「細川両家記」によると、江口合戦に際し、阿波・讃岐勢は三好長慶を支持したと記します。しかし、阿波の細川氏之・三好実休が畿内に軍事遠征することなかったようです。三好長慶が求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除でした。そのため四国からは長慶の下剋上ではなく、京兆家の内紛として中立を維持したとも考えられます。
【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言八月廿八日 (細川)晴元(花押)殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、八月十八日 晴元(花押)十河民部人夫殿
意訳変換しておくと
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、天文17(1549)年8月18日
(細川)晴元(花押)十河民部人夫(一存)殿
1549(天文17)年8月頃から主君晴元と兄長慶が対立するようになります。このような情勢下で、十河一存は細川晴元に味方し、「本知」を恩賞として認められていることがこの史料からは分かります。ところが、一存は翌年6月までには兄長慶に合流しています。
細川晴元と三好長慶の勢力図(1548年)
①次弟・三好実休率いる阿波三好は江口の戦いには参戦しなかった。②十河一存は細川晴元側にいたが、長慶が氏綱方と結んだのを契機に氏綱方へ転じた。
ということになります。その背景を研究者は次のように考えています。当初の三好長慶が細川晴元に求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除だけで、晴元打倒ではありませんでした。ところが晴元が瓦林春信を重用するなど敵対的態度をとったので、晴元に代わる京兆家当主として氏綱を擁立するようになります。その背景には、当初は晴元と長慶は和解するものと思って、一存は晴元に味方しますが、長慶が細川氏綱を擁立するようになると、氏綱による十河城の「本知」安堵が可能となります。それを見て一存は晴元の下から離脱し、兄長慶を味方することになったというのです。
こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。
こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。
東讃岐守護代家の安富氏の動きを見ておきましょう。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、四月二十二日 (細川)晴元(花押影)安富又二郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、四月二十二日 晴元(花押影)安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。1557(弘治3)年12月に、晴元は十河又四郎を通じて東讃岐の寒河氏の帰順を図っていますが、これはうまくいかなかったようです。細川晴元の支配下にあった東讃岐の勢力が三好方に靡き始めるのは、この頃からのことのようです。
西讃岐守護代家の香川之景も細川晴元の支配下にあったことを見ておきましょう。
【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、二月廿九日 (細川)晴元(花押)香川弾正忠殿
意訳変換しておくと
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、二月廿九日 晴元(花押)香川弾正忠(之景)殿
香川之景が細川晴元に年始に太刀を送った、その返書です。両者が音信を通じていたことが分かります。
次の史料は、香川之景が晴元の讃岐計略を担っていたことを示します。
【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、卯月十二日 晴元(花押)奈良千法師丸殿
意訳変換しておくと
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、卯月十二日 細川晴元(花押)奈良千法師丸殿
奈良氏は聖通寺城主とされますが史料が少なく、謎の多い武士集団です。その奈良氏に対して、細川晴元が「別儀」がないことを喜び、香川之景との相談の上で「調略」をすすめることを求めています。香川之景は西讃岐守護代家として西讃岐の晴元方のリーダーでした。以上のように、香川之景は積極的に晴元と連絡を取りながら反三好活動を行っていたことがうかがえます。
このような中で1553(天文22)年6月に細川氏之(持隆)が三好実休と十河一存に殺害されます。
なぜ氏之が殺害されたのか、その原因や背景がよく分かりません。「細川両家記」では、十河一存の「しわざ」とされ、「昔阿波物語」でも見性寺に逃亡した氏之を一存が切腹させたと記します。ここからは、一存が中心となって氏之殺害したことがうかがえます。この背景には、讃岐情勢が関係していると研究者は考えています。多度津の香川之景は氏之の息がかかった人物で、晴元は之景を通じて氏之との関係調整を図っていました。しかし、氏之が晴元派となってしまえば、守護代家が晴元と結んでいる讃岐に加え、阿波も晴元派となります。そうなると、晴元を裏切ったことで十河氏当主の地位を確立した一存は排除される恐れが出てきます。一存には四国での晴元派の勢力拡大を阻止するという政治的目的がありました。これが氏之を殺害する大きな動機だと研究者は考えています。
江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。そして、三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。
1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味するようです。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。阿波と讃岐の軍勢が一体化が進んでいます。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていくのです。
その中で香川氏は反三好の旗印を下ろしません。
それに対する三好軍の対香川氏戦略を年表化しておきます
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。
三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」