瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:箸蔵寺

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
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箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

明治元年に、阿波の若者が金毘羅さんに「武者修行」にやってきています。
『慶応四(1868)辰のとし 無神月 箸蔵寺金毘羅参詣道中記並に諸造用ひかえ』と記され記録が、麻植郡美郷村東山の後藤田家に残されています。金毘羅さんの参拝ついでに、讃岐の道場を訪ねた記録です。見てみましょう。

6 阿讃国境地図
 無神月廿三日早朝出立、
川又(美郷村)より川田(山川町)通りにまかりこし 
市久保(山川町西川田)にてわらじととのえ、岩津(阿波町)渡し(吉野川の渡し)越す、このころ時雨にあいおおいに心配いたし九ッ(正午)ごろより天気晴れ安心いたし候。
それより脇町を通り新馬場より塩田荏大夫に出合い川原町まで同道いたし候、川原町追分、南がわの茶屋にて支度いたし候、さいはふくろさよりなり、おかかふとりよるもの、子供三皆女なり。
 それより郡里へ通、沼田原に山頭山御祭、かけ馬、角力おおはずみ、それより昼間光明寺にて紙を買う代壱匁(銀銭単位)なり、それより箸蔵山へ登り候、ふもとにて日暮れにあい及び候、箸蔵寺へ着いたし、上の間十枚敷へ通り、岩倉村人、土州人、くみあわせ弐十人ばかり、なかに岩倉の娘、穴ばち摺ばち取りまぜ六人はなはだぶきりょうものなり
  意訳すると
慶応4年10月23日の早朝に美郷村東山を出発。
川田(山川町)を抜けて、市久保(山川町西川田)で草鞋を整えて、岩津(阿波町)の川渡場で吉野川を越える。このころまで時雨も上がり、九ッ(正午)には天気も晴れてきた。脇町を通り、新馬場で塩田荏大夫に出合い川原町まで一緒に同道した。川原町追分の南がわの茶屋で食事をとった。おかずは「ふくろさより」で、おかみは太っていて、子供3人はみんな女であった。
 ここから郡里へ入ったが、沼田原で山頭山の御祭に出会った。草競馬や、角力で大賑わいであった。さらに昼間の光明寺で紙を買った。代は壱匁(銀銭単位)であった。 昼間から箸蔵寺へは登りになるが、ふもとで日が暮れて、暗くなって箸蔵寺に就いた。案内されたのは上の間の10畳ほどの部屋で、ここに岩倉村や土佐の人たち20人ほどの相部屋となった。岩倉村の娘達は不器量であった。
 この剣士(?)は、城下町に住む武士ではないようです。田舎で剣術を習っている若者のようですが年齢などは分かりません。食べ物と女性への関心は強そうなので、まだまだ人間的にも修行中の若者のようです。
さて、初日の記録からは次のような事が分かります。
①旧暦の9月に慶応は明治に改元されています。出発日は慶応4年10月23日と、記されていて明治の元号を使っていません。ちなみにグレゴリオ暦では1868年10月23日が明治への改元日になります。どちらにしても、明治になったばかり激動の時代の金毘羅さん詣りです。どんな変化が見られるのか楽しみです。

②箸蔵までのルートは次の通りです。
美郷川又 → 山川 → 岩津で渡船 → 脇町 → 郡里 → 昼間 → 箸蔵寺

岩津の渡船で吉野川を渡り、撫養街道を西へ進んで行き、夕暮れに箸蔵寺に着いています。脇町方面からだと郡里から三頭越えで美合に下りた方が近道だとおもうのですが、箸蔵経由のコースを取っています。 
③これは箸蔵寺が参拝者へのサービスとして、宿を無量で提供していたことがあるのかもしれません。この日も20人ばかりの人たちが、箸蔵寺の用意した部屋を利用しています。その中には娘達もいたようです。娘達の旅とは、どんな目的だったのか気になります。
箸蔵街道をたどる道 3 | みかんやさんのブログ

 箸蔵寺は、江戸時代後半になってから
「金毘羅さんの奥社・金比羅詣での両詣り」

をキャッチフレーズに、金比羅詣客を呼び込むための経営戦略を打ち出し、急速に寺勢を伸ばします。その際に活躍したのが、箸蔵寺周辺を拠点としていた修験者(山伏)たちです。彼らは先達として、参拝客を誘引すると共に、箸蔵街道の整備や勧進活動も行います。その結果、
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 石仏越 → 財田・山脇

をたどる箸蔵街道がこのエリアの阿讃峠道の主要ルートになります。それが明治の猪ノ鼻峠を越える四国新道につながっていきます。
4 阿波国図 15

10月24日前半 箸蔵寺から金毘羅さん参拝までへ
翌日廿四日出立いたし、土州もの三人連れ同道にて荒戸様を下り、荒戸越え道の左手に小さき池あり、いちえん、はちす(蓮)なり、その池に十八、九の娘、米を洗い候、彼(彼女の意)に、この蓮根に穴あるやと尋ね候えば甚だ不興の鉢(体)なり。
 それより同処ヒサノヤ利太郎宅にて休足(休息)いたし候、ゆべし(柚餅子)にて茶をくれ候、さいは白髪こぶ、竹わ、ふ、なり、小皿つけなり、おかか随分手取り(やりて)なり。
半道(一里の半分)行き追上村小さき茶屋あり、川より西、小百姓とおぼしき南に弐拾五、六女、同年ほどの男だんだんくどきを言い甚だ困り入り候おもむきにあい見え候。

 彼所より拾丁ばかり参り候えば小さき菓子物みせに三拾ばかり夫婦あり、この所にてわらじ弐足代壱匁三分にて買い求め、それより阿波町へ指しかかり象頭山参詣(金毘羅まいりのこと)方々拝見広大なり。
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
意訳すると
翌日24日に箸蔵寺を出発する。途中は昨夜同宿した土佐の三人連れと同道して、山脇集落から荒戸に下った。荒戸越えの道筋の左手に小さな池があり、一面に蓮が咲いていた。その池に十八、九の娘が米を洗っていたので「その蓮根に穴はあるのか」と尋ねると、不機嫌そうな仕草をした。
 荒戸のヒサノヤ利太郎宅で昼食休憩し、ゆべし(柚餅子)と茶を飲んだ。おかずは白髪こぶ、竹輪、ふ、なり、小皿つけであった。女将は随分のやり手だった。
 半道(2㎞)ほどいくと追上村に小さな茶屋があった。そこから川より西側で、小百姓らしい身なりの25歳前後の女が、同じ年頃の男に言い寄られて、困っている様子に見えた。
そこから10丁程進むと小さな菓子物店を、30歳ほどの夫婦が経営してた。ここで、わらじ2足代壱匁三分で買い求めた。そこから金毘羅さんの阿波町へ入り、象頭山参詣(金毘羅まいり)を果たした。いろいろなところを拝見したが広大である。
ここでも女性に、ついつい目が行ってしまうのを止められないようです。金毘羅への道は
箸蔵街道を 箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 山脇 → 荒戸 → 追上 → 樅の木峠 → 買田 → 阿波町

を経て、阿波街道のゴールである阿波町に入っています。金毘羅参拝の報告については、極めて簡略です。江戸時期の庶民の残した旅行記の大半は、途中までの行程は記しますが、その神社や寺社の内部を詳しく記す物はほとんどありません。それがどうしてなのか、私にはよく分かりません。
 旧高松街道 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
10月24日後半 高松街道を金毘羅さんから栗熊まで
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
髙松街道 高篠 祓川から見坂峠2
はらい川(土器川)周辺の髙松街道

それより八栗寺へこころざし参り候ところ、はらい川を越え候ところ五十ばかりの男、道連れになり、いろいろ、はなしいたし、それよりなごり坂(残念坂)へさしかかりこの坂、名残坂とは如何して言う、いわくこの坂、名残坂と申すは諸国の人々、金毘羅内金山寺町等にて段々、がいに狂いいたし帰るさいに、この坂より見返り、この坂、越え候得ば一向あい見え申さず候故なりという

 それより少し行く道のこの手に木村と申す太家あり、それより栗熊村へ指し懸り山路岩太郎と申す剣者の内へまかりいで あいたのみ候えば十七、八の前髪たちいで父、岩太郎居合わさず候故、ことわり申され、それより三丁半東、同村桜屋吉郎内へ参り泊り候処、
加茂村の者老人下駄商用に参り泊り合わせ申し候。
 その夜、村中の若もの四、五人参り、色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄るり、色々あるにあられぬたわむれ。おもしろしく 
さて桜屋ふとんうすく小さし、
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
意訳すると
 それより榎井に入り、土佐占領軍の駐屯地を過ぎ、西山豊之進殿宅へうかがった。内室(奥さん)が出てきて云うには道場主の豊之進は、土佐の駐屯地へ詰めていて、夕方に帰ってくるかどうかも分からないとのことで、御気の毒に存じますとのこと。それならばと山神権吉様宅へうかがうことを告げると、剣者が1人いるだけとのことで諦めることにする。
残念坂からの象頭山 浮世絵
狭間の残念坂からの象頭山金毘羅

 狭間の残念坂を越えて、高松の八栗寺へ向かおうと、はらい川(土器川)を越えた所で五十歳ほどの男と道連れになり、いろいろな話をした。それによると、今から登る坂をなごり坂(残念坂)と呼ぶのはどうしてか知っているかと聞かれる。男が云うには「この坂を名残坂(残念坂)というのは、諸国の人々が金毘羅の色街・金山寺町で精進落としと称し、酒に酔い、大いに羽目を外して、帰る際に、この坂より今一度金毘羅さんを見返りる。しかし、この坂を越えれば平素の顔にもどっている。だから残念坂というそうだ。
打越坂 見返坂 残念坂.jpg金毘羅参詣名所図会
     見返坂(残念坂)金毘羅参詣名所図会
 
狭間より少し行くと木村という大きな家がある。さらに行き栗熊村の山路岩太郎という剣者の家を訪ね、手合わせを頼むが出てきたのは十七、八の前髪の若者で「父、岩太郎は不在です」と断られた。仕方なく、三丁半東の、同村桜屋吉郎の宿に泊る。加茂村老人で下駄商用も泊り合わせたので、その夜、村中の若もの四、五人がやってきて色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄瑠璃などで戯れ時を過ごした。桜屋のふとんは薄く小さい。そこで一句
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
  当時の琴平は、土佐軍占領下にあり土佐兵が、天領だった榎井に進駐していました。新時代の情勢変化などに興味を持つ者であれば、その辺りのことも記録に残すと思うのですが「土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ」と通り過ぎるだけです。この辺りが武士ではないので当事者意識がなく、緊張感もないのかなあと思えてきます。
 当時の金毘羅をめぐる情勢を見ておくと、
この年の初めには、土佐軍が金毘羅を軍事占領し、土佐軍の支配下に置かれます。そして金毘羅金光院に軍用金差出を命じます。そして、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城・高松藩征伐と続くのです。土佐藩軍政下の金毘羅の様子を知りたかったのですが、そのことには一切触れられません。ノンポリのようです。ちなみに金毘羅が土佐藩鎮撫から倉敷県管轄となるのは、翌年のことです。
 彼は榎井の道場を訪ねていますが、榎井だけでも2軒の道場があったようです。幕末には武士だけでなく、庶民にも武道熱が高まり、城下町の道場以外の郡部にも道場があったことが分かります。この日は3軒の道場を訪ねますが、手合わせは適いませんでした。夜は栗熊の宿で、同宿者や村の若者と若者らしく他愛もないものに興じて時を過ごしています。④以外は、私は初めて見るものです。
① 咄(はなし)さいもん、
②あほだら経
③ちょんがり
④浄瑠璃」を楽しんだといいます。
辞書で調べてみることにします。
①は浪花節のことのようです。「江戸末期、大坂に起こった、三味線を伴奏とする大衆的な語り物。明治以降盛んになった。説経祭文(さいもん)から転化したもので、ちょんがれ節、うかれ節などとも呼ばれていた。語られる内容は多くは軍談・講釈・伝記など」と記されます。当時の流行のはしりだったようです。③も浪花節の変種のようです。
②は江戸時代中期に、乞食坊主が街頭で行なった時事風刺の滑稽な俗謡。「ちょぼくれ」ともいわれ、ほら貝などを伴奏にし,戸ごとに銭を請うたとあります。
  旅の目的が道場巡りから演芸交流になっているようで、他人事ながら心配になってきます。

10月25日はいか(羽床)村。
上総琵之助先生方へ参りあい頼み候ところ、おりよく兄弟両三人居合わせ段々取り持ちくれ御業(わぎ)つけくだされ兄弟稽古いたしくれ、また御茶漬くだされ色々御留めくだされ家内壱統、情深き人々なり、それより滝宮参詣いたし、
それより未(陶)村不慶丈太夫先生へ参り、是は高松領随一短槍名人なり、おりあしく居合わさずそれより五丁ばかり北山手に上田四郎兵衛先生方へ参り候処、居合わせ候得共  ??   」』と、以下紙が敗れ造用ある。
意訳すると
配香村(羽床村)の鞍馬一刀流 上総荏之進先生の道場を訪ね、お手合わせを頼むと折良く、兄弟3人が在宅で、稽古をつけてくれた。また稽古の後はお茶漬けまでいただくなど、情け深い家族であった。その後、滝宮神社の参拝後に、陶村の不慶丈太夫先生の道場を訪ねた。先生は高松領随一の短槍名人だが不在であったので、そこから五丁ばかり北にある上田四郎兵衛先生方を訪ねた・・・・・・』

ここまでで「以下紙が敗れ造用」とあります。記録はここまでのようです。この旅で訪ねた道場を挙げると、次のようになります。
讃州那賀郡金毘羅榎井町   西山豊之進
              山上権六
        栗熊村   山路岩太郎
配香村(羽床村)鞍馬一刀流 上総荏之進
              上総辰之助
              津田久之助
  未(陶)村 直神影流  不慶丈太夫
     同        上田四郎兵衛
幕末の讃岐にも郡部には、これだけの道場があり庶民が武術に腕を磨いていたことが分かります。しかし、明治維新の政治的な変動や緊張感は伝わってくるものがありません。阿波や讃岐の庶民にとって、明治の激動は遠い世界の事だったのかもしれないと思えてもきます。
 後藤田氏は、5年後の明治6年にも金毘羅まいりを行っています。その良きに残した記録には、
「こうしておまいりができるのは、一つには天の助け、二つには先祖恵みの功によりなりあがたき仕合わせに存じ奉り候』
と結んでいます。

参考文献       
猪井達雄       阿波吉野川筋からのこんぴら参り古記録  ことひら39号 昭和59年

 江戸時代も半ば以後になって、金毘羅の名が世間に広がると、各地で金毘羅の贋開帳が行なわれるようになります。紛らわしい本尊を祀り、札守や縁起の刷物などを売り出す者が次々と現れます。別当金光院は、高松藩を通じてその地の領主にかけ合って、すぐ中止させるように働きかけています。しかし、焼け石に水状態だったようです。そこで宝暦十年(1763)には「日本一社」の綸旨をいただきますが、それでも決定的な防止策にはならず贋開帳は止まなかったようです。

DSC01156日本一社綸旨
金毘羅大権現「日本一社」の綸旨

 贋開帳を行っていたのは、どんな人たちなのでしょうか。
多くは修験系統の寺院や行者だったようです。
「金刀比羅宮史料」から贋開帳を年代順に見てみましょう。
①明暦2年、讃岐丸亀の長寿院という山伏が、長門(現山口県)で象頭山の名を馳ったので、吟味のうえ、以後こういうことはしないという神文を納めさせた。
②享保6年4月、江戸谷中の修験長久院で、金毘羅飯綱不動と云って開帳したので、高松藩江戸屋敷へ願い出、御添使者から寺社奉行へ願い出て停止させた。
③寛保2年11月、伊予温泉郡吉田村の修験大谷山不動院で、金毘羅の贋開帳。
④天保6年10月、阿波州津村箸蔵寺が、金毘羅のすぐ隣りの苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現並びに金毘羅大権現といって開帳。11月には、箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現奥の院といって開帳した。翌7年6月、箸蔵に出向いて調べた使者の報告では、神体は岩屋で、別に神像はなかったとのこと。
⑤同15年、箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
弘化2年4月、贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。嘉永4年、箸蔵寺、再度贋開帳。
⑥安政4年、備後尾道の修験仙良院、浮御堂において開帳、札守を出したので、同所役人に掛合い、金毘羅の神号の付いたもの一切を受取り、以前の通り神変大菩薩と改めさせた。
⑦安政5年4月、京都湛町大宮修験妙蔵院、京都丸亀屋敷の金毘羅へ毎月十日、諸人が参詣の節、開帳札のよりなものを指出す由の注進があった。
⑧同年十月。泉州堺の修験清寿院で開帳、同所役に掛合い、神体、札守の版木など、早速に引渡される。
贋開帳事件の中でも、箸蔵寺は執拗で事件が長期にわたったようです。
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箸蔵寺山門
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。
「箸蔵寺縁起」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「当山は弘法大師金毘羅権現と御契約の地にして」
「吾は此巌窟に跡を垂る宮毘羅大将にして北東象頭の山へ日夜春属と共に往来せり」
 ここでは、空海が金毘羅さんの奥社として箸蔵山を開いたとします。そして、金比羅神は箸蔵寺から象頭山へ毎日通っていると縁起では説くのです。
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箸蔵寺山門
  箸蔵寺については、本尊薬師如来の信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が安堵されていたことより外、ほとんど分かっていないようです。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺のようです。成長戦略に、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったようです。箸蔵寺は、次のような広報戦略を展開します。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
 そして、10月10日の金毘羅祭に使われた膳部の箸が、その晩のうちに箸蔵寺へ運ばれて行くという話などを広げていきます。それに伴って人々の間に「箸蔵寺は金毘羅奥の院」という俗信仰は拡大します。

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 箸蔵寺山門の大草鞋
 そして先に見た通り箸蔵寺は、金毘羅大権現の贋開帳を行うようになります。そのため何度も本家のこんぴらさんに訴えられます。その都度、藩からの指導を受けています。記録に残っているだけでも贋開帳事件の責任をとって、院主が二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。嘉永二年には、箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行っていた所を多度津藩によって、召捕えられています。
 このような「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説を広げたのも箸蔵寺の修験者たちだったようです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことがうかがえます。

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箸蔵寺参道に現れた天狗(山伏)
財田町史には、箸蔵の修験者たちが山伏寺を財田各地に開き布教活動を行っていたことが報告されています。彼らは財田から二軒茶屋を越えての箸蔵街道の整備や丁石設置も行っていたようです。
讃岐の信徒を箸蔵寺に先達として信者を連れてくるばかりでなく、地域に定着して里寺(山伏寺)の住職になっていく山伏もいたようです。このような修験者(山伏)は、金毘羅さん周辺にもたくさんいたのでしょう。彼らは象頭山で修行し、金比羅行者として全国に散らばり金毘羅信仰を広げる役割を果たしたのではないかと私は考えています。 
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箸蔵寺本堂
贋開帳を行う人たちに、なぜ修験者が多かったのでしょうか?
まず考えられることは、金毘羅神が異国から飛来した神と伝えられたことにあるようです。
金比羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座し、その形儀は修験者であり、権現の化身であると説かれました。金比羅神が、どのような姿で祀られていたのかを、3つの記録で比べてみましょう
 ①天和二年の岡西惟中「一時軒随筆」
金毘羅は.もと天竺の神 飛来して此山に住給ふ 釈迦説法の守護神也。形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也 巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也 本地は不動明王也とぞ 二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也
意訳すると
金比羅神は、もとは天竺インドの神である。飛来して、この山に住むようになった。釈迦説法の守護神で、形は頭に頭巾をつけ、左手に数珠、右手に檜扇を持つ。頭巾は五智宝冠と同じで、数珠は羂索、扇は剣を意味し、本地物は不動明王とされる。伎楽、伎芸という二人の脇士を従える。これは金比羅と勢陀伽権現の化身である。
 
「一時軒随筆」の作者である岡西惟中は、談林派の俳人として名高い人物です。彼は、この記事を当時の別当金光院住職宥栄から直接聞いた話であると断っています。それから150年経った時期に、金光院の当局者が残した「金毘羅一山御規則書」にも、まったく同じことが記されていることが分かります。
②延享年間成立の増田休意「翁躯夜話」
 象頭山(中略)此山奉二金毘羅神(中略)
此神自二摩詞陀国一飛来、降二臨此山釈尊出世之時為レ守二護仏法‘同出二現于天竺(中略)
而釈尊入涅槃之後分二取仏舎利 以来ニ此土 現在二此山霊窟矣 頭上戴勝、五智宝冠也(中略)
左手持二念珠縛索也、右手執一笏子利剣也 本地不動明王之応化、金剛手菩薩之工堡 左右廼名一及楽伎芸 金伽羅制哩迦也
②の「翁躯夜話」は、高松藩主松平頼恭によって「讃州府志」の名を与えられたほどですから、信用は高い書物とされます。これらの2つの資料が一致して
「生身は岩窟に鎮座ましまし、御神鉢は頭巾を頂き、珠数と檜扇を持ち、脇士に伎楽・伎芸がいる」
と記します。
  ③「金毘羅一山御規則書」

抑当山金毘羅大権現者、往古月支国より飛来したまひて
(中略)
釈迦如来説法の時は西天に出現して於王舎城仏法を守護し給ふ(中略)其後仏舎利を持して本朝に来臨し給ふ 生身は山の岫石窟の中に御座まし(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 優婆塞形也 但今時之山伏のことく 持物者 左之手二念珠 右之手二檜扇を持し給ふ 左手之念珠ハ索 右之手之檜扇ハ剣卜中習し侯権現御本地ハ 不動明王
 権現之左右二両児有伎楽伎芸と云也伎楽 今伽羅童子伎芸制吐迦童子と申伝侯也 権現自木像を彫み給ふと云々今内陣の神鉢是也
 意訳変換しておくと
そもそも当山の金毘羅大権現は、往古に月支国より飛来したもので(中略)釈迦如来説法の時には西天に出現して、王舎城で仏法を守護していた。(中略)
その後に仏舎利を持って、本朝にやってきて生身は山の石窟の中に鎮座した。(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 その姿は優婆塞の形である。今の山伏のように、持物は左手に念珠、右手に檜扇を持っている。左手の念珠は索、右手の檜扇は剣と伝えられ、権現の御本地は不動明王である。
 権現の左右には、両児がいて伎楽と伎芸と云う。伎楽は伽羅童子、伎芸は吐迦童子と伝えられる。権現は自から木像を彫み作られた云われ、今は内陣の神鉢として安置されている。

3つの史料からは、金毘羅大権現に祀られていた金毘羅神は、役行者像や蔵王権現とよく似た修験の神の姿をしていたことが分かります。また「飛来した神」ということからも、飛行する天狗が連想されます
 各地の修験者たちにとって、このような金毘羅神の姿は「親近感」のある「習合」しやすい神であったようです。それが、数多くの贋開帳を招く原因となったと研究者は考えています。
 どちらにしても、金比羅神を新たに創り出した象頭山の修験者たちは、孤立した存在ではありませんでした。当時の修験者ネットワークの讃岐の拠点のひとつが象頭山で、そこにインドから飛来してきたという流行神である金比羅神を「創造」し、宥盛の手彫りの像と「習合」したようです。

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箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬
 その成功を見た山伏ネットワーク上の同業者たちが、それを金毘羅さんの「奥社」とか「両参り」を広告戦略として、その一端に連なろうとします。当然のように、贋開帳もおきます。また別の形としては讃岐の金比羅神を地元に勧進し、金毘羅大権現の分社を作り出していく動きとなったようです。全国に広がる金比羅神が海に関係のない山の中まで広がっているのは、山伏ネットワークを通じての金比羅行者の布教活動の成果のようです。「海の守り神 こんぴらさん」というイメージが定着するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅山は全国の修験道者からは、山伏の運営する天狗信仰の山という目で見られていたと研究者は考えています。
参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道


金毘羅さんの大祭は10月10日に行われるので、地元では「お十日(おとうか)さん」と呼ばれています。
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 現在の祭は、十月九日十日十一日のいわゆるお頭人(とうにん)さんとよんでいる祭礼行列です。これは十月十日の夜、本社から山を下って神事場すなわちお旅所まで神幸し、十一日の早朝からお旅所でかずかずの神事があり、十一日は山を上って再び本社まで帰るというスケジュールです。
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しかし、本社をスタートしてお旅所まで神幸し、そこで一日留まり、翌々日に本社に還幸するという今のスタイルは、神仏分離以後のもののようです。それ以前は、神事場もありませんから「旅所への神幸」という祭礼パレードも山上で行われていたのです。
その祭がどんなものであったか「金毘羅山名勝図会」の記述で見てみましょう。
「金毘羅山名勝図会」は19世紀前半に上下二巻が成立したものです。これを読むと大祭は次のふたつに分けて考える事が出来るようです
山麓の精進屋で何日にもわたる物忌と
その忌み龍りの後で、山上で行なわれる各種神事
そして、江戸時代に人々が最も楽しみにしたのが山麓から山上の本宮に到る頭人出仕の行列で、それが盛大なイヴェント委だったようです。当時の祭礼行列は下るのではなく、本宮に向けて登っていたのです
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大祭行事に地元の人たちはどんな形で参加していたのでしょうか
 金毘羅大権現が鎮座する小松荘は苗田、榎井、四条、五条の四村からなります。この四村の中には石井、守屋、阿部、岡部、泉、本荘、田附の七軒の有力な家があって、その七軒の家を荘官とよんでいました。大頭人になるのはこの七軒の家の者に限っていました。中世の宮座にあたる家筋です。その家々が、年々順ぐりに大頭人を勤めることになっていたようです。
9月1日がくると大頭屋の家に「精進屋」と呼ぶ藁葺きの家を建てます。柱はほりたてで壁は藁しとみで、白布の幕が張られます。その家の心柱の根には、五穀の種が埋められます。
9月8日は潮川の神事です。
この日がくると瀬戸内海に面した多度津から持って来た樽に入れた潮と苅藻葉を神事場の石淵に置き、これを川上から流して頭人、頭屋などが潮垢離をします。この日から男女の頭人と、瓶取り婆は毎日三度ずつ垢離を取り、精進潔斎で精進屋で忌みごもりをするのです。
9月9日は大頭屋の家へ、別当はじめ諸役人が集まります。
青竹の先に葉が着づきのままご幣をつけて精進屋の五穀を埋めた柱のところへ結びつけて、その竹を棟より少し高く立てます。
9月10日はトマリソメと言って、この日から大頭屋の家の精進屋で頭人たりちが正式に泊ります。
10月1日は小神事です。
10月6日は「指合の神事」です。
来年の頭屋について打合せる神富が大頭屋の家の精進屋で行なわれます。この時に板付き餅といって、扇の形をした檜の板の上に餅をおき板でしめつけます。これはクツカタ餅ともよばれます。この餅は三日参り(ミツカマイリ)の時の別当や頭司、山百姓などの食べるものだといいます。
10月7日は小頭屋指合の神事です。
10月10日は、いよいよ頭人が山上に出仕する日です。
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頭人は烏帽子をかぶり白衣騎馬で武家の身なりで出かけます。先頭には甑取りの姥が緋のうちかけで馬に乗って行きます。アツタジョロウ又はヤハタグチと呼ばれるこの姥は月水のない老婆の役目です。乗馬の列もあって大名行列になぞらえた仮装パレードで麓から本社への坂や階段を登って行きます。この仮装行列が祭りの一番の見世物となります。
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頭人は金光院の客殿で饗応をうけ、本社へ参詣し、最後に三十番神社で奉幣をします。
10月11日は、観音堂で饗応の後、神輿をかつぎ出して観音堂のまわりを三度まわります。これが行堂めぐりです。ここには他社の祭礼に見るようなミタマウツシの神事もなく、神輿は「奥坊主」が担ぎます。
 神輿には頭人が供奉します
頭人は草鮭をはき、杖をついて諜(ゆかけ)を身につけます。このゆかけは、牛の皮をはぎとって七日の内に作ったもので臭気があるといいます。そして杵を四本かついで行きます。小頭人は花桶花寵を肩にかけて行きます。山百姓(五人百姓)は金毘羅大権現のお伴をしてやって来た家筋の者ですが、この人たちは錐やみそこしや杓子等を持って行列に参加します。そして神輿が観音堂を三巡りすると、神事は終わりとなります。
金毘羅山本山図1

 この神事が終わると、観音堂で祭事に用いた膳具のすべては縁側から下へ捨てます。
祭事に参加した者はもとより、すべての人々がこの夜は境内から出て行きます。一年中でこの夜だけは誰も神前からいなくなるのです。この日神事に使った箸は木の根や石の下などに埋めておく。また箸はその夜、ここから五里ばかり離れた阿波の箸倉山(現在三好郡池田町)へ守護神が運んで行くともいわれます。

金毘羅参詣名所圖會」に見る象頭山松尾寺金光院zozuzan

11日の祭事が終わると、山を下りて精進屋へ行き小豆飯を炊いて七十五膳供えます。
14日は三日参りの式です。これは頭屋渡しとも云われ、本年の頭屋から来年の頭屋へと頭屋の仕事を引き渡す儀式です。
16日は火被の神事で、はらい川で精進屋を火にかけて焼きます。
 以上が「金毘羅山名勝図会」に記録された金毘羅大祭式の記事です。
江戸末期の文化年間の金毘羅大権現の祭礼はこのようなものでした。これを読んでいると分からないことが増えていきます。それをひとつひとつ追いかけてみましょう。
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大祭の1ヶ月以上前から大頭人を担当する家では、頭人の忌み寵りの神事が始まっています。
大頭屋は小松荘の苗田、榎井、四条、五条の荘官の中より選ばれていました。しかし、これらの村々には次のような古くからの氏神があって、いずれもその氏子です。
 苗田  石井八幡
 榎井  春日神社
 四条  各社入り組む
 五条  大井八幡
これらの社の氏子が大祭には金毘羅大権現の氏子として参加することになります。これは地元神社の氏子であり、金毘羅さんの氏子であるという二面性を持つことになります。現在でも琴平の祭りは「氏子祭り」と「大祭」は別日程で行われています。
それでは「氏神」と「金毘羅さん」では、成立はどちらが先なのでしょうか。
 これは、金毘羅大権現の大祭の方が後のようです。金比羅さんが朱印領となった江戸時代になってから、いつとはなく金毘羅大権現の氏子と言われ始めたようです。ここにも金毘羅大権現は古代に遡るものではなく、近世になって登場してきたものであることがうかがえます。
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鞘橋(一の橋)を渡って山上に登る祭礼行列

次に、およそ二ヶ月にもおよぶ長い忌寵の祭です。
これは大頭屋の家に建てられる「精進屋」で行なわれます。
「精進屋」の心柱の下には五穀の種子を埋めるとありました。その年に穫れたもので、忌寵の神事の過程で五穀の種子の再生を願う古代以来の信仰から来ていると研究者は考えています。
 また、五穀の種子を埋めた柱に結わえつけた青竹を、棟より高くかかげて立てて、その尖端は青竹の葉をそのままにしておいて、ご幣を立てるとあります。これは「名勝図会」の説明によると「遠く見ゆるためなり、不浄を忌む故なり」と述べていまますが、やはり神の依代でしょう。ここからは精進屋が、頭人達の忌寵の場というだけでなく、神を招きおろすための神屋であったことがうかがえます。

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元禄の祭礼屛風
 明治の神仏分離で大祭は大きく変化しました。例えば今は、神輿行列は本社から長い石段を下りて新しく造営された神事場へ下りてきて、一夜を過ごします。しかし、明治以前は、十月十日に大頭屋の家から行列を作って山上に登っていく行列でした。
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 祭礼行列に参加する人たちが「仮装」して高松街道をやってくる様子

その行列の先頭にアツタジョロウとよぶ甑取りの姥が参加するのはどうしてでしょうか
 甑取りというのは神に供えるための神酒をかもす役目の女性です。それがもはや月水のない女であるということは、古代以来の忌を守っていることを示すものと研究者は指摘します。
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木戸を祭礼行列の参加者が入って行くのを見守る参拝者達

三十番社について
 山上に登った頭人は本社へ参詣してから三十番神社へ詣でて奉幣すると記されますが、三十番神社については古くからこんな伝承が残っています。
 三十番神社はもともと古くから象頭山に鎮座している神であった。金毘羅大権現がやって来て、この地を十年間ばかり貸してくれと言った。そこで三十番神が承知をすると大権現は三十番神が横を向いている間に十の上に点をかいて千の字にしてしまった。そこで千年もの間借りることができるようになった
と云うのです。
 このような神様の「乗っ取り伝承」は、他の霊山などにもあり、金毘羅山だけのものではありません。ここでは三十番神がもともとの地主神であって、あとからやって来た客神が金毘羅大権現なのを物語る説話として受け止めておきましょう。なにしろ、この大祭自体が三十番社の祭礼を、金毘羅大権現が「乗っ取った祭礼」なのですから。
 本社と三十番神に奉幣するというのは、研究者の興味をかき立てる所のようです。
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祭礼後の膳具は、どこへいくのか?
山上における祭は十日の観音堂における頭人の会食と、十一日の同じ献立による会食、それからのちの神輿の行堂巡りが主なものです。繰り返しますが、この時代はお堂のめぐりを廻るだけ終わっていたのです。行列は下には下りてきませんでした。
 諸式終わると膳具を全て観音堂の縁側より捨てるのです。これを研究者は「神霊との食い別れ」と考えているようです。そしてこの夜は、御山に誰も登山しないというのは、暗闇の状態を作りだし、この日を以って神事が終わりで、神霊はいずれかへ去って行こうとする、その神霊の姿を見てはならないという考えからくるものと研究者達は指摘します。
 翌日、観音堂の縁側より捨てられた膳具はなくなっています。神霊と共に、いずれかへ去って行てしまったというのです。どこへ去って行ったのか?

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 ここに登場するのが阿波の箸蔵寺です。
この寺は
「祭礼に使われた箸は箸蔵寺に飛んでくる」
と言い出します。その所以は
「箸蔵山は空海が修行中に象頭山から帰ってきた金毘羅大権現に出会った山であること、この山が金毘羅大権現の奥の院であること、そのために空海が建立したのが箸蔵寺であること」
という箸蔵寺の由緒書きです。
金毘羅大権現 箸蔵寺2

私の興味があるのは、箸を運んだ(飛ばした?)のは誰かということです?
 祭りの後の真っ暗な金比羅のお山から箸倉山に飛び去って行く神霊の姿、そして膳具。なにか中世説話の「鉢飛ばし」の絵図を思い浮かべてしまいます。私は、ここに登場するのが天狗ではないかと考えています。中世末期の金毘羅のお山を支配したのは修験者たちです。箸蔵寺も近世には、阿波修験道のひとつの拠点になっていきます。そして、金毘羅さんの現在の奥社には、修験者の宥盛が神として祀られ、彼が行場とした断崖には天狗の面が掲げられています。箸倉寺の本堂には今も、烏天狗と子天狗が祀つられています。天狗=修験道=金毘羅神で、金比羅山と箸蔵山は結ばれていったようです。それは、多分に箸蔵寺の押しかけ女房的なアプローチではなかったかとは思いますが・・・
 天狗登場以前の形は十一日の深夜に神霊がはるかなる山に去って行くと考えていたのでしょう。いずれにしても十一日の夜は、この大祭のもっとも慎み深い日であったようです。


  阿波の酒井弥蔵のこんぴらさんと箸蔵寺の両参りについて
   前回に続いて金比羅詣が200回を越えた阿波の酒井弥蔵についてです。研究者は彼の金毘羅詣が3月21日と10月12日に集中してることを指摘し、前者が善通寺の百味講にあたり、先祖供養のためにお参りしていたことを明らかにしました。言うならば、彼にとってこの日は、善通寺にお参りしたついでの、金比羅参拝という気持ちだったのかも知れません。


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それでは弥蔵が10月12日に、こんぴらさんを参拝したのはどうしてでしょうか?
すぐに思い浮かぶのは、10月10日~12日は地元では「お十(とう)かさん」と呼ばれるこんぴらさんの大祭であることです。これは、金毘羅神がお山にやって来る近世以前の守護神であった三十番社の祭礼である日蓮の命日10月10日を、記念する祭礼がもともとの行事であったようです。

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 どうして祭りの最後の日にお参りに来ているのでしょうか
実は、その翌日に彼が参拝しているのが阿波の箸蔵寺なのです。
弥蔵は、大祭の最後の日にこんぴらさんにお参りして、翌日に箸蔵寺に詣でることを毎年のように繰り返していたのです。ここには、どんな理由があるのでしょうか?
このこんぴらさんの例祭について 『讃岐国名勝図会』には、次のような記されています。
『宇野忠春記』曰く(中略)同日(11日)晩、別当僧並びに社祝頭家へ来り。 (中略)
御神事終りて、観音堂にて、両頭人のすわりたる膳具・箸を堂の縁よりなげ捨つるを限りに、諸人一統下山して、方丈門前神馬堂の前に決界をなし、この夜は一人も留山せずこの両頭人の捨てたる箸を、当山の守護神その夜中に拾ひ集め、箸洗谷にて洗ひ、何所へやらんはこびけると云ひ伝ふ。
  『宇野忠春記』という本には
「ここには、例祭の神事に使用した箸などを観音堂から投げ捨て、全員が下山し、方丈門から上には誰もいない状態にした。そして、その投げ捨てられた箸は、箸洗谷で洗われて何処かへ運ばれる
と書かれていると記されます。
 この箸を洗った「箸洗谷」については、 『金毘羅参詣名所図会』には、
これ十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨つるを、守護  神拾ひあつめ、この池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこびたまふといひつたふ。故に箸あらひの池と号す。
   と記されています。ここから「箸洗谷=箸洗池」だったことが分かります。そして、『讃岐国名勝図会』では洗った箸は
「何所へやらんはこびける」
とあいまいな表現でしたが『金毘羅参詣名所図会』では、
  箸はその夜に阿州箸蔵谷へ守護神の運びたまふと言ひ伝ふ。」
と記されています。はっきりと「箸蔵寺のある箸蔵谷」へと運ばれると記されています。このように、金毘羅の祭礼で使われた祭具は、箸蔵寺に運ばれたと当時の人は信じていたのです。
images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
なぜ箸蔵寺へ運ばれなければならなかったのでしょうか?
箸蔵寺の縁起『宝珠山真光院箸蔵寺開基略縁起』の中には、
敬而其濫觴を尋奉るに、 我高祖弘法大師入定留身の御地造営ありて、父母の旧跡を弔ひ玉ひ善通寺に修禅の処、夜中天を見玉に正しく当山にあたり空に金色の光り立り、瑞雲これを覆ふ。依て光りを尋来り玉ふ。山中で金毘羅大権現とその眷属に会う其時異類ども形を現し稽首再拝して曰、
我々ハ金毘羅権現実類の眷属也。悲愍たれ免し給へと 乞時に山中赫奕して いと奥深き 巌窟より一陣の火焔燃上り 光明の真中に 黒色忿怒の大薬叉将忿然と出現し給へバ、無量のけんぞく七千の夜叉随逐守護し奉り 威々粛然たる形相也。
薬叉将 大師に向ひ微笑しての玉ハく、吾ハ東方浄瑠璃世界医王の教勅に従ひ此土の有情を救度し、十二微妙の願力に乗じ天下国家を鎮護し、病苦貧乏の衆生を助け寿福増長ならしめ、終に無上菩提に至らしめんと芦原の初穂の時より是巌窟に来遊する宮毘羅大将也。影を五濁の悪世にたれ金毘羅権現とハ我名也。然るに猶も海中等の急難を救わん為、東北に象頭の山あり。彼所へ日夜眷属往来して只今帰る所也。依而往昔より金毘羅奥院と記す事可知。 
この縁起は空海と金毘羅大権現を一度に登場させて、箸蔵の由来を説きます。まるで歌舞伎の名乗りの舞台のようです。 
①善通寺で修行中の空海は、山の上空に立つ金色の雲を見て当地にやって来ます。
②そこで金毘羅大権現と出会い自らを名乗り「効能」を説きます。
③その際に自分は「海中等の急難を救わん為に象頭山」いるが、「彼所(象頭山)へ日夜眷属往来して只今帰る所也」と象頭山にはいるが、本来の居場所はここであるというのです。
④金毘羅大権現は空海に、当山に寺院の建立と金毘羅宮で使用した箸などの奉納を求めます。 
⑤それを聞いて、空海はこの地に箸蔵寺を開山します。
⑥こうして、箸蔵寺は古来より金毘羅の奥之院として知られるようになった
以上が骨子です。
 しかし、象頭山における金毘羅大権現の創出自体が近世以後のものです。空海の時代に「金毘羅大権現」という存在自体が生み出されていません。また、この由来が「海中等の急難を救わん為」とすることなどからも、金毘羅信仰の高揚期の近世後半に作られたものであることがうかがえます。
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 同時に、この由来には空海と金毘羅大権現の問答を通じて、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥社であり非常に関係が深いことが語られています。
この由緒に記されたように箸蔵寺は近世後半になると
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
を唱えるようになります。また、自らの金毘羅大権現の開帳を行い、何度も本家のこんぴらさんに訴えられた文書が残っています。この文書を見ると、岡山の喩迦山と同じく「こんぴらさんと両参り」は、箸蔵寺の「押しかけ女房」的な感じが私にはします。
 少し横道にそれたようです。話を弥蔵にもどしましょう。
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彼がこんぴらさんにお参りした10月11日〜12日は、金毘羅の例祭が行われる日でした。そして当時は、金毘羅の例祭において箸蔵寺は非常に重要な役割を果たしていると考えられていたこと、、また箸蔵寺は金毘羅の奥之院とされていたこと。こうした信仰的な繋がりを信じていたから、弥蔵はこんぴらさんの大祭が終わる10月12日にこんぴらさんをお参りし、箸がこんぴらさんからやってくる箸蔵寺をその翌日に参詣したのでしょう。
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 ここには、前回にこんぴらさんと善通寺を併せて同日に参拝した理由とは、違う理由がるようです。吉野川中流の半田に住む弥蔵にとって、信仰の原点は地元の箸蔵寺への信仰心から始まったのかも知れません。それが「こんぴらさんの奥社」という箸蔵寺のスローガンにによって、その本山であるこんぴらさんに信仰心が向かうようになり、そしてさらに、弘法大師生誕の地として善通寺に向かい、弘法大師信仰へと歩みだして行ったのかもしれません。どちらにしても、この時代の庶民の信仰が「神も仏も一緒」の流行神的な要素が強く、ひとつの神社仏閣に一新に祈りを捧げるというものではなかったことは分かってきました。
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参考文献   鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 

京都精華大学紀要44号

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伊予土佐街道の一里道標をたどりながらやって来たのは旧山本町役場の前庭。
ここには「こんひら大門まで三里」と刻まれた金毘羅街道の三里道標が建っています。
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その表記の通り、金毘羅さんの階段途中にある大門まで、ここから3里(12㎞)を示します。その下に
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
の文字が読めます。伊予松山の南の浮穴郡の人たちが寄進したもののようです。伊予土佐街道の里呈や灯籠は、ほとんどが伊予の人々により建てられています。
 今は、ここにありますが、もとあった場所は、もう少し東へ行ったところで、街道が大きく南へ曲がった角にこの三里道標はあったそうです。おそらく交通の邪魔になり、ここに移転してきたのでしょう。役場に保管し、道行く人に見える場所に置くなど心遣いのあとが見られます。これも私にとっては先人からの「おもてなし」とかんじられます。
 この地域は「辻」と呼ばれる通り、交通の要地で、観音寺へ、伊予へ、こんぴらへ、箸蔵へと刻んだ大きな道標や灯籠が近くにも残されています。

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休憩後に、次の四里道標に向けて旧街道を原付バイクで走りだした。
すぐに祭りの幟が目に入りました。秋の高く澄んだ青い空にはためく幟は、絵になります。
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どこの神社の祭りかなとバイクを止めて仰ぎ見ると・「金毘羅大権現」とあります。
なぜ「金毘羅大権現」なの・・・???
と幟を見上げたまま、ぼけーと考えてしまいました。
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さらによく見ると、その上に描かれているのは天狗さん、そして○金と○箸の文字。ますます、分からなくなりました。頭の中を整理します。
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?
②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?
③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?
④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
私の明晰な頭は疑問点を以上のようにまとめて、解決に向けての糸口を探ろうとします。視線が向かったのは幟の下の石造物です。
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まず正面の墓石のようなものは何なのか?
○金とありますので、金毘羅信仰に関係するものであるようです。
さらに近づいて見ると、ここにも○金と○箸がなかよく並んでいます。そして、その下には金毘羅さんの御札が入れられているようです。

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ここから私に分かることは、丸亀街道沿の神社の中にあるような「金毘羅さん遙拝施設」ではないということです。そして、金毘羅さんの御札が納められているということは、この石造物自体が「金毘羅大権現」としてお祭りされているのではないかということです。
 怪しげな男がボケーっと立ち尽くしているので、家の中から主人が出てきてきました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。
②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。
③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。
④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。
⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。
⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ
⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
主人の話から分かったことは以上です。
  ここからはこの地区の人たちが金比羅講を組織して、もらってきた御札をここに入れて、信仰対象としてきたようです。推論したとおり、この石造物は「金毘羅大権現」なのです。しかし、「金毘羅大権現」は、明治の神仏分離の際には神と認められずに、金毘羅さんからは追放されました。
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
 考えられることは、この信仰形態はそれ以前の江戸時代から行われていたということです。そのため、金毘羅大権現が金刀比羅宮と名前を変えて神道化しても、ここでは以前通りの名前と、祭礼方法が継続されたのではないでしょうか。
 これで疑問点の二つは、推論が見えてきました。あと二つは「天狗と○箸」です。
天狗とはなにか。これは簡単にいうと「修験者」の象徴です。
四国で、天狗達の巣のひとつが象頭山金毘羅大権現でした。江戸時代の初めの金毘羅大権現の創世記に活躍したのは、高野山で学問を積んだ宥盛のような真言宗の修験者達でした。彼は、土佐の修験道のリーダーをリクルートして多門院を開かせるなど、四国の修験者達のリーダーとして活躍し、多くの子弟を育成し四国中に「修験道」ネットワークを形成していきます。
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箸蔵寺の天狗
つまり、金毘羅さんは修験者の集まる山で、行場でもあり、天狗の山であったのです。
近世初頭においては、金毘羅さんは「海の神様」としての知名度はありません。天狗の住む修験者の山の方が有名だったと私は思っています。そして、まだ全国的にも知られていない、地方の小さな権現さんだったのです。それを全国へ広げていくのは、宥盛等が育成した修験者組織なのです。「塩飽の船乗り達が海の神金毘羅大権現をひろめた」というのは、本当だったとしてももっと後のことです。これについては別項の「金毘羅大権現形成史」で、述べましたのでこれ以上は触れません。
 どちらにしても、この地に金毘羅大権現をもたらしたのは天狗で、修験者たちの布教活動の成果だと私は考えます。そして、人々も天狗(修験者=山伏)を受けいれていたのでしょう。

それでは○箸とは、なんでしょうか。
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この先の財田川の長瀬橋のたもとに残る灯籠を兼ねた道しるべです。
ここには「右 はしくら」「左 こんぴら」と刻まれています。箸蔵寺は、讃岐山脈の猪ノ鼻峠を越えた阿波徳島にある山岳寺院です。この寺も近世には、高越山とともに阿波修験道の拠点のひとつとされていました。金毘羅大権現の「奥の院」として「両参り」を提唱して、幕末から明治にかけて寺勢を伸ばしました。讃岐山脈の麓にある各町村の村史や町史を読んでいると、阿波からの山伏が布教定着し、「山伏寺」を村々に立ち上げていた様子が記されています。その拠点が箸蔵寺になります。

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 箸蔵寺本堂

箸蔵寺は明治の神仏分離の際にも神道に転ずることがありませんでした。
そのため今でも「金毘羅大権現」をお祭りしています。本堂の前には大きな子天狗と大天狗のふたつの天狗面が掲げられています。
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また、明治になって大久保諶之丞による四国新道が財田から三好に抜けるようになると、このバイパス沿いに位置することが、有利に働き多くの信者を集めることになります。そのような寺勢を背景に修験者たちは、国内だけでなく植民地とした朝鮮や中国東北部(旧満州)へも布教団を送り込み信者を増やしていったのです。その時期に建立されたのが現在に残る本堂などの伽藍なのです。明治の建物にもかかわらず早くも重要文化財の指定を受けているように、彫り物などは四国の寺院建築物としては目を見張るものがあります。
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また、旧参道の玉垣の寄進者名も朝鮮や中国旧東北部からのものが多く残されています。
このように、幕末から大正時代にかけての箸蔵寺の修験者僧侶の布教活動には目をみはるものがあったのです。これが、讃岐の里へも影響を与えています。金刀比羅街道の標識に「はしくらへ」と刻まれているのは、当時の箸蔵寺の布教活動の勢いを示す物なのです。

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 こうして、○金と○箸がならぶのは、
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった
②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された
③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。
④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
という推論にたどり着きました。
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箸蔵寺の金毘羅大権現 扁額

わたしにはもうひとつ気になる存在が、この地域にはあるのです。
それがこの背後の丘の上に鎮座する宋運寺と天満神社です。両者は、神仏分離以前は一体でした。建立者は山下氏で、金毘羅大権現の別当金光院を世襲していた家の氏寺でした。つまり、金毘羅さんとストレートにつながっていたのです。この地域への金毘羅神信仰の伝播について、この寺の果たした役割については次回、お話しすることにします。
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