瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:箸蔵寺の歴史

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 カザミノ丘に建つ高灯籠(右)と大門(左)
前回紹介したカザミノ丘の上には、大門が南面して建ちます。

箸蔵寺大門5
箸蔵寺大門(重要文化財)
この山門の棟札には明治13年(1880)の年紀が記されています。しかし、この山門は、もともとはここにあったものではなく、土佐藩の山内家のお寺にあったようです。ところが土佐では明治初年の神仏分離の際に藩主自らが廃仏毀釈を進めます。そのため廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの寺院が消えたことは以前にお話ししました。その余波で、この山門も土佐では不用とされたものを箸蔵寺が譲り受けてきたようです。その輸送方法は、海路と吉野川を水運で運ばれ、現在地に建立されたと伝えられますが、どこの寺からどのようにして運ばれたのかは今の私には、よく分かりません。 
 そういえば、本殿の東の隅にある観音堂も徳島から移築したものです。

箸蔵寺観音堂
箸蔵寺 観音堂
「ふるさと箸蔵」』(昭和51年刊行)には、古老の回願として次のように記します。

「観音堂は大正九年徳島の清水寺から移築し、材料は牛車で運んだ」

これを裏付けるのが、明治28年(1895)の「阿波地誌』の箸蔵寺の俯瞰図です。ここには観音堂が描かれていません。ここでは箸蔵寺の大門は土佐から、観音堂は徳島の清水寺から移築されたものであることを押さえておきます。そのため他の建物群と建設時期や様式が異なります。
このことについてAIに訊ねると、次のように答えてくれました。

  この仁王門(大門)だけでなく、境内にある徳島県指定有形文化財の「観音堂」も、大正時代に徳島市の清水寺から移築されたものとされています。明治期の神仏分離や廃仏毀釈、あるいは他寺院の諸事情によって役目を終えそうになった他県の優れた建築物を、箸蔵寺が境内の復興に合わせて譲り受け、移築・保存した背景がうかがえます

視点を変えると、廃仏毀釈で不用とされた建物や仏像・聖典が、資金力のあるお寺に集まってきたことになります。例えば金毘羅大権現を追放し、神社にリニューアルした金刀比羅宮も不用な多宝塔や仏像・仏具・曼荼羅などの多くをオークションを開いて販売していたことは以前にお話ししました。資金力のある善通寺や箸蔵寺などの周辺の寺院がやってきて買い付けていったことが禰宜の松岡調の日記には記されています。ここでは、幕末から明治にかけて象頭山からは金毘羅大権現が追放されたこと、その中で箸蔵寺は今まで通りに金毘羅大権現を守り通したこと。それが結果として、金毘羅信仰を持つ人々を箸蔵寺に引き寄せることになったようです。その資金力と勧進力を背景に、山門を譲り受け、高灯籠を建立し、参道整備を行うということになります。ちなみに、箸蔵寺が金毘羅大権現を守り通せたのは、仁和寺の御室派で、その門跡が天皇家出身であったため、廃仏毀釈の難から逃れることができたとされるようです。
山門の細部の造りとデザインについて、報告書は次のように記します。

箸蔵寺大門3


箸蔵寺山門8
                  箸蔵寺大門(重要文化財)
①低い切石積みの基壇上に建つ
②三間一戸二階二重門のスタイル
③脇間に金剛力士像を安置しているので、仁王門と呼ばれる
④桁行三間(8,85m)× 梁間二間(6,34m)
⑤桁行の中央の通路を強調するために柱間を広くし、上層の柱は下層の柱位置をずらして、規模を小さくし、均整をとっている。

箸蔵寺大門6
               箸蔵寺大門(重要文化財)
⑥軸部は上部のみ棕のついた丸柱を立て、下層は貫を、上層では長押を廻し、上下層とも木鼻の付いた頭貫と台輪で固めている 
⑦組物は上下とも同じで、出組(一手先)の詰組で柱間に間斗束を立てている。
⑧柱間装置は、正面の桟唐戸は藁座で吊り、両脇には火灯窓を入れる 
⑨上層内部の床は板で敷かれ、天井は大柄な竿縁天井とし、琵琶板の間斗束は省略
⑩正面奥全面と側面一間分を仏間として、中央に釈迦如来座像と左右に十六羅漢を安置する 
⑪粽柱、台輪、詰組、桟唐戸、藁座、火灯窓、逆蓮頭親柱などに禅宗様式を多用
⑫要所に和様の間斗束 配付垂木、長押、舞良戸を組み入れた折衷様式の建物
  箸蔵寺旧記聞伝覚書には、大門の守護神が次のように記されています。
右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である
しかし、今は③のように金剛力士像を安置され、仁王門と呼ばれています。
  
箸蔵寺大門4

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箸蔵寺大門
   山門(仁王門)をくぐると、広い参道が本堂に向けて伸びています
 
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箸蔵寺大門からの参道
①山門からは、右側の山を切り開いたなだらかな参道が続く。石畳ではない。
 
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箸蔵寺大門からの参道
長く続く参道は、西に開け開放的で、両脇に石玉垣や石灯籠などの石造物が整備されています。参道左側は箸蔵谷で、この下に聖地である蔵谷巌窟の行場があります。谷沿いには玉垣が156間(約230余m) 続きます。ここには全国からの寄進者の名前が並びます。箸蔵寺が明治期には全国区の宗教組織であったことがうかがえます。

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箸蔵寺参道の鞘橋
玉垣は赤い屋根の鞘橋まで続きます。この手前右側に、不動明王など四体の石像を安置した水場があります。これも聖地のようです。

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赤い屋根の鞘橋を石段上より振り返る

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    鞘橋からは西にドッグレッグして、129段の幅の広い長い石段の始まり

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二の鳥居から上は、階段の幅が少し狭くなります。さらに85段登ると分岐点で、右手方向に進めば護摩殿、正面に進むと本坊です。
玉垣の柱は、下側(西進部)は擬宝珠柱、上側(北進部)では猿頬柱です。整備された時期によって違いがあるのかも知れません。
箸蔵寺玉垣 大連
箸蔵寺参道の玉垣 「大連」と地名が刻まれている
 気になったのは、玉垣の寄進者の地名です。この明治の玉垣を見ていると、日本国内だけでなく、「旧朝鮮」や「旧満州(大連など)」から奉納された玉垣、石灯籠、満願石などいくつも並んでいることです。どうして、朝鮮や中国東北部(旧満州)からの寄進があるのでしょうか? 私は、これは日清戦争後の大陸進出の機運の中で、箸蔵寺が布教師(修験者)を大陸に派遣し、信者を獲得した成果を示すものではないかと推測しました。そこで、AIに質問すると、次の答えが返ってきました。

「徳島県の箸蔵寺(はしくらじ)自体が「大陸への海外布教」を直接・組織的に行っていたという具体的な歴史的記録はありません。次のようなことが考えられます。
A 大陸へ渡った開拓民や商人の信仰説
明治から昭和にかけて、四国や日本各地から朝鮮半島・満州(現・中国東北部)へ渡った移民や商人が、海上安全や商売繁盛の神仏である「金毘羅大権現」への信仰を現地でも持ち続けた。遥か大陸の地から故郷の、あるいは本尊である箸蔵寺へ玉垣などを奉納したケース。 
B 大陸へ進出した宗派のつながり
箸蔵寺の属していた真言宗御室派は、大陸にいる日本人を対象に「開教使(かいきょうし)」と呼ばれる布教僧を派遣し、満州や朝鮮に数多くの寺院や説教所を設立した。こうした活動(大陸開教)の広がりが、本山や有力寺院である箸蔵寺への寄進という形で反映された。
 以上から箸蔵寺が修験者(布教師)を大陸に派遣し、独自の布教拠点を置いたというよりは、「大陸に渡った日本の人々や、そこで活動した真言宗のネットワークを通じて、国境を越えて金毘羅信仰・箸蔵寺への信仰が大陸にまで届いていた」というのが歴史的な実態に近いとAIは云うのです。私の仮説は、打ち砕かれてしまいました。
以上をまとめておきます
箸蔵寺伽藍整備年表
①1826年に伽藍が全焼した箸蔵寺は、明治末までには建築物の再建が終わった。
②そこで明治になると順調な教勢拡大を背景に参道整備に乗り出した。
③まず1880年に土佐藩から大門を譲り受け参道起点とした。
④その4年後に、大門下にシンボルタワーとなる高灯籠を建てた。
⑤そして、大門から本殿への参道整備を行い、玉垣・燈籠・鳥居が姿を見せた。
⑥その寄進者は、日本全国だけでなく遠く朝鮮半島や大連など中国東北部からのものもある。

箸蔵寺 高灯籠と大門
        箸蔵寺ロープウエー 背後の右が高灯籠、左が大門 下が蔵谷
いまは参道の上空をロープウエーが往復して参拝者を運んでいます。そのために、この大門からの参道を登る人は、ほとんどいません。そういう意味では、静かな祈りの参道としてお勧めです。同時に、琴平でロープウエーの建設計画が何度も立ち消えしていく理由が分かります。これができれば石段の参道沿いの店は閉店に追い込まれることになります。反対運動がおきるはずです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺高灯籠7
                  箸蔵寺ロープウエーと高灯籠
 箸蔵寺へは1970(昭和45)年にロープウェイが出来るまでは、山門下からリフトが庫裡まで伸びているだけでした。ここは自動車参道の終点で、駐車場もあり、旅籠や食堂・土産屋が並び賑わっていました。しかし、下からのロープウエーが出来ると、ここは空中を素通りするだけで、参拝者が訪れることもなくなってしまいました。そのため宿や店も閉じられ、今では、駐車場にロープウェイの柱脚が立っています。しかし、ここからは吉野川流域の素晴らしい展望が拡がります。この辺りは「カザミノ丘」と呼ばれて。かつての名勝でもあったようです。

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        箸蔵寺カザミノ丘からのJR土讃線の吉野川橋梁と高速道路の橋
                   
 箸蔵寺高灯籠は、吉野川流域を眺望するカザミノ丘に建つ木造二重の大型灯籠です。下に流れる吉野川や流域一体を一望できる所にあります。大正5年(1916) 刊の「箸蔵村誌」には「何時も夜燈を燈す」と記し、十数㎞先からも明るい灯りが見えたと云います。「この燈籠は吉野川を行き来する川船の目印(標識)として使われていた」とする説もあります。ただ、燈籠や燈台は、人や船を安全に導くだけではありません。毎夜灯る高燈籠の灯りは、地域のシンボルでもあり、人々の信仰を箸蔵寺へと導くモニュメントでもあったと私は考えています。今私たちが考える以上の役割と機能をこの高灯籠は持っていたのではないでしょうか。

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箸蔵寺高灯籠
 それでは高灯籠は、いつ姿を見せたのでしょうか。
高灯籠上層の壁隅に打たれている棟札には、明治17年(1884)建立と記されています。この年代記事を、幕末から明治にかけて勧められた伽藍整備年表の中に入れてみます。

箸蔵寺伽藍整備年表

この年表からは、次のようなことが読みとれます。
①1826年に、箸蔵寺では伽藍焼失し、再建が勧められた。
②1854年に、最後に本殿に着工し、明治維新までには本殿が完成した
③その後、明治になってカザミノ丘に山門が土佐から移築され、護摩堂や本殿への参道が整備された
④その一環として、讃岐の金刀比羅宮の高灯籠に模した建築物が造営された。
つまり、幕末に上部の伽藍が出来上がると、明治になって参道入口に山門が建てられ、参道整備が進むと同時に、賑わい造り創出やシンボルタワーとして、この高灯籠が姿を現すようになったことがうかがえます。
箸蔵寺高灯籠8
高灯籠の様式やデザインについて、報告書は次のように記します。
①初層方三間四方(3,5m四方)、中層方二間、上層方一間
②初層の正面には一間の唐破風向拝を付ける。 
③建物用途は火を灯して灯台の役目なので、室内装飾はなく簡素な仕上げ。
④袴腰を付けた初重は中層とし、上部は漆喰塗り、下部は本来は板張りであったが現在は鉄板。
⑤向拝と初重柱頭部のみに組物や彫刻使用
⑥屋根は全てに桟瓦を用いており、軒裏は初重が扇垂木を組み、二重は二軒の角繁垂木とする
⑧明治期の建築らしく、中層部の壁全面に筋違を使用。
⑨風が強いところに建つので風圧に備えて土壁 (芯壁)
⑩軒裏や火灯窓などに禅宗様式を取り入れた建物

この建物は周囲によく生えたでしょうし、夜に灯りが灯されれば宗教的な意味を持つ存在になったことでしょう。これに先駆けて造られたのが金刀比羅宮の高灯籠です。

金刀比羅宮 高灯籠
金毘羅大権現の高灯籠

金毘羅大権現の高灯籠
           金毘羅大権現の高灯籠の寄進募集のちらし
金毘羅大権現の金光院に次のような願いが提出されるのが、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)のことです。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。特に、当時好景気に沸いていた砂糖産業に関わる人たちからの寄進が多かったようです。建設資金は3000両とされます。これより前の金堂が30000両でした。
琴平に現れた高灯籠を見て、阿波箸蔵寺の修験者たちは同じような高灯籠を整備が進むカザミノ丘に建てようとしたのではないでしょうか。デザインもよく似ています。

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺の高灯籠(右)と山門(左)
こうして山門と高灯籠が並び立って、箸蔵寺の入口周辺が整備されていきます。それが参道で、護摩堂や本殿とむすばれます。今度は、その参道整備が課題となっていきます。ここに玉垣や燈籠がならび、参道は石で白く輝く境内へと変身していきます。
箸蔵寺の高灯籠を眺めていて思い出したのが、四国中央市新宮町上山の安楽寺の近くにある泉田の高灯籠です。
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                     泉田の高灯籠
まるで燈台のようですが、ここからは海も川も見えません。どうして、ここにこんな灯籠が建てられたのでしょうか。これは「金毘羅 → 箸蔵寺 → 安楽寺」という流れがあるのではないかと私は考えています。確かに金毘羅の高灯籠は、沖ゆく船の燈台の役割を果たしたかもしれません。しかし、夜も航海するのは少数でした。それに対して、箸蔵寺は海は見えません。川船を導く燈台の役割を果たしたとされますが、座礁の恐れがあるので夜に行き来する川船はほとんどなかったようです。箸蔵寺の高灯籠が川船の安全のために建てられたという説には、私は疑問を持っています。そして、次のようなことを考えています。
①尾根の先端部に建つ高灯籠は、「私たちの心の支えとなるお寺(安楽寺)があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰に灯りをともす役割。
②箸蔵寺や安楽寺の存在証明のためにソラの高灯籠は建てられた。
③船のための燈台と云うよりも、ソラの集落の人々の心の燈台の役割を果たした

それでは高灯籠が姿を見せるようになったのは、いつころなのでしょうか?
高灯籠のルーツは、大阪の住吉神社にあるようです。

長谷川貞信(初代)『浪花百景之内 住吉高灯籠』
     長谷川貞信(初代)の『浪花百景之内 住吉高灯籠』(幕末から明治初年頃)
大阪住吉神社の高灯籠 大正時代の絵はがき
住吉神社の高灯籠(大正時代の絵はがき)
  住吉神社の社前には、白砂青松の美しい海岸風景(住吉津)が広がっていました。住吉高灯籠ももともとは、住吉大社の常夜燈ですが、次第に航路標識としての役割が増大していきます。とくに大阪湾の潮流が激しい難波津に比べ、穏やかな海の住吉津は、海上交通の要衝となり、江戸時代になると夜間の航行を守る灯台としての役割が強くなります。 住吉公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、もともとは住吉大社の表参道で、鎌倉時代に創建された初代の高灯籠は「日本最古の灯台」として、ここに建っていたようです。琴平の高灯籠が、これをモデルにしていることがよく分かります。こうして、住吉神社モデルの高灯籠が瀬戸内海の港町には姿を見せるようになります。

御手洗の高灯籠
御手洗の高灯籠(呉市 大崎下島)
 瀬戸内海の風待ち港として栄えた大崎下島の御手洗(みたらい)にある石造りの高灯籠です。天保3(1832)年に北前船などの航行安全を祈って千砂子波止の突端に造り替えられています。金毘羅に約30年あまり先行します。

鞆の常夜灯
              鞆(福山市)の常夜灯
 鞆は、御手洗に遅れること約30年後の安政6年(1859年)に建てられています。港の常夜灯としては日本一の大きさ(海中の基礎から最上部の宝珠まで約11〜12m)です。

敦賀の日本最古の高灯籠
庄山の高灯籠(敦賀市)
敦賀市の観光ホテル前庭に建つ高灯籠は、享和2年(1802)に建てられた現存する日本海側最古の石積み灯台です。底辺2.3m四方、高さはおよそ7.5m。茶町(現:川崎町)の船問屋・庄山清兵衛が自邸の一角に建てたことから「庄山の高灯籠」とも呼ばれています。沖ゆく北前船を港に誘引する効果があったのかもしれません。

高燈籠変遷

 このような港への高灯籠建設が、「海の神様」としての信仰を集めつつあった内陸部の琴平に建てられ、それがさらに明治になると箸蔵にも伸びていくということになるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追記 高灯籠は蔵谷巌窟への入口でもあります。
高灯篭の横の木の鳥居をくぐり、参道を下っていくと約20分ぐらいで丸木橋が見えて来ます。それ渡るとお堂があります。ここが弘法大師が金毘羅大権現から寺院を建立するように誓願された場所とされているようです。修験者たちにとっては、聖なる行場であったことになります。

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺
 蔵谷巌窟

箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
蔵谷巌窟に祀られる金毘羅大権現
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺本社は権現造り
箸蔵寺の本社
幕末に建立された箸蔵寺の建物群は、重文指定になっています。その内の金毘羅大権現を祀る本社を今回は見ていくことにします。本社(本殿)は、上の写真のように3つの建物が連なって構成されています。きつく長い階段を登って正面に建つと見えるのは、拝殿だけです。そのために、私は若い頃にはその背後にある石の間と本殿に気づかないでいました。側面から見ると本殿は、後の斜面の上にあり、拝殿よりも相当に高い所に建っているのが分かります。これは金刀比羅宮(旧金毘羅大権現)と同じ社殿配置です。今回は箸蔵寺の本社(本殿)について見ていくことにします。テキストは、「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」です。 調査報告書には、建築群について次のように記します。(要約)
箸蔵寺は近世には金刀比羅宮の奥の院として信仰を集めた。現存する建築群は,文政9年(1826)の火災後に再建されたものである。建築年代は,
A 方丈が安政3年(1856)頃
B 護摩殿・薬師堂・鐘楼堂・天神社本殿が文久元年(1861)頃
C 本殿は少し遅れて江戸最末期(彫刻は明治)
箸蔵寺は,本殿,護摩殿,方丈を中心に,神仏習合を色濃く残す寺院である。特に本殿と護摩殿は,傾斜地を意図的に利用し,複雑な構成と特異な造形を併せ持つ雄大な複合建築として貴重である。また,いずれも装飾細部に巧緻かつ高度な技法を駆使した彫物を多用しており,四国における江戸末期の建築意匠の傾向を代表する壮麗な建築のひとつとして,価値が高い。」

 
箸蔵寺の建築物年代
        
嘉永七(1854) 夏に出された「御本社再建寄進蝶」には「文政九年(1826) の「春当山諸堂を焼失。御本殿は旧来の通り再建したい」として、本殿の平面図と正面図を掲げて寄進が募られています。 さらに「徳島県の諸職」(諸職関係民俗文化財調査報告書・徳島県教育委員会編) からは、本殿の彫刻が初代・猪口国太郎 (1824~78)と、二代・猪口安太郎 (1861~93)の手によるものであることが分かっています。これらによって、本殿が幕末のもので、伽藍の中で最後に姿を現したこと、また彫刻類は明治になって出来上がったことが裏付けられます。
 「傾斜地を意図的に利用し,複雑な構成と特異な造形を併せ持つ雄大な複合建築(権現造り)」とされる建物群を見ていくことにします。

神 社 建 築 の 種 類
権現
権現造り
権現造りは「外陣(拝殿)+ 内陣(石の間) + 奥殿(本殿)」の三構造です。


                  日光東照宮の平面図 
 権現造は、北野天満宮をモデルにして、各藩が日光東照宮のミニ版を建立する過程で様式が整えられて行きます。その特長は、上から見ると本殿と拝殿を石の間で連結した工字形に見えることです。間の石の間は、「相の間」とも呼ばれます。古代の神社建築では、本殿と拝殿が別棟で、その間は床を石敷としていました。そのため「石の間造」と呼ばれることもありました。近世になると、「本殿 + 石の間 + 拝殿」の3つの空間がひとつの棟となります。しかし、床を同レベルとしないで、石の間を設けて本殿よりも拝殿を一段低い位置に置いて、そこから御本尊や御神体を仰ぎ崇拝するスタイルをとるようになります。箸蔵寺の本殿は、山を背にして建ているので、高低差が大きいのが特徴です。別の言い方をすると、高低差を石の間で作りだして、本殿を仰ぎ見る演出空間を生み出していると研究者は評します。これは、象頭山の金刀比羅宮の社殿と同じです。これが模倣されたことが考えられます。
2式大艇を壊した! 権現造 | ミカオ建築館 BLOG - 楽天ブログ
 ちなみに拝殿から本殿までの社殿全体の奥行は約39mあります。これは、全国に点在する権現造や複合神社建築と比べてもひけをとるものではないと研究者は評します。

3つの建物の役割と構造を見ていくことにします。
A 外陣 手前の四方切目縁を廻した大規模な拝殿
B 内陣 一段上がった幣殿(石の間)
C 奥殿 木階と中段を挟んだ本殿
床は
A 外陣 64帖の畳を敷き詰めて、拝殿にあたる礼拝の間 
B 内陣 護摩壇が置かれ、中央は板で周辺三辺を畳を廻し、外側に畳敷き
C 奥殿 一間毎に畳敷き、木階と続き、丸柱を立てて結界線を設け、三間分を拭板を敷き、最奥の一間分を仏間にして秘仏を安置する。
内陣(石の間)に護摩壇があることが修験者の拠点であったことを物語ります。

箸蔵寺と天狗
箸蔵寺拝殿正面の天狗面と修験者

本殿(奥殿)の正面には、一段高くした仏間を設けて秘仏を祀られているようです。そこには弘法大師に寺を建立するように誓願した金毘羅大権現や、その化身(本地仏)である薬師如来、その守護神の天部、修験者の守護神不道明王が祀られているようです。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺が配布した金毘羅大権現の掛け軸
権現造といえば東照宮(栃木日光・東京上野・静岡久能山・京都福地・滋賀日吉)や北野天満宮などのように、極彩色された組物や彫刻を多用するのが特徴です。
しかし、箸蔵寺には彩色物がありません。拝殿の軒裏や向拝には、三手先の尾垂木や木鼻に、唐獅子・龍・獏息などの想像上の霊獣が彫刻さます。それを見ておきましょう。

箸蔵寺拝殿 彫刻1
箸蔵寺拝殿 彫刻がびっしりと刻まれている
箸蔵寺拝殿 彫刻2
箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻1

箸蔵寺拝殿 彫刻5
               
箸蔵寺拝殿 彫刻6
             箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻3
箸蔵寺拝殿 彫刻4
箸蔵寺拝殿の軒裏や向拝の彫刻4
 奥殿の軒裏は、禅宗様の詰組みであ五手先で埋めつくされているようですが、私はまだ見たことがありません。このような大規模な装飾的社殿建築は、本家の金刀比羅宮だけでなく、四国でも珍しいと思います。彫刻が好きな人にはお勧めの場所です。幕末の貴重な遺構として重要文化財に指定されるひとつの要素でしょう。
 この建物の彫刻や組み物は宮大工ではなく、専門の彫刻師が手がけていたことが分かっています。
「徳島県の諸職」(諸職関係民俗文化財調査報告書・徳島県教育委員会編) には、初代・猪口国太郎(1824~78)と、二代・猪口安太郎(1861~93)の手によるものと報告されています。建物が幕末に完成した後で、明治になって彼らによって彫刻や組み物が掘られて、飾られたことになります。護摩堂と本殿との前後関係は、護摩殿が先に完成し、その後に本殿が完成することは先に見たとおりです。そのため組物などは、本殿の方が一段と派手になっていること、外陣軒裏・同向拝・奥殿軒裏などに彫刻師の技の進歩が見られると研究者は指摘します。

この本殿建立のための資金は、どのようにして集められたのでしょうか。
寄進募集のために出された「御本社再建寄進蝶」嘉永7(1854)年夏には次のように記します。
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。ついては、資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募ることになった。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行う。家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じることを乞う。
                          箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事
定
一 式朱   五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事
一 金百疋 右同断御札可進之事
一 金弐百足 右同断木札可進之事
一 金壱両  右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事
一 金式而  五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入
一 金五両  右同断講座之砌三七日之護摩修業木札 
       可進之事 ○永代内陣人
一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札 
可進之事 〇永代内陣入日護摩講
一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事
一 金三拾両  永代木札可進之事
内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候
一 金五拾両  永代木札可進之事 右之御神楽
内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候
右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上
以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。寄付額によって、与えられる特権やランクがちがうようです。
以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。

以上をまとめておきます。
①文政9年(1826)に箸蔵寺は被災した。
②その1856年頃までには、方丈も含めて再建(創建?)された。
③最後に残ったのが本殿で、幕末から明治にかけて完成した。
④本殿は「拝殿+石の間+本殿(奥殿)」から構成される権現造である。
⑤奥殿には金毘羅大権現とその本地仏や守護する天部が祀られている。
⑥石の間には、修験者の祈祷場として護摩壇がある。
⑦建物は見事な彫刻で飾られているが、これは明治の彫刻家の作品である
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺境内図

 「箸蔵寺旧記」には、箸蔵寺の由来や建物履歴などが書かれていますが、その成立については次の2つの説があるようです。
A 箸蔵寺の山号は「宝珠山」だが、修験者たちの山岳修行の行場・道場だったので「仙岳」とも呼ばれた。その箸蔵寺に伝わる縁起や歴史を記したので『仙岳誌』である。
B 幕末に活躍した住職の仙岳が記したことに由来する。
どちらが正しいのかは、追々考えることにして、書かれている内容を冒頭から見ていくことにします。
テキストは「箸蔵寺調査報告書49P 池田町教育委員会」に掲載されている「箸蔵寺旧記聞伝覚書」です。)。
箸蔵寺旧記聞伝覚書1
          箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO1
冒頭部を意訳変換しておくと
一、この鳥居から箸蔵寺までは十八丁。鳥居の高さは三間、橫は2間半、柱は五尺四寸。
一、A長宗我部元親が土州より侵攻し、大西氏の白地城が落城するまでは、箸蔵寺は上の堂にあった。兵火で焼失して、夜ごとに山中で光るものが見える。これを長曾我部の手勢が見つけて訪ねてみると、樹下に靈像があった。これが当山の権現の本尊薬師如来とその眷属たちの像であった。火中に残り姿を見せていることに深く感じ入った土佐出身の男は、この霊像を祀った。しかし、約三十ヶ年間も、堂寺はなく庵があるだけであった。男は妻を娶り、二人の男の子を得た。そうする中で夢の中に金毘羅大権現が現れ、次のように告げた。「兄に家名を継がせ、弟を出家させて寺堂宮を造立すべし」と。そこで、奥社では遠いので朝暮の山坂で充分に祀ることができないので、寺を現在地に移した。
ここに書かれていることを要約しておきます。
①箸蔵寺は、長宗我部元親と大西氏の兵火の中で焼失した。
②焼失後、退転した寺の管理を行ったのは土佐出身者で、上の堂から現在地に寺を移した。
ここで注目したいのは、退転した箸蔵寺を復興したのが土佐出身者であることです。前々回に紹介した地福寺旧記には、次のように記されていました
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②弟子の宥寛は、土佐浪人の倅であった。
 箸蔵寺復興者については、地福寺旧記の内容を補完する内容です。退転した箸蔵寺の復興者は、土佐出身の修験者であることがうかがえます。さらに、箸蔵寺に中世の歴史はないとすると、これが実質的創建者とであったと私は考えています。琴平の金毘羅大権現の別当寺の松尾寺も長宗我部元親が土佐から呼び寄せた修験者のボスである宥厳に任されます。金毘羅も箸蔵寺も、土佐の修験者によって復興(創建?)されたことを押さえておきます。また金毘羅神は、近世初頭に天狗信仰者によって生み出された流行(はやり)神であることは以前にお話ししました。中世にその起源を遡ることはできません。
 次は長宗我部元親に代わってやってきた蜂須賀藩の対応が、どのように書かれているかを見ていくことにします。 

箸蔵寺旧記聞伝覚書2
           箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO2
意訳変換しておくと
一 阿波藩主の先代蓬庵公が巡国の際に、当庵に隠者がいることを聞いて、庵までやって来た。住持は、以前の領主様(大西氏? OR 長宗我部元親?)は、金毘羅大権現の本尊へ供田を寄進されるとともに、自分の祈祷所として保護されていましたと申上げた。これを聞いて蜂須賀家の藩主は、箸蔵寺に対して山内七十七町七反四畝の山林の證文と禁令の制札を下し、藩の祈願所に取立てて保護下に置いた。そして、本社・幣殿、拝殿本堂、鐘楼堂、大門、宝蔵方、庫裏等などが(藩主によって)再興された。
 ところが寛文七(1667)年四月に、火事が起り、寺、諸堂、 社宝物、 證文などが焼失した。この時に、御手板だけは燒残ったので、現在も箸蔵寺で保存されている。その後、長谷川越前様の仕置の際に、杉桧が生え重るようになっていたので(藩の)御林に組み入れられた。
箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 高灯籠 左が大門
  高燈籠の高さは、三丈 石口より四間半、周囲は2間四方
昔は、ここに制札場があり、次のような藩主の禁令が掲げられていた。
一 当山では他所の者が無断で材木を切ることを禁令で禁止する。もし伐採する者があれば成敗する。
一 竹の子やひね竹一本でも切ることは許さない。これは堅く守るべきこと。桑や茶の木も、また伐るべからず
                         文禄三年四月三日蜂須賀 御判
ここでは蜂須賀家の保護を受けることで箸蔵寺は大伽藍をもつ大寺に成長したことが記されています。
しかし、前々回に見たように近世の史料からは、箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたことは記されていますが、多くの神域を保障されていたことなどには触れられておらずよく分かりません。
 私がここで気になるのは、「長宗我部元親=破壊者=悪玉説、蜂須賀家=復興者=善玉説」に色分けされて歴史が叙述されていることです。
その延長線上に書かれている『池田町史 上巻』は、次のように記されています。

長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これが本当なのかという疑義を私は持っています。香川県でも長宗我部元親は悪玉として描かれてきましたが、その見直しが始まったばかりです。長宗我部元親は短いけれども支配者として君臨しました。その間に「スクラップ & ビルド」を行っています。ビルドの面があったことも見ていく必要があるように思います。

箸蔵寺旧記聞伝覚書3

縁起 - こんぴら奥の院 箸蔵寺
箸蔵寺全景 大門は右下
意訳変換しておくと
一 茶堂は三間×四間
一 大門は三間×六間の規模であったが、35年前に焼失。それを文政九戌年に復興した。
一 大門・諸堂社の再興時の材木は祖谷山の喜多源内殿からの寄進で、栗ヶ仁尾という高山に生えていた槻木を吉野川を流して運んできたものである。
一 祓(はらい)川と云うのは、弘法大師の加持水で、この水を使って当山参拝者たちが身体の不浄をはらためである。弘法大師は、この川について次のように詠んだ。
○身体に積もる不浄(コリトリ)を浄める祓川。
○清浄の積る塵垢(こり)拂ひ川
(大門の)右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である

IMG_3656
箸蔵寺大門
ここには大門や緒堂の材木が祖谷から吉野川の川流しによって運ばれてきたと記されています。吉野川流域では、現在の早明浦ダムの奥の土佐からも木材が流されていたことは以前にお話ししました。これらは吉野川河口に運ばれ、中世には堺の商人の手を通じて畿内に売りさばかれていました。堺商人の阿波進出は、木材と関係あるようです。そのルートをつたって、吉野川沿いに真宗興正寺派の教線が伸びてきて、美馬が安楽寺がその拠点となることは以前にお話ししました。
 祓川については、讃岐の金毘羅大権現では、髙松街道が土器川を越える辺りが祓川と呼ばれていました。髙松方面からやってきた参拝者たちは、象頭山を仰ぎ見ながら土器川(祓川)で身を清めました。山岳信仰の寺院は、不浄を浄める川や泉は不可欠でした。また大門の右に祀られている深沙大様は珍しい守護神です。 

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺奥の院 金毘羅大権現を祀る蔵谷巌窟
箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
箸蔵寺 蔵谷岩窟に祀られる金毘羅大権現

一 この鳥居の内側は、弘法大師の開山時より、邪(じゃ)結界の霊地で、地名を蔵谷と云う。当山の魔所とされてきた。一年に三度、八丁四方の注連縄を回して、諸人の立ち入りを禁じているエリアである。ここは巌窟から(金毘羅)現権が現れ、弘法大師と出会った場所である。弘法大師は金毘羅大権現から「参詣する諸人に除災興楽を興へよ」という誓願を受けて七堂伽藍を建立した。そして、一年に一度は諸人に不思議を見せ、信仰を生じさせんとして、讃州金比羅から十月十一日の夜に眷属(天狗)に、祭礼に使った頭人祝ひの箸や土器を、この霊窟に運び収めさせたと申し伝えられている。こうして、大祭後の十月十一日の夜の間に箸や土器は金毘羅には壱本も残らずなくなるようになった。

一 これについては天保巳年讃州金光院より御役場へ、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥の院と称する由縁についてお訊ねがあった。そこで、箸を蔵谷へ運び収めるとの契約あるによって箸蔵寺と号し、権現出現の時の威光を輝く姿をもって真光院と号すことを伝えた。

ここには、江戸時代に半ばに高野山の高僧が書いた箸伝説縁起が下敷きになったものがそのまま引用されています。そして、琴平の金光院からの詰問に対して弘法大師と金毘羅大権現との間に結ばれた「箸を蔵谷へ運び収める契約」があることを証としたと記されています。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近

しかし、これは箸蔵寺の一方的な言い分で、
本家の琴平の金光院には、箸蔵寺関係の修験者によるの贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。それが幕末の伽藍整備の勧進力になるのと私は考えています。続いて見ていきます。
一 当山は東西に伸びた山の形が宝珠に似ているので寶珠山と弘法大師が名付けた。
一 以来、この山は不入の山とされてきた。文政年間の初めからは修験者宗休が蔵谷の八丁下りに堂を作り、十二ヶ年余りに渡って長期間の修行を行ってきた。その後、当山に身を隠した。この行者の験のお陰か、三月、六月、十月十一日十二日の一年に三度、金毘羅大権現が現れた。人々は、山に拝礼し、信心の者は精進潔済して当山に参詣した。年を経て、この行堂も痛みがひどくなったので、七年巳前に三間四方の行堂を再興した。この地は、谷底なので百三十間の岩石が一面に続く瀧がある。
一 ここは今は畠地になったが、昔はここに三重塔があって、字名も三重塔床(跡)と伝えられている。
ここには文政年間に箸蔵山で修行した修験者宗休のことが紹介されています。多くの行者が長期間にわたって修行を行う行場が数多く点在していたこと、そこで数多くの修験者たちが修行に励んでいたこと、幕末の箸蔵寺は修験者の密度が濃かったことがうかがえます。それが阿讃の山を超えて財田から三豊への勧進活動の原動力だったのかもしれません。
  最後に、善女龍王の勧進について見ておきましょう。
一 当山、霊山とされるのは、本社より25丁上の山の峯に、弘法大師が善女龍王を観請し、往来の諸人の渇の乾きを癒やすために、加持して湧き出した一杵(いっしょ)の由来にもとづく。旱魃之際にも、この泉が水量が一定で枯れたりすることないので、諸人は「壱升水」と呼ぶ。
今年のような旱魃の時には、諸国からこの霊水を持ち帰り、雨乞祈祷を行う。その効験あることは世間の知る所である。ある時には善女龍王は小蛇に化身して社頭に姿を見せることもある。まことに不思議の霊場である。
善女龍王は、弘法大師伝説のひとつのジャンルです。善女龍王が讃岐で最初に勧進されるのは、17世紀後半の善通寺です。善通寺を中心に善女龍王伝説は広がっていったようです。その流布ラインが箸蔵寺にまでおよんでいたことがここからはうかがえます。

さて、最初の疑問に戻ります。この文書は何のために書かれたかということです。末尾には「このように藩からのお訊ねがあるときには、住職は以上のように答えてきた。」とあります。これからは藩などの公的機関からの問い合わせに対する想定問答集であったことが分かります。江戸時代後半になると大きな寺院では藩の問い合わせに対して、このような想定問答集が常備されていきます。それを書き写し残したのが幕末から明治にかけて活躍した仙岳だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

前回には、箸蔵寺の創建について次のようにまとめました。
A 近世以前の史料は箸蔵寺にはないこと。つまり、金毘羅大権現と同じように近世初頭に生まれた寺院であること。
B 箸蔵寺再興(創建)は、地福寺の修験者たちによっておこなわれたこと
C そのための箸蔵寺は修験者(山伏)の拠点として発展していく。

まず、箸蔵寺が蜂須賀家の保護下に、どのように置かれたのかを見ておきましょう。
 秀吉は四国平定を行うと、天正13年(1585)に蜂須賀家政を阿波に入部させます。支配が安定化した文禄2年(1593)になると、藩主が国内巡視を行うようになり、三好にもやってきます。その時に、箸蔵寺の宥観(寛?)阿闍梨は由緒を言上して藩主を諸堂再建の大施主と仰いで帰順を示します。これに対して藩主は、境内の免地と永代寺領三百石を与え、次のような禁を下して保護をしたと記します。 
定 著藏寺
一 當山において、他所之ものむさと入りこみ材木きる儀、堅令停止候条、所之者としてせいたう可仕事
一、竹の子並ひね竹壱本もきるべからず、 是又堅可相留事
一、 桑之木、並茶之木、これ又伐べからざる事
文禄二年四月三日       蜂須賀(花押)
意訳変換しておくと
定 著藏寺
一 当山において、他所から入り込み材木などを切ることを今後禁止する。もし禁令を犯せば成敗する。
一、竹の子やひね竹なども、一本でも切ることを許さない。堅く守ること
一、 桑の木や茶なども、これを伐ってはならない
文禄二(1593)年四月三日    蜂須賀(花押)
藩主が与えた「境内の免地と永代寺領三百石」というのは、金毘羅大権現の別当金光院に生駒家が与えた寺領に匹敵します。私は、これをそのまま信じることはできません。また、禁令を見ると、当時の箸蔵寺周辺には竹や桑・茶などが「栽培」されていたことがうかがえます。竹は、竹篭などの竹細工の材料、桑は養蚕、茶は中世以来のこの地区の特産品です。
  私が気になるのが「箸蔵寺の住職が宥観阿闍梨」と記されていることです。前回見た地福寺旧記には、近世の箸蔵寺の再建者は、地福寺の宥伝とその弟子の真光寺・宥寛だと記されていました。そうだとすれば、宥観と宥寛は同一人物の可能性もあります。近世初頭の箸蔵寺の梶取りは、地福寺関係者がになっていた可能性を指摘しておきます。
徳川幕府は、各宗派の本山を寺社奉行の支配の下に置きました。
日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ10 | 「洗脳」「マインド・コントロール」の虚構を暴く

寛永十年(1633) には、諸本山に命じて「末寺帳」を提出させています。これによって全国の寺院が、本山→本寺→中本寺→末寺孫末寺に格付けされ、ランキングが固定化されることになります。三好郡では、箸蔵寺・桂林寺・雲辺寺などが中寺として郡代の直接支配下(郡代直当) に置かれました。その他の末寺は、その支配下に服することとなり、「付帳」に記載されます。本寺は末寺に対して書を示し、末寺に対して誓紙を入れ厳しい支配をうけることになります。このような流れの中で箸蔵寺は、慶安四年(1651) に、御室御所 (仁和寺) 上席資格の中山となり、ランクアップに成功します。こうして直属末寺の支配だけでなく、近国の寺院に対する色補任状取扱いを許される寺となります。そして地福寺や真光寺を末寺にしていくことになります。
箸蔵寺の発展の様子を、阿波藩の「棟付帳(賦役帳:人頭税の負担割当)」で見ていくことにします。

三好郡之内州津村棟付人改御帳」に見える箸蔵寺

  明暦四年(1658) 「三好郡之内州津村棟付人改御帳」(注12)の州津村と箸蔵寺
州津村全体で家50戸、 人数179人 (男子のみ)、 高合318石三斗七升七合
壱家、 箸蔵寺、歳三十七、同宿人(弟子?) 歳十五、 寺の小家の下人が二戸で七人
  延宝二年(1674)の「三好郡之内州津村棟付人改御帳」を見ておきましょう。

箸蔵寺延宝二年(1674)の三好郡之内州津村棟付人改御帳

意訳変換しておくと
一 壱ケ寺 宝珠山箸藏寺 歳参拾弐(住職)
張紙
 箸藏寺は諸役御免となっており、その配下の下人は無役であり、棟付帳に書き込まれていない。この度の検地で箸藏寺境内にも竿入(測量)が行われ、「諸役御免」の申立があり協議確認が行われた。関係する畠数一町八反歩については下人についても、今まで通り免除扱いで処理され、その旨が担当者の加嶋伊織殿より申し渡された。棟付帳についても下人も無役であることについて、張り紙をして証明できるような処置することを、聞届けていただくことになった。
享保16(1713)年十二月
  林九平    印
岩田吉兵衛  印
安富丞右衛門  印
以下、箸藏寺の下人が記されています。
小家        作               同四拾八(年齢)
この者は脚が不自由であるので、野々村左門様が作成時には母親が連去っており不在であったために記載漏れになっていた。寛文六年に戻ってきた。
箸藏寺下人
小家      彦十郎   同四拾八
この者は野々村左門様の作成時には同郡東山村へ入婿に入っていて不在だったが、寛文三年にもどってきた。
彦十郎子
壱人  七歳    (以下略)
末尾に、州津村全体で家86戸、人数242人(男子のみ)  高合331石5斗四升二合と記されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①この「棟付帳」で、始めて箸蔵寺に「宝珠山」の山号が付けられたこと。
②箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたこと。
③最後に「(石)高合(計)331石」とあるのは、州津村全体の石高で寺領の石高ではないこと
以上から、箸蔵寺は貢納負担を免除された上に、藩の夫役を免除された「下人」(百姓や雑役夫)を抱え込んで、自由に使役することができていたことが分かります。

明和6年(1769)の「三好郡州津村人数下調御改帳」を見ておきましょう。
(州津)村全体で家一五七戸、人数三六一人 (男子のみ) 高合、 三三六石一升七合三句
一壱ヶ寺  宝珠山箸蔵寺  比箸蔵寺往古より諸役御免 二面下人等無役被仰付尚又境内畠数壱町八反三歩御免地二而拝領居申候」
ここからは州津村の戸数が百年で約2倍の157戸、男子人口も1,5倍に増加しています。しかし、石高は微増に留まっています。この時期になると寺の弟子も三人、小家も七戸、下人も十三人となり、畑作面積も1,8㌶にまで増えています。さらに寺の規模が大きくなっています。ここでは下人について次のような説明文が付けられている者がいます。

箸蔵寺 明和六年(一七六九)の「三好郡州津村人数下調御改帳」

箸蔵寺下人 小家 為六 四拾四(年齢)
この者は、讃岐丸亀藩の財田村の者で18年以前にやってきて箸蔵寺の下人に召し抱えられ、境内の御免地で生活している。
以下の二人も讃岐丸亀藩出身の下男です。
 権六  58歳 この者は、讃岐丸亀藩の大見村出身    
 治平  46歳 この者は、讃岐丸亀藩の大野原村出身
丸亀藩からやってきた百姓が箸蔵寺境内に住み着き下人として暮らしていたことが分かります。彼らを箸蔵寺へ誘引したのも讃岐の三豊地方で活動する修験者だったことが考えられます。

文化期(1804) の「代帳」には、
箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が記されています。
箸蔵寺累代住職名
「代統帳」箸藏寺累代住職名
意訳変換しておくと
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而
箸蔵寺 元禄六酉二月八日病死
宥保 この僧は享保20年十月二日に病死
運智 この僧は元文3年七月廿三日病死
寬悟 宝暦七 隠居 同八年寅戌再住
勝應 此僧宝暦八年 正月廿一日病死
寬悟 此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰
寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死
見光 此僧宝暦12年三月廿一日病死
雲龍 此僧寬政二年二月七日病死
俊珍 此僧文化 正月十一日病死
箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前はここにありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。代替わりが行われて、其れより前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが可能性があります。
その後に直属下人9名とその累代の小家下87名が記述さています。また、この時の台帳には箸蔵寺下人の累代の系図も記されています。代々、箸蔵寺に仕える下人であったことが分かります。

文久元年(1861)年に住職の仙岳が著した「箸蔵寺旧記聞伝覚書」には、文化年間(19世紀初め)に箸蔵寺周辺で活動した修験者の宗休について次のように記します。

当寺の奥の院蔵谷で火断木食や断食を行い、諸高山霊跡にて参修行を行い、時々当山に来て唯一山の復旧を語る。身は天狗と化して天保四年の秋に身をかくした。

ここからは箸蔵寺周辺の行場で天狗になることを目指して荒修行に専念する天狗信仰の修験者たちがいたことが分かります。それを誇らしげに記しています。彼らにとって、「奥の院蔵谷」は弘法大師によって開かれた名高い行場で、聖地でもあったことがうかがえます。そして、19世紀になると運智・快典が住職となり、「金毘羅大権現奥の院」を前面に出して全国展開を始めて信者層を全国に広げます。それを担ったのが修験者たちでした。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
       金毘羅大権現と天狗(修験者)達 (金毘羅大権現の別当院金光院発行)
箸蔵寺と天狗
箸蔵寺本社の天狗面と修験者

嘉永七年(1854)の夏には箸蔵寺は次のような「御本社再建寄進帳」を各村々に配付します。

箸蔵寺御本社再建寄進帳 嘉永
箸蔵寺「御本社再建寄進蝶」嘉永7(1854)年夏四月 中津川村

                         世話人 平右衛門  平藏
寶珠山箸藏寺
文政九年の春當山諸堂一宇も残らず焼失す、 其後仮堂社を造営すといへ共、荘厳金美せず、而信仰を運に足ず今般講中 并信心の檀越を語らひ、御鎮座本社拝殿幣殿長廊等 絵図の通、再建致度、當寅夏より普請に取懸罷在候、 是に依て諸国参詣の道、俗貴賎更に十方の信者を募り、御助勢なし被下候得、不日に造立可致候、然上、先々施主の御姓名を記録し、寶殿に於て 永代護摩供及大般若経轉識せしめ法味を奉け奉るへし 然る則家運延長子孫繁栄の基たるへき者也
箸蔵寺知事 敬白
 但シ奉納銀受取集之儀ハ、役僧役人とも一切差向不申候 以上
  意訳変換しておくと
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。そして資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募っている。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行うことになっている。ついては、家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じたまえ
箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事
定
一 式朱   五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事
一 金百疋 右同断御札可進之事
一 金弐百足 右同断木札可進之事
一 金壱両  右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事
一 金式而  五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入
一 金五両  右同断講座之砌三七日之護摩修業木札 
       可進之事 ○永代内陣人
一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札 
可進之事 〇永代内陣入日護摩講
一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事
一 金三拾両 永代木札可進之事
内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候
一 金五拾両 永代木札可進之事 右之御神楽
内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候
右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上
以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。こうしてみると現在の箸蔵寺の伽藍は、19世紀前半に整備され、最後に本社が姿を見せます。以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。これを年表化しておきます。
文政9(1829)年春 諸堂一堂残らず焼失
嘉永5(1852)年  僧仙岳又再建ス
嘉永7(1854)年夏 御本社再建寄進帳を出して、本社着工
この時期に金毘羅大権現では、三万両を集めた大金堂が30年近くを掛けて1848年に落成しています。同時に周辺整備が行われて、石造物の石畳や燈籠・玉垣が建ち並び、「白く輝く境内」が現れます。金毘羅大権現の奥の院である箸蔵寺も、これに続きます。建物群が完成に近づくと境内整備も同時に進められます。それを裏付けるのが参道に立ち並ぶ巨大な灯籠の寄進時期です。これらはすべて文化・文政以後のもので、江戸時代初期の慶安時代のモノは、御本殿裏にわずかにあるだけです。
 灯籠は、山門より御本殿までに約150基がありますが、その寄進者は全国に広がっています。この時期は、金毘羅大権現の金堂(現旭社)が建立され、周辺に石畳や燈籠が並ぶようになる時期と同時期です。金毘羅信仰の隆盛という波に、「金毘羅の奥の院」と称することで箸蔵寺は、教線拡大のための修験者(山伏)たちを全国に送り込み教勢を急速に拡大したようです。この時期には、金毘羅奥の院として、全国区の知名度を持つようになり、勧進僧(山伏)たちによって多くの勧進が集められるだけの組織も有していたことになります。
 幕末になって、箸蔵寺伽藍が姿を現した経済的な背景を見ておきましょう。
江戸末期から明治期になると煙草業者や船頭などの舟運関係者も水上安全の神として箸蔵大権現を信仰するようになります。本殿前の巨大な灯籠には「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られていることが、それを裏付けます。
 また「水竹居日記」には、慶応三年(1861)10月12日の項には、「箸蔵寺大祭(十月九日~十一日)に、賽銭一千七十両が集まった」と記されています。ここからは金毘羅大権現と同じように莫大な収入がもたらされていたことが分かります。その背景には、全国から信者達を誘引してくる多くの修験者たちがいたと私は考えています。

P1160245ha箸蔵寺 天狗面
箸蔵寺本殿の天狗面 

神仏分離令に箸蔵寺は、どう対応したのか?

箸蔵寺と金刀比羅宮の神仏分離策への対応

明治維新を迎えると政府の進める神仏分離策に従って、金光院琴綾宥常は金毘羅大権現を追放し、自らも僧籍を離れ神主になります。これに対して、箸蔵寺ではまったく異なる道を選びます。それは金毘羅大権現を守り通していくという選択です。その意思表明が明治初年、仁和寺法務宮純仁法親王 (小松宮彰仁親王)の庇護を受け、本殿正面に金毘羅大権現の書を賜ったことです。これは、箸蔵寺の金毘羅大権現信仰を守っていこうとする姿勢を示したものと私は考えています。
 また、讃岐の琴平周辺で従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きがでてきます。 その中心となったのが長法寺ですが、この寺は箸蔵寺の修験者の拠点のひとつで、金毘羅大権現の贋開帳を何度も開いていました。彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考え、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。この顛末については以前にお話ししたのでこれ以上は述べませんが、箸蔵寺の修験者たちは明治以後も金毘羅大権現を信仰し、この布教拡大に努めていたことを押さえておきます。

images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
箸蔵寺 四国霊場別格第15番 四国霊場開設1200年記念
そして、いまでも箸蔵寺は金毘羅大権現を祀り続けています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
箸蔵寺年表(宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書57P) 2004年 
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
     地福寺旧記には地福寺の宥伝とその弟子真光寺宥寛が再建をしたとの説もある。
1593 文禄二年 宥観阿闍梨、藩主蜂須賀蓬庵の登山に際し由緒言諸堂再建の大施主と仰ぎ、境内地と永代寺領三百石を賜る。
1596 慶長年間 讃岐で金毘羅信仰が始まる
1651 慶安四年 御室御上席資格の中本山となり近国寺院に対する色補任状取扱を許される。
1658 明暦四年「三好郡之内州津村棟付人改御帳」に箸蔵寺が壱家となり、同宿一人小家が二軒で、この小家の中に下人八人となっている。(男のみ) 計十人。
1667 寛文七年 山火事によって諸堂、宝物、御證文を焼失。
1670 寛文十年 「州津村家数馬牛共御改帳」に「箸蔵寺に同宿一人。小家が四軒でこの小家の中に下人男四、 女四、 計十人」。
1731 享保十六年 藩から諸役御免で、一町八反の畑と無役の下人を抱えることが許される。
1766 明和三年 「箸蔵山由来略記」が高野山の僧南山沙門霊瑞によって記される。
1769 明和六年 「三好郡州津村人数下調御改帳」に「弟子三、小家七軒、下人十三(男十二・女一)計十七人。
1804~18   文化・文政期 運智、快典が、信者を全国に広げる。
1826 文政九年 諸堂一堂残らず焼失。
1848~59  嘉永・安政期龍岳、仙岳、信者層を全国に広げる。
1849年頃 嘉永二年頃 八代目団十郎、灯籠を寄進。
1854年 嘉永七年   本殿再建のために、「寄進蝶」を各村へ配付。
1856年  安政三年 讃岐丸亀領豊田郡黒淵村の百姓93人が池田村へ逃散してくる。 箸蔵寺が一部を受入れをする。
1861 文久元年   「箸蔵寺旧記聞傳覚書」 住職仙岳記す。
1867年 明治初年 仁和寺総法務宮純仁法親王に庇護され、本殿正面の額の書を賜る。
1930 昭和五年 箸蔵登山鉄道開通。
1936 昭和11年 奥の院金毘羅大権現本殿落慶法会と中興の祖仙岳上人銅像除幕式が行なわれる。
1936 昭和11年 野口雨情、箸蔵小唄を詩作。
1944 昭和19年 戦争のため箸蔵登山鉄道も供出、廃業となる。
1945       敗戦後、農地解放によって、三百石の地領を開放。

参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

  前回は箸蔵寺が近世半ば以後に、金毘羅大権現の奥の院という由来を持つことで、急速に成長して行った過程を上記のようにまとめました。それでは中世から近世初めまでの箸蔵寺は、どんな状態だったのでしょうか? これについては、本尊の薬師如来信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が阿波藩から安堵されていたこと以外には、よく分からないようです。それを史料で分かる範囲で見ていこうと思います。
箸蔵寺調査報告書の年表は、「箸蔵寺寺記(1976年)」を元に次のように記します。
828 天長五年項 空海が箸蔵山で金毘羅神将から、この山に道場を建てよとの誓願。
七堂伽藍を建て薬師如来像を刻んで安置したという。
901 延喜年間  阿闍梨宥範のとき、十二院の塔頭、五十有余の堂宇。
平安末期~鎌倉末期    記録がない。 
1460~66寛正年間 傑僧相次ぎ、盛観を徐々に取り戻す。
1532~55天文年間 六十八の堂塔の旧観を複する。
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年  宥観阿闍利が復興に努める。
この内容を検討すると、金毘羅大権現の請願を受けて空海が創建したという記事は、弘法大師伝説としては受け止められ信仰の基盤にはなりますが、歴史的には事実とすることはできません。また、延喜年間の宥範による中興については次のように記されています。

延喜年間 (909~13) 宥範阿闍梨の時、 醍醐天皇の第三皇子(法三宮親王)の登嶺を迎え、 近国の僧侶集して、五日三時の秘法を修せられた。この前後は一山隆昌のを究め、十二院の塔頭と五〇有余の堂宇が並び、その霊城は遠近の頭を接する大さを見せた。
    
しかし、ここに登場する宥範は、中世の善通寺再興の祖であり、金毘羅大権現の金光院の創建者ともされ
ていることは以前にお話ししました。善通寺や金毘羅金光院では、知らないひとがいないほど有名な人物です。その名前が
登場すること自体、事実であるとは思われません。そして
平安末期~鎌倉末期については、「記録なし」と記します。この時代のものとしては、絹本著色不動明王一幅があるだけです。不道明王は修験者の守護神ですから、この地が修験者の行場や霊山となっていたことはうかがえるのかも知れません。ただ、経済力のある有力寺院には後世になると仏像や聖典が集まってきます。そういう意味では箸蔵寺の歴史を古代や中世初頭まで遡ることはできません。
 次いで中世後半については次のように記します。
室町中期の寛正年間(1460~68) から傑僧相つぎ、だんだんと盛観を取り戻す。
室町末期の天文年間(1532~55)に、六十八字の塔の旧観を復して、それに帰した
つまり中世末期には、多くの塔頭が建ち並び盛行を極めたとします。しかし、それを裏付ける塔頭跡や五輪塔などの石造物・瓦類などもでてきません。そして土佐勢の侵攻について、次のように記します。

天正十年(1582)、 土佐長曽我部元親の侵攻によって兵火に遭遇した。 住職宥典阿闇梨は身を捨てて防火にあたり、金堂および本殿の医王仏を守ったが、間もなく遷化した。

明治14年(1881)の「阿波国三好郡村誌」 州津村の項には次のように記します。

「寺 箸蔵寺 東西五町南北五町面積九千坪 本村北方蔵谷ニアリ 真言宗古義派西京仁和寺末 土人伝  天長五年戊申空海開基創立 天正十年壬午兵災二罹リ伽藍ヲ始一山灰燼スト 其後四五年経僧宥観(寛?)一宇ヲ建シ復テシ後 文化十三年丙午僧龍岳諸堂建築セシニ 文政九年丁戌再ヒ灰燼トナレリ 嘉永五年壬子僧仙岳又再建ス 阿波志日(以下「阿波志』本文と同。)」
意訳変換しておくと
「箸蔵寺は、寺域が東西五町南北五町、面積九千坪あり、州津村北方の蔵谷にある。真言宗古義派の仁和寺の末寺で、地元民が伝えるところによると、天長五年戊申に空海が開基創立と伝えられる。天正十年の長宗我部元親の侵攻の際に兵災に遭い、灰燼と帰した。その後45年を経て宥観(寛)によって一宇が再建され、文化13(1816)年になって僧龍岳によって諸堂整備を終えた。ところが文政九(1826)年に、再び灰燼に帰し、嘉永五(1852)年に僧仙岳によって再建された。 阿波志日(以下「阿波志』本文と同。)」
 
これを年表化しておきます。
①天長五(828)年に空海に金毘羅大権現の請願を受けて開基創立
②天正十(1582)年の長宗我部元親の侵攻の際に兵災に遭い、灰燼と帰した。
③1620年代に 宥観(寛)によって一宇が再建
④文化13(1816)年になって僧龍岳によって諸堂整備
⑤文政九(1826)年に、再び灰燼に帰し、
⑥嘉永五(1852)年に僧仙岳によって再建
⑦長宗我部元親の土佐撤退した後、天正16年(1588) 宥観阿闖利によって、四散した信徒を集め、東奔西走してし復興に努めた。
この宥観については、「地福寺旧記」には宥寛として登場します。この史料は箸蔵寺と地福寺の末寺をめぐる争論への訴えでが、その中に箸蔵寺の再興に尽くしたのは地福寺の宥伝と、真光寺の宥寛だったと次のように主張されています。
長曽我部元親当国乱入之節に箸蔵寺焼払申趣に而退転仕居中に付 地福寺宥伝と申僧取建申趣申伝候 地福寺末寺真光寺住持宥寛と申僧宥伝弟子に御座候 故箸蔵寺宥寛に被讓申 宥伝寛二代箸蔵寺取建申由申候 宥寛儀永禄八年箸蔵寺宥伝遷宮棟札 真光寺住寺宥寛と相付申候 宥寛儀元来何某と申土州浪人世枠に而御座候 宥伝弟子に仕候 故宥寛近親の者共地福寺介抱に被成居申を右宥寛箸蔵へ引取 則只今箸蔵家頼に成り下り申候事

意訳変換しておくと

①長宗我部元親の侵攻で箸蔵寺は延焼し退転した。そのため箸蔵寺の管理権は地福寺(井川町)の僧宥伝が引き取った。宥伝には、弟子として末寺の真光寺住職宥寛がいた。退転していた箸蔵寺は、この二人によって復興が始まった。宥伝と宥寛の二代で、箸蔵寺は再建されたといえる。それを裏付けるのが永禄八(1565)年の「箸蔵寺宥伝遷宮棟札」に、「真光寺住寺宥寛」とあることだ。宥寛はもともとは土州浪人の倅であったのが、宥伝の弟子となったものである。その後、宥寛の近親の者が地福寺に住み、宥寛が箸蔵で暮らすようになると、地福寺はいつの間にか、箸蔵の家来のように成り下がってしまった。

以上を要約しておきます。
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②それは箸蔵寺の再建時の棟札に宥寛の名前があることから裏付けられる
③その後、土佐浪人の宥寛は箸蔵寺を拠点して、一族が地福寺の管理をするようになった
④すると本末が転倒し、箸蔵寺が本寺のようになり、地福寺は末寺のような形になってしまった。
しかし、「箸蔵寺宥伝遷宮棟札」は永禄八(1565)年のものです。長宗我部元親の阿波三好への侵攻は、天正三年(1575年)の土佐統一後のことです。そうすると宥寛は長宗我部元親の侵攻前にこれを建立したことになります。それが事実とすると箸蔵寺は兵火にあっていない可能性が出てきます。そして、土佐出身の宥寛は長宗我部元親も保護を受けながら箸蔵寺を経営していたことになります。このあたりのことが今の私にはよく分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の侵攻時に住職として対応した人物して宥寛(観)がいることを押さえておきます。

続きを見ていきます
一 右申上候通り箸蔵寺中興開基者宥伝法印に而御座候 永禄八年当谷氏神遷宮棟札に箸蔵寺宥伝と御座候 是箸蔵寺氏宮初而之棟札に而御座候 永禄拾壱年当寺本尊開眼に者 阿州三好郡田井之庄井之内之郷四ヶ寺と御座候 然者右宮得八師弟之好に招待仕者哉と奉存候 地福寺宥慶儀茂弟子之様に申伝候御事

意訳変換しておくと

一 今申しあげたように、箸蔵寺の中興開基者は宥伝法印である。永禄8(1565)年の井内谷の氏神遷宮棟札に、箸蔵寺宥伝とあるのは、箸蔵寺の氏宮最初の棟札になる。永禄11年 箸蔵寺の本尊開眼に阿波三好郡田井之庄井之内之郷四ヶ寺と記されているのは、箸蔵寺と子弟関係にあったために招待されたものである。ここに出てくる地福寺の宥慶は宥伝の弟子にあたると申し伝えられている(後略)

(後略)
別紙半紙断片には次のように記します。
一 地福寺儀者往古者 讃州多度郡善通寺末寺二而御座候 尤井内谷二而三ヶ寺之門首二而御座候 右之段則地福寺絵像本尊に書記御座候 年号左に書上申候 
一 康応弐年(1390) 又再興 応永弐年(一三九五)  文明七年(一四七五) 又永禄十一年右永禄十一年は当谷四ヶ寺開眼と相見へ申候事
一 先年出入之節 箸蔵寺六ケ寺之末寺四ヶ寺弐寺と相分候 上者弐ケ寺におて慥成証拠茂無之哉と御被為遊山右証跡本尊の軸籠り有之故先師其段
意訳変換しておくと
地福寺は、もともとは讃岐多度郡善通寺の末寺であった。同時に井内谷に三ヶ寺の門首がいた。このことについては地福寺像本尊にも次のように書き記されている。
一 康応弐年(1390) に再興。応永弐年(1395)、 文明七年(1475)、永禄十一年右永禄十一年に、井内谷四ヶ寺が開眼された。
一 先年の争論の祭には、著蔵寺六ヶ寺の末寺を四ヶ寺と二ヶ寺に相分けた。その上で、確かな証拠がない二ヶ寺拠茂之載と被為由右証跡本尊の軸り有之故先師其段
ここでは、井内にある寺院の末寺の所有権をめぐる地福寺と箸蔵寺の争論の顛末が記されています。
もともとは本寺であった地福寺が、教勢拡大を続ける箸蔵寺に末寺を奪われていく様子がうかがえます。地福寺川からすれば、「もともとはこちらが本寺で、箸蔵寺はその末寺だったのに・・悔しい」という思いが伝わってきます。
 地福寺の主張が本当だったとすれば、箸蔵寺側からすればこのことについては触れたくはないことです。地福寺や真光寺出身の住職たちは、寺歴から消されていったことが考えられます。どちらにしても、近世初頭に姿を現した箸蔵寺は、今のような大きな伽藍ではなく一堂程度の小規模だったことが分かります。
 箸蔵寺の実質的な再建者の宥寛(観)を見ておきましょう。
①長宗我部元親に金毘羅大権現の松尾寺を任されたのは土佐出身の修験者である宥厳であった。
②宥寛も「土佐浪人の倅」であり、土佐出身の修験者であった可能性が高い。
③宥厳ー宥盛(松尾寺) 宥伝ー宥寛(地福寺)の法名からは、真言系修験者に共通する法脈があったことがかがえる。
④箸蔵寺の院号「真光院」というのも、創建者の宥寛の真光寺に由来する

宥伝や宥寛が後の箸蔵寺の系譜の中にどのように位置づけられているのかを見ておきましょう。
文化期(1804) の「代帳」には、箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が次のように記されています。
箸蔵寺累代住職名
「代統帳」箸藏寺累代住職名
意訳変換しておくと
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而
箸蔵寺  元禄六酉二月八日病死
宥保  この僧は享保20年十月二日に病死
運智 この僧は元文3年七月廿三日病死
寬悟  宝暦七 隠居 同八年寅戌再住
勝應  此僧宝暦八年 正月廿一日病死
寬悟  此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰
寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死
見光  此僧宝暦12年三月廿一日病死
雲龍 此僧寬政二年二月七日病死
俊珍  此僧文化 正月十一日病死
箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。当然、地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前もありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。住職の系譜が代わって、それ前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが考えられます。

次に、箸蔵寺を再興したとされる地福寺や真光寺のあった井内谷を見ておきましょう。
井川町の峠道
地福寺は、祖谷への物資集積センターの役割も果たしていた

P1170083
地福寺の本堂
P1170092

この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、明治の神仏分離前には対岸の旧郷社・馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②の南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

P1170093
地福寺前の祖谷古道の道標
③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち、祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷を信仰エリアに取り込んでいたお寺なのです。

P1170086
地福寺境内の護摩壇(中央円形)
境内にある護摩壇からは、ここが修験者の拠点であったことが分かります。

P1170081
地福寺本堂前の看板 
この看板からは地福寺が剣山円福寺の別院であり、剣山信仰の拠点であること分かります。つまり、井内谷の地福寺は中世以来、祖谷までを信仰圏とする修験者の拠点で、近世には剣信仰の拠点であった寺院なのです。その地福寺の住職が箸蔵寺の住職でもあったことになります。その系譜上に作られた箸蔵寺が修験者の拠点として成長して行くのは当然だったことになります。

「地福寺旧記」を含む地福寺の古文書については「
 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」に次のように記されています。
天保3年(1832)の記載のある「諸証文函」に納められており、Aの函(証文箱上段)51点、Bの函(証文函下段)97点までがリストアップされている。作成年代記載のある最古の文書は、近世初期の寛文4年(1664)地福寺から御室御所へ寺の概況を報告した願文で、永禄年間(1558~1570)に箸蔵寺の末寺になったことの記載。
 あとは18世紀初頭から明治初年に至るまで、2世紀にわたるもので、次のようなグループに分けることができる。
1 御室御所の末寺である地福寺が、寺の様子を知らせる文書。
2 近隣周辺の諸神社の別当である地福寺が、監督下三社の修理や管理について郡代への申請文書
3 地福寺や諸社の修理のための御林材木の伐採許可の申請文書
4 村内・谷内の人々の出入り(紛争・トラブル)の仲裁や調停に関する文書
5 地福寺が地域住民の監督者としての行政機能を持つことを示す文書
6 寺の別当と、神社の禰宜(ねぎ)との出入りや仲直りに関する文書
7 地福寺の寺院経営に関する文書
8 一向宗(真宗)から真言宗への改宗文書。文政9年(1826)年。(B41文書)9 文政13年(1830)御室御所への報告書。(檀家(だんか)800戸、社65社、諸庵(あん)21)

最後に長宗我部元親も侵攻前に三好地方を支配していた大西氏の勢力範囲を見ておきましょう。
大西頼武が阿波の勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは以前にお話ししました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それに伴って留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
白地大西家の一族配置
こうしてみると井之内や井川は、大西氏の勢力下に置かれていたことが分かります。井之内の地福寺も
大西氏の一族が入り込み、その保護を受けていた寺院であったこと。そして、祖谷への入口の一つとして戦略的な要衝でもあったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
「 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号」
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