瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海入唐求法

遺道相伝1 高野空海行状図画
遺具相伝(高野空海行状図画)

高野空海行状図画や弘法大師行状絵詞で、空海の入唐求法がどのように描かれているのかを追いかけています。

遺道相伝2 高野空海行状図画
       高野空海行状図画    第二巻‐第5場面 道具相伝  

この場面は、正統な密教を受け継いだしるしとして、袈裟が恵果和尚から空海に渡されようとしている「遺具相伝」の場面です。

袈裟をもつのが恵果和尚、手を差出して受け取ろうとしているのが空海です。         
この袈裟が御請来目録に、恵果から相伝したとして記される健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)です。健陀とは袈裟の色調を、穀糸は綴織技法を示すとされます。仏教では、捨てられたぼろぎれを集め縫いつないだ生地で作られた袈裟を最上とし、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼びます。この袈裟も、さまざまな色や形の小さな裂を縫い留めた糞掃衣のように見えますが、実際には綴織に縫い糸を表現する絵緯糸(えぬきいと)を加え、糞掃衣を模した織物であると研究者は指摘します。この袈裟は、今も東寺に保管されているようです。それを見ておきましょう。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)
原形をとどめない健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)

傷みが激しくその原形を留めていないようです。というのも、空海が天皇の五体安穏と五穀豊穣を祈念する始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)には、導師を勤める阿闍梨がこの袈裟を着るしきたりだったからです。そういう意味では、この袈裟は真言宗においては、別格の位置を占める袈裟だったことになります。そのため長年の使用で、原型も留めないほどに痛んでいます。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)復刻
                  健陀穀子袈裟 復刻版

 2023年10月の真言宗立教開宗1200年慶讃大法会の開催に向けて、東寺ではこの袈裟を復刻したようです。それが上記の復刻版になります。紫色や赤などのもっと派手な色使いのモノと思っていたのですがシックです。

招来目録冒頭1
空海の御招来目録
空海の朝廷への帰国報告書である『御招来目録』については、恵果から正式に法を伝授したしるし(印信)として、以下のものを受け継いだと記します。
①仏舎利八十粒(金色の舎利一粒)
②白檀を刻す仏・菩薩・金剛などの像
③白緋大曼荼羅尊四百四十七巻
④白諜金剛界三昧耶曼荼羅尊 百二十巻
⑤五宝三昧味耶金剛       一口
⑥金鋼鉢子一具         二口
⑦牙床子         一口
白螺貝        一口
   これらは金剛智・不空・恵果と相伝されてきたもの8種です。①の仏含利と⑧の白螺貝は東寺に、②は金剛峯寺に、いまも伝存するようです。

白螺貝はシャンクガイ
 白螺貝はシャンクガイのことで、インドでは古くから聖貝として珍重され、メディテーションツールや楽器としても使用されてきました。その中でも左巻きのシャンクガイは特に貴重とされており、宝貝中の宝貝として尊ばれきたようです。
一方、恵果和尚自身が使用していたものは、次の5つです。
⑨健陀穀子袈裟          一領
⑩碧瑠璃供養碗   二口
⑪琥珀供養碗     一口
⑫白瑠璃供養碗   一口
⑬紺瑠璃箸     一具
このうちで、いまも伝存するのは先ほど見た⑨健陀穀子袈裟だけのようです。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。

恵果和尚入滅1
恵果御入滅

恵果和尚入滅2.jpg 高野空海行状図画
第3巻‐第6場面 恵果入滅 
恵果和尚の人寂場面です。永貞9(805)12月15日のことで、行年61歳でした。
空海の「恵果碑文」(『性霊集』巻3)には、次のように記します。

「金剛界大日如来の智拳印をむすび、右脇を下にして円寂なされた」

しかし、この絵では、智拳印ではなく、外縛(げばく)印となっていると研究者は指摘します。それはともあれ、まん中に恵果和尚、その周りを弟子が取り囲む構図は、お釈迦さまの混槃図にの構図と同じです。その後の鎌倉新宗教の祖師たちの入滅場面も、同じような構図が多いようです。その原形になったともいえるのかもしれません。

恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』には、恵果の遺言が次のように記されています。
 師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。(それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。
 それは和尚が亡くなる日の夜のことである。死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。
「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。
 このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
 孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。
長々と引用しましたが、この文章の中で伝えたいことは、恵果の次の遺命でしょう。

「あなたには、私の持っているものをすべて伝えた。だから、一日も早く日本に帰りなさい。そうして、この教えをもって天皇にお仕えし、日本国の鎮護を、また人々の幸せを折りなさい」

このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない

20年という長期留学僧の年期にこだわらず、早期帰国を恵果も進めた。師の言葉には従わざるえないということです。ここからは短期で帰国することに、強い葛藤があったことがうかがえます。

恵果の蘇り 高野空海行状図画
                第3巻‐第7場面 恵果影現(ようげん)   
恵果和尚が人寂した夜、空海は一人で道場で冥想していると、その場に恵果が現れたという場面です。このとき恵果は、次のように空海に語ったとされます。

あなたと私のえにしは極めて深く、師資(しし)(師と弟子)の関係も一度や二度だけのものではない。このたびは、あなたが西行して私から法を受けられた。つぎは、私が東国に生れ、あなたの弟子となろう」

この夜の出来事が空海をして、留学を打ち切り帰国する決意を固めさせたとされます。国家の定めた留学期間を、個人の判断で短縮することは、許されることではありません。敢えてそれを破ろうとするからには、それだけの動機と理由が必要になります。そのひとつとして「恵果影現」が織り込まれているようです。

 空海は、翌年正月十七日の埋葬の儀の時に、弟子を代表して「恵果碑文」(正式には,「大唐神都青龍寺故三朝の師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」)を書きます。そこには恵果和尚の人柄を次のように記します。
「…縦使(たとひ)財帛軫(しん)を接し,田園頃(けい)を比(なら)ぶるも,
受くる有りて貯ふること無く,資生を屑(いさぎよ)しとせず。
或いは大曼荼羅(まんだら)を建て,或いは僧伽藍処(そうがらんしょ)を修す。
貧を済(すく)ふには財を以てし,愚を導くには法を以てす。
財を積まざるを以て心と為し,法を恡(を)しまざるを以て性と為す。
故に,若しくは尊,若しくは卑,虚(むな)しく往きて実(み)ちて帰り,
近き自(よ)り遠き自り,光を尋ねて集会(しゅうえ)するを得たり。」
(「遍照発揮性霊集・巻第2」『弘法大師・空海全集・第6巻』筑摩書房所収)
意訳変換しておくと
「(恵果和尚は)…たとえ,数多(あまた)の財宝・田園などを寄進(寄附)されても,
受け取るだけで貯えようとせず,財産作りをいさぎよしとしなかった。
(寄進を受けた財産については)あるいは大曼荼羅の制作費にあて,あるいは,寺院の建設費にあてられた。貧しい方には,惜しみなく財貨を与え,愚民を導くには,仏法を説かれた。財貨を貯蓄しないことを方針とし,仏法の教授に力をおしまないことをモットーとした。それ故に,尊貴な者も卑賤の者も,空虚な身で(恵果和尚のもとへ)出かけて満ち足りて返り,遠近から多くの人々が,光を求めて集まる結果となった。」
恵果のポリシーや生き方がよくうかがえます。このような生き方からも空海は、多くのことを学んだはずです。こうして一連の仏事をおえます。
このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
今回は、ここまでにしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
武内孝善/弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く

参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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DSC04584
弘法大師行状絵詞の詞書 遣唐使帰国後の空海の動静
空海は、遣唐大使の一行が長安を離れた帰国の道に着いた後、805(永貞元)年2月11日、西市の東南の角にあった西明寺の永忠(ようちゅう)和尚の故院に移り住みます。そして、本格的な留学生活に入ります。空海が最初に学んだことは、密教の伝授・潅頂を受けるために欠かせない梵語の習得だったと研究者は考えています。その先生は礼泉寺の北インド出身の般若三蔵とインド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵でした。

DSC04587青竜寺での恵果と空海
長安・青龍寺での恵果和尚と空海の出会い(弘法大師行状絵詞)

空海が恵果和尚を訪ねたのは、同じ年の5月末のころのようです。
『御請来目録』には、西明寺の志明・談勝ら数人とともに、青龍寺東搭院に恵果和尚を訪ねたところ、初対面の空海に対して、次のように話したと記します。
我、先より汝が来らんことを知りて、相待つこと久し,今日相見ること大だ好し、人だ好し。報命尽きなんと欲するに、付法に人なし。必ず須く速かに香化を辯じて、潅頂に入るべし、と                       「定本空海全集』一  35P
意訳変換しておくと
①あなたが私のところを訪ねてくる日を、首を長くして待っていた。
②今日、会うことが出来て、とても嬉しく思う。
③私の寿命は、もはや尽きようとしているが、正式に法を授ける人がえられず、心配していた
④いま、あなたと出逢い、付法の人であることを知った。すみやかに潅頂に入りなさい。
こうして空海への潅頂受法が次のように進みます。
6月上旬に入悲胎蔵生
7月上句に金剛界
8月上旬に伝法阿閣梨位
こうしてインド直伝の正当な密教を空海は受法し、「遍照金剛」の湛頂名を授かります。この潅頂名は、6月・7月の2度の潅頂の時に敷曼荼羅の上に花を投げたところ(投花得仏)、二度とも中尊・大日如来の上に花がおらたことによるとされます。これを見て恵果は、「不可思議なり、不可思議なり」と、感嘆の声を発せられたと伝えられます。

潅頂1 高野空海行状図画
空海の潅頂 (高野空海行状図画)

空海の入唐の中で最も重要な成果とされる潅頂受法の場面です。

空海潅頂 青竜寺 高野空海行状図画
空海潅頂(高野空海行状図画) 天蓋の下に描かれるのは空海のみ



高野空海行状図画 潅頂2
青瀧寺での空海潅頂受法(高野空海行状図画)
天蓋をさしかけられ、粛々と湛頂道場にむかう恵果(けいか)和尚。その和尚に付きしたがう空海、
時代が下ると2人になる?

大師長安滞在2
空海の潅頂(弘法大師行状絵詞)
ほら貝・繞(にょう)・銅鑼(どら)などをもって先導する色衆の僧達。向かう先は、青龍寺東塔院の潅頂道場です。
潅頂頂道場について、恵果和尚の直弟子のひとり呉殷の撰『恵呆阿間梨行状』は、次のように記します。
湛頂殿の内、浮屠(ふと)の塔の下、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び一々の尊曼荼羅を図絵す。衆聖粛然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧き容(かたち)に還る。一たび視、一たび礼するもの、罪を消し福を積む。(『定本全集』第一。111P)

意訳変換しておくと
湛頂殿の内や、浮屠(ふと:卒塔婆)の塔の下、内外の壁面には、すきまなく曼荼羅・諸仏・諸尊が画かれていている。それはあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった。ひとたび、この世界を見たものは罪が消え、福を積む

しかし、潅頂道場は描かれてはいません。

密教ではお経とかテキスト、教科書のようなものだけで勉強しても本質は伝わらないということを重視します。
師から弟子へ教えを受け継ぐ際に行われる儀式が灌頂です。灌頂の「灌」というのは、水を注ぐという意味。頂というのは頭の頂です。師が水をたたえたコップだとします。そのなかに入っている水は密教という教え。それを弟子に受け継ぐときには師匠のコップから弟子のコップに注いで、こぼれないように移すというイメージです。ですから人から人に伝わらないと正式な教えは伝わらないということになります。まさに口伝なのです。

 密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視します。こうして師から弟子に教えが受けつがれると血脈(法脈)という系図のようなものが出来上がっていきます。その原型がここに描かれていることになります。真言密教の僧侶が潅頂を受けるときに、思い描いたイメージはここにあるようです。

潅頂式典の後は、青竜寺の食堂での宴が開かれます。詞書には、次のように記します。
「この日、五百の僧、齊をもうけ、遍く四衆を供養したまいし」

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青竜寺の食堂右側

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青竜寺の食堂左 五百人の僧が参加した空海潅頂の宴(弘法大師行状絵詞)

私が気になるのは、「この潅頂の宴の経費は。どこから捻出されたか?」ということです。空海の自腹なのでしょうか、恵果の好意なのでしょうか。普通は灌腸を受けた者が、お礼に設ける席なので空海だと思うのですが、空海にそれだけの経済力があったのでしょうか。この当たりは、また別の機会にお話しします。

一方で、空海への潅頂については、批判や異議を唱えるものもいたようです。

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珍賀怨念(弘法大師行状絵詞)

弘法大師行状絵詞には、恵果和尚の兄弟弟子に順暁(じゅんぎょう)阿閣梨がいて、その弟子に上堂寺の珍賀という僧侶がいました。珍賀は、恵果和尚がいとも簡単に空海に密教を授けようとすることを再三非難して、中止を求めたことが次のように記されています。

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恵果和尚に諫言する珍賀(弘法大師行状絵詞)

門徒でない空海に、どうして密教を伝授なさるのか、このことについては、私は納得ができません。ただちに中止していただきたい。


ところが詞書には、ある夜の夢の中に四天王が現れ、妨害をする珍賀を責め立てたと記します。それがこの場面になります。
弟子のそねみ
「珍賀怨念」 夢の中で四天王が珍賀を責め立てる(高野空海行状図画)
「何とぞおゆるしを」と叫ぶ珍賀の声が聞こえてきそうです。非をさとった珍賀は、翌朝に空海を訪ね、非礼を心から詫びます。それが次のシーンです。

珍賀・守敏
 空海に非を詫びる珍賀
密教僧が守るべき戒である「三味耶戒」では、法を惜しんではならないと厳しく戒めています。また、密教では夢が重要視されました。ちなみに、珍賀の師とされる順暁阿間梨は越州(紹興)で、最澄に「三部三味耶の灌頂」を授けた密教の阿閣梨でもあるようですが、その経歴はよく分かならないようです。 以上からは、空海に対して短期間で潅頂が進められたことについて、周囲からは不満や批判的な声も挙がっていたことがうかがえます。
次の場面は、興福寺の僧守敏の護法(仏法を守護する鬼神)が、恵果和尚からの受法を盗み聞きしているところです。
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            弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
空海が恵果和尚より胎蔵界の教えを授かっています。赤い経机の上に香炉と仏具を置いて、経典を開きながら教えを授けるのが恵果、その前の香色の僧衣を纏うのが空海。この絵には、壁の外側からのぞき込み鬼神が描かれています。これが興福寺の守敏が長安まで遣わした「護法」だと云うのです。空海は、これを知りながら胎蔵法潅頂のときは見逃してやります。しかし、金剛界法のときは結界を張って近づかせなかったと詞書には記します。

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空海によって張られた結界 弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
赤い炎が建物の周りをめぐり、結界となって鬼神を追い払っています。ちなみに興福寺の守敏は、八巻の第1段「神泉析雨」第2段の「守敏降伏」にも、雨乞祈祷に登場してきます。空海とたびたび呪術争いを演していて、真言僧侶達からは「敵役」と目されていたようですが、その経歴などについてはよく分からないようです。ここからも、空海の潅頂を巡っては、いろいろな波風が立っていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

虚空書字 「高野大師行状図画」 巻第二 
虚空書字(高野空海行状図画)
前回お話しした「五筆和尚」の次に出てくるのが「虚空書字」です。「五筆和尚」として名声を高めた空海に対して、文殊菩薩が腕試しを挑んでくるという設定です。今回は、このお話ししについて見ていくことにします。

虚空書字 「高野大師行状図画」3
「虚空書字」 赤い服を着た文殊菩薩の化身と空海が虚空に文字を書いている(高野空海行状図画)

書の腕前を丈殊善薩の化身である五弊童子と競い合う場面です。赤い服を着た童子が文殊菩薩の化身です。場所は長安城中の川のほとり。そこで童子から、「あなたが五筆和尚ですか。虚空に字を書いでいただけませんか」と声をかけられます。空海が気安く書くと、童子も書きます。すると二人の書いた文字が、いつまでも虚空に浮んでいたという話です。

虚空書字 「高野大師行状図画」4
「虚空書字」 流れる水に「龍」と書く
次に 童子は「流れる水の上にも書いてください」とも云います。空海が書い文字は、形が乱れることなく流れていきます。続いて童子は「龍」の字を書きます。その時に、わざと最後の点を打ちません。「なぜ」と問うと「あなたがどうぞ」と応じます。そこで、空海が点を打つと、「龍」の姿になって、たちまち昇天します。童子は、五台山の文殊杵薩の化身であった、というオチがつきます。
 文殊菩薩の化身である童子が龍を描き、最後に眼に点を入れると本物の龍なる、「画龍点晴」のお話です。これが描かれているのが「虚空書字」です。

虚空書字2
流水書字と龍
「虚空書字」に出てくる文殊菩薩は、学問の仏さまとして受験期には随分ともてはやされる仏さまです。これが書にも通じるとされたいたようです。しかし、どうして、文殊菩薩を登場させるのでしょうか。その疑問は一端おいておくことにして、空海は、長安の高級官僚などの文人や僧侶と、交流を持つようになります。それが垣間見える史料を見ておきます。
M1817●江戸和本●性霊集 遍照発揮性霊集 明治初年 3冊本★ゆうパック着払い
空海の漢詩文集『性霊集』の序文には、泉州(福建省)の別駕(次官)でもあった馬惚(ばそう)から空海に贈られた次のような漢詩が載せられています。
何乃出里来  何ぞ乃高里より来たれる、
可非衡其才  其のオを行うに非るべし
増学助玄機  増すます学んで玄機を助けよ、
土人如子稀  上人すら子が如きは稀なり`
  意訳変換しておくと
あなたは、いかなる理由があつて万里の波涛を越えて唐まで来られたのですか。
その文才を唐の人たちにひけらかすために来られたのではないでしょう
(おそらく、あなたは真の仏法を求めて来られたのでしょうから)
ますます学ばれて、真実の御忠を磨かれんこヒを折ります
唐においてすら、あなたのような天才は稀れであり、ほとんど見当らないのですから

真済の序文には、空海が恵果和尚の高弟の惟上(いじょう)に送った「離合詩」を馬惚(ばそう)が見て、空海のオ能に驚き怪しんで贈ってきた詩とあります。漢詩としては、相手を褒めそやす内容だけで広がりがなく凡庸なもののように私には思えます。しかし、ここには「秘密=遊び心」が隠されていると研究者は指摘します。それが「離合詩」という詩作方法です。
「離合詩」を辞書で調べると以下のようにあります。

詩の奇数句において、最初の字の「篇」と「旁」を切り離す。切り離したいずれかを複数句の一字目に用い、それぞれで残った「篇」と「旁」を組み合わせて文字(伏字)を作る、高度な言葉遊びの一種。

これだけでは、分からないので具体的に、空海に贈られた「離合詩」を例にして見ておきましょう。
①一行目の第一文字「何」を、「イ」と「可」にわけ、このうちの「可」を二行目の第一文字に使う。そこで「イ」が残る‐
②三行目の第一文字「増」を「土」と「曽」にわけ、このうちの「土」を四行目の第一文字に使う。
ここでは「曽」が残る‐
③残つた「イ」と「曽」をあわせると、「僧」の字ができる。これで「僧=空海」
これは高度な文人達の言葉遊びです。内容的なことよりも、この形式が重視されます。そのため臆面もなく相手を褒めそやすこともできたのです。空海は、ことばには鋭い感党を持っていたので、遊び心も手伝つて、長安で出会った離合詩を作って、こころやすかった性上に送ったようです。出来映えが良かったので、それが文人達の間を回り回って、泉州(福建省)次官の馬惚にまで伝わり、この「離合詩」が空海の元に贈られてきたようです。

ちなみに、空海が惟上に送った「離合詩」は、次のようなものでした。    
登危人難行  石坂危くして人行き難し、  (「登」の原文は「石+登」表記
石瞼獣無昇  石瞼にして獣昇ること無し¨
燭晴迷前後  燭暗うして前後するに迷う、
蜀人不得燈  蜀人燈を得ず
意訳変換しておくと
あなた(惟上)の故郷である剣南に行くには、危険な石段があって行くことは困難を極め、
険峻な岩山があって獣すら登れない
燈火も暗くて、進むことも退くこともできず迷ってしまう。
蜀の人すら登破するための燈を手に入れていない。

ここにも先ほど見たの「離合詩」の「お約束」は、守られています。この詩の内容を超意訳しておくと

あなたの故郷である剣南への道は、仏道修行のようなものです。私(空海)万里の波涛を越えてやってきて、余す所なく密教を学ぶことができ、これから生きていく上での燈火なるものも、すでに手に人れました。ところで、あなたは長く学んでおられますが、何か燎火となるものは得られましたか。仏法を故郷に伝えるにはきわめて困難がともないますが、法燈を伝えるために、ともに努力しましよう。

「日本から来た若造が、生意気なことを。本物の「離合詩」を見せてやる。」と、空海の「離合詩」への挑戦を、唐の文化人に対する挑発と捉える人達もいたはずです。そんな人の中には、「一度、試してみてやれ」「鼻をへし折ってくれるわ」と空海に近づいてきた人物も少なくなかったと研究者は推測します。そうだとすると、馬惚(ばそう)が空海に贈った「離合詩」には、相手を褒めそやしながら、「本物の出来映えを見せてやる」という意図もあったのかもしれません。このように、空海に対して、書や漢詩などで「お手並み拝見」という徴発は、いたることろで起きた可能性があります。

虚空書字32
虚空書字と画竜点睛
「空海は、どうして文殊菩薩と「虚空書字」を行ったのか争ったのか」という最初の疑問の答えもこの当たりにありそうです。
①長安で異芸・異才の人と評されるように空海に対して、文人達の中には挑発し、腕試しを迫るものも現れた。
②そのエピソードのひとつが「虚空書字」であった。
③しかし、ただの人と競い合うのでは話題性に乏しいために、伝記作者は「文殊菩薩との筆比べ」に変換・創作した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く85P 虚空書字の伝承をめぐって


大師入唐渡海 遣唐使船

東シナ海を行く遣唐使船(高野空海行状図画)

大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
建建省赤岸鎮)に漂着します。

空海・最澄の入唐渡海ルート
空海と最澄の漂着先
空海入唐地 赤岸鎮
空海入唐之地 赤岸(1998年建立)

正史である『日本後紀』に載せられた大使藤原葛野麻呂の報告書を、まず見ておきましょう。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。


  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。
「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。

唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
 
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」

 
遣唐使 赤岸鎮から福州


一行は、長渓県赤岸鎮での上陸を許されず、観察使のいる福州に向かうことになります。
2ヶ月後の10月3日に、福建省の省都の福州にたどり着きます。福州は、河口から30㎞ほど遡った所にある大都市です。遣唐使船は、その沖にイカリを下ろしたはずです。当時の規則では、外国船は岸壁に着船し、直接に入国することは禁じられています。

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           小舟に乗り換えての福州上陸(弘法大師行状絵詞)

大使藤原葛野麻呂の報告書には、福州でのことが次のように記されています。

十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

ここからは次のようなことが分かります。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと

ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』には、この間のできごととして次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

  「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」

とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。

「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」

文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
この場面を描いた高野空海行状図画の福州上陸図を見ておきましょう。

福州漂着代筆 高野空海行状図画
福州での役人とのやりとりと、空海代筆(高野空海行状図画)
①は遣唐使船が岸壁に着岸しています。「沖合停泊」という「時代考証」が無視されています。その姿は大風や波浪で、船上施設が吹き飛ばされて、何ひとつ残っていないあばら舟姿です。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
③は、大使みずからが書簡をかいて提出しますが、役人は読み終えると放り出して取り合ってくれないところ。
④万策つきた大使からの依頼で、空海が長官に宛てて書をしたためているところ。
⑤空海がしたためる手もとを見ているのが、福州監察使の閻済美。
⑥中央は、空海の文章と書の力によって、やっと日本からの正式の遣唐使であることが認められ、仮岸の中に通されて、安堵している大使と空海

同じ場面を、弘法大師行状絵詞で見ておきましょう。

福州着岸 代筆. 弘法大師行状絵詞JPG
             福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)

港に船着き場はなく、沖合に投錨し小舟で浜にこぎ寄せるスタイルで描かれています。
大使が長官への書簡をしたためているところ
役人が福州長官に見せると、一瞥して「見難い」と書簡が捨てられたところ。これが3度繰り返されます。

福州上陸2
            福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
大使の依頼を受けて空海が「代筆」します。
⑤ その書簡を読んだ福州長官は、書の主を「文人」認め、態度を一変させます。

この時に空海が代筆したのが「大使のために福州の観察使に与うる書」です。
   「賀能(藤原葛野麻呂の別名)啓す」からはじまるこの文章を要約しておきます。

①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか

 論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
   空海は讃岐から平城京にのぼった時に、母の弟・阿刀大足に儒学知識や漢文については、教え込まれたとされます。親王の家庭教師を務めた阿刀大足によって磨かれた素養があったと研究者は考えています。この書を見た長官の閻済美は篤きます。科挙試験を経て、文章でもって出世するのが中国の高級官僚たちですが、これだけの文章をかけるだけの者はいないと思ったと従来の書は評します。この書によって、中国側の対応は一変します。「海賊船」との疑いを捨て、日本からの遣唐使船と再認識し、相応しい仮宿舎を提供します。同時に空海の評価が高まったとされるエピソードです。

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福州に建てられた仮宿舎(高野空海行状図画)

赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。

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大使達を迎える福州長官(弘法大師行状絵詞)
その向かいに福州長官(監察使)が座し、その前を着替えの衣装や食事が運ばれて行きます。正面に座るのが空海です。まるで、空海に謁見する臣下のような構図です。空海がカリスマ化される要素がふんだんに盛り込まれています。
       
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遣唐使仮屋周辺の福州の人々

日本からの遣唐使がやって来たというので、物見高い人々が集まってきます。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
ところが発表された長安入京組名簿の中に、空海の名前がありません。長安に行けないと、入唐求法の意味がなくなります。そこで空海は、長安行きの一行に、自分も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出します。

入京嘆願書1

「福州の観察使に請うて入京する啓」
福州の観察使に請うて入京する啓

 「日本留学の沙門空海、敬す」という文で始まるこの文章を、要約すると次のようになります。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯
②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い
③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
空海は、福州で次の2つの文章を作っています。
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」
B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
この2通は『性霊集』巻5に収録されています。前者を以下に全文載せておきます。

「大使のために福州の観察使に与うる書」
                        
「大使のために福州の観察使に与うる書」NO1

「大使のために福州の観察使に与うる書」2
「大使のために福州の観察使に与うる書」3

「大使のために福州の観察使に与うる書」5

「大使のために福州の観察使に与うる書」6

ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」

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   空海が法を求めて唐に渡り、長安青龍寺の恵果和尚からインド直伝の新しい仏教・密教を受法されてから1300以上の年月が経ちました。当時の東シナ海を越えて唐に渡と云うことは、生死をかけた旅で、生きて帰れる保証は何もありません。空海が唐に渡った前年の803(延暦22)年4月16日に難波津を出帆した四隻の遣唐使船は、出港して5日目の21日に、瀬戸内海で暴雨疾風のために破船しています。このときには、明経請添生の大学助教(すけのはかせ)・豊村家長は、波間に消えたと伝えられています。
 空海はそのような危険性を承知の上で、どうして生命を賭してまで遣唐使船に乗ろうとしたのでしょうか?  今回は空海の入唐求法について、従来から疑問とされている点を見ていくことにします。テキストは、「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」です。

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舳先で悪霊退散を祈祷する空海
空海の入唐求法についての問題点を、研究者は次のように挙げます。
①入唐の動機・目的はなにか。
②誰の推挙によって入唐できたのかt
③いかなる資格で入唐したのか、
④入唐中に最澄との面識はあったか。
⑤長安における止住先(受入先)はどこであったか。
⑥わが国に持ち帰えった経典・マンダラ・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国時に乗船した高階達成(たかしなとおなり)の船は、どんな役目で唐にやってきた船なのか。
⑧入唐の成果はなにか。空海は入唐してなにをわが国にもたらしたか。

  これらの綱目について、先行研究を簡単に見ておきましょう。
①入唐の動機・目的はなにかについては、次の4点が挙げられます。
A『大日経』の疑義をただすため
B 密教受法のため
C 灌腸授法のため
D 密教の師をもとめて
若き頃に、大滝山や室戸岬で行った求聞持法の修行で体感した神秘体験の世界が、いかなる世界なのかを自分なりに納得したいという探求の延長線上にあったと研究者は指摘します。

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室戸岬での修行(弘法大師行状絵詞)

②誰の推挙によって入唐できたのか
 空海は入唐直前までは、私度僧であったことが近年の研究からは明らかにされています。有力な寺院に属していない空海が留学僧に選ばれるためには、強力な推薦者がいたはずであるという推測に基づく問いです。その候補者としては、従来から次の2人が挙げられています。
A 母方の叔父である阿刀大足が侍講(家庭教師)をしていた伊予親王
B 入唐前の師とみなされてきた勤操(ごんぞう)大徳
しかし、史料的にも状況証拠的にも納得できる説明はされていないようです。

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叔父の阿刀大足から儒学を教わる真魚(空海)(弘法大師行状絵詞)

③どんな資格で、空海は入唐したのか
これについては、空海は「私費の留学僧」の立場だったという説があります。しかし、遣唐使の派遣は国の成信をかけた国家の一大事業です。それに一個人として参加することができるとは考えられないというのが研究者の立場のようです。
 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。ここからも空海が長期留学生であったことが裏付けられます。

④入唐中に最澄との面識はあったのか
天台宗を開いた最澄と空海が、同じ遣唐使団にいたことはよく知られています。しかし、乗船した船は違います。
空海 遣唐大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)とともに第1船
最澄 副使の石川道添(みちます)とともに第2船
乗船した船は違いますし、その後の経路も空海は福州から上陸して、長安で密教を学修します。一方の最澄は明州から上陸して、天台山に向かい、円・密・禅・戒の四つの教えを学んでいます。したがって、二人が唐で出逢うことはありませんでした。その後の二人の史料からも、入唐時に出逢った記録は見当たりません。当時の最澄は、天皇の保護を受けて、唐の仏教の教えの総てを買付に行く超有名なバイヤーのような存在です。一方の空海は、得度したばかりの無銘の僧です。最澄は、空海のことを鼻にもかけなかったでしょうし、その存在にすら知らなかったと私は考えています。
⑤長安での空海の受け入れ先は、どこでだったのか。
これについては、空海は入唐前から、止住先をきめ約諾をえていたという説があります。それは、現在のインターネットやSNSなどの発達している時代の人達の見方です。日宋貿易が盛んに行われ、禅宗僧侶が多数、入唐していた時代でも、なかなか中国の情勢を知ることはできませんでした。長安の情勢を知り、連絡し合うことができる状態ではありません。

⑥わが国に持ち帰られた経典・マングラ・密教法具などの経費の出所はどこか。

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空海の持ち帰る絵図や曼荼羅を書写する絵師(弘法大師行状絵詞)

空海は多量の経典を書写させ、密教法具を新しく職人に作らせています。これには多額の資金が必要だったはずです。最澄と違って、長期留学生の空海には、そのような資金はなかったはずです。それをどう調達したかは、私にも興味のあるところです。

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持ち帰る法具を作る技術者(左)や経典を書写する僧侶

 従来は、讃岐の佐伯直氏は、斜陽の一族で経済的には豊かでない一族とされてきました。そうだとすれば『御請来目録』に記された膨大な請来品の経費をどうしたのか。誰かの援助なしには考えがたいとする説が出されます。そして、推薦者のとしても名前があがった伊予親王や勤操が、出資者として取り沙汰されてきました。これに対して、研究者は次のような点を指摘します。
A 請来品の多くは、師の恵果和尚からの贈与とみなされること
B 空海の生家・佐伯直氏も瀬戸内海貿易などで経済力を持っていた一族であったこと。
C 母方の阿刀大足も、淀川水系交易などで同等の経済力を持っていたこと
Bについては、空海の父親・田公は無官位ですが、空海の弟や甥たちは、地方役人にしては高い官位を得ています。これは官位を金で買うことで得たものと考えれます。それだけの経済力が、空海の生家・佐伯直氏にはあったと研究者は考えています。
⑦空海を乗せて還った高階達成の船は、どんな役割を持った船だったのか
高木紳元説 新たに即位した順宗へ祝意を表するために派遣された船
武内孝善説 一時的に行方不明になった延暦の遣唐使船の第四船
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空海の乗った遣唐使船(弘法大師行状絵詞)
⑧空海の成果はなにか。入唐してなにをわが国にもたらしたか。
仏教に関しては、最新の仏教、すなわら密教を体系的に持ち帰ったこと、なかでも不空訳の密教経典を最初に持ち帰ったこと
以上8点です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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前回は、空海を唐から連れ帰ったのが判官・高階真人遠成の船であったことをお話ししました。遠成が乗っていった船と出港時期にについては、次の二つの説があるようです。
① 延暦の遣唐使の第四船として、同じく出発し、漂流の後に遅れて入唐したとするもの(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
その辺りのことを、今回は見ていこうと思います。
     テキストは「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」です。
 高階真人遠成とその船については、代表的な論考は次の通りです。
一、木宮泰彦『日支交通史』上巻、 1926年
二、大庭脩「唐元和元年高階真人遠成告身について―遣唐使の告身と位記」1967年
三、高木紳元「兜率の山・高野山への歩み」1984年
四、茂在寅男「遣唐使概観」1987年
五、佐伯有清『若き日の最澄とその時代』1994年
遠成の船が延暦の遣唐使の第四船だったかどうかの観点で、 これらの論考を分類すると次のようになります。
①第4船らしいと推測する立場  木宮泰彦・茂在寅男
②第4船であったと確定する立場   大庭脩・佐伯有清
③第3、第4船ではなく新造船であったという立場 高木紳元

①の「第四船らしい」と最初に推測したのは、木宮泰彦氏で次のように記します。
延暦の遣唐使の第四船は唐に赴いたか否か明らかでない。空海・橘逸勢等が判官高階遠成と共に大同元年八月に帰朝しているのは第四舶ならんか。

と、遠成の船が第四船であった可能性を約百年前に示唆しています。
②の第四船であった説を代表する大庭脩氏は次のように記します。
第三船は判官正六位上三棟朝臣今嗣が乗っていたので、第四船に高階真人遠成が乗っていたことは疑いなく、第四船の消息のみが全く不明ということになる。(中略)
第四船に乗船していた遠成は、恐らく風に流されて遭難したのであろう。そしてその経過を知るよすがもないが、九死に一生を得て唐に到り着き、長安まで行ったのであろう。その時期は明らかではないが、本告が元和元年正月二十八日付の中書省起草の勅であるから、大使葛野麻呂等一行が長安に滞在し、告身を授けられた貞元二十一年十二月よりまる二年後にあたる。(中略)
 彼は大使藤原葛野麻呂と共に帰って来なかった以上大使等の出発後に長安につき、帰国の便を待っていたのであろうから、長くみれば、約一年半は長安で生活していたと考えられる。
大庭脩氏のポイントを要約すると、次のようになります。
①遠成は大使葛野麻呂一行が長安を離れた永貞元年(805)2月10日より後に、長安にたどりついた。
②遠成の船は延暦22年(804)7月6日、肥前国松浦郡田浦を出帆した第四船であり、九死に一生を得て唐に到りついたものである
③遠成は、その後、長安に約1年半滞在した
つまり、第1・2船と同時に出港したが、何らかの理由で第4船は長安への到着が大幅に遅れ、長安にやって来たときには第1・2船の正使・副使は長安を離れた後であった。にもかかわらず遠成は、その後、長安に約1年半滞在し、帰国時に空海を伴ったという説になるようです。どうも私には合点がいかない説です。

同じく第四船であったとする佐伯有清氏は、次のように記します。
ちなみに第四船の消息は、まったく記録されていない。ただし第四船の遣唐判官の遠成が唐の元和元年(806)正月28日、唐朝から中大夫・試太子充の位階・官職を賜わっており、同年(大同元年)十月、留学僧の空海、留学生の橘逸勢をともなって帰国している。帰国の復命は、同年十二月十三日であった。この日に高階遠成は、遣唐の功を賞されて従五位上の位を授けられている。遠成の行動を追ってみると第四船は、難航のすえ、かなり遅れて唐に着岸したようである。遠成は、延暦二十四年の年末ごろに長安に入り、使命を果すことができたのである。

佐伯説は、遠成の船を第四船とみなし、遠成の長安到着を延暦24四年の年末ごろとします。

そのような中で高階真人遠成の入唐目的を新たな視点で語る新説が出てきました。高木諦元氏の説を見ておきましょう。
ちょうどその頃、高階真人遠成が遣唐判官として長安に入り、帰朝の途につくところであった。この時期に、高階遠成が国使として入唐した目的が何であったかは定かでない。『日本後紀』巻十三によれば、帰国した遣唐大使藤原葛野麿が節刀を返還し、朝廷に帰朝報告をしていた頃、詳しくいえば延暦二十四年(805)七月四日に、一般の船が肥前国松浦郡庇良(ひら)嶋、いまの平戸島から出帆して遠値嘉(おちか)島を目指し、唐国へ向おうとしていた。この船は第十六次遣唐使船四艘のうちの行方不明になった第3船であって、判官の三棟今嗣(みむねいまつぐ)らが乗船していた。運悪しく、この船は再び遭難して孤島に漂着し、浸水しはじめた。三棟今嗣らは射手数人を船に残して脱出し、かろうじて生きのびることができた。やがて績が切れて船は漂流しはじめ、積んでいた国信物などとともに行方が知れなくなった。任務を放棄したかどで、判官三棟今嗣は懲罰に付されている。
一年前に難破して入唐を果せなかった第3船を、いま再び渡海せしめようとしたのは、あるいは新たに即位した順宗への朝貢のためであったとも思える。ただ朝貢のためだけであったかどうかは定かでないけれども、しかし、どうしても使節を再び派遣しなければならなかったことは事実であった。三棟今嗣にかわって、遣唐判官には急拠、大宰府の大監であった高階真人遠成が任命された。『類衆国史』に「遠成は率爾に使を奉じて、治行(旅行の準備)に退あらず。その意、衿むべし」とあるのが、そうした事情をうかがわせる。また『朝野群載』には、高階遠成に対する唐朝の位記を載せて「その君長の命を奉け、我が会同の礼に超る。冥法を越えて万里、方物を三際に献ず」とある。「会同の礼」とは、常期ではなく事あるごとに来朝して礼謁することをいうから、やはり、高階遠成の入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったろう。(中略)
 高階遠成が長安へ到着した月日は定かでないが、慶賀の意を表すべき皇帝が予期していた順宗から憲宗にかわっていたとはいえ、所期の目的は達成したことになる。

高木説には、全く新しい視点が二つあります。
その第一は、『類衆国史』の「率爾に使を奉じて、治行に退あらず」に注目して、遠成は延暦24年7月に再び遭難した第三船の判官三棟今嗣にかわって急遽任命され、唐に向ったとみなすこと
第二は『朝野群載』所収の「会同の礼」に注目して、遠成入唐の目的は新帝への朝貢礼謁のためであったとしたこと
  この説は、派遣目的が分かりやすく時間系列も納得がいくので、小説などではこの説にもとづいて高階真人遠成の遣唐使船の登場が描かれることが多いようです。
しかし、この新説に対しては、次のような疑問点が研究者からは出されています。
第一の疑問点は、805年7月4日に難破した第3船の判官三棟今嗣にかわって、大宰府大監の高階遠成が急遽、遣唐判官に任命されたととする点です。しかし、これが可能であるためには、次のような手続きが求められます。
①第三船の遭難報告が太宰府から都にとどけられる
②朝議での再度の派遣決定と、派遣する官吏の選定
③新遣唐使船建造と新皇帝即位への貢納物の準備・調達
④出発
つまり、使節団長の首のすげ替えだけではすまない話のようです。
 高木説は「中国皇帝の代替わりの新帝への朝貢礼謁のための特別の派遣」としますが、そう簡単に進むことではないようです。まず、遣唐使を派遣するには莫大な費用が必要でした。たとえ、財政面の負担をクリアしても、派遣する官吏の選定があります。前回見たように遣唐使船には一隻について、150名前後のスタッフが必要でした。ただ単に頭数をそろえればいいのではありません。遣唐使は、知乗船事・訳語などの職掌別の専門家集団です。その上、遭難して死者を出した船に乗っていた者は、不吉であるとして忌み嫌われ、再び派遣されるスッタフからは、はずされました。つまり、大部分のスタッフを新たに選ぶ「人材一新」が求められます。これは短期間にできることではありません。
 新たに大宰府の大監を務めていた高階遠成に判官への就任命令が届いたのは、いつごろなのでしょうか。
それからスタッフ選定が行なわれたとしても、都から大宰府への連絡には駅伝制を使っても4~5日は要したようですので、太宰府の遠成への通達は早く見積もっても7月下旬になったはずです。

 すぐに再び遣唐使派遣を考えた場合、帰国したばかりの遣唐大使・藤原葛野麻呂らが乗船していた第一船と、判官の菅原清公らが乗っていた第二船を、派遣することは検討できます。しかし、一度東シナ海を航海したこの隻船は、長い航海のためにボロボロになっていたようです。すでに中国の福州から明州に回航された時点で、第一船は一ヵ月余りの修理を必要としていました。また、乗組員のすべてが大宰府近辺で確保できたかどうかも問題になります。このように考えてくると、船の調達も無理筋のような感じがしてきます。
 問題の第二は、新皇帝への土産物、すなわち貢納品の調達です。
『延喜式』巻三十、大蔵省の「賜蕃客例」には、大唐の皇帝への賜物の規定が事細かく記されています。遠成の入唐の目的が唐の新帝への朝貢礼謁であったとするならば、贈り物は欠かせません。
その準備に時間を要したはずです。前回見たように、通常の遣唐使派遣は3年前には、正使・副使が決定し、貢納品などの準備を整えていました。遠成が前任者にかわって急遽派遣されたという説は、船の確保と貢納品の調達という問題をクリアできないと研究者は考えています。
 次に遠成一行の長安到着がいつであったかを推察し、そのことから逆算して、遠成等の日本出発の時期を見ておきましょう。
遠成は、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位記を授けられています。ここからこの時点で長安に滞在していたことが分かります。それなら遠成らは、いつごろ長安に入ったのでしょうか。遠成一行が長安に到着したのは、位記を授けられた前年、すなわち延暦24年(805)の年末頃ではなかったかと研究者は推測します。それは、前年の第一船の高野麻呂一行が何としても新年の朝賀の儀に間に合うように、「星に発ち星に宿り、晨昏兼行す」と昼に夜をついで長安への旅を急ぎに急いだことから想起されます。大唐帝国に朝貢にやってくる各国の使節団は日本だけではありません。日本は朝貢国のひとつにしかすぎません。唐側は、新年の年賀の挨拶にやって来ることを最も重視していたようです。
 遠成も当然、「新皇帝による最初の新年朝賀の儀」への参加を目指していたはずです。だとすると逆算して、いつごろ日本を出発しなければならい計算になるのでしょうか。
 前年の第一・二船は7月6日に、肥前国田浦を出帆しています。
①福州に漂着した第一船の一行は、12月23日に長安到着
②明州に上陸した第二船の一行は、11月15日に長安到着
 翌年の正月の朝賀の儀に列席するためには、7月中の日本出発がタイムリミットだったようです。これを先ほど見た第三船の遭難から再度の派遣決定、派遣吏員の選定、船の確保と整備、貢納物の調達といったことを重ね合わせると、急遽遠成が遣唐使判官に任命されても、すぐに出発することは無理だったことが推測されます。
 以上から修理された第三船遭難後に、遠成が急遠判官に任命され、派遣されたとみなす説は無理筋だと研究者は考えているようです。

第4の疑問点は、遠成の入唐目的が新帝への朝貢礼謁だったという点です。
高木説は、遠成は第3船の判官今嗣にかわって派遣されたものとします。とすると、前任者であった今嗣の入唐の目的も、新帝への朝貢礼謁のためであったことになります。本当に、今嗣の入唐は新帝への朝貢礼謁のためだったのでしょうか。
新帝への朝貢礼謁のためとされる使節派遣は、いつ決定されたかという点を、時間的経過で追ってみます。
唐朝の皇帝が亡くなって、徳宗から順宗に移ったとの知らせがわが朝廷にもたらされたのは、第一船の遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告書によるものだったことはまちがいないでしょう。葛野麻呂は、延暦24年(805)6月5日、対馬島下県郡に帰着し、同月八日付で長文の帰国報告書を都に書き送っています。そこには、次のように記します。
廿一年正月元日於入己元殿朝賀。二日天子不豫。廿三日天子雅王(徳宗)通崩。春秋六十四。廿八日臣等於・五天門・立レ使。始着素衣冠。是日太子(順宗)即‐皇帝位・。

ここには、貞元21年(805)正月23日徳宗が64歳で崩御し、代わって1月28日順宗が帝位についたことが記されています。この6月8日付の帰国報告書は、当時の山陽道の駅伝の通信能力からして4~5日後には都に届けられていたはずです。この報告書をみて、ただちに新帝順宗への朝貢のための使節派遣が決定されたとは思えないと研究者は云います。派遣の議は、正使の藤原葛野麻呂の上京・復命をまち、直接詳しい報告をきいた上で、執り行なわれるというのが手順ではないかと云うのです。肥前から藤原葛野麻呂が上京し復命したのは7月1日です。
第3船が肥前を出帆したのは7月4日です。
第3船がずいぶん以前から出発の準備を万端ととのえていて、出発のゴーサインをまつばかりとなっていたとしても、時間的には間に合わない計算です。もし仮に、6月8日付の葛野麻呂の帰国報告書を見て、朝議で派遣決定がされたとしても、先ほど見たように150名もの遣唐使スタッフの選定、遣唐使船の確保、貢納物調達の時間を考えると、20日足らずの短期間に、出帆までこぎつけられたとは不可能と研究者は考えているようです。
 以上から遠成が、葛野麻呂の帰国報告書にもとづいて新帝への朝貢礼謁のために派遣されたとは云えないとします。今嗣の乗った第三船は、葛野麻呂の帰国とは全く別の目的・理由で、唐に向かったことになります。しかし、それがなんであったのかは分からないままです。

高階遠成の入唐が新帝への朝貢礼謁のためであったかどうかを肩書きの視点で見ておきましょう。
遠成の入唐の際の肩書の記載を年代順に見てみると、すべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」「判官」です。遠成の肩書は「判官」です。高階遠成が、新帝への朝貢礼謁という特別の任務を帯びて新たに派遣されたとすれば「遣唐判官」の肩書きは相応しくないと研究者は指摘します。今嗣にかわって遠成が派遣されたとしても、今嗣の肩書も「判官」でした。また今嗣が乗っていた船は「遣唐使第三船」と記されています。新帝への朝貢使として新たに派遣されたのであれば、正使も遣唐使船もその役割にふさわしい肩書をもって入唐したのではないかという疑問です。船も第三船ではなく、第一船とするのが相応しいはずです。しかし、今嗣・遠成の肩書はともに「判官」であり、今嗣の船は第三船と記されています。

    以上から研究者は次のように結論づけます。
①遠成の船は、第三船ではなかったこと。
今嗣の遭難から再度の派遣決定・出帆にいたる時間的経過、遠成の長安到着の時期などを勘案すると、遠成が今嗣にかわって派遣されたとみなすことはできない。第3船は、座礁し、貢納物を乗せたまま行方知れずとなっているので、遠成の船は第三船ではない。
②遠成の肩書はすべての史料が「日本国使判官」「遣唐判官」など「判官」と記す。
遠成は「判官」の資格で入唐したのであって、新皇帝即位祝賀の特別の任務を帯びて入唐したとは思えない。延暦の遣唐使の一員であったと考えるのが妥当。このときの遣唐使船四隻のなか、第一・二船は、無事に任務を終えて帰国し、第三船は、行方知れずとなっている。残るのは第四船だけでなので、遠成が乗った船は第四船だったとしか考えられない。
③大同元年(806)12月13日、遠成の復命記録には次のように記されているだけである。
 大同元年十二月壬申、遣唐判官正六位上高階真人遠成授従五位上、遠成率爾奉使、不違治行、其意可衿、故復命日持授焉、

ここには、簡単に入唐した事実が簡略に記されているだけです。もし特別の任務を帯びての入唐使節だったのなら、それにふさわしい文言があってしかるべしと、研究者は考えているようです。このことも、遠成の入唐が特別の任務を帯びたものでなかったことを物語るものだとします。

  以上から、高階遠成は、第三船の判官三棟今嗣にかわって派遣されたのではなく、入唐の目的も新帝への朝貢拝謁のためではなかったと研究者は結論づけます。だとすると遠成の入唐目的はなんだったのでしょうか。ここで最初に示した「遠成の船は延暦の遣唐使船の第四船」説にもどります。

記録に、「率爾に使を奉り、治行に違あらず」とあるので、遠成は延暦の遣唐使の派遣が決定された当初に任命された判官ではなかったと研究者は考えます。では、いつ選ばれたのでしょうか。延暦の遣唐使は延暦22年(803)4月16日難波津を出発しますが、5日後に瀬戸内海を航行中に嵐に遭い、この年の派遣は中止されたことは前回にお話しした通りです。そこで船の修理後、翌年7月6日に、四隻の遣唐使船はそろって肥前国松浦郡田浦を出帆します。しかし、翌日7日には第三・四船との火信がとだえてしまいます。
  このとき第三、四船は、おそらく再度遭難したと研究者は考えているようです。そして、第三船は座礁・漂流し行方不明となります。第四船は博多にもどり、改修を受け翌年の延暦24年になってあわただしく出発したというのです。その際に、それまでの判官では不吉だというので、新たな判官が選ばれます。それは大宰府に在住していた人々を中心に人選が行なわれます。

『日本後紀』延暦二十四年(805)七月十六日の条は、第三船の三たびの出発と遭難、そして判官今嗣らへの処罰のことだけしか記されていません。しかし、このとき第三船とともに第四船も出発していたと研究者は考えています。遠成がいつ長安に到着したかは分かりませんが、元和元年(806)正月28日、唐朝から「中大夫試太子中允」の位を賜わっています。ここからは遅くともこの年のはじめには長安に到着していたことになります。そして逆算すると、遅くとも前年の七月には九州を出発していなければならないことになます。それは第三船の出発した7月4日と、時間的にぴったり一致します。
  以上から、高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であったと研究者は考えています。
以上をまとめておくと次のようになります
①急遠判官に任命された遠成を乗せた第四船は、延暦二十四年(805)七月四日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③これに対して第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」として、評価しようとする動きもあるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 参考文献  「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」

       
 「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年」を読み返していると、空海入唐求法についての疑問点とされることが次のように挙げられていました。
①入唐の動機。目的は何か。
②誰の推挙によって入唐できたのか。
③どんな資格で入唐したのか。入唐の資格は何か。
④入唐中に最澄との面識はあったのか。
⑤長安での寄宿先の寺院はどこであったか。
⑥大量に持ち帰った経典・曼荼羅・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国したとき乗った高階真人遠成の船はどのような役目の船であったか。
⑧空海は入唐して何を持ち帰ったか。入唐の成果は何か。

②~⑧の疑問に対しての研究状況が次のように記されています。
②誰の推挙だったかについては、次のような人物が考えれている
空海の師匠とみなされてきた勤操
おじが侍講を務めていた伊予親王
空海の一族佐伯氏
DSC04549遣唐使船

③入唐の資格については、
私費の留学生や大使の通訳などとみなす説もあるが、正式の留学僧であったことは空海の著作から間違いない。
④空海と最澄との面識については、
ふたりが出逢っていたとすれば、博多の津が考えられるが、帰国後、両者が著したものには入唐中に二人が出会った記述はない。入唐中、両者には面識はなかったと研究者は考えています。
⑤長安における寄宿先について、櫛田師は次のように記します。
「在唐の坊を予め連絡してから入唐したであろう」
永忠僧都の推挙によってこの西明寺と指示されたので喜んで入唐の志を堅くしたのであろう」
「空海入唐の斡旋の労も或いはこの永忠和尚の力によったものかも知れない」
この説によると、永忠と空海の間には、入唐以前からなんらかのやりとりがあったことになります。そして、長安で世話になる寺院については永忠から西明寺を推薦されていたと記します。
しかし、研究者は『日本後紀」所収「永忠卒伝」の記録には、永忠は宝亀の初めに入唐留学し、延暦の末に空海が入唐したときの大使藤原葛野麻呂とともに帰朝した、という記録があることを指摘します。この記録からは、二人がはじめて出会ったのは長安だったことになります。現在のように、事前に連絡を取り合うことは出来ません。櫛田説は再考される必要があると研究者は指摘します。

弘法大師 誕生と長安での書写1
長安での空海 曼荼羅図などの作成
⑥入唐に要した経費の出所ですが、空海がどれほどの資金を持参したかは分かりません。
櫛田師は、「もとより空海には莫大な財源も資産もなく、秀れた門閥でも、氏でもなかった」と記します。
しかし、空海の生家である讃岐国の佐伯直氏は、海運交易などで相当の経済力を備えていた、と考える研究者もいます。膨大な招来品のなかには、師の恵果和尚から贈られた品々も少なくなかったでしょうが、空海みずからが資金を出して入手した品々も多々あったと思われます。しかし、それらを明記したリストがない以上は、どれが「私費購入品」かも分かりません。したがって、空海かどれほどの資金を持参したかも、分からないというしかないようです。
⑦帰朝したときの高階遠成の船については、空海が入唐したときの第四船が有力
以上のように、問題点に対する現時点での「とりあえずの答」を簡潔に示してくれます。私にとってはありがたい本です。

①の入唐の動機・目的について、もう少し詳しく追いかけてみましょう。
空海の生涯には、いくつかのエポンクメーキングなできごとがあります。その最大のものの一つが虚空蔵求聞持法との出逢いであり、いま一つが入唐求法の旅であったと私は考えています。この二つは、別々のことがらではありません。入唐の出発点が求聞持法との出逢いで、両者は連続しているのです。それを並べると次のようになります。
①求聞持法との出逢い
②平城京の大学からのドロップアウト
③四国の辺路修行と室戸での求聞持法修得
④大日経との出会いと入唐決意

まず、求聞持法との出逢いから見ておきましょう。
空海の出家宣言の書といわれる『三教指帰』の序文は、若き日の空海の足跡を知ることができる唯一の史料です。現在の『三教指帰』は、24歳のとき著された『聾蓄指帰』に、唐から帰国後に序文と最後の「十韻の詩」を書き改め、あわせて題名を『三教指帰』と改めた、とみるのが通説のようです。
その『三教指帰』序文には、求聞持法との出逢いが、つぎのように記されています。
ア、髪に一(ひとり)の沙門あり。余(われ)に虚空蔵聞持の法を呈す。其の経に説かく、「若し人、法に依って此の真言一百万遍を誦ずれば、即ち、 一切の教法の文義、暗記することを得」と。

(現代語訳)
ここに一人の僧がいて、私に虚空蔵求聞持の法(虚空蔵菩薩の説く記憶力増進の秘訣)を教えてくれた。その秘法を説く『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』には、「もしも人々がこの経典に説かれている作法にしたがい、虚空蔵菩薩の真言「ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」を百万遍唱えれば、あらゆる経典の教えの意味。内容を理解し、暗記することができる」と説かれている。

イ 大聖の言葉を信じて跳炎をさんずいに望む。阿国大瀧獄に登り攀(よ)じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。
(現代語訳)
そこで私は、これは仏陀のいつわりなき言葉であると信じて、木を錐もみすれば火花が飛ぶという修行努力の成果に期待し、阿波の国の大滝岳によじのばり、上佐の国の室戸崎で一心不乱に求聞持法を修した。私のまごころが仏に通じ、あたかも谷がこだまを返すように、虚空蔵菩薩の象徴である明星が、大空に姿を現した。

最後の「谷響きを惜しまず、明星来影す」は、空海が体験した事実を、ありのままに記されたものと研究者は考えています。すなわち、「谷響きを惜しまず、明星来影す」とは、 一心に虚空蔵菩薩の真言、ノーボー アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ
(虚空蔵尊に帰命します。オーン、怨敵と貪欲を打ち破る尊よ、スヴァーハー)を唱えていると、こだまが必ず返ってくるように、求聞持法の本尊・虚空蔵菩薩の象徴である明星が、私に向かって飛び込んできた、つまり虚空蔵菩薩と合一した、 一つになった、と解されます。

ここには、机上空間からでは分からない、体験したものでないと分からない、つまり「強烈な神秘体験」が記されています。

DSC04630
室戸での求聞持法修行
求聞持法を求める中で、強烈な神秘体験に出逢った空海のその後は、この体験の法則化に向かいます。つまり、世界とはいかなるものかを探求する道程であり、いろいろな僧にみずから体験した世界を語り、それがいかなる世界であるかを問い続けます。そして仏典のなかに解答を求め、解明・研鑽に精魂をかたむけたのでしょう。
 そのひとこまとして、『御遺告』が語るように、『大日経』をひもといたけれども、納得できる解答を見出せないまま悶々としていた、といったシーンが語られます。

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正倉院には国営の書写所があり、何十人ものプロの書写生がいて仏典を書き写して、国分寺や中央寺院に提供していたことは以前にお話ししました。
 正倉院文書には『大日経』が最初に天平九年(737)に書写されたこと、それから宝亀六年(775)にいたるまでに、十数本の『大日経』が書写・伝存していたことが記録されています。

1大日経写経一覧 正倉院

それらを年代順に一覧表にしたのが上表です。
ここから『大日経』が何回も書写されていること、なかでも空海が登場する直前の宝亀年間に8回と集中して写されていることが分かります。奈良朝末には『大日経』の写本が畿内には、何種類も出回っていたのです。空海が、大日経を探し求めれば、それらの一つを目にすることも可能だったようです。しかし、これを見ても「ダメだ 分からない、この国では納得てきる答はえられない」との結論に達したのでしょう。そのため空海は、最後の手段として、唐に渡ることを考えたと研究者は考えています。
御遺告
御遺告
『御遺告』のこの部分を意訳しておくと、次のような事が記されています。
①二十歳のとき、槙尾山寺において勤操僧正(岩淵贈僧正)にしたがって出家し、教海と称し、のちに如空と改めたこと。
②このとき、仏前において「諸仏よ、私に不二の教えを示したまえ」と一心に祈願したこと。
③この結果、「なんじの要めるところは『大日経』なり」との夢告を得たこと。
④久米寺の東塔下で、『大日経』を探じ求めて、ひとあたり拝見したけれども、理解できないところが多々あり、それを問いただすところもなかったこと。
⑤そこで、唐に渡ることを決意し、延暦23年(804)5月12日出発したこと。
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       久米寺の東塔下で、『大日経』を読む空海

ここからは、次のようなことが分かります。
①空海は勤操僧正(岩淵贈僧正)によって槙尾山寺において出家したこと。そして「教海」「如空」と名を換えたこと
「不二」の教えを学ぶために「大日経」を捜し求めたこと
③久米寺の東塔下で、『大日経』を手にしたが理解できないことが数多くあったこと
④そのために唐に渡る決心をしたこと
御遺告はかつては、空海の遺言とされてきました。そのためこれが入唐動機の定説でした。
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このような定説を踏まえた上で、福田亮成著『弘法大師の教えと生涯』は、空海が真言密教を大成できた理由として、次のような要因を挙げます。
①大師は中国語が堪能であったこと。
②研究の目的は明確に密教に定められていたこと。
③長安に密教の名師がおり、直ちに面授できることを願っていたこと。
④唐の新訳仏典、特に「金剛頂経系諸儀軌」を中心にして、その蒐集に目的を定めていたこと。
⑤その他、文化一般にわたリグイナミックな関心をもっていたこと。たとえば筆の製作技術のマスター、詩文や書の研究など。
そして次のように結論づけます。
以上のような諸問題は一年半という短期間でありながら実に効率よく摂取されたのであった。これは大師の優秀さもさることなから、目的が明確に定まっていたことの表れではなかろうか

これに対して、こには先入観があると武内孝善は指摘します。
空海が入唐以前に、「密教」や「灌腸」ということばの意味を理解していたかどうか、もう一度立ち止まって考える必要があるというのです。確かに、入唐以前の空海が、密教経典を読んでいたことは間違いないでしょう。しかしながら、今日われわれが用いるような形での「密教」「潅頂」という言葉の概念を、入唐以前の空海が明確にもっていたか、といえばそうとは言い切れないようです。
これを別の表現にいいかえると、次のような疑問になります。
①空海は、「密教」なる言葉をどこで知ったか。
②いつ、どこで、明確に意識されるようになったか。
③密教という言葉の概念をどのように押さえ、使っているのか
このような問題意識のもとに、空海の著作に「密教」という言葉がどのように使われているか、をひとつひとつ確認していきます。これにつきあうことは遠慮して、結論だけを追いかけます。
①については、空海の著作で「密教」という言葉を、自分の言葉として意識的に使っているのは、九ヵ所だけであること
②については、空海が「密教」という言葉を使いはじめるのは、弘仁五年(813)頃ごろからであること。
つまり、入唐以前には空海は「密教」という言葉を使っていないことを指摘します。
  それではそれ以前は、空海はどのような言葉を使っていたのでしょうか。
「大唐神都青龍寺・恵果和尚の碑」と『御請来目録』では、空海は「密教」に替わる言葉として「密蔵」という言葉を使っています。このふたつの文書には、合計19ヵ所に、「密蔵」が使われています。それは「密教」に置き換えられる意味で使われているようです。
以上をまとめておくと
①空海は、在唐中および帰国直後には、「密蔵」という言葉を使用していたこと
②空海が「密教」なる言葉を、自分の言葉として意識的に使用するのは、弘仁四、五年(813)ごろからであったこと
③それも10ヵ所足らずで、限定的にしか使用していないこと
つまり、入唐以前には、空海には「密教」という概念はなかったことがうかがえます。潅頂に関しても同じようなことがいえるようです。密教という概念がないのに「密教」を学びに行くのは、不自然です。

どのような手続きで、空海が遣唐使の一員に選らばれたのかは分かりませんが、空海は留学僧として入唐を果たします。
留学の期間は、20年でした。ちなみに最澄は、短期留学僧を選んでいます。貞元20年(805)2月11日、遣唐大使・藤原葛野麻呂らが長安を去ったあと、空海は西明寺の永忠の故院にうつり、留学僧としての本格的な生活が始めます。恵果和尚と出逢うまでの三ヵ月余りの間、空海は持ち前の好奇心から、長安城内をくまなく歩いたのでしょう。

空海と惠果
恵果和尚と空海

ここからはフィクションで小説風にいきます
ある日、いつものように長安の寺を訪ね歩いていました。ある寺の灌頂道場に足をふみいれた空海は、驚き立ち尽くします。そこには、室戸で求聞持法を修めたときに体験した神秘の世界が、そっくりあったからです。その灌頂道場の壁は、仏たちで満ち満ちて、曼茶羅か余すところなく描かれていました。曼荼羅と向かい合ったときに、それまでの空海の疑念は、氷解しました。空海は、かつて神秘体験した世界が、密教なる世界であったことを初めて知り、密教なる世界があること、長安ではじめて体感したのです。
 空海は、四国で求聞持法を行ったときに、体験的には密教の世界にまで到達していた、密教の世界を体験的には知っていた、と研究者は考えているようです。そして、空海自身のなかに、生命を賭けても唐に渡るだけの突き動かすような動機が生まれたのでしょう。その源は「強烈な神秘体験」だったということになるようです。
DSC04587青竜寺での恵果と空海
青竜寺での恵果と空海の出会い
 では、空海が曼茶羅と対峙した西安の寺はどこであったのであったのでしょうか。研究者は、ふたつの寺院を想定しています。
一つは恵果和尚を訪ねるまえ、般若三蔵や牟尼室利三蔵からサンスクリット語・インドの諸宗教などを学んだとみなされている禮泉寺
 一つは恵果和尚が住んでいた青龍寺東塔院の灌頂道場です。
禮泉寺については、空海自身『秘密漫茶羅教付法伝』、の恵果和尚の項に、次のように記します。
空海が入唐した貞元二十年(804)、恵果和尚は弟子・義智のために禮泉寺において金剛界大曼茶羅を建立し、開眼供養会を行なった、

青龍寺東塔院の灌頂道場に関しては、『広付法伝』の恵果和尚の項に、恵果和尚の直弟子の一人呉慇が撰述した師の伝記『恵果阿閣梨行状』を、次のように引用しています。
①大師、ただ心を仏事に一(もっばら)にして、意を持生にとどめず。受くるところの錫施は、一銭をも貯えず、即ち曼茶羅を建立して、法を弘め、人を利せんと願う。
灌頂堂の内、浮屠(ふと)の塔の下(もと)、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅、及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖備然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧(ふる)き容(かたち)に還る。 一たび観(み)、 一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
③常に門人に謂(かた)りて日はく、金剛界・大悲胎蔵両部の大教は、諸仏の秘蔵、即身成仏の路なり。普く願はくば、法界に流伝して有情を度脱せん。

ここには「灌頂堂はあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった」とあります。つまり、ここで全ての疑問が氷解し、悟ったと研究者は考えています。

以上まとめておくと、次のようになります。
①空海入唐の動機・目的は、最初から密教受法のためとか、灌頂受法のためであったのではない。
②それは青年時代の求聞持法の修行によって体感された強烈な神秘体験の世界が、どんな世界であるかを探求する道のりの延長線上にあった。
③唐に渡り、はじめて室戸で体験した「神秘的世界」が密教なる世界であったことを知り、その世界を究めることを決意した。
④恵果和尚と出逢い、和尚の持っていた密教の世界を継承し、わが国に持ち帰った。

  空海と密教との出逢いは、体験的には20歳のころに求聞持法を修したときに遡ります。その世界が密教なる世界であることをはっきりと悟ったのは、入唐後の長安だったという説です。「はじめに体験ありき」と研究者は考えているようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館 2006年

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