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 空海については、さまざまな伝説が作られ語り継がれてきました。それは、高野聖などによって各地に広められていったようです。では、その原型となったものは何なのでしょうか。それはひとつには、空海の生涯を描いた絵伝巻物ではないかと思います。巻物を通じて空海の生涯は語られ、伝説化し、それを口伝で高野聖たちが庶民に語ったのでないのでしょうか。そこで今回は、絵巻物で空海の生涯がどのように描かれ、語られてきたのかをみていくことです。
テキストは 小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊です。
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  まずは「誕生霊瑞」の段から見ていきます。

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孝徳天皇の御時、初めて佐伯の姓を賜はれり。其の祖、日本武尊に随ひて東夷(=蝦夷)を鎮めし功勲、世に覆ふによりて、讚岐国に地を班(わか)ち賜ひき。この所に家居して、胤葉相継ぎて、子孫県令たり。尊堂(母)は阿刀の氏の人也。
夢に天(竺国(=インド)より牢人飛び来りて懐に入ると見て、妊胎あり。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈七七四〉に当たりて、十二の建辰を満ち、十指の爪掌を合はせて、辛酉の日を以て誕生の瑞を示せり。懐妊月余つて、佳期歳に満ちしかども、着帯身を苦しめず、出産の事穏やか也。
彼の聖徳太子の斑鳩に述を垂れ、広智三蔵の神竜に生を降し給ひし奇異の佳祥も、知斯くやと覚え侍り。
意訳変換しておきます。
空海の生まれた佐伯直家は、孝徳天皇の時に、初めて佐伯の姓を賜わった。その祖は、日本武尊に随って東夷(=蝦夷)を鎮めた功勲が認められ、讚岐国に所領を得た。ここに家居して、子孫は県令を代々勤めてきた家柄である。母は阿刀氏出身である。
 母親が天竺(=インド)から聖人が飛んできて、懐に入る夢を見て、懐妊したという。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈774〉に、手を合はせて、辛酉の日に生まれるという吉兆を見せた。懐妊して、出産予定日を過ぎても生まれなかったが、母親は着帯などで苦しむことはなく、出産も穏やかであった。聖徳太子の斑鳩での誕生や、広智三蔵の神竜に生を降した出産もこんな様子だったのだろうと思える。
続いて、絵を見ていきましょう
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讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直田公の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。
広い庭には犬が飼われています。
けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿
板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。
その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母。

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空中に雲に乗った僧侶が描かれます。母君の夢の中に、インドより飛来した聖人が懐に入ろうとするシーンです。
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屋敷の裏手は、下部達の部屋。
寝乱れる男達の姿
早くも起き出した親子の使用人。
父は水を汲み馬屋に運び、子どもは箒で庭掃除
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中庭には厩があり、異変を感じた馬が蹄で床を蹴り上げます。
厩の屋根は板葺きで、重しに木が乗せられています。その向こうには、三鉢の盆栽が並んでいます。この絵巻が書かれたのは14世紀後半のこととされます。その頃には、禅僧達を通じて盆栽ももたらされていたようです。
ここまでの冒頭シーンを見ると、寝殿造りの本宅や厩があり、馬がいます。まるで中世の武士の居館を見ているような気になります。書かれた時代の空気がしっかりと刻印されています。「誕生霊瑞」は、旧約聖書の「マリア受胎告知」を連想させます。空海の誕生が神秘な物として描かれます。

〔第二段〕    大師蓮華座に載って仏と話す

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大師、御年五、六歳の間、夢に常に八葉の蓮花の上に坐して、諸仏と物語すと御覧ぜられけり。
しかあれども、父母にもこれを語り給はず。況や他人をや。
耶嬢(=父母)偏へに慈しみ奉りて、たな心(掌)の玉をも玩ぶが如し。御名をば、多布度(↓貴とうと)物とぞ申しける。
意訳変換しておきます
大師が五、六歳の頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(↓貴とうと)物と呼びました。
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蓮華上に座して仏達と夢の中で談話する大師
同じシーンを別の絵巻で見てみましょう。
弘法大師行状図画3
高野大師行状図画  蓮華に乗り仏と語り合うエピソードは「稚児大師像」のモチーフともなっていく
次は泥土で仏を作って礼拝した話です。
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十二歳の御時、父母相語り給ふ様、「我が子は昔の仏弟子なるべし。夢に大竺の聖人来りて、懐に入ると見て妊胎せり。しかあれば、この子を以て仏家に入れ、沙門となして釈氏を継がしむべし」と。幼少の御耳に是を聞き給ひて、深く喜ぶ御心あり。
幼き御歳なれども、更に芥鶏の遊び、竹馬の戯れなくして、常に泥上を以て仏像を作り、卓木を以て童堂を建て内に据へ礼拝するを事とし給ひけり。
意訳変換すると
十二歳の頃には、父母は「我が子は昔の仏弟子なのでしょう。夢の中に天竺からの聖人が飛来して、懐に入るのを見たら懐妊しました。そうならば、この子を仏門に入れ、沙門とて釈氏を継がさせましょうか」と、話し合いました。それを聞いて、大師は深く喜んだようです。
 幼いときから闘鶏や竹馬の戯れなどには興味を示さずに、いつも泥土で仏像を作り、卓木で堂舎堂を建て、内に据へて礼拝していました。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
高野大師行状図画の同じシーン
 
 できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。
真魚(弘法大師幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、安置する。
その後は地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

〔第3段〕 四天王執蓋事」
朝廷から讃岐国に派遣された巡察使が、他の子どもたちと遊ぶ大師の後ろに四天王が従う様子を見て驚き、馬から降りて拝礼したという場面を描きます。

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されば、勅使を讚岐国へ下されたりけるに、大師幼くして、
片方の章子に交はりて遊び給ひけるを見奉りて、馬より下り、礼拝して日く、「公は凡加人にあらず。その故は、四人天王白傘を取りて前後に相随へり。定めて知りぬ、これ前生の聖人なりといふ事を」と。
意訳変換すると
民の愁いを問ひ、官吏の誤りを糺すために、当時は巡察使を地方に派遣していました。讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師は幼いので、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこういったというのです
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見える。あの方の前生が聖人であったことが分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童と呼ぶようになりました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
「四天王執蓋事」
 画面右には大師の頭上に天蓋を差しかける持国天はじめ、増長天、広目天、多聞天の四天王が大師を守ります。この左側には馬から降りた勅使が拝礼している様が描かれていますが省略します。

   以上が弘法大師行状絵詞の「誕生霊瑞」に描かれた空海の幼年期のエピソードです。
  東寺蔵の「弘法大師行状絵詞」十二巻本は、応安七年〈1274〉より康応元年〈1289〉までの15年の間に制作されたもので、弘法大師の絵伝の中では、もっとも内容の完備したものとされます。しかし、何かが足りないような気がします。
五岳我拝師山での捨身行のエピソードが抜けています。これを補っておきましょう。

弘法大師高野大師行状図画 捨身
      「誓願捨身事」(第四段)

六~七歳のころ、大師は善通寺の背後にある我拝師山から請願して身を投げます。そこに仏が出現して大師を受け止めたというシーンです。ここは熊野行者の時代から行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していたようです。西行や道範らも弘法大師修行の憧れの地であったようで、ここを訪れ修行しています。
 しかし、この弘法大師行状絵詞には載せられていません。

  稚児大師像の成立
 幼年期の空海を描いた像は、独立してあらたな信仰対象を生み出して行きます。それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになります。その例を見ていましょう。
稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀

画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます
「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」
 絵詞の文章が「弘法大師御遺告」の文章をそのまま引用しているのが分かります。ある意味、それを絵画で表現するのが弘法大師行状絵詞のひとつの使命であったのかもしれません。
専門家の評価を見ておきましょう。
禿型の髪はきれいに杭られ、白色の肌、上品な衣服が高貴な育ちにあることをイメージさせる。切金で縁どられた光輪の内部は、金泥と群青を塗る。著彩には明度があり裏彩色などの効果かとも思われる。白い小花文を散らした小袖は、褐色の地色の間に金泥を注している.髪部は濃い群青を塗った上に墨で細かく毛筋を描く。肉身を描く線は細く鋭い。目は、瞳を墨でくくり中心に墨をおき、虹彩を金泥で塗り、目尻と目頭には群青をぼかす。実在空海の幼少期の姿が、人間を超えて捉えられる。
 今度は善通寺の御影堂の稚児大師像を見てみましょう。
弘法大師稚児像
善通寺誕生院
 頭髪を美豆良(みずら)に結い、抱衣(ほうい)を着て、腹前に重ねた両手に五輪塔を捧げ持ち、木目をあらわにした着衣部には、金泥で雲文を描いている。美豆良を結った童子形の立像には、聖徳太子十六歳の姿をあらわした孝養太子像の作例が数多く知られているが、本像の形姿はその影響を受けたものと考えられ、また、腹前に捧げ持つ五輪塔は、弘法人師と同体とされる弥勒菩薩の図像に基づく表現とみなされる。ふつくらとした九顔の面相、わずかに厳しさをはらんだ表情などに理想化された弘法大師の姿をみてとることができる。

 寺伝では、大師の叔父・佐伯道長卿の作とされますが、専門家は江戸時代のものと考えているようです。江戸時代になって善通寺で作られた物のようです。 江戸時代になると善通寺では、空海やその父や母の像が作られ始めます。
その背景には、伽藍勧進のための開帳があったことは以前にお話ししました。
京都や江戸で開帳を行う際に、善通寺の呼び物は「空海誕生の地」です。そこで欲しい展示物は? と考えると空海の幼年期の姿や、その父や母の姿ということになります。開帳の目玉として、空海の稚児大師像は展示されるようになり、それが信仰対象にもなっていったようです。弘法大師信仰のひとつの発展系です。そして、父母像も登場します。
空海父 佐伯善通
  空海の父親は、現在の善通寺周辺にあたる讃岐国多度郡を本拠とした当地の有力豪族佐伯直氏の一族田公です。
空海母

 空海の母は、学者の家系である阿刀氏出身の女性とされます。
ちなみに現在も善通寺は父を善通とし、母を「玉寄姫」てしています。そのためこの像も善通公と「玉寄姫」像と呼ばれています。このふたつの専門家の評価を見ておきましょう。
ふたつの像は一木造で、「善通」公像は衣冠東帯を着けた貴族の姿である。母「玉寄姫」像は頭から衣を被り、薄い緑色の地に青海波風(せいがいは)の文様をあしらつた衣を身に着けている。それぞれの厨子には左記の銘文が陰刻され、高祖大師すなわち弘法大師の作とされるが、作風から江戸時代、おそらくは厨子が制作された明和八年(1771)をさほど遡らない時期の作と推定される。

空海の両親像があるのは、善通寺だけでしょう。
まさに誕生院にふさわしい像とも云えます。江戸や上方での開帳の際にも珍しくて人気を集めたようです。イエスとマリアのように母子愛を刺激するのかも知れません。
以上、弘法大師行状絵図の生誕と幼年期について見てきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献