瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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1 空海系図52jpg
ふたつの佐伯直氏の家系 

  以前に空海を生み出した讃岐の佐伯直氏一族には、次のふたつの流れがあることを見ました。
①父田公 真魚(空海)・真雅系            分家?
②父道長(?)実恵・道雄(空海の弟子)系        惣領家?

①の空海と弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏についてはいくつかの史料があります。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、40年前に本籍地を讃岐から京に移していたことは以前にお話ししました。こうして見ると、讃岐国における佐伯直氏の本家筋に当たるのは、実忠・道雄系であったようです。

もうひとつ例を挙げておくと、空海の父・田公が無官位であることです。
官位がなければ官職に就くことは出来ません。つまり、田公が多度郡郡長であったことはあり得なくなります。当時の多度郡の郡長は、実恵・道雄系の佐伯直氏出身者であったことが推測できます。一方、空海の弟たちは地方役人としては高い官位を持っています。父が無官位で、その子達が官位を持っていると云うことは、この世代に田公の家は急速に力をつけてきたことを示します。
今回は、実恵・道雄系のその後を見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏」です。
「続日本後紀』『日本三代実録』などの正史に出てくる実恵・道雄系に属する人物は次の4人です。
佐伯宿価真持
    長人
    真継
    正雄
彼らの事績を研究者は、次のように年表化します。
836(承和3)年11月3日 讃岐国の人、散位佐伯直真継、同姓長人等の二姻、本居を改め、左京六條二坊に貫附す。
837年10月23日 左京の人、従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持等、姓佐伯宿禰を賜う。
838年3月28日  正六位上佐伯直長人に従五位下を授く
846年正月七日    正六位上佐伯宿禰真持に従五位下を授く
846年7月10日   従五位下佐伯宿禰真持を遠江介とす.
850年7月10日   讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿禰を賜い、 左京職に隷く.
853(仁寿3)年正月16日  従五位下佐伯宿禰真持を山城介とす。
860(貞観2)年2月14日  防葛野河使・散位従五位下佐伯宿禰真持を玄蕃頭とす。
863年2月10日   従五位下守玄蕃頭佐伯宿禰真持を大和介とす。
866年正月7日    外従五位下大膳大進佐伯宿禰正雄に従五位下を授く。
870年11月13日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰真継、新羅の国牒を本進す。即ち「大字少弐従五位下藤原朝臣元利麻呂は、新羅の国王と謀を通し、国家を害はむとす」と告ぐ。真継の身を禁めて、検非辻使に付せき。
870年11月26日 筑後権史生正七位上佐伯宿禰貞継に防援を差し加へて、太宰府に下しき。
この年表からは、それぞれの人物について次のようなことが分かります。
①例えば、佐伯宿禰真持は以下のように、官位を上げ、役職を歴任しています
・承和3(836)年11月に、真継・長人らとともに本籍地を左京六條二坊に移したこと
・その翌年には正月に正八位上で、長人らと宿禰の姓を賜ったこと
・その後官位を上げて、遠江介、山城介、防葛野河使、玄蕃頭、大和介を歴任している。
こうしてみてくると、真持、長人、真継の3人は、同じ時期に佐伯直から宿禰に改姓し、本拠地を京都に遷しています。ここからは、この3人が兄弟などきわめて近い親族関係にあったことがうかがえます。これに比べて、正雄は13年後に、改姓・本籍地の移転が実現しています。ここからは、同じ実恵・道雄系でも、正雄は3人とは系統を異にしていたのかもしれません。
最後に、空海・真雅系と実忠・道雄系を比較しておきます。
①改姓・京都への本貫地の移動が実恵、道雄系の方が40年ほど早い
②その後の位階も、中央官人ポストも、実恵、道雄系の方が勝っている。
ここからも、実恵・道雄系が佐伯氏の本流で、空海の父田公は、その傍流に当たっていたことが裏付けられます。この事実を空海の甥たちは、どんな風に思っていたのでしょうか?
    改姓申請書の貞観三年(861)の記事の後半部には、次のように記されています。
①同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門(空海の甥たち)は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。
②大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。
豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」

④善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらず』と。之を従す。

意訳変換しておくと
①豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄(惣領家)は、すでに本貫(本籍地)を京兆(京都)に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の功績による所が大きい。しかし、田公の一門の(我々は)改居・改姓を許されていない。実恵・道雄の二人は、空海の弟子である。 一方、田公は空海の父である。

②田公一門の大僧都真雅(空海の弟)は、今や東寺長者となり、(我々も真雅からの)加護を受けて居るが、実恵・道雄一門の扱いに比べると、及ぼないことは明らかである。

③一門の豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、(伯父・空海の)往時をかえりみると、(われわれの現在の境遇に)悲歎することが少なくない。なにとぞ(惣領家の)正雄等の例に習って、宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

④以上の申請状の内容については、(佐伯直一族の本家に当たる)伴善男らが「家記(系譜)」と照合した結果、偽りないとのことであったのでこの申請を許可する。


 空海の甥たちの思いを私流に超意訳すると、次のようになります。
 本家の真持・正雄の家系は、改姓・改居がすでに行われて、中央貴族として活躍している。それは、東寺長者であった実恵・道雄の中央での功績が大である。しかし、実恵・道雄は空海の弟子という立場にすぎない。なのに空海を出した私たちの家には未だに改姓・改居が許されていない。非常に残念なことである。
 今、我らが伯父・大僧都真雅(空海の弟)は、東寺長者となった。しかし、我々は実恵・道雄一門に比べると、改姓や位階の点でも大きな遅れをとっている。伯父の真雅が東寺長者になった今こそ、改姓・改居を実現し、本家筋との格差を埋めたい。
ここからも佐伯直氏には、ふたつの系譜があったことが裏付けられます。
そうだとすれば、善通寺周辺には、ふたつの拠点、ふたつの舘、ふたつの氏寺があっても不思議ではありません。そういう視点で見ると次のような事が見えてきます。

旧練兵場遺跡 詳細図
善通寺の旧練兵場遺跡群の周辺

①仲村廃寺と善通寺が並立するように建立されたのは、ふたつの佐伯直氏がそれぞれに氏寺を建立したから
②多度郡の郡長は、惣領家の実恵・道雄の一門から出されており、空海の父・田公は郡長ではなかった。
③それぞれの拠点として、惣領家は南海道・郡衙に近い所に建てられた、田公の舘は、「方田郷」にあった。
④国の史跡に登録された有岡古墳群には、横穴式石室を持つ末期の前方後円墳が2つあります。それが大墓山古墳と菊塚古墳で、連続して築かれたことが報告書には記されています。これも、ふたつの勢力下に善通寺王国があったことをしめすものかも知れません。
 
どちらにしても、佐伯一族が早くから中央を志向していたことだけは間違いないようです。
それが、空海を排出し、その後に、実恵・道雄・真雅・智泉・真然、そして外戚の因支首(和気)氏の中から円珍・守籠など、多くの僧を輩出する背景だとしておきます。しかし、これらの高僧がその出身地である讃岐とどんな交渉をもっていたのかは、よく分かりません。例えば、空海が満濃池を修復したという話も、それに佐伯氏がどう関わったかなどはなどは、日本紀略などには何も触れていません。弘法大師伝説が拡がる近世史料には、尾ひれのついた話がいくつも現れますが・・・

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佐伯直氏祖廟(善通寺市香色山)背後は我拝師山

ここでは、次の事を押さえておきます。
①地方豪族の中にも主流や傍流などがあり、一族が一体として動いていたわけではなかったこと
②佐伯直一族というけれども、その中にはいろいろな系譜があったこと
③空海を産んだ田公の系譜は、一族の中での「出世競争」では出遅れ組になっていたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   
武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏
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前回までは円珍(智証大師)を生んだ那珂郡の因支首氏の改姓申請の動きを見てきました。実は、同じ時期に空海の実家である佐伯直氏も改姓申請を行っていました。円珍の母は空海の父田公の妹ともされていて、両家は非常に近い関係にあったようです。今回は因支首氏に先行して行われていた佐伯直氏の改姓運動を見ていこうと思います。テキストは武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の家系や兄弟などを知るうえでの根本史料とされるのが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。
ここには、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら十一名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたときの記録が記されています。公的文書なので、もっとも信頼性のある史料とされています。空海の甥たちは、どのようなことを根拠に佐伯直から佐伯宿禰への改姓を政府に申請したのでしょうか。
「貞観三年記録」の全文を十の段落に分けて、見ていきましょう。

①讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

意訳変換しておくと
①多度郡の佐伯直田公の息子や甥など佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、彼らの男の貞持・貞継・葛野、豊雄、豊守、栗氏ら十一名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職に移されたこと。

ここに登場する空海の弟や甥たちを系図化したものが下図です。
1佐伯家家系
佐伯宿禰の姓を賜わった九名の名があげられています。このなかで他の史料でその実在が裏付けられるのは、空海の弟の鈴伎麻呂と甥の書博士・豊雄のふたりだけのようです。
鈴伎麻呂に付いては、『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月甲申二十二日)条に、 次のように記されています。
詔(みことの)りして曰(のたま)はく、天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと勅(おほみこと)大命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る.巡察使の検(けむ)して奏し賜へる国々の郡司等の中に、其の仕へ奉(まつ)れる状(さま)の随(したがう)に勤み誉しみなも、冠位上(あげ)賜ひ治め賜はくと。勅(おほみこと〉天皇(むめら)が大命(おほみこと)を衆(もろちろ)間き食(たま)へと宣(の)る。正六位上高向史公守、美努宿輌清貞、外正六位上久米舎人虎取、賀祐巨真柴、佐伯直鈴伎麿、久米直雄口麿に外従五位下を授く。

この史料は、天長二年(835)8月丁卯(27日)に任命され、同年十二月丁巳(十九日)各国に派遣された巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司の中から褒賞すべき者ものに外従五位下を授けたときの記録です。このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に佐伯直鈴伎麿がいます。
   松原弘宣氏は、これについて次のように記します。
この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえる。

 ここからは、この記録に出てくる佐伯直鈴伎麿は空海の弟と同一人物とし、多度郡の郡司(大領)を務めていたとします。

ここからは、空海に兄弟がいたことが分かります。
一番下の弟・真雅は、当時は天皇の護持僧侶を務めていました。真雅と空海の間には親子ほどの年の開きがあります。そのため異母兄弟だったことが考えられます。
 段落②です
②是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。

意訳変換しておくと

②この改姓・改居は、空海の甥に当たる書博士・豊雄の申し出をうけた大伴氏本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏した。

 伴(大伴)善男は、貞観三年(861)8月19日に、左京の人で散位外従五位下伴大田宿爾常雄が伴宿爾の姓を賜わったときにも、上奏の労をとっています。その時も、家記と照合して偽りなきことを証明し、勅許を得ています。その時の記録に記された善男の官位「正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫」は、この当時のものに間違いないようです。ここからは、善男が、伴(大伴)氏の当主として、各方面からの申請に便宜をはかっていたことが裏付けられます。この記述には問題がなく信頼性があるようです。
3段目です
③『書博士正六位下佐伯直豊雄の款に云はく。「先祖大伴健日連公、景行天皇の御世に、倭武命に随いて東国を平定す。功勲世を蓋い、讃岐国を賜わりて以て私宅と為す。

意訳変換しておくと

③書博士の佐伯直豊雄は申請書に次のように記している。先祖の大伴健日連は、景行天皇のときに倭武命にしたがって東国を平定し、その功勲によって讃岐国を賜わり私宅としたこと。

前半の「大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したこと」については、『日本書紀』景行天皇四〇年七月戊成(十六日)条に、次のように記されています。
天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(みことおほ)せたまひて、日本武尊に従はじむ。そして同年の条に甲斐の国の酒折宮(さかわれのみや)において、報部(ゆけひのとものを)を以て大伴連の遠祖武日に賜う。

 ここからは、大伴武日連は日本武尊の東国平定に従軍し、甲斐の国で兵士を賜わったと伝えられています。しかし、これを讃岐の佐伯直豊雄が「先祖の大伴健日連」とするのは「問題あり!」です。これは大伴氏の先祖の武勇伝であって、佐伯直の物語ではありません。この辺りに佐伯直の系譜を、大伴氏の系譜に「接ぎ木」しようとする意図が見えてきます。


4段目です
④健日連公の子、健持大連公の子、室屋大連公の第一男、御物宿爾の胤、倭胡連公は允恭天皇の御世に、始めて讃岐国造に任ぜらる。

意訳変換しておくと
④その家系は、健日連から健持大連、室屋大連、その長男の御物宿爾、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連が允恭天皇のとき讃岐国造に任ぜられた。
1佐伯氏
『伴氏系図』
「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれている
道長の父が田公になっている

佐伯家の家系を具体的に記したところです。健日連から倭胡連にいたる系譜の「健日連― 健持大連 ― 室屋大連 ― 御物宿爾」
の四代は、古代の系譜に関してはある程度信頼できるとみなされている『伴氏系図』『古屋家家譜』とも符合します。健日から御物にいたる四代は、ほぼ信じてよいと研究者は考えています。
5段目です
⑤倭胡連公は、是れ豊男等の別祖なり。孝徳天皇の御世に、国造の号は永く停止に従う。

意訳変換しておくと
倭胡連は豊男らの別祖であること、また孝徳天皇のときに国造の号は停止されたこと。

  前半の倭胡連は豊雄らの別祖であるというのは、きわめてミステリックな記述と研究者は指摘します。なぜなら、みずからの直接の先祖名を記さないで、わざわざ「別祖」と記しているからです。逆に、ここに「貞観三年記録」のからくりを解く鍵がかくされていると研究者は考えているようです。これついては、また別の機会にします。
  後半の孝徳天皇のときに国造の号が停止されたことは、史実とみなしてよいとします。
『日本書紀』巻二十五、大化二年(六四六)正月甲子(一日)条から、国造の号は大化の改新に際して廃止され、新たにおかれた郡司に優先的に任命された、と考えられているからです。それまでは、国造を務めていた名家であるという主張です。

6段目です

⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。

意訳変換しておくと

豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の両大師の功績による。しかし、空海の一族であるわれわれ田公一門は、まだ改居・改姓を賜っていない。

第六段の前半は、豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっていることです。
真持の正史に残る記述を並べると次のようになります。
承和四年(837)十月癸丑(23日)左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月己西(7日)正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年(846)七月己西(十日)従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月丁未(十六日)従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月十四日乙未 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす
同五年(863)二月十日癸卯 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和の介とす。

ここからは確かに、真持は承和四年(837)に長人らと佐伯宿禰の姓を賜わっていることが分かります。また「左京の人」とあるので、これ以前に左京に移貫していたことも分かります。同時に改姓認可されている長人の経歴をみると、前年の承和三年(836)十月己酉(十二日)条に、次のように記されています。

讃岐国の人散位佐伯直真継、同姓長人ら二姻、本居をあらためて左京六条二坊に貫附す。

真持もこのときに長人と一緒に左京に本貫が移されたようです。ちなみに、生活はすでに京で送っていた可能性が高いようです。
  正雄の経歴も正史に出てくるものを見ておきましょう。
嘉祥三年(850)七月乙酉(十日)讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月七日甲申 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
ここからは、正雄は真持よりも13年遅れて宿爾の姓を賜い、左京に移貫していることが分かります。以上から申請書の通り、本家筋の真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
  
第6段の後半は、真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるとする点です。
実恵の経歴については、この時代の信頼できる史料はないようです。道雄には、『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月己西(八日)条に、次のような卒伝があります。
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

道雄の誕生地は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海の下で真言宗を学んだことが分かります。実恵、道雄については、古来より讃岐の佐伯氏出身とされていて、信頼性はあるようです。

 実恵は承和十四年(847)十一月十三日に亡くなっていますので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居をサポートすることはできません。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっています。正雄の改姓については、支援サポートすることはできる立場にあったようです。
 とすると、真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)のことなので、こちらには東寺長者であった実恵の尽力があったと考えられます。ここからは研究者は次のように考えているようです。
A 実恵は真持一門に近い出自
B 道雄は正雄一門に近い出身
どちらにしても、佐伯道長を戸長とする佐伯一族には、いくつかの家族がいて、本家筋はすでに改姓や本貫地の移動に成功していたことが分かります。この項目は信頼できるようです。

7段目です
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。

意訳変換しておくと
⑦実恵・道雄の二人は、空海の弟子であり、田公は大僧正空海の父である。

前半の実恵・道雄が空海の弟子であったことは、間違いないので省略します。後半の「田公は空海の父」とするのは、この「貞観三年記録」だけです。

8段目です
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。

意訳変換しておくと

⑧空海の弟の大僧都真雅は、東寺長者となっているが、本家筋の実恵・道雄一門に比べると、我々田公一門への扱いは低い。

 真雅が田公一門の出身であることは、彼の卒伝からも明らかです。『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、

僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)

とあって、次のことが分かります。
①もとは佐伯直で讃岐国多度郡に住んでいたこと、
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと
また、真雅は貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となったばかりでした。この時を待っていたかのように、改姓申請はその翌年に行われています。
 後半の「実恵・道雄一門に比べるとその高下は明らかである」というのは、実恵・道雄一門の佐伯氏の人たちが、すでに佐伯宿爾への改姓と京職への移貫をなしとげていることを指しているようです。この段落も疑わしい点はないようです。

9段目です
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。

意訳変換しておくと

③空海の甥・豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえみて悲歎することが少なくない。なにとぞ本家の正雄等の例にならって、田公一門にも宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

書博士・豊雄については、この「貞観三年記録」にしか出てきません。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたとしておきましょう。
「往時をかえりみるに悲歎することが少なくない」というのは、空海の活躍に想いを馳せてのことなのでしょうか。この言葉には、当時の田公一門の人たちの想いが込められていると研究者は考えているようです。
最後の10段目です
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらずと。之を従す。

意訳変換しておくと
以上の款状の内容について、伴善男らが大伴氏の「家記」と照合した結果、系譜上に偽はなかった。よってこの申請を許可する。

  この記録は、大きく分けると次のように二段落に分けることができるようです。
A 前半の①と②は、佐伯宿禰の姓を賜わった鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続柄と、この申請について伴宿爾善男(大伴氏)が関わったこと
B 後半の③から⑩には、書博士豊雄が作成した款状、 つまり官位などを望むときに提出した願書と善男がその内容を大伴氏の「家記」と照合したこと
 「貞観三年記録」の記事の信憑性について、段落ごとに研究者は検討しています。一つ一つの記事は、大伴氏が伝えてきた伝承などにもとづくものがあったとはいえ、ほぼ信頼していいようです。

しかし、研究者にとって疑問残ることもあるようです。
第一は、佐伯連の始祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、すっぽり欠落していることです。
1佐伯氏
大伴氏系図

第二は、大伴氏の系図には、空海の父・田公が「少領」と尻付きに記されていることです。ところが「貞観三年記録」の田公には、官位は記されていません。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。
凡そ郡司には、性識清廉(しょうしきせいれん)にして、時の務(つとめ)に堪えたらむ者(ひと)を取りて、大領(だいりょう)、少領と為よ。強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に工(たくみ)ならむ者(ひと)を、主政(しゅしょう)、主帳(しゅちょう)と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。〈其れ大領、少領、才用(ざいよう)同じくは、先ず国造(こくぞう)を取れ。)

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領(郡司)であったとすれば、必ず位階を持っていたはずです。しかし、「貞観三年記録」の田公には、位階が記されていません。史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料です。そのため「貞観三年記録」にしたがって、空海の父・田公は無位無官であった、と研究者はみなします。
以上をまとめておくと、次のようになります。
①田公一門の直接の先祖をあげないで、「別祖である」とわざわざ断ってまで中央の名門であった佐伯連(宿禰)に接ぐこと、
②佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から田公までの間が、すっぽり欠落していること、
③「貞観三年記録」の倭胡連公までと田公の世代とは、直接繋がらないこと
④倭胡連公のところで系譜が接がれていること
これらの背景について、研究者は次のように考えています。
この改姓申請書は、空海の弟真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、佐伯直氏が空海一門であることを背景に、中央への進出を企て申請されたものであること。 つまり「佐伯直氏の改姓・本貫移動 申請計画」なのです。それを有利に進めるために、武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労を依頼します。さらに、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借用します。それに田公以下の世代を「接ぎ木」したのが「貞観三年記録」の佐伯系譜だったようです。
 そのために大伴氏の系図にみられるように、讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断ってまで記し、そこに「接ぎ木」しています。
 讃岐国・佐伯直氏のひと続きの家系のように記されていた系譜は、じつは倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿禰氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものだったと研究者は指摘します。
「是れ豊雄らの別祖なり」以下の歯切れの悪い文章が、この辺の事情を雄弁に物語っているようです。それでは、別の視点から「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、信頼できる部分はどこなのでしょうか。
 それは、田公以下の十一名の世代だけは、空海の近親者として信じてよい、と研究者は考えているようです。空海には、郡司として活躍する弟がいたり、中央の書博士になっている甥もいたのです。
 また、『御広伝』『大伴系図』などにみられた伊能から男足にいたる四代の人たち、「伊能直――大人直―根波都―男足―田公」の系譜も、ある程度信頼できるようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
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799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首(円珍の一族)秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 ここからは9世紀の讃岐の有力豪族である空海の佐伯直氏やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)が、それまでの姓を捨て、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなっていたことが分かります。以前に円珍の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを見ました。今回は空海の佐伯直氏の改姓申請を追ってみましょう。 
  どうして、改姓申請や都への本貫地移動申請が出されるようになったのでしょうか。
 地方豪族の当時のサクセスストーリーは、中央官僚として活躍し、本貫地を都に移すことでした。そのために、官位を挙げるために実績を上げたり、政府への多額献金で官位を買ったりしています。つまり、故郷を捨てて花の都で中央官僚としてしての栄達の道を歩むことが夢であったようです。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 
金蔵寺を氏寺とする円珍の因支首氏の場合も、因支首氏という姓では、田舎豪族の響きで格好が悪いと思っていたのかもしれません。同族の伊予国の和気氏は、郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みたと研究者は考えているようです。さて、それならば空海の佐伯氏はどうだったのでしょうか。

佐伯氏の改姓申請に対する中央政府の承認記録が残っているようです。
  それが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。この時期は、空海が亡くなって26年後のことになります。空海の父・田公につながる一族11名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国から左京職に移すことを許されたときの記録です。これは「貞観三年記録」と呼ばれ、「公的史料」ですので、佐伯家の系譜を見る上での根本史料とされています。今回は、ここに何が書かれ、何が分かるのかを見ていきます。最初に書かれるのは改姓を認められた空海の①弟たちと②③甥たちの名前と位階が記されています
①讃岐国多度郡の人、
故の佐伯直田公の男(息子)
故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂
故の正六位上佐伯直酒麻呂
故の正七位下佐伯直魚主
②鈴伎麻呂の男、
従六位上佐伯直貞持、
大初位下佐伯直貞継、
従七位上佐伯直葛野、
③酒麻呂の男、
書博士正六位上佐伯直豊雄
従六位上佐伯直豊守
魚主の男、従八位佐伯直粟氏
11人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

④是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。
を意訳すると
①②③佐伯直田公の息子たち(空海の兄弟)の
佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、
そして彼らの息子(空海の甥)の貞持・貞継・葛野、豊雄。豊守、栗氏ら11名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職(都)に移されたこと。
④この改姓・改居は、書博士豊雄の申し出をうけた大伴氏(この当時は伴氏と称していた)本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏したこと。
この史料から空海に連なる親族を系図にすると、次のようになるようです。

1空海系図2
空海系図
最初に、これを見たときに私は「空海には兄弟たちがいたという」驚きを覚えたことを思い出します。
この系図から分かることを挙げていきましょう。
①空海の父は「田公」であること。
地元では
「空海の父は善通であり、父のために建立したお寺なので善通寺とした」

と云われています。しかし、これは近世になって善通寺が「空海生誕の地」に建つことを強調するために流布されたものであることは、以前にお話した通りです。根本史料には空海の父は「田公」と明記されています。
②空海には、4人の弟がいること。
③一番末の真雅は、空海との年齢差は27歳とされます。
ここから、腹違いの弟と研究者は考えているようです。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
空海の末弟・真雅(地蔵院流道教方先師像のうち真雅像)

 真雅については『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、次のように記します。
僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)
とあって、
①もとは佐伯直で9歳までは讃岐国多度郡に住んでいたこと
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと、
が記されています。また、真雅はこの改姓申請が承認される前年の貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となり、宗内で並びなき地位に登ります。
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空海行状絵図 三尊と雲に乗って談義する真魚 その奥の部屋では鳩眠る弟が描かれている



④空海の兄弟の中で、次男の鈴伎麻呂は実在が確認できます。
『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月条の記録の中に、巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司のなか褒賞すべきものに外従五位下を授けたとあり、このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に讃岐の佐伯直鈴伎麿の名前があります。
   松原弘宣氏は、次のように記します。
「この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえるのである。

 この鈴伎麿を空海の弟の鈴伎麻呂とみなします。空海の弟は多度郡の郡司を勤めたいたようです。しかし、残りに二人の弟については分かりません。
⑤この記録に女性は出てきません。
そのため母親の名前も、何人かいたとされる姉や妹も分かりません。
⑥空海の弟酒麻呂の息子・豊雄は、書博士として大学寮に出仕していたようです。
彼については、これ以外に史料はありません。しかし、書博士になっているのですから、書は巧みであったことがうかがえます。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたと勝手に想像しています。彼がまとめた空海一族の系譜は、直接に官庁に提出されたわけではないようです。それを取り次ぎ上奏したのは、大物です。
⑦改姓・改居の上奏を行った伴宿禰善男とは、何者なのでしょうか
「是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言(もう)さく」
と、申請者に名前の出てくる人物は、名門大伴氏の当主のようです。佐伯氏は、大伴氏の出とされ同族意識を持っていたことは、以前にお話ししました。そのために、空海の甥の豊雄が書いた佐伯直氏の系譜を、大伴氏の系譜と照会し、間違いないことを保証し、中央官庁に申請したようです。一族の大物の力を借りているようです。
860年に佐伯直氏から改姓願いが出された背景は?
それは空海の弟・真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、空海一門であることを背景に、中央へのさらなる進出を計ろうとする狙いがあった研究者は考え、次のように記します。

  「この計画を有利に進めるために、古来都における武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労をたのみ、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借りて佐伯の興りを記し、それに田公以下の世代を繋ぎあわせたのが、「貞観三年記録」にみられる佐伯の系譜であった」

 そのためにいままでの讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断って、そこに系譜を継ぐという行為に表れているといえるようです。
 その系譜工作に大伴氏の当主であった伴宿禰善男も手を貸していることになるようです。
以上をまとめておくきます。
①書博士の佐伯直豊雄が中心となって申請し、佐伯宿爾への改姓と左京職への移貫が勅許されたときの記録「貞観三年記録」からは次のような事が分かる。
②讃岐国・佐伯直氏の系譜は、倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿而氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものである。
③にもかかわらず「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、空海の父・田公以下11名の世代の存在は信用できる。
④また、田公から4代前の
伊能直 ― 大人直 ― 根波都 ― 男足 ― 田公

 の系譜も、ある程度信用できる
では、この信頼できる11名の世代から何がわかるのでしょうか?
 研究者は、空海の弟や甥たちの位階は、地方在住にしては異常ともいえるほどきわめて高いことを指摘します。次回は、なぜ空海の一族の位階が高かったのかを見ていくことにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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