瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海潅頂

遺道相伝1 高野空海行状図画
遺具相伝(高野空海行状図画)

高野空海行状図画や弘法大師行状絵詞で、空海の入唐求法がどのように描かれているのかを追いかけています。

遺道相伝2 高野空海行状図画
       高野空海行状図画    第二巻‐第5場面 道具相伝  

この場面は、正統な密教を受け継いだしるしとして、袈裟が恵果和尚から空海に渡されようとしている「遺具相伝」の場面です。

袈裟をもつのが恵果和尚、手を差出して受け取ろうとしているのが空海です。         
この袈裟が御請来目録に、恵果から相伝したとして記される健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)です。健陀とは袈裟の色調を、穀糸は綴織技法を示すとされます。仏教では、捨てられたぼろぎれを集め縫いつないだ生地で作られた袈裟を最上とし、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼びます。この袈裟も、さまざまな色や形の小さな裂を縫い留めた糞掃衣のように見えますが、実際には綴織に縫い糸を表現する絵緯糸(えぬきいと)を加え、糞掃衣を模した織物であると研究者は指摘します。この袈裟は、今も東寺に保管されているようです。それを見ておきましょう。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)
原形をとどめない健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)

傷みが激しくその原形を留めていないようです。というのも、空海が天皇の五体安穏と五穀豊穣を祈念する始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)には、導師を勤める阿闍梨がこの袈裟を着るしきたりだったからです。そういう意味では、この袈裟は真言宗においては、別格の位置を占める袈裟だったことになります。そのため長年の使用で、原型も留めないほどに痛んでいます。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)復刻
                  健陀穀子袈裟 復刻版

 2023年10月の真言宗立教開宗1200年慶讃大法会の開催に向けて、東寺ではこの袈裟を復刻したようです。それが上記の復刻版になります。紫色や赤などのもっと派手な色使いのモノと思っていたのですがシックです。

招来目録冒頭1
空海の御招来目録
空海の朝廷への帰国報告書である『御招来目録』については、恵果から正式に法を伝授したしるし(印信)として、以下のものを受け継いだと記します。
①仏舎利八十粒(金色の舎利一粒)
②白檀を刻す仏・菩薩・金剛などの像
③白緋大曼荼羅尊四百四十七巻
④白諜金剛界三昧耶曼荼羅尊 百二十巻
⑤五宝三昧味耶金剛       一口
⑥金鋼鉢子一具         二口
⑦牙床子         一口
白螺貝        一口
   これらは金剛智・不空・恵果と相伝されてきたもの8種です。①の仏含利と⑧の白螺貝は東寺に、②は金剛峯寺に、いまも伝存するようです。

白螺貝はシャンクガイ
 白螺貝はシャンクガイのことで、インドでは古くから聖貝として珍重され、メディテーションツールや楽器としても使用されてきました。その中でも左巻きのシャンクガイは特に貴重とされており、宝貝中の宝貝として尊ばれきたようです。
一方、恵果和尚自身が使用していたものは、次の5つです。
⑨健陀穀子袈裟          一領
⑩碧瑠璃供養碗   二口
⑪琥珀供養碗     一口
⑫白瑠璃供養碗   一口
⑬紺瑠璃箸     一具
このうちで、いまも伝存するのは先ほど見た⑨健陀穀子袈裟だけのようです。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。

恵果和尚入滅1
恵果御入滅

恵果和尚入滅2.jpg 高野空海行状図画
第3巻‐第6場面 恵果入滅 
恵果和尚の人寂場面です。永貞9(805)12月15日のことで、行年61歳でした。
空海の「恵果碑文」(『性霊集』巻3)には、次のように記します。

「金剛界大日如来の智拳印をむすび、右脇を下にして円寂なされた」

しかし、この絵では、智拳印ではなく、外縛(げばく)印となっていると研究者は指摘します。それはともあれ、まん中に恵果和尚、その周りを弟子が取り囲む構図は、お釈迦さまの混槃図にの構図と同じです。その後の鎌倉新宗教の祖師たちの入滅場面も、同じような構図が多いようです。その原形になったともいえるのかもしれません。

恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』には、恵果の遺言が次のように記されています。
 師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。(それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。
 それは和尚が亡くなる日の夜のことである。死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。
「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。
 このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
 孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。
長々と引用しましたが、この文章の中で伝えたいことは、恵果の次の遺命でしょう。

「あなたには、私の持っているものをすべて伝えた。だから、一日も早く日本に帰りなさい。そうして、この教えをもって天皇にお仕えし、日本国の鎮護を、また人々の幸せを折りなさい」

このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない

20年という長期留学僧の年期にこだわらず、早期帰国を恵果も進めた。師の言葉には従わざるえないということです。ここからは短期で帰国することに、強い葛藤があったことがうかがえます。

恵果の蘇り 高野空海行状図画
                第3巻‐第7場面 恵果影現(ようげん)   
恵果和尚が人寂した夜、空海は一人で道場で冥想していると、その場に恵果が現れたという場面です。このとき恵果は、次のように空海に語ったとされます。

あなたと私のえにしは極めて深く、師資(しし)(師と弟子)の関係も一度や二度だけのものではない。このたびは、あなたが西行して私から法を受けられた。つぎは、私が東国に生れ、あなたの弟子となろう」

この夜の出来事が空海をして、留学を打ち切り帰国する決意を固めさせたとされます。国家の定めた留学期間を、個人の判断で短縮することは、許されることではありません。敢えてそれを破ろうとするからには、それだけの動機と理由が必要になります。そのひとつとして「恵果影現」が織り込まれているようです。

 空海は、翌年正月十七日の埋葬の儀の時に、弟子を代表して「恵果碑文」(正式には,「大唐神都青龍寺故三朝の師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」)を書きます。そこには恵果和尚の人柄を次のように記します。
「…縦使(たとひ)財帛軫(しん)を接し,田園頃(けい)を比(なら)ぶるも,
受くる有りて貯ふること無く,資生を屑(いさぎよ)しとせず。
或いは大曼荼羅(まんだら)を建て,或いは僧伽藍処(そうがらんしょ)を修す。
貧を済(すく)ふには財を以てし,愚を導くには法を以てす。
財を積まざるを以て心と為し,法を恡(を)しまざるを以て性と為す。
故に,若しくは尊,若しくは卑,虚(むな)しく往きて実(み)ちて帰り,
近き自(よ)り遠き自り,光を尋ねて集会(しゅうえ)するを得たり。」
(「遍照発揮性霊集・巻第2」『弘法大師・空海全集・第6巻』筑摩書房所収)
意訳変換しておくと
「(恵果和尚は)…たとえ,数多(あまた)の財宝・田園などを寄進(寄附)されても,
受け取るだけで貯えようとせず,財産作りをいさぎよしとしなかった。
(寄進を受けた財産については)あるいは大曼荼羅の制作費にあて,あるいは,寺院の建設費にあてられた。貧しい方には,惜しみなく財貨を与え,愚民を導くには,仏法を説かれた。財貨を貯蓄しないことを方針とし,仏法の教授に力をおしまないことをモットーとした。それ故に,尊貴な者も卑賤の者も,空虚な身で(恵果和尚のもとへ)出かけて満ち足りて返り,遠近から多くの人々が,光を求めて集まる結果となった。」
恵果のポリシーや生き方がよくうかがえます。このような生き方からも空海は、多くのことを学んだはずです。こうして一連の仏事をおえます。
このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
今回は、ここまでにしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
武内孝善/弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く

参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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DSC04584
弘法大師行状絵詞の詞書 遣唐使帰国後の空海の動静
空海は、遣唐大使の一行が長安を離れた帰国の道に着いた後、805(永貞元)年2月11日、西市の東南の角にあった西明寺の永忠(ようちゅう)和尚の故院に移り住みます。そして、本格的な留学生活に入ります。空海が最初に学んだことは、密教の伝授・潅頂を受けるために欠かせない梵語の習得だったと研究者は考えています。その先生は礼泉寺の北インド出身の般若三蔵とインド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵でした。

DSC04587青竜寺での恵果と空海
長安・青龍寺での恵果和尚と空海の出会い(弘法大師行状絵詞)

空海が恵果和尚を訪ねたのは、同じ年の5月末のころのようです。
『御請来目録』には、西明寺の志明・談勝ら数人とともに、青龍寺東搭院に恵果和尚を訪ねたところ、初対面の空海に対して、次のように話したと記します。
我、先より汝が来らんことを知りて、相待つこと久し,今日相見ること大だ好し、人だ好し。報命尽きなんと欲するに、付法に人なし。必ず須く速かに香化を辯じて、潅頂に入るべし、と                       「定本空海全集』一  35P
意訳変換しておくと
①あなたが私のところを訪ねてくる日を、首を長くして待っていた。
②今日、会うことが出来て、とても嬉しく思う。
③私の寿命は、もはや尽きようとしているが、正式に法を授ける人がえられず、心配していた
④いま、あなたと出逢い、付法の人であることを知った。すみやかに潅頂に入りなさい。
こうして空海への潅頂受法が次のように進みます。
6月上旬に入悲胎蔵生
7月上句に金剛界
8月上旬に伝法阿閣梨位
こうしてインド直伝の正当な密教を空海は受法し、「遍照金剛」の湛頂名を授かります。この潅頂名は、6月・7月の2度の潅頂の時に敷曼荼羅の上に花を投げたところ(投花得仏)、二度とも中尊・大日如来の上に花がおらたことによるとされます。これを見て恵果は、「不可思議なり、不可思議なり」と、感嘆の声を発せられたと伝えられます。

潅頂1 高野空海行状図画
空海の潅頂 (高野空海行状図画)

空海の入唐の中で最も重要な成果とされる潅頂受法の場面です。

空海潅頂 青竜寺 高野空海行状図画
空海潅頂(高野空海行状図画) 天蓋の下に描かれるのは空海のみ



高野空海行状図画 潅頂2
青瀧寺での空海潅頂受法(高野空海行状図画)
天蓋をさしかけられ、粛々と湛頂道場にむかう恵果(けいか)和尚。その和尚に付きしたがう空海、
時代が下ると2人になる?

大師長安滞在2
空海の潅頂(弘法大師行状絵詞)
ほら貝・繞(にょう)・銅鑼(どら)などをもって先導する色衆の僧達。向かう先は、青龍寺東塔院の潅頂道場です。
潅頂頂道場について、恵果和尚の直弟子のひとり呉殷の撰『恵呆阿間梨行状』は、次のように記します。
湛頂殿の内、浮屠(ふと)の塔の下、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び一々の尊曼荼羅を図絵す。衆聖粛然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧き容(かたち)に還る。一たび視、一たび礼するもの、罪を消し福を積む。(『定本全集』第一。111P)

意訳変換しておくと
湛頂殿の内や、浮屠(ふと:卒塔婆)の塔の下、内外の壁面には、すきまなく曼荼羅・諸仏・諸尊が画かれていている。それはあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった。ひとたび、この世界を見たものは罪が消え、福を積む

しかし、潅頂道場は描かれてはいません。

密教ではお経とかテキスト、教科書のようなものだけで勉強しても本質は伝わらないということを重視します。
師から弟子へ教えを受け継ぐ際に行われる儀式が灌頂です。灌頂の「灌」というのは、水を注ぐという意味。頂というのは頭の頂です。師が水をたたえたコップだとします。そのなかに入っている水は密教という教え。それを弟子に受け継ぐときには師匠のコップから弟子のコップに注いで、こぼれないように移すというイメージです。ですから人から人に伝わらないと正式な教えは伝わらないということになります。まさに口伝なのです。

 密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視します。こうして師から弟子に教えが受けつがれると血脈(法脈)という系図のようなものが出来上がっていきます。その原型がここに描かれていることになります。真言密教の僧侶が潅頂を受けるときに、思い描いたイメージはここにあるようです。

潅頂式典の後は、青竜寺の食堂での宴が開かれます。詞書には、次のように記します。
「この日、五百の僧、齊をもうけ、遍く四衆を供養したまいし」

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青竜寺の食堂右側

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青竜寺の食堂左 五百人の僧が参加した空海潅頂の宴(弘法大師行状絵詞)

私が気になるのは、「この潅頂の宴の経費は。どこから捻出されたか?」ということです。空海の自腹なのでしょうか、恵果の好意なのでしょうか。普通は灌腸を受けた者が、お礼に設ける席なので空海だと思うのですが、空海にそれだけの経済力があったのでしょうか。この当たりは、また別の機会にお話しします。

一方で、空海への潅頂については、批判や異議を唱えるものもいたようです。

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珍賀怨念(弘法大師行状絵詞)

弘法大師行状絵詞には、恵果和尚の兄弟弟子に順暁(じゅんぎょう)阿閣梨がいて、その弟子に上堂寺の珍賀という僧侶がいました。珍賀は、恵果和尚がいとも簡単に空海に密教を授けようとすることを再三非難して、中止を求めたことが次のように記されています。

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恵果和尚に諫言する珍賀(弘法大師行状絵詞)

門徒でない空海に、どうして密教を伝授なさるのか、このことについては、私は納得ができません。ただちに中止していただきたい。


ところが詞書には、ある夜の夢の中に四天王が現れ、妨害をする珍賀を責め立てたと記します。それがこの場面になります。
弟子のそねみ
「珍賀怨念」 夢の中で四天王が珍賀を責め立てる(高野空海行状図画)
「何とぞおゆるしを」と叫ぶ珍賀の声が聞こえてきそうです。非をさとった珍賀は、翌朝に空海を訪ね、非礼を心から詫びます。それが次のシーンです。

珍賀・守敏
 空海に非を詫びる珍賀
密教僧が守るべき戒である「三味耶戒」では、法を惜しんではならないと厳しく戒めています。また、密教では夢が重要視されました。ちなみに、珍賀の師とされる順暁阿間梨は越州(紹興)で、最澄に「三部三味耶の灌頂」を授けた密教の阿閣梨でもあるようですが、その経歴はよく分かならないようです。 以上からは、空海に対して短期間で潅頂が進められたことについて、周囲からは不満や批判的な声も挙がっていたことがうかがえます。
次の場面は、興福寺の僧守敏の護法(仏法を守護する鬼神)が、恵果和尚からの受法を盗み聞きしているところです。
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            弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
空海が恵果和尚より胎蔵界の教えを授かっています。赤い経机の上に香炉と仏具を置いて、経典を開きながら教えを授けるのが恵果、その前の香色の僧衣を纏うのが空海。この絵には、壁の外側からのぞき込み鬼神が描かれています。これが興福寺の守敏が長安まで遣わした「護法」だと云うのです。空海は、これを知りながら胎蔵法潅頂のときは見逃してやります。しかし、金剛界法のときは結界を張って近づかせなかったと詞書には記します。

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空海によって張られた結界 弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
赤い炎が建物の周りをめぐり、結界となって鬼神を追い払っています。ちなみに興福寺の守敏は、八巻の第1段「神泉析雨」第2段の「守敏降伏」にも、雨乞祈祷に登場してきます。空海とたびたび呪術争いを演していて、真言僧侶達からは「敵役」と目されていたようですが、その経歴などについてはよく分からないようです。ここからも、空海の潅頂を巡っては、いろいろな波風が立っていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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