地元では小松尾寺と呼ばれているこの四国霊場。
前後の雲辺寺や観音寺・本山寺・弥谷寺などに比べると、私には、もうひとつこの霊場の性格が見えてこないのです。別の言葉で言うと特色がないというか、印象に残らない札所です。立地条件も由来もよく分からないというのが正直な所でした。そんな中で、正式な調査報告書が近年に出ましたので、読んでみる事にします。お付き合いください。
まずは太興寺の歴史についてです
このお寺は、四国八十八ヶ所霊場第67番札所の寺院で、真言宗善通寺派に属し、山号は小松尾山、院号は不動光院、坊号は泉上坊とします。本尊は薬師如来で、弘法大師の作とされます。
現在配られている『説明書』には次のように記されています。
「天平14年(742)熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として現在地よりも約1km北西に建立され、延暦11年(792)大師(空海)の巡錫を仰ぎ、弘仁13年(822)嵯峨聖帝の勅により再興されたと伝えられています。」
一方、大興寺所蔵の『小松尾山不動光院大興寺遺跡略記』には
「当山は七堂伽藍の霊跡で、弘仁13年(822)に弘法大師によって草創された」とあります。
どちらも弘仁13年の弘法大師の関与を記します。
太興寺周辺の字切図
また、字切図に「大興寺」の小字名や、隣接して「鐘鋳原」の小字名が残り、その周辺から古瓦が出土しています。このことから『説明書』にあるように、元の大興寺は現在地よりも約1km北西にあったことがうかがえます。元の大興寺と推定される周辺からは、十三葉細素弁蓮華文軒丸瓦、八葉素弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦などの古瓦や鴎尾も出土していて、時期は白鳳期とされています。お寺や神社は、古くからその地にあって動かないという意識が私の中にはありました。しかし、いろいろな史料を読んでいく内に、お寺は頻繁に動いていることが分かってきました。
現在の「学校」が町村合併の跡で、頻繁に統合移転を繰り返している姿とダブってきます。
このような言い伝えや縁起、出土遺物から研究者は次のように考えているようです。
①現在地よりも、北1キロに古代の大興寺は建立された②弘法大師の創建か、再興かは別にして弘法大師と係わりのある寺院であること③「大興寺」の小字名が残る区画白鳳期の古瓦が出土していることから、白鳳期に大興寺が建立されていた。④これを裏付ける資料としては、平安時代後期(11世紀中後半頃)の作とされている割首としない一木割矧造の本尊薬師如来坐像がある。
この地は、阿讃山脈の手前にそびえる菩提山(標高312.0m)から舌状に三豊平野に延びる低い丘陵上にあります。ちなみに菩提山は、条里制の基準線になった古代からの霊山でシンボル的な山だと考えられます。
この付近の古代豪族として名前が挙がるのは、まずは讃岐忌部氏です。
忌部氏については、以前に述べましたので詳しくは、そちらをご覧ください。ここでは、忌部氏の氏神が粟井神社であること、母神山の群集墳の一部も忌部氏のものと考えられていることです。そして、古代苅田郡の南部は忌部氏によって開発されてきたとされています。その忌部氏の氏寺と考えることができそうです。粟井神社ー母神山ー太興寺というトライアングル地帯が忌部氏のテリトリーではなかったかとも思えてきます。
そして、そこから見上げる菩提山、さらに上にある雲辺寺は霊山として信仰の対象であったという想像も生まれます。その霊山の行場をやってきた熊野行者が廻り始める。それは、観音寺から七宝山 → 弥谷寺寺 → 我拝師山(五岳) → 善通寺への辺路行道とつながっていく。その四国辺路を行道する若き日の空海の姿があったのかもしれません。想像力が私の中では、生まれ育っていきます。妄想をたくましくして「忌部氏の古代寺院 空海の辺路修行」という言葉をインプットしておくことにします。
太興寺の出発点となった古代寺院は、現在地ではなかったようです。
忌部氏については、以前に述べましたので詳しくは、そちらをご覧ください。ここでは、忌部氏の氏神が粟井神社であること、母神山の群集墳の一部も忌部氏のものと考えられていることです。そして、古代苅田郡の南部は忌部氏によって開発されてきたとされています。その忌部氏の氏寺と考えることができそうです。粟井神社ー母神山ー太興寺というトライアングル地帯が忌部氏のテリトリーではなかったかとも思えてきます。
そして、そこから見上げる菩提山、さらに上にある雲辺寺は霊山として信仰の対象であったという想像も生まれます。その霊山の行場をやってきた熊野行者が廻り始める。それは、観音寺から七宝山 → 弥谷寺寺 → 我拝師山(五岳) → 善通寺への辺路行道とつながっていく。その四国辺路を行道する若き日の空海の姿があったのかもしれません。想像力が私の中では、生まれ育っていきます。妄想をたくましくして「忌部氏の古代寺院 空海の辺路修行」という言葉をインプットしておくことにします。
太興寺の出発点となった古代寺院は、現在地ではなかったようです。
「元の大興寺は現在地よりも約1km北西」ということで、地図で確認しておきましょう。現在の場所で言うと、国道377号の南側の丘陵の突端になります。現在はここに、小さな庵が建っています。ロケーションは最高です。一ノ谷池の向こうに三豊の平野が広がり、その向こうには七宝山の連なりが望めます。
ここは古代寺院の建立地としては納得のいくロケーションです。
太興寺に関する中世の資料は、あまりありません。
中世の遺品としては、
①鎌倉時代後期文永4年(1267)銘のある藤原経朝筆の「寺号扁額」
②建治2年(1276)の銘のある「木像天台大師像」「木像弘法大師像」、
③鎌倉時代末期康永3年(1344)6月26日の銘のある「青蓮院尊円親王の書状」
が所蔵されています。
①の「寺号扁額」は木額で、正面に「大興寺」と刻み、背面には「文永四年丁卯七月二二日丁亥書之従三位藤原朝臣経朝」と刻まれており、1267年に藤原経朝が奉納したものです。
まず最初に紹介したこの寺の説明書には
「熊野三所権現鎮護のために東大寺末寺として・・・ 建立」
とありました。この寺が、熊野権現の別当寺として建立されたことが記されています。それを裏付けるように、現在の本尊の薬師如来は熊野権現の本地仏でもあります。
さらに『四国偏礼宣揚記』の挿絵では、石段正面に薬師堂があって、大師堂と熊野権現並んで祀られています。太興寺は、その石段の下にあります。ここからも熊野権現が本尊で、その本地仏を祀る別当寺が太興寺だったことがうかがえます。中世の太興寺は、熊野社と本地堂(薬師堂)を中心にして、これに奉仕する供僧別当が集まり住む僧侶集団全体が大興寺と呼ばれたようです。どちらにしても、太興寺も神仏習合のお寺で、初期には熊野行者の役割が大きかったのではないでしょうか。
もうひとつ太興寺で、注目しておきたいのが菩提山です。
粟井村誌(昭和24年)の「粟井村有名地図」によると、菩提山頂上に「無量寺跡」、「佐々木神社跡」があったと次のように記します。
「無量寺跡」については、粟井町竹成にある薬師堂の沿革に「菩提山無量寺は元天台宗であったが天正の乱にかかりお堂をはじめ全部焼けてしまい、本尊と脇立(行基菩薩の作)を寺よりやっと持ち出すことが出来た。その後天和三年竹成薬師堂を建ててここにおまつりした。」とある。また、廃寺の跡として菩提山無量寺は、「菩提山の上にあり、其の開いたはじめははっきりしない。別荘(土佛庵)の釈迦像、竹成の薬師像(薬師堂)はこの寺にまつってあったものといわれる。徳賢寺由緒の中に合田小三郎、年をとって天台宗の菩提山無量寺に入って僧となり重海という。その子善阿は徳賢寺を開いた人である。その後土佐の長宗我部元親によって焼きはらわれた。」とある。
東西幅が約142.0m、南北幅約20.0mの東西に長い平坦地があり、やや西寄引こ北方向に東西幅約15.0m、南北幅約10.0mの突出部を持つような、ちょうど凸状を呈する平坦地が確認できる。(中略)
しかし、礎石や瓦片などの「無量寺跡」と結びつく痕跡は確認できなかった。大興寺から菩提山間及び菩提山山頂で明確な遺構を確認していないが、「寺岡」から続く「蓮花」「れんごう」「奥蓮花」「菩提」などの小字名や「無量寺」が天台宗であったことから、大興寺との関係が推測できる。
本日はこれまで。中世まで太興寺のまとめです
①太興寺の起源は、白鳳期の古代寺院にまで遡れる可能性がある②古代寺院の建立地は現在地よりも北西へ1㎞③中世には天台・真言のふたつの学問寺として「真言宗24坊、天台宗12坊の七堂伽藍」を誇った総合寺といわれるほど隆盛をきわめたとされるが資料的な裏付けはない。④中世の太興寺は、熊野権現の別当寺であり、修験道の社僧達の拠点でもあった。
次回は、近世の伽藍復興について見ていこうと思います。