瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:篠山


江戸時代に、村々で踊られた風流踊りや盆踊り、あるいは村祭りの獅子舞などをプロデユースしたのは山伏であったという話を以前にしました。今回は、宇和島藩で山伏たちが宗教活動以外に関わっていた文化活動や芸能活動を見ていこうと思います。テキストは
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
篠山権現

 篠山は「篠山権現」が祀られ、土佐と宇和の両方から信仰を集める霊山でした。
ここを、さまざまな山伏たちが聖地として、宗教活動を展開していたようです。その中に宇和地方で踊られていた「はなとり踊」があります。旧一本松村正木のはなとり踊は、篠山権現を中心とした行事でした。
オヤびんの記憶 -篠山 (1065ml:高知県宿毛市・愛媛県南宇和郡愛南町)

その由来を埜仲伊太郎氏の筆記は、次のように記します。

 そもそもはなとりの由来は、花賀という悪者がでて集落を荒して困ったのを、花踊戦術をつかって打取ったことに始まる。ところがその後、火災や不幸が続いて人々をを不安におとし入れた。それを、占ってもらったところ花賀の災とわかり、篠山に十一面観世音として祭り、毎年旧十月十八日花踊を踊って花賀の霊をなぐさめるようになった。これが一本松村正木の花とり踊の由来である。

 踊は、早朝一番に篠川で禊ぎして、それから篠山に登ります。

そして、天狗堂前で踊り、中店屋(ナカデンヤ)のお堂・オドリ駄場・御在所クラモト(山本真一郎元山伏家)宅庭・蕨岡庄屋前の五ヵ所で踊を奉納していました。それが後には、正木集落の権現堂・観喜光寺・庄屋前の3ヶ所に簡略化したようです。御在所の山本家は、元篠山山伏です。昔は山本家の修験者を中心に二人の修験者による「さやはらい」行事が行なわれていました。

はなとりおどり・正木の花とり踊り
正木のはなとりおどり
その後に謡われるはなとりの歌は、次のようなものでした。
    ここ開けよ、やあまん(山伏)おとうり。
    さぞや開けずば、
    上り踏ねこす。
  念仏
    いんよう
    なむおいどう
    なむおみどんよ
    なむおい            ‘’
   ぜんごぜ
   ぜんごぜは万のてききよ
  I さぞや松より
   前に之を書く  (以下略)
「ぜんごぜ」は旧城辺町中大堂智恵光寺旧跡大堂にあったゼソゴゼ松と関係があるとされます。内容自体は、山伏とゴゼの問答と伝えられています。また、はなとり踊は、視点を変えると刀と鎌との武術の習練をかねた民俗芸能ともされます。
ムトウーフリムクイーサカテーウチコンーオリシキクルマーエフリーツキアゲーネジキリ

などの踊の手は、そのまま武道の型ともされ、山伏の指導で武術修練を行なっていたという伝えもあるようです。とすると、山伏は武術指南も行っていたことになります。本当なのでしょうか?
はなとりおどり・正木の花とり踊り
増田のはなとり踊

 旧一本松村増田集落のはなとり踊は、山伏問答の部分「さやはらい」が近年まで原型で残っていたようです。
「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、増田集落では修験者がやっていたと云います。恐らく他地区のはなとり踊りでも、「さやはらい」は必ず修験者が勤めていたものと研究者は考えています。山伏と民俗芸能の関連を解明する史料になるようです。
「さやはらい」の部分は大体次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ち、ただし鎌をさしていない。まず南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。

この後、はなとり踊へと移っていきます。この問答からは、次のようなことが分かります。
①登場するのは大峰山の善久坊と宿毛・寺山の南光院で
②両者が高山尊神への祭礼の露払いへ出向く途上での鞘当て事件
③最初は、青竹での武闘のやりとり
④最後は太刀と鎌での立ち回り
これを見ると登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。昔は法印(山伏)の行なっていた清めの式では、般若心経と次のような清めの言葉を述べられていました。
  きわめてきたなきものよ
  つみとがけがれをはらい玉え
  きよめ玉え
  六根清浄・六根清浄
ここには六根清浄と、山伏お決まりの言葉がでてきます。
  ここに出てくる増田の高山尊神の敵は、石鎚権現で、石鎚山に詣ると死ぬと地元では云われてきたようです。ここからは石鎚の蔵王権現に対抗的な山岳信仰の道場が、このエリアにはあったことがうかがえます。これをさらに突っ込んで推測すると増田の斎払いは、本山派(天台系)と当山派(真言系)の対立を表しているのかもしれません。また、青竹の打ち合いは、土佐の神事「棒打ち」の影響がみられ、踊りの刀は破邪の剣、平常嫌う逆さ鎌は破魔除災を表しているともされるようです。どちらにしても、あっちこっちに山伏の影響が見えます。
 さいはらいに出てくる寺山南光院は、石鎚権現の対抗候補の有力寺院です。
この山伏寺は、宿毛市の四国霊場39延光寺の奥の院になります。南光院のについては以前にもお話ししましたが、ここ出身の宥厳は、長宗我部元親の讃岐侵攻に従軍し、無住となった松尾寺(金比羅さん)を、讃岐統治の総本山にするために預けられ修験者です。後の史料では、この寺は当山派の四国惣元締め的な山伏寺院であったと自称しています。確かに、当時は属する修験者も多かったようで、幡多地方の最有力寺院であったようです。この寺の歴史も古く、南光院流秘法によって諸病封じの祈祷も行なっていたようです。

また、はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打ってさいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  この行事の全体を眺めても、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったとしておきます。この視点で、讃岐の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また太刀払いも登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、讃岐の雨乞い踊りにも山伏が関与していたことが考えられるようです。

もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートが考えられるのではないでしょうか。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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江戸時代の村々の動きを見ていると、山伏の動きが視野の中に入ってきます。盆踊りや風流踊り、雨乞い、獅子舞などを村に持込プロデユースしたのも、山伏だったようです。時には、神社の神主の役割も果たしています。村役人の庄屋さんの相談相手でもあったような感じもします。村々で山伏は、どんな役割を果たし、待遇を受けていたのかについて興味を持っています。そのような中で、宇和島藩での山伏について記した文章に出会いましたので紹介します。
テキストは「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」です 

宇和地方では山伏のことを「お山さん」と親しみを込めて呼んでいたようです。
それでは、宇和地方には、「お山さん」がどのくらい、どこに住んでいたのでしょうか。明治3年6月宇和島藩戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、宇和地帯における修験・山伏は、宇和島藩だけで880人になります。これは神官・僧侶の人数よりも修験・山伏の方が多かったようです。各村落における分布状況は、宇和島図書館蔵の「天保五年午二月津島組宗門人高」によると、山伏は家数112軒に1人の割でいたことが分かります。比較のために土佐を見ると、江戸時代の初めには250人、幕末には150人位の修験者がいたことが史料から分かります。宇和島藩のお隣の土佐幡多郡を見ると、修験者の数は
本山派の龍光院に属する40人
当山派の南光院に属する20人
です。土佐藩と比べると石高や人口からしても、宇和島藩の880人は非常に多いことになります。どうして、こんなに多くの修験者たちが村々にいたのでしょうか。山高く、海深い宇和地方では、自然崇拝に根ざした山岳信仰の信者が多かったとしても、その比率が高いように感じます。その背景を、研究者は次のように推察します。
①宇和地方は、密教系寺院が領主祈祷寺院として栄えたこと
②対岸の九州国東半島の六郷満山寺院群の影響を受けて、それに匹敵する仏教文化地帯となっていたこと
③中世以来、土佐からの熊野行者の流入が見られ、修験者文化が根付いていたこと
それでは、宇和地方の修験者たちが、どのような形で地域に定着し、根付いたのか、また何を生業にして生活していたのか、山岳信仰の布教方法はどんなものだったのかなどを見ていきます。

最初は、鬼北町の日吉神社の別当を勤めていた金蔵院です。
 日吉神社は、道の駅「日吉夢産地」の北1㎞ほどの小高い丘の上に鎮座します。日吉の氏神として古くからの信仰を集めてきた鎮守さんです。もともとの元宮は、下鍵山の大神山山腹にあったと伝えられます。大神山はこのエリアの交通の要衝であったようで、近世初めに日吉神社は、日吉の地に下りてきたようです。日吉神社の神主は、神社の下にある山本家で、屋号は宮本(ミヤモト)というようです。旧九月二十日秋の大祭のヨイ祭の夜には、神主の家で大神楽がう舞われます。そのためこの家は、床も天井も神楽堂式で高く、とりはずし自由という珍しい構造だったようです。

愛媛県 日吉村 牛鬼(うしおに) 2007.11.11 : すう写真館
日吉神社の牛鬼
 一方、別当職にあったのが金蔵院の松岡家でした。

つまり、日吉神社の神官は山本家、山伏は松岡家という関係だったようです。金剛院も神職の家と同じように、日吉神社の下にあったようです。
「天保十五年四月上鍵山村仏閣修験世代改帳」には、次のように記されています。
  一、堂一軒
    但一丈四方            
    天井仏壇前格子戸二枚 杉戸二枚
    後板囲芽葺           
    宝暦元(1751)年建之
中略
  一、本尊
   弘法大師 座像石仏・長一尺
   千手観音 立像木像・長八寸         ・
   不動明王 立像木仏・長五寸
   庚申立像石仏・長七寸
   鰐口 一個

さらに松岡正志氏所蔵の「松岡家系」による松岡家由緒には、次のように記されています。

 藤原秀郷御在関東之時常州松岡留廉洸其子孫相続住手彼地意外松岡為氏後年至元亀天正之間天下大乱於干戈之中松岡氏族悉敗当此時数氏之家譜等悉之失矣。于時長院志学之歳也。漂泊而来遊手当国惣拾弐器学修験号増長院住于下鎗山村里人其才器推之為村長不得止許之爰有芝氏女迎之室生三男子及老年遂於下鏑山村終士人呼其地長院家地云又呼墓基長院之伝墓跡今猶在同村峠云所
意訳変換しておくと
 藤原秀郷が関東を支配していた頃、常州松岡には廉洸やその子孫がいて、その地を支配相続してきた。元亀・天正年間になって天下大乱となり、松岡一族は戦乱の中で敗者となり、家は途絶えた。この時に長院は十歳を超えたばかりであった。漂泊・来遊し修験者となった長院は、修行のために当地の下鎗山村にやってきた。里人は彼の才器を見て村長になることを求め、長院はこれを受けた。こうして長院は芝氏の娘を嫁に迎え、三男子を得た。老年になっては下鏑山村の終士人と呼ばれた。そして、この地は長院の土地と云われるようになった。長院の墓は今も村峠にあるという。

 ここからは、関東からやって来た修験者が村人に迎え入れられ、土地の有力者の娘を娶り、村の宗教的な指導者に成長していく過程が記されています。そして、次のような後継者の名前が記されます。
  元祖    昌院  年月日相知不 中侯                       
 二代実子 光鏡院  年月日相知不申候一
 三代実子 本復院  年月日相知不申候                        
 四代実子 大宝院  年月日同断
 五代実子 金蔵院安重 権大僧都大越家 延宝四(1677)年七月十九日滅
 六代実子 天勝院  官位同断 元禄十四年五月一日滅
 七代実子 金蔵院  官位右同断 享保五年一月十五日滅
 八代実子 天勝院大徳  官位右同断 元文元年七月十六日入峯 明和八年十月二十七日滅
 九代養子 光徳院安勝  官位右同断 寛延四年七月十六日入峯 寛政七年五月十八日滅
 十代実子卜大龍院安定  官位右同断 天明元年七月十六日入峯 寛政八年十一月二十七日滅
 十一代養子 光鏡院安隆  官位右同断 享和三年七月十六日入峯 嘉永六年六月二十四日滅
 なお十二代以降は他の資料によると次の通りである。
 十二代 天正院安経  天保十一年七月十三日入峯
 十三代 金蔵院安伝  万延元年七月十六日入峯 明治三十九年十一月八日滅
 十四代 真龍院安臭  大正三年一月二十日滅
ここからは松岡家が、金蔵院(鬼北町日吉)を守りながら17世紀末から大正期まで山伏を業としていたことが分かります。
 五代金蔵院安重は、権大僧都とあるので大峯に33度の峯入を果たしています。この地区の修験者(真言僧侶)の指導的な地位にあったことがうかがえます。その長男嘉右衛門は。母方の家系をつぎ上鍵山村庄屋職を勤めていますが、母方の姓芝氏を後に松岡姓に改めているようです。三男某は、吉田に移住して同じく松岡を名乗り、俗に吉田松岡を名乗り、吉田の名家となっています。
 日吉村の金蔵院が庄屋芝氏と縁故関係をもち、後には長男が芝氏を継いで、芝氏を松岡姓に改め、兄は庄屋職、弟は山伏職を世襲したことが金蔵院の史料から分かります。庄屋の家から嫁を貰うということからも、当時の山伏の社会的地位の高さがうかがえます。

外部からやってきたよそ者を、こんなふうに村の人たちはリスペクトを以て受けいれたのでしょうか?
  お隣の土佐は、遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。俗聖などの中にも土佐で、生を終える者も多かったようです。やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものがあります。また、熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしています。そのような影響が宇和にも及んでいて、熊野行者や高野聖など定着をリスペクトをもって迎え入れたとしておきましょう。

    次に法性院(旧城辺町字緑中大道 土居氏)を見てみましょう。
 一、大本山聖護院末 寛文三(1663)年正月十五旧 清徳開山             
 ニ、境内一三畝一歩  但年貢此高 一斗四升五合
 三、祈祷檀家 三百十二軒                            
 四、由緒 真宗寺末山称名寺は延宝年中廃寺となっていたが、本尊を智恵光寺に移したものを、後檀家の農夫市之助が一寺創立した。
 五、世代(城辺町真宝寺蔵過去帳による)                      
   龍泉寺殿前吏部良山常清大居士 寛永六年三月二十四日寂
   権大僧都清徳法印 享保六(1721)年七月二十八日
  同権大僧都海見法印 延享二年四月二十三日           
  同権大僧都義寛法印 宝暦十一年七月十五日
  同権大僧都義海法印 文化二年五月十四日
  同権大僧都義顕法印 天保三年九月一日
  同権大僧都義徳法印 安政五年十二月二日         
  同権大僧都法性院義快法印 明治三十一年十月九日
  同権小僧都法蔵院清胤 大正六年九月十五日
17世紀後半に開山された本山派の聖護院に属する山伏寺院のようです。320戸の檀家を持ちます。18世紀前半には権大僧都の位を得ているので、活発な修験活動が行われていたことがうかがえます。

観音岳(愛南町)再訪20191022 / KIRINさんの篠山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
観音岳(斗巍山)

 このお寺のあった御荘平野の北に、どっしりとした山容でそびえるのが観音岳(斗巍山)です。

この山は「北斗信仰」の霊山だったようです。その信仰を担っていたのが法性院を中心とした修験者たちで、御荘平野周辺では相当の信者を持っていたようです。法性院に伝わる「斗巍(観音岳)権現由来記」には、次のように記されています。
 抑此斗巍山ノ由来ヲタズヌレバ何レノ時 何ノ人乃開基卜云フコトヲ知ラ不。世俗二云フ戸木山モコヘ阿ルベケレドモトギノ音ヲ以ツラツラ考フル 爾斗巍ハ字茂ルシ如印トナレ。斗北斗ナリ。論給フ日北辰又大文志二日北極是也。
 巍ハ高キナリ。集韻二高ク大ナル見ヘリ。此峯二観世音ヲ安置シテトギ山一云フヲ以ツテ見口口、往昔開運ヲ祈ルニ此峯二北斗ヲ勧請シ奉ルニ北辰日星ノ擁護ヲ蒙ハ志願ヲ遂ケソナルベシ。北斗垂迫ノ感徳広大ナルヲ以ツテ御本地観世音菩薩ヲ安置シ奉ルナルベシ。
 経二日夕観世音菩薩威神シカ巍々如是卜。是ハ観音ノ威神カハ広大円満ナリテ無膜大悲心ナル義也。然ハ則北斗尊星ノ加護力与観音ノ大悲カト共二巍4トシテ広大ナル事斗巍ノ文字能ク当ルナルベシ。
 北斗星垂述アルヲ以ツテ権現ノ義亦可【口】因茲自今以後斗巍権現卜奉崇然シテ微運ノ人ハ正心滅意ニテ開運ヲ祈ラバ感応アルコト疑ナシ。尤感応ノ成否ハ信心ノ厚薄二依り利益ノ遅速ハ渇仰ノ浅深二従フ事ナレバ疎略ニシテ神仏ヲノ疑フベカラズ
 開運ヲ祈ル法
 何レノ処ノ人モ此ノ山ノ方二向ツテ毎朝早朝二清浄ノ水ニテ中水ヲ遣フ時
 開運印
定メ 大指ヲ伸恵ノ五指ヲ以ツテ左ノ大指ヲ握り指頭ヲ少シ出シ是ヲ北斗尊星ニナソラヘテ額二当テー心二販命北斗尊星予が運ヲ開カセ玉ヘト心ノ内ニテ至心二念ジテ左ノ掌ノ内二在ル滴ヲ戴テ嘗ル也已上
意訳変換しておくと
 斗巍山(観音岳)の由来については、いつ、だれが開山したかについては分からない。しかし、世間に伝わる話をつなぎ合わせて考えると「斗巍」という文字は「茂」という如印となる。これは「北斗」のことである。
 ある書には「北辰は北極也」と記されている。「巍」は高いことである。集韻には高くとは「大」とも見える。この高峯に観世音菩薩を安置して「巍山」と呼ぶ。往昔から開運を祈る時には、この峯に北斗を勧請して奉まつると北辰日星の加護を受けて、志願を遂げることができると云われる。北斗の感徳は広大であるので、本地観世音菩薩を安置するべし。
 2日後の夕に観世音菩薩は威神を巍々如是と発揮する。これは観音の威神で、広大円満で無膜大悲心である。さあ、北斗尊の加護力と観音の大悲カを共に受け、広大な斗巍の文字を受け止めるべし。
 北斗星の垂述が権現の来訪である。そして今ここから斗巍権現となって微運の人にも正心滅意に開運を祈れば効果疑いなしである。もっとも感応のあるなしは、信心の厚薄による。利益の遅速は渇仰の浅深によるものであれば、効果がないと神仏を疑ってはならない。
 開運を祈る法
 この山の方角に向かって、毎朝早朝に清められた水で中水を行うときに、開運印を決めておき大指を五指で左の大指を握り指頭を少し出して、これを北斗尊星になぞらえて額に当てー心に「北斗尊星よ 私が運を開かせたまえ」と心の内にで念じて、左の掌の中にある滴を戴くこと。以上

ここからは、当時の山伏達が北斗信仰を、どのようにひろげていったのかが分かります。夜空にかがやく北斗星と、その真下に高く大きくそびえる霊山・観音岳。霊山と観音信仰とを結びつけて、そこに「行とまじない」のスパイスを隠し味にして、民衆の信仰心を刺激した山伏達のやりかたはあざやかです。とくに「開運印」などという特殊な印を教えたことも民衆にとってはたまらなく魅力的におもえたでしょう。
天文編 | 知恵ブクロウ&生きものハンドブック | シリーズ | ECOZZERIA 大丸有 サステイナブルポータル
最後に、旧一本松村で研究者が見つけた資料から、山伏の活躍を見ておきましょう。

歴メシを愉しむ(63)】<br>今年の「夏越の祓」~アマビエと鱧で疫病封じ | 丸ごと小泉武夫 食マガジン

 夏越祓は6月26日に行なわれていたようで、期日の入った夏越祓護符が残っています。また歯痛には揚枝守を出しています。これは揚枝守と朱印した護符内に、木製の揚枝を入れてあります。歯痛のときは、この揚枝で痛い歯をつつくと歯痛がとまるといって配布していたようです。諸病安産にも、守札を出しており、山伏たちは阿弥陀信仰も盛んに弘めていたことが推測できます。

旧城辺町の加古那山当山寺の記録には、次のように記されています。
    中用 庄や 又惣 あげ日まち事
  一、山日待
  一、家祈祷 二体分  蔵米引おこし 壱典
  一、ふま 六升六合
  一、札米 一斗二升
        (以下略)
    五人組 清八・幸助・五郎・伝六
     役人  団右衛門
     横目  孫左衛門
        永代売渡証文
   申年十一月 日
     僧都村 正応院
     同   五人組岩治郎
     甲子講御世話方

「あげ日待」「山日待」について、歴史事典には次のように記されています。
「御日待」のことで、前夜から身を清めて、寝ないで日の出を待って拝むこと。「まち」は元来神のそばにいることであったが、のち待つに転意した。日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもので、1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的。講を作り部落で共通の飲食をします。

これは庚申信仰とも重なり、庚申講として組織されることもあったようです。村々で行われていた、御日待や甲子講にも山伏たちは関わっていたことがこの史料からは分かります。
市民ハイキング 篠山 ( 1065m 高知県宿毛市・愛媛県愛南町) 2014年4月25日(金) 晴れ しらかわ 記 天気予報では一日中晴れ。  早朝5時30分に丸亀を出発。 松山自動車道、宇和島道路、R4を通り、篠山トンネルを抜けて直ぐ左折し、狭い車道を ...

篠山は、土佐と伊予の両方から信仰を集めていた霊山でした。

 旧一本松村正木では、篠山権現に6月1日から8月1日まで「篠山権現の日参詣り」といって毎日登拝していました。部落の中から交替で、毎日二人が五穀豊熟・家内安全のため登山します。大きな杓子をかついで行き、「ナンマイドーナンマイドー(南無阿弥陀仏)」唱えながらとリレーします。2ヶ月の期間中に、2~3回は廻ってきたようです。そして、最後の日の8月1日に当たった人は火縄をもって登り、篠山神社神官から火をもらい下山して、各部落に火を分けます。部落では、タイマツにその火をともし各家に分け、最後にタイマツを焼いて終りです。これを火送り行事といいます。
 城辺町緑では8月1日に二人組で代参して、篠山の火を貰って、その火で村中を松明を持って廻っていたと云います。篠山権現も山伏が管理運営していたのです。篠山
篠山稜線上の国境碑
  以上をまとめておくと 
①宇和藩には幕末には880人の山伏がいて、さまざまな宗教活動を行っていた。
②中には、吉野や熊野での修行を積んで修験者として高い地位にある者もいた。
③山伏として高位の位を持つ者は、村社などの神社の別当を勤め、村でも有力者になっていた。
④ある山伏寺では、観音岳を「北斗信仰」の聖地として霊山化し、多くの信者を得ていた。
⑤篠山権現は、宇和地方の人々を集めた霊山で、ここを管理していたのも山伏寺であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」
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参考文献 愛媛県史

 


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