瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:粟島

 以前に庄内半島の栗島に、20軒を超える廻船問屋が軒を並べていたこと、その中の安田屋には、金毘羅大権現の護摩札をはじめ多くのお札が残されていることを、次のようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

 今回は「アミヤ(網屋)」の神棚と御祓箱を見ていくことにします。
テキストは 「織野智子     伊勢御師の御祓箱―粟島旧廻船問屋「網屋」に伝わる伊勢信仰道具 民具集積NO19号(2017年)」です。「アミヤ(網屋)」についての予備知識は、以下の通りです。
A「アミヤ」は、安永7年(1778)の文書に網屋三右衛門が出てくるのが初見。
B 徳茂姓で、他に3軒あって「ジュウエ」・「スケゴ」・「モトョムサン」があった
C 徳重姓の「アミジ」、「カンジュ」の屋号の家は徳茂家の親戚
栗島の廻船問屋の神棚が大きいことは、以前にも紹介しましたが、瀬戸芸会場となっていた旧廻船問屋の神棚を見ておきましょう。

粟島 廻船問屋
粟島の旧廻船問屋旧宅
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
座敷の上の神棚

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場

①県指定の船絵馬がある伊勢神社を管理する伊勢屋は、九社(神殿数)で幅360㎝、
②徳重家の神棚は十一社で幅360㎝
③「網屋」徳茂家の神棚は、屋根の中央を高くした屋根違いの十三社様式で、幅300㎝
「粟島の神棚(瀬戸内海歴史民俗資料館)」
 「粟島の十三社の神棚 (徳茂キクノ資料:瀬戸内海歴史民俗資料館)

見てまず感じるのは大きくて、横に長いということです。ここに収められているものを確認しておきます。
1 神棚 屋根は中央を高くした屋根違いの十三社様式、神殿も十三。
2 軸 「天照皇大神、八幡大神、春日大神」軸
3 御祓箱 「多賀神社 青龍山般若院 壽命延御守」
4 護摩札 「安政三年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
5 護摩札 「安政五年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
6 護摩札 「金峯山櫻本坊奉修 大峯山上護摩供養祈□」木札
7 御祓箱 「正一位兼道大明神」
8 御祓箱 (紙札等入)
9 玉串 (出雲教大神玉串)
10 護摩札「出雲教大神海上安全守護」木札
11 御師小箱「太神官御師南倉」
12 紙札 「住吉大神宮」
13 紙札 「住吉大神宮神楽」
14 紙札 「住吉大神宮御璽」
15 紙札 「住吉大神宮御祈祷御守」
16 紙札 「水天宮御守」
17 紙札 「厳島神社御守護」
18 小祠 「金毘羅宮御守」
19 小厨子(角箱に御幣・鏡・五銭)
20 「八天杓□□始御前祓」入箱「八天杓□□始御前祓」
21 小祠
22 小祠
23 恵比須(陶製)
24 大黒(陶製)
25 厨子(妙見山本尊厨子)
26 妙見山曼荼羅(板に貼り付けられた紙曼荼羅「摂州能勢郡野□妙見山 □衆生故無量神力 南無妙法蓮華経」)
27 御祓箱(御師祈祷封箱「揚舩御祈祷」)
28 御祓箱(祈祷封箱「伊勢永代五千度御祓」)
『収蔵資料目録7』香川県立ミュージアム
廻船問屋が信仰し、お札などをもらっている寺社が多いことに驚きます。解説には次のように記します。
「豪華さを競った結果なのか、廻船という性格から各地の御神体を納めるために大きくなったと理解すべきか」

私が気になるのは、この徳茂家の神棚には金毘羅大権現のものは、18の「御守」しかありません。以前に見た「安田家」に比べると対照的です。家によって、海の神様として信仰する神仏が異なっていたのでしょうか? 廻船問屋たちが金毘羅大権現一色の信仰ではなかったことを押さえておきます。

ここで研究者が注目するのが「御祓箱」です。御祓箱とは何なのでしょうか?
 
伊勢のお札と御祓箱
一番左の箱が「お祓い箱」で、中に一万度の祓いをしたお札が入っているようです。これについて喜多村庭『嬉遊笑覧』巻之七(文政十三年1830)には次のように記します。

「伊勢の御師が人のもとに送る御祓一万度といふ事、仏家の千部万部の読経にならひ、又年の暮に僧徒が檀家へ巻数を贈ることにならへり。」

意訳変換しておくと
「伊勢御師が人もと(檀那)に送る「御祓一万度」というのは、仏教僧侶の千部万部の読経に習って、年の暮に御師使者が檀家へ巻数を贈ることである。

御祓箱.jpg

伊勢御師の御祓箱(山東京伝の『新造図彙』にある図)


現在の伊勢大社の神宮(御祓)大麻

御祓大麻を『広辞苑』で調べると次のように記します。
御祓 災厄を除くために、神社などで行う神事。また、そのお札。はらえ。
大麻 伊勢神宮および諸社から授与するお札。

『日本国語大辞典』には
御祓 特に伊勢神宮で八度置神事(やつらおきじんじ)の祓をして毎年全国の崇敬者に配った大麻やお札。おはらいぐし。

平凡社東洋文庫『東都歳事記』にある朝倉治彦氏の註には、次のように記します。
太麻 お祓の札。必ずしも伊勢神宮授与のみをいうわけではないが、伊勢のが著名であった。
大麻は、御師が旦那へくばるもので、神宮とは関係なかった。箱祓と剣先祓との二種がある。
伊勢暦は、六折金扉暦、金扉など各種があるが、大抵は上紺、並紺であった。

「大麻=お札」のようです。しかし、幕末の時点では「御祓」と「大麻」は別物であったと次のように考える研究者もいます。
「大麻」は御札、「御祓」は祓えに使った串を紙に包んだもの(剣先祓)
又は箱へ入れたもの(箱祓)、
伊勢大麻(お札)と御祓箱と伊勢御師の関係を、補足・整理しておくと次のようになります。
「御祓箱」というのは、もともとはお祓いの験や神官からいただいた薬種や暦などを入れる箱のことでした。この御祓箱を、もってきたのは伊勢御師です。彼らは諸国の道者(檀那)の家を一軒ずつ訪問し、お札やお土産を配布し、初穂料を集め、伊勢家のお参りを勧誘しました。そういう意味では、御師は下級神職であり、旅行斡旋業を副業としていた者とも云えます。御師は伊勢神宮の内官と外宮に居住エリアを形成して、宇治に190、山田に480ほどいたようです。
 伊勢御師から御祓大麻などを受取り、初穂料を納めるのが信者(道者:旦那:檀家)です。御師にとって、道者が布教地盤となり、その名簿リストも売買対象となりました。讃岐では高松周辺や、三豊・那珂・多度郡の道者名簿リストが残っていることは以前にお話ししました。

粟島の「アミヤ(網屋)」に残されていた御祓箱を見ていくことにします。
粟島 「一万度御祓大麻」御祓箱

 粟島のアミヤ(徳茂家)の「一万度御祓大麻」御祓箱
内箱(真ん中)と外箱(右)について、次のように記します。
①上書中央に「一万度御祓大麻」、その左行に「揚松御祈祷」、下に「御師 南倉」の墨書
ここに記された「揚船御祈祷」については、次のような説があります。
A 船たでなどのメンテナンスのために船揚げをしたときの特定の析祷
B 「船下ろし」に対して「揚船」だとしたら、廃船して解体する際の析祷
どちらにしても史料がないのでよく分かりません。
左端は「祓串」といって御師が使用した祈祷の道具です。幅1cm弱、長さ20㎝ほどの板状のもの数十本が一括りにされています。棒の先には紙垂や麻苧がつけられたものを大麻(大幣)と云いますが、それが小型化したものとされます。大麻と同じように、罪や械れを祓う神聖なものとして扱われてきました。この祓串を納めた箱が「御祓箱」で、「御祓大麻」や「お祓いさん」と呼ばれました。ありがたい御祓箱ですが、新年がくると新しいものと取り替えられます。そこで「祓い」を「払い」(邪魔・不要なものを取り除く)にかけて「お払い箱」の別称でと呼ばれるようになります。そして今では「お祓い箱」といえば、「用済み」の意味で用いられるようになっています。

 もうひとつ御祓箱はあります。これには「五千度御祓大麻」とあり、内箱と外箱からなります。
粟島 「一万度御祓大麻」御祓箱内側
外箱(写真3)はヒノキで、本体と蓋からからなります。表面には「伊勢永代 五千度御祓」、裏面に「此器 安政三(1856年)卯星三月下旬調之」と記されています。内箱(写真2)は紙で封印され、上書きに「五千度御祓大麻 御(以下破れ)」とあります。中には細い祓串が五本(写真4)あります。「五千度」「一万度」というのは祈祷の回数のことだと研究者は指摘します。祈祷は、より多く行えば行うほど霊験が増すと信じられていたようです。

粟島 厨子に入る御祓箱

 埼玉県の伊勢殿神社に、御師が御祓大麻を祈願した机があります。
折り畳み式 八足台 八足案(木印) 高さ1尺1寸6分×巾1.8尺 高さ35cm×巾55cm 八脚案 折りたたみ式 祖霊舎 神徒壇 お供え用の机 日本製
八足案

「八足案」といい、「嘉永五」(1852)の墨書銘があります。八脚の机は組み立て式で、小箱に収納でき持ち運びができます。机上に紙幣と管麻を挟んだ八針串を立て、その前に銭切箱という96枚に切った小片の紙を入れた箱を置きます。板面下の左右に張られた紐には板きれが通され、一定回数拝むとその板きれを移動させ、祈祷の回数をカウントとするしくみです。最下段の脚には八本の祓串が立てられています。こうして、祈祷の数を数えていたようです。

 御師南倉とは何者?
御祓箱が粟島の廻船問屋「アミヤ(網屋)」にあるということは、伊勢御師の南倉太夫が栗島に来ていていたことを裏付ける史料になります。

粟島 伊勢御師南倉

御札箱に入った上の紙製小箱 にも「太神宮 御師南倉」の墨書があります。前々回に見た『白米家文書』からは次のようなことが分かります。
A 天文20(1551)年に、南倉太夫は相模国の道者をある商人に売り渡した
B その後、寛永9年(1642)に、その商人から白米大夫が道者名簿を買い受けた。 
 粟島にやってきていた南倉氏を見ていくことにします。
①南倉氏の旧名は足代氏
②足代氏は、北氏などとともに異姓家(権禰宜の家)の都市地下人で山田三方の重要なメンバー
③足代氏は正遷宮の資金を提供したことで、異例の渡会姓まで獲得
④南倉太夫の檀那の拠点は近江国で、蒲生・甲賀・愛知郡・神崎郡の一部
さらに『愛媛県史』「学問・宗教編」には、明治初年の「伊予廻壇伊勢御師一覧」が載せられていて、そこからは足代式部大夫が、「越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、温泉郡、宇和郡」に檀那を持っていたことが分かります。こうして見ると、足代氏は伊予宇摩郡に連なる西讃地方に檀那たちを持っていたことが考えられます。

  以上をまとめておきます
①粟島には廻船問屋が20軒ほどあり、廻船が寄港する交易港であった。
②粟島の廻船問屋は、競うように神棚を大きくし、そこに多くの神社を祀り、お札を集めた。
③その中に、伊勢御師南倉大夫の残した御祓箱がある。
④ここからは、南倉大夫が粟島の廻船問屋の面々と檀那として、お札配布を行い、初穂料を集めていたことが分かる。
⑤南倉大夫は、伊予にも多くの檀那たちを確保していたことが檀那リストからは分かる。
⑥伊予に続く三豊・多度・那珂郡も、南倉大夫のテリトリーであったことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「織野智子     伊勢御師の御祓箱―粟島旧廻船問屋「網屋」に伝わる伊勢信仰道具 民具集積NO19号(2017年)
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まずは粟島の廻船業から船問屋への転進ぶり見ていくことにします。
 享保期になると塩飽廻船が衰退化していくことは以前にお話ししました。それと入れ替わるように、台頭してくるのが粟島の廻船業者です。彼らは、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、最初の最盛期を迎えます。さらに、天明~文化期になると、他国船との競争が激化してくる中で、粟島廻船は野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎えます。この時期に、「資本蓄積」が行われ、廻船の操業ソフトを身につけていきます。それを史料で見ておきましょう。

A 安永五年(1776)の越後の沼垂湊(ぬったりみなと)における越後新発田藩(しばた)の大坂回米船の史料からは、粟島廻船の回送が19艘、丹後湊宮(京都府久美浜町)が18艘で、塩飽広島5艘、摂津大坂4艘、讃岐浜村(高松市庵治町)3艘

B 浜田外ノ浦の客船帳からは、粟島の船問屋・船持には、舛屋・竹崎屋・高島屋・木曽屋・大屋・大和屋・麦屋・岡田屋・浜屋などがあり、小豆や米を売り、干鰯・銅・材木を買い込んだこと

C 隠岐の島前の浦郷の問屋には、粟島の潟地区の伊勢神社奉納船絵馬に粟島の「伊勢屋庄八 末福丸」(20反帆、1400石積)の入港が記録されていること

D 浜田の中村家の客船帳によると、粟島の大和屋福市丸、木曽屋住吉丸なども記録されている。


このような中で、金毘羅大権現の多度津街道の起点である高藪町に、鳥居が姿を現します。

3 高藪町の鳥居
粟島廻船仲間の寄進の鳥居 現在は高灯籠公園

そこには次のような字が見えます。
「天明二(1782)年」「奉寄進 願主粟嶋廻船中」「取次 徳重徳兵衛」

ここからは、粟島の廻船仲間が庄屋の徳重氏の取次で金毘羅大権現へ奉納したことが分かります。場所は、もともとは、多度津街道の起点(ホテル紅梅亭の東側川沿い)に建てられたものです。今は高灯籠に移されています。これに続いて、各街道の起点に鳥居が姿を見せるようになります。その先駆けとなったのが粟島廻船中の鳥居です。以前に見た粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札も寛政7(1795)年のものが一番古いものでした。鳥居の寄進前後から粟島の廻船問屋の金毘羅詣では始まると私は考えています。

この他にも粟島廻船の全国展開を示す石造物として、寛政元年(1789)に粟島の廻船仲間が、海上安全信仰の神社として大阪の住吉神社に常夜燈を寄進しています。その銘には「讃州粟島廻船中」ではなく、単に「粟島廻船中」と記されています。塩飽廻船と同じように国名がなくても全国に通用するという自負心が現れているように思えてきます。

 しかし、文政期になると、日本海の北前船を中心とする他国船との競争に敗れ、幕末期には粟島船籍の廻船もいなくなります。西讃府志には、五百石を超える船は2艘しか記録されていません。しかし、「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島水有家居多尤豊に見ゆ。島人多く摂坂の大船にと乗して、北国西国に揖取す。」
意訳変換しておくと
「粟島は海に囲まれた島であるが家も多く、人々の生活も豊なように見える。島人の多くは畿内のの大船の乗組員として、北国や西国に出向く。」

ここには 粟島が北前船による北海道と大坂を結ぶ海上ラインの重要な寄港地となり繁栄し、豊かな生活を送る者が多かったこと、そのため廻船を失った粟島の船主たちは、問屋・仲買人に転業し、粟島寄港の北前船と交易を続けます。また大坂や函館などの廻船に水主・沖船頭として雇われるようになり、多額の金銭を粟島にもたらします。それは、明治になって鉄道網が全国に伸びていくまでは続きました。
幕末に成立した「西讃府志」には、粟島のことが次のように記されています。

「村高174石余。村の広さは東西一里一町、南北二〇町、回り百五十町、丸亀から海路四里、東は志々鳥まで五十町、西は積浦まで三十町、波戸長さ四十間、加子六十戸、耕地四十四町三反余り。(内畑三十九町余、屋敷 町一反余).戸数三百、人口千三百、舟五百石二、二十石二十八、一挺舟五、牛五十。泉は船隠井、島は阿島(周り十九町)、尾元島(周り十町)、神社は粟島大明神、馬木八幡宮 他祠十、寺院真言宗梵音寺

幕末には、五百石船は粟島には2艘しかなく、20石船が28艘です。粟島は塩飽水軍の流れを汲むようで、秀吉による朝鮮出兵・文禄・慶長の役にも水夫として従軍していますし、島原の乱にも塩飽・小豆島の水夫とともに参加しています。そして、「人名」が住む島でした。そのためか江戸初期以降、水夫の多くは海運業に従事し、北前船で北海道へ塩を運び、箱館に出張所を置いています。粟鳥伊勢神宮には航海の安全を祈って、多くの船絵馬が奉納されています。
 さらに文政十年(1837)には島四国八十八ヶ所の石仏が開眼され、大坂達船中が一船一基の本納を行っています。幕末の文久3年(1863)には、幕命で箱館奉行所の水野正太人が軍艦で航海術・運用術の訓練のために樺太・シベリア海の北洋航海を行いますが、その際に栗島出身の中村長松・紅屋清兵衛・枡屋徳太夫の三名が乗船しています。その詳細な記録が「黒竜江誌」として残されています。
 粟島の特色は先祖が塩飽衆であることから、漁師よりも加子が多かったことです。

粟島1
スクリューのように島が連結した粟島 隣が志々島
また、粟島の地形はスクリューのように島が連結し、南面の海は島や半島に囲まれていて風の影響をあまり受けません。 明治14年に開拓使が作成した『西南諸港報告書』には、次のように記されています。(意訳)

「愛媛県下讃岐国三野郡粟島港ハ面積凡半方里島ノ周囲四里、船舶碇泊ニ便ニシテ、風潮二関セス、帆フ張リテ自在二出入スヘシ」
意訳変換しておくと
「愛媛県下(当時は香川県は愛媛に併合中)讃岐国三野郡の粟島港は面積半方里で、島の周囲は四里(16㎞)、船舶の停泊に便利で、風や潮流に関係なく、帆を張って自由に出入りができる」

ここには粟島港は、西風・東風もあまり受けないので、自由に出帆でき「船舶碇泊」に適していたことが記されています。そのため陸上から詫間に集められた物資は須田港から渡舟に荷物を積みかえて、栗島に運び、さらにそれを廻船に積せるというシステムが生まれます。また、栗島だけでなく、東隣の志々島も潮の干満の差が大きく、千潮時には船底の修理や虫食いを駆除する「船たで」の適地で、その作業所があって多くの船が利用するために入港していたようです。こうしてみると粟島は、詫間の須田港や志々島などと併せて、瀬戸内海交易の廻船の集結センターとして機能していたことがうかがえます。
 粟島で船泊り(港)と呼ばれるところは、本浦の入江と、馬城(うまき:長浜側)でした。
島内の廻船は本浦、外来船は、馬城に停泊するという棲み分けが行われていたようです。ただし、波止場は、天保年間でも長さ40間(約72m)と記録されているので、接岸施設はなく沖掛りの廻船が多かったようです。馬城(木)地区については、「西讃海陸予答」に次のように記されています。

「馬木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

ここからは粟島廻船が活動していた享保期よりも多くの廻船が来港して賑わっていたことが分かります。その背景には、船乗りたちから評価が高かった港であったことが挙げられます。
馬城海岸の波打ち際には、「享保16(1731)年銘の馬城八幡神社の鳥居が建っています。
粟島馬城神社の鳥居
粟島の馬城八幡神社の鳥居

これは、粟島では最も古い寄進石造物です。この寄進者は「島中」つまり粟島の氏子一同でした。ところが、11年後の寛保二年(1742)2月になって、粟島神社の常夜燈寄進者の中に初めて「舷頭中」および「大坂 讃岐屋勘介」、(馬城)八幡神社の常夜燈寄進者の中に「大坂 讃岐屋勘四良」の名前が出てきます。ここに登場する「讃岐屋勘介」と「讃岐屋勘四良」は同一人物で、大坂新大黒町の船宿で、粟島と積浦廻船の定宿でした。そのためお得意さんの粟島の神社に寄進したのでしょう。粟島の神社へ、船頭仲間や大坂の船宿からの常夜燈寄進が1740年代という早い時期に始まったことに研究者が注目します。その背景には、馬城にあった湊が「近国第一の湊」で、多くの廻船の寄港地であったことも背景にあるようです。
 明治初期の栗島の取扱品目を見ておきましょう。
①積出し品の最大商品は、煙草が5割、塩が約4割
②塩を坂出から、煙草を阿波・伊予国、茶を阿波・土佐から輸入し、北海道に転輸する拠点として機能
③北海道からの物産は大部分が鯡〆粕(にしんしめかす)で、他に数の子などが栗島港に入り、小型船に積み替えられ、三野・豊田郡や岡山へ転販
昆布ロードがもたらした明治維新と食文化│54号 和船が運んだ文化:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

当時、四百石積以上の北海道へ向かう船は約五百隻いたとされます。大坂で必要な貨物を買積して、各地に寄港しながら北海道へ向かいました。粟島港には毎年2月から4月までと9月から11月までの春秋2回、やってきます。春の滞在期間は前年に大坂で売買契約を結んだ貨物を購入するためで、秋季の滞在は北海道から廻送してきた産物について価格を偵察し、阿波や岡山に向けて売り出すためです。
 北海道産物の千鰯などは米・綿・甘庶の肥料で、これがないと綿花の生産量は増えませんで。そのため綿花栽培地の大坂などで大量に購入されるようになります。そのための在地の肥料問屋が登場するのもこの頃です。
 粟島には、かつての船問屋の屋敷跡が豪壮な石垣とともに残っています。かつては、そこに通じる道には石が敷き詰められていたようです。これは、北前船で帰島した水主が、正月前後に船持や船問屋のために敷き詰めたものと伝えられています。
以上を整理しておきます
①粟島は塩飽水軍に属し、人名の支配する島として自治権を獲得した。
②塩飽廻船が享保年間に衰退していくのに入れ替わるように、粟島廻船が台頭する。
③粟島廻船は、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、
④天明~文化期になると、野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎える。
⑤この時期に「資本蓄積」と廻船問屋のノウハウを身につけて、廻船業から廻船問屋へと転進する。
⑥その背景には「西国一と称された粟島港」の存在がある。
⑦こうして18世紀後半には、金毘羅大権現への鳥居寄進などその繁栄の痕跡を各地に残している
⑧明治になっても繁栄は続くが、鉄道網の整備とともに北前船の活動が衰え、粟島にも廻船が立ち寄らなくなって衰退していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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