剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ (後略)
意訳しておきましょう
剣五山千手院(弥谷寺)は、坂の登口に仁王門があり、ここから少し上がった石面に仏像や五輪塔が数知れず彫りつけられている。自然石を掘った階段を上って寺の庭に上がっていく。寺は南向きで持仏堂は西向きで、岩穴に差し掛かって建っている。奥の穴は九尺、高さは人の頭が当たらないくらいで、非常に強固に作られている。仏壇の一間奥に四尺ほど彫り込んで、五つの如来を掘り出している。中尊大師の木造の左右には、藤新太夫夫婦(空海の父母)を石像で切り出している。
ここからは持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていたことが分かります。この寺では、「空海=多度津白方生誕説」を流布していたようです。
多度津白方屏風ヶ浦 鎮守の森は熊手八幡神社
弥谷寺の参拝を終えた、澄禅は天霧山を越えて多度津の屏風ヶ浦に下って行きます。白方は、弥谷寺の奥社で海の修行場(補陀洛渡海)であったと伝えられます。そこで、次のように記します。
此浦ハ白砂汗々タルニー群ノ松原在り、其中二御影堂在り、寺ハ海岸寺卜云。門ノ外に産ノ宮トテ石ノ社在、洲崎に産湯ヲ引セ申タル盥トテ外は方二内ハ丸切タル石ノ盥在。波打ギワニ御年少テオサナ遊ビシ玉シ所在。(中略)夫ヨリ五町斗往テ藤新大夫ノ住シ三角屋敷在、是大師御誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲ八幡山三角寺仏母院卜云。(後略)
意訳すると
この白方の浦は、白砂敷き詰められたような上に松林が続き、その中に御影堂が建つ。この寺を海岸寺と云う。門の外には、産ノ宮として石の社がある。(空海出生の際に)の産湯を使ったという盥(たらい)は、外側は方形で、内側は遠景の石の盥であった。白方の波打際は、空海が年少の時によく遊んだと伝えられている。(中略)それより五町(500m)いくと藤新大夫が住んでいた三角屋敷がある。ここが弘法大師誕生地であり、御影堂がある。童形像は、十歳の時の姿だと云う。この寺を八幡山三角寺仏母院という。(後略)
と記しています。ここには、白方屏風ヶ浦には弘法大師が産湯をつかった盥や幼少期の大師が遊んだという海岸寺があり、さらに近くの三角寺仏母院が藤新大夫の屋敷で、そこが大師の誕生地であるというのです。
澄禅が弥谷寺や海岸寺を訪れた17世紀半ばには
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説
が、この地域で流布されていたことが分かります。
一方、善通寺は誕生院が空海の生誕地で、父は佐伯氏、母は阿刀氏の女としてきました。
善通寺の存在証明のひとつが「空海=善通寺誕生院」生誕説です。それに真っ向から挑戦するかのような異説が、目の前の白方や弥谷寺で流布されていたことになります。そして、日記の内容からみて、澄禅自身も真面目に、そのことを信じていたように思えます。
仏母院
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説は、いつころから誰によって、ひろめられていたのでしょうか。
「空海=多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を説く弘法大師伝は、次の3つです。
1、『弘法大師空海根本縁起』(個人蔵)2、説経『苅萱』「高野巻」3、版本『奉弘法大師御伝記』(善通寺蔵)
この内、もっともよく知られているのが『説経苅萱』「高野巻」で、内容は次の通りです。
弘法大師の母御と申は、此の国の人にてましまさず、国を申さば大唐本地の帝の御娘なるが、余なる帝に御祝言あるが、三国一の悪女とあつて、父御の方へお送りある。本地の帝きこしめし、空船に作り籠め、西の海にぞお流しある。日本を指いて流れ寄り、爰に四国讃岐の国、白方屏風が浦、とうしん太夫と申す釣人が、唐と日本の潮境、ちくらが沖と申すにて、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女なり。とうしん太夫が養子におなりあつたと申、又は下の下女にお使ひあつたと申、御名をばあこう御前と申すなり。
奇想天外な話で、修験者の山伏が語りそうな内容ですが意訳すると
弘法大師の母上は、実はこの国人ではありません。唐の皇帝の娘に当たる人なのです。一度は結婚しますが「三国一の悪女」と評されて、父の皇帝の下へ送り返されます。父はこれを知り、空船を作って娘を載せて、西の海(東?)に流しました。船は日本を指して流れ寄り、四国讃岐の国、白方屏風が浦に漂着します。それを、釣人のとうしん太夫がみつけ、空舟を拾い上て見てあれば三国一の悪女が乗っていたのです。二人は夫婦になり、妻の名前はあこう御前と呼ばれるようになります。
この後は、男の子をもうけ金魚丸(空海のこと)と名付けられます。しかし、夜泣きが激しく七浦七里に迷惑がかかるので、あこう御前とともに四国辺路に出ます。
「その数は八十八所とこそ聞こえたれ、さてこそ四国辺土(辺路)とは、八十八か所とは申すなり」
ここには霊場の数が88と明記されています。これが「四国辺路八十八ケ所」の文言の最古礼では四国辺路の研究では、注目されるところです。それ以前に「88ヶ所」は出てこないということは、88ヶ所霊場の成立は、この書の書かれた寛永8年(1631)からそんなに遡らないと研究者は考えているようです。
この説経『苅萱』には、次のような伝本があるようです。
1、絵入写本「せつきやうかるかや」(サントリー美術館蔵)2、寛永8年(1631)刊。しやうるりや喜衛門版「せつきやうかるかや」3、寛文初年頃刊。江戸版木屋彦右衛門版「かるかや道心」
そして、この3つを比較検証すると「空海=多度津白方生誕説」を説く『苅萱』「高野巻」の成立以前に、四国には弘法大師伝記がすでにあったようです。それが『弘法大師空海根本縁起』(以下、『根本縁起』)です。この縁起は元禄12年(1699)、高野山千手院谷西方院の真教が写したものが伝わっていて、次のような文章から始まります。
四国讃岐の多度郡白方屏風が浦に藤新太夫と申す猟師有り、其の内に阿こやと申す女人座り、未四十歳のいんに入迄、子なき事を悲しみ、俄かに善根を為さばやと思い、我心をすくわし、すぐ成る針に餌をさし、縁に任て魚を釣る、万のものに代をかえ、貧なるを供養し、或は堂社仏閣を建立し、則此願成就し、津の国中山寺に参り三七日籠り、男子二而も女子二而も、子種を壱人授てたひ給ヘと深く祈誓を申したる、(後略)
ここでは「あこや御前=唐の皇帝娘」には触れられずに、
藤新太夫が夫婦で、讃岐国白方屏風ケ浦で空海が誕生した。その後、夜泣きが激しくせんゆうが原に捨てられるが、善通寺の徳道上人に拾われ、修行し、そして唐に渡り恵果和尚に出会う。やがて天竺にも行くが、 ここで文殊菩薩との長い問答が繰返されます。修行の後、唐の国から讃岐国屏風ケ浦に帰り着く。
ここまでは「高野巻」とよく似た所が多く、両者の間に深い関係が見て取れます。続いて弘法大師帰朝後のことについて、「高野巻」は弘法大師の母のことに話が移りますが、これは『慈専院縁起』の踏襲です。
一方、『根本縁起』は
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
四国辺路を弘法大師が建立し、辺路を三十三度、中辺路を七度巡り、そして讃岐の大名香川氏(弥谷寺に近い天霧城主)も元結を切って、中辺路を二十一度行い、最後には極楽浄土に往生したと云います。さらに伊予の右衛門三郎も二十一度の辺路を行い、望み通り川野(河野)の家に生まれることができたと記します。そして縁起の末尾には、四国辺路を巡る功徳を有り難く説いています。
この最後に次のように記します
「此縁起を一度聴聞すれば高野山ヘー度の参詣にあたる也。これを聴聞する輩は毎日南無大師遍豪金剛と唱れば、現世あんおん後生善三世の師、七世の父母迄も成仏する事無疑。」
研究者はここに出てくる「聴聞」という文言に注目し、この縁起が「語りもの」の台本であると指摘します。この「根本縁起』は、弘法大師の一代記と四国辺路の功徳を説いた「語りもの」で、四国辺路の開創縁起ともいえるようです。
それでは、この『根本縁起』の制作に関わったのはどんな人たちなのでしょうか。
①中山寺や徳道上人のことなどがみられ、西国三十三所縁起との関係も密接である②善通寺や讃岐の大名香川氏、伊予の右衛門三郎など四国のことが詳しくしるされている③高野山との関係がうかがえる。④阿弥陀如来・極楽・念仏に関することも記述が多い。
以上のような「状況証拠」から、まず第一候補は、四国在地(弥谷寺や白方周辺)の高野山系の念仏聖が挙げられます。
中世多度津の堀江湊の港湾管理センターの役割を果たしていたとされる道隆寺の『道隆寺温故記』(47)には、白方の熊手八幡官(文禄5年(1596)に関する次のような記事があります。
大師入定之後、熊手自慕大師之徳、途跨海波逆流紀川、留慈尊院。今南山巡院々、朝日護摩薫煙無絶。遠期三会、衛護密教云々。
白方の熊手八幡神社
『高野春秋』元禄5年(1692)8月7日には、次のようにあります。「行人順寺八幡在此寺。少々奉仰御立寄。紀公云、八幡者何乎。答日。熊手二而候。」
ここからは熊手は行人方(修験者・山伏)の管掌するところであったことが分かります。なお熊手八幡は今も白方に鎮座しています。そして、この神社の別当寺が仏母院であったようです。
仏母院
仏母院は寺伝では、永禄頃に大善坊という山伏(修験者)によって再興されたと伝えられ、山伏寺で修験者との関係が濃い寺です。ここからは、白方屏風ヶ浦と高野山との交流は念仏聖(時衆系高野聖)にだけでなく行人(山伏)グループによっても行われていたことがうかがえます。
仏母院
では、この『根本縁起』は、いつ作られたのでしょうか。
戦国時代頃の弥谷寺周辺をみると、永禄元年(1558)に善通寺の伽藍が焼失し、善通寺の東院は灰塵に帰します。この火災により、善通寺の勢力は一時的にせよ寺勢を失ったようです。この間隙をぬって、白方屏風ケ浦や仏母院、熊手八幡、さらに弥谷寺周辺の念仏聖や山伏などが弘法大師誕生地を白方屏風浦とし、とうしん太夫とあこや御前を両親とする異端の弘法大師伝(『根本縁起』)を作り上げたと研究者は考えているようです。
その状況証拠資料として、『道隆寺温故記』には、次のような動きが記されています。
①天正20年(1592)には「白方海岸寺大師堂入仏供養」②文禄5年(1596)には弘法大師が創建したと伝えられる白方(熊手)八幡を再興
ここからは、生駒藩支配下のこの頃に白方屏風ケ浦周辺で新たな弘法大師信仰が興ったことがうかがえます。その中心的な寺院が弥谷寺であったと研究者は考えているようです。弥谷寺には、中世から続く時衆系高野聖や高野山と関わりを行人(山伏)などが各院坊にいたことは、前回に見た通りです。
そして、弥谷寺を中心に作られていた『根本縁起』の一部(弘法大師伝)が説経『苅萱』に取り込まれ、「高野巻」が成立すると研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと次のようになります。
①永禄~天正年間頃、弥谷寺や白方屏風ケ浦周辺の念仏聖や行人(山伏)など高野関わりを持つ人物によって異端の弘法大師伝(『根本縁起』)が作られた。
②高野山系の念仏行者や山伏は、それを各地で語り、弘法大師の偉大さと四国辺路の功徳を広めた
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
③その中心的役割を果たしたのは、とうしん太夫夫婦が安置された弥谷寺であった。
④当時の弥谷寺は、時衆系高野聖が活発な活動を展開していた
それでは 澄禅が訪れた17世紀半ばに持仏堂に安置されていた藤新太夫夫婦の石像は、その後どうなったのでしょうか。
その後の真念などの案内記には、この石造について触れたものはありません。17世紀末までには、取り除かれたようです。どうやら弥谷寺は異端である「空海多度津白方生誕=父母は藤新大夫夫婦」説を破棄し、正統派の「空海善通寺誕生院生誕説」をとるようになったことがうかがえます。その「路線変更」には、どんな背景があったのでしょうか?
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 テキストは「 武田和昭 弥谷寺と四国辺路 弥谷寺調査報告書」所収