」とある大学博士岡田牛養と研究者は考えます。そうすると、この年は空海が中央の大学へ入学した年でなので、岡田博士が岡田牛養で実在の人物と推測できます。 
 職員令大学寮条には、博士・助教・音博士・書博士・算博士のコースがあって、このうち博士は「教授經業」を担当しています。さらに、学令博士助教条に「凡博士助教。皆取明經堪師者」とあるので、明経博士であったことが分かります。以上から、空海は当時の大学において本科であり、かつ主流であった明経道に在籍して経道を学んでいたとするのが定説のようです。
明経道を学ぶ学生が、同時に儒教・道教・仏教の知識を得ることはできたのでしょうか?
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
聾瞽指帰 登場人物が最初に記されている

『聾瞽指帰(空海が50代になって改稿したのが三教指帰)』は、儒教を「亀毛先生」、道教を「虚亡隠士」、仏教を「仮名乞児」の3人の登場人物がそれぞれの長所を主張し、議論を戦わせるという「対話討論形式」の芝居仕立ての展開が取られます。まるで戯曲を読むような印象を受けます。亀毛先生の儒教は、虚亡隠士の支持する道教によって批判されます。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されます。これは論理的に云うと「弁証法的な手法」で、「日本における最初の比較思想論」で、「思想の主体的実存的な選択を展開した著作」と「ウキ」には評価されていました。そんな風に私は見たことがなかったので「ナルホドナ」と感心しました。

仙台市博物館 on Twitter: "【特別展「空海と高野山の至宝」後期展示 好評開催中!】 能筆で知られた空海自筆の書、国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき)」が後期から展示中です。(画像は本展チラシより)  空海24歳の、仏教を目指す意志を記した書です。内容解説のパネルも ...
聾瞽指帰

 当然、「聾瞽指帰」の中には、多くの文献が引用されることになります。
研究者が数えると、引用件数は漢籍類69種・仏典関係59種になるようです。引用されている69種の漢籍類のうち、『周易』『尚書』『周礼』『儀礼』『礼記』『毛詩』『春秋左氏伝』『孝経』『論語』は、明経道で教科書として使われています。紀伝道(文章道)の教科書である三史(『史記』『漢書』『後漢書』)『文選』『爾雅』も引用されています。これは、空海が在籍していた明経道だけでなく、他の課程についても造形が深かったことがうかがえます。
 また空海は15歳の時から叔父の阿刀大足から学問の指導を受けていたと自ら述べています。これらの知識的蓄積があって書くことができたものです。。
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「聾瞽指帰」は、延暦16年(797年12月23日)に書き上がってきます。空海24歳の著作になります。大学入学は18歳の時でしたから、それから6年後のことです。この時点で空海は、大学を卒業していたと研究者は云うのです。

「聾瞽指帰」の中で道教の部分については、論旨が最も弱く不明確であると研究者からは指摘されています。
つまり空海の道教理解は、不十分であったようです。その理由として、我が国では教団道教が根付かなかったことが挙げられます。道教という宗教組織としてではなく老荘思想・老子的心境といったものの理解の方が中心に行なわれていたためのようです。そのため『淮南子』『神異経』『神仙経』『荘子』『抱朴子』『列仙伝』『老子』『老子経』『老子内伝』等の一通りの道教経典に目を通すだけの、専ら書物からの理解のみを行ったとします。
 それに対して、仏教については、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点で、かなり深い理解があったと研究者は考えているようです。このことは、「仮名乞児論」の内容及び引用文献から見えてきます。

しかし、これを書き上げたときの空海は、まだ仏門には入っていなかったと研究者は考えいます。
 虚空蔵求聞持法を始めたときの空海は、これが仏教の修行とは思っていなかった形跡があります。求聞持法を「一切の教法の文義暗記」のために行ったと空海は称しています。何のための文義暗記か。大学を辞めていなかったとすれば、「大学での勉学」のためと考えるのが自然ではないでしょうか。この時点では、仏典暗記とは云えないことは先述したとおりです
 大学での儒学修得にあき足りなさを感じた空海は、肉体的な修行に飛びこんだことが考えられます。それはあくまで大学の勉学のためのサイドワークで、仏教修行とも考えずに始めたということになります。  
聾瞽指帰の仏教に関する内容も山林修行の実践を終えて身を以て体験した内容ではなく、むしろ、道教と同じく書物からの理解だったとします。つまり、「聾瞽指帰」を書いた24歳の時点では、山林修行者として経験に基づく記述内容は、今だ見えないと云うのです。

そして24歳になって大学を卒業する段階になって、さてどうするかということになります。 三教指帰は、大学卒業と虚空蔵求聞持法修行をひとまず終えた空海が、どの方角へ向うか考えた末の産物だったのではないでしょうか。

 空海が大学在籍中には、南都六宗は諸寺は姿を見せていました。
奈良盆地のそれらの寺院は、文明開化のモニュメントであり、文化センターの役割を果たし始めています。その中で空海が仏教を学び、仏典類の閲覧を行なうためには、大学生という確かな身分を持っていた方が都合が良かったのではないでしょうか。逆に、大学生という身分を捨ててしまえば、これらの寺院への出入りも出来なくなります。
御遺告2
御遺告
 『御遺告』には、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
①の20歳の得度を、そのまま受けいれる研究者は少数派です。ここには空海が「山林修行」をおこなったことは、どこにもでてきません。あるのは『大日経』を捜し求めたことだけです。大日経を捜し求め、久米寺の東塔で見ることができたと記されます。正式の得度を受けていない沙門が国家管理下の国営寺院に出入りが許されたのでしょうか。ここからも大学生の身分であった方が仏教を学ぶとしても活動はやりやすかったように思えてきます。
大学に在籍し、サイドワークとして道教・仏教についての知識を学ぶ時間的な余裕はあったのかを研究者は見ていきます。
学令先読経文条には、次のように記されています。
「凡學生。先讀經文。通熟。然後講レ義。毎旬放一日休假
ここからは毎旬(十日毎)に一日の割合で休暇が認められていたことが分かります。
 同令請假条には、次のような規定があります。
凡學生請假者。大學生經頭。國學生經所部國司。各陳牒量給

臨時の休暇願の手続きの規定があり、同令放田假条では、
凡大學國學生。毎年五月放田假。九月放授衣假。其路遠者。仍斟量給徃還程。

田假・授位假に関する規定が定められていて、ある程度のまとまった期間の休暇があったことが分かります。そして、同令不得作楽条には、極端な例ですが、次のように記されています。
凡學生在學。不得作樂。及雜戲。唯彈琴習射不禁。其不率師教。及一年之内。違假満百日者。並解退。

 学生の日常生活の心得に関する規定の中に、「違假満百日者。並解退」とあるので、百日未満であれば「不正休暇」も大目に見られていたようです。
以上から、大学在学中であっても、道教・仏教の知識を深めて行く時間的な余裕は作り出す事ができる環境であったことがうかがえます。
それでは大学に在学しながらも「仮名乞児論」のように「或登金巖。而遇雪坎。或跨石峯。以絶粮軻。」というような修行を行なうことができたのでしょうか。
 役小角に代表されるような山岳修行者、私度僧たちは古くからいたことが分かっています。それは空海が開いたとされる霊場が、空海以前にすでに信仰対象とされていたことからもうかがえます。独古や三鈷・錫杖をもった修験者が讃岐の大川山の周辺で修行を重ねていたことは、中寺廃寺跡から出土した古式様式の三鈷の破片からも分かります。空海に実体験は無くとも見聞による著述は決して不可能ではなかったと研究者は考えているようです。
また、大学在学中であっても、一定期間の休暇は認められていました。
さらに『聾瞽指帰』の日付である延暦16年(797)は、大学卒業に必要な六年、国学・大学を通じて就学可能な期限である9年を経た翌年に当たります。つまり、15歳で国学に入学してから数えて9年目、空海24歳の年に当たると云うことです。10年間の在籍が認められていたので、空海は大学を辞すること無く、一年間は仏道修行を行なうことができたことになります。
 その1年を利用して「卒業研修」として「阿波國大瀧之嶽」「土左
國室戸之崎」で山林修行を行ったということも云えそうです。四国の辺路修行場であり、大学卒業後に故郷四国の修行地を回ったと考えることも可能になります。そう考えると、空海が修行のために大学をドロップアウトしたと考える必要はなくなります。延暦15年(796)に大学を卒業し、その実践のために山林修行に四国に向かったという話もできそうです。
 その場合に、空海が「一沙門」と出会ったのは延暦16年(797)以降と考える必要はなく、空海の仏教に対する造詣の深さを考えると、短期間に独学で学んだと考えるよりも、信頼のおける学僧について学んだと考えた方が現実的だとします。

以上をまとめておくと
①定説では「空海は都の大学に入ったが儒教に嫌気がさして、虚空蔵求聞持法に興味を抱き大学を中退した」とされていきた。
②しかし、根本史料には空海が大学を中退したとはどこにも書かれていない。
③空海は18歳で大学に入学後、24歳まで大学で、儒教だけでなく仏教や道教を学び卒業した。
④卒業後に、その成果として著したのが「聾瞽指帰」で、仏教の道を選択し、山林修行に入って行った。
⑤空海はドロップアウトすることなくエリートとしての道を歩み続け、それが留学僧として選抜されることになった。
 三教指帰序文や御遺告に後世の作為があるとされるようになり、根本史料としての信頼性が揺らぎ始めています。その中にあって、研究者たちは信頼できる史料に基づいて空海の歩みをもう一度見直そうとしているようです。これは何十年もかかる作業になることが予想できます。「空海は大学を卒業していた」説や「空海=摂津誕生説」もそのような動きの一環なのでしょう。
その向こうに新たな空海像が描かれるのを楽しみにしています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 

入唐 遣唐使船

遣唐使船復元模型

空海と最澄は、延暦23年(804)七月出帆の遣唐使船で入唐を果たしています。この時の4隻の船の内の第1船に空海、第2船に最澄が乗船していました。この遣唐使船について、私はよく分かっていませんでした。特に、第3・4船の動きが不可解なのです。今回は、この2隻に焦点を当てながら九州をはなれるまでの動きを追ってみたいと思います。テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
この時の遣唐使団について、従来から問題とされている点を挙げると次のようになるようです。
① 延暦の遣唐使の目的は何だったのか。わが国に何を持ち帰るために派遣されたのか。
② その成果は、どうだったのか。この遣唐使によって、何がわが国にもたらされたか。
③ 遣唐使の組織は、どのようであったか。
④ 遣唐使船の最後の寄港地はどこだったのか。
⑤ 延暦の遣唐使は、国書を持参していたのか
⑥ 空海が帰国時に乗船した判官高階真人遠成の船は、何の目的で再度入道したのか。はたして延暦の遣唐使の第四船だったのか否か。

この中の②については、空海と最澄による密教の請来がすぐに答えられます。しかし、その他については、今も議論が続いているようです。今回は③④⑥について、現時点で研究者はどのように考えているのかを見てみることにします。
③の遣唐使の組織について、研究者は次のような表を作成しています。
空海入唐 遣唐使スタッフと報酬
延喜式の遣唐使スタッフと手当表

遣唐使は「臨時業務」だったので、その都度編成されていました。そのため組織の規模・構成は、その都度異なるようです。延喜五年(905)に完成した『延喜式』には、遣唐使のスタッフに支給される手当が別表のように規定されています。今でもサラリーを見ると、組織におけるその人物の位置や重要度がある程度は分かります。そんな世俗的な視点で遣唐使たちへのサラリー(支給品)を見てみましょう。
ちなみに留学生・学問僧(留学僧)は「施四十疋、綿百屯、布八十端」とあります。これを上表で見ると副使のサラリーとほぼ同じ待遇であったことが分かります。ここからは、留学僧・還学僧に対する待遇の高さと期待がうかがえます。
 また大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・学問僧・還学僧のスタッフには、「別賜」として彩吊と費布が別に支給される規定になっています。 ここからは、留学僧が遣唐使の中枢メンバーであったことがうかがえます。

延暦の遣唐使の総人員はどのくらいで、どんな人物が任命されたのでしょうか
延暦の遣唐使は、宝亀九年(778)12月の送唐客使以来、24年ぶりの派遣でした。延暦二十年(801)8月庚子(十日)遣唐使の任命が行なわれ、藤原葛野麻呂が大使に、副使には石川道益が任ぜられ、あわせて判官・録事それぞれ四名も発令されます。前後の遣唐使の総人員は、次の通りです
霊亀二年(716)八月癸亥(二十日) 557名
天平四年(732)八月丁亥(十七日) 594名
承和元年(834)正月       651名
ここから推測すると延暦の遣唐使も600名前後で構成され、四船に分かれて出発したとされています。その中で具体的な人名が分かっているのは、次表の二十数名だけのようです。これは本宮康彦・森克己・鈴木靖民・田島公の各研究者たちによって、明らかにされている人物名を表にしたのものです。

空海入唐 遣唐使スタッフ氏名一覧
○がついているのが、各研究者がスタッフであったと認める人物です。空海や最澄・橘逸勢などは、もちろん全員の○がついています。しかし、留学僧の霊仙・金剛・法道・護命・永忠に関しては、意見が分かれていようです。大使・副使・判官・録事などについては「定説」となっているようです。確定的な人物名を記しておきます。
大使 藤原葛野麻呂、
副使 石川道益、
判官 菅原清公・三棟今嗣・高階遠成。甘南備信影、
准判官 笠田作
録事 山田大庭・上毛野頴人、
准録事 朝野鹿取、
留学僧 空海・円基、
留学生 橘逸勢・粟田飽田麻呂、
請益僧(還学僧) 最澄
最澄の訳語僧 義真、
係徒 丹福成、
写経生 真立人、
碁師 伴小勝雄、
舞生 久礼真(貞)蔵(茂)・和爾部嶋継、
楽生 舟(丹)部頭麻呂
以上の二十三名は、ほぼ信じてよいと考えられているようです。

出発までの動きを年表で見ておきましょう。
801 8/10 大使に藤原葛野麻呂を、副使に石川道益を任ず。
また、判官・録事各四人を任ず〔紀略13〕
802 4/15 朝野鹿取を遣唐録事に任ず〔補任〕。
9/8 最澄、上表して入唐求法を請う〔叡山伝〕
9/12 最澄の入唐を許す〔叡山伝。釈書1〕
円基。妙澄、天台留学僧として入唐を許される〔叡山伝〕
10/20 最澄が、通訳として義貞を伴うことを請許される
803 2/4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う〔紀略13〕
 3/14 遣唐使に彩吊を賜う〔紀略13〕
   3/18 遣唐使等、朝堂院において拝朝す〔紀略13〕
 3/19 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
  葛野麻呂は御被三領・御衣一襲・金二百両、
道益は御衣一襲。金一百五十両を賜う〔紀略13〕
   4/2 大使・副使等辞見し、節刀を授けられる〔紀略13〕
   4/7 空海、出家得度す〔続後紀4〕。 一説に延暦23年
 4/9 空海、東大寺戒壇院にて具足戒を受く。 
 4/14 遣唐使、難波津頭において乗船す〔紀略13〕
 4/16 遣唐使、難波津を進発す〔紀略13〕
 4/21 遣唐使船、暴雨疾風に遭う。
明経請益生大学助教豊村家長、波間に没す
  4/23 大使藤原葛野麻呂、暴雨疾風に遭い渡航不能を報告す。
   右衛士少志日下三方を遣して、消息を問わしむ
4/25 大使藤原葛野麻呂等、上表す〔紀略13〕
4/28 典薬頭藤原貞嗣・造宮大工物部建麻呂等を遣して、遣唐舶ならびに破損雑物を修理せしめる〔紀略13〕
5/22      遣唐使、節刀を奉還す。
船舶の損壊により渡海するあたわざるによる
  延暦22年(803)発の遣唐使船は、2年前の801年8月には大使と副詞、判官などのメンバーが決定されています。同時に、船が安芸国で建造され始めたようです。そして、802年には最澄の短期留学僧としての派遣が決定しています。しかも、最澄には専属の通訳僧の同行も許されています。ところが空海の名前は、この時にはありません。空海がこの年の検討線に乗っていたかについては、次の2つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の最初から加わっていたとするもの(延暦22年説)
② 一度渡海に失敗し、再度の進発をした時点で加わったとするもの(延暦23年説)

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難波津 住吉神社の鳥居前の碑文
4隻の船が安芸から難波に回航され、諸物資を積み込み、使節が乗り込んだのは4月14日です。その2日後の16日に難波津を出港して瀬戸内海を西航して那津(博多)を目指しました。ところがそのわずか5日後の4月21日に瀬戸内海を航海中に暴風疾風に遭って碇が使用できず、制御不能となり破損し「航行不能」状態になってしまいます。そのため専門家を派遣して修理を行わせています。しかし、短期間で修繕できるものではなかったようで、5月22日には遣唐使団長は「船舶の損壊により渡海するあたわざるによる」と節刀を一時奉還しています。この時には難波津を出発して5日目に瀬戸内海で難破してしまったようです。どの辺りで難破したのか、5日目というと順調なら鞆か尾道あたりでしょうか。被害を受けたのは何隻かなどを知りたいのですが、史料には何も記されていません。

平城京歴史館/遣唐使船復元展示 | 徒然日記 (NO3)

 遣唐使船の歴代総数は40隻あまりですが、そのうち12隻が難破・遭難しています。
無事に渡海できる確率は2/3程度だったことになります。その理由として、従来は次のような理由が云われてきました。
①季節風を知らなかったこと、
②造船技術をはるかに上回る大きさの船を無理に造ったこと、
③前の航海の経験が次の航海にはほとんど生かされていなかったこと、
しかし、①③に関しては、次のような異論も出ています。
①の季節風については、遣唐使の航海に関する史料の検討から、風についての知識は現代のわれわれよりよく知っていて、従来の経験が生かされなかったわけではない。
②の船については、150名近くの乗船のために、全長16m、幅7m前後、総トン数で160トン前後のずんぐりした船だったと推定される。その当時、中国・朝鮮半島諸国で造られる大きい船でも、せいぜい70人乗り程度であったので、遣唐使船は特別大きな船だったことになります。
遣唐使船 ・ 奈良平城宮跡 (奈良県) - 気ままな撮影紀行
復元された遣唐使船(平城京公園)
これに関しては、専門家は、次の二つを指摘されています。
第一は、東シナ海を渡る航路をとる必要や、人とモノを載せる必要から技術力以上の大型の船を造らぎるえなくなり、構造的に無理があった
第二は、船の総重量や荷物を多く積み込みすぎたことも遭難の大きな要因であった。
つまりは、船の大型化と操船に問題があったようです。 延暦22年(803)発の遣唐使船も、同じような問題を抱えていたのでしょう。
 多島海で潮流の複雑な瀬戸内海は、当時の帆走技術では大きな船体の遣唐使船は、操船が難しくて自力航海することはできなかったと専門家は考えているようです。そのため多数の大船(準構造船)で、遣唐使船を曳航したようです。その中で、強風で流されての船体破損事故だったのでしょう。
船が修理されて、翌年に再度出港するまでの動きを年表で見ておきましょう。
804 1/13 □□朝臣今継、三棟朝臣を賜う〔後紀12〕
3/5 遣唐使、拝朝す〔後紀12・紀略13〕
3/25 大使藤原葛野麻呂。副使石川道益に餞を賜う。
とくに恩酒一堺・宝琴一面を賜う〔後紀12・紀略13〕
3/28 大使藤原葛野麻呂に節刀を授く〔後紀12。紀略13〕
  5/12 空海、大使藤原葛野麻呂とともに第一船に乗り、入唐の途に上る〔集記〕

 この時の遣唐使船は船の修理後、翌年延暦23年(804)3月28日に、改めて、大使藤原葛野麻呂に節刀を授けられています。そして、5月12日に大使藤原葛野麻呂が率いる4隻の船は難波津を出港していきます。この時に、第一船に空海も乗船していたと「集記」にはあります。前年の出港の際には、空海の名前はないようです。難破事件で一年遅れにならなければ、空海の入唐はなかったことになるようです。
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 難波津 住吉神社から出港する遣唐使船

東シナ海へ出て以後の動きを年表で押さえておきます。   
804年7/6遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7 第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬 第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10 第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1 第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15 最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
9/18 兵部少丞大伴太「万里を新羅に派遣す。未審の二船が漂着した場合のためなり
9/26 最澄、台州に到る。
難波津から約2ヶ月足らずで、那津(博多)を経て、松浦郡田浦までやって来ています。4船は、ここから出発しています。
司馬遼太郎(『空海の風景』)に、次のように記します。
されていたのを読んだことがあるからです。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きる。 
 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つ。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのだ。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。 
 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、「本涯ヲ辞ス」という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
 ここで司馬遼太郎氏が書いていることをまとめておくと
①最後の寄港地は、五島列島の久賀島の「田ノ浦」である。遣唐使大使の葛野麻呂が帰国後に提出した報告書(『日本後紀』)に、そう書かれている。
②最後の寄港地である久賀島の「田ノ浦」で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待った
③真夏の逆風の季節をえらんで出帆することから分かるように、当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。
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舳先で悪霊退散を祈祷する空海

①について『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を確認してみましょう。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 これが遣唐使大使の正式報告書です。ここには最後の寄港地は「肥前国松浦郡田浦従リ発シ 四船海ニ入ル。」とあります。
「肥前国松浦郡田浦」については、2つの説があるようです。
①ひとつは、現在の平戸の北端の田浦
②もうひとつは五島列島の久賀島の「田ノ浦」

7月6日に「田ノ浦」を発って以後の4船の航路をたどってみましょう。
 順風をとらえて東シナ海を西に進み西方沖で潮に乗って南下しようとします。ところが翌朝に逆風に遭い、強風と逆波にさえぎられて南下できなくなります。帆をあげて西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしますが、済州島の方向に押し流されます。

  肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。

とあるので、夜八時~九時頃に、五島列島を遠く離れた西の海域で四船は、散りぢりになったようです。そして、福州近くの赤岸鎭に漂着する8月10日まで34日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいたことになります。

空海入唐 空海と最澄の漂着地
三井楽を最終寄港地とする立場の航路図
 松浦郡田浦を出て、翌日の7月7日の夜には、漂流を始めたのです。最終寄港地は「肥前国松浦郡田浦」です。今の平戸市北端の田浦の岬の上には弘法大師像が建立され、平戸市と善通寺市が姉妹都市を締結しているようです。
平戸の史跡・名所案内|旅館田の浦温泉(公式ホームページ)
平戸市田浦の弘法大師像

 これに対して五島列島の三井楽町柏崎の海辺には、「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っているようです。
三井楽(みみらくの島)(五島市)
三井楽町柏崎の「辞本涯」 
三井楽も空海が参加した第十六次遣唐使船団の最終寄港地だと名乗りを上げているようです。しかし、つまり平戸と、三井楽では最終寄港地をめぐる争論が展開されてきたのです。

 最澄の乗った第2船は、7月下旬に、明州郡県に漂着し、9月1日には判官菅原清公以下27名が、明州を発ち長安に出発しています。
それでは第3・4船は、どうなったのでしょうか。
「空海の風景」には、次のように記されています。

「第三、第四両船、火信応ゼズ」と書いている。火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている。
  
   司馬遼太郎氏は、第3・4船は海に消えたというのです。
しかし、史書には2隻は遭難エリアから那ノ津(大宰府)に引き返していることが記されています。そして、船体修理後に翌年の延暦24年7月4日に、肥前国松浦郡庇良島(平戸の田ノ浦)から、遠値賀島(五島列島の福江島)に向けて出港しています。瀬戸内海での難破から数えると3度目の出港になります。ところが第三船は、出港まもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は船を捨てて上陸します。船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったようです。

空海入唐 田浦

第3船の難破事件は大宰府から朝廷に、次のように報告されています。
 遣唐使第3船は、805年7月4日、肥前国松浦郡庇良島から遠値嘉島をさして出帆したところ、南風にあって孤島に漂着し、船は岩間にはさまれ、海水に満たされてしまった。そこで責任者の今嗣らは岸に上がって脱出した。が、船の積荷は公物・私物何一つとして船からおろす暇もなかった。船には数名の射手を残していたが、結が切れて漂流しはじめ、その行方はわからなくなった

  これは、責任問題となったようです。船を見捨て下船した今嗣に対する処罰記事が「日本後紀」にはあります。
船の最高責任者の使命を忘れて、みずからの命をながらえることのみを考え、船の積荷を放棄し、下船した責任を問うて厳罰を加えるべし、との勅が下されます。これは、当然のことでしょう、船長が乗船者がいる舟を放棄しているのですから。どちらにしても、第3船は3度目の出航後に、五島列島の北で座礁難破し、漂流を開始し行方不明になります。3度出港し、一度も渡海できなかった船になるようです。
  最後に第4船を見ておきましょう
第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆します。今見たように第三船は、運悪く三たび難破します。これに対して、遣唐副使判官の高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)を乗せた第四船は、「三度目の正直」で中国にたどり着きます。高階遠成は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀にも参列する栄華を得ます。この時に空海は、密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後だったのです。そこに、突然に、遣唐使がやってきたことになります。前回、お話ししたように、空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,やてきた高階遠成に相談したのでしょう。空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国できるようになったのは、この遣唐使船がやってきたからです。それだけではありません。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
「与本国使諸共帰啓」
空海が皇帝に「与本国使諸共帰啓」を上申書を提出することを認めたからです。これは、現地での彼の独断です。帰国後に朝廷からの処罰を受ける可能性もあったはずです。もし、遠成の許可がなければ、空海の帰国は実現しなかったのです。そういう意味では、遠成は空海の密教招来に手を貸すという大役を果たしたことになります。また彼は皇帝代替わりの新年朝貢の儀にも参列し、中国の史書に名前をとどめる栄誉をうけてもいます。ちなみに空海の名前は、史書にはありません。また他の中国側の史料にも空海の名前はありません。

高階遠成略年譜──空海を連れて帰った人   
806 1 空海・橘逸勢が、高階真人遠成とともに帰国することを請う(性霊集5)
806 8 遠成が空海等とともに、明州を発ち、帰国の途につく
806 10/22 空海が高階真人遠成に託して「新請来経等目録』を進献す(御請来目録)
806 12/13 遣唐判官正六位上高階真人遠成、復命す。
この日、従五位上を特授される(類衆国史99)
811 5/10 従五位上高階真人遠成、主計頭となる
   6/16 従五位上高階真人遠成、民部少輔となる(同右)
812 3/12 民部少輔高階真人、高雄山寺において空海から結縁灌頂を受く
12/19 「従五位下少輔高階真人遠成」と民部省符に署名す(平安遺文1)
813 2/13 従五位上高階真人遠成、大和介となる(日本後紀22)
815 1/7 従五位上高階真人遠成、正五位下に叙せらる(日本後紀24・類衆国史99)
816 1/7 正五位下高階真人遠成、従四位下に叙せらる(類衆国史99)
818 3/21 散位従四位下高階真人遠成、卒す。年六十三(日本紀略前篇14)
  

以上をまとめておくと
①空海が遣唐使の留学僧に選ばれる前年に、遣唐使船は一度出港していた。
②しかし、その時には出航後わずか5日後の瀬戸内海で難破し、航行不能となった。
③翌年に改めて遣唐使船は出港するが、この時に空海は第1船に乗り組んでいる。
④平戸の北の田浦を出た4船は、五島列島を目指すが強風にあり散りじりになった
⑤空海の乗った第1船と、最澄の乗った第2船は、それぞれ中国に漂着し、長安を目指した。
⑥しかし、第3・4船は船に大きなダメージを受けて博多に引っ返し、1年かけて修理した。
⑦そして、再再度出港したが第3船は、孤島に漂着し破船・漂泊、
⑧第4船は3度目の挑戦で入唐を果たし、遣唐副使判官の高階真人遠成長安を皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

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遣唐使船の船頭で悪霊退散を祈願する空海

空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていた。そのため最初から空海は20年も長安に留まるつもりはなかった、短期間での帰国を考えていた、というものです。空海を超人化するストーリーとしては、こちらの方が人々に受けいれやすいので、最近の小説などではこの説で空海の入唐求法を描くものが多いようです。たとえば次のような筋書きです。
①四国などの山林修行での神秘的体験から密教への指向を強める若き日の空海
②修験と密教の統合のための模索と大日経読破
③大日経を読んだだけでは密教を「獲得」できない。潅頂儀式のための入唐求法
つまり、空海は密教の8割方を理解した上で、あとは書物では分からない潅頂関係だけを学ぶために目的を限定して入唐したという説です。しかし、前回お話ししたように、入唐以前の空海は「密教」という言葉を使っていません。「密蔵」という言葉を使っています。ここからは、入唐以前には空海は「密教」という全体概念をしらなかったことがうかがえます。密教の一部を知っていても、密教全体を分かっていたというレベルには達していなかったと研究者は考えているようです。
「空海入唐目的=潅頂受法」説の代表が、平井宥慶「弘法大師入唐の意図」で、ここには次のように記されています。
我々がかんがえる大師の入唐意図、それも「唯一」の意図を述へなければならないときがきた。我々は、大師は灌頂受法のため、それも日本を出発するときからそのことをきちんと意識しておらるものだ。その第一の資料は、〈帰啓〉の文である。
 ここで述べられた内容は、長安城にあって、般若三蔵と恵果和尚に遇い、五部・喩伽の灌頂法に沐したという事実で、しかもそれ「唯一」であるということになる。いうなれば、これが入唐の成果である。
 いま灌頂受法を堂々と宣言しているのは、その事実によほどの自信と自負が存在することを認めなければならない。その自信と自負は長安へ行ってたまたま受法できたから、ということで生まれるものであろうか。これは、出発以前に大師の心内に確平たる目的意識として確立していたればこそ、と思考するものだ。ということは必然的に、恵果和尚に遇うことも計算にはいっていたということになる。大師はそういう大陸の情報をいかにして手に入れていたか、残念ながら我々はまだその直接証拠をみいだしていない。
・灌頂受法がきわめて重大事であること 究極の法であることは論を待たない。(中略)密教の授受は師弟の面綬によらなければ不可能だ。
 この灌頂という受法行為なら、それほど期日はかからない。少なくとも20年はかからない。大師はもしかしたら、闘期の罪の状態で帰国があり得ることを予測していたことも考えられる。(以下略)
ここからは、平井氏は空海は入唐以前に密教の全体像を知った上で、入唐目的を潅頂受法のためと絞り込んでいたとします。そして、短期間での受法も可能であったと入唐以前に考えていたというのです。その根拠を「帰啓」に求めます。「帰啓」とは何なのでしょうか。〈帰啓〉とは、『与本国使諸共帰啓一首』(本国の使に与えて共に帰らんと請う啓)の略称のようです。「本国の使」とは、遣唐判官・高階真人遠成のことを指すようです。この遠成が帰国する船に便乗して一緒に帰りたい、と願いでたときの文章が、この〈帰啓〉です。

空海と惠果
恵果と空海

〈帰啓)が書かれるにいたった経緯を、見ておきましょう。
恵果阿闇梨は、空海への授法で使命を終えたかのように、永貞元年(805)12月15日、青龍寺東塔院で亡くなります。空海は、弟子を代表して、師の生涯を讃嘆する「恵果和尚の碑文」の撰文と揮音宅を行なったとされます。葬送の儀式は、翌年正月17日の埋葬の儀で、一段落したのでしょう。〈帰啓)は、この直後に書かれたようです。
 実は、この時に唐にやってきていたのが遣唐副使判官高階真人遠成(たかしなりまひとうとなり)でした。彼は、大同元年(806)正月,皇帝の代替わりの新年朝貢の儀に、参列しています。空海を乗せてきた船が帰国したばかりなのに、どうしてすぐに遣唐使船がやってきたのでしょうか。次の2つの説が出されています。
①皇帝代替わり使節団として新たに派遣された
②空海の入唐時に派遣された第4船が難破修理後に、遅れて到着した。
このことについては、別の機会に詳しく見るとして、ここでは空海が密教伝授を終え、恵果が亡くなった直後に、遣唐使船が現れたということを押さえておきます。
空海はこの期をとらえて本国に帰ろうとし,唐朝に啓を上奏します。
これが「与本国使諸共帰啓」のようです。もともと、空海の唐留学は20年の予定でした。それをわずか1年半で切り上げて帰国しようというのです。前代未聞のことです。これも空海にとって織り込み済みであったとする小説もあります。
 もし、この願いが許されなかったら,江南の貿易者の日本行きの私船で帰ることができたでしょうか。それは国費留学生という身分からして、できない相談だったようです。留学生は,皇帝の認可を受けて長安に滞在している以上,唐を離れるのは皇帝の許可が必要でした。その許可は,日本国を代表する大使の奏上がなければ許可されることはありません。それが律令のルールでした。もし、空海が高階遠成の船で帰国しできていなければ、その帰国は20年先だったかもしれませんし、阿倍仲麻呂のように帰国ができなかった可能性もありました。そうすれば真言密教も,高野山も姿はなかったことになります。
そういう意味では、空海の生涯を大きく支配した一文が『与本国使諸共帰啓一首』ということになるようです。
入唐 『与本国使諸共帰啓一首』
          空海書 与本国使諸共帰啓

この書は,縦約30㎝,横55㎝の紙本で、現在は御物として保存されているようです。大同元年(806)の正月に唐の都長安で書写されたもので、18行,238字の上書です。
最初に題名として『与本国使諸共帰啓一首』と書かれていますが、下に行くほど左に曲がっています。バランスもよくありません。次に「留学学問僧の空海啓す」とあります。この文章中には欠語や誤謬があることが指摘されています。上奏書とは思えない書体と内容です。

 「空海は,これを元にして楷書で浄書し大唐皇帝に奏上した」

と研究者は考えているようです。そして,草稿として書かれたこの書が,空海の書箱に収められ,帰朝にあたって持参されたという筋書きになります。

『与本国使諸共帰啓一首』の本文を見ておきましょう。
ア、留住学問の僧、空海啓す。某(それがし)、器、楚材に乏しく、聡、五行を謝せり。謬(あやま)って求撥(ぐはち)を濫りがはしくして、海を渉って来る。
イ、草履を著けて城中を歴るに、幸いに中天竺国の般若三蔵、及び内供奉恵果大阿闇梨に遇いたてまつって、膝歩接足して彼の甘露を仰ぐ。
ウ、遂に乃ち、大悲胎蔵・金剛界大部の大曼荼羅に入って、五部の喩伽の灌頂法に沐す。冶(さん)を忘れて読に耽り、仮寝(かりね)して大悲胎蔵・金剛頂等を書写す.己でに指南を蒙って、之の文義を記す。兼ねて胎蔵大曼茶羅一鋪、金剛界九会大曼茶羅一鋪を図す〈並びに七幅丈五尺〉。丼せて新翻訳の経二百巻を写し、繕装畢ヘなんとす。
エ、此の法は、仏の心、国の鎮なり。熟(わざわ)いを攘(はら)い、祉(さいわ)いを招くの摩尼、凡を脱(まぬか)れ聖に入るの嵯径なり。是の故に、十年の功、之を四運に兼ね、三密の印、之を一志に貫く。此の明珠を兼ねて、之を天命に答す。
オ、たとい、久しく他郷に客たりとも、領(くび)を皇華に引かん。白駒過ぎ易く、黄髪何(い)かんがせん。今、腫願(ろうかん)に任えず。奉啓不宣。謹んで啓す。
意訳変換しておくと
  本国の使に与へて共に帰らむと請ふ啓一首
ア 留住(留学)学問の僧空海が上奏いたします。私空海の器(器量・才能)は乏しく,聡明さは応奉には及びません。仏法を求めてはるばる海を渉ってやってまいりました
イ 草履をすり減らし師を求めて歩き廻り、城中(唐の長安)を巡るに、幸ひにも中天竺國(インド中部)の般若三蔵の供奉(宮中の内道場に供奉する僧)恵果大阿闍梨にお会いすることができました。膝歩接足(膝であゆみ,師の足に頭をつけて,礼拝すること・師への礼)して彼の甘露(教え)を仰ぎ。
ウ ついに大悲胎蔵金剛界大部(一切の法門統摂した教え)の大曼荼羅に入って,五部瑜伽(五智の瓶水を頭上に注ぐこと・瑜伽は相応の意であり,金胎両部に通ずること)の灌頂法(インド古代の国王即位式にならった密教伝承の儀式)を伝授されました。
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密教経典の写経をおこなう僧
濃(食事)を忘れて讃に耽る,假牒して大悲胎蔵(大日経類)金剛頂(金剛頂経類)等を書き写し、指南を受けて文義(意味内容)を記しました。兼ねて胎蔵大曼荼羅鋪(一幅),金剛界九會(金剛界の諸仏の像)大曼荼羅一鋪を写しました。さらに七幅丈五尺拝のせて新翻鐸輕二百鯨巻を書写して、繕装(表装)も終えました。
弘法大師 誕生と長安での書写1
書写作業を見守る空海
エ この法は仏の心で,仏法の真髄は國の鎮(鎮護国家法)でもあります。禍をはらいのけ、善福を招く摩尼宝珠は凡夫を脱れ、聖に入る峻厘(近路)です。それゆえに二十年の功を一年で兼ね具えることができるました。三密の印(身・口・意の三秘密の印契。密教の教え)を一心によく体得することができました。この明珠(明月のような光を放つ宝珠)を兼ねて、これを之を天命(桓武天皇の勅命)に応えようと思います。

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密教法具の作成
オ もしこのまま大唐帝国の客として,遣唐使を待っていたら白駒(歳月)は過ぎ去ってしまいます。私は老人となって髪が黄色になってしまいます。今,随願(いやしい願い)ではありますが奉啓不宣(述べつくさないの意)謹むでまう啓す。

 帰国できるがどうか、空海の生涯のターニングポイントで書かれた奏上文です。内容的には、くどくどと述べることなく簡潔でシンプルです。中国の古典や詩句の一部が各所にちりばめられていて、その素養の高さを示す内容です。しかも、その中に長安での空海の学究,求道の内容が網羅されていて,帰国して果すべきことも暗示され,その言わんとすることも伝わってきます。中国の担当官僚の心を動かす文章と云えるようです。
ここには空海の帰国の意志が表明されていますが、なぜ、帰国を決意したのでしょうか。
その理由としては、次のことが考えられます。
①長安には、恵果和尚に勝る阿閣梨がいなかったこと、
②この機会を逃せば、いつ帰国できるかわからなかったこと、
ちなみに、つぎの遣唐使が長安にやってきたのは、32年後の承和五年(838)12月、空海が亡くなってから3年後のことです。
 帰国を決意した最大の理由の一つは、恵果阿閣梨が亡くなったこと、その師が臨終に際して残した遺命であったと、研究者は考えているようです。恵果の遺命は、その後の空海の宗教的・社会的活動の指針となった、判断に困ったようなときには、空海の脳裏に、師の生涯とともにこの遺命が思い起こされたと云うのです。
圓應寺|円応寺|真言宗智山派 大慈山|山形市|永代供養 » 弘法大師・空海 恵果和尚からの密教伝授
 恵果と空海
恵果和尚の遺命とは、『御請来目録』にみられる次の文章です。

ア、今、此の上の縁尽きぬ。久しく住すること能はず。宜しくこの両部大曼茶羅、 一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等、請う、本郷に帰りて海内に流伝すべし。編かに汝が来れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今、則ち授法の在る有り。経像の功、畢んぬ。

イ、早く郷国に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば四海泰く、万人楽しまん。是れ則ち、仏恩を報じ、師の徳を報ずるなり。国の為には忠、家に於ては孝なり.

意訳変換しておくと
ア、今まさに、師と弟子として縁が尽きようとしている。ここに及んで、長安に留まるべきではない。この両部大曼茶羅や一百余部の金剛乗の法、及び三蔵転付の物、並びに供養の具等を、本郷(日本)に持ち帰り、国内に伝えるべし。以前から汝(空海)が長安にやって来ることは分かっていたが、私の余命の及ばないことを怖れていた。今、授法は全て終わった。経像の功も引き継がれた。

イ、しかる上は一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布して、民人たちの蒼生(善福)のために尽くせ。そうすれば四海は治まり、万人は平穏な生活が送れるようになる。これこそが仏恩を報じ、師の徳に報いる道である。国の為には忠、家におては孝である。

 ここには「一日も早く郷国(日本)に帰り、もって国家に奉り、天下に流布」せよと恵果は空海に命じたと書かれています。この恵果和尚の遺命を受けて、空海は帰国を決意するようになったと研究者は考えているようです。つまり、空海は入唐以前から潅頂を含めて密教伝授が短期間で終わるとは思っていなかったとするのです。もっと突っ込んで云うと、空海は入唐以前には、潅頂がどんなものかを分かっていなかったことになります。
 空海が入唐するまでに、『大日経』を読んでいたことは間違いないと研究者は考えているようです。とすると、「灌頂」なることばは知っていたでしょう。しかし「灌頂」が具体的にどんなものであるのかについては、正しく理解していたとは云えないようです。

先ほど見たように、空海の入唐求法について書かれた本の中には、空海は唐に出発するまえに、次のことを知っていた記すものがあります。
①密教には、「灌頂」が不可欠であり、面授を必要とすること。
②「灌頂」の師となる恵果和尚が長安におられること。
③「灌頂」には、それほどの期日を要しないこと。

③については、確かに空海の灌頂受法は、足かけ三ヵ月でした。それを空海が事前に知っていたとすれば、短期間の滞在でよい還学僧(請益僧)でよかったのではないでしょうか。事実、同行した最澄は、こちらを選択しています。どうして空海は、二十年も滞在しなければならない長期の留学僧となったのでしょうか。

 別の視点から見てみましょう。本来の潅頂は、3ヵ月で終わるものだったのでしょうか。
天長八年(831)10月24日付の比叡山・円澄らの書状は、持明灌頂(結縁灌頂)を受法した最澄とその師・空海との次のようなやりとりが記されています。
   即ち、和上(空海)に問うて云はく、大法の儀軌を受けんこと、幾月にか得せしめんや、と。(空海が)答えて日はく、三年にして、功を畢えん、と。

ここには、ずっと伝法灌頂の受法を願っていた最澄が、実際に空海から受法した灌頂は結縁灌頂であったこと。そこで、最澄は「念願の伝法灌頂を受けるには、いく月ほどの修行・勉学が必要であろうか」と質問します。これに対して、空海は「あなたの能力をもってしても、あと3年修学してください」と答えた、と記されます。

伝法灌頂について | 嗚呼!日々是☆サマーディ-------------Momoのブログ

 最澄が最初の持明灌頂(結縁灌頂)を受けたのが弘仁三年(812)のことですから、それから数えると19年が経っています。それに加えて、最澄でも「あと3年の修行が必要」と答えているのです。空海が恵果和尚から三ヵ月あまりで受法されたことは基準にはならない、つまり、あの伝授は特別なものであったと空海は考えていたようです。

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傳法灌頂 三摩耶戒大阿次第


 今日残る史料からも、空海が入唐される以前の史料には、灌頂受法がわが国行われたの記録は見当たらないことを研究者は報告し、次のように記します。
  密教儀礼としての灌頂をわが国で最初に行なったのは最澄であり、それは延暦二十四年(805)九月、高雄山寺においてのことであった。この時期は、ちょうど空海が恵果和尚からの三度にわたる灌頂受法を、とどこおりなく終えた時期にあたる。ここからは、空海の入唐以前に、わが国の仏教界で、密教儀礼の灌頂については、十分に理解していた人物がいたとは思えない。

入唐 遣唐使船

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法や灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の四国での求聞持法修行によって体感した強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④その導師となったのが恵果で、彼の遺命で短期での帰国を決意するようになった。
⑤皇帝への帰国願いが『与本国使諸共帰啓』で、これが受けいれられ帰国が許された。
⑥空海が「密教」という言葉を使うようになったのは、帰国後のことである。
前回と結論は同じになります。
  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年
関連記事

       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

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室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

正倉院文書と写経所の研究 | 山下 有美 |本 | 通販 | Amazon

正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
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       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
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このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

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