空海=摂津・生誕養育説を追ってみると・・・             

空海の母親については、「玉寄(依)御前」とする伝承が広く伝えられてきました。私も、小学校ではそう教わりました。現在も善通寺市内の小学生達が使う郷土学習副読書には「空海の母は玉寄御前」と書かれています。しかし、これは江戸時代前期の近世あたりにから盛んに言われだしたもののようです。
  近年、空海(幼名 真魚まお)を生んだ母親については、「摂津の阿刀氏の娘」説が出され、空海は母親のもとで幼年期を送ったのではないかという説が発表されています。さらに、空海=摂津生誕説による小説も書かれています。
釈伝 空海 上 西宮 紘 空海 藤原書店

四宮宏「釈伝 空海」藤原書店
香川県人としては、郷土愛(?)を刺激される説ですが、その感情を抑えながら空海=摂津・生誕養育説を見ていくことにします。
空海(幼名は真魚まお)の母親について書かれている記録は限られます。『続日本後紀』に  
年十五にして、舅(母方の兄弟)の従五位下阿刀宿禰大足に就いて、文書を読習し(後略)
とあることから、母が阿刀氏出身であること、そして母の兄(伯父)が阿刀大足であることが分かります。若き日の真魚は、この伯父さん漢学・漢籍の手ほどきを受けたようです。この資料から研究者の間では、母親を、「玉寄(依)御前」ではなく「阿刀氏出身の女」とするのが「定説」とされています。
 しかし、問題があります。讃岐に阿刀一族が住んでいた記録は見当りません。讃岐国多度郡の真魚の父親の佐伯家と、摂津の阿刀家がどのように結びついたのでしょうか。

次に、阿刀大足を手がかりに阿刀氏を探ってみましょう。

 阿刀氏の本貫は河内国渋川郡跡部郷で、ここに鎮座する跡部神社(八尾市亀井)が氏神のようです。跡部郷というのは、奈良から流れてくる大和川が長瀬川と平野川とに分岐する三角地帯で、川運拠点であり平城京へも水運を通じて数時間で通じていたとされます。
 郷内には渋川廃寺が発掘調査され、七世紀前半の軒丸瓦片が出土し創建は飛鳥時代とみなされます。その後に、四天王寺式で奈良時代後期以降の再建されています。
 創建は仏教排斥派とされてきた物部氏説が強いようです。奈良時代の再建の主には、物部と同族で大和川の舟運も仕切った阿刀氏が、その頃最も一族が隆盛しているので最有力候補だと考えられています。阿刀氏は、もともとは物部氏の一族でしたが、宗家の物部氏が蘇我氏に滅ぼされた後も、大和川の水運に関わりながら河内でその勢力を保持したようです。
IMG_5840

 阿刀氏について分かる資料は正倉院文書の中にもあります。

ここには二十数人に及ぶ多くの写経生としての阿刀氏の一族の名前が記されています。さらに天平初年頃から天平宝字七年(763)まで30余年間にわたって、東大寺写経所で活躍した阿刀連酒主や造東大寺司や造石山寺別当として活躍したか安都空祢雄足(あとのすくねおたり)がいます。阿刀氏は文官や書法において優れた人材を数多く輩出しているようです。
 これ以外にも空海の伯父阿刀宿祢大足に焦点をあてて資料を探すと、次のようなことが明らかにします。
1 阿刀宿祢大足が跡部郷の本宗家であること
2 阿刀宿祢大足の兄妹である空海の母は、河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿 刀本宗家の娘である。兄弟順は真足・大足・長人・空海の母である
3 阿刀家一族は玄昉や善珠という高僧も輩出している

阿刀宗家には『万葉集』に名を残している女性もいます。

巻四・七一〇番
「み空行く月の光にただ一日あひ見し 人の夢にし見ゆる」
を残した安都(阿刀)扉娘子(あとのとびらおとめ)は、聖武天皇か光明皇后に仕えた内侍であろうと考えられています。
 また(『続日本紀』巻三十二、同日条の宝亀三年(七七二)三月二日 に、光仁天皇白身が、妻である井上皇后をふこの罪で位廃する事件が起きます。この事件に連座し、断罪された二人のうちに安都(阿刀)堅石女(あとのかたしめ)の名が見え「謀反の事に鮒いて、隠して申さぬ奴ら……」とされ、呪影を報告しなかった罪が問われています。ここから堅石女は女官の最上位と思われ、いわば側近として監督不行届をとがめられています。
 井上皇后の事件罪を受けた堅石女は、真魚誕生の二年前のことです。堅石女が阿刀家本家出身だと考えると、真魚の母にとって堅石女は、姉であったことになります。
 このように、阿刀家は天平時代から三十年にわたって尚侍・内侍といった高位の女官を輩出し続けています。空海=摂津誕生説では、このような阿刀家の環境の中で真魚は生まれ育ったと考えられているようです。
現在流布されている「空海の母=玉寄御前」説について、
日野西真定「玉依御前論考」(高野山大学仏教学研究室編『仏教学論文集』一九七九年、東方出版)は、「もともと「玉寄姫」は『記紀』の中にも何回か出てくる巫女を指す普通名詞」とします。そして「玉依姫」は鎌倉時代後期以降、空海という偉大な宗教者を生んだ尊い巫女という唱導の中に生まれたもの」であって、
「その唱導は、阿刀大足の次男を元祖とする慈尊院別当の中橋家を中心に発生・確立」
していったものと指摘します。
 それが文学書や民俗資料で用いられるようになり、江戸前期になると四国八十八か所遍路と弘法大師説話が互いに影響を与える形で説かれるようになり
「父・佐伯善通、母・玉寄姫、誕生所・善通寺」
が世間に定着していったとしています。

空海の父(佐伯氏)と母(阿刀氏)はどのように出会い、結ばれたのか

  武内孝善(こうぜん)「弘法大師空海の研究」吉川弘文館には、新しい視点が次のように記されています 
 空海誕生当時の婚姻形態が妻訪婚である点に着目、母と子は十年前後は母方の一族と生活をともにした。従って真魚の誕生地も養育されたのも畿内の阿刀家ではないかとします。さらに空海の父・田公が船による瀬戸内海の交易事業を行い、その拠点が住吉津にあったことを示します。それが、大和川の川船輸送を行う阿刀氏の本拠・跡部郷との接点であったするのです。

1 阿刀氏の本貫地
 これについては、民俗学の谷川氏も阿刀氏が大和川の舟運を司っていたことを指摘しています。谷川健一・金達寿対談『地名の古代史-近畿篇』(河出書房新社)
 ここからは、海運をしていた空海の父・佐伯田公と阿刀氏の次のような結びつきが想起できます。

空海の父・田公は、瀬戸内海運で集めた物資を住吉津に集め、阿刀氏がそれを車馬で八尾街道を一直線に跡部郷に運び、水路で平城京や大和、あるいは長岡京に運送する。その事業の連携のために阿刀と接触、空海の母との縁が芽生える

というストーリーです。
 讃岐を本貫とする佐伯田公と河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿刀娘子の結婚は、当時は妻訪婚ですから、田公が娘子のいわば実家へ通うことになります。現在のように、海を越えて「瀬戸の花嫁」のように讃岐に輿入れすると云うことは考えられません。すると讃岐にも妻がいたと考えた方が自然です。当時は、一夫一妻制でもありません。そう考えると空海の複雑で不明の多い兄弟関係も解けてくるような気がします。 

そして、真魚(空海)が渋川郡跡部郷で生まれます。

当然、養育権は阿刀家にありますので、真魚は阿刀家で育てられることになります。
真魚は神童とされましたので、並の幼児教育では追いつかなくなります。それに対応するだけの環境と教育力が阿刀家にはありました。わが児の異能を知った母は、真魚に高度な教育を受けさせる必要を感じます。相談する相手は兄の大足です。
『文鏡秘府論』の序には次のように記します。
「私、空海は幼いころから母方の伯父について、六朝古来の文章法を学んだ。」
大足は官人ですから平城京の屋敷にいます。その屋敷は、平城京左京三条一坊にあり、多生門を出てすぐの長屋王邸と朱雀大路とに挟まれた一画になります。真魚は、この阿刀宿祢の本宗家に預けられることになったのでしょう。
母は、どうしたのでしょうか? 
妻の役割として、跡部郷に本居としながら、平城京の頻繁に行い真魚の世話もしたのでしょう。跡部郷と平城京は、歩いて半日の距離で、その上大和川の舟を自由に使える身なのですから。

真魚は、いつ、だれに書法の弟子入りしたのでようか

若き空海の実像: 「聾瞽指帰」と新資料「破体千字文」で解明する [書籍]

書道家の飯島太千雄氏は「若き空海の実像」の中で、次のように記します。
「空海の書法は俯仰法と言い、王義之以来の古法だが、筆と手首を進行方向に陰陽、俯勢、仰勢に倒してゆく筆法で、極めて指・手首・肘の柔軟性が要求されるもの。一般に十歳にもなると手が固まってきてしまうので、書道は五、六歳までに始めるべき」として、真魚の弟子入りを「常識的には、手の固まらない五、六歳といった線だろう。少年空海の異能、手筋の良さを知った大足と娘子は、時の能書・忍海原連魚養(うおかい)に指導を仰ぐべく画策」したとします。そして「魚養は、阿刀氏出身の玄昉の弟子であり、その系譜につながる真魚に、持てる書法の限りを尽し指導したに違いない」
空海には謎が沢山あります。
①幼年期の英才教育を、どこで受けたのか
②中国の儒教的教養、中国語(音韻)、書道などをいつ、どこで、誰から受けたのか
真魚は「讃岐で、神童として育てられた」と言われてきましたが神童は「英才教育」があって現れるものなのです。善通寺生誕・生育説では、これには答えられません。
しかし、空海=阿刀氏養育説にたつと、この疑問は解けていくのです。
関連記事