この場面は、正統な密教を受け継いだしるしとして、袈裟が恵果和尚から空海に渡されようとしている「遺具相伝」の場面です。
袈裟をもつのが恵果和尚、手を差出して受け取ろうとしているのが空海です。
この袈裟が御請来目録に、恵果から相伝したとして記される健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)です。健陀とは袈裟の色調を、穀糸は綴織技法を示すとされます。仏教では、捨てられたぼろぎれを集め縫いつないだ生地で作られた袈裟を最上とし、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼びます。この袈裟も、さまざまな色や形の小さな裂を縫い留めた糞掃衣のように見えますが、実際には綴織に縫い糸を表現する絵緯糸(えぬきいと)を加え、糞掃衣を模した織物であると研究者は指摘します。この袈裟は、今も東寺に保管されているようです。それを見ておきましょう。
原形をとどめない健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)
傷みが激しくその原形を留めていないようです。というのも、空海が天皇の五体安穏と五穀豊穣を祈念する始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)には、導師を勤める阿闍梨がこの袈裟を着るしきたりだったからです。そういう意味では、この袈裟は真言宗においては、別格の位置を占める袈裟だったことになります。そのため長年の使用で、原型も留めないほどに痛んでいます。
健陀穀子袈裟 復刻版
2023年10月の真言宗立教開宗1200年慶讃大法会の開催に向けて、東寺ではこの袈裟を復刻したようです。それが上記の復刻版になります。紫色や赤などのもっと派手な色使いのモノと思っていたのですがシックです。
空海の御招来目録
空海の朝廷への帰国報告書である『御招来目録』については、恵果から正式に法を伝授したしるし(印信)として、以下のものを受け継いだと記します。①仏舎利八十粒(金色の舎利一粒)②白檀を刻す仏・菩薩・金剛などの像③白緋大曼荼羅尊四百四十七巻④白諜金剛界三昧耶曼荼羅尊 百二十巻⑤五宝三昧味耶金剛 一口⑥金鋼鉢子一具 二口⑦牙床子 一口⑧白螺貝 一口
これらは金剛智・不空・恵果と相伝されてきたもの8種です。①の仏含利と⑧の白螺貝は東寺に、②は金剛峯寺に、いまも伝存するようです。
白螺貝はシャンクガイ
白螺貝はシャンクガイのことで、インドでは古くから聖貝として珍重され、メディテーションツールや楽器としても使用されてきました。その中でも左巻きのシャンクガイは特に貴重とされており、宝貝中の宝貝として尊ばれきたようです。一方、恵果和尚自身が使用していたものは、次の5つです。
⑨健陀穀子袈裟 一領⑩碧瑠璃供養碗 二口⑪琥珀供養碗 一口⑫白瑠璃供養碗 一口⑬紺瑠璃箸 一具
このうちで、いまも伝存するのは先ほど見た⑨健陀穀子袈裟だけのようです。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。
恵果和尚の人寂場面です。永貞9(805)12月15日のことで、行年61歳でした。
空海の「恵果碑文」(『性霊集』巻3)には、次のように記します。
「金剛界大日如来の智拳印をむすび、右脇を下にして円寂なされた」
しかし、この絵では、智拳印ではなく、外縛(げばく)印となっていると研究者は指摘します。それはともあれ、まん中に恵果和尚、その周りを弟子が取り囲む構図は、お釈迦さまの混槃図にの構図と同じです。その後の鎌倉新宗教の祖師たちの入滅場面も、同じような構図が多いようです。その原形になったともいえるのかもしれません。
恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』には、恵果の遺言が次のように記されています。
師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。(それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。それは和尚が亡くなる日の夜のことである。死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。
長々と引用しましたが、この文章の中で伝えたいことは、恵果の次の遺命でしょう。
「あなたには、私の持っているものをすべて伝えた。だから、一日も早く日本に帰りなさい。そうして、この教えをもって天皇にお仕えし、日本国の鎮護を、また人々の幸せを折りなさい」
このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
20年という長期留学僧の年期にこだわらず、早期帰国を恵果も進めた。師の言葉には従わざるえないということです。ここからは短期で帰国することに、強い葛藤があったことがうかがえます。
第3巻‐第7場面 恵果影現(ようげん)
恵果和尚が人寂した夜、空海は一人で道場で冥想していると、その場に恵果が現れたという場面です。このとき恵果は、次のように空海に語ったとされます。
あなたと私のえにしは極めて深く、師資(しし)(師と弟子)の関係も一度や二度だけのものではない。このたびは、あなたが西行して私から法を受けられた。つぎは、私が東国に生れ、あなたの弟子となろう」
この夜の出来事が空海をして、留学を打ち切り帰国する決意を固めさせたとされます。国家の定めた留学期間を、個人の判断で短縮することは、許されることではありません。敢えてそれを破ろうとするからには、それだけの動機と理由が必要になります。そのひとつとして「恵果影現」が織り込まれているようです。
空海は、翌年正月十七日の埋葬の儀の時に、弟子を代表して「恵果碑文」(正式には,「大唐神都青龍寺故三朝の師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」)を書きます。そこには恵果和尚の人柄を次のように記します。
「…縦使(たとひ)財帛軫(しん)を接し,田園頃(けい)を比(なら)ぶるも,受くる有りて貯ふること無く,資生を屑(いさぎよ)しとせず。或いは大曼荼羅(まんだら)を建て,或いは僧伽藍処(そうがらんしょ)を修す。貧を済(すく)ふには財を以てし,愚を導くには法を以てす。財を積まざるを以て心と為し,法を恡(を)しまざるを以て性と為す。故に,若しくは尊,若しくは卑,虚(むな)しく往きて実(み)ちて帰り,近き自(よ)り遠き自り,光を尋ねて集会(しゅうえ)するを得たり。」(「遍照発揮性霊集・巻第2」『弘法大師・空海全集・第6巻』筑摩書房所収)
意訳変換しておくと
「(恵果和尚は)…たとえ,数多(あまた)の財宝・田園などを寄進(寄附)されても,受け取るだけで貯えようとせず,財産作りをいさぎよしとしなかった。(寄進を受けた財産については)あるいは大曼荼羅の制作費にあて,あるいは,寺院の建設費にあてられた。貧しい方には,惜しみなく財貨を与え,愚民を導くには,仏法を説かれた。財貨を貯蓄しないことを方針とし,仏法の教授に力をおしまないことをモットーとした。それ故に,尊貴な者も卑賤の者も,空虚な身で(恵果和尚のもとへ)出かけて満ち足りて返り,遠近から多くの人々が,光を求めて集まる結果となった。」
恵果のポリシーや生き方がよくうかがえます。このような生き方からも空海は、多くのことを学んだはずです。こうして一連の仏事をおえます。
このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
今回は、ここまでにしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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