2愛媛霊山 皿が嶺jpg

 久万町の皿ヶ嶺山頂には、竜神の池があり雨乞いの聖地となっていました。
松山市窪野町から皿ヶ嶺・井内峠を経て石鎚山に至る行者道には、三六王子の石像が置かれています。ここも熊野行者の行場の一つだったようです。上畑野川の宝作にある大岳・中岳・小岳・権現岳も霊山で、大岳には行者のこもったという洞穴、権現岳には石鎚権現が祀つられています。

 旧広田村の豊峰権現山(440m)は「西の石鎚」とも呼ばれます。
2愛媛霊山 豊峰権現山2

石鎚山をまねて「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」が付けられ、山頂に豊峰神社(蔵王権現)が祀られています。石鎚信仰の行者たちが講員を組織して、地元につくた行場ゲレンデのようです。近くの白糸の滝は、冬の「寒垢離」の行場となっています。ここは石鎚講の先達を務めた山伏たちの修行ゲレンデもあったようです。
 
1 熊野信仰 出石寺3

 長浜町の南にそびえる出石山(金山-820m)について、

『伊予温故録』は
「世人は此出石寺山を矢野々神山なりといふ説多し 元と此山も矢野郷の内にして往古は此山に神を祭りたる故に矢野々神山とは稱せしなるへし 後ちには神祭も衰へ社殿も朽ち果てたる折柄 佛法の盛んなる世となり遂ひに此寺を建立する。」
意訳すると
「この山は、かつては矢野々神山と呼ばれていたという。矢野郷の神を祭っていいたので矢野々神山と云われたが、次第に神祭も衰へ社殿も朽ち果てた。仏教が盛んなる世となり、ここに寺院が建立されるに至ったという。

 この山も、もともとは霊山であったところへ、真言密教の修験者がやってきて出石寺が建立されたようです。そして山名も矢野々神山から出石寺山へと代わったようです。

1 熊野信仰 出石寺1

 この寺のもう一つの由来は、『宇和旧記』所収の「出石寺縁起」で、
養老年間に磯崎浦(現保内町)のひとりの漁師(翁)が、突然大地からわきでた千手観音、地蔵菩薩の像を見つけて、出石寺を創建したとというものです。また弘法大師修行の地ともされ、出石寺は信仰の霊域として山上に大伽藍を擁するようになります。

  なぜ、こんな山の上に寺院が建立されたのでしょうか。
①古代以来の霊山で、庶民の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝であること。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったようです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
1 熊野信仰 出石寺2

 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。

 出石寺の観音様の縁日は、四月と八月の一八日でした。
出石寺の望める地の人たちは、出石講を作って多くの人がお参りしたようです。大洲地方には
「おすなや つくなや おいづし詣りのべんとがしゃげらや 梅ぼしはだかで 飛び出さや」

というの民謡があるそうです。お弁当持参で人々は山を登ってきましたが、大洲市上須戒の打越部落の人は、やってくる参拝客に湯茶・杖・草履の接待をしました。
 
南予の山の名で多いのは、権現山です。
地図を見ると、南予には至る所に「権現山」が見えます。それだけ山伏たちの活動が活発であったことを物語っているようです。霊山とされていた権現山を列挙しておきます。
① 大洲市の神南山は古来、神南備山(かんなび)ともいい、文字どおり神の鎮座する霊山とされてきたようです。霊山は、修験者の行場となり、山岳寺院が現れ山岳信仰の拠点となっていきます。
② 大洲市森山の拝竜権現は、毎年三月三日に人身御供をしなければ、村にタタリをなすと伝えられます。
② 八幡浜市向灘地区の権現山(364m)は、天明六年(1786)に石鎚権現を勧請した西石鎚神社があり、雨乞いに霊験があるとされます。
④ 瀬戸町三机丸山の権現山(360m)にも蔵王権現の分霊を祀る石鎚神社があります。
⑤ 宇和町田之筋の大判山も石鎚権現を祀ります。
7月1日山麓にある窪部落の人々は、酒一升と煮豆を持って山頂に登り、石鎚権現を拝んでおこもりする。この大判山には、天狗が住み、月の1・15・28日に登ると難にあうといわれます。
⑥ 宇和島市の薬師谷奥の権現山に山高神社(大山積命、須之男命など合祀)があり、かつて麓の薬師谷の岩戸滝あたりで禊ぎをして登ってきたようです。宇和島市には大浦の権現山や三浦半島にも権現山があります。
⑦三浦半島の権現山(489m)は、嶽山とか嶽権現ともいい、その山頂に嶽神社が祀られます。
1 熊野信仰 三浦半島嶽神社

もともとは、明星寺と呼ばれていたようです。
貞和二年(1346)、九州の英彦山から一宮が電光のように飛来し、梨浦保福寺に入ったと寛永11年(1634)の棟札の裏に記されています。九州の修験道場英彦山の修験者たちの布教活動の跡がうかがえます。海を通じて、九州からの修験者も入り込んできているようです。
 一方、ここでも平家の落人伝説としてのオタケジョロの伝承があります。嶽山の祭りは今は廃れましたが、「嶽相撲」は近年まで残っていました。ふもとにある三浦大内、下波結出、津島町北灘国永の三地区が毎年、会場を廻り持ちで準備し、旧正月に開かれていたと云います。近世には、周辺の漁師達が漁事祈祷などを嶽山で盛んに行ったようです。漁師達にとって、この山は「山立て」でもあったのす。その祈祷を行っていたのが修験者(山伏)たちだったのでしょう。
 西海半島にも権現山がそびえています。この山には大蛇とか角のない山牛という怪獣が棲むと伝えられます。この山も漁民の霊山です。

 四国西南地域の山岳信仰のメッカは、篠山権現のようです
1 熊野信仰 篠山1

1065mの篠山にある篠山神社・観世音寺(現在廃寺)には、鰐口鐘の銘が伝わっています。そこには正長~応仁の年号があって、篠山信仰が中世からのものであることが分かります。
 伽藍開基記には「山上設(二)熊野三所権現廟(一)」

とあります。麓の正木御在所登山口の石燈籠に「篠山三所大権現」と刻まれているので、熊野系の山岳信仰であったこと分かります。
1 熊野信仰 篠山2

 明治初年の神仏分離で廃止された観世音寺は、態野系山伏の拠点だったようです。一方、山頂の篠山権現は、正木村(現一本松町)庄屋の蕨岡家が神職を勤めていました。篠山権現は、別当寺の観世音寺が明治2年に廃寺となったあと、篠山神社(祭神は伊弉冉命・事解之男命・速玉之男命等)と称して存続します。
 篠山権現の創始伝承は、次のような話が伝わっています。
 あるとき、熊野権現の神火が飛来し、蕨岡家の庭の老樟に輝いたので、その神を篠山にお祀りした。その老樟に篠山に棲む天狗がきて、蕨岡家の当主助之丞をからかった。助之丞がおこり天狗の翼を射落として、隠した。こまった天狗は、翼と引き換えに永代庄屋の家を盗難から守るという約束をして山にかえったという。これから当家には盗賊が入らず。「戸たてず庄屋」と呼ばれるにいたった。

ここからは次のような事がうかがえます。
①「熊野権現の神火」「天狗」などから、熊野行者の活動が篠山方面まで及んでいた
②蕨岡家自体が熊野行者出身か、
③あるいは蕨岡家が熊野行者との密接な関係があり「先達ー檀那」関係にあった可能性
④篠山先住の天狗(地神)を退治して、熊野信仰が取って代わったこと。
ここには、天狗にみたてた篠山の修験者(山伏)と蕨岡家の交流のありさまが描かれています。
1 熊野信仰 篠32

この伝承については、次のような別の話もあるようです。
弘法大師が蕨岡家に滞留し篠山権現で修行を行った。長逗留になったので、大師のたびたびまたいだ敷居には大師の霊が宿った。そのためこの敷居をまたいで盗みに入るものはいない。そこで「戸たてず」となった

 ここには、弘法大師伝説が付け加えられています。弘法大師が四国で流布されるようになるのは近世になってからです。四国遍路は、中世の修験者たちのプロの行場をつなぐ「辺路修行」から、近世の素人による札場巡りの四国巡礼に発展変化していきます。篠山も足摺から南予へ抜けていく四国遍路道のコースに入ったことによって、弘法大師一尊化の波が及んだことがうかがえます。

1 熊野信仰 篠山6

篠山を地元の人たちは、オササゴンゲンと親しみを込めて呼びます。
火災除、盗難除、農作病除、漁業・海上の守護神として庶民の信仰を広く集めました。3・6・10月の各18日には「オササマツリ」が開かれ、多くの登拝者がやってきたようです。
3月は正木村の蕨岡氏と土佐の山北村庄屋が主催して、観世音寺を開帳します。(安政五年の田原明章の篠山紀行)。6月は、火縄で神火を持って帰り虫送りを行います。ふもとの正木地区では6月1日から2か月間は、輪番で二人ずつが篠山日参をし五穀豊穣を祈願していたといいます。10月は、花取り踊りが奉納されました。
 年末には蕨岡家から三升一臼の鏡餅とお神酒が神社に献上されたようです。
 篠山山麓では、石鎚山と同様に産の忌みが厳しく守られ、お産後12日間火を別にし、一般家人の立入りを禁止していたようです。10月に行われる花取り踊りの関係者も9日間、別火、水垢離を行って参加しています。修験の行場で管理体制がしっかりしていた篠山では、こうした忌みやタブー(禁忌)の伝承が濃くまといついているようです。