前回は、9世紀末までに成立していた大師伝の次の2つを比較対照しました。
A「続日本後紀」(空海卒伝)承和2年3月25日条(貞観11年(869)年成立)B『贈大僧正空海和上伝記』(覚平御伝) 寛平7年(895)成立
その結果、空海死後の9世紀末には、真言教団内部で空海の神秘化・伝説化が行われはじめ、それが伝記の中に付加されていたことを見ました。今回は、C『遺告二十五ヶ条(御遺告)」(10世紀中頃成立)では、どうなっているのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」です。
遺告二十五ヶ条 巻首(奈良国立博物館)
遺告二十五ヶ条は、従来は次のように考えられてきました。
「空海が、死期を悟って門弟のために遺したとされる遺言。
本品は真言宗全体に関わるさまざまな事柄を二十五箇条にまとめたものである。」
遺告二十五ヶ条の冒頭部
書き下し文
①夫れ以れば、吾れ昔、生を得て父母の家に在りし時、生年五、六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居座して、諸仏と共に語ると見き。然りと雖も専ら父母に語らず。況んや他人に語らんや。此の間、父母偏に悲んで、字して貴物(とふともの)と号す。
泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて(高野空海行状図画一の1 誕生奇譚)②年始めて十二なりき。後に父母の曰く、我が子は是れ、昔仏弟子なる可し。何を以ってか之を知る。夢に天竺国従り聖人来たりて、我等が懐に入ると見き。是の如くして懐妊して産出せる子なり。然れば則ち、此の子をもたらして、将に仏弟子と作さんとすべし。吾れ若少の耳に聞き歓んで、泥土を以て常に仏像を作り、宅の傍らに童堂を造りて、彼の内に安置して礼し奉るを事と為しき。 一の1 誕生奇譚
遺告二十五ヶ条の①の五、六歳のころの逸話と②の十二歳のとき聞いた出生の秘話です。
10世紀末までに成立した大師伝は、次の5つです。
①『続日本後紀』(空海卒伝)承和2年3月25日条 貞観11年(869)年成立②『増大僧正窄海和上伝記』(覚平御伝) 寛平7年(895)成立③『遺告二十五ヶ条』(御遺告) 10世紀中頃成立)④「伝真済撰『空海僧都伝』(僧都伝) 10世紀中頃成立)⑤「金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保5年(968)成立
このうちで御遺告以外は、どれも空海の誕生から亡くなるまでを年代順に記述します。例えば①の「空海卒伝」や②の「寛平御伝」では、15歳でおじの阿刀大足について本格的に学問をはじめ、18歳で大学に入り、程なくして虚空蔵求聞持法と出会い神秘体験をへて、俗世間での出世を断念し仏門に入るという運びです。これは『三教指帰』序文を参考にしながら書かれたことがうかがえます。
ところが御遺告で冒頭に来るのは、次のようなエピソードです。
A 5,6歳のころに、いつも蓮華に坐して諸仏と語らう夢をみていたB 11歳のとき、インドの僧が懐に人るのを夢みて懐妊したので、将来、仏弟子としようと考えていたと父母から聞かされ、喜んだ。C 泥土で作った仏像を草茸きの小屋に安置し礼拝するのが常であった、
これは三教指帰などにはない事績です。遺告二十五ヶ条ではじめて登場します。
ここには空海が生まれながらに僧になることが約束されていたかのような導線として描かれます。
多くの障害を越えて空海(真魚)を平城京の大学に進学させたのは、中央の高級官僚をめざすという一族の期待を背負っていたことだ私は考えています。それを否定するエピソードが冒頭に置かれます。ここに御遺告の空海伝の性格が如実に出ているように思います。ここでは『御遺告』では、空海の生涯全般において神秘化・伝説化が著しく進んでいることを押さえておきます。そして、今までに書かれていなかった新しい空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以下、高野空海行状図画などの絵図を挿入しながら見ていきます。
ここには空海が生まれながらに僧になることが約束されていたかのような導線として描かれます。
多くの障害を越えて空海(真魚)を平城京の大学に進学させたのは、中央の高級官僚をめざすという一族の期待を背負っていたことだ私は考えています。それを否定するエピソードが冒頭に置かれます。ここに御遺告の空海伝の性格が如実に出ているように思います。ここでは『御遺告』では、空海の生涯全般において神秘化・伝説化が著しく進んでいることを押さえておきます。そして、今までに書かれていなかった新しい空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以下、高野空海行状図画などの絵図を挿入しながら見ていきます。
⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家
⑤然して後、生年十五に及んで人京し、初めて石淵の贈僧正大師(勤操?)に逢うて、大虚空蔵等並びに能満虚空蔵(虚空蔵求聞持法)の法呂を受け、心に入れて念持す。‥…一の6 聞持受法
⑥後に大学に経遊して、直講味洒浄成(あらさけのきよなり)に従って毛詩・左伝・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問う。博く経史を覧しかども、専ら仏経を好む。一の5 明敏篤学
⑩或いは土佐室生門(室戸)の崎において、寂暫として心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵の光明照し来たって普薩の成を顕し、仏法の無二を現わす。 一の11 明星入口
土佐室戸にて明星口に入り、虚空蔵の光明を照(一の11 明星入口)
⑫爰に大師石淵の贈僧正(勤操?)召し率いて、和泉国槙尾山寺に発向し、此に於いて髭髪を剃除して、沙弥の十戒、七十二の成儀を授け、名を教海と称し、後に改めて如空と称しき一の10 出家受戒
⑬此の時仏前に誓願を発して曰く「我れ仏法に従って、常に要を求め尋ぬるに、三乗五乗十二部の経、心神に疑い有って、米だ以って決を為さず。唯だ願くは三世十方の諸仏、我に不二を示したまえ」と心に折感するに、夢に人有りて告げて曰く。「此に経有り、名字は「大毘庸遮那経」と云う。是れ乃が要むる所なり」と。 二の2 久米東塔
⑭即ち随喜して件の経王を尋ね得たり。大日本の国高市の部久米の道場の東塔の下に在り。此に於いて一部緘を解いて普く覧るに、衆情滞り有りて、憚(ただ)し問う所無し。二‐2 久米東塔
⑯彼の海路の間、三千里なり。先例は揚蘇洲に至るて傾無し、とム々、面に此の度般(たび)七百里を増して衡洲(福州)に到る、障多し。
此の間、大使越前国の太守正三位藤原朝臣賀能、自手書を作して衡洲の司に呈す。洲司披き看て、即ら此の文を以って已て了んぬ。此の如くすること両三度なり。然りと雌も胎を封じ、人を追って湿沙の上に居ら令む、此の時に、大使述べて云く。切なる愁、之れ今、抑大徳は筆主になり。書を呈せよ、と云々。爰に吾れ書様を作り、大使に替わって彼の洲の長に呈す。開き覧て、咲(えみ)を含んで船を開き、問いを加えて即に長安に奏す。三十九箇目を経て、洲府の力使四人を給へり。且つ資糧を給うて、洲の長好し問うて、借屋十三烟を作りて住せ令む。五十八筒日を経て、存問の勅使等を給う。彼の儀式極り岡し。之を覧る主客、各々涙を流す。福州での大師に代わっての代書
次で後、迎客の使を給う。大使に給うには七珍の鞍を以ってす。次々の使等には皆粧る鞍を給う。
長安入京の儀式、説き尽す可きこと無し。之を見る者、選池に満てり。此の間、大使賀能大夫達、向に国に帰る。其れ延暦二十四年電時なり。即ち大唐の貞観二十一年に配り。二の5 入唐著岸
⑱少僧、大同二年を以って、我が本国に帰る。此の間、海中にして人々の云はく。日本国の天皇崩じたまへり、と云々。是の言を聞き諌(ただ)して本口の言を尋ぬるに、船の内の人、首尾を論争して都て一定せず。注り繋ひで岸に着く。或る人云いい告げらく。「天皇、某の同時に崩じたまう」者(てへり)。少僧、悲を懐いて素服を給わる。爾従り以降、帝四朝を経て、国家の奉為(おんため)に壇を建て法を修すること五十一度なり。 三の9 著岸上表
⑲神仙苑における雨乞祈祷と善女龍王について
⑲亦神泉苑(しんせんえん)の池の邊にして、御願に法を修して雨を祈るに、霊験其れ明かなること、上殿上従り下四元に至る。此の池に龍王有り、善如龍王と名く。元是れ無熱池の龍上の類なり。慈しみ有つて人の為に害心を至さず。何を以ってか之を知るとならば、御修法の比(ころおい)、人に託して之を示す。即ち真言の奥旨を敬って、池の中従(よ)り形を現す時に悉地成就す。彼の形業を現すこと、宛かも金色の如し。長さ八寸許の蛇なり。此の金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂きに居在するなり。此の現形を見る弟子等は、実恵大徳井びに真済・真雅・真照・堅恵・真暁・真然等なり。諸の弟子は敢えて覧看ること難し、具に事の心を注して内裏に奏聞す。少時の間に、勅使和気真縄、御弊種々の色の物をもって龍王に供奉す。真言道の崇めらるること、爾れ従り弥起れり。若し此の池の龍王他界に移らば、池浅く水減して世薄く人乏しからん。方に此の時に至って、須らく公家に知ら令めずして、私に析願を加うべし。而己。八の1 神泉祈雨
㉑大阿閑梨の御相弟子・内供奉十禅師順暁阿閣梨の弟子、玉堂寺の僧珍賀申して云わく「日本の座主、設ひ聖人なりと雖も是れ門徒に非ず、須らく諸教を学ば令むべし。而るを何ぞ密教を授けられんと擬す、と云々。両三般妨げ申す。是に珍賀、夜の夢に降伏せ為れて、暁旦来り至って、少僧を三たび拝して過失を謝して曰く、と云々。‥…3の3 珍賀怨念
高野空海行状図画(三の3 珍賀怨念)
㉒又去じ弘仁七年に、表をもつて紀伊国の南山を請うて、殊に入定の処とんす。一両の草庵を作り、高雄の旧居を去つて、南山に移り入る。厥の峯絶遥にして遠く人気を隔てり。吾れ居住する時に、頻りに明神の衛護在り。常に門人に語らく。我が性、山水に慣れて人事に疎し。亦、是れ浮雲の類なり。年を送って終りを待っこと、此の窟の東たり。……七の2 巡見上表
㉕万事遑無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(高野山)を看る。山の裏の路の辺りに女神有り。名づけて丹生津姫命と言う。是の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝(ふしゅく)に託して曰く、「妾は神道に在って、成福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり 。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国岬命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。冀(こいねが)わくば、永世に献して仰信の情を表す、と云々。如今(いま)、件の地の中に所有開川を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、是れなり。 七の3 丹生託宣丹生託宣
㉘但し弘仁の帝卑、給うに東寺を以ってす。歓喜に勝えず。秘密の道場と成せり。努力努力(ゆめゆめ)他人をして雑住令むること勿かれ。此れ狭き心に非ず。真を護るの謀なり。圓なりと雖も、妙法、五千の分に非ず。広しと雖も、東寺、異類の地に非ず。何を以ってか之を言うとならば、去じ弘仁十四年正月月十九日に東寺を以って永く少僧に給い預けらる。勅使藤原良房の公卿なり。勅書別に在り。即ち真言密教の庭と為ること、既に謂んぬ。師師相伝して道場と為すべき者なり。門徒に非ぎる者、猥雑す可けんや……七の11 東寺勅給 『伝全集』第一 10~23P
以上の中で⑩と⑱以外の十五項目は、遺告二十五ヶ条にはじめて出てくる話です。しかも、伝説的要素が非常に強いものです。その中でも、
②と①の出生の秘話と神童の逸話迎話、⑤と⑫の勤操を師としての虚空蔵求聞持法の受法と出家⑬と⑭の『大日経』の感得、㉒と㉕の丹生津比売命からの高野山譲渡説㉖と㉗の高野山への隠棲㉘の嵯峨天皇からの東寺給預説
などは、絵伝類の中に取り入れられ後世に大きな影響を与えます。その絵伝類の「根本史料」となったのが遺告二十五ヶ条の空海の事績のようです。遺告二十五ヶ条の事績を元に、絵伝は描かれた。そして、時代が下るにつれて、神格化・伝説化のエピソードは付け加えられ、増えていったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 大師伝説と絵伝の成立 「弘法大師 伝承と史実240P所収」
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献