瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:篠原長房

「細川両家記」によると、江口合戦に際し、阿波・讃岐勢は三好長慶を支持したと記します。しかし、阿波の細川氏之・三好実休が畿内に軍事遠征することなかったようです。三好長慶が求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除でした。そのため四国からは長慶の下剋上ではなく、京兆家の内紛として中立を維持したとも考えられます。

三好長慶の挙兵
三好長慶の挙兵 
江口合戦後の讃岐国人の動きを見ることで、彼らの行動原理や四国情勢を読み取りましょう。まず阿波三好氏の讃岐支配の拠点となったという十河氏を押さえておきます。

十河氏の細川氏支配体制へ

十河氏2

しかし、これらの動きは南海通記など近世になって書かれた軍記ものによって、組み立ててられた者です。ちなみに一存が史料に最初に登場するのは1540(天文9)年です。その時には「三好孫次郎(長慶)弟」「十河孫六郎」と記されています。三好氏から讃岐の十河家に養子に入って以後のことです。そのため十河一存は、十河家当主として盤石な体制を当初から持っていた、そして細川晴元ー三好長慶ー十河一存という臣下関係の中にいたと私は思っていたのですが、どうもそうではないようです。
  【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日              (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
  【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」
就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
八月十八日          晴元(花押)
十河民部人夫殿
意訳変換しておくと
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
天文17(1549)年8月18日 
            (細川)晴元(花押)
十河民部人夫(一存)殿
1549(天文17)年8月頃から主君晴元と兄長慶が対立するようになります。このような情勢下で、十河一存は細川晴元に味方し、「本知」を恩賞として認められていることがこの史料からは分かります。ところが、一存は翌年6月までには兄長慶に合流しています。
つまり、細川晴元方だったのに、兄三好長慶が担いだ細川氏綱方へ転じたのです。

細川晴元・三好氏分国図1548年
細川晴元と三好長慶の勢力図(1548年)
①次弟・三好実休率いる阿波三好は江口の戦いには参戦しなかった。
②十河一存は細川晴元側にいたが、長慶が氏綱方と結んだのを契機に氏綱方へ転じた。
ということになります。その背景を研究者は次のように考えています。当初の三好長慶が細川晴元に求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除だけで、晴元打倒ではありませんでした。ところが晴元が瓦林春信を重用するなど敵対的態度をとったので、晴元に代わる京兆家当主として氏綱を擁立するようになります。その背景には、当初は晴元と長慶は和解するものと思って、一存は晴元に味方しますが、長慶が細川氏綱を擁立するようになると、氏綱による十河城の「本知」安堵が可能となります。それを見て一存は晴元の下から離脱し、兄長慶を味方することになったというのです。
 こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。

三好長慶の勢力図3

東讃岐守護代家の安富氏の動きを見ておきましょう。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」
為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月二十二日           (細川)晴元(花押影)
安富又二郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。1557(弘治3)年12月に、晴元は十河又四郎を通じて東讃岐の寒河氏の帰順を図っていますが、これはうまくいかなかったようです。細川晴元の支配下にあった東讃岐の勢力が三好方に靡き始めるのは、この頃からのことのようです。
西讃岐守護代家の香川之景も細川晴元の支配下にあったことを見ておきましょう。
  【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」
就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日            (細川)晴元(花押)
香川弾正忠殿
意訳変換しておくと
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日                   晴元(花押)
香川弾正忠(之景)殿
香川之景が細川晴元に年始に太刀を送った、その返書です。両者が音信を通じていたことが分かります。
次の史料は、香川之景が晴元の讃岐計略を担っていたことを示します。
  【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             晴元(花押)
奈良千法師丸殿
意訳変換しておくと
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             細川晴元(花押)
奈良千法師丸殿
奈良氏は聖通寺城主とされますが史料が少なく、謎の多い武士集団です。その奈良氏に対して、細川晴元が「別儀」がないことを喜び、香川之景との相談の上で「調略」をすすめることを求めています。香川之景は西讃岐守護代家として西讃岐の晴元方のリーダーでした。以上のように、香川之景は積極的に晴元と連絡を取りながら反三好活動を行っていたことがうかがえます。
このような中で1553(天文22)年6月に細川氏之(持隆)が三好実休と十河一存に殺害されます。
なぜ氏之が殺害されたのか、その原因や背景がよく分かりません。「細川両家記」では、十河一存の「しわざ」とされ、「昔阿波物語」でも見性寺に逃亡した氏之を一存が切腹させたと記します。ここからは、一存が中心となって氏之殺害したことがうかがえます。この背景には、讃岐情勢が関係していると研究者は考えています。多度津の香川之景は氏之の息がかかった人物で、晴元は之景を通じて氏之との関係調整を図っていました。しかし、氏之が晴元派となってしまえば、守護代家が晴元と結んでいる讃岐に加え、阿波も晴元派となります。そうなると、晴元を裏切ったことで十河氏当主の地位を確立した一存は排除される恐れが出てきます。一存には四国での晴元派の勢力拡大を阻止するという政治的目的がありました。これが氏之を殺害する大きな動機だと研究者は考えています。

三好長慶の戦い

 江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。そして、三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味するようです。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。阿波と讃岐の軍勢が一体化が進んでいます。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていくのです。
 その中で香川氏は反三好の旗印を下ろしません。
それに対する三好軍の対香川氏戦略を年表化しておきます
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
Amazon.co.jp: 戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) : 和三郎, 若松: Japanese Books

三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。

三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

16世紀前半の天文年間になると阿波三好氏が讃岐へ侵入を開始し、東讃の国人衆は三好氏の支配下に入れられていきます。その拠点となったのが三好一存を養子として迎えた十河氏です。

十河氏2


十河氏の拠点は香川郡の十河城でした。
こうして十河氏を中心に髙松平野への三好氏の進出が行われます。しかし、この進展を記したものは『南海通記』以外にありません。そして、戦後に書かれた町村史の戦国史は、これに拠るものがおおいようです。また、その後の三好氏による天霧城の香川氏攻めは詳細に記述されているので、軍記物としても読めて人気がありました。しかし、その内容については新たな史料の発掘によって、事実ではないとされるようになっています。今回は南海通記のどこが問題なのかを見ていくことにします。テキストは 橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P

最初に、『南海通記』の三好義賢(実休)による天霧城攻め記述を見ておきましょう。
  (前略)香川五郎刑部大夫景則ハ伊予ノ河野卜親シケレハ是二牒シ合セテ安芸ノ毛利元就二属セント欲ス。是二由テ十河一存ノ旨二与カラス。元就ハ天文廿年二大内家二亡テ三年中間アツテ。弘治元年二陶全菖ヲ討シ。夫ヨリ三年ニシテ安芸、備後、周防、長門、石見五ケ国ヲ治テ、今北国尼子卜軍争ス。其勢猛二振ヘハ香川氏中国二拠ントス。三好豊前守入道実休是ヲ聞テ、永禄元年八月阿、淡ノ兵八千余人ヲ卒シテ、阿波国吉野川二至り六条ノ渡リヲ超テ勢揃シ、大阪越ヲンテ讃州引田浦二到り。当国ノ兵衆ヲ衆ム寒川氏、安富氏来服シテ山田郡二到り十河ノ城二入リ、植田一氏族ヲー党シテ香川郡一ノ宮二到ル。香西越後守来謁シテ計ヲ定ム、綾ノ郡額ノ坂ヲ越テ仲郡二到リ、九月十八日金倉寺ヲ本陣トス。馳来ル諸将ニハ綾郡ノ住人羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝官弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔、小早川三郎左衛門鵜足郡ノ住人長尾大隅守、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛西等三好家ノ軍二来衆ス。総テー万人千人、木徳、柞原、金倉二充満ス。一陣々々佗兵ヲ交ス営ヲナス。阿、淡ノ兵衆糧米ハ海路ヨリ鵜足津二運送ス。故ニ守禁ノ兵アリ。 実休此度ハ長陣ノ備ヲナシテ謀ヲ緞クス。
九月十五日実休軍ヲ進メテ多度ノ郡二入ル、善通寺ヲ本陣トス。阿、讃ノ兵衆仲多度ノ間二陣ヲナス。
  ここまでを意訳変換しておくと 
 (前略)香川五郎景則は伊予の河野氏と親密であったので、河野氏と共に安芸の毛利元就に従おうとした。そのため三好氏一族の十河一存による讃岐支配の動きには同調しようとしなかった、元就は天文20年に大内家を滅亡させて、弘治元年には陶氏を滅ぼし、安芸、備後、周防、長門、石見の五ケ国を治めることになった。そして、この時期には尼子と争うようになっていた。毛利氏の勢力の盛んな様を見て、香川氏は毛利氏に従おうとした。
 三好入道実休はこのような香川氏の動きを見て、永禄元年八月に阿波、淡路の兵八千余人を率いて、吉野川の六条の渡りを越えた所で馬揃えを行い、大阪越から讃州引田に入った。そこに東讃の寒川氏、安富氏が加わり、十河存保の居城である山田郡の十河城に入った。ここでは植田一氏族加えて香川郡の一ノ宮に至った。ここには香西越後守が来謁して、戦略を定めた。その後、綾郡の額坂を越えて仲郡に入り、九月十八日には金倉寺を本陣とした。ここで加わったのは綾郡の羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝宮弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔(西庄城?)、小早川三郎左衛門、鵜足郡の長尾大隅守(長尾城)、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛(香)等が三好軍に従軍することになった。こうして総勢1,1万人に膨れあがった兵力は、木徳、柞原、金倉周辺に充満した。阿波、淡路ノ兵の兵糧米は、海路を船で鵜足津(宇多津)に運送した。そのために宇多津に守備兵も配置した。 実休は、この戦いででは長陣になることをあらかじめ考えて準備していた。こうして、九月十五日に、実休軍は多度郡に入って、善通寺を本陣とした。そして阿波や、讃岐の兵は、那珂郡や多度軍に布陣した。

内容を補足・整理しておきます。
①天文21年(1552)三好義賢(実休)は、阿波屋形の細川持隆を謀殺し、阿波の支配権を掌握。
②その後に、十河家に養子に入っていた弟の十河一存に、東讃岐の従属化を推進させた。
③その結果、安富盛方と寒川政国が服属し、やがて香西元政も配下に入った。
④しかし、天霧城の香川景則は伊予の河野氏と連絡を取り、安芸の毛利元就を頼り、抵抗を続けた。⑤そこで実休は永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵を率いて讃岐に入り、東讃岐勢を加えて9月に那珂郡の金倉寺に本陣を置いた。
⑥これに中讃の国人も馳せ参じ、三好軍は1,8万の大部隊で善通寺に本陣を設置した。

これに対して天霧城の香川景則の対応ぶりを南海通記は、次のように記します
香川氏ハ其祖鎌倉権五郎景政ヨリ出テ下総国ノ姓氏也。世々五郎ヲ以テ称シ景ヲ以テ名トス。細川頼之ヨリ西讃岐ノ地ヲ賜テ、多度ノ郡天霧山ヲ要城トシ。多度津二居住セリ。此地ヲ越サレハ三郡二入コトヲ得ス。是郡堅固卜云ヘキ也。相従兵将ハ大比羅伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門其外小城持猶多シ。香川モ兼テ期シタルコトナレハ我力領分ノ諸士、凡民トモニ年齢ヲ撰ヒ、老衰ノ者ニハ城ヲ守ラシメ、壮年ノ者ヲ撰テ六千余人手分ケ手組ヲ能シテ兵将二属ス。香川世々ノ地ナレハ世人ノ積リヨリ多兵ニシテ、存亡ヲ共ニセシカハ阿波ノ大兵卜云ヘトモ勝ヘキ師トハ見ス。殊近年糧ヲ畜へ領中安供ス。
 
 意訳変換しておくと
香川氏は鎌倉権五郎景政が始祖で、もともとは下総国を拠点としていた。代々五郎を称して「景」という一時を名前に使っている。細川頼之から西讃岐の地を給付されて、多度郡天霧山に山城を築いて、普段は多度津で生活していた。(天霧城は戦略的な要地で)ここを越えなければ三野郡に入ることはできない。そのため三野郡は堅固に守られているといえる。香川氏に従う兵将は大比羅(大平)伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門の他にも小城の持主が多い。三好氏の襲来は、かねてから予期されていたので戦闘態勢を早くから固めていた。例えば年齢によって、老衰の者には城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けていた。また香川氏の支配領域は豊かで、人口も多く「祖国防衛戦」として戦意も高かった。また。城内には兵糧米も豊富で長期戦の気配が濃厚であった。

こうして善通寺を本陣とする三好郡と、天霧城を拠点とする香川氏がにらみ合いながら小競り合いを繰り返します。ここで不思議なのは、香川氏が籠城したとは書かれていないことです。後世の軍機処の中には、籠城した天霧城は水が不足し、それに気がつかれないように白米を滝から落として、水が城内には豊富にあると見せようとしたというような「軍記もの」特有の「お話」が尾ひれをつけて語られたりしています。しかし、ここには「老衰の者を城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けた」とあります。 また、三好軍は兵力配置は、天霧山の東側の那珂・多度郡だけです。南側の三野郡側や、北側の白方には兵が配置されていません。つまり天霧城を包囲していたわけではないようです。籠城戦ではなかったことを押さえておきます。
天霧城攻防図
天霧城攻防図(想像)
南海通記には香川氏の抵抗が強いとみた三好側の対応が次のように記されています。
故二大敵ヲ恐ス両敵相臨ミ其中間路ノ程一里ニシテ端々ノ少戦アリ。然ル処二三好実休、十河一存ヨリ香西越後守ヲ呼テ軍謀ヲ談シテ日、当国諸将老巧ノ衆ハ少ク寒川、安富ヲ初メ皆壮年ニシテ戦ヲ踏コト少シ、貴方ナラテハ国家ノ計謀ノ頼ムヘキ方ナシ、今此一挙是非ノ謀ヲ以テ思慮ヲ遣ス。教へ示シ玉ハ、国家ノ悦ヒコレニ過ヘカラストナリ。香西氏曰我不肖ノ輩、何ソ国家ノ事ヲ計ルニ足ン。唯命ヲ受テーノ木戸ヲ破ヲ以テ務トスルノミ也トテ深ク慎テ言ヲ出サス。両将又曰く国家ノ大事ハ互ノ身ノ上ニアリ。貴方何ソ黙止シ玉フ、早々卜申サルヽ香西氏力曰愚者ノー慮モ若シ取所アラハ取り玉フヘシ。我此兵革ヲ思フエ彼来服セサル罪ヲ適ルノミナリ。彼服スルニ於テハ最モ赦宥有ヘキ也。唯扱ヲ以テ和親ヲナシ玉フヘキコト然ルヘク候。事延引セハ予州ノ河野安芸ノ毛利ナトラ頼ンテ援兵ヲ乞二至ラハ国家ノ大事二及ヘキ也。我香川卜同州ナレハ隔心ナシ。命ヲ奉テ彼ヲ諭シ得失ヲ諭シテ来服セシムヘキ也。

  意訳変換しておくと
こうして両軍は互いににらみ合って、その中間地帯の一里の間で小競り合いに終始した。これを見て三好実休は弟の十河一存に香西越後守(元政)呼ばせて、とるべき方策について次のように献策させた。
「讃岐の諸将の中には戦い慣れた老巧の衆は少ない。寒川、安富はじめ、みな壮年で戦闘経験が少い。貴方しか一国の軍略を相談できる者はいない。この事態にどのように対応すべきか、教へていただきたい。これに応えて香西氏は「私は不肖の輩で、どうして一軍の指揮・戦略を謀るに足りる器ではありません。唯、命を受けて木戸を破ることができるだけです。」と深く謹みの態度を示した。そこで実休と一存は「国家の大事は互の身上にあるものです。貴方がどうして黙止することがあろうか、早々に考えを述べて欲しい」と重ねて促した。そこで香西氏は「愚者の考えではありますが、もし意に適えば採用したまえ」と断った上で、次のような方策を献策した。
 私は現状を考えるに、香川氏が抵抗するのは罪を重ねるばかりである。もし香川氏が降るなら寛容な恩赦を与えるべきである。これを基本にして和親に応じることを香川氏に説くべきである。この戦闘状態が長引けば伊予の河野氏や安芸の毛利氏の介入をまねくことにもなりかねない。それは讃岐にとっても不幸なことになる。これは国家の大事である。私は香川氏とは同じ讃岐のものなので、気心はしれている。この命を奉じて、香川氏に得失を説いて、和睦に応じるように仕向けたい。

要点を整理しておきます。
①善通寺と天霧山に陣して、長期戦になったこと、
②三好実休は長期戦打開のための方策を弟の十河一存に相談し、香西越後守の軍略を聞いたこと
③香西越後守の献策は、和睦で、その使者に自ら立つというものです。
ここに詳細に描かれる香西越後守は、謙虚で思慮深い軍略家で「諸葛亮孔明」のようにえがかれます。このあたりが一次資料ではなく「軍記もの」らしいところで、名にリアルに描かれています。内容も香西氏先祖の自慢話的なもので、南海通記が「香西氏の顕彰のために書かれている」とされる由縁かも知れません。18世紀初頭に南海通記が公刊された当時は、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国(讃岐)の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたことは前々回にお話ししました。

 香西越後守の和議献策を受けて、三好実休のとった行動を次のように記します。
実休ノ曰、我何ソ民ノ苦ヲ好ンヤ。貴方ノ弁才ヲ以テ敵ヲ服スルコトラ欲スルノミ、香西氏領掌シテ我力陣二帰り、佐藤掃部之助ヲ以テ三野菊右衛門力居所へ使ハシ、香川景則二事ノ安否ヲ説テ諭シ、三好氏二服従スヘキ旨ヲ述フ、香川モ其意二同ス。其後香西氏自ラ香川力宅所二行テ直説シ、前年細川氏ノ例二因テ三好家二随順シ、長慶ノ命ヲ受テ機内ノ軍役ヲ務ムヘシト、国中一条ノ連署ヲ奉テ、香川氏其外讃州兵将卜三好家和平ス。其十月廿日二実休兵ヲ引テ還ル。其日ノ昏ホトニ善通寺焼亡ス。陣兵去テ人ナキ処二火ノコリテ大火二及タルナルヘシ。

意訳変換しておくと
実休は次のように云った。どうして私が民の苦しみを望もうか。貴方の説得で敵(香川氏)が和議に応じることを望むだけだ。それを聞いて香西氏は自分の陣に帰り、佐藤掃部之助を(香川氏配下の)三野菊右衛門のもとへ遣った。そして香川景則に事の安否を説き、三好氏に服従することが民のためなると諭した。結局、香川も和睦に同意した。和睦の約束を取り付けた後に、香西氏は自らが香川氏のもとを訪ねて、前年の細川氏の命令通りに、三好家に従い、三好長慶の軍令を受けて畿内の軍役を務めるべきことを直接に約束させた。こうして国中の武将が連署して、香川氏と讃州兵将とが三好家と和平することが約束された。こうして10月20日に実休は、兵を率いて阿波に帰った。その日ノ未明に、善通寺は焼した。陣兵が去って、人がいなくなった所に火が残って大火となったのであろう。

ここには香川氏が三好実休の軍門に降ったこと、そして畿内遠征に従軍することを約したことが記されています。注意しておきたいのは、天霧城が落城し、香川氏が毛利氏にを頼って落ちのびたとは記していないことです。

南海通記に書かれている永禄元年(1558)の実休の天霧城攻めの以上の記述を裏付けるとされてきたのが次の史料(秋山文書)です。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2

意訳変換しておくと
今度の阿波州(三好)衆の乱入の際の十月十一日麻口合戦(高瀬町麻)においては、手を砕かれながらも、敵将の山路甚五郎討ち捕った。誠に比類のない働きは神妙である。(この論功行賞として)三野郡高瀬郷の内、以前の知行分反銭と同郡熊岡・上高野御料所分内丹石を、また新恩として給与する。今後は全てを知行地と認める。この外の公物の儀は、有り様納所有るべく候、在所の事に於いては、代官として進退有るべく候、いよいよ忠節御入魂肝要に候、恐々謹言

年紀がないので、これが永禄元(1558)年のものとされてきました。しかし、高瀬町史編纂過程で他の秋山文書と並べて比較検討すると花押変遷などから、それより2年後の永禄3年のものと研究者は考えるようになりました。冒頭に「阿州衆乱入」の文言があるので、阿波勢と戦いがあったのは事実です。疑わなければならないのは、三好氏の天霧城攻めの時期です。

永禄3、 4年に合戦があったことを記す香川之景の発給文書が秋山家文書にあります。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
秋山家文書(永禄四年が見える)
 先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、こちらは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。 先ほどの麻口の戦いと一連の軍功に対しての論功行賞と新恩が秋山兵庫助にあたえられたものと研究者は考えています。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦った結果手にした恩賞です。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、ここからは南海通記の記述に対する疑問が生じます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。しかし、秋山文書を見る限り、それは疑わしくなります。なぜなら、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、香川氏は三好氏に従属したわけではないようです。

また、1558年には三好実休は畿内に遠征中で、四国には不在であったことも一次資料で確認できるようになりました。
つまり、南海通記の「永禄元(1558)年の三好実休による天霧城攻防戦」というのはありえなかったことになります。ここにも南海通記の「作為」がありそうです。

それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
 この時点では三好実休は死去しています。三好軍を率いたのも実休ではなかったことになります。それでは、この時の指揮官はだれだったのでしょうか。それは三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢と研究者は考えています。実休の戦死で、その子長治が三好家の家督を継ぎますが、西讃岐へは篠原長房により侵攻が進められます。永禄7年(1564)、篠原長房は大野原の地蔵院に禁制を出すなど、西讃の統治を行っています。年表化しておくと次のようになります
永禄元年 実休の兄長慶が将軍足利義輝・細川晴元らと抗争開始。実休の堺出陣
永禄6年 篠原長房による天霧城攻防戦
永禄7年 篠原長房の地蔵院(観音寺市大野原)への禁制
ここからは『南海通記』の天霧城攻防戦は、年代を誤って記載されているようです。天霧籠城に至るまでの間に、香川氏と三好勢との小競り合いが長年続いていたが、それらをひとまとめにして天霧攻として記載したと研究者は考えています。
   以上をまとめておきます

①讃岐戦国史の従来の定説は、南海通記の記載に基づいて永禄元(1558)年に阿波の三好実休がその弟十河一存とともに丸亀平野に侵攻し、天霧城攻防戦の末に香川氏は降伏し、三好氏の支配下に収められた(或いは、香川氏は安芸の毛利氏の元へ落ちのびた)とされてきた。
②しかし、秋山家文書には、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できる。
③ここからは、永禄4(1561)年になっても、香川氏はまだ西讃地域を支配していたことが分かる。
④また1558年には三好実休は畿内に遠征していたことが一次資料で確認できるようになった。
⑤こうして1558年に三好実休が天霧城を攻めて、香川氏を降伏させたという南海通記の記載は疑わしいと研究者は考えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
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安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
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  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

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