瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:空海=多度津白方生誕説

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
③仁王門 ⑩九品浄土
承応2年(1653)、澄禅は弥谷寺を訪れ、境内の様子を「四国遍路日記」に次のように書きとどめています。
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ (後略)

意訳しておきましょう
剣五山千手院(弥谷寺)は、坂の登口に仁王門があり、ここから少し上がった石面に仏像や五輪塔が数知れず彫りつけられている。自然石を掘った階段を上って寺の庭に上がっていく。寺は南向きで持仏堂は西向きで、岩穴に差し掛かって建っている。奥の穴は九尺、高さは人の頭が当たらないくらいで、非常に強固に作られている。仏壇の一間奥に四尺ほど彫り込んで、五つの如来を掘り出している。中尊大師の木造の左右には、藤新太夫夫婦(空海の父母)を石像で切り出している。

ここからは持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていたことが分かります。この寺では、「空海=多度津白方生誕説」を流布していたようです。
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多度津白方屏風ヶ浦 鎮守の森は熊手八幡神社

弥谷寺の参拝を終えた、澄禅は天霧山を越えて多度津の屏風ヶ浦に下って行きます。白方は、弥谷寺の奥社で海の修行場(補陀洛渡海)であったと伝えられます。そこで、次のように記します。

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此浦ハ白砂汗々タルニー群ノ松原在り、其中二御影堂在り、寺ハ海岸寺卜云。門ノ外に産ノ宮トテ石ノ社在、洲崎に産湯ヲ引セ申タル盥トテ外は方二内ハ丸切タル石ノ盥在。波打ギワニ御年少テオサナ遊ビシ玉シ所在。(中略)
夫ヨリ五町斗往テ藤新大夫ノ住シ三角屋敷在、是大師御誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲ八幡山三角寺仏母院卜云。(後略)
意訳すると
この白方の浦は、白砂敷き詰められたような上に松林が続き、その中に御影堂が建つ。この寺を海岸寺と云う。門の外には、産ノ宮として石の社がある。(空海出生の際に)の産湯を使ったという盥(たらい)は、外側は方形で、内側は遠景の石の盥であった。白方の波打際は、空海が年少の時によく遊んだと伝えられている。(中略)
それより五町(500m)いくと藤新大夫が住んでいた三角屋敷がある。ここが弘法大師誕生地であり、御影堂がある。童形像は、十歳の時の姿だと云う。この寺を八幡山三角寺仏母院という。(後略)
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と記しています。ここには、白方屏風ヶ浦には弘法大師が産湯をつかった盥や幼少期の大師が遊んだという海岸寺があり、さらに近くの三角寺仏母院が藤新大夫の屋敷で、そこが大師の誕生地であるというのです。
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澄禅が弥谷寺や海岸寺を訪れた17世紀半ばには
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説

が、この地域で流布されていたことが分かります。

 一方、善通寺は誕生院が空海の生誕地で、父は佐伯氏、母は阿刀氏の女としてきました。
善通寺の存在証明のひとつが「空海=善通寺誕生院」生誕説です。それに真っ向から挑戦するかのような異説が、目の前の白方や弥谷寺で流布されていたことになります。そして、日記の内容からみて、澄禅自身も真面目に、そのことを信じていたように思えます。

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仏母院

 「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説は、いつころから誰によって、ひろめられていたのでしょうか。
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を説く弘法大師伝は、次の3つです。
1、『弘法大師空海根本縁起』(個人蔵)
2、説経『苅萱』「高野巻」
3、版本『奉弘法大師御伝記』(善通寺蔵)
この内、もっともよく知られているのが『説経苅萱』「高野巻」で、内容は次の通りです。
弘法大師の母御と申は、此の国の人にてましまさず、国を申さば大唐本地の帝の御娘なるが、余なる帝に御祝言あるが、三国一の悪女とあつて、父御の方へお送りある。本地の帝きこしめし、空船に作り籠め、西の海にぞお流しある。日本を指いて流れ寄り、爰に四国讃岐の国、白方屏風が浦、とうしん太夫と申す釣人が、唐と日本の潮境、ちくらが沖と申すにて、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女なり。とうしん太夫が養子におなりあつたと申、又は下の下女にお使ひあつたと申、御名をばあこう御前と申すなり。
奇想天外な話で、修験者の山伏が語りそうな内容ですが意訳すると
弘法大師の母上は、実はこの国人ではありません。唐の皇帝の娘に当たる人なのです。一度は結婚しますが「三国一の悪女」と評されて、父の皇帝の下へ送り返されます。父はこれを知り、空船を作って娘を載せて、西の海(東?)に流しました。船は日本を指して流れ寄り、四国讃岐の国、白方屏風が浦に漂着します。それを、釣人のとうしん太夫がみつけ、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女が乗っていたのです。二人は夫婦になり、妻の名前はあこう御前と呼ばれるようになります。

この後は、男の子をもうけ金魚丸(空海のこと)と名付けられます。しかし、夜泣きが激しく七浦七里に迷惑がかかるので、あこう御前とともに四国辺路に出ます。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ、さてこそ四国辺土(辺路)とは、八十八か所とは申すなり」

ここには霊場の数が88と明記されています。これが「四国辺路八十八ケ所」の文言の最古礼では四国辺路の研究では、注目されるところです。それ以前に「88ヶ所」は出てこないということは、88ヶ所霊場の成立は、この書の書かれた寛永8年(1631)からそんなに遡らないと研究者は考えているようです。
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 この説経『苅萱』には、次のような伝本があるようです
1、絵入写本「せつきやうかるかや」(サントリー美術館蔵)
2、寛永8年(1631)刊。しやうるりや喜衛門版「せつきやうかるかや」
3、寛文初年頃刊。江戸版木屋彦右衛門版「かるかや道心」
そして、この3つを比較検証すると「空海=多度津白方生誕説」を説く『苅萱』「高野巻」の成立以前に、四国には弘法大師伝記がすでにあったようです。それが『弘法大師空海根本縁起』(以下、『根本縁起』)です。この縁起は元禄12年(1699)、高野山千手院谷西方院の真教が写したものが伝わっていて、次のような文章から始まります。
四国讃岐の多度郡白方屏風が浦に藤新太夫と申す猟師有り、其の内に阿こやと申す女人座り、未四十歳のいんに入迄、子なき事を悲しみ、俄かに善根を為さばやと思い、我心をすくわし、すぐ成る針に餌をさし、縁に任て魚を釣る、万のものに代をかえ、貧なるを供養し、或は堂社仏閣を建立し、則此願成就し、津の国中山寺に参り三七日籠り、男子二而も女子二而も、子種を壱人授てたひ給ヘと深く祈誓を申したる、(後略)

ここでは「あこや御前=唐の皇帝娘」には触れられずに、
藤新太夫が夫婦で、讃岐国白方屏風ケ浦で空海が誕生した。その後、夜泣きが激しくせんゆうが原に捨てられるが、善通寺の徳道上人に拾われ、修行し、そして唐に渡り恵果和尚に出会う。やがて天竺にも行くが、 ここで文殊菩薩との長い問答が繰返されます。修行の後、唐の国から讃岐国屏風ケ浦に帰り着く。

ここまでは「高野巻」とよく似た所が多く、両者の間に深い関係が見て取れます。続いて弘法大師帰朝後のことについて、「高野巻」は弘法大師の母のことに話が移りますが、これは『慈専院縁起』の踏襲です。
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 一方、『根本縁起』は
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
 この最後に次のように記します
「此縁起を一度聴聞すれば高野山ヘー度の参詣にあたる也。これを聴聞する輩は毎日南無大師遍豪金剛と唱れば、現世あんおん後生善三世の師、七世の父母迄も成仏する事無疑。」

研究者はここに出てくる「聴聞」という文言に注目し、この縁起が「語りもの」の台本であると指摘します。この「根本縁起』は、弘法大師の一代記と四国辺路の功徳を説いた「語りもの」で、四国辺路の開創縁起ともいえるようです。

それでは、この『根本縁起』の制作に関わったのはどんな人たちなのでしょうか。
①中山寺や徳道上人のことなどがみられ、西国三十三所縁起との関係も密接である
②善通寺や讃岐の大名香川氏、伊予の右衛門三郎など四国のことが詳しくしるされている
③高野山との関係がうかがえる。
④阿弥陀如来・極楽・念仏に関することも記述が多い。
以上のような「状況証拠」から、まず第一候補は、四国在地(弥谷寺や白方周辺)の高野山系の念仏聖が挙げられます。

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熊手八幡神社
第2候補は、高野山系の修験者たちです。
中世多度津の堀江湊の港湾管理センターの役割を果たしていたとされる道隆寺の『道隆寺温故記』(47)には、白方の熊手八幡官(文禄5年(1596)に関する次のような記事があります。
大師入定之後、熊手自慕大師之徳、途跨海波逆流川、留慈尊院。今南山巡院々、朝日護摩薫煙無絶。遠期三会、衛護密教云々。

ここには、熊手神社の熊手が大師の徳を慕って瀬戸内海を渡り、紀川を遡り、慈尊院へ留まり、さらに高野山の寺々を巡っているというのです。
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白方の熊手八幡神社
『高野春秋』元禄5年(1692)8月7日には、次のようにあります。
行人順寺八幡在此寺。少々奉仰御立寄。紀公云、八幡者何乎。答日。熊手二而候。」

ここからは熊手は行人方(修験者・山伏)の管掌するところであったことが分かります。なお熊手八幡は今も白方に鎮座しています。そして、この神社の別当寺が仏母院であったようです。
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仏母院

 仏母院は寺伝では、永禄頃に大善坊という山伏(修験者)によって再興されたと伝えられ、山伏寺で修験者との関係が濃い寺です。ここからは、白方屏風ヶ浦と高野山との交流は念仏聖(時衆系高野聖)にだけでなく行人(山伏)グループによっても行われていたことがうかがえます。 
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仏母院
では、この『根本縁起』は、いつ作られたのでしょうか。
戦国時代頃の弥谷寺周辺をみると、永禄元年(1558)に善通寺の伽藍が焼失し、善通寺の東院は灰塵に帰します。この火災により、善通寺の勢力は一時的にせよ寺勢を失ったようです。この間隙をぬって、白方屏風ケ浦や仏母院、熊手八幡、さらに弥谷寺周辺の念仏聖や山伏などが弘法大師誕生地を白方屏風浦とし、とうしん太夫とあこや御前を両親とする異端の弘法大師伝(『根本縁起』)を作り上げたと研究者は考えているようです。
 その状況証拠資料として、『道隆寺温故記』には、次のような動きが記されています。
①天正20年(1592)には「白方海岸寺大師堂入仏供養」
②文禄5年(1596)には弘法大師が創建したと伝えられる白方(熊手)八幡を再興
ここからは、生駒藩支配下のこの頃に白方屏風ケ浦周辺で新たな弘法大師信仰が興ったことがうかがえます。その中心的な寺院が弥谷寺であったと研究者は考えているようです。弥谷寺には、中世から続く時衆系高野聖や高野山と関わりを行人(山伏)などが各院坊にいたことは、前回に見た通りです。

 そして、弥谷寺を中心に作られていた『根本縁起』の一部(弘法大師伝)が説経『苅萱』に取り込まれ、「高野巻」が成立すると研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①永禄~天正年間頃、弥谷寺や白方屏風ケ浦周辺の念仏聖や行人(山伏)など高野関わりを持つ人物によって異端の弘法大師伝(『根本縁起』)が作られた。
②高野山系の念仏行者や山伏は、それを各地で語り、弘法大師の偉大さと四国辺路の功徳を広めた
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
④当時の弥谷寺は、時衆系高野聖が活発な活動を展開していた
 
それでは 澄禅が訪れた17世紀半ばに持仏堂に安置されていた藤新太夫夫婦の石像は、その後どうなったのでしょうか。
その後の真念などの案内記には、この石造について触れたものはありません。17世紀末までには、取り除かれたようです。どうやら弥谷寺は異端である「空海多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を破棄し、正統派の「空海善通寺誕生院生誕説」をとるようになったことがうかがえます。その「路線変更」には、どんな背景があったのでしょうか?
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 弥谷寺調査報告書」所収

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仁王門(弥谷寺)

「空海=多度津白方生誕説」が、いつ、どこで、誰の手によって、どんな目的で創り出されたのかをみてきました。最後に、白方の背後の天霧山中にある弥谷寺を見ていくことにしましょう。
 弥谷寺は佐伯真魚(空海の幼年名)が修行した地と「高野大師行状図画」にも伝えられ、古くから空海の修行場として信じられてきました。現在、十世紀末から十一世紀初期ころの仏像が確認できるので、そのころにはこの寺が活動していたことが推察できます。
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弥谷寺仁王門
 その後、鎌倉時代の初めには道範が訪れたことが「南海流浪記」に記されています。また本堂横の岩壁に阿弥陀三尊や南無阿弥陀仏の名号が彫られていて、その制作年代は鎌倉時代末期のものと言われます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(本堂下)

 戦国時代には讃岐の守護代であり、天霧城の城主・香川氏の菩提寺とされ、香川氏一族の墓といわれる墓石も数多く残されています。なお寺伝では、香川氏の滅亡とともに寺は衰退したと伝えます。その後、生駒氏・山崎氏・京極氏などの保護の下に徐々に復興がなされたようです。
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天霧城主香川氏の代々の墓とされる石造物

澄禅『四国遍路日記』で、江戸時代初期のこの寺の様子を見てみましょう
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇I間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段上リテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、
夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル中二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノ口ニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
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弥谷寺案内図
意訳変換しておくと
剣五山千手院は、坂口に二王門があり、ここからは参道沿いの磨崖には、仏像や五輪塔が数知ず彫付られている。自然石に階段が掘られて、寺の庭に上っていく。
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寺(現大師堂)は南面して、持堂は西向の巌がオバーハングしている所を、広さニ回半、奥へ九尺、高は人の頭が当たらないくらいに掘り切って開かれている。
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仏壇は、一間奥へ四尺に切入って左右に如来を切付ている。ここには中尊大師の御木像と、その
左右に藤新太夫夫婦の石像が掘りだされている。
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 北の床は位牌壇となっている。また正面の床の脇には護摩木棚が二段あって、東南の方に敷居・鴨居などが入れられて戸を立てるようになっている。

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獅子の岩屋
庭よりー段上って鐘楼があり、又一段上がると護摩堂がある。これらも広さは九尺ほどで二間に岩を切り開いて入口に戸を付けている。その内には、本尊不動明王と、何体もの仏像があるがすべて石仏である。
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護摩堂(弥谷寺)

ここから少し南の方へ行くと水場がある。周囲の磨崖には、多くの真言阿字が彫付られて、その廻りは円で囲まれている。この字体は、今時朴「法骨多肉少:の筆法である。その下に岩穴があり、ここには死骨が納められている。水場周辺の磨崖にはキリク文字が掘られ、脇には空海と刻まれている。この辺りの赤面には、数多くの五輪塔が掘り込まれている。
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水場周辺
その一段上の磨崖には、阿弥陀三尊が掘られ、その
脇には六字名号が3セット×3つ=9彫りつけられている。九品の心持ちを示している。さらに一段登ると本堂在、岩屋に突き刺すように片軒の屋根が覆っている。「片エ作」と呼んでいる。本尊は千手観音で、その廻りの石面には五輪塔が数多く彫りつけられている。この近くに鎮守蔵王権現の社がある。

以上から江戸時代初期の弥谷寺の様子が分かります。ここで
注目したいのは次の2点です。
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本堂下の磨崖仏

まず1点は坂口に仁王門があり、そこから参道沿いの岩面の至る所に仏像や五輪塔が数知れず彫り込まれていることです。
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弥谷寺の磨崖仏の位置



「自然石を彫り刻み石段として寺の庭にあがると、寺は南面し持仏堂がある。この持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていた記されています。この寺でもこの時期には、「空海=多度津白方生誕説」が信じられていたようです。
 ところが、その後に真稔が巡礼した時には、この夫婦の石像はなくなり、阿弥陀と弥勒の石像になっていたというのです。つまり、この間に藤新太夫夫婦の石像が消えたことになります。どうしてでしょうか?
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弥谷寺の五輪塔
 2つ目は次の部分です。
「水場から一段上ると磨崖に阿弥陀三尊と、その脇に六字名号が三クダリ宛六ツ彫付玉リ」

本堂下の水向けの所の岩穴には死骨が納められ、その周辺には阿弥陀三尊やと「六字の名号」(=南無阿弥陀仏)が彫られていたとあります。
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阿弥陀三尊像
  弥谷寺周辺の山は死者心霊がこもる山として、祖霊信仰がみられことが民俗学からは指摘されてきました。イヤダニマイリという葬式の翌日には、毛髪や野位牌などを弥谷寺に納める習俗があったというのです。そこには祖先信仰にプラスして、浄土系の阿弥陀信仰が濃厚に漂います。

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本堂下の磨崖仏

 さらに、現在この寺で行われている永代経という日月聘供養、経木塔婆、水供養という先祖供養形式が高野山で行われる供養の形式と非常に似ていると言われます。
 それは道範以来、高野山と弥谷寺との関係が深くなり、戦国時代末期以降になると、高野山や善通寺と関係の深い僧侶が住職となます。その結果、江戸時代中期から末期にかけて高野山方式の先祖供養形式が確立したと研究者は考えています。弥谷寺と高野山とは、何かしらの関係がある時期からできたようです。
 民俗学の立場からは次のように指摘されきました。
「弥谷寺一帯は、古くは、熊野の神話が物語るごとき死霊のこもるところ、古代葬送の山、「こもりく」であったかも知れぬが、中世、一遍につながる熊野系の山伏、念仏聖、比丘尼、巫女などの民間宗教者たちの手によってでき上がった山寺である」

 以上の説を総合すると、次の2点が見えてきます。
①弥谷寺は高野山との関係、
②高野聖など念仏系の僧の存在
そのわずかに残る痕跡を現在の弥谷寺に探ってみましょう。
弥谷寺 九品浄土1

弥谷寺本堂下の岩壁には南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られています。いまは摩耗してほとんど見えなくなっています。しかし、かつてはその名号の下部には、次のような唐の善導大師の謁が彫られていて、かつては見ることが出来たと言います。

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

さらに本堂下の墓石群の中には、次のような念仏講の石碑が建立されています。
「延宝四二六七六」丙辰天 八月口口日大見村竹田 念仏講中二世安楽也」
江戸時代前期とやや時代が下るものの、念仏聖となんらかの関係を示す遺品です。この石碑は先日紹介した多度津白方の、仏母院に見られた念仏講のものと形状が良く似ており、両者に関係がありそうだと研究者は指摘します。

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弥谷寺の磨崖仏

  
 戦国時代に弥谷寺の上の天霧城主だった香川氏一族は、長宗我部元親と姻戚関係を結びます。そして、土佐軍の撤退と共に香川氏も土佐へ亡命します。天霧城は破棄され、弥谷寺も荒廃したといいます。弥谷寺のその後について、『大見村誌』正徳四年(1714)は宥洋法印の記録として、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
 意訳変換しておくと
江戸時代になって戦乱が平定すると、念仏僧侶が弥谷寺の境内の中に小坊を営み、勤行供養を怠たらずに務めた。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が当山を兼務することになり、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。
 慶長五年十二月十九日には、高松城主の生駒讃岐守一正から、田畑山林を寄付された。その寄進状は当寺に今も残る。別名法印が亡くなった後は、直弟の宥慶法印が後住となったが、生駒藩への過失があり住職を罷免された。そのため当寺は、善通寺に寄託されることになった。その後は、善通寺の覚秀房宥嗇之が、寛永12年に住職となり、法務を執り堂塔再建に腐心することになった。
 ここからは戦国時代に香川氏が土佐に落ち延びて、保護者を失って、寺が荒廃したことがうかがえます。その時に、念仏行者が境内の旧址に小坊を営み寺に住んでいたというのです。境内に残るいくつかの石造物からは、念仏信仰を周辺の村々に広げ念仏講を組織していた僧侶の存在が見えてきます。彼らは、時宗系の高野聖であったと研究者は考えています。
 そして、生駒氏の時代になってから白峯寺から別名法印が住職を兼務したといいます。別名法印については詳しいことは分かりませんが、海岸寺所蔵の元和六年(1620)の棟札に「本願弥谷寺別名秀岡」とあります。ここからはこの時期には、海岸寺と弥谷寺とが深い関係にあったことが分かります。ちなみに、弥谷寺の海浜の奥社が海岸寺だったようです。ここでは補陀落渡海の修行場で、弥谷寺との間は小辺路ルートで結ばれていたとも言われます。
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生駒一正の墓碑とされる塔
 このように弥谷寺は、もともとは阿弥陀信仰を中心とする念仏系の寺院であったことが透けて見えてきます。
中世から戦国末期には、修験者+熊野行者+高野聖+念仏行者の活動拠点で、境内に彼らの「院房」があったのです。そこに住んでいた僧の中には、時宗念仏系の僧侶がいて弥谷寺を拠点に布教活動をおこなっていたいたようです。
また「剣五山弥谷寺一山之図」には、東院旧跡の近くに「比丘尼谷」という地名があります。ここからは、弥谷寺に比丘尼が生活していたこともがうかがえます。

さて、この寺院の檀那たちはどこにいたのでしょうか?
 慶長五年(1600)四月吉日に、この寺に寄進された本尊の鉄扉は次のように記されています。

「備中国賀那郡四条 富岡宇右衛門家久」
寛永八年(1632)正月寄進の鐘の檀那は
「備前国岡山住井上氏」

ここからは白方の仏母院の信者は、瀬戸内海を挾んだ対岸の備前地方の人々の信仰を集めていたことが分かります。しかし、それがどのような理由で繋がっていたかを示す史料はありません。
 最後に、備中・備前の人たちが海岸寺や弥谷寺の有力な檀家となっていた背景を想像力を羽ばたかせて考えて見たいと思います。
①五流山伏と小豆島の関係のように、小豆島を聖地として修験者先達が、信者を引率して参拝させるシステムが海岸寺や弥谷寺でも機能していた。
②そのため海岸寺は、補陀洛信仰の聖地として海の向こうの吉備の信者たちの信仰を集めるようになった。
③そこに大師信仰が広がると、当時流布されるようになった「空海=白方生誕説」を採用し、寺院運営をおこなうようになる。
④それは、吉備から海を越えてやって来る信者たちへのセールスポイントともなった。
しかし、争論の結果「空海=白方生誕説」は認められなかった。そこで弥谷寺は「空海=幼年修行地説」にセールスポイントを変えて、寺社経営を行うようになります。それが、金毘羅大権現の隆盛と相まって、四国にやって来た金毘羅詣での参拝者は、善通寺と弥谷寺にはよって帰るというコースを選ぶようになり、寺は栄えるようになります。この寺も弘法大師伝説は、近世になって付け加えられたようです。
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弥谷寺


 
参考文献    武田 和昭      『弘法大師空海根本縁起』について

                            

「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり   

近世初頭の四国辺路には、空海の生誕地であることを主張するお寺が善通寺以外にもあったようです。それが多度津白方の仏母院や海岸寺です。空海が生まれたのは善通寺屏風ヶ浦というのが、いまでは当たり前です。四国辺路の形成過程で、どうしてそのような主張がでてきたのでしょう。その背景を見ていくことにします。
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白方の丘から望む備讃瀬戸 高見島遠景

仏母院の歴史を資料でみてみましょう。
最も古い四国霊場巡礼記とされる澄禅『四国辺路日記』(1653)には仏母院が次のように記されています。 
夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。
此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。
此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御影堂ヲ再興セヨト霊夢ヲ承テ、則発足シテ当国工来テ、先四国辺路ヲシテ其後御影堂ヲ三間四面二瓦フキニ結構ゾンデ、又辺路ヲシテ阪国セラレシト也。
又仏壇ノ左右二焼物ノ花瓶在、是モ備前ノ国伊部ノ宗二郎卜云者、霊夢二依テ寄付タル由銘ニミェタリ。猶今霊験アラタ也。
意訳すると
海岸寺から約五〇〇メートル東に藤新太夫(空海の父)が住んだ仏母院があり、弘法大師の誕生所とされ、御影堂が建立されていた。そこに十歳の弘法大師が祀られている。寺を三角寺という。この寺の住職が御影堂を開き、その像を開帳してくれた。堂は東に向かって三間四面の造である。この堂を再興したのは但馬銀山米原源斎で、夢の中でお告げを聞いて、直ち四国巡礼を行い、このお堂を建立し、帰路にも四国巡礼をおこない帰国した。仏壇の左右の焼きものの花瓶は、備前の部ノ宗二郎の寄進である。霊験あらたな寺である
 藤新太夫は空海の父。三角屋敷が空海の生まれた館のことです。
ここからは備前や但馬の国で「空海=多度津白方生誕説」が拡大定着していたことがうかがえます

 仏母院に関しては『多度津公御領分寺社縁起」(明和6年1769)に、次のように記されています。
多度郡亨西白方浦 真言宗八幡山三角寺仏母院
一、本尊 大日如来 弘法大師作、
一、三角屋敷大師堂 一宇本尊弘法大師・御童形御影右三角屋敷は弘法大師、御母公阿刀氏草創之霊地と申伝へ候、故に三角寺仏母院と号し候、
 『生駒記』(天明3年1783)には
白方村の内の三隅屋敷は大師誕生の地なりとて、小堂に児の御影を安置す、
とあり、弘法大師誕生地として認められています。しかし、その50年後の天保十年(1839)の『西讃府志』では  
仏母院 八幡山三角寺卜琥ク云々。西方に三角の地アリ、大師並二母阿刀氏、及不動地蔵等ノ諸仏ヲ安置ス。
とあり、弘法大師の誕生地とは記されていません。しかも母はあこや御前ではなく、阿刀氏になっています。この間に誕生地をめぐる善通寺との争論があり、敗れているのです。これ以後、生誕地であることを称する事が禁止されたことは、以前にお話ししました。

「仏母院 多度æ´\ ブログ」の画像検索結果
仏母院に残されている過去帳には、大善坊秀遍について次のように記されています。
 不知遷化之年月十二口滅ス、当院古代大善坊卜号ス、仏母院之院号 寛永十五年戊寅十月晦日、蒙免許ヲ是レヨリ四年以前、寛永十二乙亥八月三日、此秀遍写スコト白方八幡ノ服忌會ヲ之奥書ノ處二大善坊秀遍トアルヲ見雷タル様二覚ヘダル故二、今書加へ置也能々可有吟味。

 意訳変換しておくと
当院は古くは大善坊と号していた、寛永十五年(1638)十月晦日に、仏母院の院号を名乗ることが許された。その4年前の寛永十二(1635)八月三日、秀遍が白方(熊手)八幡神社の古文書を書写していたときに、その奥書に大善坊秀遍とあるのを見つけたので、ここに書き加えておくことにする。よく検討して欲しい。

ここからは寛永十五年(1638)に寺名が
善坊から仏母院に変更されたことがわかります。「仏母」とは、空海の母のことを指しているのでしょう。つまり、高野系の念仏聖が住んでいた寺が、「空海の母の実家跡に建てられた寺院=空海出生地」として名乗りを挙げているのです。
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

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仏母院の墓地には、次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。

 また、享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。そして、仏母院住職は、熊手八幡神社の別当も勤めていました。



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仏母院遠景

 この寺は先ほど見たように、澄禅が参拝した時代には、但馬の銀山で財を成した米原源斎が御影堂を再興したり、備前の伊部宗二郎が花瓶を寄進するなど、すでに讃岐以外の地でも、霊験あらたかな寺として知られていたようです。仏母院の発展には、それを喧伝し、参拝に誘引する先達聖たちがいたようです。弘法大師の母の寺であることの宣伝広報活動の一環として、仏母寺という寺名の改称にまで及んだと研究者は考えているようです。

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弘田川河口からの天霧山

 しかし、「空海=多度津白方生誕説」を記す3つの縁起には仏母院の名は登場しません。これをどう理解すればいいのでしょうか。
考えられることは、縁起成立の方が仏母院などの広報活動よりも早かったということです。縁起により白方屏風が浦が注目されるようになり、それに乗じて、大善坊が「空海=白方誕生説」を主張するようになり、仏母院と寺名を変えたと研究者は考えているようです。
 そうだとすると「空海=白方誕生説」を最初に説いたのは、白方の仏母寺や海岸寺ではないことになります。これらの寺は、「空海=白方誕生説」の縁起拡大の流れに乗っただけで、それを最初に言い出したのではないことになります。 

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 最後に現在の仏母院をみてみましょう。

 善通寺から流れ込む弘田川の河口近くの多度津白方に仏母院はあります。境内は大きく二つに分けられていて、東側に本堂・庫裏と経営する保育所があり、道路を挟み、西側には大師の母が住居していたという三角形の土地があります。
三角地は御住屋敷(みすみやしき)と呼ばれていましたが、これは空海の母の実家であることに由来します。空海の臍の緒を納めたという御胞衣塚(えなづか)などがあります。澄禅が日記に残している御影堂は、この三角地に建てられていたものと思われます。現在の御堂には新しく作られた玉依御前・不動明王・弘法大師の三体の像が安置されていますが、かつては童形の大師像(十歳)があり、三角寺と呼ばれていたようです。
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戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃します。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も三角寺から大善坊と称するようになります。そして「空海=多度津白方生誕説」が広がると、寛永15年(1638年)寺院名が大善坊から仏母院に改められました。
 御胞衣塚には石造(凝灰岩)の五輪塔がありますが制作年代は、水輪・火輪の形状からみて桃山時代から江戸時代初期ころ、つまり16世紀末から17世紀前半ころとされています。ちょうど「空海=多度津白方生誕説」の広がりと一致します。このことは大善
坊から仏母院への改名との関連、さらに本縁起の制作時期などと考え合わせれば、重要なポイントです。
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 また御住屋敷の南端に寛文13年(1673)7月16日建立の「念仏講衆逆修菩提也」の石碑があります。ここから江戸時代前期に仏母院に、念仏講があったことが分かります。つまり高野山系の時宗念仏系の信仰集団がいたようです。この石碑と同様のものが弥谷寺にもあります。
 
 この寺は明治初年の神仏分離以前は、熊手八幡神社の神宮寺でした。そのため神仏分離・廃仏毀釈の際に、八幡大菩薩と彫られた扁額や熊手がこの寺に移され本堂に安置されています。

 次に海岸寺を史料で見てみましょう

「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果 
弘田川河口の西側の海に面した海水浴場に隣接した広大な地に本堂・庫裏・客殿などがあります。さらにそこから南西口約1,1㎞の所に空海を祀った奥の院があります。この寺の古い資料はあまり多くありません。そのため江戸時代以前のことはよく分かりません。 
最初に記録に見えるのは四国霊場の道隆寺の文書の中です。
天正二十年(1592)六月十五日 白方海岸寺 大師堂供養導師、良田、執行畢。
その後も、これと同じように道隆寺の住職が導師を勤める供養の記録が何点かあるので、その当時から道隆寺の末寺であったことが分かります。ついで澄禅『四国辺路日記』に、次のように記されています。
谷底ヨリ少キ山ヲ越テ白方屏風力浦二出。此浦白砂汗々ダルニー群ノ松原在リ、其中二御影堂在リ、寺は海岸寺卜云。
門ノ外二産ノ宮トテ石ノ社在。州崎二産湯ヲ引セ申タル盟トテ外方二内丸切タル石ノ毀在。波打キワニ幼少テヲサナ遊ビシ玉シ所在。寺ノ向二小山有リ、是一切経七干余巻ヲ龍サセ玉フ経塚也。
意訳変換しておくと
(弥谷寺)から峠を越えて白方屏風力浦に下りていく。ここは白砂が連なる浜に松原がある。その中に御影堂があり、寺は海岸寺という
門の外「産の宮」という石社がある。空海誕生の時に産湯としたという井戸があり、外側は四角、内側は丸く切った石造物が置かれている。波打際には、空海が幼少の時に遊んだ所だという。寺の向うには小山があり、ここには一切経七干余巻が埋められた経塚だという。
ここからは、次のような事が分かります。
①澄禅が弥谷寺から天霧山を越えて白方屏風ガ浦に出て、海岸寺に参詣したこと
②海岸寺には、御影堂(大師堂)があり、門外に石の産だらいが置かれていたこと。
澄禅が、ここを空海生誕地と信じていたように思えてきます。

 また『玉藻集』延宝五年(1677)は
「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生まれ給う。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす云々」
とあり、弘法大師の誕生地と信じられていたようです。
そして、空海が四十二歳にして自分の像を安置して本尊とした。四十余の寺院があったが天正年中に灰塵に帰した。それでも大師の像を安置して、未だ亡せずと記しています。
 なお『多度津公御領分寺社縁起』(明和六年-1769)には
「本堂一宇、本尊弘法大師御影、不動明王、愛染明王 産盟堂一宇」
などが記されています。このような海岸寺の「空海=白方誕生説」を前面に出した布教活動は、文化年中に善通寺から訴えられ、大師誕生地をめぐる争論を引き起こすことになります。これに海岸寺は敗れ、その後は海岸寺は「空海=白方誕生説」を主張することを封印されます。その結果、いまでは奥の院はひっそりとしています。
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 以上のとうに海岸寺の創建期は不明ですが、戦国時代末期には大師堂(御影堂)があり、やがて江戸時代初期にはその存在が知られるようになっています。
 
ただ澄禅『四国遍路日記』には、大師誕生地として仏母院の方を明記して、海岸寺は石盥があったことを記すだけです。ここが誕生地だとは主張されていません。
 なお善通寺蔵版本『弘法大師御伝記』は、その末尾に「土州一ノ宮」とあり、土佐一ノ宮の刊行のようにみられます。しかし、この版元は実は海岸寺であったとされています。そうだとすれば、この寺は「空海=多度津白方生誕説」の縁起本を流布していたことになります。
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以上からは次のようなことが言えるのではないでしょうか。
①17世紀の段階では、四国霊場は固定しておらず流動的だった。
②空海伝説もまだ、各札所に定着はしていなかった
③そのため独自の空海生誕説を主張するグループもあり、争論になることもあった。
④白方にあった海岸寺や父母院は、先達により中国地方に独自の布教活動を展開し、信者を獲得していた。
以上「空海=多度津白方生誕説」に係わるお寺を史料でめぐってみました。

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