瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:箸蔵寺旧記聞伝覚書

箸蔵寺境内図

 「箸蔵寺旧記」には、箸蔵寺の由来や建物履歴などが書かれていますが、その成立については次の2つの説があるようです。
A 箸蔵寺の山号は「宝珠山」だが、修験者たちの山岳修行の行場・道場だったので「仙岳」とも呼ばれた。その箸蔵寺に伝わる縁起や歴史を記したので『仙岳誌』である。
B 幕末に活躍した住職の仙岳が記したことに由来する。
どちらが正しいのかは、追々考えることにして、書かれている内容を冒頭から見ていくことにします。
テキストは「箸蔵寺調査報告書49P 池田町教育委員会」に掲載されている「箸蔵寺旧記聞伝覚書」です。)。
箸蔵寺旧記聞伝覚書1
          箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO1
冒頭部を意訳変換しておくと
一、この鳥居から箸蔵寺までは十八丁。鳥居の高さは三間、橫は2間半、柱は五尺四寸。
一、A長宗我部元親が土州より侵攻し、大西氏の白地城が落城するまでは、箸蔵寺は上の堂にあった。兵火で焼失して、夜ごとに山中で光るものが見える。これを長曾我部の手勢が見つけて訪ねてみると、樹下に靈像があった。これが当山の権現の本尊薬師如来とその眷属たちの像であった。火中に残り姿を見せていることに深く感じ入った土佐出身の男は、この霊像を祀った。しかし、約三十ヶ年間も、堂寺はなく庵があるだけであった。男は妻を娶り、二人の男の子を得た。そうする中で夢の中に金毘羅大権現が現れ、次のように告げた。「兄に家名を継がせ、弟を出家させて寺堂宮を造立すべし」と。そこで、奥社では遠いので朝暮の山坂で充分に祀ることができないので、寺を現在地に移した。
ここに書かれていることを要約しておきます。
①箸蔵寺は、長宗我部元親と大西氏の兵火の中で焼失した。
②焼失後、退転した寺の管理を行ったのは土佐出身者で、上の堂から現在地に寺を移した。
ここで注目したいのは、退転した箸蔵寺を復興したのが土佐出身者であることです。前々回に紹介した地福寺旧記には、次のように記されていました
①退転した箸蔵寺を再興したのは、地福寺の宥伝と、その末寺真光寺の宥寛の師弟コンビだった。
②弟子の宥寛は、土佐浪人の倅であった。
 箸蔵寺復興者については、地福寺旧記の内容を補完する内容です。退転した箸蔵寺の復興者は、土佐出身の修験者であることがうかがえます。さらに、箸蔵寺に中世の歴史はないとすると、これが実質的創建者とであったと私は考えています。琴平の金毘羅大権現の別当寺の松尾寺も長宗我部元親が土佐から呼び寄せた修験者のボスである宥厳に任されます。金毘羅も箸蔵寺も、土佐の修験者によって復興(創建?)されたことを押さえておきます。また金毘羅神は、近世初頭に天狗信仰者によって生み出された流行(はやり)神であることは以前にお話ししました。中世にその起源を遡ることはできません。
 次は長宗我部元親に代わってやってきた蜂須賀藩の対応が、どのように書かれているかを見ていくことにします。 

箸蔵寺旧記聞伝覚書2
           箸蔵寺旧記聞伝覚書   現住 仙岳誌 箸蔵寺由来 NO2
意訳変換しておくと
一 阿波藩主の先代蓬庵公が巡国の際に、当庵に隠者がいることを聞いて、庵までやって来た。住持は、以前の領主様(大西氏? OR 長宗我部元親?)は、金毘羅大権現の本尊へ供田を寄進されるとともに、自分の祈祷所として保護されていましたと申上げた。これを聞いて蜂須賀家の藩主は、箸蔵寺に対して山内七十七町七反四畝の山林の證文と禁令の制札を下し、藩の祈願所に取立てて保護下に置いた。そして、本社・幣殿、拝殿本堂、鐘楼堂、大門、宝蔵方、庫裏等などが(藩主によって)再興された。
 ところが寛文七(1667)年四月に、火事が起り、寺、諸堂、 社宝物、 證文などが焼失した。この時に、御手板だけは燒残ったので、現在も箸蔵寺で保存されている。その後、長谷川越前様の仕置の際に、杉桧が生え重るようになっていたので(藩の)御林に組み入れられた。
箸蔵寺の高燈籠 煙草・水運関係者
箸蔵寺 高灯籠 左が大門
  高燈籠の高さは、三丈 石口より四間半、周囲は2間四方
昔は、ここに制札場があり、次のような藩主の禁令が掲げられていた。
一 当山では他所の者が無断で材木を切ることを禁令で禁止する。もし伐採する者があれば成敗する。
一 竹の子やひね竹一本でも切ることは許さない。これは堅く守るべきこと。桑や茶の木も、また伐るべからず
                         文禄三年四月三日蜂須賀 御判
ここでは蜂須賀家の保護を受けることで箸蔵寺は大伽藍をもつ大寺に成長したことが記されています。
しかし、前々回に見たように近世の史料からは、箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたことは記されていますが、多くの神域を保障されていたことなどには触れられておらずよく分かりません。
 私がここで気になるのは、「長宗我部元親=破壊者=悪玉説、蜂須賀家=復興者=善玉説」に色分けされて歴史が叙述されていることです。
その延長線上に書かれている『池田町史 上巻』は、次のように記されています。

長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これが本当なのかという疑義を私は持っています。香川県でも長宗我部元親は悪玉として描かれてきましたが、その見直しが始まったばかりです。長宗我部元親は短いけれども支配者として君臨しました。その間に「スクラップ & ビルド」を行っています。ビルドの面があったことも見ていく必要があるように思います。

箸蔵寺旧記聞伝覚書3

縁起 - こんぴら奥の院 箸蔵寺
箸蔵寺全景 大門は右下
意訳変換しておくと
一 茶堂は三間×四間
一 大門は三間×六間の規模であったが、35年前に焼失。それを文政九戌年に復興した。
一 大門・諸堂社の再興時の材木は祖谷山の喜多源内殿からの寄進で、栗ヶ仁尾という高山に生えていた槻木を吉野川を流して運んできたものである。
一 祓(はらい)川と云うのは、弘法大師の加持水で、この水を使って当山参拝者たちが身体の不浄をはらためである。弘法大師は、この川について次のように詠んだ。
○身体に積もる不浄(コリトリ)を浄める祓川。
○清浄の積る塵垢(こり)拂ひ川
(大門の)右手が深沙大様で、怨敵退治の龍神。
左手が不動明王で、悪魔降伏の明王である

IMG_3656
箸蔵寺大門
ここには大門や緒堂の材木が祖谷から吉野川の川流しによって運ばれてきたと記されています。吉野川流域では、現在の早明浦ダムの奥の土佐からも木材が流されていたことは以前にお話ししました。これらは吉野川河口に運ばれ、中世には堺の商人の手を通じて畿内に売りさばかれていました。堺商人の阿波進出は、木材と関係あるようです。そのルートをつたって、吉野川沿いに真宗興正寺派の教線が伸びてきて、美馬が安楽寺がその拠点となることは以前にお話ししました。
 祓川については、讃岐の金毘羅大権現では、髙松街道が土器川を越える辺りが祓川と呼ばれていました。髙松方面からやってきた参拝者たちは、象頭山を仰ぎ見ながら土器川(祓川)で身を清めました。山岳信仰の寺院は、不浄を浄める川や泉は不可欠でした。また大門の右に祀られている深沙大様は珍しい守護神です。 

箸蔵寺 東の堂「蔵谷厳窟」2
箸蔵寺奥の院 金毘羅大権現を祀る蔵谷巌窟
箸蔵寺奥の院 蔵谷権現を祀る
箸蔵寺 蔵谷岩窟に祀られる金毘羅大権現

一 この鳥居の内側は、弘法大師の開山時より、邪(じゃ)結界の霊地で、地名を蔵谷と云う。当山の魔所とされてきた。一年に三度、八丁四方の注連縄を回して、諸人の立ち入りを禁じているエリアである。ここは巌窟から(金毘羅)現権が現れ、弘法大師と出会った場所である。弘法大師は金毘羅大権現から「参詣する諸人に除災興楽を興へよ」という誓願を受けて七堂伽藍を建立した。そして、一年に一度は諸人に不思議を見せ、信仰を生じさせんとして、讃州金比羅から十月十一日の夜に眷属(天狗)に、祭礼に使った頭人祝ひの箸や土器を、この霊窟に運び収めさせたと申し伝えられている。こうして、大祭後の十月十一日の夜の間に箸や土器は金毘羅には壱本も残らずなくなるようになった。

一 これについては天保巳年讃州金光院より御役場へ、箸蔵寺が金毘羅大権現の奥の院と称する由縁についてお訊ねがあった。そこで、箸を蔵谷へ運び収めるとの契約あるによって箸蔵寺と号し、権現出現の時の威光を輝く姿をもって真光院と号すことを伝えた。

ここには、江戸時代に半ばに高野山の高僧が書いた箸伝説縁起が下敷きになったものがそのまま引用されています。そして、琴平の金光院からの詰問に対して弘法大師と金毘羅大権現との間に結ばれた「箸を蔵谷へ運び収める契約」があることを証としたと記されています。

箸蔵寺の金毘羅大権現への接近

しかし、これは箸蔵寺の一方的な言い分で、
本家の琴平の金光院には、箸蔵寺関係の修験者によるの贋開帳記録が次のように残っています。
①天保6年10月 箸蔵寺が、金毘羅の隣りの天領苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現や金毘羅大権現といって開帳。
②11月   箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現の奥の院といって開帳。
③天保7年6月  金光院が箸蔵に派遣した調査報告では、神体は岩屋で神像はなかった。
④天保15年 箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
⑤弘化2年4月 贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。
⑥嘉永二年 箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行い、多度津藩に召捕えられる
⑥嘉永4年、 箸蔵寺、再度贋開帳。
このように箸蔵寺の修験者たちは、長期に渡って金毘羅大権現の贋開帳事件を起こしています。そして贋開帳事件の責任をとって、院主が阿波藩から二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。贋開帳を行っていた箸蔵寺の修験者たちによって「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説は流布されたのです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことになります。それが幕末の伽藍整備の勧進力になるのと私は考えています。続いて見ていきます。
一 当山は東西に伸びた山の形が宝珠に似ているので寶珠山と弘法大師が名付けた。
一 以来、この山は不入の山とされてきた。文政年間の初めからは修験者宗休が蔵谷の八丁下りに堂を作り、十二ヶ年余りに渡って長期間の修行を行ってきた。その後、当山に身を隠した。この行者の験のお陰か、三月、六月、十月十一日十二日の一年に三度、金毘羅大権現が現れた。人々は、山に拝礼し、信心の者は精進潔済して当山に参詣した。年を経て、この行堂も痛みがひどくなったので、七年巳前に三間四方の行堂を再興した。この地は、谷底なので百三十間の岩石が一面に続く瀧がある。
一 ここは今は畠地になったが、昔はここに三重塔があって、字名も三重塔床(跡)と伝えられている。
ここには文政年間に箸蔵山で修行した修験者宗休のことが紹介されています。多くの行者が長期間にわたって修行を行う行場が数多く点在していたこと、そこで数多くの修験者たちが修行に励んでいたこと、幕末の箸蔵寺は修験者の密度が濃かったことがうかがえます。それが阿讃の山を超えて財田から三豊への勧進活動の原動力だったのかもしれません。
  最後に、善女龍王の勧進について見ておきましょう。
一 当山、霊山とされるのは、本社より25丁上の山の峯に、弘法大師が善女龍王を観請し、往来の諸人の渇の乾きを癒やすために、加持して湧き出した一杵(いっしょ)の由来にもとづく。旱魃之際にも、この泉が水量が一定で枯れたりすることないので、諸人は「壱升水」と呼ぶ。
今年のような旱魃の時には、諸国からこの霊水を持ち帰り、雨乞祈祷を行う。その効験あることは世間の知る所である。ある時には善女龍王は小蛇に化身して社頭に姿を見せることもある。まことに不思議の霊場である。
善女龍王は、弘法大師伝説のひとつのジャンルです。善女龍王が讃岐で最初に勧進されるのは、17世紀後半の善通寺です。善通寺を中心に善女龍王伝説は広がっていったようです。その流布ラインが箸蔵寺にまでおよんでいたことがここからはうかがえます。

さて、最初の疑問に戻ります。この文書は何のために書かれたかということです。末尾には「このように藩からのお訊ねがあるときには、住職は以上のように答えてきた。」とあります。これからは藩などの公的機関からの問い合わせに対する想定問答集であったことが分かります。江戸時代後半になると大きな寺院では藩の問い合わせに対して、このような想定問答集が常備されていきます。それを書き写し残したのが幕末から明治にかけて活躍した仙岳だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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箸蔵寺の金毘羅大権現化戦略

前回には、箸蔵寺の創建について次のようにまとめました。
A 近世以前の史料は箸蔵寺にはないこと。つまり、金毘羅大権現と同じように近世初頭に生まれた寺院であること。
B 箸蔵寺再興(創建)は、地福寺の修験者たちによっておこなわれたこと
C そのための箸蔵寺は修験者(山伏)の拠点として発展していく。

まず、箸蔵寺が蜂須賀家の保護下に、どのように置かれたのかを見ておきましょう。
 秀吉は四国平定を行うと、天正13年(1585)に蜂須賀家政を阿波に入部させます。支配が安定化した文禄2年(1593)になると、藩主が国内巡視を行うようになり、三好にもやってきます。その時に、箸蔵寺の宥観(寛?)阿闍梨は由緒を言上して藩主を諸堂再建の大施主と仰いで帰順を示します。これに対して藩主は、境内の免地と永代寺領三百石を与え、次のような禁を下して保護をしたと記します。 
定 著藏寺
一 當山において、他所之ものむさと入りこみ材木きる儀、堅令停止候条、所之者としてせいたう可仕事
一、竹の子並ひね竹壱本もきるべからず、 是又堅可相留事
一、 桑之木、並茶之木、これ又伐べからざる事
文禄二年四月三日       蜂須賀(花押)
意訳変換しておくと
定 著藏寺
一 当山において、他所から入り込み材木などを切ることを今後禁止する。もし禁令を犯せば成敗する。
一、竹の子やひね竹なども、一本でも切ることを許さない。堅く守ること
一、 桑の木や茶なども、これを伐ってはならない
文禄二(1593)年四月三日    蜂須賀(花押)
藩主が与えた「境内の免地と永代寺領三百石」というのは、金毘羅大権現の別当金光院に生駒家が与えた寺領に匹敵します。私は、これをそのまま信じることはできません。また、禁令を見ると、当時の箸蔵寺周辺には竹や桑・茶などが「栽培」されていたことがうかがえます。竹は、竹篭などの竹細工の材料、桑は養蚕、茶は中世以来のこの地区の特産品です。
  私が気になるのが「箸蔵寺の住職が宥観阿闍梨」と記されていることです。前回見た地福寺旧記には、近世の箸蔵寺の再建者は、地福寺の宥伝とその弟子の真光寺・宥寛だと記されていました。そうだとすれば、宥観と宥寛は同一人物の可能性もあります。近世初頭の箸蔵寺の梶取りは、地福寺関係者がになっていた可能性を指摘しておきます。
徳川幕府は、各宗派の本山を寺社奉行の支配の下に置きました。
日本仏教史と再臨摂理への準備シリーズ10 | 「洗脳」「マインド・コントロール」の虚構を暴く

寛永十年(1633) には、諸本山に命じて「末寺帳」を提出させています。これによって全国の寺院が、本山→本寺→中本寺→末寺孫末寺に格付けされ、ランキングが固定化されることになります。三好郡では、箸蔵寺・桂林寺・雲辺寺などが中寺として郡代の直接支配下(郡代直当) に置かれました。その他の末寺は、その支配下に服することとなり、「付帳」に記載されます。本寺は末寺に対して書を示し、末寺に対して誓紙を入れ厳しい支配をうけることになります。このような流れの中で箸蔵寺は、慶安四年(1651) に、御室御所 (仁和寺) 上席資格の中山となり、ランクアップに成功します。こうして直属末寺の支配だけでなく、近国の寺院に対する色補任状取扱いを許される寺となります。そして地福寺や真光寺を末寺にしていくことになります。
箸蔵寺の発展の様子を、阿波藩の「棟付帳(賦役帳:人頭税の負担割当)」で見ていくことにします。

三好郡之内州津村棟付人改御帳」に見える箸蔵寺

  明暦四年(1658) 「三好郡之内州津村棟付人改御帳」(注12)の州津村と箸蔵寺
州津村全体で家50戸、 人数179人 (男子のみ)、 高合318石三斗七升七合
壱家、 箸蔵寺、歳三十七、同宿人(弟子?) 歳十五、 寺の小家の下人が二戸で七人
  延宝二年(1674)の「三好郡之内州津村棟付人改御帳」を見ておきましょう。

箸蔵寺延宝二年(1674)の三好郡之内州津村棟付人改御帳

意訳変換しておくと
一 壱ケ寺 宝珠山箸藏寺 歳参拾弐(住職)
張紙
 箸藏寺は諸役御免となっており、その配下の下人は無役であり、棟付帳に書き込まれていない。この度の検地で箸藏寺境内にも竿入(測量)が行われ、「諸役御免」の申立があり協議確認が行われた。関係する畠数一町八反歩については下人についても、今まで通り免除扱いで処理され、その旨が担当者の加嶋伊織殿より申し渡された。棟付帳についても下人も無役であることについて、張り紙をして証明できるような処置することを、聞届けていただくことになった。
享保16(1713)年十二月
  林九平    印
岩田吉兵衛  印
安富丞右衛門  印
以下、箸藏寺の下人が記されています。
小家        作               同四拾八(年齢)
この者は脚が不自由であるので、野々村左門様が作成時には母親が連去っており不在であったために記載漏れになっていた。寛文六年に戻ってきた。
箸藏寺下人
小家      彦十郎   同四拾八
この者は野々村左門様の作成時には同郡東山村へ入婿に入っていて不在だったが、寛文三年にもどってきた。
彦十郎子
壱人  七歳    (以下略)
末尾に、州津村全体で家86戸、人数242人(男子のみ)  高合331石5斗四升二合と記されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①この「棟付帳」で、始めて箸蔵寺に「宝珠山」の山号が付けられたこと。
②箸蔵寺が諸役御免と無役の下人、畠1町八反三歩の御免を受けていたこと。
③最後に「(石)高合(計)331石」とあるのは、州津村全体の石高で寺領の石高ではないこと
以上から、箸蔵寺は貢納負担を免除された上に、藩の夫役を免除された「下人」(百姓や雑役夫)を抱え込んで、自由に使役することができていたことが分かります。

明和6年(1769)の「三好郡州津村人数下調御改帳」を見ておきましょう。
(州津)村全体で家一五七戸、人数三六一人 (男子のみ) 高合、 三三六石一升七合三句
一壱ヶ寺  宝珠山箸蔵寺  比箸蔵寺往古より諸役御免 二面下人等無役被仰付尚又境内畠数壱町八反三歩御免地二而拝領居申候」
ここからは州津村の戸数が百年で約2倍の157戸、男子人口も1,5倍に増加しています。しかし、石高は微増に留まっています。この時期になると寺の弟子も三人、小家も七戸、下人も十三人となり、畑作面積も1,8㌶にまで増えています。さらに寺の規模が大きくなっています。ここでは下人について次のような説明文が付けられている者がいます。

箸蔵寺 明和六年(一七六九)の「三好郡州津村人数下調御改帳」

箸蔵寺下人 小家 為六 四拾四(年齢)
この者は、讃岐丸亀藩の財田村の者で18年以前にやってきて箸蔵寺の下人に召し抱えられ、境内の御免地で生活している。
以下の二人も讃岐丸亀藩出身の下男です。
 権六  58歳 この者は、讃岐丸亀藩の大見村出身    
 治平  46歳 この者は、讃岐丸亀藩の大野原村出身
丸亀藩からやってきた百姓が箸蔵寺境内に住み着き下人として暮らしていたことが分かります。彼らを箸蔵寺へ誘引したのも讃岐の三豊地方で活動する修験者だったことが考えられます。

文化期(1804) の「代帳」には、
箸蔵寺の延宝2年(1684)以来の累代の名前と没年が記されています。
箸蔵寺累代住職名
「代統帳」箸藏寺累代住職名
意訳変換しておくと
宝珠山 此僧延宝貳年棟付御帳付二而
箸蔵寺 元禄六酉二月八日病死
宥保 この僧は享保20年十月二日に病死
運智 この僧は元文3年七月廿三日病死
寬悟 宝暦七 隠居 同八年寅戌再住
勝應 此僧宝暦八年 正月廿一日病死
寬悟 此僧後住の勝應が病死したために再度住職に復帰
寺役を務め宝暦12年三月廿一日病死
見光 此僧宝暦12年三月廿一日病死
雲龍 此僧寬政二年二月七日病死
俊珍 此僧文化 正月十一日病死
箸藏寺現住職 寬雅 申歳47才
ここには元禄以前の住職名は記されていません。地福寺や真光寺からやってきた宥元や宥寛の名前はここにありません。そして、名前に「宥」を持つものもいません。代替わりが行われて、其れより前の住職の系図が失われたか、意図的に消去したことが可能性があります。
その後に直属下人9名とその累代の小家下87名が記述さています。また、この時の台帳には箸蔵寺下人の累代の系図も記されています。代々、箸蔵寺に仕える下人であったことが分かります。

文久元年(1861)年に住職の仙岳が著した「箸蔵寺旧記聞伝覚書」には、文化年間(19世紀初め)に箸蔵寺周辺で活動した修験者の宗休について次のように記します。

当寺の奥の院蔵谷で火断木食や断食を行い、諸高山霊跡にて参修行を行い、時々当山に来て唯一山の復旧を語る。身は天狗と化して天保四年の秋に身をかくした。

ここからは箸蔵寺周辺の行場で天狗になることを目指して荒修行に専念する天狗信仰の修験者たちがいたことが分かります。それを誇らしげに記しています。彼らにとって、「奥の院蔵谷」は弘法大師によって開かれた名高い行場で、聖地でもあったことがうかがえます。そして、19世紀になると運智・快典が住職となり、「金毘羅大権現奥の院」を前面に出して全国展開を始めて信者層を全国に広げます。それを担ったのが修験者たちでした。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
       金毘羅大権現と天狗(修験者)達 (金毘羅大権現の別当院金光院発行)
箸蔵寺と天狗
箸蔵寺本社の天狗面と修験者

嘉永七年(1854)の夏には箸蔵寺は次のような「御本社再建寄進帳」を各村々に配付します。

箸蔵寺御本社再建寄進帳 嘉永
箸蔵寺「御本社再建寄進蝶」嘉永7(1854)年夏四月 中津川村

                         世話人 平右衛門  平藏
寶珠山箸藏寺
文政九年の春當山諸堂一宇も残らず焼失す、 其後仮堂社を造営すといへ共、荘厳金美せず、而信仰を運に足ず今般講中 并信心の檀越を語らひ、御鎮座本社拝殿幣殿長廊等 絵図の通、再建致度、當寅夏より普請に取懸罷在候、 是に依て諸国参詣の道、俗貴賎更に十方の信者を募り、御助勢なし被下候得、不日に造立可致候、然上、先々施主の御姓名を記録し、寶殿に於て 永代護摩供及大般若経轉識せしめ法味を奉け奉るへし 然る則家運延長子孫繁栄の基たるへき者也
箸蔵寺知事 敬白
 但シ奉納銀受取集之儀ハ、役僧役人とも一切差向不申候 以上
  意訳変換しておくと
文政九年(1826) 春に当山の諸堂一堂残らず焼失してしまった。その後に仮の堂社を建設したたが充分な荘厳が施されておらず不十分なものなっている。そこで、講中(信者集団)や檀越と協議し、本社・拝殿・幣殿・長廊を絵図の通に再建することになり、この夏より普請に着手した。そして資金調達のために諸国の俗貴の信者十方に寄進を募っている。なお寄進に応じた者については、以下の通り、先々施主の御姓名を記録し、寶殿で永代護摩供と大般若経読経を行うことになっている。ついては、家運延長・子孫繁栄のために寄進に応じたまえ
箸蔵寺知事 敬白
なお、この奉納に関わる金銭の授受に関しては、箸蔵寺の役僧役人は、一切関わりがないことを最後に記す。 以上
そして寄進額に応じて、次のような特典を得られることが記されています
御本社再建依御寄附御礼守等可進候事
定
一 式朱   五ヶ年之間、日護摩修業満座之節御守可進之事
一 金百疋 右同断御札可進之事
一 金弐百足 右同断木札可進之事
一 金壱両  右同断講座之砌一七日之間、護摩修業木札可進之事
一 金式而  五年之間日護摩修業講座之砌二七日護摩修業木札可進之事 〇永代内陣入
一 金五両  右同断講座之砌三七日之護摩修業木札 
       可進之事 ○永代内陣人
一 金拾両 右同断満座之砌五七ヶ日護摩修業木札 
可進之事 〇永代内陣入日護摩講
一 金弐拾両 永代内陣入日護摩五ヶ年之後御固守 可進之事
一 金三拾両 永代木札可進之事
内陣開扉尤年々御参詣之砌、御礼可進渡候
一 金五拾両 永代木札可進之事 右之御神楽
内陣入開扉年々御参詣之砌御札可進渡候
右勤化御出銀者当年より五年二御神納可被下候御守等之儀者満座之節沾於御神前奉祈念可進之候以上
以下、月日、氏名(略)
2朱だと「五年間の護摩法要加護」で、1両だと17日の護摩修行木札、50両だと永代木札が神楽付で下され、さらに参拝時には内陣扉の内側に入って札を納める特権をえることができるとされています。
この「寄進帳」の冒頭には、文政9年(1826) 春に諸堂一堂残らず焼失したこと、その後に仮社を建てたが、従来の信を取り戻せないので、本格的に御本社を再建したいとあります。そのために「当年より五ヶ年」寄進活動が行うことになったので協力を依頼するものです。ただ、「嘉永五年(1852)壬子僧仙岳又再建ス」と別の史料にあるので、本社以外の各堂宇については復興されていたようです。本社が最後に復興されたということでしょう。こうしてみると現在の箸蔵寺の伽藍は、19世紀前半に整備され、最後に本社が姿を見せます。以上からは、安政年間 (1854一59) 頃には、現在の寺域と堂宇が出来上がっていたことになります。この時期は、金毘羅大権現の金堂や善通寺の五重塔建立と重なります。19世紀前半の半世紀は、善通寺・金毘羅大権現・箸蔵寺で建築ラッシュが続いていたことを押さえておきます。これを年表化しておきます。
文政9(1829)年春 諸堂一堂残らず焼失
嘉永5(1852)年  僧仙岳又再建ス
嘉永7(1854)年夏 御本社再建寄進帳を出して、本社着工
この時期に金毘羅大権現では、三万両を集めた大金堂が30年近くを掛けて1848年に落成しています。同時に周辺整備が行われて、石造物の石畳や燈籠・玉垣が建ち並び、「白く輝く境内」が現れます。金毘羅大権現の奥の院である箸蔵寺も、これに続きます。建物群が完成に近づくと境内整備も同時に進められます。それを裏付けるのが参道に立ち並ぶ巨大な灯籠の寄進時期です。これらはすべて文化・文政以後のもので、江戸時代初期の慶安時代のモノは、御本殿裏にわずかにあるだけです。
 灯籠は、山門より御本殿までに約150基がありますが、その寄進者は全国に広がっています。この時期は、金毘羅大権現の金堂(現旭社)が建立され、周辺に石畳や燈籠が並ぶようになる時期と同時期です。金毘羅信仰の隆盛という波に、「金毘羅の奥の院」と称することで箸蔵寺は、教線拡大のための修験者(山伏)たちを全国に送り込み教勢を急速に拡大したようです。この時期には、金毘羅奥の院として、全国区の知名度を持つようになり、勧進僧(山伏)たちによって多くの勧進が集められるだけの組織も有していたことになります。
 幕末になって、箸蔵寺伽藍が姿を現した経済的な背景を見ておきましょう。
江戸末期から明治期になると煙草業者や船頭などの舟運関係者も水上安全の神として箸蔵大権現を信仰するようになります。本殿前の巨大な灯籠には「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られていることが、それを裏付けます。
 また「水竹居日記」には、慶応三年(1861)10月12日の項には、「箸蔵寺大祭(十月九日~十一日)に、賽銭一千七十両が集まった」と記されています。ここからは金毘羅大権現と同じように莫大な収入がもたらされていたことが分かります。その背景には、全国から信者達を誘引してくる多くの修験者たちがいたと私は考えています。

P1160245ha箸蔵寺 天狗面
箸蔵寺本殿の天狗面 

神仏分離令に箸蔵寺は、どう対応したのか?

箸蔵寺と金刀比羅宮の神仏分離策への対応

明治維新を迎えると政府の進める神仏分離策に従って、金光院琴綾宥常は金毘羅大権現を追放し、自らも僧籍を離れ神主になります。これに対して、箸蔵寺ではまったく異なる道を選びます。それは金毘羅大権現を守り通していくという選択です。その意思表明が明治初年、仁和寺法務宮純仁法親王 (小松宮彰仁親王)の庇護を受け、本殿正面に金毘羅大権現の書を賜ったことです。これは、箸蔵寺の金毘羅大権現信仰を守っていこうとする姿勢を示したものと私は考えています。
 また、讃岐の琴平周辺で従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きがでてきます。 その中心となったのが長法寺ですが、この寺は箸蔵寺の修験者の拠点のひとつで、金毘羅大権現の贋開帳を何度も開いていました。彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考え、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。この顛末については以前にお話ししたのでこれ以上は述べませんが、箸蔵寺の修験者たちは明治以後も金毘羅大権現を信仰し、この布教拡大に努めていたことを押さえておきます。

images (16)箸蔵寺の金毘羅大権現
箸蔵寺 四国霊場別格第15番 四国霊場開設1200年記念
そして、いまでも箸蔵寺は金毘羅大権現を祀り続けています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
箸蔵寺年表(宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書57P) 2004年 
1582  天正十年 長曽我部の阿波侵攻によって兵火に遭遇、宥典阿闍梨が身を捨てて医王仏を守る。
1588 天正十六年 宥観阿闍利が復興に努める。
     地福寺旧記には地福寺の宥伝とその弟子真光寺宥寛が再建をしたとの説もある。
1593 文禄二年 宥観阿闍梨、藩主蜂須賀蓬庵の登山に際し由緒言諸堂再建の大施主と仰ぎ、境内地と永代寺領三百石を賜る。
1596 慶長年間 讃岐で金毘羅信仰が始まる
1651 慶安四年 御室御上席資格の中本山となり近国寺院に対する色補任状取扱を許される。
1658 明暦四年「三好郡之内州津村棟付人改御帳」に箸蔵寺が壱家となり、同宿一人小家が二軒で、この小家の中に下人八人となっている。(男のみ) 計十人。
1667 寛文七年 山火事によって諸堂、宝物、御證文を焼失。
1670 寛文十年 「州津村家数馬牛共御改帳」に「箸蔵寺に同宿一人。小家が四軒でこの小家の中に下人男四、 女四、 計十人」。
1731 享保十六年 藩から諸役御免で、一町八反の畑と無役の下人を抱えることが許される。
1766 明和三年 「箸蔵山由来略記」が高野山の僧南山沙門霊瑞によって記される。
1769 明和六年 「三好郡州津村人数下調御改帳」に「弟子三、小家七軒、下人十三(男十二・女一)計十七人。
1804~18   文化・文政期 運智、快典が、信者を全国に広げる。
1826 文政九年 諸堂一堂残らず焼失。
1848~59  嘉永・安政期龍岳、仙岳、信者層を全国に広げる。
1849年頃 嘉永二年頃 八代目団十郎、灯籠を寄進。
1854年 嘉永七年   本殿再建のために、「寄進蝶」を各村へ配付。
1856年  安政三年 讃岐丸亀領豊田郡黒淵村の百姓93人が池田村へ逃散してくる。 箸蔵寺が一部を受入れをする。
1861 文久元年   「箸蔵寺旧記聞傳覚書」 住職仙岳記す。
1867年 明治初年 仁和寺総法務宮純仁法親王に庇護され、本殿正面の額の書を賜る。
1930 昭和五年 箸蔵登山鉄道開通。
1936 昭和11年 奥の院金毘羅大権現本殿落慶法会と中興の祖仙岳上人銅像除幕式が行なわれる。
1936 昭和11年 野口雨情、箸蔵小唄を詩作。
1944 昭和19年 戦争のため箸蔵登山鉄道も供出、廃業となる。
1945       敗戦後、農地解放によって、三百石の地領を開放。

参考文献
「宝珠山真光院箸蔵寺調査報告書 2004年 池田町教育委員会」
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