第46回星霜軒月釜 『空海の茶会』 – 茶室 星霜軒
空海は、讃岐の善通寺で生まれた、そして故郷の満濃池を改修したと小さいときから信じてきましたが、それに異を唱える説が出てきているようです。空海は母の阿刀氏の里・河内で生まれ育ったというものです。にわかには信じられないので、ひとつずつ資料を見ていくことにします。
空海の伝記史料には、空海の出自は、どのように記しているのでしょうか。
「武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館」をテキストに見ておきましょう。

 平安時代に成立した空海伝は8つあるようです。その中の空海の出自に関する部分に絞って見ていきます。
一番古い空海の伝記は、「空海卒伝」のようです。
これは、藤原良房・春澄善縄らが編纂した正史の一つである『続日本後紀』巻四、承和二年(825)三月庚午(二十五日)条に収められています。『続日本後紀』は、貞観十一年(969)八月に完成しています。空海は835年に亡くなっていますので、死後130年近くを経ってからのものです。「空海卒伝」は、わずか247字の簡略なもので、空海の出自に関しては、
法師は讃岐国多度の部の人なり。俗姓は佐伯直
と記すだけです。この卒伝から分かることは次の2点のみです。
①空海は讃岐国多度の郡の出身であること、
②俗姓は佐伯直であったこと、
しかし、これだけでは空海が讃岐で生まれたかどうかは分からないと研究者は考えているようです。
当時は、地方豪族の中には中央官人として都で活躍する人たちもいましたが、その本籍地は出身地にそのまま残されているということが多かったのです。地方豪族にとっての夢は、中央官僚になって本貫を都に移すことでした。そのためには、実績を重ねや献金を積んで本貫を都に移すための様々な努力をしていたことが史料からはうかがえます。空海の佐伯家や和気氏の智証大師も同様です。
 そのため「讃岐国多度の部の人なり」は戸籍上の表記であって、出生地とは限らないと考えるようです。
空海伝説

2番目は、貞観寺座主の『贈大僧正空海和上伝記』です。
奥書から寛平七年(895)の成立とされ、次のように記されます。
初めは讃岐国多度の部の人なり。姓は佐伯氏。後に京地の俗に移貫す。宝亀五年甲寅に誕生す。殊に異相有り。
ここには新しい情報が2つあります。
①本貫、つまり本籍地が讃岐から京に移されたこと
②宝亀五年(774)の誕生が明記されたこと。
空海の死後に佐伯氏の本貫が京に移されたようですが、ここにも生誕地は示されません。
3番目は、『空海僧都伝』です。
巻首に「真済」とあり、巻末に「承和二年十月二日」と記されていて、10世紀半ばの成立のようです。本文を見てみると、
和上、故の大僧都、諄は空海、灌頂の号を遍照金剛と日う。俗姓は佐伯直、讃岐国多度の部の人なり。その源は天尊より出ず。次の祖は、昔日本武尊に従って毛人を征して功あり。因って土地を給う。便ち之に家す。国史・譜牒、明著なり。相続いて県令となる。
とある。ここには次のような新たな3つの情報が出てきます。
①大師の先祖は天孫(尊)であること。
②次の祖が日本武尊の蝦夷征討に加わり、その勲功によって讃岐に土地を給い、住むことになったこと。
③代々県令(郡司)を出していたこと。
 ここで初めて蝦夷遠征の軍功で、讃岐に土地を得たこと、代々軍事の家柄であったということが記されます。後代の「佐伯家=国造・郡司」説となる情報です。しかし、生誕地はありません。
巻物 [ 複製 ] 重文弘法大師二十五箇条遺告 醍醐寺所蔵の御遺告 1巻 ...

4番目は、『遺告二十五ヶ条』です。

これは『御遺告』と呼ばれ、空海の遺言状として、別格扱いされてきた文書です。しかし、今日では空海の時代のものではなく、十世紀半ばに書かれたものというのが定説のようです。本文には次のようにあります。
此の時に吾が父は佐伯氏、讃岐国多度の郡の人なり。昔敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。
とあり、『空海僧都伝』と同じく、蝦夷征討の功労によって讃岐に土地を賜わったことが記されています。そして、初めて母方の阿刀氏が登場します。しかし、ここにも生誕地はありません。
弘法大師空海の「御遺告」(最終回) | 新MUのブログ

5番目は、清寿の『弘法大師伝』(
長保四年(1002)です。
古典籍総合データベース

ここで生誕地が初めて次のように記されます。
生土は讃岐の多度の郡、俗姓は佐伯氏、後に京戸に移貫す。去じ宝亀五年甲寅に誕生す。殊に異相有り。
とあり、『寛平御伝』とほぼ同じ内容が書かれています。注目すべきは、「生土は讃岐の多度の郡」とあって、控えめに空海が讃岐国多度郡で誕生されたことを窺わせる記述がでてきます。
6番目は、東寺長者を務めた経範の『弘法大師御行状集記』(寛治三年(1089)です。
1弘法大師御行状集記
「俗姓の条第二」の項に、次のように記されています。
有る書に曰く。父は佐伯氏、昔敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。

「昔敵毛を征して班土を被れり」は、『御遺告』の文章と記述内容が一緒なので、「有る書」とは『御遺告』のことを指しているようです。『御遺告』を見ながらこの書物が書かれたことになります。
7番目は、高野山遍照光院・兼意の『弘法大師御伝』(永久年間(1113~18)です。
本文には次のように記されています。
父は佐伯直氏〈源は天尊より出ず〉、讃岐国多度の郡屏風ヶ浦の人なり。父は昔、敵毛を征して班土を被れり。母は阿刀氏の人なり。
ここには「屏風ヶ浦」という地名が初めて登場します。また、注目したいのは「父は昔、敵毛を征して班土を被れり」と、蝦夷征討に参加して土地を賜わったのは空海の父であった、と今までとは違う解釈が出てきます。
最後が、醍醐寺金剛王院の聖賢の『高野大師御広伝』広伝』元永元年(1118)です
この文書は、今までのものとくらべると記述が詳しく長くなっています。そして空海の父の名前、父から四代さかのぼった伊能までの名前をあげます。全文を紹介します。
讃岐国多度の郡屏風ヶ浦の人なり。俗姓は佐伯直、天尊より出ず。〈案ずるに、姓氏録に云わく。景行天皇の子、稲背入彦命の孫、阿良都別命の男豊島、孝徳天皇の時、初めて佐伯直の姓を賜る〉。少き時の御名は真魚。其の父を田公と曰う。
 田公の父は男足、男足の父は標波都、棟波都の父は外従八位上大人、大人の父は伊能なり。伊能の父祖は所見なし。其の先は、昔倭武命に随って毛人を征し、功勲世を蓋う。土地を讃岐国に賜う。因って之に家す。(三代実録を案ずるに、大納言伴善男の表に云わく。佐伯直の別祖は高産霊尊の後なり。裔孫大伴健日辿公、修武命に随って東国を平定す、と云々〉.子孫相次いで県令となる。
この内容を箇条書きにすると、
①空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦の人で、俗姓を佐伯直といったこと。
②その祖先は天尊から出ていること。
③幼少のときの御名を真魚といったこと。
④父の名は田公、田公の父は男足、男足の父は根波都、標波都の父は大人、大人の父は伊能であるが、伊能の父祖は不明であること。
⑤祖先のひとりが倭武命の蝦夷征討に従軍して勲功をたて、その賞に讃岐国の土地を賜い、ここに住むようになったこと。
⑥その子孫は相次いで県令、すなわち郡司を務めたこと。
 ここには今までになかった情報が数多く示されます。それを挙げると
①空海の幼名 真魚
②空海の父  田公
③父から四代さかのばる先祖の名
75番善通寺~空海一族の氏寺 四国88箇所車遍路(68) - 四国88 ...

貴人の伝記類は、最初に書かれたものは最小限の記述だけでコンパクトな物が多く、後になるに従って、いろいろなものが付け加えられて長くなっていく傾向があります。そして、後に付け加えられたものはそれぞれの思惑や時代の空気を反映して、不正確になりがちです。

  以上、平安時代の空海伝の空海家系について見てきました。
これらの記事に対して、研究者は次のような4点を指摘します。
①後世の空海伝は2番目の『寛平御伝』、3番目の『空海僧都伝』、4番目の『御遺告』が基本となっていること。
②特異なもの・注目すべきものとして、3番目の『空海僧都伝』と⑧番目の『御広伝』の二つがあること。
③3番目の『空海僧都伝』は後世の伝記にあるすべての情報源となっていること。
④番目の『御広伝』、記事の分量も多く、幼名と父の名を記し、父・田公から男足―標波都―大人―伊能と、四代さかのばらせる記事を載せること。
以上から⑧の「御広伝』の6項目は、平安期の空海伝の到達点と云えるようです。
もういちど空海誕生について見てみましょう。
この中で空海の「讃岐生誕説」の根拠となりそうなのは、⑤の『弘法大師伝』と⑥の『行状集記』の2つだけのようです。残りの6つには、空海が讃岐国で誕生されたとは明記されていません。「讃岐国多度の人なり」だけでは、
本籍地は多度郡かもしれないが、出生地が多度郡とは云えない
という指摘には応えることが出来ません。「空海=讃岐多度郡生誕説」は、平安時代の資料からは確実とは云えないようです。