瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:箸蔵街道


  大久保諶之丞が22歳(明治三年)の時に、幕末に決壊してそのまま放置されていた満濃池が約20年ぶりに再築されます。この大工事に大久保諶之丞は参加しています。そこで見たものは、長谷川佐太郎指揮下に行われる大土木工事であり、最新の土木技術でした。若き日の大久保諶之丞にとって、この時に見聞きしたことは強く印象に残ったようです。

 諶之丞が生まれた財田上ノ村戸川は、三豊市財田町の道の駅周辺になります。現在は、ここを国道32号線と土讃線が並んで通過し、戸川の南で讃岐山脈をトンネルで抜けています。これだけ見ると、戸川は「阿波街道の要衝」だったする文献がありますが、史料を確認するとそうとも云えないようです。
4 阿波国絵図3     5
阿波国絵図
例えば、1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図を見てみると、箸蔵街道も阿波街道も描かれていません。描かれているのは次の2ルートです。
⑥阿波昼間から尾野瀬山を経てのまんのう町春日への差土山ルート
⑦昼間から石仏越のまんのう町山脇への石仏越ルート
阿讃国境地形図 1700 昼間拠点

近世初頭の阿波側の拠点は昼間で、そこから讃岐側に伸びているのは春日と山脇です。
阿讃国境 山脇と戸川 天保国絵図
天保国絵図 石仏越のルートが財田上ノ村とつながっている

これが変化するのは、箸蔵寺が勃興して後のことです。箸蔵寺は修験者たちの活動で「金毘羅山の奥の院」と称して、近世後半以後に急速に教勢を伸ばしていきます。そして、先達たちが讃岐でも活発な活動を行い、箸蔵への誘引のために丁石や道しるべを建立すると同時に、参拝道の整備を行います。同時に街道を旅する人たちに無償の宿の提供なども行うなどのサービス提供を行います。この結果、参拝客の増大とともに参拝道の整備が進み、差土山ルートや石仏越ルートを凌駕するようになっていきます。そして箸蔵街道はそれまでの石仏越ルートに取って代わって、西讃地域における交通量NO1の街道に成長して行くようになります。
 もともとの箸蔵街道はまんのう町山脇から荒戸へ出て、太鼓木から石仏山に登り、二軒茶屋から箸蔵寺へ通じる道です。財田上ノ村は、石仏山への支線ルートを開き戸川をもうひとつの讃岐側の入口とします。こうして戸川は、それまでの水車の村から物流の人馬や、箸蔵寺への参詣者が往来し、阿波との交流が盛んな土地へと成長して行きます。
 それに拍車を掛けたのが明治維新です。江戸時代の阿波は原則は鎖国政策をとり、公的には讃岐との自由な商業活動は認めてはいませんでした。しかし、番所もなかったので往来は自由だったようです。明治維新になって、自由な往来が認められるようになると、阿讃山脈を越えての人とモノの移動が急速に増えます。大久保家資料の中にも、財田上ノ村と阿州間での綿代金支払いを巡る係争に関する文書や、明治三年の阿波から讃岐への煙草運送に係る運上金免除を求める嘆願書などが残されています。ここからは、明治になって急速に戸川が成長して行く様子が見えてきます。同時にその成長が、阿波との関係の深まりの中で遂げらたこともうかがえます。大久保諶之丞が19歳で明治維新を向かえた頃の上ノ村の様子とは、こんなものだったと私は考えています。若い彼にとって、地域発展(勧業)の鍵は、阿波との関係強化にある、そのためには近代的な道路整備が必要であるという認識が早くからあったとしておきましょう。
 諶之丞は、財田上ノ村周辺で、多数の道路修繕や新たな道路開設工事を、自力で行うようになります。つまり、四国新道建設以前に、彼の道路建設は始まっていたのです。諶之丞が明治18年に提出した「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、彼が手掛けた7件の道路工事を次のように挙げています。
大久保諶之丞の開通させた道路

   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」から

その経緯について「大久保諶之丞君(土木之部)」(24)には、次のように記されています。
明治八、九年ノ頃、高田倉松ナル人(仲多度郡四ヶ村)ノ人卜親交アリ、時々去来ノ際、同村ノ隣地仲多度郡十郷村字山脇ヨリ本郡財田上ノ村太古木嶺ヲ経テ徳島県三好郡箸蔵寺二至ル賽道ヲ開修スルノ計二及ヒ、遂二同氏及高田氏卜率先シテ主唱者トナリ、費用ノ大半ハ氏ガ私財ヲ以テ之レニ投ジ、余ハ賽者及有志者ノ義捐二訴へ、明治十四年ノ頃二成功ヲ看ルニ至リシナリ、然レドモコノ道路タルヤ、名ハ箸蔵寺参拝者ノ便二供セシニ過キスト雖、更二支道ヲ本村二開キ、従来ノ胞庖力式ノ難路ヲ削平、勾配ヲ附シ、稽人馬交通ノ用二資セシナリ、故二阿讃両国商買ノ歓喜ヤ知ルベキナリ、之レ氏ガ道路開鑿二於ケル趣味卜効見卜併セテ感受セシモノナラン、故ニ後年氏ガ四国新道ノ企ヲ為ス、 一二爰に胚胎セルモノナルヲ見ルニ足ラン乎、

意訳変換しておくと
明治八、九年頃、大久保諶之丞は高田倉松(仲多度郡四ヶ村)と親交ができて、行き来する間柄となった。二人は協議して、仲多度郡十郷村字山脇から財田上ノ村太古木嶺を経て、徳島県三好郡箸蔵寺に至る山道を開修することになった。大久保諶之丞と高田氏は、率先して主唱者となり、費用の大半は大久保諶之氏が私財をなげうってまかない、足らずは寄進や有志者の寄付を充てた。こうして、明治14年頃に、完成にこぎ着けた。これまでの箸蔵街道は箸蔵寺参拝者の参拝道に過ぎなかったが、支道を本村に開き、従来の難路削平し、勾配を緩やかにして、人馬が通れる街道とした。これによって阿讃両国の交流は円滑になり、商人の悦びは大きかった。このことからは、大久保諶之丞氏の「趣味」が道路開鑿であったことが知れる。ここに後年の四国新道に向かう胚胎が見える。

  ここに述べられているのは、諶之丞と高田倉松が協力して開いた箸蔵参詣道のことのようです。
大久保家資料には、この新開道を描いたと思われる「箸蔵さんけい山越新開道路略図」という木版刷の絵図が残されています。
大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
「箸蔵さんけい山越新開道路略図」

旧箸蔵街道が尾根沿いに曲がりくねって描かれているのに対して、新たに開かれた新開道が太く直線的に描かれています。尾根上ではなく山腹を直線的に水平に開いたことがうかがえます。

 高田倉松について詳しいことは分かりませんが、大久保家資料には高田倉松の書状が残されており、諶之丞の日記にも度々登場してきます。また、明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の財田上ノ村の項にも、次のような記述があります。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る(26)

意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、商旅の便に役立っている。

  ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。
さらに「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。
諶之丞の日記には、明治十四年十月三日「猪の鼻道荒見分」テ)、同十五年五月十八日「猪の鼻道路見分」(器)などの記述が見ます。ここからは、この頃には猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 以上のように、箸蔵道や渓道など、阿波への交通路を重視して、諶之丞が道路の修開築を行っていたことが確認できます。ここには「新道路開設が趣味」と書かれていますが、それだけで片付けることはできません。確かに讃岐山脈越えの峠道の整備は、大久保諶之丞の先見の明をしめすものといえそうです。それでは、これに類するような活動は他になかったのでしょうか。
 以前に土器川源流近くの阿讃峠・三頭越の金毘羅街道整備をを行った「道造り坊主=智典」を紹介しました。
 彼は生涯を金毘羅街道の整備に捧げていますが、見方を変えると「街道整備請負人のボス」という性格も見えてきました。例えば彼は明治三年段階で、「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていました。彼は土木工事の棟梁でもあったのです。
  「勧進」を経済的視点から見ると次のように意訳できるようです。
勧進は教化と作善に名をかりた事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

  金毘羅街道整備の意義は?
金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰っています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」
 
幕末から明治にかけて、金刀比羅宮の課題は街道整備にあったようです。それをいち早く認識した山間部の地域リーダーたちは、阿波と道路整備を「地域起こしの起爆剤」と捉えたようです。財田上ノ村の大久保諶之丞の戦略も、これらの先進地の動きに学んだものであった云えそうです。
 もうひとつ気になるのは箸蔵寺の思惑と動きです。
箸蔵寺は「金毘羅山の奥の院」と称して、多くの山伏たちを擁し、讃岐にも先達として送り込んでいました。彼らは讃岐側に多くの山伏たちが定着し、布教活動とともに箸蔵寺への参拝道整備にも日常的に関わります。三豊の伊予街道を歩いていると、金毘羅標識と並んで箸蔵寺への標識となる燈籠や丁石が今でも数多く残っています。このように箸蔵街道は、信仰の道でもありました。諶之丞と協力して新たに箸蔵参詣道(水平道)を開いた高田倉松という人物も、箸蔵寺の山伏関係の有力者ではなかったのかと、私は想像しています。それを裏付ける史料はありません。
 以上をまとめておくと
①幕末から明治にかけて、阿讃山脈越の峠道の新たな整備が各地で行われるようになった。
②それは増える人とモノへの対応や、金毘羅参拝者の誘致など、地域振興策の一部として行われた。
③財田上ノ村若き指導者・大久保諶之丞も、そうした時代の動きに対応するように周辺街道の整備を行っていた。
④それが四国新道構想へとつながっていく。
四国新道構想は、何もないところから生まれたのではなく、それまでの地道な取組の上に提唱されたものあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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東三好町のソラの集落 男山 
 
東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと
②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
そのため阿波藩の所領ですが、経済的には讃岐、特に「天領で自由都市」である金毘羅さん(琴平)との結びつきの方が強かったようです。東山から金毘羅への道は、次のようなルートがありました。
4 阿波国図     5
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ
②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ
③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。
④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
4 阿波国図 15

 どの道も塩入や財田経て、金毘羅さんへ続きます。「四国の道は、金毘羅さんに続く」の通り、金毘羅さんを起点に、次の目的地をめざしたのです。
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
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男山集落

 阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
DSC02447

 天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。
タバコの葉っぱ<> | 萩市の地ブログ

煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
 葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。
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    男山から昼間への道 打越越えの開通は? 
 昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
 教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。

 昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
 昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。

文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。

DSC02539
 
こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場

という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」 

を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
 明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
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樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落

 こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
DSC02541

東山峠越の新道建設へ
 このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
DSC02461
東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれた
 
   ソラの集落への「猫車道」の開設は
 大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
   葛籠線 
DSC02500

葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
 明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
DSC02504


 男山線 
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
 このように明治末から大正初年の新道開設は、ようやく普及し始めた猫車による運搬に対応するためのものだったようです。それが戦後まで利用されます。

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 戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
 そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 三好町史 民俗編309P   讃岐への道

                                                                                       
前回は一遍が「死出の旅」として、伊予大三島から讃岐を経て阿波へ抜けたことをお話ししました。その際に、使ったと考えられる讃岐山脈を越える峠道を挙げました。これについて、もう少し詳しく知りたいとのリクエストをいただきました。そこで、今回は大川山から猪ノ鼻峠まで間の峠道に焦点を絞って、紹介したいと思います。

DSC02463
東山峠

1.明治になって開かれた東山峠
 このエリアの幹線道路は、丸亀=三好線(県道4号線)です。このルートは、まんのう町塩入から東山峠へ至る道です。明治に香川の七箇村と徳島の昼間村が協議し、双方から新道を建設し東山峠で結ぶことで完成しました。明治39年に全線が開通し、これにより塩入と撫養街道分岐の昼間村が新道で結ばれました。明治42年の国土地理院の地形図には、幅3m以上の車道として記載されています。
 このルートは先行する財田・阿波池田を結ぶ猪ノ鼻峠ルート(四国新道)への対抗策として計画された側面があります。そして、その期待に昭和初期に土讃線が開通するまでは十分に応えていたようです。

「祖谷や井内谷の人は辻の渡しを渡ってこの道を通り、塩入部落を経て琴平へ行きました。借耕牛も通り、讃岐の米や塩が馬やネコ車で運ばれてきていました。」

と内野集落の老人(明治36年生)が話した記録が残っています。
 ここから分かることは、東山峠を通過するルートは近代になって作られたルートなのです。

東山峠を通過する新道が作られる前は、どうだったのでしょうか?
幕藩体制が安政化する18世紀になると、幕府は各藩に領域地図の定期的な提出を求めるようになります。提出された地図に基づいて、幕府は各藩の境界を定めていきます。そのために各藩は、国境附近の情勢や街道についても地図に書き込むようになります。
4 阿波国図     5
     吉野川沿いの阿讃山脈の国境ラインと街道が見える

1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図で阿讃国境と峠道を見てみましょう。
4 阿波国絵図     1700年

大川山から現在の国道32号線が通過する猪ノ鼻峠までの間には3本の峠道が描かれています。拡大してみます。
4 阿波国絵図 拡大

①~③の峠と、その説明文を見てみます。
①樫休場  大刀野村ヨリ讃岐国塩入村  牛馬通
②差土越  昼間村ヨリ 讃岐国山脇村  牛馬
③石仏越  東山ヨリ  讃岐国財田上村 牛馬通
記載されているルートを推定してみます。
①は 現在の三好市三野町芝生→大刀野→樫休場→塩入(旧仲南町)
②は 現在の東三好町昼間→ 東山→差土越 → 山脇(旧仲南中)
③は 現在の東三好町東山→(箸蔵街道と合流)→石仏 →三豊市財田町上ノ村
ここには、東山峠越のルートはありません。18世紀初頭においては、東山峠ルートは主要街道ではなかったことが分かります。次に地図に描かれている①~③の峠道を見ていきます。

①の樫の休場への道
4 樫の休場 東山峠俯瞰図

 樫の休場(標高 850m)は、東三好町(旧三好町)、三好市三野町、まんのう町(旧仲南町)の3町にまたがる峠で、「さぬき街道」とよばれた交通の要所でした。讃岐側からは二本杉越と呼ばれています。讃岐側の里から見ると、稜線に大きな2本の杉が立っているように見えるからです。実際には、もっと本数はあるのですが・・。
 この峠は、明治中期に丸亀三好線が東山峠で結ばれるまでは、幹線ルートとして使用されていたようです。この峠に至るには、阿波側からは
①三好市三野町の芝生→ 山口―中屋―笠栂―寒風― 樫の休場 ― 塩入がメインルートで、
②昼間からは男山集落手前で葛籠方面へ分岐し、寒風(樫の休場の南1km にある峠)を経て樫の休み場に至る道もありました。
江戸時代は昼間からの人々も、このルートを利用者する人が多かったようです。三野町や三加茂町の人々が讃岐へ出る道として利用し、ここには茶屋も2軒あったと伝えられます。しかし、昭和4年に土讃線が開通してからは、峠の往来は少くなりました。

4 樫の休場

ここからは、讃岐方面の展望が開け、満濃池の向こうにおむすび型で甘南備山の讃岐富士がぽつんと見えます。ここから讃岐方面へ下ると深い谷に囲まれた塩入集落です。
阿波への塩の集積地だった塩入
 塩入は、讃岐の塩が阿波に運ばれる際の重要な中継基地でした。江戸時代には、ここまでは讃岐の人夫が馬などでここまで運んできて中継商人の倉に入れます。それを、阿波の人夫が受け取り、次の中継拠点に運びました。「塩入」という地名は、阿波への塩の入口であったことからつけられたといわれています。東山新道が出来る以前には、塩入→樫の休場→打越峠→昼間や網代のルートで結ばれていたようです。例えば昼間に運ばれた塩は、その後は吉野川を渡り、対岸の辻に運ばれ、そこから男達の背に担がれて祖谷の奥まで、讃岐の塩が運ばれて行ったようです。塩は昔から生活に欠かすことのできない必需品でした。それは、江戸時代よりも古くからあった讃岐と阿波を結ぶ「塩の道」だったようです。
  樫の休場について地元の古老は、戦後の聞き取り調査の際に次のような話を残しています。
借耕牛の道として利用され、讃岐の米や塩がこの峠を越えて運ばれてきました。また琴平や丸亀へ嫁入りする人を見送ったり、善通寺へ入隊する兵士を見送った峠でもありました。三好町の人は、峠の北東4km にある大川神社へ参拝するときにも通りました。」

 
4 樫の休場 ru-tozu

  この街道をしのぶものとして、笠栂と樫の休場の間には次の2体の石仏が残っているようです。
○不動尊
 笠栂から寒風に向けての稜線上に標高 810m地点に建っています。舟形の浮し彫りで、像高は 108cm。台石に「文化元年足代邑 昼間村講中」とあるので、足代と昼間両村の人々が講を組織して建てたことが分かります。ここからも、ふもとの足代や昼間の集落の人々が、葛籠経由のこのルートを使っていたことがうかがえます。
○水谷の地蔵尊
 男山を経て葛籠からの街道で合流する地点の中蓮寺峯(標高 929.9m)の東斜面の道路沿いに座っています。樫の休場からは500m南西の杉林の中です。ここにも土讃線開通直後の昭和10年頃までは庵があって人が住んでいたといいます。今はブロック囲いの小さなお堂の中に、かなり風化した地蔵尊(像高 30cm)がポツンと祀られています。世話をする人はいるのでしょう、いつも奇麗な服を着せてもらっています。お堂の横の古い手洗い石には「明和四(1768)年寅十月廿四日」と刻まれてあったそうです。



③ 石仏越 
4 石仏越

 ③の石仏越は箸蔵街道とは別のルートになります。
現在のサーキットのある東三好町男山の柳沢、増川から馬除を経て池田町境の尾根を登るルートです。後にこのルートに、新たに箸蔵寺からの街道がドッキングされます。
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 二軒茶屋という地名は、昔ここに大国屋や福島屋という二軒の宿屋があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからついた名前だと云います。この峠の阿波側には金比羅宮の奥の院と称する箸蔵寺があり、街道はこのお寺の参道として整備されました。この周辺は修験者(山伏)の密集地で、江戸時代中期以後になって、彼らによって箸蔵寺は頭角を現すようになります。その広報戦略は
①金毘羅さんの奥の院
②金毘羅との両詣り
で、金比羅宮に参詣した人を「両詣り」で勧誘する方法です。先達達(山伏)も街道を整備したり、参拝客を箸蔵寺に勧誘しました。また、箸蔵寺にはこの街道を行き交う旅人に対して、無量で宿泊所を提供したので、ここに停まって翌日金比羅詣でを行う人も阿波の人たちの中には多かったようです。そのため阿波の人たちは、この街道を「箸蔵街道」とも呼ぶようになります。箸蔵寺を通過する「箸蔵街道」が整備されるのは、案外遅いようで江戸時代後半になってからです。

4 阿波国絵図     5
 
 先ほど見た1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図にも、箸蔵街道はありません。あるのは③の男山から石仏越のルートです。

このルートに、箸蔵寺からの道が二軒茶屋付近で合流する形で、付け加えられます。そして、次第に③のルートよりも箸蔵街道を利用する人たちの方が多くなって③のルートは廃れ、「箸蔵街道」にとって代わられたのではないかと私は考えています。

 箸蔵街道も、明治27年に財田の大久保諶之丞が計画した四国新道が猪ノ鼻峠を通過するまでは、毎日多くの人々が行き交いました。特に阿波池田方面の人々の利用が多かったようですです。
箸蔵街道(香川県、四国の信仰古道を辿る) | 世界日本の景色

二軒茶屋から土讃線財田駅への下口にある石仏までの間には、箸蔵への距離を刻んだ次の3基の丁石が残っています。
1 五十七丁 阿州西井ノ内谷段地名氏子
2 六十一丁 阿州三好郡加茂村 萩原藤右ヱ門
3 六十五丁 東豫中之庄 大西彦三良

 箸蔵街道も明治の四国新道の建設と、昭和の初めの土讃線の開通で大きく姿を変えます。利用者は激減し、二軒あった茶屋も姿を消します。しかし、このルートは信仰の道として信者によってしっかりと整備された道なので、今も十分に利用可能です。財田駅に車を止めて、二軒茶屋を越えて、箸蔵寺に参拝し、ロープウエイで箸蔵駅の直ぐ上にまで下りて、土讃線で帰ってくるとというのが定番でした。ところが・・いまは土讃線の便数が減って、帰ってくる普通列車がなくなってしまいました。急行の南風は通過してしまいます。どうしたらいいものやら・・・

以上紹介した東山峠・樫の休場・二軒茶屋はよく知られたルートです。しかし、旧東山村の『東山の歴史』(大正5年編纂)にはもう一つのルートが示されています。
4 阿波国絵図 拡大

②の差出の地蔵越への道
「東山の歴史」には、「風光絶佳なること、我昼間村第一」として「差出山」(標高887.3m)が紹介されています。しかし、この山は私にとっては始めて耳にする山でした。もちろん手持ちの古い国土地理院の地図にも名前は入っていません。しかし、グーグルで検索してみると標高が同じ山があります。「登尾山(のぼりおやま)887.3m」です。尾野瀬山分岐点より西の県境尾根にあります。

標高が同じなので「差出山」(標高887.3m)=「登尾山(のぼりおやま)887.3m」であることが分かります。グーグルは、運用開始時は山関係では役に立つことはなかったのですが、多くの人が山名や地名を補足して、役立つツールに成長してきたようです。
 「東山の歴史」には、次のように紹介されています。
「維新前までは香川県へ通ずる要路に当りしが、今は近路として通過するに過ぎざれば道路の甚だしく荒廃せんとするは惜しむべきなり。」

大正の時代に、すでに忘れ去られようとしていたルートのようです。
 この峠道は阿讃サーキットの貞安や滝久保、石木集落方面の人々が香川県の財田、琴平方面へ出るときに利用していたようです。琴平まで日帰りで用事や買物に出掛けたと云います。貞安からの尾根を詰めれば、この山の山頂に立てます。確かに「風光絶佳なること、我昼間村第一」かもしれません。特に讃岐方面の展望がいいのです。
 この頂から県境尾根を西に行けば、箸蔵街道と合流して財田方面にでることができます。東に辿れば、中世の山岳寺院があった尾の瀬神社への分岐点があり、尾野瀬神社を経てまんのう町(旧仲南町)春日に至ります。春日で東山峠からの三好=丸亀線と合流します。そこからは金毘羅さんへは一里半ほどになります。
この街道については、貞安の老人は次のような話を残しています。
 「財田との縁組も多く、借耕牛も沢山通りました。財田の香川熊一さんや滝久保の木下常一さんが博労をしていて、牛の貸借の仲介をしていました。戦後耕運機が入るまで、借耕牛の行き来は続きました。」

 財田方面への借耕牛が数多く通った道のようです。
 貞安から差出越までの峠道には、4体の石仏が残っているようです。
○差出越の地蔵尊
 峠には2体の地蔵尊が祀られています。道路から向かって右は像高37cmで「文化十三年十月吉日」、左は像高 43cm で「明治十九年十二月吉日」の銘があります。2体ともに「棟木」の地名が刻まれています。棟木(現 東山字棟木)の人々が、この道を利用していたことが分かります。
○ヤマンソの地蔵尊
 峠の南東 1,5kmの展望の良い尾根上にいらしゃいます。像高 88cm「三界萬霊  安政三辰二月吉日 施主東山村中 世話人貞安大西高助 内野丹蔵」の銘があります。
○ハチベの不動尊
 峠の南東 500m の松の大木の下にあり、像高は 44.5cm。造立の年代は不明で、昔讃岐へ行くときここに刀を隠しておいたという話が残っているそうです。

 一遍時衆がどのルートで、善通寺から阿波へ抜けていったかという点に話を戻します
以上から私は次のように想像しています。
①善通寺から金倉川沿いに歩みを勧めた一行は、塩入に入ります。ここで一泊。
②翌日に、財田川の源流を遡って樫の休場に登っていきます。
③そして、葛籠・男山を経由して昼間に入ります。昼間に時宗の末寺が後世に作られたことは、なんらかの由縁が、この時にあったと無理矢理想像します。
④吉野川を祖谷への塩を渡す渡し船で右岸(南岸)の辻へ渡ります。
⑤吉野川右岸を東に向かって遊行中にメンバーの尼僧が亡くなります。
⑥この間、メンバーの追放や布教活動の乱れなどから、彼らを取り巻く状況は悪くなっていきます。
⑦9日後の6月1日に、鴨島で一遍発病
というストーリーです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
○東山の歴史(大正5年編)
○三好町誌

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