瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:箸蔵寺大門

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 カザミノ丘に建つ高灯籠(右)と大門(左)
前回紹介したカザミノ丘の上には、大門が南面して建ちます。

箸蔵寺大門5
箸蔵寺大門(重要文化財)
この山門の棟札には明治13年(1880)の年紀が記されています。しかし、この山門は、もともとはここにあったものではなく、土佐藩の山内家のお寺にあったようです。ところが土佐では明治初年の神仏分離の際に藩主自らが廃仏毀釈を進めます。そのため廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの寺院が消えたことは以前にお話ししました。その余波で、この山門も土佐では不用とされたものを箸蔵寺が譲り受けてきたようです。その輸送方法は、海路と吉野川を水運で運ばれ、現在地に建立されたと伝えられますが、どこの寺からどのようにして運ばれたのかは今の私には、よく分かりません。 
 そういえば、本殿の東の隅にある観音堂も徳島から移築したものです。

箸蔵寺観音堂
箸蔵寺 観音堂
「ふるさと箸蔵」』(昭和51年刊行)には、古老の回願として次のように記します。

「観音堂は大正九年徳島の清水寺から移築し、材料は牛車で運んだ」

これを裏付けるのが、明治28年(1895)の「阿波地誌』の箸蔵寺の俯瞰図です。ここには観音堂が描かれていません。ここでは箸蔵寺の大門は土佐から、観音堂は徳島の清水寺から移築されたものであることを押さえておきます。そのため他の建物群と建設時期や様式が異なります。
このことについてAIに訊ねると、次のように答えてくれました。

  この仁王門(大門)だけでなく、境内にある徳島県指定有形文化財の「観音堂」も、大正時代に徳島市の清水寺から移築されたものとされています。明治期の神仏分離や廃仏毀釈、あるいは他寺院の諸事情によって役目を終えそうになった他県の優れた建築物を、箸蔵寺が境内の復興に合わせて譲り受け、移築・保存した背景がうかがえます

視点を変えると、廃仏毀釈で不用とされた建物や仏像・聖典が、資金力のあるお寺に集まってきたことになります。例えば金毘羅大権現を追放し、神社にリニューアルした金刀比羅宮も不用な多宝塔や仏像・仏具・曼荼羅などの多くをオークションを開いて販売していたことは以前にお話ししました。資金力のある善通寺や箸蔵寺などの周辺の寺院がやってきて買い付けていったことが禰宜の松岡調の日記には記されています。ここでは、幕末から明治にかけて象頭山からは金毘羅大権現が追放されたこと、その中で箸蔵寺は今まで通りに金毘羅大権現を守り通したこと。それが結果として、金毘羅信仰を持つ人々を箸蔵寺に引き寄せることになったようです。その資金力と勧進力を背景に、山門を譲り受け、高灯籠を建立し、参道整備を行うということになります。ちなみに、箸蔵寺が金毘羅大権現を守り通せたのは、仁和寺の御室派で、その門跡が天皇家出身であったため、廃仏毀釈の難から逃れることができたとされるようです。
山門の細部の造りとデザインについて、報告書は次のように記します。

箸蔵寺大門3


箸蔵寺山門8
                  箸蔵寺大門(重要文化財)
①低い切石積みの基壇上に建つ
②三間一戸二階二重門のスタイル
③脇間に金剛力士像を安置しているので、仁王門と呼ばれる
④桁行三間(8,85m)× 梁間二間(6,34m)
⑤桁行の中央の通路を強調するために柱間を広くし、上層の柱は下層の柱位置をずらして、規模を小さくし、均整をとっている。

箸蔵寺大門6
               箸蔵寺大門(重要文化財)
⑥軸部は上部のみ棕のついた丸柱を立て、下層は貫を、上層では長押を廻し、上下層とも木鼻の付いた頭貫と台輪で固めている 
⑦組物は上下とも同じで、出組(一手先)の詰組で柱間に間斗束を立てている。
⑧柱間装置は、正面の桟唐戸は藁座で吊り、両脇には火灯窓を入れる 
⑨上層内部の床は板で敷かれ、天井は大柄な竿縁天井とし、琵琶板の間斗束は省略
⑩正面奥全面と側面一間分を仏間として、中央に釈迦如来座像と左右に十六羅漢を安置する 
⑪粽柱、台輪、詰組、桟唐戸、藁座、火灯窓、逆蓮頭親柱などに禅宗様式を多用
⑫要所に和様の間斗束 配付垂木、長押、舞良戸を組み入れた折衷様式の建物
  箸蔵寺旧記聞伝覚書には、大門の守護神が次のように記されています。
右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である
しかし、今は③のように金剛力士像を安置され、仁王門と呼ばれています。
  
箸蔵寺大門4

IMG_3658
箸蔵寺大門
   山門(仁王門)をくぐると、広い参道が本堂に向けて伸びています
 
IMG_3660
箸蔵寺大門からの参道
①山門からは、右側の山を切り開いたなだらかな参道が続く。石畳ではない。
 
IMG_3663
箸蔵寺大門からの参道
長く続く参道は、西に開け開放的で、両脇に石玉垣や石灯籠などの石造物が整備されています。参道左側は箸蔵谷で、この下に聖地である蔵谷巌窟の行場があります。谷沿いには玉垣が156間(約230余m) 続きます。ここには全国からの寄進者の名前が並びます。箸蔵寺が明治期には全国区の宗教組織であったことがうかがえます。

IMG_3669
箸蔵寺参道の鞘橋
玉垣は赤い屋根の鞘橋まで続きます。この手前右側に、不動明王など四体の石像を安置した水場があります。これも聖地のようです。

IMG_3754
赤い屋根の鞘橋を石段上より振り返る

IMG_3673
    鞘橋からは西にドッグレッグして、129段の幅の広い長い石段の始まり

IMG_3675
二の鳥居から上は、階段の幅が少し狭くなります。さらに85段登ると分岐点で、右手方向に進めば護摩殿、正面に進むと本坊です。
玉垣の柱は、下側(西進部)は擬宝珠柱、上側(北進部)では猿頬柱です。整備された時期によって違いがあるのかも知れません。
箸蔵寺玉垣 大連
箸蔵寺参道の玉垣 「大連」と地名が刻まれている
 気になったのは、玉垣の寄進者の地名です。この明治の玉垣を見ていると、日本国内だけでなく、「旧朝鮮」や「旧満州(大連など)」から奉納された玉垣、石灯籠、満願石などいくつも並んでいることです。どうして、朝鮮や中国東北部(旧満州)からの寄進があるのでしょうか? 私は、これは日清戦争後の大陸進出の機運の中で、箸蔵寺が布教師(修験者)を大陸に派遣し、信者を獲得した成果を示すものではないかと推測しました。そこで、AIに質問すると、次の答えが返ってきました。

「徳島県の箸蔵寺(はしくらじ)自体が「大陸への海外布教」を直接・組織的に行っていたという具体的な歴史的記録はありません。次のようなことが考えられます。
A 大陸へ渡った開拓民や商人の信仰説
明治から昭和にかけて、四国や日本各地から朝鮮半島・満州(現・中国東北部)へ渡った移民や商人が、海上安全や商売繁盛の神仏である「金毘羅大権現」への信仰を現地でも持ち続けた。遥か大陸の地から故郷の、あるいは本尊である箸蔵寺へ玉垣などを奉納したケース。 
B 大陸へ進出した宗派のつながり
箸蔵寺の属していた真言宗御室派は、大陸にいる日本人を対象に「開教使(かいきょうし)」と呼ばれる布教僧を派遣し、満州や朝鮮に数多くの寺院や説教所を設立した。こうした活動(大陸開教)の広がりが、本山や有力寺院である箸蔵寺への寄進という形で反映された。
 以上から箸蔵寺が修験者(布教師)を大陸に派遣し、独自の布教拠点を置いたというよりは、「大陸に渡った日本の人々や、そこで活動した真言宗のネットワークを通じて、国境を越えて金毘羅信仰・箸蔵寺への信仰が大陸にまで届いていた」というのが歴史的な実態に近いとAIは云うのです。私の仮説は、打ち砕かれてしまいました。
以上をまとめておきます
箸蔵寺伽藍整備年表
①1826年に伽藍が全焼した箸蔵寺は、明治末までには建築物の再建が終わった。
②そこで明治になると順調な教勢拡大を背景に参道整備に乗り出した。
③まず1880年に土佐藩から大門を譲り受け参道起点とした。
④その4年後に、大門下にシンボルタワーとなる高灯籠を建てた。
⑤そして、大門から本殿への参道整備を行い、玉垣・燈籠・鳥居が姿を見せた。
⑥その寄進者は、日本全国だけでなく遠く朝鮮半島や大連など中国東北部からのものもある。

箸蔵寺 高灯籠と大門
        箸蔵寺ロープウエー 背後の右が高灯籠、左が大門 下が蔵谷
いまは参道の上空をロープウエーが往復して参拝者を運んでいます。そのために、この大門からの参道を登る人は、ほとんどいません。そういう意味では、静かな祈りの参道としてお勧めです。同時に、琴平でロープウエーの建設計画が何度も立ち消えしていく理由が分かります。これができれば石段の参道沿いの店は閉店に追い込まれることになります。反対運動がおきるはずです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
関連記事


   
箸蔵寺高灯籠7
                  箸蔵寺ロープウエーと高灯籠
 箸蔵寺へは1970(昭和45)年にロープウェイが出来るまでは、山門下からリフトが庫裡まで伸びているだけでした。ここは自動車参道の終点で、駐車場もあり、旅籠や食堂・土産屋が並び賑わっていました。しかし、下からのロープウエーが出来ると、ここは空中を素通りするだけで、参拝者が訪れることもなくなってしまいました。そのため宿や店も閉じられ、今では、駐車場にロープウェイの柱脚が立っています。しかし、ここからは吉野川流域の素晴らしい展望が拡がります。この辺りは「カザミノ丘」と呼ばれて。かつての名勝でもあったようです。

IMG_3766
        箸蔵寺カザミノ丘からのJR土讃線の吉野川橋梁と高速道路の橋
                   
 箸蔵寺高灯籠は、吉野川流域を眺望するカザミノ丘に建つ木造二重の大型灯籠です。下に流れる吉野川や流域一体を一望できる所にあります。大正5年(1916) 刊の「箸蔵村誌」には「何時も夜燈を燈す」と記し、十数㎞先からも明るい灯りが見えたと云います。「この燈籠は吉野川を行き来する川船の目印(標識)として使われていた」とする説もあります。ただ、燈籠や燈台は、人や船を安全に導くだけではありません。毎夜灯る高燈籠の灯りは、地域のシンボルでもあり、人々の信仰を箸蔵寺へと導くモニュメントでもあったと私は考えています。今私たちが考える以上の役割と機能をこの高灯籠は持っていたのではないでしょうか。

IMG_3762
箸蔵寺高灯籠
 それでは高灯籠は、いつ姿を見せたのでしょうか。
高灯籠上層の壁隅に打たれている棟札には、明治17年(1884)建立と記されています。この年代記事を、幕末から明治にかけて勧められた伽藍整備年表の中に入れてみます。

箸蔵寺伽藍整備年表

この年表からは、次のようなことが読みとれます。
①1826年に、箸蔵寺では伽藍焼失し、再建が勧められた。
②1854年に、最後に本殿に着工し、明治維新までには本殿が完成した
③その後、明治になってカザミノ丘に山門が土佐から移築され、護摩堂や本殿への参道が整備された
④その一環として、讃岐の金刀比羅宮の高灯籠に模した建築物が造営された。
つまり、幕末に上部の伽藍が出来上がると、明治になって参道入口に山門が建てられ、参道整備が進むと同時に、賑わい造り創出やシンボルタワーとして、この高灯籠が姿を現すようになったことがうかがえます。
箸蔵寺高灯籠8
高灯籠の様式やデザインについて、報告書は次のように記します。
①初層方三間四方(3,5m四方)、中層方二間、上層方一間
②初層の正面には一間の唐破風向拝を付ける。 
③建物用途は火を灯して灯台の役目なので、室内装飾はなく簡素な仕上げ。
④袴腰を付けた初重は中層とし、上部は漆喰塗り、下部は本来は板張りであったが現在は鉄板。
⑤向拝と初重柱頭部のみに組物や彫刻使用
⑥屋根は全てに桟瓦を用いており、軒裏は初重が扇垂木を組み、二重は二軒の角繁垂木とする
⑧明治期の建築らしく、中層部の壁全面に筋違を使用。
⑨風が強いところに建つので風圧に備えて土壁 (芯壁)
⑩軒裏や火灯窓などに禅宗様式を取り入れた建物

この建物は周囲によく生えたでしょうし、夜に灯りが灯されれば宗教的な意味を持つ存在になったことでしょう。これに先駆けて造られたのが金刀比羅宮の高灯籠です。

金刀比羅宮 高灯籠
金毘羅大権現の高灯籠

金毘羅大権現の高灯籠
           金毘羅大権現の高灯籠の寄進募集のちらし
金毘羅大権現の金光院に次のような願いが提出されるのが、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)のことです。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、高灯籠の寄進を願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。特に、当時好景気に沸いていた砂糖産業に関わる人たちからの寄進が多かったようです。建設資金は3000両とされます。これより前の金堂が30000両でした。
琴平に現れた高灯籠を見て、阿波箸蔵寺の修験者たちは同じような高灯籠を整備が進むカザミノ丘に建てようとしたのではないでしょうか。デザインもよく似ています。

箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺の高灯籠(右)と山門(左)
こうして山門と高灯籠が並び立って、箸蔵寺の入口周辺が整備されていきます。それが参道で、護摩堂や本殿とむすばれます。今度は、その参道整備が課題となっていきます。ここに玉垣や燈籠がならび、参道は石で白く輝く境内へと変身していきます。
箸蔵寺の高灯籠を眺めていて思い出したのが、四国中央市新宮町上山の安楽寺の近くにある泉田の高灯籠です。
P1190308
                     泉田の高灯籠
まるで燈台のようですが、ここからは海も川も見えません。どうして、ここにこんな灯籠が建てられたのでしょうか。これは「金毘羅 → 箸蔵寺 → 安楽寺」という流れがあるのではないかと私は考えています。確かに金毘羅の高灯籠は、沖ゆく船の燈台の役割を果たしたかもしれません。しかし、夜も航海するのは少数でした。それに対して、箸蔵寺は海は見えません。川船を導く燈台の役割を果たしたとされますが、座礁の恐れがあるので夜に行き来する川船はほとんどなかったようです。箸蔵寺の高灯籠が川船の安全のために建てられたという説には、私は疑問を持っています。そして、次のようなことを考えています。
①尾根の先端部に建つ高灯籠は、「私たちの心の支えとなるお寺(安楽寺)があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰に灯りをともす役割。
②箸蔵寺や安楽寺の存在証明のためにソラの高灯籠は建てられた。
③船のための燈台と云うよりも、ソラの集落の人々の心の燈台の役割を果たした

それでは高灯籠が姿を見せるようになったのは、いつころなのでしょうか?
高灯籠のルーツは、大阪の住吉神社にあるようです。

長谷川貞信(初代)『浪花百景之内 住吉高灯籠』
     長谷川貞信(初代)の『浪花百景之内 住吉高灯籠』(幕末から明治初年頃)
大阪住吉神社の高灯籠 大正時代の絵はがき
住吉神社の高灯籠(大正時代の絵はがき)
  住吉神社の社前には、白砂青松の美しい海岸風景(住吉津)が広がっていました。住吉高灯籠ももともとは、住吉大社の常夜燈ですが、次第に航路標識としての役割が増大していきます。とくに大阪湾の潮流が激しい難波津に比べ、穏やかな海の住吉津は、海上交通の要衝となり、江戸時代になると夜間の航行を守る灯台としての役割が強くなります。 住吉公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、もともとは住吉大社の表参道で、鎌倉時代に創建された初代の高灯籠は「日本最古の灯台」として、ここに建っていたようです。琴平の高灯籠が、これをモデルにしていることがよく分かります。こうして、住吉神社モデルの高灯籠が瀬戸内海の港町には姿を見せるようになります。

御手洗の高灯籠
御手洗の高灯籠(呉市 大崎下島)
 瀬戸内海の風待ち港として栄えた大崎下島の御手洗(みたらい)にある石造りの高灯籠です。天保3(1832)年に北前船などの航行安全を祈って千砂子波止の突端に造り替えられています。金毘羅に約30年あまり先行します。

鞆の常夜灯
              鞆(福山市)の常夜灯
 鞆は、御手洗に遅れること約30年後の安政6年(1859年)に建てられています。港の常夜灯としては日本一の大きさ(海中の基礎から最上部の宝珠まで約11〜12m)です。

敦賀の日本最古の高灯籠
庄山の高灯籠(敦賀市)
敦賀市の観光ホテル前庭に建つ高灯籠は、享和2年(1802)に建てられた現存する日本海側最古の石積み灯台です。底辺2.3m四方、高さはおよそ7.5m。茶町(現:川崎町)の船問屋・庄山清兵衛が自邸の一角に建てたことから「庄山の高灯籠」とも呼ばれています。沖ゆく北前船を港に誘引する効果があったのかもしれません。

高燈籠変遷

 このような港への高灯籠建設が、「海の神様」としての信仰を集めつつあった内陸部の琴平に建てられ、それがさらに明治になると箸蔵にも伸びていくということになるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追記 高灯籠は蔵谷巌窟への入口でもあります。
高灯篭の横の木の鳥居をくぐり、参道を下っていくと約20分ぐらいで丸木橋が見えて来ます。それ渡るとお堂があります。ここが弘法大師が金毘羅大権現から寺院を建立するように誓願された場所とされているようです。修験者たちにとっては、聖なる行場であったことになります。

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺
 蔵谷巌窟

箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
蔵谷巌窟に祀られる金毘羅大権現
参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
関連記事


箸蔵寺境内図

 「箸蔵寺旧記」には、箸蔵寺の由来や建物履歴などが書かれていますが、その成立については次の2つの説があるようです。
A 箸蔵寺の山号は「宝珠山」だが、修験者たちの山岳修行の行場・道場だったので「仙岳」とも呼ばれた。その箸蔵寺に伝わる縁起や歴史を記したので『仙岳誌』である。
B 幕末に活躍した住職の仙岳が記したことに由来する。
どちらが正しいのかは、追々考えることにして、書かれている内容を冒頭から見ていくことにします。
テキストは「箸蔵寺調査報告書49P 池田町教育委員会」に掲載されている「箸蔵寺旧記聞伝覚書」です。)。
箸蔵寺旧記聞伝覚書1
          箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO1
冒頭部を意訳変換しておくと
一、この鳥居から箸蔵寺までは十八丁。鳥居の高さは三間、橫は2間半、柱は五尺四寸。
一、A長宗我部元親が土州より侵攻し、大西氏の白地城が落城するまでは、箸蔵寺は上の堂にあった。兵火で焼失して、夜ごとに山中で光るものが見える。これを長曾我部の手勢が見つけて訪ねてみると、樹下に靈像があった。これが当山の権現の本尊薬師如来とその眷属たちの像であった。火中に残り姿を見せていることに深く感じ入った土佐出身の男は、この霊像を祀った。しかし、約三十ヶ年間も、堂寺はなく庵があるだけであった。男は妻を娶り、二人の男の子を得た。そうする中で夢の中に金毘羅大権現が現れ、次のように告げた。「兄に家名を継がせ、弟を出家させて寺堂宮を造立すべし」と。そこで、奥社では遠いので朝暮の山坂で充分に祀ることができないので、寺を現在地に移した。
ここに書かれていることを要約しておきます。
①箸蔵寺は、長宗我部元親と大西氏の兵火の中で焼失した。
②焼失後、退転した寺の管理を行ったのは土佐出身者で、上の堂から現在地に寺を移した。
ここで注目したいのは、退転した箸蔵寺を復興したのが土佐出身者であることです。前々回に紹介した地福寺旧記には、次のように記されていました
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②弟子の宥寛は、土佐浪人の倅であった。
 箸蔵寺復興者については、地福寺旧記の内容を補完する内容です。退転した箸蔵寺の復興者は、土佐出身の修験者であることがうかがえます。さらに、箸蔵寺に中世の歴史はないとすると、これが実質的創建者とであったと私は考えています。琴平の金毘羅大権現の別当寺の松尾寺も長宗我部元親が土佐から呼び寄せた修験者のボスである宥厳に任されます。金毘羅も箸蔵寺も、土佐の修験者によって復興(創建?)されたことを押さえておきます。また金毘羅神は、近世初頭に天狗信仰者によって生み出された流行(はやり)神であることは以前にお話ししました。中世にその起源を遡ることはできません。
 次は長宗我部元親に代わってやってきた蜂須賀藩の対応が、どのように書かれているかを見ていくことにします。 

箸蔵寺旧記聞伝覚書2
           箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO2
意訳変換しておくと
一 阿波藩主の先代蓬庵公が巡国の際に、当庵に隠者がいることを聞いて、庵までやって来た。住持は、以前の領主様(大西氏? OR 長宗我部元親?)は、金毘羅大権現の本尊へ供田を寄進されるとともに、自分の祈祷所として保護されていましたと申上げた。これを聞いて蜂須賀家の藩主は、箸蔵寺に対して山内七十七町七反四畝の山林の證文と禁令の制札を下し、藩の祈願所に取立てて保護下に置いた。そして、本社・幣殿、拝殿本堂、鐘楼堂、大門、宝蔵方、庫裏等などが(藩主によって)再興された。
 ところが寛文七(1667)年四月に、火事が起り、寺、諸堂、 社宝物、 證文などが焼失した。この時に、御手板だけは燒残ったので、現在も箸蔵寺で保存されている。その後、長谷川越前様の仕置の際に、杉桧が生え重るようになっていたので(藩の)御林に組み入れられた。
箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 高灯籠 左が大門
  高燈籠の高さは、三丈 石口より四間半、周囲は2間四方
昔は、ここに制札場があり、次のような藩主の禁令が掲げられていた。
一 当山では他所の者が無断で材木を切ることを禁令で禁止する。もし伐採する者があれば成敗する。
一 竹の子やひね竹一本でも切ることは許さない。これは堅く守るべきこと。桑や茶の木も、また伐るべからず
                         文禄三年四月三日蜂須賀 御判
ここでは蜂須賀家の保護を受けることで箸蔵寺は大伽藍をもつ大寺に成長したことが記されています。
しかし、前々回に見たように近世の史料からは、箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたことは記されていますが、多くの神域を保障されていたことなどには触れられておらずよく分かりません。
 私がここで気になるのは、「長宗我部元親=破壊者=悪玉説、蜂須賀家=復興者=善玉説」に色分けされて歴史が叙述されていることです。
その延長線上に書かれている『池田町史 上巻』は、次のように記されています。

長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これが本当なのかという疑義を私は持っています。香川県でも長宗我部元親は悪玉として描かれてきましたが、その見直しが始まったばかりです。長宗我部元親は短いけれども支配者として君臨しました。その間に「スクラップ & ビルド」を行っています。ビルドの面があったことも見ていく必要があるように思います。

箸蔵寺旧記聞伝覚書3

縁起 - こんぴら奥の院 箸蔵寺
箸蔵寺全景 大門は右下
意訳変換しておくと
一 茶堂は三間×四間
一 大門は三間×六間の規模であったが、35年前に焼失。それを文政九戌年に復興した。
一 大門・諸堂社の再興時の材木は祖谷山の喜多源内殿からの寄進で、栗ヶ仁尾という高山に生えていた槻木を吉野川を流して運んできたものである。
一 祓(はらい)川と云うのは、弘法大師の加持水で、この水を使って当山参拝者たちが身体の不浄をはらためである。弘法大師は、この川について次のように詠んだ。
○身体に積もる不浄(コリトリ)を浄める祓川。
○清浄の積る塵垢(こり)拂ひ川
(大門の)右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である

IMG_3656
箸蔵寺大門
ここには大門や緒堂の材木が祖谷から吉野川の川流しによって運ばれてきたと記されています。吉野川流域では、現在の早明浦ダムの奥の土佐からも木材が流されていたことは以前にお話ししました。これらは吉野川河口に運ばれ、中世には堺の商人の手を通じて畿内に売りさばかれていました。堺商人の阿波進出は、木材と関係あるようです。そのルートをつたって、吉野川沿いに真宗興正寺派の教線が伸びてきて、美馬が安楽寺がその拠点となることは以前にお話ししました。
 祓川については、讃岐の金毘羅大権現では、髙松街道が土器川を越える辺りが祓川と呼ばれていました。髙松方面からやってきた参拝者たちは、象頭山を仰ぎ見ながら土器川(祓川)で身を清めました。山岳信仰の寺院は、不浄を浄める川や泉は不可欠でした。また大門の右に祀られている深沙大様は珍しい守護神です。 

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺奥の院 金毘羅大権現を祀る蔵谷巌窟
箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
箸蔵寺 蔵谷岩窟に祀られる金毘羅大権現

一 この鳥居の内側は、弘法大師の開山時より、邪(じゃ)結界の霊地で、地名を蔵谷と云う。当山の魔所とされてきた。一年に三度、八丁四方の注連縄を回して、諸人の立ち入りを禁じているエリアである。ここは巌窟から(金毘羅)現権が現れ、弘法大師と出会った場所である。弘法大師は金毘羅大権現から「参詣する諸人に除災興楽を興へよ」という誓願を受けて七堂伽藍を建立した。そして、一年に一度は諸人に不思議を見せ、信仰を生じさせんとして、讃州金比羅から十月十一日の夜に眷属(天狗)に、祭礼に使った頭人祝ひの箸や土器を、この霊窟に運び収めさせたと申し伝えられている。こうして、大祭後の十月十一日の夜の間に箸や土器は金毘羅には壱本も残らずなくなるようになった。

一 これについては天保巳年讃州金光院より御役場へ、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥の院と称する由縁についてお訊ねがあった。そこで、箸を蔵谷へ運び収めるとの契約あるによって箸蔵寺と号し、権現出現の時の威光を輝く姿をもって真光院と号すことを伝えた。

ここには、江戸時代に半ばに高野山の高僧が書いた箸伝説縁起が下敷きになったものがそのまま引用されています。そして、琴平の金光院からの詰問に対して弘法大師と金毘羅大権現との間に結ばれた「箸を蔵谷へ運び収める契約」があることを証としたと記されています。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近

しかし、これは箸蔵寺の一方的な言い分で、
本家の琴平の金光院には、箸蔵寺関係の修験者によるの贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。それが幕末の伽藍整備の勧進力になるのと私は考えています。続いて見ていきます。
一 当山は東西に伸びた山の形が宝珠に似ているので寶珠山と弘法大師が名付けた。
一 以来、この山は不入の山とされてきた。文政年間の初めからは修験者宗休が蔵谷の八丁下りに堂を作り、十二ヶ年余りに渡って長期間の修行を行ってきた。その後、当山に身を隠した。この行者の験のお陰か、三月、六月、十月十一日十二日の一年に三度、金毘羅大権現が現れた。人々は、山に拝礼し、信心の者は精進潔済して当山に参詣した。年を経て、この行堂も痛みがひどくなったので、七年巳前に三間四方の行堂を再興した。この地は、谷底なので百三十間の岩石が一面に続く瀧がある。
一 ここは今は畠地になったが、昔はここに三重塔があって、字名も三重塔床(跡)と伝えられている。
ここには文政年間に箸蔵山で修行した修験者宗休のことが紹介されています。多くの行者が長期間にわたって修行を行う行場が数多く点在していたこと、そこで数多くの修験者たちが修行に励んでいたこと、幕末の箸蔵寺は修験者の密度が濃かったことがうかがえます。それが阿讃の山を超えて財田から三豊への勧進活動の原動力だったのかもしれません。
  最後に、善女龍王の勧進について見ておきましょう。
一 当山、霊山とされるのは、本社より25丁上の山の峯に、弘法大師が善女龍王を観請し、往来の諸人の渇の乾きを癒やすために、加持して湧き出した一杵(いっしょ)の由来にもとづく。旱魃之際にも、この泉が水量が一定で枯れたりすることないので、諸人は「壱升水」と呼ぶ。
今年のような旱魃の時には、諸国からこの霊水を持ち帰り、雨乞祈祷を行う。その効験あることは世間の知る所である。ある時には善女龍王は小蛇に化身して社頭に姿を見せることもある。まことに不思議の霊場である。
善女龍王は、弘法大師伝説のひとつのジャンルです。善女龍王が讃岐で最初に勧進されるのは、17世紀後半の善通寺です。善通寺を中心に善女龍王伝説は広がっていったようです。その流布ラインが箸蔵寺にまでおよんでいたことがここからはうかがえます。

さて、最初の疑問に戻ります。この文書は何のために書かれたかということです。末尾には「このように藩からのお訊ねがあるときには、住職は以上のように答えてきた。」とあります。これからは藩などの公的機関からの問い合わせに対する想定問答集であったことが分かります。江戸時代後半になると大きな寺院では藩の問い合わせに対して、このような想定問答集が常備されていきます。それを書き写し残したのが幕末から明治にかけて活躍した仙岳だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
関連記事

このページのトップヘ