西嶋八兵衛は満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒藩では、譜代家臣達が職務を放棄して、讃岐の地を立ち退くという実力行使をとって、生駒騒動が勃発します。生駒藩内の対立は、藩政の中心にいた西嶋八兵衛は充分に分かっていたはずです。藩内の対立を和らげるのも、藤堂高虎が客臣として西嶋八兵衛を生駒藩に送り込んだ要因のひとつだったかもしれません。しかし、生駒藩の亀裂は深まるばかりで、今や沈み行く船となっていきます。そのような中で、西嶋八兵衛は、伊勢藤堂藩に帰ってきたことになります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
伊勢に帰国した西嶋八兵衛を待ち構えていたのは、またしても旱魃でした。
寛永19年(1642)、伊勢の志郡一帯は大旱魃に襲われ稲は枯死し収穫は皆無になります。さらに3年後の正保3年(1646)にも凶作に見舞われ、農民は餓死寸前に追い込まれます。これに対して二代目藩主藤堂高次は、讃岐で業績を上げて帰国していた西島八兵衛に対策を命じます。今回は伊勢に帰国した西嶋八兵衛が行った灌漑事業を見ていくことにします。テキストは、 雲出井土地改良区のHPです。https://www.zc.ztv.ne.jp/kumozuyu/rekishi.html
HPには次のように記されています。
領内巡視を行った西嶋八兵衛は、雲出井水開鑿の大工事に着手した。正保3年(1646)、水不足に苦しむ雲出・伊倉津地域の農民のために津藤堂藩高次の命を受け、 西嶋八兵衛は2万人以上人夫で3年を費やし、13㎞も離れた上流の戸木村羽野の雲出川から雲出井(くもずゆ)を掘削した。高茶屋四ツ野で三つの水路に分け、14ヶ村600町歩の水田に水の恵みをあたえた。土地の人々は八兵衛を顕彰するため、ここに水分(みくまり)神社を建立した。
雲出井用水への着工
これは戸木村で雲出川に堰を設けて分水し、水路を掘り進めて、高茶屋で水を3分(高郷井、八寸、揚溝)して、高茶屋、雲出地区まで網の目のように用水路を張り巡らせようとするものでした。これは、丸亀平野の土器川・金倉川を治水して、平野の真ん中に大規模用水路を通す工事と、規模も内容もよく似ています。また工事の進め方も、大庄屋と協議して彼らの協力と取り付けて、工事区間を分割して、それぞれを大庄屋に責任を持たせて進めています。これらのやり方も、満濃池用水路の開削と同じ手法だったのではないかと私は考えています。そして、慶安元年(1648)に完成させています。水路延長は7,200間(13㎞)で、本郷、長常、伊倉津など雲出の村々14ケ村600町歩の田畑が恵みを受け、1万石近くの収穫増につながります。
《雲出井(くもずゆ)の維持管理》
慶安元年(1648)に雲出井が完成すると、西島八兵衛は雲出村庄屋の笠井又兵衛を井守に命じます。そして、用水管理について次のような細かい指示を出しています。(要約)
西嶋八兵衛が書いた雲出井水掟書 雲出本郷町 笠井家文書
9ヵ条の内の5ヵ条を見ておきましょう。
一 今瀬せきあげのかげん第一に候、細々見廻候、而、石俵くさり候ハハ取かへ、くずれ候所をばつきなをし、湯流口へ川水よくのり候ごとく可念入事、付大雨ふり可申気色に候ハハ何時も湯流の戸をさし可申、此段、戸木之加兵衛にも申付候間、常々相談可仕候事一 稲代川のつきあて、其外古川迄の井溝うまり候所有之者、無油断さらへさせ可申候事一 石せきより雲出までの井溝うまり候所、又ハつつみそこね候所於有之ハ、其領内きりに修理仕候へと、其村々庄やへ申渡し、其方もともどもに肝をいり可念入候、同井水をみだりにいやが上かけ候所有之は其庄やへ相届、我ままにさせ申間敷事一 四野のわけまたより、北へ水を分候義ハ、その時々此方より可申遣候間、可得其意候、無左候 下としてわけ遣し申間敷候、小森より北郷水つまり申候ハハ急き此方へ可申聞候事一 戸木より雲出までの間大井手の義ニ付いづれの村にても疎略仕候もの於有之者、有体に此方へ申聞候、少もゑこのひいき仕間敷候事
意訳変換しておくと
一 用水路の管理については堰の管理が第一である。頻繁に見廻り、石俵や鎖などは定期的に取り替え、崩壊しそうな場所があれば修復し、取り入れ口へ川水がよく流入するようにすること。大雨時には取入口に戸をさして流入を防ぐこと、これらのことは、戸木之加兵衛にも申付てある。常々、協議してメンテナンスを行う事。一 稲代川や古川までの用水路は、土砂が溜まり所なので、油断せずに定期的に井手浚いをおこなうこと一 取入口の堰から雲出までの井溝も、土砂が溜まったり、また堤防が痛んだりするところが出てくれば、その区画毎で修理することを、関係する庄屋へのへ申渡し、其方と協力しながら維持管理を行うこと。この用水路について、勝手に改変したりする者があれば、担当庄屋に報告し、自分勝手な運用をさせないこと。一 四野の分水点より北への分水については、その都度、こちから連絡を取りながら納得のいく形で運用すること。小森より北の郷水についても同様である。一 戸木から雲出までの間の大井手については、各村で申し合わせ事項を疎略にあつかう者があれば、丁寧に申し聞かせて、えこひいきの内容にないように運用すること。
ここからは雲出井用水の管理について庄屋笠井又兵衛を管理人として、各村々の庄屋と協議しながら運用していくシステムを作っていることが分かります。その後、明暦4年(1658)、延宝8年(1680)にも雲出井手郷中へ「定条々」「定」が出されています。その文書には、庄屋や年寄が署名押印して約束を守ることを明示しています。これも以前にお話しした満濃池水掛申候村高之覚に記された満濃池管理の手法と同じやり方です。讃岐で学んだ治水灌漑の運用システムが、伊勢でも活かされています。
雲出井用水は多くの田畑を潤し、農民達は八兵衛に感謝するようになります。そのため、毎年伊勢神宮に参拝し、神楽を奉奏し大麻を贈ってその健康と子孫繁栄を祈ったと伝えられます。
西嶋八兵衛が1680年に亡くなると、四ッ野分水点に水分神社(俗称:八兵衛神社)を建立し、感謝と豊作を祈願する祭典を行なうようになります。伊勢では、西嶋八兵衛は神となって、分水地点に祀られたのです。四ッ野分水施設は、昭和47年6月20日、津市教育委員会より史跡に指定されています。
西嶋八兵衛が1680年に亡くなると、四ッ野分水点に水分神社(俗称:八兵衛神社)を建立し、感謝と豊作を祈願する祭典を行なうようになります。伊勢では、西嶋八兵衛は神となって、分水地点に祀られたのです。四ッ野分水施設は、昭和47年6月20日、津市教育委員会より史跡に指定されています。
雲出井用水を管理する土地改良区の会報には、次のような言葉が見えます。
(西嶋)八兵衛の歴史と歩む今年も4月19日に水分神社で西嶋八兵衛翁の遺徳を偲ぶと共に、五穀豊穣、通水安全の祈願を行い通水を開始しました
この会報を読むと、用水を開いた西嶋八兵衛の遺徳に感謝しながら、それを未来に繋いでいこうとする願いが伝わってきます。「井戸の水を飲むときには、その井戸を掘った人達の行為に感謝しながら飲まなければならない」という中国の諺を思い出します。
そして、土地改良区が西嶋八兵衛の業績を伝えるための広報活動を積極的に行っています。その中には、漫画偉人伝の作成もあります。それが、市民による銅像の建立にもつながっているようです。
ひるがえって讃岐を振り返ってみると、満濃池周辺には西嶋八兵衛の銅像も石碑もありません。これをどう考えればいいのでしょうか。このことについては、改めて見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
雲出井土地改良区HP https://www.zc.ztv.ne.jp/kumozuyu/rekishi.html
関連記事













