瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:綾子踊り


讃岐雨乞い踊り分布図
佐文綾子踊り周辺の「風流雨乞踊り」分布図
   前回は、綾子踊りが三豊南部の風流雨乞踊りの影響を受けながら成立したのではないかという「仮説」をお話ししました。しかし、実は佐文は、滝宮への踊り込みを行っていた七箇念仏踊りの中心的な村でもありました。それが、どうして新たに綾子踊りを始めたのでしょうか。今回はその背景を考えて行きたいと思います。
 近世はじめの讃岐一国時代の生駒藩では、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、次の5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。
 以前にもお話ししたように、これらの組は、一つの村で編成されていたわけではありません。中世の郷内のいくつかの村の連合体で、構成されていました。その運営は中世の宮座制によるもので、役割も世襲化されていました。それが各村の村社に踊り奉納を終えた後に、7月下旬に滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいたのです。村ごとの村社がなかった中世は、それが風流踊りや芸能の郷社への奉納パターンでした。それを江戸時代の生駒家が保護し、後の髙松松平家初代の松平頼重の保護・お墨付きを与えます。しかし、その後の幕府の方針で、華美な踊りや多くの人々が集まる祭礼などは規制がかけられるようになります。そのため庶民側は、「雨乞のための踊り」という「雨乞踊り」の側面が強調し、この規制から逃れようとします。ここでは、滝宮念仏踊りは、もともとは時衆の風流念仏踊りの系譜を引くものであったことを押さえておきます。

滝宮念仏踊り 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会

ペリーがやって来た頃に編纂された讃岐国名勝図会に描かれた滝宮念仏踊りを見ておきましょう。
①正面が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の拝殿です。
②その前に、有力者達が座っています。その前に地唄方が並んでいます。
③周囲には南無阿弥陀仏の幟が建ち並びます。
④その下には鉦・太鼓・鼓・法螺貝などの鳴り物衆が囲みます。
⑤その周りを大勢の見物人が取り囲んでいます。
⑥真ん中に飛び跳ねるように、踊るのが下司(芸司)です。
ここには年ごとに順番でいくつかの踊り組が、念仏踊りを奉納していました。それでは、どうして周辺エリアの村々が滝宮に踊り込み(奉納)を行っていたのでしょうか?

滝宮念仏踊りと龍王院

そのヒントになるのがこの絵です。先ほどの絵と同じ讃岐国名勝図会の挿絵です。
①手前が綾川で、髙松街道の橋が架かっています。橋を渡って直角に滝宮神社に向かいます。ここで注目したいのが表題です。
②「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは京都の八坂神社の分社と滝宮神社は称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
③スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが④別当寺の龍燈院滝宮寺でした。
 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。
 こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りも雨乞い踊りとして踊られていたのではないことです。それを史料で確認しておきます。

滝宮念仏踊由来 喜田家文書
                喜田家文書(飯山町坂本)
喜田家文書(飯山町坂本)の由来を要約すると次のようになります
①菅原道真が祈雨祈祷を城山で行って成就した。
降雨成就のお礼に国中の百姓が集まってきて滝宮の牛頭天皇社で踊った。
③これが滝宮踊りの始まりである。
ここで注意して欲しいのは、農民達が雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。つまり雨乞成就のお礼踊りという意識なのです。中世や近世では、雨乞い祈祷ができるのは修行を重ねた験のある高僧や山伏たちとされていました。普通の百姓が雨乞い踊りをしても適えられる筈がないというのが、当時の考えです。それが変化するのは江戸時代後半から明治になってからです。

 ここで滝宮念仏踊りについて整理して起きます。
滝宮念仏踊りのシステム
滝宮念仏踊りと滝宮牛頭天皇社とその別当龍燈院の関係
それでは、滝宮に踊り込んでいた七箇村念仏踊りは、どんなものだったのでしょうか。
それを知る手がかりが吉野の郷社である諏訪神社(諏訪大明神)に奉納されている絵図です。
七箇念仏踊 図話題明神念仏絵図
諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)

①は下司で、日月の大団扇を持ち、花笠を被ります。そして同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人がいます。
②その横にはまた花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいます。
③下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれます。
⑤が諏訪神社の拝殿です。その前に2基の赤い大きな台笠が据え付けられます。

この絵を見て感じるのは綾子踊りに非常に似ていることです。この絵は、いつだれが描かせたのでしょうか?
七箇念仏踊 5
         諏訪大明神念仏踊図(まんのう町真野の諏訪神社)の見物小屋

この絵で注目したいのは周囲に建てられた見物小屋です。これは踊り見物のための臨時の見物小屋です。小屋には、所有者の名前が記入されています。右側の見物小屋に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。谷蔵が自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。そうだとすれば先ほど見た滝宮念仏踊図が書かれた約10年後のことになります。庶民は、見物小屋の下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な宮座制による風流踊であったことを物語っています。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。 
 中世の祭礼は、有力者たちがが「宮座」を形成して、彼らの財力で、運営は独占されていたのです。見物小屋は宮座のメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象にもなりました。祭りの時に、ここに座れることは名誉なことで、誇りでもあったのです。ここからもこの踊りが雨乞踊りではなく、中世に起源を持つ風流踊りであったことが分かります。
 このような踊りが衰退していくのは、江戸時代後半からの秋祭りの隆盛があります。秋祭りの主役は、獅子舞やちょうさで、これには家柄に関係なく誰でもが参加できました。そのため次第に「宮座」制のもとに、一般住民が排除された風流踊りは、敬遠されるようになります。 

七箇村念仏踊りが雨乞い踊りではなかったことを示す史料をもうひとつ挙げておきます。

七箇念仏踊り 日照りなので踊らない
        奈良家文書(嘉永6年) 旱魃対策で忙しいから踊りは中止とする
岸の上の奈良家に残る1852年の史料です。この時の総責任者も真野の三原谷蔵です。このときは、7月中に各村の氏神を廻って奉納する予定でした。ところが、丸亀藩陵の佐文や後の旧十郷村から、上表のような申し入れがありました。これを読んだときに私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「旱魃で用水確保が大変なので、滝宮への踊り込みは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、7月17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、踊り奉納を延期したのです。ここからは当時の農民達に、七箇村組踊りが雨乞いのための踊りであるという意識は薄かったことが分かります。あくまで神社に奉納する風流踊りなのです。
それでは七箇念仏踊りは、どのように編成されていたのでしょうか。
七箇村組念仏踊り編成表
七箇念仏踊の編成表 多くの村々に割り当てられている
この表は、文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。 縦が割当、横が各村で、次のような事が読み取れます
①真野・東西七箇村、岸の上・塩入・吉野・天領(榎井・五条・苗田)・佐文などが構成メンバーだったこと。
②各村々に役割が割当がされていたこと。
③総勢が2百人を越える大スッタフで構成されていたこと
佐文はこの表では、棒突き10名だけの割当です。ところが40年前の1790年には、七箇村念仏踊りは、東西2つの組がありました。そして、佐文は次のような役割が割り当てられていました。
七箇念仏踊り佐文への役割分担表 1790年
1790年の七箇念仏踊西組の佐文への割当
これを見ると、下司(芸司)も出していますし、小踊りも総て佐文が出していたことが分かります。ここからは西組の踊りの中心は、佐文であったことがうかがえます。ところが約40年後には棒突10人だけになっています。なんらかの理由で、踊り組が1つになり、佐文村に配分されていた割当数が大きく削られたことを示します。その時期と、綾子踊りが踊られ始める時期が重なります。これな何を意味するのでしょうか?
綾子踊 踊った年の記録
尾﨑清甫文書「踊り歳」
尾﨑清甫の残した文書の中に「踊り歳」と題されたものがあります。
これを意訳しておくと
①弘化3(1846)年7月吉日に踊った
②文久11(?)年6月18日
③文久元(1861)年7月28日踊った。延期して8月1日にも踊った
④明治8年(1874)月6日より大願をかけて、13日まで踊った。(それでも雨は降らないので)、願をかけなおして、また15・16・17日と踊った。それでも降らないので、2度の願立をして7月27日に踊った。また併せて、添願として神官の願掛けを行い、8月5日にも踊った。ついに11日雨が降った。
ここからは次のようなことが読み取れます。
①綾子踊りを踊ったという記録は、弘化3(1846)年の記録が最初であること。
②の文久11年は、年号的に存在しないこと。文久は3年迄で、その後は慶応なので疑念があること
③の前の①②の記述は、後から書き加えられた形跡があること。
④の明治になっての記録が具体的で、実際に踊られていたようです。
ここからは、綾子踊りが踊られ始めたのは、幕末前後のことであることがうかがえます。1850年代に丸亀藩が刊行した西讃府誌には、綾子踊りのことが詳しく記録されているので、この時点で踊られるようになっていたことは確かです。しかし、それより以前にまで遡らせることは史料的にはできません。そして、その時期は先ほど見たように佐文が七箇念仏踊りから排除されていった時期と重なります。
 以上から次のように私は推察しています。
①佐文村は七箇念仏踊西組の芸司や小踊りをだすなど、中心的な構成メンバーであった。
②それが18世紀末に、不始末を起こし、西組が廃止になり、同時に佐文は警固10名だけになった。
③そこで佐文は、七箇念仏踊りとは別の雨乞踊りを、三豊の風流雨乞踊りを参考にしながら編成して踊るようになった。
④こうして七箇念仏踊りが明治になって、四散解体するなかで佐文は綾子踊りを雨乞踊りとして踊り続けた。
⑤そのため綾子踊りには、三豊の小唄系風流踊りと、滝宮系の念仏踊りがミックスされた「ハイブリッドな風流踊り」として伝えられるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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綾子踊り 図書館郷土史講座

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
ユネスコ登録書

風流とは?

文化庁の風流踊りのとらえ方

雨乞い踊りから風流踊りへの転換

西讃府誌の綾子踊り

西讃府誌の綾子踊り記述

綾子踊り歌詞1番

小鼓の意味

閑吟集の花籠

どうして恋の歌が歌われるのか

IMG_0011綾子踊り 綾子

IMG_0009綾子踊り由来
綾子踊り 由緒
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鳥籠
IMG_0015綾子踊り 塩飽船
塩飽船

IMG_0018水の踊り
水の踊り
IMG_0024綾子踊り 地唄
綾子踊り
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絵の提供は石井輝夫氏です。

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中讃TV 歴史のみ方

中讃ケーブルTVに「歴史のみ方」という番組があります。10分ほどの短いものですが、よく練られた構成だなと思って見ていると、出演依頼がありました。綾踊りの踊りではなく、残された記録について焦点をあてることにして、引き受けることになりました。事前に渡されていた質問と、私が準備していた「回答」をアップしておきます。

尾﨑清甫2
尾﨑清甫と綾子踊りの文書の木箱

Q1尾﨑清甫の残した記録について

DSC02150
綾子踊り関係の尾﨑清甫文書
 ここにあるのは尾﨑清甫が書残した綾子踊りの記録です。これらは3つの時期に書かれたことが年紀から分かります。一番古いのが110年前の1914年(大正3)、そして90年前の1934(昭和9年)、1939年(昭和14)年に書かれています。面白いのは、書かれた年に共に厳しい旱魃に襲われて、綾子踊りが踊られた年にあたります。綾子踊りを踊った年にこれらの記録は書かれています。

Q2 どのような記録が書かれていますか?

綾子踊り由来昭和9年版
綾子踊由来由来

最初にの大正9年に①綾子踊由来記などが書かれ、次に1934年に②踊りの構成メンバーや立ち位置(隊列図)などが書かれています。そして最後に1939年に、それらがまとめられ、花笠や団扇の色や寸法などの記録が追加されています。
綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊りの各役割ごとの花笠寸法
ちなみにいまもこの寸法や色指定に従って、花笠や団扇・衣装は作られています。

Q3 記録の情報源は、何だったのですか?

西讃府誌と尾﨑清甫
西讃府誌と綾子踊文書
 地唄の歌詞と薙刀問答については、丸亀藩が幕末に編集した西讃府誌に載せられています。その他の由来などについては、古書を写したり、古老からの話とされています。

Q4 一番古く踊られた記録は、いつですか?
 綾子踊り控え記録では、約210年前の1814(文化11)が一番古い記録になります。その後は、幕末の日照りの年に2回ほど踊られたと記されています。この頃に編集された西讃府誌に綾子踊りのことが記されているので、それまでには踊られるようになっていたことは確かです。
Q5 意外と踊られていないのはどうしてっですか?
雨乞い踊りなので、旱魃に成らないと踊られません。昔は総勢で200人近い人数で踊られたとされます。準備も大変な踊りです。そのため、それまでに祈祷などのいろいろな雨乞いを行って、それでも雨が降らないときに最後の手段として綾子踊りは踊られたようです。毎年、祭礼に踊られる踊りではなかったのです。

Q6 この絵はなんですか
綾子踊り 奉納図佐文誌3
綾子踊り隊形図

綾子踊りの隊形図になります。この絵は、龍王山の山腹に祀られていた「ゴリョウさん」あるいは「リョウモ」さんで、綾子踊りが踊られています。「ゴリョウさん」は「善女龍王」のことで、空海が雨乞いの際に祈った龍王とされています。姿は「龍やへび」の姿で現れます。そのため背景の曲がりくねった松は蛇松と書かれています。そこに龍王社が祀られ、その前で、子踊りや芸司を中心に大勢の踊り手達が踊っています。注意して欲しいのは、その周りを警固の棒持ち達が結界を作って、その外側に多くの人達が取り囲んでいる様子が描かれていることです。基本的には、この隊形や人数を今も受け継いでいます。
1934年)大干魃に付之を写す


Q7 尾﨑清甫が記録を残したのはどうしてか
 
1934年 大干魃付写之 尾﨑清甫
    1934(昭和9)年に綾子踊りが踊られた経緯

彼の文書の一節には次のように記されています。

 「明治以来、世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、綾子踊りを踊ることにも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは今、記録に残しておかないと忘れ去られてしまう危機感があったことがうかがえます。

Q8 1934年に、すでに危機感を持っていたのはどうして?
近代化が進んで昭和になると着物から洋服に着るものが替わりました。同じように迷信的なモノは顧みられなくなり、合理的な見方をする人達が田舎でも増えます。人の心も変わっていったのです。そうすると雨乞いして雨が降ると思う人もだんだん少なくなります。佐文でも旱魃がやってきても、みんながまとまっておどることはできなくなります。このままでは、綾子踊りが消えてしまうと云う危機感があったようです。
綾子踊行列略式(村踊り)

Q 9 尾﨑清甫が記録を残そうとおもったのは?
1934(昭和9)年と、その五年後の1939年の大旱魃の時には、知事が各町村に伝わる雨乞い行事を行うように通達しています。これに従って、佐文村でも新しく団扇や花笠などが整えられ、綾子踊りが踊られます。その結果、雨が降ったようです。その成就祝いとして、村民一同で綾子踊りが踊られます。この時の感動が尾﨑清甫に、記録を残させる原動力になったのではないかと私は思っています。彼は記録を残す理由として、次のような点を記しています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
     綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

病魔に冒される中で、危機感を持って記録を残そうとした尾﨑清甫の願いが伝わってきます。

以上のようなやりとりを想定していたのですが、取材当日は支離滅裂になってしまいました。それをプロデューサーがどうまとめてくれるのか不安と期待で見守っています。放送は6月中の土日に流されるようです。
追伸
中讃ケーブルの歴史番組「歴史のみ方」で綾子踊りを紹介しました。6月中の日曜日に放送されてています。以下のYouTubeからも御覧になれます。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。https://youtu.be/2jnnJV3pfE0

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佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

                              
      前回は、1934(昭和9)年に香川県に大きな被害を与えた旱魃について見ました。しかし、その5年後の1939(昭和14)年には、これを上回る「想定外の大旱魃」が襲ってきます。
1939年大干魃グラフ
1939(昭和14)年の月別降水量(広島気象台)
上の表は広島気象台の1939年と平年の月別降水量をグラフで比較したものです。ここからは次のようなことが分かります。
①4月・5月と例年の半分程度の降水量で、ため池が満水にならないまま田植え時期を迎えた。
②6月も空梅雨の様相で、例年の半分程度の降水量で、田植えができない所が出てきた。
③梅雨が早く明けて、7・8月になっても雨は降らず酷暑が続いた。7月の降水量は極端に少ない。
④9月に入っても、降水量は少なめで推移した
1934年の旱魃と同じような推移を見せていますが、違う点は7月の降水量です。前回の1934年の時には、7月末に集中豪雨的な雨がもたらされせて、一息つくことができました。しかし、今回は7・8月の2ヶ月に渡って、雨が降っていません。
この時の年間降水量は693㎜で、平年の半分以下で、河川の水は枯れはて、ため池も干しあがってしまいます。6月になっても約1400㌶が田植ができず、地下水を利用して田植えを行った水田も約2000㌶の稲が枯れ果ててしまいます。
旱魃に対する県の対応を見ておきましょう。
 藤岡長敏(ふじおかながとし)県知事は、菅原道真が雨乞いを祈願したという城山神社(坂出市)に参拝し、雨乞いを行っています。そして、市町村に雨乞い祈願と、学童が朝夕に稲株一株ごとに、土瓶を使って水をかける「土(ど)びんみず灌水」を行うよう通達を出しています。これを受けて、各町村ではさまざまな雨乞い祈願が行われます。その時に、佐文で踊られたのが綾子踊りです。しかし、綾子踊りを最初から踊ったようではないようです。どんな過程を経て、綾子踊りが踊られたのでしょうか? 今回は1939年の大干魃の時の佐文の人々の動きを見ていくことにします。テキストは「綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史」です。

綾子踊の里 佐文誌 綾子踊の里 佐文誌編集委員会 編 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。
佐文誌
佐文誌には白川義則氏の当時の日記の一部が載せられています。
白川義則氏は、大正11(1922)年生まれで、当時17歳でした。彼は、綾子踊りの地唄の歌い手として戦後の綾子踊り保存活動に尽力するとともに、長きにわたって旧仲南町教育委員長を務めた人物でもあります。彼が残した日記からは、千ばつの年の人々の様子や、雨乞いに関すること、作物の話など当時の生活を垣問見ることができます。旱魃が深刻化する7月から見ていきます。


佐文地形図 ため池
佐文のため池(佐文誌23p)
7月16日 田に水は無く池の水、大に減少、心細き事なり。
7月18日
本日、新池の水全部使い果し大勢にて小鮒・うなぎ等取りたり、昼頃より①中筋婦人会が龍王山に登り清掃、雨乞い参りをして居たところ、空模様は良くなり待望の雨来たり、雷など鳴りしも、大した雨を落す事なく飛び去る。
7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てる為に労力奉仕、夕方までに屋根ふきのみ残して終る。
7月30日 今日また雨無く、水田の乾きと稲の姿見るに偲びず。
最初だけ意訳変換しておくと
7月16日 田んぼに水はなく、池の水も大きく減った。(これから先のことを考える)と心細くなってくる。
7月18日
今日、岡の新池の水を全部抜いて、みんなで小鮒(ふな)・うなぎを獲った。昼頃から①中筋婦人会が龍王山に登って、清掃、雨乞参りをしたところ、雷が鳴って待望の雨が少し降ったが、まとまった雨にはならずに雲は飛び去った。
7月28日 ②龍王山に拝殿小屋を建てるために労力奉仕に参加した。夕方までには、屋根葺きだけを残して終了した。
7月30日 今日また雨は無い。田んぼの乾きと稲の姿を見るに偲びない。

ここまでで気になった部分を見ていきます。
7月18日 
新池が干上がったので、魚を獲っています。その午後に①中筋集落の婦人会が龍王山に登って、清掃・雨乞いを行っています。この竜王山というのが私には分かりません。現在では、竜王山というと地図上では「四国の道」の竹の尾越の東側のピラミダカルな姿のいい山を指します。しかし、この当時は違ったようです。それは追々見ていくことにします。ここでは、「中筋婦人会」が龍王山の管理を行っていることを押さえておきます。ちなみにここに龍王社(リョウモサン)が祀られ、三所神社ともよばれていたようです。それが現在は、加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。

佐文 加茂神社と上の宮(三所神社)
佐文の加茂神社境内 正面が加茂神社拝殿 右が上の宮(三所神社)

雨が降らず状況は、ますます悪化していきます。
そこで10日後の7月28日に②「竜王山に拝殿小屋を建てる」と出てきます。これは、雨乞い祈祷に向けての準備のようです。この日から京都から招いた行者(山伏)が降雨祈願のお籠りに入ったようです。

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。

 昭和14年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

ここに書かれている要点を挙げておくと
渓道(たにみち)の竜王祠の火を松明にともして、竹の尾峠の山道をかけ下って持ち帰って、竜王宮で火を燃やした。
②そこで住民総出で火を燃やして「おこもり(祈願)」した。
③御盥池の堤防に小屋掛けして、そこで行者が1週間祈祷した。

渓道神社.三豊市財田町財田上
渓道(たにみち)神社(財田町財田上)
①の渓道(たにみち)龍王宮というのは、三豊市財田町財田上の渓道神社のことです。この神社は国道32号の工事の際に、現在地に移されたようです。龍王宮という名前からもわかるように、善女龍王を祀り雨乞い信仰の霊地だったようで、雨乞い踊の「さいさい踊り」が奉納されていた所でもあります。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道神社の説明版
  高瀬町の地蔵寺の「善女龍王勧請記」 文化7(1810)年に、渓道神社から善女龍王が勧進されたことが次のように記されています。(意訳変換)
上勝間村の①地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。⑤すでに龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
ここからは次のような事が分かります。
①上勝間の地蔵寺に財田郷上之村の②善女龍王(渓道(たにみち)龍王)が勧請されたこと
②渓道龍王(善女龍王)は、財田中之村の③伊舎那院の管理下におかれていて、④降雨祈願に霊験があるとされていたこと
⑤すでに龍神社があった八つ山に、渓道龍王は勧進されパワーアップがはかられたこと。
この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったとも記されています。この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年)は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。このように上勝間村で行われていた龍神や善女龍王の勧進が佐文でも、この時期に行われていたことが分かります。
 佐文誌には、明治時代の雨乞いの際に、財田上の渓道龍王宮の御神体と佐文の龍王山の御神体を入れ替えという話が載せられています。
同時に財田上から竹の尾峠を越えて、神火を持ち帰って火を高く燃やし、雨乞いを行ったというのです。ここからも佐文では、龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)が龍王講によって行われていたことが裏付けられます。以上から龍王山は善女龍王の山として雨乞い信仰の山とされ、その山腹に龍王祠が祀られていたこと、それを佐文の中筋の人達を中心に龍王講を組織して、お奉りしていたとしておきます。

P1250512
綾子踊の芸司の大団扇(表が太陽、裏が月)

 そして、雨は1ヶ月以上降らないまま8月に入っていきます。
  7月31日
③青年団員として金刀比羅宮で御神火を戴き、リレーで佐文の龍王山に運び、神前に供え雨乞祈願を行った。④佐文部落も今日は、龍王様に総参りして、みんなが熱心に雨を願って額づいていた。その誠心を神は、いつかなえてくれるのだろうか。雨がほしい。(意訳)
 ③は31日に、青年団員が金刀比羅宮に参拝して、雨乞い用の聖火を貫い受けてきます。布などを縄状にしたホテ・火縄・スボキなどとよばれるものに神火をいただきます。その時に注意することとして、次のような事が云われていました。
①途中で休むと、そこに雨が降り自分たちの所に降らないとされたので、休まずにリレー式に走るように急いで持ち帰ること
②雨が降るのを信じて、カッパなど雨の対策をした装束でいくこと
③持ち帰った火で、大火(センダタキ)をたき、みのかさ姿で拝むこと
佐文でも、持ち帰った神火を龍王山上に運び上げ、住民総出でわら束を持って登り、大火を焚いて総参りをして神前に額ずいています。
 しかし、先ほど見た「佐文誌」には、持ち帰ったのは財田の渓道龍王社の神火とありました。ふたつの記述が異なります。これをどう考えたらいいのでしょうか。これはまた別の機会にするとして、先を急ぎます。
8月1日  
山神池の最後の水について、総寄合で反別の一割分と決まった。早速、水を引く。午後、待望の雨が降るがほんの埃を湿す程度であった。
8月3日
朝、(煙草の)乾燥当番だったので少し寝過ぎた。起きてみると待望の雨だ。我等農民だけでなく山野の一木一草まで歓喜雀躍、どうかいつまでも降り続いてもらいと祈る。そして⑤今日は龍王講の日だ、中筋講中として龍王山に総参りをする。午前十時より(雨乞成就の)御礼のために、⑥先日いただいた御神火を金刀比羅宮に青年団として御返しに行く。今朝の雨で繩が湿って途中で御神火が消えそうになって困難を極めた。
金毘羅さんの神火の霊験でしょうか、8月3日には待望のまとまった雨が降ります。8月3日は「龍王講の日」でもあったようです。
これが先ほど見た龍王(リョウハン)の祭りであるリョウモウシ(十八夜)です。これについては、佐文誌252Pに次のように記されています。
龍王祠は前山の頂上やキノエハン(甲子山)にまつられ、その祭りをリョウモウシと呼び、旧六月十八日に祭りを行なっていた。リョウモウシをするために、佐文では龍王講を組織していた。現在、天保二年(1831)から昭和十三年までの頭家帳が残っている。

龍王祭の頭家帳 佐文
佐文の龍王祭頭家帳(天保2年)
天保二年の記録を見ると、夕方、三名の頭家は加茂神社へお神酒と米を供えて、朝は龍王祠へお神酒とお供えをささげていたことがわかる。明治十年の龍王祭の記録を見ると、三名の頭家は米とお神酒銭を集め祭りを執行し、祭礼後は地区民一同が頭家のつくったオコワやお神酒で会食をしていたことがわかる。
大千ばつの時には善女龍王に降雨の祈願をして加茂神社の境内で綾子踊を奉納した。次に前山のリコウハンやキノエハン(甲子山)でも踊った。 一般の人びとは一束の麦わらを持ってリョウハンヘ行き、リョウハンで大火をたいた。
また、ある者は山伏姿でおこもりをした。おこもりの期間中は、ほとんど断食に近いようなそば粉の食事を取りながら善女龍王に降雨を祈願した。降雨の祈願をすると、必ずオシメリ(降雨)があったという。それほど佐文のリョウハンは霊験があらたかであった。
龍王社に中筋講中で、お参り後に10時からは青年団員として「雨乞成就のお礼参り」のために、御神火を金刀比羅さんに返しにいきます。
8月6日
今日は⑦大祓の農休の日である⑧龍王宮の「おこもり」に朝から参加、夕方7時過ぎまで⑨行者による火物断ちの雨乞いが行なわれた。⑩中筋隣組が当番だったので雑用に当った。
 8月6日の「⑦大祓の農休」は、旧暦6月30日の夏越(名越し:なごし)のことです。
夏越 茅の輪くぐり

この日は忌 (い)み日として、祓いの行事が行われました。そのひとつが輪くぐりで、神社に設けた大きな茅 (ち)の輪をくぐって、災厄を祓いました。これも虫害・風害・旱魃などを鎮める祓いの行事のひとつです。小麦饅頭や団子をつくって、農仕事は休みます。池や川で身を清め、牛馬も水に入れて休ませたりしました。この日だけは河童が出ないそうで、池や海で泳いでもおぼれることはないとされました。しかし、この年は旱魃で池には水がありません。
     そして⑧「龍王宮の「おこもり」に朝から参加」と出てきます。
 龍王山ではなく「龍王宮」であることを押さえておきます。「おこもり」とは何なのでしょうか? それは次の⑨「行者に依る火物断ちの雨乞い」のようです。 つまり、この時点でも行者(山伏)が「龍王宮」に籠もって「火物断ちの雨乞い=護摩祈祷?」を行っていたことが分かります。⑩「中筋隣組では当番にて雑用」というのも、行者の護摩祈祷を支える雑用だったことが考えられます。ちなみに中筋の一番奥に位置する真鍋家には、この時に山伏の食事などを真鍋家で準備して、「龍王宮」に持ち上がったという話が伝わっているようです。金毘羅山からのご神火以外にも、行者による「お籠もり祈祷」など、いろいろなな雨乞いが同時進行で行われていたことが、ここからはうかがえます。 それでも雨は降りません。そんな中で、いよいよ綾子踊りが踊られることになります。

本文 8月9日
佐文部落にて⑪雨乞のために、綾子踊りを実施する事が決り、⑫(私は)地歌読みに中筋より指名せれた。
早速⑬加茂神社での練習に参加するが、大方が年輩の方で、歌と言っても何を言っているのかさっぱり私には解らない。果して責任を果し得るだろうか。その後、毎日昼休みを利用し神社で練習する。
10日 米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫はないだろう。

11日から16日まで綾子踊の練習をする。
16日は、踊り手が全員が神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする.
8月17日 
昨夜から父は⑭煙草の乾燥当番だったが、朝食を終る頃に帰って来て、⑮雨乞いの衣裳を着付けてくれた。今日は、綾子踊の総踊りの日であるので、生れて始めて⑯紋付の着物に衿を着用した。紙諧の草履も父が念入りに作ってくれた。午前8時頃に王尾村長様宅に集合、⑰神事場にて一踊りして、加茂神社で行列を整え、⑱龍王山に向って山を登る、神前で一踊りして、雨を祈り力一杯踊る。その後⑲帰りて加茂神社でて二踊りした。見物人多く盛観であった。夕方早々終りたるも御利生の御雨は何時の日か。

金毘羅山からの神火も、京都から招いた行者の雨乞いも、効果がありません。
8月9日なると「⑪雨乞の為、綾子踊りを実施」とあります。綾子踊りを踊ることになったようです。「⑫地歌読みにと中筋より指名」とあるので、17歳の白川義則少年は、地唄に指名されたようです。「⑬加茂神社での練習に参加」とありますので、練習は賀茂神社で行われていたことが分かります。歌詞の内容はちんぷんかんぷんでよく分からないが、託された責務を果たそうと毎日昼休みに加茂神社にいって、長老から手ほどきを受けたようです。確かに綾子踊りの地唄の歌詞は、雨が降ることを祈るようなものはほとんどありません。その内容は、瀬戸内海各地の港町の遊女と船乗りの恋歌などで、まるで「港町ブルース」的なものが多いことは以前にお話ししました。それを聞いて17歳の白川少年が戸惑ったのも頷けます。踊りの練習は10日から16日迄の1週間です。そして17日が綾子踊り当日になります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
加茂神社への入庭(いりは)

 前日の夜から「⑭煙草の乾燥当番」に出ていた父が、朝早くに帰ってきて、⑮衣装の着付けをしてくれます。

⑯裃を身につけるのは初めてなので緊張気味です。午前8時に王尾村長宅に集合し、ここで行列を調えて加茂神社に向けて出発。踊りの奉納順は次の通りです。
 ⑰神事場(御旅所) → ⑱龍王山の神前 → ⑲帰りて加茂神社で二踊り

綾子踊り 入庭図4
尾﨑清甫の残した綾子踊「踊入始め第二図」(1934年)

加茂神社では多くの人々が集まって見物して、賑やかだったと記されています。しかし、雨が降ったとは記されていません。状況は、さらに悪化していきます。
8月18日、笛の本池の水をすべて放出して、池が空っぽになった。
23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。
24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。
25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。
30日、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。
9月に入っても夕立が少しある程度で、上旬は晴天が続いた。
  9月2日には、⑳北山集落から再度綾子踊を奉納しようという相談があった。
  9月3日、救荒作物のソバを蒔いた。この日、㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした。
4日、山上池の水が底をつく
6日、青年団員が集まり、金刀比羅宮へ行き総参りをした。翌日、雨が少し降る。
  17日の綾子踊り奉納後も、雨は降りません。状況は悪化の一途です。そんな中で9月2日に、次のようにあります。
「⑳北山集落の人から再度綾子踊をしようという相談があった。」、「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
とあります。これを、どう考えたらいいのでしょうか。
綾子踊り 雨乞い団扇
綾子踊りの団扇
以前に、綾子踊りの記録文書を残した尾﨑清甫のことをお話ししました。
P1250692
尾﨑清甫の残した記録

彼が文書を書いた時期は、1934(昭和9)年と1939(昭和14)年の両年のものがほとんどであることを指摘しました。この両年は、大干魃で県から雨乞いを行うように通達が出された年です。そして、佐文でも今見てきたように、さまざまな雨乞い祈願が行われていたことが分かります。そのような中で、雨乞い踊りが最後に踊られることになります。
 ここで注目しておきたいのは、最初から綾子踊りが踊られた訳ではないことです。佐文もいくつかの小さな集落の集まりで、その小集落の属する水系(ため池用水路)や属性が異なります。つまり、一枚岩ではないのです。例えば先ほど見たとおり、中筋は龍王山を信仰の対象として、龍王講を組織していました。一方、北山集落は綾子踊りを継承していたようです。そのためすぐには、綾子踊りは踊られません。いろいろな雨乞い行事が行われ、それでも駄目なときに、佐文全体で綾子踊りの奉納を行ったと私は考えています。
尾﨑清甫2
尾﨑清甫
    1934年の大干魃が去った秋に、尾﨑清甫は次のように記しています。
1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
これを意訳変換しておくと

  佐文の戸数も百戸を越えるようになって、綾子踊について協議・実施することが困難になってきた。そこで(佐文全体ではなく)「北山講中」だけで「村雨乞い」の規模で、1週間雨が降ること祈った。(それでも雨が降らなかったので)再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが利生は少なかった。ところが旧暦7月29日になって十分な雨が降った。そこで俄なことではあるが旧暦8月1日に、雨乞成就のお礼踊りを奉納した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

尾﨑清甫史料
         尾﨑清甫の残した綾子踊り文書


また「団扇指南書起」には、次のようにあります。

「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 意訳変換しておくと
「世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、色々な行事を行う際にも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。

ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見が分かれていたことがことがうかがえます。これを裏付けるものとして「佐文誌197P 綾子踊のこぼれ話」には、次のように記されています。
明治の末期からこんな話が残されている。
ある日照りの年、村人の意見で村長が雨乞踊の奉納を決定しようとしたところ、一人の村人いわく「今、如何なる踊りを奉納しようともその甲斐なし。その踊る時間と労力をもって池の泥を出せ。さすれば来年はそれだけ多くの水を貯えられるなり。」
 これを聞いた村長は、次のように答えたり。
「そなたの言もっともなれど、今、村人の欲するものは来年の水に非らず、明日の水なり。事ここに至りて神仏にたのまずして何に頼れるか。」
 この一言で、踊りを決定したという古老の話しである。
綾子踊りを奉納することについては「村内の者の心が同心に成りがたい」状況が生まれていたことが分かります。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
    そんな視点で白川義則氏の9月2日の日記を見てみましょう。
「北山集落の人から⑳再度綾子踊をしようという相談があった。」
そして、翌日に「㉑中筋地区内で綾子踊の相談をした」
これは再度の踊り奉納を北山集落が求めてきて、翌日にその対応を中筋集落が話し合ったということでしょう。その答えは、「NO」だったようです。日記には、踊ったとありませんから・・・。
その後の記録を見ると

9~10日の朝までに十分な雨が降ったので、11日は㉒お礼の踊りを神社で二回踊った。中旬も三度だけ少雨が降ったのみで、水不足は続いている。

ここからは、9・10日に一定の雨が降ったことが分かります。そこで翌日の11日に「雨乞成就」のお礼のために、佐文全体で綾子踊りを2回踊っています。雨が降ったことを歓ぶ佐文の人々の感謝の気持ちが爆発して、この時の踊りは総踊りになって盛り上がったはずです。この高揚感が、尾﨑清甫に「綾子踊文書」を書かせる大きなエネルギーになったのではないかと私は考えています。

綾子踊 花笠寸法 尾﨑清甫
綾子踊 花笠寸法(1939年 尾﨑清甫) 

こうして見ると、明治以来忘れ去られようとしていた綾子踊りは、昭和の2回の大干魃という危機的な状況の中で復活したとも云えそうです。その時に、踊りに必要な団扇や花笠などが改めて制作されました。それを後世に伝えるために、記録に留めようとしたのが尾﨑清甫だったのです。

IMG_5914
綾子踊の団扇
以上をまとめておきます
①讃岐には各地にさまざまな雨乞い踊りが伝承されていた。
②しかし、明治以後に文明化が進む中で、それらは迷信とされ踊られることが少なくなった。
③そのような中で襲来した昭和の2回の大干魃は、県知事に雨乞祈願をするようにという通達を出させるほど深刻なものであった。
④これに対して、各町村では伝えられるさまざまな雨乞い行事が行われた。
⑤その中で、佐文では忘れ去られようとしていた綾子踊りを佐文全体で復活させた
⑥それを後世に残そうとして、尾﨑清甫は由来や花笠・団扇などの記録を書残した。
⑦これがあったために、戦後に綾子踊りを再度復活させることができた。
そういう意味では、この時の大干魃がなければ綾子踊りは、忘れ去られていたかもしれません。
「2つの大干魃 + 尾﨑清甫の存在 = 綾子踊り文書の作成・保存」という図式がえがけそうです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾子踊り 雨を乞う人々の歴史 18P 綾子踊のはじまりと歴史
綾子踊の里 佐文誌14P 干ばつの歴史
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  まんのう町の教育委員会を通じて、町内の小学校から綾子踊りのことについて話して欲しいという依頼を受けました。綾子踊保存会の事務局的な役割を担当しているので、私の所に話が回ってきたようです。4年生の社会科の地域学習の単元で、綾子踊りを取り上げているようです。「分かりやすく、楽しく、ためになるように、どんな話をしたらいいのかなあ」と考えていると、送られてきたのが次の授業案です。

綾子踊り指導案

これを見ると6回の授業で、讃岐の伝統行事を調べています。
その中から佐文綾子踊を取り上げ、どのように伝えられてきたのか、どう継承していこうとしているのかまでを追う内容になっています。授業方法は子ども達自身が調べ、考えるという「探求」型学習で貫かれています。私の役割も「講演(一方的な話)」が求められているのではないようです。授業テーマと、その展開部を見ると次のように書かれています    
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな
→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから
→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか
→ それを保存会の方に聞いてみよう!
この後で、私の登場となるようです。さて、私は何を話したらいいのでしょうか?
尾﨑清甫史料
尾﨑清甫の残した綾子踊りの文書

ここで私が思い出したのは、1934(昭和9)年に、尾﨑清甫が書残している「綾子踊団扇指図書起」の次の冒頭部です。

綾子踊団扇指図書起
綾子踊団扇指図書起
 綾子踊団扇指図書起
 さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。
 また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。
 よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
                                    昭和9(1934)年10月12日
 綾子踊団扇指図書起 最尾部分 1934年
   綾子踊団扇指図書起の最後の署名(1934(昭和9年)

右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也

小学4年生に伝わるように、超意訳してみます。
 今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。
 そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
ここには、「団扇指南書」を書き残しておく理由と、その願いが次のように書かれています。

綾子踊団扇指図書起に託された願い
   尾﨑清甫「綾子踊り団扇指南書」の伝える願い
  綾子踊りの継承という点で、尾﨑清甫の果たした役割は非常に大きいものと云えます。彼が書写したと伝えられる綾子踊関係文書のなかで最も古いものは「大正3年 綾子踊之由来記」 です。

綾子踊り由来昭和14年版
綾子踊り由来記
ここからは、大正時代から綾子踊りの記録を写す作業を始めていたことが分かります。
次に書かれた文書が「団扇指南書」で、1934(昭和9)年10月に書かれています。ちょうど90年前のことになります。この時点で、綾子踊りの伝承について尾﨑清甫は「危機感・使命感・決意・願い」を抱いていたことが分かります。彼がこのような思いを抱くようになった背景を見ておきましょう。
1939年に、旱魃が讃岐を襲います。この時のことを、尾﨑清甫は次のように記しています。

1934年)大干魃に付之を写す
   紀元2594年(昭和9:1934年)大干魃に付之を写す             尾﨑清甫写之
  字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。

  ここからは次のようなことが分かります。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。
②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと
③2回目の躍りで、雨が降ったこと
④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと

先ほど見た「団扇指南書起」には、次のようにありました。
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」

 ここからは、この時点で雨乞い踊りをおどることについて、佐文でも意見と行動が分かれていたことがことが見て取れます。そのような中で、尾﨑清甫は「団扇指南書」を書残す必要性を実感し、実行に移したのでしょう。
尾﨑清甫
尾﨑清甫
5年後の1939(昭和14)年に、近代になって最大規模の旱魃が讃岐を襲います。
その渦中に尾﨑清甫はいままでに書いてきた「由来記」や「団扇指南書」にプラスして、踊りの形態図や花笠寸法帳などをひとつの冊子にまとめるのです。この文書が、戦後の綾子踊り復活や、国の無形文化財指定の大きな力になっていきます。

P1250692
尾﨑清甫の綾子踊文書を入れた箱の裏書き
最後に、小学校4年生の教室で求められているお題を振り返っておきます。
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?
→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた 
→ どうして文書を残していたのかな 
これについての「回答」は、次のようになります。
①近代になって科学的・合理的な考え方からすると「雨乞踊り」は「迷信」とされるようになった。
②そのためいろいろな地域に伝えられていた雨乞い踊りは、踊られなくなった。
③佐文でも全体がまとまっておどることができなくなり、一部の人達だけで踊るようになった。
④それに危機感を抱いた尾﨑清甫は、伝えられていた記録を書写し残そうとした。
尾﨑清甫は、佐文の綾子踊りに誇りを持っており、それが消え去っていくことへ強い危機感を持った。そこで記録としてまとめて残そうとした。
讃岐には、各村々にさまざまな風流踊りが伝わっていました。それが近代になって消えていきます。踊られなくなっていくのです。その際に、記録があればかすかな記憶を頼りに復活させることもできます。しかし、多くの風流踊りは「手移し、口伝え」や口伝で伝えられたものでした。伝承者がいなくなると消えていってしまいます。そんな中で、失われていく昭和の初めに記録を残した尾﨑清甫の果たした役割は大きいと思います。

綾子踊り 国踊り配置図
綾子踊り隊形図(国踊図)
これを小学4年生に、どんな表現で伝えるかが次の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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     佐文と象頭山
  佐文集落と 象頭山(左手中央の鎮守の森が賀茂神社)
「こんぴらふねふね」で有名な四国金毘羅さんが鎮座するのが象頭山。その象頭山の南側に、私たちのふるさと佐文はあります。佐文は小さな盆地で、水利の便が悪く水不足に悩まされててきました。その歴史は、日照りとの闘いの歴史でもありました。その地で踊り継がれてきたのが綾子踊りです。
綾子踊り 善女龍王
佐文綾子踊の善女龍王の幟
その謂われが次のように伝えられています。
 むかし、佐文七名といって七軒の豪族があったところ、綾という女がいた。ある旱魃の年に、草木も枯死寸前となり、村人は非常に苦しんでいた。ある日、諸国遍歴の僧に綾が住民の苦しみを話したところ、僧は住民をあわれみ、龍王に願いをこめて雨乞踊りをすれば降雨疑いなしと教えた。そこで村人を集め旅僧自ら芸司となり、綾夫婦の鉦、太鼓にあわせて踊ったところ、俄に一天かき曇り、滝の如く雨が降った。それより干天の年には、この踊りを行うことを例としてきた。以来、この踊りを踊ると、恵みの雨があったので、だれ言うことなく綾子の踊りとして現在に伝わっている。
 十二段の踊りを、笛・鉦・太鼓・鼓・法螺貝などに合わせて踊る節々に、先祖から受け継がれてきた雨乞いへの願いを感じます。綾子踊りを踊ることは、佐文地区に住む私たちにとっては、故郷に生きる証のようなものです。この踊りを途絶えることなく次世代へ伝承していきたいと思っています。

綾子踊り11
佐文賀茂神社への入庭(入場)
地元での2年に1度の公開公演では、隊列を組んで氏神さまの鎮守の森を目指して歩いて行きます。入場順は次の通りです。
露払 榊の枝をもって、道中を浄めながら会場に先導します。
幟  一文字笠に羽織姿で「佐文村」の幟に行列が続きます。
警固  五尺二寸棒を持って、踊り場の場所確保と警備を行います。

綾子踊り 山伏
手前が上り龍、青いのが台笠
幟(雲竜上り)  雨を呼ぶ龍善女龍王の昇り龍の姿です。
 (雲竜下り)  大雨を止ませる下り龍が続きます。

綾子踊り 棒と薙刀
薙刀と棒振りの清めの演舞・後に青い台笠
 棒振りと薙刀は、演舞と問答で踊る場を確保するとともにで会場を浄めます。
台傘  烏帽子をかぶり、ちはえを着た神職姿で、台笠を持ちます。

綾子踊り入庭 法螺・小踊り
法螺貝吹き
頭巾に袈裟の山伏姿です。踊りへの山伏たちの関わりが感じられます。
綾子踊り 役名入り
踊り位置(一番前が小踊り)
 中央に芸司、その両脇に拍子、その前が小踊り、手前が地唄
芸司全体の指揮者です。もともとは踊りを伝えた諸国遍歴の僧です。大きな団扇には日と月が書かれています。

P1250070
芸司と拍子(日と月の団扇を持つ)
拍子は、 中団扇と榊をもって踊ります。榊は龍王宮への御供えです。
太鼓 は、袴姿に白たすき掛けで黒足袋です。太鼓を肩からつるします。
P1250071
鉦(僧侶姿)
鉦は、僧侶姿で、白衣、茶の麻衣、黒足袋で、袈裟を架けて鉦を持ちます。一遍時衆の風流念仏踊りの影響がうかがえます。
鼓は、裃、袴姿で白足袋に、小脇差しを指します。
笛は、黒紋付きの羽織袴で、黒足袋に諸草草履を履きます。

綾子踊り入庭 小踊り
小踊り
小踊   花笠に小姫女仕立てで、小学生が踊ります。

綾子踊り 隊列 側踊・大踊り
綾子踊りの入庭
地唄 麻の上下に小脇差姿で、一文字笠をかぶって、青竹の杖を持ちます。         

綾子踊り 大踊り
大踊り
 大踊りは、大姫仕立てで帯は女物のはせ帯です。団扇には、面に雨乞い、裏に水と書かれています。今は中学生が演じています。

   綾子踊り 側踊り
            
側踊
 側踊は浴衣姿で紙つきの竹皮の笠を被ります。側踊は人数にきまりがありませんでした。雨乞い成就の時には、多くの人が参加して面白おかしく踊ったようです。

最後に全体の配置を見ておきます。
綾子踊り 奉納図佐文誌3

綾子踊り「御国雨乞踊りの位置」佐文史誌177P
この絵図は、戦前に尾崎清甫氏が写したとされものです。「御雨乞踊り」とあり、郡・村で踊られる時と場所で、編成規模が違うことを伝えています。しかし、この規模については、疑義が残ります。それについては別の機会にお話しします。

綾子踊り 隊列表
現在の綾子踊りの役割位置
綾子踊り 全体後方から
綾子踊り 全体配置

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

綾子踊り碑文


参考文献
佐文誌167P
雨を乞う人々の歴史 綾子踊

 昨年11月30日付で、佐文綾子踊がユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。その認証状が東京に届き、白川正樹会長が授与式に参加していだいてきました。そこ書かれていることを、翻訳アプリに読ませると次のように表示しました。

P1250238
風流踊り ユネスコ無形文化財認証状 
ユネスコ無形文化財リストへの登録は、無形文化遺産の認知度の向上とその重要性の認識を確保し、文化的多様性を尊重する対話の促進に貢献します。「風流踊り」 人々の願いや祈りが込められた神事の踊り。日本の提案により「風流踊り」の登録を認証します。
UNE事務局長 刻印日2022年11月30日
登録名は「Furyu-odori」です。どこにも佐文綾子踊の名称はありません。
この認証状に「添付」されたような形で頂いてきたのが、文化庁の認可状です。
P1250236

ここには「重要無形民俗文化財 綾子踊」と「保護団体 佐文綾子踊保存会」と明記されています。そして「ユネスコ無形文化財の一覧表に登録された「風流踊」を構成することを証す」とあります。
  全国の風流踊りを一括して、ユネスコ登録を実現させるというのが文化庁の「戦略」でした。しかし、それでは、各団体名が出てこないので、別途証明するために文化庁が発行した証書ということになるようです。
佐文綾子踊年表 重要無形民俗文化財指定に伴う後継者育成事業が今の綾子踊を支えている : 瀬戸の島から
 忘れられていた綾子踊りを「再発見」して、世に出してくれたのは中央の民俗芸能の研究者です。
幕末に編纂された西讃府誌に載せられていた綾子踊歌詞が、中世に成立していた閑吟集の中にあることを見つけます。そして、中世の風流踊りの流れを汲む踊りとして評価します。それを受けて、国や県が動き出すことになります。その中で大きな意味を持ったのが「国の重要無形民俗文化財指定(1976年)」だと私は考えています。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①国の補助金で伝承者養成事業を行うこと
②その成果として、隔年毎の公開公演を佐文加茂神社で行うこと
③全国からの公演依頼への補助金支出
④公開記録作成と「佐文誌」の出版
 こうして隔年毎に公開公演を行うこと、そのために、事前にメンバー編成を行い、踊りの練習を行うことが慣例化します。これが回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。

P1250078
綾子踊り(財田香川用水記念館にて)
 また、小踊りには小学生6人が、大踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという経験が蓄積されました。かつて小踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

 今年は、10月に郡上八幡、11月には東京の第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)の公演が予定されています。
33年前の第40回大会に出演し、この場で小踊を踊った小学生が、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。小・中学生達に大きな舞台に立つ経験を積むことも、綾子踊を未來につないでいく大切な手段のひとつだと思っています。綾子踊へのさまざまな人達からの支援に感謝します。
 

Amazon.co.jp: 綾子踊 : 綾子踊誌編集委員会: Japanese Books
      祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)

綾子踊のユネスコ登録を前に、まんのう町は「祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史」という報告書を出しています。これはPDFでネットからダウンロードする事も出来るので簡単に手にすることができます。これが綾子踊に関する今の私のテキストになっています。この報告書末に、綾子踊の年表が掲載されています。今回は、これを見ながら綾子踊がどのようにして、再発見され継承されてきたかを見ていくことにします。

中世の雨乞い踊りについては、以前に次のようにまとめました。
①中世の雨乞祈祷は、修験者など呪力ある者のおこなうものであった。
②村人達は、雨乞成就の時に感謝の踊りを、郷社などの捧げた。
これは、滝宮神社に奉納されている坂本念仏踊りの由来にも「菅原道真の雨乞祈願成就への感謝のために踊った」とかかれていることからも裏付けられます。また高松藩は白峰寺に、丸亀藩は善通寺に、多度津藩は弥谷寺に雨乞祈祷を命じていたのです。これらの真言修験者系の寺院は、空海以来の善女龍王神への雨乞いを公的に行ってきました。ここには庶民の出番はありません。中世や近世までは、神に雨乞ができるのは呪力のある修験者などに限られていて、何の力もない庶民が雨乞いを念じても効き目はないというのが一般的な考えだったことを押さえておきます。村人が雨乞祈祷を行ったのではなく、その成就感謝のために踊ていたのが、いつもまにか雨乞い踊りと伝えられるようになっていることが多いようです。
綾子踊年表1
綾子踊年表
  前置きが長くなりましたが、綾子踊年表を見ていくことにします
年表の最初に来るのは、1875年(明治8年)7月6日の次のような記事です。
七月六日より大順をかけ、十三日踊願い戻し 又十五日、十七日より、夫より二度の願立てをなし、二十三日めなり。それより二十七日めなり。又、添願として神官の者より、自願かけ自願後八月三日に踊り、十一分の雨があり御利生あり

意訳変換しておくと
7月6日に大願を掛けて、13日まで綾子踊を踊った。(それでも雨は降らないので)15日、17日に改めて二度の願立てをし直した。それでも雨は降らない。そこでさらに23日、27日に、添願として神官が自願した。自願後の8月3日に綾子踊を踊った所、十分の雨があった。これも踊りのご利益である

ここには次のようなことが記されています
①雨乞成就のために村人自らが綾子踊りを踊っていること
②7月6日に踊りを始めて、1週間連続で踊り続けたこと
③それでも降らないので願をかけ直し、さらに神官(山伏?)も雨乞祈祷した。
④その結果、雨乞い開始から約1ヶ月後に十分な雨が降ったこと
  最後は「踊りのご利益」としています。ここからは村人達が自分たちの力で雨を降らせたという意識をもっていたことがうかがえます。明治初年には、中世や近世の雨乞祈願とは異なる意識変化があったようです。自分たちで綾子踊を踊り、雨を降らせるというのは「近代的発想」とも云えます。しかし、頻繁にやってくる旱魃の度に、綾子踊りは踊られていたことを史料から確認することはできません。
 また、ここで注意しておきたいのは一番古い記録が明治初期のもので、それ以前のもにについては何もないことです。ここから綾子踊が実際に踊られるようになったのは、近世後半になってからだということがうかがえます。。
綾子踊り 善女龍王
善女龍王の幟(綾子踊・佐文賀茂神社)
 次に記録が残っているのは1934(昭和9)年のことです。
1934(昭和9)年7月16日 かんばつにつき加茂神社にて踊る
1939(昭和14)年かんばつにつき8月9日よりけい古
8月17日 加茂神社・龍王祠前で踊る
8月22日 自雨あり
9月 1日 雨あり
9月11日 お礼踊り

ここには、旱魃のために綾子踊りを踊るための次のような手順が記録されています。
 踊り実施決定 → 稽古 → 実施 → 降雨 → お礼踊り

しかし、本当に明治以後から戦前にかけて頻繁に綾子踊が踊られていたかどうかは、史料からは確認できないようです。
綾子踊りが世間から注目されるようになるのは、戦後のことです。それは、地元から動きではなく、外からの視線でした。丸亀藩が幕末に、各村々の庄屋に命じて提出させたレポートについては以前にお話ししました。そのレポートに基づいて、丸亀藩が編纂したのが西讃府志です。
幕末の讃岐 西讃府志のデーターは、庄屋たちが集め報告書として藩に提出したものが使われている : 瀬戸の島から

この時に、佐文村の庄屋は、綾子踊について報告しています。その中に、踊られる歌詞も記されていました。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志の佐文綾子踊についての記述
この歌詞に注目したのが、中央の研究者たちです。ここに収められている歌詞は、中世に成立した閑吟集に起源を持つものがあります。こうして綾子踊りは、中世に起源を持つ風流歌の系譜の上にあるとされるようになります。それを受けて地元でも、記録・復興に向けた動きが出てきます。そして、各地に招かれての次のような公演活動も始まります。

P1250084
綾子踊の芸司と子踊り

戦後の復活
1953年12月12日 十郷村文化祭出演(十郷小学校)
     12月13日 香川県公会堂出演(高松市)
1954年8月21日 香川県文化財に指定 綾子踊公開(加茂神社)
1955年3月9日 琴電会社映画撮影 綾子踊公開(加茂神社)
1955年4月2日香川県無形文化財に指定
9月5日  香川県農業祭出演
1960年1月28日 中四国民俗芸能大会出演(岡山市天満屋)
1962年10月30日 仲南村文化祭出演(仲南東小学校)
1966年     4月10日 宮田輝司会 NHKふるさとの歌まつり出演
1968年9月10日 佐文核子踊保存会会則制定
1970年1月21日 第12回香川県芸術祭出演(高松市民会館)
1971年4月11日 国の重要無形民俗文化財として文化庁認定
     8月16日 文化庁選択芸能公開 於加茂神社
1972年8月18日 NHK金曜広場出演(NHK松山放送局)
  8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
 11月19日 第15国香川県芸術祭出演(普通寺西中学校)
公開活動を通じて認知度を高め、「1955年 県無形文化財」に指定されます。しかし、これだけでは佐文住民とっては、あまり「意識変化」はなかったようです。大きなインパクトになったのは、1966年に宮田輝司会の「NHKふるさとの歌まつり」への出演です。NHKの人気番組に出演し、全国放送されたことは佐文住民にとっては、「自慢の種」となりました。認知度もぐーんと高まり、「佐文の誇り:綾子踊り」という意識が芽生え始めたのはこの当たりからです。
そして、71年には、国の重要無形文化財」に指定されます。注目度は高まり、NHKなどが頻繁に取り上げてくれるようになります。

綾子踊年表2
綾子踊年表2
1973年12月1日 仲南町文化祭出演(仲南中学校)
1975年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1976年5月4日 文化庁が重要無形民俗文化財第一回を指定する
        同日 佐文綾子踊が国の重要無形民俗文化財に指定
     6月19日 文化庁より重要無形民俗文化財指定証書交付
     9月 5日 重要無形民俗文化財指定記念事業により綾子踊公開(加茂神社)
76年から三年間、国の補助金を受け、伝承者養成現地公開記録作成事業推進.)
1977年8月14日 重要無形民俗文化財指定の記念碑除幕式と綾子踊公開(加茂神社)
 8月26日 伝承者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1978年9月3日 伝水者養成と綾子踊公開(加茂神社)
1979年6月10日 香川用水落成記念式典出演(香川町大野小学校)
7月15日 綾子踊を含む佐文誌編集企画
1980年10月25日 中四国民俗芸能大会出演(高知市RKCホール)
1982年9月 5日 綾子踊公開(加茂神社)
1984年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
1986年8月24日 綾子踊公開(加茂神社)
1988年7月21日 瀬戸大橋架橋博覧会出演(同博覧会場)
1990年9月 2日 綾子踊公開(加茂神社)
    11月24日 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館)

綾子踊の継承にとって大きな意味をもつのが「1976年の国の重要無形民俗文化財指定」です。これはただ指定して、認定書を渡すだけでなく、次のような具体的な補助事業が付帯していました。
①三年間、国の補助金を受け伝承者養成事業を行い、隔年毎の公開公演を佐文賀茂神社で行うこと
②公開記録作成を行うと共に、「佐文誌」編集出版
③全国からの公演依頼に応じて行う公演活動に対する補助金支出
こうして隔年毎に公開公演を行う。そのために事前にメンバーを組織して、踊りの練習を公開1週間前から行うことがルーテイン化します。。回を重ねていくごとに芸司や地唄やホラ貝吹きなど、蓄積した技量が求められる役目は固定化し、後継者が育っていきました。また、子踊りには小学生高学年6人が、お踊りは中学生4人がその都度選ばれ、練習を積んで、大勢が見守る中で踊るという形が定着します。かつて、子踊りを踊った子ども達が、今は綾子踊の重要な役目を演じるようになっています。彼らは「継承・保存」に向けても意識が高く、今後の運営の中心を担っていくことが期待できます。現代につながる綾子踊の基礎は、この時期に固められたと私は考えています。

綾子踊り11
賀茂神社に向かう綾子踊の隊列(まんのう町佐文)

1990年代を見ておきましょう。

1992年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 1日 日韓中3ヶ国合同公演出演(県民ホール)
1994年8月21日 綾子踊公開(加茂神社)
1995年2月16日 NHKイブニング香川出演(佐文集荷場)
5月27日 第3回地域伝統芸能全国フェスティバル出演(サンメッセ香川)
1996年8月25日 綾子踊公開(加茂神社)
11月 3日 ブレ国民文化祭総合フェスティバル出演(県民ホール)
1997年5月24日 第5回地域伝続芸能全国フェステンバル島根出演(出雲大社)
 8月31日 NHKふるさと伝承録画 賀茂神社
   10月25日 ブレ国民文化祭オーフニングフェスティバル出演(県民ホール)
1998年4月19日 国営讃岐まんのう公演フェスタ出演
 9月20日 仲南町民運動会40回大会出演(仲南中学校)
1999年10月30日 郷上民俗芸能祭出演(三木町文化交流ブラザ)
2000年8月27日 綾子踊公開(加茂神社)
国指定25周年記念として新潟県柏崎市の綾子舞を招待し、競演
        ※以降、隔年で加茂神社にて公開

この時期は、重要無形文化財指定後に固定化した隔年毎の一般公開が継承されています。同時に、対外的な出演依頼に応えて、各地で公演活動を行っています。

2000年代を見ておきましょう。
2004年10月14日 中四国芸能大会(琴平町金丸座)
2017年11月12日 柏崎古典フェスティバル2017にて綾子舞と共演
2022年11月30日 ユネスコ無形文化遺産に登録
2023年10月 8日 郡上八幡 出演(郡上市総合文化センター)
               11月25日  第70回全国民俗芸能大会(日本青年会館)に出演

これを見ると、対外公演が激減していることが分かります。この背景には何があるのでしょうか?
考えられる事を挙げてみると
呼ぶ側の財政問題 佐文綾子踊は役目が多く、50人近い大所帯での公演になります。これを1泊2日で呼ぶと、交通費や宿泊費だけで100万円をこえる予算が必要になります。民俗芸能よりも経費がかからずに、人が呼べるイヴェント編成を考えるのは担当者としては当然のなりゆきです。

そんな中で、今年になって佐文綾子踊に公演依頼が次のように入っています。その背景としては、次のようなことが考えられます
①コロナ中に大型イヴェントが実施できずに、財源が蓄積されていること
②風流踊りがユネスコ登録されて、注目度が集まっていること。

佐文綾子踊保存会も公開年ではないのですが、10月には郡上八幡、11月には東京の日本青年ホールでの公開に招かれています。
①佐文賀茂鴨神社での隔年毎の公開公演
②対外的なイヴェントへの出演
これは綾子踊の後継者養成にとっては重要な柱なのです。 第40回全国民俗芸能大会出演(東京 日本青年館:1990年11月24日)に出演し、青年会館ホールで踊った子踊りのメンバーが、今は綾子踊の重要な役割を演じるポジションにいます。それから33年ぶりに日本青年会館で踊ることになりました。彼らが今後の綾子踊りの継承・保存の中核メンバーとなっていくはずです。そのためにも、小・中学生達に大きな舞台に立って踊る経験を積ませたいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 祈る・歌う・踊る 綾子踊 雨を乞う人々の歴史(まんのう町)
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滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
上の滝宮の念仏踊りに参加していたまんのう町の風流踊組の主演者一覧表を見ると、真野・小松・吉野の郷の村々からの出演者によって分担されていたことが分かります。その総数は二百人を越える大部隊でした。今回は、出演者達がどんな人達だったのかを見ていくことにします。
 表で岸上村の分担人数を見ると「笛吹1・地踊5・鉦打7・棒突2・鑓5・旗2 計22名」となっています。
幕末の岸上村の庄屋・奈良亮助が残した文書には、この時の担当氏名が次のように記されています。

一、笛吹 朝倉石見(久保の宮神職)

一番最初に登場するのは笛吹で、久保の宮宮司が務めています。そして地踊については、次のように記されています。
①一、地踊          彦三郎
②一、同  古来仁左衛門株  助左衛門
③一、同  宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
②については本来は、仁左衛門が持っていた株だが、その権利で今回は助左衛門が出演するということのようです。③は宇兵衛が譲渡した株を熊蔵が手に入れ出演するということでしょう。この史料からは、誰でも出演できたわけではなく、それぞれの家の権利(株)として伝えられてきたことが分かります。つまり、世襲制で代々、決められた役を演じてきたようです。
 一方で、旗・鑓・棒突については、次のように記されています。
一、旗   二本 社面と白籐
一、長柄鑓 五本
一、棒突  三本 
ここには、出演予定者の名前がありません。旗・鑓・棒突については、「人夫」に任せていたので出演予定者名がないようです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神(三島神社)に奉納された念仏踊

 七箇村念仏踊は、夏祭りに踊られる風流踊りで祭礼・娯楽でした。それが各村々の神社をめぐって奉納されたのです。芸司や子踊り・時踊り・笛吹きは、それを演じる村の有力者が、その地位を誇示するという中世以来の宮座に通じる意味合いももっていました。奉納される神社の境内は、村の身分秩序の確認の場であったことになります。
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境内での風流念仏踊りを見物する人々。立ち見席の後ろには、見物桟敷が建てれている。これも宮座の有力者の所有物で、売買の対象にもなった。ここで風流踊りを見物できることがステイタスシンボルでもあった。

 なぜ七箇村念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか?
 それは有力者達だけで踊られる風流踊りが、時代に合わなくなってきたからでしょう。幕末になって発言権を高めた農民達は、自分たちも祭りに参加することを求めます。そして、誰もが平等に参加できる獅子舞や太鼓台(ちょうさ)を秋祭りに登場させるようになります。その結果、有力者達だけで演じられてきた風流踊は奉納されなくなります。そんな中で、近代になって七箇村風流踊を綾子踊りとしてリメイクしたのが佐文なのではないかと私は考えています。そうだとすれば、綾子踊りは七箇村風流踊を継承したものだということになります。
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年
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今年度から綾子踊りのスタッフに入ることになりました。その最初の活動が、財田の香川用水の水口祭への参加となりました。その様子をお伝えして、記録として残しておこうと思います。

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水口祭次第(6月11日 日曜)
阿波池田ダムで取水された香川用水が讃岐山脈をトンネルで抜けて、姿を見せるのが財田です。ここには香川用水公園が整備され、水口祭が毎年行われているようです。そこに綾子踊りも参加することになりました。
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佐文公民館 8:40出発
総勢36名がまんのう町の2台マイクロバスで出発です。
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やってきたのは財田町の香川用水公園。トンネルから姿を現した用水が、ここを起点に讃岐中に分配されていきます。会場は、紅白の幕が張ってある場所。まさに香川用水の真上です。その向こうには讃岐山脈が連なります。雨乞い踊りを踊るのは最適の場所かも知れません。
雨もあがったようです。天が与えてくれたこんな場所で、綾子踊りを奉納できることに感謝。

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控え室に入って、衣装合わせです。
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お母さん方の手を借りて、小踊りの小学生達の衣装が調えられていきます。
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こちらせは花笠のチェック。
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着付けが終わると、出演前に記録写真。
そして、会場に向かいます。
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踊りに参加する人以外に、それを支えるスタッフも10名余り参加しています。この日は総勢36名の構成でした。フル編成だと百人近くになります。

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小踊りのメンバーと最後の打合せです。
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いよいよ入場です
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かねや太鼓の素樸な音色が響きます。単調ですが、これが中世の音色だと私は思っています。
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踊りが始まります。芸司の団扇に合わせて、素樸な踊りが繰り返されます。しかし、踊りの主役は、小踊りの女装した男の子達です。中世の神に捧げる芸能では、小踊りは「神の使者」とされていました。小踊り以外は、私には「小踊りに声援をおくる応援団」にも思えます。
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新緑の中に、小踊りの衣装が赤く映えます。

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今回の公演は15分で、演目は3つ。あっという間の時間でした。
公演後に着替えて、うちたてのうどんをいただきました。

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 知事さんもうどんを食べていました。お願いすると気軽に写真に入ってくれました。参加者には、いい記念になりました。感謝

12:20 記念館を出発
12:40 佐文公民館帰着
13:00 弁当配布後に解散
以上、香川用水記念館の水口祭りへの参加報告でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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 ユネスコ無形文化遺産に香川県から滝宮念仏踊りと、綾子踊りが登録されました。滝宮念仏踊には、かつてはまんのう町からも踊組が参加していたようです。今回は、滝宮に風流踊りを奉納していた「那珂郡七箇村踊組」についてみていきます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
まんのう町七箇村念仏(風流)踊り村別役割分担表

この表は文政12(1829)年に、岸上村の庄屋・奈良亮助が踊組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。ここには各村の役割と人数が指定されています。この役割は「世襲」で、村の有力者だけが踊りのメンバーになれたようです。この表からは、次のような事が見えてきます。
①まず総勢が2百人を越える大スタッフで構成されたいたことが分かります。
スタッフを出す村々を藩別に示すと、次の通りです。
A 高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
B 丸亀藩 西七ヶ村(買田・宮田・生間・追上・帆山・新目・山脇)佐文村 
C天領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
まんのう町エリア 讃岐国絵図2
まんのう町周辺の近村々村々
まんのう町の村々(正保国絵図 17世紀前半で満濃池が池内村)

どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは丸亀藩と高松藩に分けられる以前から、この踊りが那珂郡南部の「真野・吉野・小松」の3つの郷で踊られていたからでしょう。七箇村踊組は、中世から踊り継がれてきた風流踊りだったようです。

那珂郡郷名
那珂郡南部の子松・真野・吉野の郷で、踊られていた
②滝宮に踊り込む前には、各村の神社に踊りが奉納されています。
7月17日の満濃池の池の宮から始まって
  18日七箇春日宮・新目村之宮
  21日五条大井宮・古野上村宮
  22日が最終日で岸上村の久保宮と、真野村の諏訪神社に奉納
  27日に滝宮牛頭大明神(滝宮神社)への躍り込みとなっています。
「諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)」に描かれた踊りが綾子踊りにそっくりであることを以前に紹介しました。
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪大明神念仏踊図(真野諏訪神社)

そして役割構成も似ています。ここからは佐文の綾子踊りの原型は、「七箇村踊組」の風流踊りにあることがうかがえます。
③実は七箇村踊組は、もともとは東西2組ありました。
その内の西組は佐文を中心に編成されていたのです。ところが18世紀末に滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで、西組は廃止され1組だけになりました。その際に佐文村は下司など中心的な役割を失い、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文が不祥事の責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文にとって、これはある意味で屈辱的なことでした。それに対して、佐文がとった対応が新たな踊りを単独で出発させるということではなかったのではないでしょうか。こうして雨乞い踊りとして、登場してくるが綾子踊りだと推測できます。そうだとすれば、綾子踊りは那珂郡南部の三郷で踊られていた風流踊りを受け継いだものといえそうです。
綾子踊り67
佐文 綾子踊り
  参考文献  大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年

 瀬戸の港 室津
    室津は古代以来の重要な停泊地でした。
1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。
 室津には、多くの船頭がいたことが史料から分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。当時の瀬戸内海には、港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことを以前にお話ししましたが、室津も塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったようです。 そして、室津は多くの遊女達がいることで有名だったようです。法然上人絵伝の室津での出来事は、遊女が主役です。その段を見ておきます。

室津の浜
室津の浜辺と社(法然上人絵伝34巻第5段)

室津の最初に描かれるシーンです。浜に丘に松林、その中に赤い鳥居と小さな祠が見えます。中世の地方の神社とは、拝殿もなく本殿もこの程度の小さなものだったようです。今の神社を思う浮かべると、いろいろなものが見えなくなります。
室津の浜と社(拡大)
神社と浜部分の拡大

 神社の下が浜辺のようですが、そこには何艘もの船が舫われています。ここも砂浜で、港湾施設はないようです。
 浜辺の苫屋から女房が手をかざして、沖合を眺めています。
「見慣れない船が入ってきたよ、だれが乗っているのかね」。
見慣れない輸送船や客船が入ってくると真っ先に動き出す船がありました。それが遊女船です。

第5段    室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。
室津
       室津(法然上人絵伝34巻第5段)
室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。これが遊女が船なり。遊女申しさく「上人の御船の由承りて推参し侍るなり。世を渡る道区々(まちまち)なり。如何なる罪ありてか、斯かる身となり侍らむ。この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と申しければ、上人哀れみての給はく、「実にも左様にて世を渡り給ふらん罪障(ざいしょく)真に軽からざれば、酬報又計り難し。若し斯からずして、世を渡り給はぬべき計り事あらば、速やかにその業を捨て給ふべし。若し余の計り事もなく、又、身命を顧みざる程の道心未だ起こり給はずば、唯、その儘にて、専ら念仏すべし。弥陀如来は、左様なる罪人の為にこそ、弘誓をも立て給へる事にて侍れ。唯、深く本願を馬みて、敢へて卑する事なかれ。本願を馬みて念仏せば、往生疑ひあるまじき」由、懇ろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙を流しけり。
後に上人の宣ひけるは、「この遊女、信心堅同なり。定めて往生を遂ぐべし」と。帰洛の時、こゝにて尋ね給ひければ、「上人の御教訓を承りて後は、この辺り近き山里に住みて、 一途に念仏し侍りしが、幾程なくて臨終正念にして往生を遂げ侍りき」と人申しければ、「為つらん /」とぞ仰せられける。
意訳変換しておくと
室の泊(室津)に船が着こうとすると、小舟が一艘近づいてきた。これは遊女の船だった。遊女は次のように云った。「上人の御船と知って、やって来ました。世を渡る道はさまざまですが、どんな罪からか遊女に身を落としてしまいました。この罪業重い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
上人は哀れみながら「まったくそのような身で渡世するのはm罪障軽しとは云えず、その酬報は測りがたい。できるなら速やかに他職へ転職し、今の職業を捨てることだ。もし、それが出来きず、転職に至る決心がつかないのであれば、その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ、誓願も立ててくださる。ただただ、深く本願を顧みて、卑しむことのないように。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」ち、懇ろに教へた。遊女は、随喜の涙を流した。
後に上人がおっしゃるには、「この遊女は、信心堅くきっと往生を遂げるであろう」と。
流刑を許されて讃岐からの帰路に、再び室津に立ち寄った際に、この遊女のことを尋ねると、「上人の御教訓を承りて後は、この辺りの山里に住みて、一途に念仏し臨終正念にして往生を遂げた」と聞いた。「そうであろう」とぞ仰せられける。
室津の遊女
        室津(法然上人絵伝34巻第5段)

この場面は、遊女が法然に往生への道を尋ねに小舟でこぎ寄せたシーンと説明されます。

⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取り? 船の前では船乗りや従者達が近づいてくる遊女船を興味深そうに眺めています。
この場面を、私は出港していく船に追いすがって、遊女が小舟で追いかけてきたものと早合点していました。なんらかの事情で法然の話を聞けなかった遊女が、救いの道を求めて、去っていく法然の船に振りすがるというシーンと思っていたのです。しかし、入港シーンだと記します。すると疑問が湧いてきます。わざわざ小舟で、こぎ寄せる必要があるのか?
 兵庫浦のシーンでは、法話の場に遊女の姿も見えていました。室津でも法話は行われたはずです。小舟でこぎ寄せる「必然性」がないように思えます。しかも海上の船の上ですので、大声で話さなければなりません。「往生の道」を問い、それに応えるのは、あまり相応しくないように思えます。
法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
室津船上の法然(一番左 弟子たちには困惑の表情も・・) 
そんな疑問に答えてくれたのが、風流踊りの「綾子踊り」の「塩飽船」の次の歌詞です。
①しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ  津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
②さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ  津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
③多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

ここには瀬戸の港で繰り広げられていた、入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われているというのです。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりが「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。

室津の遊女拡大
      室津の遊女船(法然上人絵伝34巻第5段)
  当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このように入港してくる船を、遊女船が出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。

ここで兵庫湊(神戸)の場面に現れた遊女達の場面をもう一度見ておきましょう。

兵庫湊2
      兵庫湊の遊女船(法然上人絵伝34巻第3段)

左手の艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、若い二人の女が飛び移りました。傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、小堤を叩きながら「たまさか」の歌を歌いかけています。「 綾子踊り」の「たまさか(邂逅)」の歌詞を見ていくことにします。
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露 ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番を「解釈」しておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でした。私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っているようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。
兵庫湊の遊女
兵庫湊の遊女船(拡大図)
「たまさかに」は、港や入江の馴染みの遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面を謡った風流歌だと研究者は考えています。

なじみの男に、再会したときに真っ先に話しかけたことばが「たまさかに」なのです。そういう意味では、恋人や遊女達の常套句表現だったようです。こんな風にも使われています。

○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば  わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)

この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、その内容は「たまさか(久々ぶり)にやって来た愛人と、若宮に籠もって・・・」となり、ポルノチックなことが、さらりと謡われています。研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評します。当時の「たまさかに」という言葉は、女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
こういうやりとりが入港してきた船の男達と交わされていたのです。その後に、遊女達は旅籠へと導いていくのです。
      
ここで押さえておきたいのは、次の通りです。
①遊女船が入港する船を迎えに出向くという作法は、どこの湊でも行われていたこと。
②その際に、遊女は3人1組で行動していたこと
③出迎えに行った遊女は、相手の船に乗り移って、「塩飽船」などの風流歌をやりとりし、遊郭に誘ったこと。
④そのシーンが法然上人絵伝にも登場すること

遊女達を代弁すると、決して、船の上から大きな声でやりとりをするという下品なまねを彼女らはしません。相手の船に移ってから、歌を互いに謡い合い、小堤をたたい優雅に誘うのです。
 以上から、船上から遊女に往生の道を説いたという話には、私は疑問を持ちます。事情をしらない後世の創作エピソードのようにも思えます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

 まんのう町には真野の諏訪神社に奉じられた「諏訪大明神念仏踊図」が保存されています。
私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムでの展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。(番号は図中番号と一致)
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

①2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、
②日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
④花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。
⑤頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。」  
 この絵を最初に見たときには佐文の綾子踊りを描いたものと思いました。そのくらい似ているのです。その共通点を挙げて見ると
A舞台が神社の境内であること
B中央に大きな団扇を持った下司
C花笠を被った中踊りと6人の子踊り  
D警固の棒突や棒振・長刀衆など
ここからは念仏踊りが佐文の綾子踊りに大きな影響を与えていることがうかがえます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
 また、念仏踊りの構成メンバーは、真野だけでなく、佐文・七箇村(東西)・岸上・塩入・吉野・榎井・五条・苗田などで編成され、総勢は二百人を越えていました。滝宮に踊り込む前には、各村の鎮守を何日も掛けて、奉納しています。ここで押さえておきたいのは、佐文も念仏踊りの構成メンバーで、この念仏踊りを踊っていたことです。

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踊りの周りの人たちと、その後の見物小屋

 現在の綾子踊りと異なるのは、踊りの周りに見物の桟敷小屋がぐるりと回っていることです。この見物小屋は真野村の有力者の特等席で、財産として売買もされていました。念仏踊組には、誰でも参加できたわけではなかったようです。中世以来の「宮座」のメンバーだけが参加を許されました。家によって演じる役目も「世襲」されていました。ある意味では念仏踊りを踊ることは、その家柄を誇示することでもあり、名誉あることだったようです。
  この絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
満濃町誌は描かれた時期と、描かせた人物を次のように推測しています。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。

DSC01885

  拝殿の正面に、袴姿で床几に座しているが各村の役人たちでしょう。⑥の日の丸の団扇を持っているのが総触頭の三原谷蔵のようです。ここからは、この絵を描かせた人物は、三原谷蔵で、自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。

IMG_0011綾子踊り 綾子
佐文綾子踊り 
参考文献  満濃町誌「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P  
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      諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
                   
中世以来、子松・真野・吉野郷で郷社に奉納されていた風流踊りが「那珂郡七か村念仏踊り」でした。
これは東西2組で構成され、二百人のを越える大部隊で編成されました。この2つの踊り組の西組は、下司(芸司)や子踊り・棒振・薙刀振・棒振りを佐文村が占めていて、佐文を中心に編成されていた組です。ところが19世紀末に、滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで西組は廃止され、1編成だけになります。そして佐文村のスタッフは、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文をめぐって何らかのトラブルや不祥事があり、その責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文衆にとって、これはある意味で屈辱的なことだったと思われます。それに対して、佐文が起こしたアクションが、新たな踊りを雨乞い踊りとして出発させるということです。こうして雨乞い踊りは生まれたのではないかというのが私の仮説です。
それでは綾子踊りは、どのようにして作り出されたのでしょうか。
新たな踊りを考える際に参考にしたのは、それまで自分たちが参加してきた「那珂郡七か村念仏踊り」です。もう一度、真野郷の諏訪大明神(諏訪神社)に奉納されていた「念仏踊図」を見てみましょう。この絵と現在の綾子踊りの共通点を挙げてみましょう。

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「七か村念仏踊り」の芸司(下司)と子踊り
①花笠をかぶった芸司が「月と星」の団扇をもって踊っている
②赤い花笠を被った六人の子踊り(稚児)がそれに従っている
③棒振と薙刀振が試技や問答を行っている
④棒付きが場内警備について踊り区域を確保している。
⑤幟持ちがいる。
ここからは佐文がメンバーとして参加していた「那珂郡七か村念仏踊り」から多くのものを学び、綾子踊りに引き継いでいることがうかがえます。荒っぽく云うと、役目や衣装は、「七か村念仏踊り」そのまんまです。ちがうのは、まわりに建てられた宮座衆の「見物小屋」だけとも云えそうです。この見物小屋を消して「これが江戸後期の綾子踊りです」と云われても「ああそうですか」と答えそうになります。ここでは、綾子踊りの役目や衣装・持ち物は「七か村念仏踊り」から引き継いだものであることを押さえておきます。DSC01887
七箇村念仏踊図の棒振りと薙刀振り

問題は、この絵図の題名が「諏訪大明神念仏踊之図」とあり、歌われていた風流歌は念仏系であったことです。
現在の綾子踊りは、以前にお話ししたように「瀬戸内海の港町ブルース」のように、男と女の情話が数多く歌われる風流踊歌です。これが「七か村念仏踊り」で歌われていたとは思えません。この風流踊歌は、どこからやって来たのでしょうか。
 
ここで思い出されるのが以前に紹介した、高瀬町上栂の昔話に伝えられる「綾子踊り」です。
そこには次のようなことが語られています。
①時代は、東山天皇の時代とされるので、17世紀後半の元禄年間のこと。
②綾子踊りを伝えたのは、流刑で流された京都の公家の娘・綾子姫。
③綾子姫が船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われ、高瀬の上麻に住み着いた。
④旱魃が続いたときに、人々はいろいろな雨乞祈願をしたが効き目がなかった
⑥そこで綾子姫は「京の雨乞い踊り」を、上栂で踊ることを思い立つ。
その制作過程を、次のように記しています。

 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が上麻の上栂に導入され経緯がうかがえます。
畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。
風流舞には、つぎのような融通性があったことは前々回にお話ししました
      「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

これは、雨乞い踊りにも適応されます。綾子姫が踊った踊りも、当時の流行っていた風流踊りであったことが予想されます。また、「綾子」という伝説上の人物を、取り去ってしまうと、当時の仁尾や観音寺・多度津などの港町で歌われていた風流踊歌が雨乞い踊りの中に「転用」されたことが考えられます。
 「上栂綾子踊り」の起源については、綾子自体が17世紀の人物になります。
また、「金毘羅神=海の神様」として登場します。金毘羅神が海上安全祈願の対象として世間に認知されるのは19世紀になってからであることは以前にお話ししました。ここからは、この物語が江戸時代後半になって作られたものであることが分かります。
 また京都や奈良などでは、雨乞いは真言僧侶や修験者(山伏)など呪力のある修行を積んだ人物が行うもので、雨が降った時にそれに感謝して踊るのが雨乞踊りでした。人々は「雨乞い祈願」のために踊っていたわけではないようです。「雨乞成就感謝」のために、自分たちが普段踊っていた風流踊りを踊ったのです。これは滝宮念仏踊りも同じです。坂本念仏踊りの由来には「菅原道真が祈願して雨が降ったことに感謝して踊る」と記されています。ここでも「降雨成就感謝踊り」であったことが分かります。
 ところが、「上栂綾子踊り」は、京から流刑された綾子姫が京都の雨乞い踊りを参考にして「創作」した踊りで、その目的は「雨乞い祈願」だったというのです。ある意味、民衆による民衆の手による雨乞いがここに生まれたと云えるのかもしれません。18世紀後半から19世紀にかけて上栂では、雨乞いのために綾子踊りが踊られるようになったとしておきます。
 以上をまとめておきます
①「上栂綾子踊り」の起源は、18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

上栂には、この「上栂綾子踊り」の祈念碑が戦後に建てられています。
そこには、佐文より前から綾子踊りを踊っていたことが記されています。綾子踊りの本家本元は上栂であるとの主張にも読み取れます。そうだとすると、上栂から佐文へはどのように移植されたのでしょうか。
 尾﨑傳次氏が書き写したという綾子踊りの由来には、弘法大師伝説が語られています。
それは旅の僧(弘法大師)が綾子に、踊りを伝授したという内容です。しかし、綾子踊りは中世の風流踊りで、歌われている歌も風流歌です。弘法大師のずーと後に作られたものです。弘法大師が生まれた時には、こんな歌や踊りもなかったのです。
 また「善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。」と雨乞いの神として善女龍王の力を讃えますが、この神も讃岐にもたらされるのは近世になってからであることは以前にお話ししました。つまり、この由来は古代にまで遡るものがなにもないことになります。描いた人物は弘法大師信仰をもつ山伏か聖が考えられます。
 
以上の状況証拠の上に、想像力を膨らませて綾子踊り誕生物語を描いて見ましょう。
山伏 七箇村念仏踊りの件の顛末については、聞きましたぞ。大変なことになりましたな。
庄屋 わたしども佐文にとっては厳しいお裁きです。棒付十人の参加しか認められなくなりました。
山伏 それは村の衆も気落ちしていることでしょう。
庄屋 その通りです。念仏踊りへ芸司や子踊りを出すのは佐文の誇りでもありまたので。若衆の中   には、棒振りや薙刀振りは憧れでもありました。それが出せないのは辛いことです。村の空気も沈んでしまします。
山伏 それでは、新しい踊りを佐文だけで始めてはどうですか。
庄屋 そんなことができるのですか
山伏 わたしがよく通う上栂では、新しく綾子踊りという雨乞い踊りを近頃、踊るようになっています。お上も毎年踊る盆踊りには目くじらたてて取り締まりも行いますが、日照りの時の「雨乞い踊り」と云えば、見て見ぬ振りをしているようです。
庄屋 はいはい、そのことは隣村なので知っております。それを佐文で踊るというのですか?
山伏 もちろん隣村で踊られているのを、そのまま佐文に持ってきて踊るのでは芸がありません。
庄屋 それでは、どうするのですが。
山伏 佐文には、今まで参加してきた「七か村念仏踊り」のやり方が伝わっています。衣装もあります。それを使って、踊りや歌はまったく別のものにするのです。上栂綾子踊りで歌われているものや、近辺の村々の盆踊りなどで踊られている歌や踊りを使えばいいのです。それは私が考えましょう。
庄屋 それはありがたいことです。村の衆の気持ちも、晴れるでしょう。よろしくお願いします。
こうして、佐文単独の雨乞い踊りである綾子踊りが、山伏の手でプロデュースされていきます。
    高瀬町史には、 寛政二年(1790)に大水上神社(二宮神社)に奉納された「エシマ踊り」が次のように記されています。
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
意訳変換しておくと
 羽方村(高瀬町)のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷に関する文書(森家文書「諸願覚」)
 旱魃の時に、羽方村の庄屋へ雨請いを願い出た。その際に上ノ村(財田町)と、お上から酒二本と御鯛五つが雨乞いのためにと捧げられた。頂戴の役人と太左衛門が罷り出で、代銀で羽方村に下された。雨請いについては、村々でそれぞれのやり方で行うようにと仰せ付けられた。そこで、7月7日、ニノ宮社の神前、千五百御神前、金出水神二高松王子でエシマ踊りを興行した。踊り子は30人ほどで、歌い手は6人、肝煎、触れ頭サシ、村中は今通りで、百姓・役人・寺社・庄屋が立ち合って奉納した。寺社は御初尾米一升宛と御神酒を御神前え供え、寺社への礼については相談の上で、米五升ほどを送ることを協議手して決めた。この神前への支度供えについては次の通りである。(以下略)

ここには、干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞い踊りが興行されたことが記されています。それに対して、藩からもお供え物が送られ、雨乞い祈祷のやり方については、それぞれの村のやり方で置こうなうように指示されたとあります。

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大水上神社境内の千五百王皇子祠

そこで、羽方村では二宮神社、境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。ここからは雨乞祈願に関しては、踊りを踊ることも含めて各村の独自性に任されていたことが分かります。
エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。
どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。しかし、盆踊としても当時三豊周辺で踊られいた風流系小歌踊の可能性が高いことは、財田の「さいさ踊り」と、綾子踊りに共通する歌がいくつもあることから推測できます。ここからは次のような流れも考えられます。

①京の風流踊り
②瀬戸内海の港町で女達が踊った風流踊り
③港町の後背地への風流踊りの拡大
④雨乞い踊りへの転用とエシマ踊りの誕生
⑤高瀬町麻上栂の「綾子踊り」
⑥佐文綾子踊り

以上をまとめておくと
①「七ヶ村念仏踊り」の中心的な存在を追われた佐文は、新たな雨乞い踊りを作り出した
②その際に役目や衣装、隊系などは今まで参加していた「七ヶ村念仏踊り」を継承した。
③一方、踊りや歌に関しては、高瀬の二宮神社に奉納されていた「エシマ踊り」のものを採用した。
④その結果、服装や役目など見た目には「七ヶ村念仏踊り」に近い形で、歌や踊りは風流系のものが採用されることになった。
こうして、綾子踊りは「七箇村地か念仏踊り + エシマ踊り」というスタイルになった。

こうして誕生した綾子踊りは、次のように今までにない風流踊りの性格をもちます。
①雨乞成就感謝の躍りではなく、農民が雨乞い祈願のために踊る雨乞祈願の踊りであること。
②宮座制でなく、盆踊りのように誰でもが参加できる風流踊りであること。
②については、綾子踊りの由緒書きの中に、次のように記します。
    降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はない。

ここにも、中世的な宮座制から村人全員参加制への転換が、この機会に行われたことがうかがえます。以上は、私の推論であくまで仮説です。事実ではありませんので悪しからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

真野郷の郷社であった諏訪神社には、幕末に奉納された風流踊りの様子を描いた絵図が「諏訪大明神念仏踊図」が残されています。
そこには、芸司が大きな団扇を持って、その後には六人の女装した子踊りや薙刀振りや棒振りが描かれていることは以前にお話ししました。これは、現在の綾子踊りの形態とよく似ています。綾子踊りが、諏訪神社で踊られていた風流踊りから大きな影響を受けていることがうかがえます。
それを裏付けるのが、諏訪神社での風流踊りには佐文村も参加していたことです。
中世の郷社は、郷村内の村々の信仰の中心でした。この時期には、まだ村ごとの神社は姿を見せていません。村ごとに村社が建立されるようになるのは18世紀になってからです。その後、中世の祭礼に代わって獅子舞や太鼓台などが主役になっていきます。ここに描かれているのは、それ以前の郷社の祭礼様式です。それを、各村々から選ばれた踊り手たちが、郷社である諏訪神社に集まって踊りを奉納しています。そして、この数日後には牛頭明神を祭る滝宮天皇社(滝宮神社)にも奉納されます。これを私はかつては「雨乞い踊り」と思っていました。それは、現在の滝宮念仏踊りが雨乞い踊りとされているからです。しかし、「滝宮念仏踊り」は、次の二点から雨乞い「祈願」の踊りとは云えないと私は考えるようになりました。
①坂本念仏踊りの由来には、「菅原道真の雨乞い成就へのお礼のため踊られた」とあること。つまり、祈願ではなく成就への感謝のために踊られたとされている。
②中世の「雨乞い踊り」とされてきた奈良のなむて踊りなども、同様で「雨乞い成就祈願」であること。中世には雨乞祈願ができるのは験のある僧侶や修験者のみが行うものとされていたこと。
③「那珂郡七か村念仏踊り」の幕末の記録には、旱魃で給水作業が忙しいので、今年は「念仏踊り」を延期しようと各村々の協議で決めていること。つまり、踊り手たちも自分たちが踊っている踊りが雨乞い祈願のために踊られているとは思っていなかったこと。
以上からは「那珂郡七か村念仏踊り」は、もともとは雨乞い祈願の踊りではなく、ただの風流踊であったと考えるようになりました。それが近世になって、高松藩主松平頼重が踊りを再開するときに、ただの風流踊りではまずいので、社会的公共性のあるが「雨乞い踊り」として意味づけされたのではないかと考えています。

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見物人の背後に建つ桟敷小屋(見物小屋)

それでは中世の念仏踊りは、何のために踊られていたのでしょうか。

その謎は、この絵の周囲に建てられた桟敷小屋からうかがえます。これは踊りを見物するために臨時に建てられた見物小屋です。そして、小屋には、所有者の名前が記入されています。真野村の大政所(大庄屋)の三原谷蔵の名前もあります。つまり、この見物小屋は中世以来の宮座を構成するメンバーだけに許された特等席で、世襲され、時には売買の対象でもあったことは以前にお話ししました。
 また、芸司などの演じ手の役目も、宮座のメンバーで世襲されています。ここからは、この踊りが中世に遡る風流踊りで、真野・吉野郷と小松庄の宮座メンバーによって諏訪大明神(神社)に奉納されていたことが分かります。ここでどんな踊りが踊られていたのか、またどんな風流歌が歌われていたのかも分かりません。ただ絵の題目には「那珂郡七か村念仏踊り」とあるので、風流系の念仏踊りが踊られたいたようです。
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桟敷席には、それぞれ所有者の名前が記されている

それを真野村の有力者が桟敷小屋の高みから見物します。そして、庶民はその下で押し合いへし合いながら眺めています。彼らは、頭だけが並んで描かれています。彼らの多くは、この踊りにも参加できません。これが中世的な風流踊りだったようです。ここでは、「那珂郡七か村念仏踊り」は宮座による運営で、だれもが参加できるものではなかったことを押さえておきます。
 これに対して、各村々に姿を現すようになった鎮守では、新たな舞が奉納されるようになります。

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それが獅子舞です。
獅子舞は、宮座制に関係なく百姓たちが参加できました。次第に、祭りの主役は夏祭りの「風流踊り」から秋祭りの獅子舞や太鼓台へと主役が交代していきます。そして、農民たちの全員に参加権与えられた獅子舞は、年々盛んになります。
 一方、各村々の有力者による宮座制で運営されたいた風流踊りは、踊り手の確保が困難になり運営が難しくなります。こうして明治になると、滝宮大明神に奉納されていた風流踊り(念仏踊り)は、姿を消して行きます。「那珂郡七か村念仏踊り」が姿を消した原因を挙げておくと
①中世以来の郷社に奉納された祭りで、各村々からの踊り手たちによって編成されていたため、村々の協議や運営が難しく、まとめきれなくなったこと
②運営体制が宮座制で、限られた有力者だけが踊り手を独占し、開かれた運営体制ではなかったこと
③各村々に村社が整備されて、秋祭りに獅子舞や太鼓台が現れ、祭礼の中心がそちらに移ったこと
 滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
「那珂郡七か村念仏踊り」の構成表を見ておきましょう。
ここからは次のようなことが分かります。
①役目が各村々に振り分けられ、どこの村からどんな役をだすのかが決まっていたこと
②真野郷と小松荘の各村々から踊り手や役目が出されて編成されている
③踊りの中心である下知(芸司)は、真野村から出されている
④全体のスタッフが2百人を越える大部隊で編成されたいたこと
⑤鉦打ちが新旧併せて60人と最も多いこと。
⑥子踊り・ホラ貝・薙刀振り・棒振り・幟など、現在の綾子踊りの構成と共通する役目が多いこと
ここでは、佐文村も江戸時代末期まで、「那珂郡七か村念仏踊り」のメンバーであったことを押さえておきます。
 次に寛政2(1790)年の「那珂郡七か村念仏踊り」(福家惣衛著・讃岐の史話民話164P)の佐文のスタッフ配分は、次のようになっていました。
下知1人、小踊6人、螺吹2人・笛吹1人、太鼓打1人と鼓打2人、長刀振1人、棒振1人、棒突10人の計25人。

先ほどの表では約40年後の文政12年(1829)には棒突10人だけになっています。このことは、佐文村に配分されていたスタッフ数が大きく削られたことを示します。
 問題はそれだけではありません。七箇村組の構成そのものが、大きく変化しています。
編成表を比較してみると、寛政2年には踊組は東と西の二組の編成です。そして、下知は真野村と佐文村から各1人ずつ出されています。ここからは1790年までは「那珂郡七か村念仏踊り」には、次の2つの踊組があったことが分かります。
①東組(真野村中心)
②西組(佐文村中心)
②の西組における佐文の役割を見ておきましょう。
6人一組になって踊役を勤める小踊は、踊りの花でもあります。
それが東組では西七箇村から1人、吉野上下村から3人、小松庄四ヶ村から2人の計6人で構成されていました。ところが、西組は佐文村は単独で6人を出しています。
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念仏踊りの花形 棒振りと薙刀振り

さらに、佐文から出されていた役目を挙げておくと、子踊りと並んで花形の薙刀振りや棒振りも次の通りです。
長刀振が真野村と佐文村から1人、
棒振も吉野上下村と佐文村から1人
棒突は西七箇村四人。岸上村三人、小松庄四ヶ村3人の計10人に対して、ここでも佐文村は、10人を単独で出しています。
ここからも滝宮念仏踊の那珂郡南組は、佐文村が西組の中心的な存在であったことが裏付けられます。それが何らかの理由で、中心的な位置から10人の棒付きを出すだけの脇役に追いやられた事になります。どんな事件があったのでしょうか?
 想像を膨らませて、次のような仮説を出しておきましょう。

  佐文村が不祥事(事件)を起こし、その責任を取らされて西組は廃止され、さらに佐文は「役目枠縮小」を余儀なくされ、「棒付き10人」のみを送りだせるだけになった。

この仮説を支える材料を探して見ましょう。
 高松藩・丸亀藩・池御料の三者に属する村々には日頃の対立感情がありました。「那珂郡七か村念仏踊り」が中世に真野郷社の諏訪神社や、小松荘の大井神社に奉納するためにスタートした頃は、郷村の団結のための役割を果たしていました。

那珂郡郷名
真野郷と子松庄

ところが近世になって、この地域は次の三つに分断され行政区が異なることになります。所属する藩が次のように違うようになったのです。
①小松荘が天領の榎井・五条・苗田と丸亀藩の佐文に分割
②真野郷の真野・東七箇村+吉野郷などの高松藩領
③真野郷の西七箇村(旧仲南町)などの丸亀藩。
ここで一番いばったのは①の天領となった村々です。ただ小松荘で天領とならなかったのは佐文です。①の天領の村々からは、運営権を握っていた佐文や真野に対して、何かと文句が出たようです。また、②の親藩髙松藩に属した村々も、外様小藩の丸亀京極藩の住人に対して優越感をもち、見下すような言動があったことは以前にお話ししました。その中で西組の中心でありながら、丸亀藩に属し、他村からの批判を受けがちな佐文は、とかく過激な行動を取ることが多かったようです。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社と別当の龍燈院

  享保年間(1716~36)には、滝宮への踊奉納の際に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順位のことで、東西の踊り組の間で、先後争いが起こしています。そのために元文元年(1736)年以後は、念仏踊は一旦中止され、七箇村組は解体状態になります。それから3年後の元文4年の6月晦日に、夏に大降雹(ひょう)があって、東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を受けます。これは滝宮念仏踊を中止したための神罰であるという声が高まり、関係者の間から念仏踊再興の気運が起こります。龍灯院の住職快巌の斡旋もあって、寛保2(1742)年から滝宮念仏踊は復活します。滝宮龍灯院の斡旋案は、踊奉納をした七箇村組に対して「今後は御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避ける」というものでした。しかし、東西二組編成は、再度の紛争が起こる危険をはらんでいました。
 文化五(1808)年7月に書かれた真野村の庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」の7月24日の龍燈院宛の報告には、次のように記されています。

 七箇村組の行列は、下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人の一編成になっている。取遣留の七月廿五日の龍灯院からの御神酒樽の件は、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」と口上を述べ終わると、御神酒樽は龍灯院へ預かって直ちに持ち帰り、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を書院に招待して御神酒を振る舞った。

 ここからは、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院は接待準備しているのが分かります。この時点で、東西2組編成だったのが1組になり、佐文のスタッフが大幅に減らされたようです。それは、寛政2(1790)年から文化5(1808)年までの18年間の間に起こったことと推察できます。
 あるいは、佐文村の内部に何かの変化があったのかもしれません。それが新たに佐文独自で「綾子踊り」を行うと云う事だったのかもしれません。どちらにしても南組が二編成から一編成になった時点で、佐文は棒振り10人だけのスタッフとして出す立場になったのです。

  以上をまとめておきます
①初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、那珂郡南組(七箇村組)は東西2編成で出場していた。
②その西組は佐文村を中心に編成されていた。
③しかし、藩を超えた南組は対抗心が強く、トラブルメーカーでもあり出場が停止されたこともあった。その責任を佐文村は問われることになる。
④その対策として那珂郡南組は、1編成に規模を縮小し、佐文村のスタッフを大幅に縮小した。
⑤これに対して佐文村では、独自の新たな雨乞い踊りを始めることになった。
⑥それが現在の「綾子踊り」で、念仏踊りに対して風流踊りを中心に据えたものとなった。
⑤⑥は、あくまで私の仮説です。事実ではありません。悪しからず。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  満濃町誌 第三編  満濃町の宗教と文化 「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P
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綾子踊りユネスコ登録
 綾子踊りのユネスコ登録が間近と言われます。それは全国の「風流踊」のひとつとして登録されるようです。雨乞い踊りも風流踊りのひとつのジャンルとして分類されていることをおさえておきます。綾子踊で歌われている歌も風流踊歌のひとつということになります。
たまさか
綾子踊歌 たまさか(邂逅)
 前回までの綾子踊歌を見てみて気づいたことは、歌詞の中に雨乞いについての内容は、ほとんどないことです。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。

綾子踊り風流パンフレット

風流踊歌には、次の3系統があると研究者は考えています。
①田楽系統
もともとは広島の囃子田のように太鼓を打ってはやす田の行事が、丘に上がって風流化したもの
②念仏踊系統
中央に本尊を置いて、その周りを念仏を唱えながらめぐる一遍の念仏踊りが風流踊となったもの
③疫病神送り乱舞が風流踊化したもの
  風流踊りの特徴の一つが、老若男女が誰でも参加して踊るという点にあります。  それは以上の3つの系統が入り交じっていることが、それを可能にしていると研究者は指摘します。風流踊については①②については、なんとなく知っていました。しかし、③の「疫病神送り乱舞が風流踊化したもの」という系統については、私は知りませんでした。この系統について見ておきましょう。

京都やすらい踊り

風流踊りでよく知られているのは、京都の「やすらい花」です。
 春に花が散る際に疫神も飛び散ると言われ、その疫神を鎮める行事として行われきたと言われます。現在の行事について、今宮神社のHPには次のように記されています。
 (前略)
 祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。
祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。
    今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。
 ここからは、花を飾った風流花傘を中心に行列を組み、町の辻々で踊りながら今宮神社境内の疫神社に送るというものであることが分かります。
やすらい祭

この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
はなやさきたるや やすらい花や
やとみくさの花 やすらい花や
 梁塵秘抄口伝集巻第十四「花笠、歌笛太鼓」には、柴野神社の踊りが次のように記されています。
「ちかきころ久寿元年(1151年)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、歌笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。
傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気(原註:悪鬼とも)と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事数におよぶ。
京中きせん市女笠をきてきぬにつつまれて上達部なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の為にもなるべきと書はんべるぞ。」
意訳変換しておくと
「久寿元年(1151年)3月頃、京周辺の男女が紫野社へ風流踊り服装で、歌や笛太鼓、摺鐘などを持って「神あそび」と称して群がり集まっている。今様でもなく、乱舞の音もなく、早歌の拍子どりともちがって歌い囃す。その調子は今までに聞いたことがない。
傘の上に風流の花を指して、童子に「はんじり」を着せて、胸に「かつこ」をつけて、数十人で拍子に合せて乱舞のまねをして、悪気(悪鬼)という鬼の姿をした赤い垂れを首につけて、魚口の貴徳の面を被って12月の鬼洗いのような姿で現れ、わめき叫び狂う。そして神社に参り、神前を回ること数度におよぶ。
京中の貴賤が市女笠を被って、この様子を見に来る。夜は松のあかりを灯して、皆々が遊び狂う。その時に歌われることばをここに書き付けておく。それが今様の為になるかもしれない。」
柴野の今宮さんは、もともとは疫病神でした。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
ここで注目したいのは「はなさきたるや」の風流踊歌です。
この歌はもともとは、美濃の田歌だと研究者は指摘します。どうして田歌が、疫病神送りに歌われるようになったのでしょうか? これに対して研究者は次のように答えます。
  「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

  この答えには、私は拍子抜けしてしまいました。疫病神送りには、それなりの「テーマソング」が考えられ、そのテーマに沿った歌詞が歌われているものという先入観があったのです。しかし、当時は、参加者のよく知っている流行歌でもよかったのです。そのために疫病神送りに、「はなやさきたるや やすらい花や」という雅な歌が歌われたのです。このミスマッチが「鎮花(はなしずめ)祭」という名称とともに、私たちにシュールさを感じさせるのかも知れません。一昔前なら、村の盆踊りに、流行の昭和演歌が歌われ踊られたのと似ているようにも思えます。
鹿島踊り(伊豆)
鹿島踊り(伊豆)
もうひとつ「鹿島踊り」を見ておきましょう。
 鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があるようですが、今では茨城県鹿島神宮では踊られていません。相模湾沿いに小田原市から伊豆東海岸一帯にかけて21ケ所の神社で伝承されていますが、本家の茨城県鹿島神宮には今は伝承されていません。伊豆の鹿島踊りは、歌も、踊りも、衣装も、よく似ているので、そのルーツは一つのようです。白丁という白装束で、踊り手がけがれない白の乱舞を見せてくれます。
 鹿島踊りのルーツは、その名の通り常磐の鹿島地方にあるようでが、ここでは、疫病神や疱瘡神を送るために弥勒歌が歌われていました。弥勒歌とは、弥勒の来訪を賛美する祝歌です。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊るのですが、その発祥の地が鹿島なので鹿島踊りとも呼ばれたようです。疫病神送りに、祝歌というのもミスマッチのような気がしますが、ここでも先ほどの「参加者が知っている歌ならなんでもOK」というルールが適用されたようです。

現在伝わっている風流踊歌の中には、次のような点が見えると研究者は指摘します。
①踊り手自身がアドリブ的に、互いに歌い返すタイプ
②音頭的に、歌詞がどんどん継ぎ足されて、延々と詠い踊られるタイプ
こんなタイプは、踊り手と歌い手が一緒なので、踊るだけでなく、歌も満足しようとする気持ちが強かったようです。そのため踊歌には長いものが選ばれる傾向があります。そして、その延長線上には、知っている歌なら何でも、歌って踊ってみようということになります。これはかつての田舎の盆踊りと一緒です。最初はお決まりの歌詞がありますが、次第に飛び込みでアドリブ的な歌が歌われ、その内に流行演歌などが歌われるようになります。先祖供養というよりも「デスコ的雰囲気」が生まれ、「なんでもありあり」状態になります。これが雑多な庶民性で、新たな創造物が生まれ出す源になったのかもしれません。
  「疫病神送りの乱舞(風流踊)には、何を歌ってもOK」という指摘を受けて、綾子踊りの成立について、次のような過程を考えてみました。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
②多度津や仁尾・観音寺などの港町の女達が歌った風流踊歌がその後背地に拡大した。
③そして郷村の盆踊りなどに、風流踊歌が「転用・混在」することになった。
④その例が、真野郷の郷社である諏訪神社に奉納された「那珂郡七か村念仏踊り」で、これは念仏系の風流踊りであった。
⑤この踊りは真野郷の村々で編成され、宮座によって運営された。
⑥「那珂郡七か村念仏踊り」、各村々の鎮守社にも奉納され、最後に牛頭天王を祭る滝宮神社にも奉納されるようになった。
⑦については、三豊市財田町のさいさい踊りの歌詞の中に、綾子踊りと共通するものがあることなどからもうかがえます。同じような風流踊りが中世の三豊やまんのう町周辺では歌い踊られていたのでしょう。それが盆踊歌に「転用・混合」されて入り込み、神社などに奉納されるようになった。
 南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。

風流踊り

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  本田安次「風流踊考」
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     綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 綾子踊り 六調子
綾子踊り 六調子

五嶋(ごとう)しぐれて雨ふらはば  千代がなみたと思召せ    千代がなみたと思召せ
ソレ リンリンリンソレリンリンリンソレリンリンリン

八坂八坂が七八坂 中の八坂が女郎恋し 中の八坂が女郎恋し
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン

雨もふりたが水も出た 水も出た 渡りかねたが横田川 渡りかねたが横田川
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン
意訳変換しておくと
(一)女 あなたが帰ってゆく道中、時雨が来たら、それは、わたし(千代)が、別れを惜んで流す涙だと思って下さい。
(二)男 道中の坂を越えるたびに、あなたへの恋しさが募るばかり)
(三)男 帰りの道中、横田川を渡りかねています。そのわけは、雨が降り水量が増したからばかりではなさそうです。あなたの宴でのおもてなしが、とてもたのしかったから、お別れがつらいのです。

六蝶子には「勇ましくうたう。速い調子でうたう。」という注がついています。
「六蝶子」は「六調子」です。1番の歌詞から見ていきましょう。最初に出てくる「ごとう=五島」のようですが、九州長崎の五島列島を中心とする島々なのかどうか、よく分かりません。登場する「ちよ」は女性名で、後朝(きぬぎぬ)の別れの台詞です。千代が名残惜しんで歌います。「ちよ」は、この歌の歌い手(自身)です。
2番の「七坂八坂と越えて行く」の歌い手は、「ちよ」と別れてゆく男の科白です。七坂八坂と越えて分かれていく「千代」との別れを詠います。
3番目では、大雨となって道中の横田川が増水して超すに越せない状態になったようです。恋の名残が暗にうたわれているようです。千代と別れて帰る男の道行。別れが辛くて恋しさが募ってくるという所でしょうか。

  ○ごとう(語頭)がしぐれて雨ふらす 
  これもをどり(踊り)のご利生かや

◎千代の男を送り出す別れ涙が雨となった。別れ雨は「涙雨」で、「七坂八坂」の坂を、別れ難くて、越えかねるというの心情が伝わってきます。この心情は、現在の演歌で詠われる「酒は女の涙か、別れ雨」的な心情に受け継がれてきています。こんな歌が、どんな場面で歌われたのでしょうか?
六調子は「酒宴歌謡」で、中世には宴会で踊り付で詠い踊られたと研究者は考えています。
①「ごとうしぐれて」 =送り歌
②「八坂八坂」 =立ち歌
③「雨もふりたつ」 =立ち歌
さらに酒宴の送り歌と立ち歌の関係で見ると、次の通りです。
○もはやお立ちかお名残り惜しや もしや道にて雨などふらば(大分県・直入郡・送り歌)
○もはや立ちます皆様さらば お手ふり上げて ほろりと泣いたを忘りようか(同。立ち歌)
宴会もお開きとなり、招待側が送り歌を歌い、見送られる側が席を立って「立ち歌」を歌います。

「六調子」は、次のように各地に伝わっています。
①広島県・山県郡・千代田。本地・花笠踊・六調子(本田安次『語り物風流二』)
②広島県・山県郡加計町「太鼓踊」。六調子(同)
③広島県・安芸郡田植歌の六調子。(『但謡集』)
④山口県・熊毛郡・八代町・花笠踊・六調子踊(本田安次『語り物風流二』)
⑤熊本県・人吉市・六調子は激しいリズムで、ハイヤ節の源流ともされる。
⑥鹿児島県・熊毛郡の六調子。岡山県の「鹿の歌」の歌を「六調子」と呼ぶ。(『但謡集』)
六調子は、調子(テンポ・リズム)のことで、綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたわれる記されています。

中世の酒宴の流れを、研究者は次のように図解します。
綾子踊り 六調子は宴会歌

酒宴(酒盛)は歌謡で始まり、やがて座が盛り上がり、時が流れて歌謡で終わります。祝いやハレの場の儀礼的な色合いの濃い酒宴においては、次のように進行されます。
①まずめでたい「始め歌」があり、人々の間にあらたまった雰囲気を作り出す
②次にその時々の流行小歌や座興歌謡として、参加者によって詠われる。
③宴もたけなわになると、酒宴でのみ歌うことを許されている卑猥な歌やナンセンス歌謡、参加者のよく知っている「思い出歌謡」なども詠われる。
④最後に終わ歌が詠われる。

①では、迎え歌に対して、招いてくれた主人やその屋敷を讃めて挨拶とする客側の挨拶歌謡があって、掛け合いとなります。
②の終わ歌は、送り歌と立ち歌が詠われます。これも掛け合いのかたちをとります。

 このように中世の宴会場面で歌われたものが16世紀初頭に当時の流行歌集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に採録されます。
   南北朝から室町の時代になると白拍子や連歌師、猿楽師などの遊芸者が宮中に出入りするようになり、彼らの歌う小歌が宴席に列する女中衆にも唄われるようになります。それらを収めたのが『閑吟集』です。流行歌集とも言える閑吟集が編纂されたのは、今様集『梁塵秘抄』から約350年後の室町時代末期(16世紀初頭)のことです。  
 巫女のような語り口調で謡わているのが特徴のようですが、後の小唄や民謡の源になっていきます。これらの小唄や情歌は宴会歌として、人々に歌い継がれ、船乗りたちによって瀬戸の港町に拡がり、風流踊りの歌として、「盆踊り」や「雨乞い踊り」などにも「転用」されていったようです。
綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたうと注記されています。ここまでの歌と踊りは、緩やかですがこの当たりからアップテンポにしていく意図があるのかも知れません。詠われる内容も「別れの浪が雨」で「大雨となって川が渡れない」です。雨乞い歌に「転用」するにはぴったりです。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

今までに12ある綾子踊歌の4つを見てきました。
「1水の踊り」「2 四国船」は、瀬戸内海航路の港や難所、そして、水夫たちが歌われて「港町ブルース」の世界でした。「3綾子」には、綾子の恋の歌で、「4小鼓(こづつみ)」は、情事を詠った艶っぽい歌でした。ここまで見る限りは、雨乞いを一生懸命に祈る、願うというような歌は見当たりません。そろそろ「雨乞い歌」らしい台詞が出てくるのでしょうか。
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花籠

今回は5番目に踊られる「花籠」を見ていくことにします。

綾子踊り 花籠
綾子踊り 花籠
一、花寵に 玉ふさ入れて もらさし人に しらせしんもつが辛苦の つんつむまえの ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ ソレ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かな たまらぬ ハア とに角に
二、花寵に 我恋いれて もらさし人に 知らせしん もつがしんくの つむ前の ヒヤ 一花つむ前の ヒヤ ソレ  つきや恋かな せうたいなしヤ  うきや恋かな砲まらぬ ハア とに角に
三、花寵に うきなを入れて もらさし人に しらせしん もつが辛苦の つむ前の ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ うきや恋かな  せうたいなしや  うきや恋かなたまらぬ ハア 兎二角に
意訳変換しておくと
花籠に恋文を入れて、人には知られないようにと、秘めておくのは、辛いことだよ。しかし、花籠では、すぐに漏れてしまいますよね.

花籠に入れるものが「たまふさ(恋文)→ わが恋 → 浮き名」と変化していきます。この花籠の原型は、 『閑吟集』の中にあると研究者は指摘します。
中世の歌謡 『閑吟集』の世界の通販/真鍋 昌弘 - 小説:honto本の通販ストア

『閑吟集(かんぎんしゅう)』は、16世紀初頭に成立した、当時の流行歌集です。 室町時代に流行した「小歌」226種と、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた」などを合わせて、311首が収録されています。
座頭 - Wikipedia
座頭
これらは座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌とされます。そのため艶っぽいものや時には、ポルノチックなものまで含まれています。また自由な口語調で作られた小歌で、実際に一節切り、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われたものです。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなります。
没後50年、松永安左エ門 「電力の鬼」の信念を支えた茶の心|【西日本新聞me】

『閑吟集』の最後を締めくくるのが、「花籠」です。
①花籠に月を入て 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な(三一〇番)
②籠かなかな 浮名漏らさぬ籠がななふ(311番)
①を意訳変換しておくと
縁側の花籠に 月の光が差し込む
この光を逃さないように 遮るものがないように  この貴重な時間を出来るだけ長く保ちたい
(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)
 花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、という幻想的なイメージも浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。

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「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があるようです。
そうすると、漏らすまいとしているものは何なのでしょうか、それを持つ(持たせる)事が大切なようです。つまりは、性行為の比喩を描いていると研究者は指摘します。
『閑吟集』は、宴席での小歌なども再録されているので、掛け言葉・縁語を交えての猥歌も出て当然なのです。今で云うとエロチックで、ポルノ的な解釈ができる場面が沢山出てきて楽しませてくれます。
 別の見方をすれば、遊女の純愛の歌と解釈することも出来ます。

愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、

 さらには、“月”は男女の間の愛情とか、自分の幸福とか、つかめそうでつかめない、努力しなければすぐに網目をすり抜けいってしまう、そんなもの比喩と考えても意味が通りそうです。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。綾子踊りの花籠では、花籠に次のものが入れられています。
1番に 玉ふさ(玉章)で「書状=恋文」
2番に わが恋
 3番に  浮き名
綾子踊り 花籠3

前回見た「小鼓」と同じように、『閑吟集』の小歌に遡ることができます。綾子踊歌が中世小歌の流れの上に歌い継がれていることが分かります。

佐文周辺でに伝わる「花籠」を見ておきましょう。
①花籠に浮名を入れて 洩らさでのう人に知らせしん もつがしん     (徳島県板野郡・神踊・花籠)『徳島県民俗芸能誌』
財田 さいさい踊り
財田町石野のさいさい踊

香川県三豊市財田町石野・さいさい踊の「花籠たまずさ踊」では次のように歌います。
②花籠にたまずさ(恋文)入れて ひんや 花籠にたまずさ入れて む(も)らさじの人にしらせずや ア もとがしんく(辛苦)で つむわいの つむわいの
③花籠にうきなを入れて(以下同)
④花籠に匂ひ入れて (以下同)
ここからは、佐文の近隣の財田でも、「花籠」が歌い踊られていたことが分かります。佐文だけに伝えられたのではなく、風流歌として、三豊一帯で謡い踊られていたようです。
つぎの「漏らさじ」とは、「人に知らせまいとして、大事に、秘めやかに・・」という意味です。
311番の類歌には、次のような歌われます。
竹がな十七八本ほしやま、浮名や洩らさじのな籠に組も(『松の葉』・巻一・裏組・みす組)

 以上をまとめておきます
①『閑吟集』には、座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌などが311首載せれている。
②これは自由な口語調で作られた小歌で、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われた。
③これが風流歌として各地に拡がり、この小唄を核にして替歌や、小唄の合体などを行われ各首の風流歌が生まれた。
④綾子踊りの花籠と財田のさいさ踊りの「花籠」の歌詞は、よく似ているので、西讃一帯で歌われていたことがうかがえる。
⑤盆踊りなどでは、最初は先祖供養のオーソドックスなものから始まり、時を経るに連れて次第に猥雑な歌詞も歌われた。
⑥郷社では小屋掛けがされて風流歌が盆踊りとして踊られた。その中に人気のあった「花籠」なども紛れ込んだ。
⑦雨乞成就のお礼のために踊りが奉納されるときに、盆踊りが「転用」された。
こんなところでしょうか。
どちにしても、綾子踊りに「花籠」が詠い踊られている事実は、その由来で述べられている「綾子踊り=弘法大師伝授」説とは、次の点で矛盾します。
①歌われている歌詞が16世紀までしか遡ることは出来ない。
②弘法大師が、こんな艶っぽい歌を綾子に伝えたとは、考えられない。
あくまで弘法大師伝授というのは、伝説のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

        
前回までは綾子踊りに謡われる風流歌が「港町ブルース」のように、当時の瀬戸内海の港町や行き交う船の船乗りや港などを舞台にした歌詞が作られていることを見てきました。
今回は、一転して「恋の歌」です。雨乞い踊りに、どうして恋の歌が歌われるのかと疑問に思いますが、少し付き合ってください。 
綾子踊りで3番目に踊られるのは「綾子(綾子踊)」で、歌詞は次の通りです。

綾子踊り 3綾子の歌詞
「綾子踊り 綾子」の歌詞

一、恋をして 恋をして ヤア わんわする 親の ヤア 知らずして
あんあの子は いんいつも ソレ 夏やせをする ウンウノヤ あらんや 夏やせをする ウンウノヤ 
あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
二、我が恋は 我が恋は ヤア 夕陽にむこう 沖の石 ふんふみかやさんされて ヤア ソレ ぬるぬるそで エンエンエノヤ あらんや ぬるぬるそで エンエノヤ あんあじきなや ヒヤ ひうやに ひうやに ヤア やらに やりうろ やりうろ
三、我が恋は我が恋はヤアほん細谷川の丸木橋ふんふみかやさんされて ヤアぬれぬる袖エンエンエノヤあんあじきなやひうやにひうやにヤア やらにやりうろ や
意訳変換しておくと
綾子は恋をして、その心は、いつも「わんわ」して、身は細ります。親はそれと知らず、夏痩せをしているのであろうと思っている。実は恋の痩せなのです。

2.3番は、 一転して失恋の「袖の涙」が歌われます。和歌の類型表現でです。そして全てに「さて雨が降り候」を加えて、雨乞風流踊であることが強調されます。内容を詳しく見ていきます。

「綾子」が身も細るほどの恋をしたようです。
「恋をして 恋をして ヤア わんわする わか恋は」の「わんわする」とは、恋に夢中になり、心奪われてしまっている状態をさすようです。次のような表現例を、研究者は挙げています。

①恋をせば 峰の薬師お参りやれ 峰の薬師は恋の神
           (柏崎市・越後綾子舞「恋の踊」)

恋の踊には、「一つとや」「二つとや」と歌ってゆく数え歌系があります。その例になるようです。「あんあの子は  いんいつも ソレ 夏やせをする」というのは、夏痩せと思えたのは、実は恋のためであったということです。
二番の「沖の石 ふんふみかやさんされて  ぬるぬるそで 」の「沖の石」についての例は次の通りです。
②我恋は潮千に満ちぬ沖の石、何時こそ乾く暇もない(備後地方・田植歌『哲西の民謡』)
③わが袖は汐千に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間ぞなき(『千載和歌集』・巻十二恋二こ二條院讃岐。
④沖の石とはおろかの沙汰よ乾く間もなきわが涙…(『落葉集』・第七・「沖の石」)
⑤見るにつけ聞くにつけ、胸に迫りし数々の、袖も乾かぬ沖の石(吟曲古今大全)
⑥汐千に見えぬ沖の石の乾く間もなき袖の露…(同・沖の石)
意訳変換しておくと
「汐が引いた状態でさえ、その存在がわからない沖の石のように、あの人には私の恋心は気付かれないでしょう。実は深く恋い焦がれているのですよ。

「沖の石」というのは、片思いのキーワードのようです。
三番の「細川谷の丸木橋」が謡われる例としては、次の通りです。
①我恋はほそ谷川のまろ木ばし(丸木橋) ふなかへされてぬるヽ袖かな (「平家物語』巻九・小宰相。『淋敷座之慰』。通盛口説木遣)
②我が恋は 細谷川の丸木橋 ふみかへされては ぬるんるゝ袖かや(『松の落葉』巻第六・四十四 地つき踊.)
③我が恋は  細谷川の丸木僑 ふみかへされてぬるる袖かな
(山口県・南條踊歌、「但謡集』)
④わが恋は細谷川の丸木橋 渡るおそろし 渡らにや殿御に あわりやせぬ(大阪府・泉大津・念佛踊歌. )
わが恋が「細川橋の丸木橋」に例えられています。自分の気持ちを伝えなければ届かないし、それを伝えることは怖いし、躊躇する乙女心という所でしょうか。「細川橋の丸木橋」といえば、自分の思いを告げようか告げまいか悩む乙女というイメージが当時の人たちにはあったようです。ここでは、綾子の「わが恋」が「細川橋の丸木橋」と云うことになるのでしょうか。
意訳変換しておくと
私の恋は、細川橋の丸木橋のようで、自分の気持ちを伝えなければ届かないし、それを伝えることは怖いし、躊躇する乙女心で涙で袖も濡れてしまいました。

ここにも雨乞い的な雰囲気は一切ありません。 「綾子」は、秘めた恋心に苦しむ恋歌としておきます。
研究者が注目するのは全てに出てくる「あんあじきなやひうやにひうやに」の「あじ(ぢ)きなや」です。
このことばは「中世小歌全体の抒情にかかわることば」で「中世小歌の常用の心情語」と研究者は指摘します。『日葡辞書』には、次のように記します。
「アヂキナイ」 情けないこと あるいは嫌気を催させたり、気落ちさせたりするようなことにかかわって言う。あぢきなく あぢきなう」

帚木119-3】古文単語「あぢきなし」とは | 源氏物語イラスト訳で受験古文のイメージ速読

「中世小歌」のキーワードのようです。用例を見ておきましょう。
①沖の門中(となか)で舟漕げば 阿波の若衆に招かれて あぢきなや 櫓が押されぬ(「閑吟集』・一三三)
②北野の梅も古野の花も 散るこそしよずろヽ あぢきなや(『宗安小歌集』‐50)
③見るも苦しみ 見ねば恋しし あぢきなの身や(隆達節)
④吉野のさくら花見る姫も あんじきなあや こしもとこしもと いざやたちより花を見る(香川県三豊郡、さいさい踊・「吉野のさくら踊」)

  次は、4番目が小鼓(つづみ)です。この歌は、もう少し艶っぽい内容になります。
一、君は 小津々み(小鼓) 我しらず ヒヤ 川(皮)をへだてて 恋をめす ソレ うんつんつれなの 君の心に、 イア さて 雨が降り候
二、こまにけられし道草も ヒヤ 露に一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて 雨が降り候
三、水にもまれし うき草も ヒヤ 蛍に 一夜の宿をかす ソレ うんつんつれなの 君の心にゃ ヤア さて雨が降り候
意訳変換しておくと
わたしが恋するあなたは、「小鼓」のようなもの。わたしは、その小鼓を打つ演奏者だよ。鼓の皮を打つと美しい音色を奏でます。それなのに、いつもつれないね。

この「小鼓」は、『言継卿記(ときつぐきょうき)』紙背と『宗安小歌集(そうあんこうたしゅう)』に、次のように載せられています。
『言継卿記』(大永七(1527・五月十四日条の紙背。)
①身(私)は小つヽみ きみはしら(調)へよ  川(皮)をへたててね(寝)にをりやる
「宗安小歌集』(一一五番)
②おれ(私)は小鼓 とのは調めよ 皮(川)をへだてて ね(音)におりやある ね(寝)におりや
『言継卿記』と『閑吟集』は、ほぼ同じ16世紀前半の成立です。①・②はともに、女性が自分を「小鼓」だと歌っています。「ね」は「音と寝」を掛けます。二人は川(皮)に隔てられているので、川を越えて、川の道を通って逢いに来るです。恋人(男性)は、鼓の緒を締めたりゆるめたりする奏者であるということ。「皮」は鼓に張られた皮に「川」を掛けています。「寝におりやる」とあるので、人間の肌の皮を暗示して、艶っぽい歌です。まさに「艶歌」に通じます。

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もう少し用例を楽しんでおきましょう。
①我は小鼓ノ 殿御は調よ かはを隔てて  かはを隔てて ねにござる 花の踊りをノ 花の踊りを 一踊り(『松の葉』・巻一・浮世組)
②いとし若衆との小鼓は締めつ緩めつノ調べつつ ねに入らぬ先に 鳴るか鳴らぬか なるかならぬか(同)
③手に手を締めてほとほとと叩く 我はそなたの小鼓か(隆達節二八九)
④きみはこつゞみ しらべの糸よ いくよしめてもしめあかぬ(『延宝三年書写踊歌』・やよやぶし)
⑤そもじやこつゝみ われはしらべよヒヤア かはをへだてゝ のうさて かわをへだてゝ ねにござれ(駿河志太郡徳山村・盆踊歌)
⑥おれは小鼓 殿は知らぬ 川を隔てゝげに呼ぶ ホチヤラニ/ヽ ヮーローヒューヤラーニ
(阿波国神踊歌 徳島県 板野郡 神踊歌 『徳島県民俗芸能誌』)
⑦そもじやこつゞな われらはしらべよ かわをへだてて のふきて かわをへだててねにござれ(静岡県 榛原郡 徳山盆踊歌)
  ⑥には「おれ」とありますが、中世はこれが女性の一人称だったようです。女性のことです。「ぬしの小鼓となりたい」なんていうのは、江戸の小歌の中にもよく出てきます。

二番の「こま(駒)にけ(蹴)られし道草も  露に一夜の宿をかす」を見ておきましょう。
「駒」は馬で、駒に踏みにじられた道草も、露に一夜の宿を貸す、ということでしょうか。転じて路傍の草のように、相手を思うやさしい心を持ちなさい。私の恋心「下心」を、わかって受け入れて下さいという口説き文句になります。その他の用例を見ておきましょう。
人にふまれし道芝は 一路に一夜のやとをかす あら堅そんじやこの宿は(滋賀県草津市上笠・雨乞踊)
3番の「水にもまれし うき草も  蛍に 一夜の宿をかす」の用例を見ておきましょう。
  我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで 笑止の蛍 (閑吟集59)

意訳変換しておくと 
私の恋は、水辺で燃え立つ蛍のよう。物も言えない哀れな蛍よ

 「笑止の蛍」の「笑止」というのは、現在ではあざ笑うとか、失笑や冷笑の意味で使いますが、もともとの意味は気の毒なとか、かわいそう、痛ましいことといった意味だったようです。「水に」には「見ずに」がかかります。
  「蛍」は「火垂」で「思い(火)」の縁語として使われます。 
現在の演歌の歌詞のキーワードが「酒と女と涙」のように、「蛍」も閑吟集の決まり文句であったようです。この歌を「鑑賞」すると、多分、忍ぶ恋をしているのでしょう。恋しい人の顔を見ることも出来ず、好きとも言えず、ただじっと耐え忍んで思い続ける恋心の切なさ。なんてかわいそうな私……。そう言ってため息をついているのでしょうか。自分の柄とも思えない忍ぶ恋をしてしまった、そんな自分自身を仕様がないとひっそりと嗤っている、そんな姿が描けそうです。
「道草」と「露」、「浮草」と「蛍」の恋の情をうたう部分は、古浄瑠璃『上るり御前十二段』(浄瑠璃御前十二段)・「まくらもんたう(枕問答)」に次のように記されます。
○さてもそののち御さうし(御曹司)は、かさねてことばをつくされける、いかに申さん上るりひめ(浄瑠璃姫)、むかしかいまにいたるまでたけのはやし(竹の林)かたか(高)いとて とうりてん(塔利天)まてとヽかぬもの、たに(谷)のたかいとてみねのこまつ(峯の小松)にかけささず、九ちようのとう(九重塔)かたかいとて、いかなるいや(賤)しきてうるい(鳥類)つはさ(翼)か、はねうちたてゝと(飛)ふときは、九ちうのとう(九重塔)をもした(下)にみる。こま(駒)にけられしみちしば(道芝)も、つゆ(露)に一やのやと(宿)はか(貸)す。みつ(水)にもまれしかわやなぎ(川柳)も、ほたる(蛍)に一やのやどはかす、かせ(風)にもまれしくれたけ(呉竹)もことり(小鳥)に一やのやと(宿)はかす、
たんだ(只、)人にはなさけあれ、なさけは人のためならず、うきよ(浮世)はくるまのはのごとく、めぐりめぐりてのちのよわ、わがみのためになるぞかし
(『浄瑠璃御前十二段』元和寛永頃古活字版。「古浄瑠璃正本集』第一)
意訳変換しておくと
それでも御曹司は、重ねて次のように言われた。どう言ったらいいのはよく分かりませんが、お聞き下さい(浄瑠璃姫)、昔から今に至るまで竹の林が高いからといって、塔利天までには届きません。谷が深いと云っても峯の小松)に影は指しません。九重塔か高いとて、空飛ぶ鳥たちは翼を持ち、羽ばたいて飛べば、九重塔をも下に見ます。駒に蹴られた道芝も、露に、一夜の宿は貸します。水にもまれる川柳も、蛍に一夜の宿は貸します。風にもまれし呉竹も小鳥に一夜宿は貸します。
 只、人にはなさけがあります。なさけは人のためだけではありません。浮世はまわる車輪のように、めぐりめぐりて後の世、我が身のためになることもあるのです。
ここには、「恋の情けを尊しとすべし」ことが御曹司の口を借りて説かれています。こういう発想・表現が中世の風流踊歌の一つの特質だと研究者は指摘します。
 綾子踊りの「小鼓」には、当時流行していた風流歌の「恋歌」が「頭取り」され、三連ともに最後に「雨が降り候」の一句を「接木」して、「雨乞踊歌」としています。ここまでを整理しておきます。
①16世紀前半に成立した閑吟集などに収められた恋歌が「流行歌」として世間に広がった。
②風流踊りの中に「恋歌」が取り込まれて踊られるようになる。
③風流踊りが盆踊りや雨乞い踊に「転用」されて踊られるようになる。
④こうして、中世に読まれた恋歌が「雨乞い踊り」の歌詞にアレンジされながら歌い継がれることになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

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  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
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神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
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神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊り 全景
綾子踊り まんのう町佐文賀茂神社
綾子踊歌は、次の十二の組踊歌から成っています。
1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠  6鳥籠  7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り

綾子踊りは雨乞い踊りなので、歌詞の内容は、降雨祈願のことが謡われているものとかつては思っていました。小さい頃は、何が謡われているのかも気にせずに佐文の住人として、この踊りに参加していました。ところが年月を経て、歌詞の内容を見てみると、雨乞い的な内容のフレーズは、ほとんど見当たらないことに気づきました。出てくるのは艶っぽいオトナの情愛の歌と、瀬戸内海航路を行き交う船と港のことばかりです。まるで「港町ブルース」の世界なのです。どうして、こんな艶っぽい歌が、雨を切実に祈願する綾子踊りで謡われ、踊られていたのか。また、この風流歌の起源はどこにもとめられるのか。それが長年の疑問でした。
 それに答えてくれるのが、「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」です。これをテキストにして、綾子踊歌の起源と内容を見ていくことにします。
       
綾子踊りで、最初に謡われるのは「水の踊り」です。
綾子踊り 水の踊
一、堺の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ  しつぽとぬうれて ソレ 水か水か サア こうちござれ こうちござれ
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ

「さかひ(堺)の町、池田の町、八坂の町」の3つの町が登場します。

頭の町の名前が変わるだけで、後のフレーズは三番まで同じです。三つの町に雨が降ること、その雨に「しつぽと濡れる」ことが謡われます。これを「人々の雨を乞う願い、雨を降らせようとする強い気持ちで包まれた歌」と研究者は評します。

IMG_0018水の踊り

 ここに出てくる「堺・池田・八坂」の町は、現在のどこに当たるのでしょうか?
「さかい(堺)」は、南蛮貿易や商工業で栄えた堺市でしょう。瀬戸内海交易の最大拠点で、西の博多とともに中世には繁栄していた港町でした。瀬戸内海を行き来する廻船のゴールでもあり、文化の中心地で、憧れの地でもあったようです。
堺の港が、登場すると風流歌や雨乞い踊歌を挙げると次の通りです。
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて    (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)
○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな      (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や  (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)
○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ  (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)
○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
こうしてみると堺の港は、瀬戸内海を行き交う船にとって象徴的な町として、風流歌の中に取り込まれて各地で謡われていたことが分かります。それでは、「池田」「八坂」は、どうなのでしょうか。考えつくのは
池田の町=阿波池田?
八坂の町=京都の八坂?
ですが、どうもピンときません。これらの町も「堺」とともに、めでたく豊かさを象徴する町として出てくるとしておきましょう、その中でも「堺の町」は、瀬戸内海文化エリアの中で繁栄する港町のイメージとして登場し、謡われていることを押さえておきます。
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綾子踊り 団扇には「雨乞い」裏が「水」

次に「広いようで狭い」「しっぽと濡れて」です。

この類型句を挙げて見ると次の通りです。
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす  (順礼踊『芸備風流踊歌集』)
○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)
○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も…  (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
ここに出てくる「広いようで狭い」という表現は、その街道が狭いこと云っているのではなく、むしろ、道も狭いと感じさせるほど、町が繁盛し人々で賑わっていることを伝えていると研究者は指摘します。浜松は、東海道のにぎやかな海道の要所です。18世紀後半の『山家鳥虫歌』に、このような表現があるので、近世民謡の一つのパターン的な表現方法のようです。いわば現在の演歌の「恋と涙と酒と女」というような決まり文句ということでしょうか。綾子踊「水のおどり」は、その決まり文句が入ってきているとしておきます。

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次は「しつぽと」についてです。
『宗安小歌集』に、次のような表現があります。
「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。
 中世の『田植草紙』系田植歌には、色歌・同衾場面をうたう情歌にもよく出てきます。こんな表現を民衆は好みます。だから風流化として各地に広まったのでしょう。そして、その根っこでは、人間の「繁殖」と稲の豊穣を重ねて謡われていたと研究者は評します。ここでは、豊作を願う農民たちの祈り歌の思いが込められていたとしておきます。
どうして綾子踊りの最初に、「水おどり」(雨のおどり)が踊られるのでしょうか?
それは綾子踊の目的が雨乞いにあるからと研究者は指摘します。雨が降って身が濡れること、夕立雲が湧き出てくる様子も、豊穣の前兆としてうたわれます。「水おどり」も歌謡・芸能の風流の手法として、農耕の雨を呼ぶ「呪歌」であると云うのです。雨が降ることを確信を持って謡うこと、また祈願が叶って雨が降ったときの歓喜が「雨よろこび」の歌となります。
西讃府志 綾子踊り
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』
幕末に丸亀藩が編纂した『西讃府志』・巻之三の『雨乞踊悉皆写』には、「綾子路舞」について、次のように記します。

佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」

これに続いて、祭礼の人数・役割・位置・衣装等が詳しく記されます。
西讃府志 綾子踊り3
西讃府志 『雨乞踊悉皆写』 最後に踊りの順番が記されている
その一番最後に、踊の順を次のように記します。
 其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
ここでも「水の踊」が全十二段の、最初に置かれています。
綾子踊りは、雨を呼ぶための呪術的祭礼歌謡です。そのために、雨を期待し、表明する歌謡として伝承されてきました。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
 奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。

綾子踊り 善女龍王
綾子踊り 善女龍王の幟

 中世では素人が雨乞いを祈願しても神には届かないという考えがあったようです。
丸亀藩が正式に雨乞いを命じたのはは善通寺、髙松藩は白峰寺だったのは以前にお話ししました。そこでは、高野山や醍醐寺の雨乞い修法に則って「善女龍王」に、位の高い僧侶が祈祷を捧げました。村々でも、雨乞は山伏や近郷の祈祷寺に依頼するのが常でした。自ら百姓たちが雨乞い踊りを踊るというのは少数派で、中世においては「異端的で、先進的」な試みだった私は考えています。
 そういう意味では、佐文の綾子に雨乞い踊りを伝授したという僧侶は、正式の真言宗の僧侶ではありません。それは、山伏や高野聖たちであったと考えた方がよさそうです。雨乞いは、プロの修験者や真言僧侶など霊験のあるものが行うもので、素人が行うものではないという考えが中世にはあったことを、ここでは押さえておきます。

綾子踊り 善女龍王2

 以上見てきたように「水の踊」に登場するのは「堺・池田・八坂」です。讃岐近郊の地名は登場しません。この歌が瀬戸内海を行き交う船の寄港地などで風流歌として歌われ、それが盆踊りに「借用」され、讃岐でも拡がったこと。佐文では、さらにそれをアレンジして「雨乞踊り」に「借用」して踊られるようになったことが考えられます。
最後に意訳変換しておくと
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。

 「雨乞踊の最初に、願いどおりの結果になつたことを、前もってうたい、世の中を祝った予祝歌謡」と研究者は評します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 棒振と薙刀振り(まんのう町佐文 賀茂神社)

綾子踊りは、踊りが始まるまでは、次のような流れで進められて行きます。
①踊り役が入場する前に、龍王宮を祭り、左右に榊をもって露払をする
②台傘持が入り、幟持四名が続き、その後唐櫃、龍王の御霊、柱突、棒振、薙刀振、山伏姿の法螺貝吹、小踊、芸司、太鼓、鼓、笛、地唄、側踊の順に入場して、それぞれの位置につく。
③初めの位置取りは、棒と薙刀が問答を行うため、地唄、警固などが神前定位置に進み、その他は神社の随身門を入ったところに、社前に広場を作る。
④棒振と薙刀振の所作(棒振が進み出て四方を払い、中央で拝して退くと、薙刀振が出て中央で拝し、薙刀を携えて西東北南と四方を払い、再び中央を払い、また四方を払う。薙刀の使い方には、切りこむ形、受けの形、振り回す形などがある。)
⑤棒振と薙刀振とが中央で向かい合い、掛け合いの問答をする
⑥台傘持が来て、棒振と薙刀振の頭上に差掛けると、二名は退場。

綾子踊り 薙刀
綾子踊り 薙刀振り
③④⑤の棒振と薙刀振によって行われる問答は次のようなものです。
棒 暫く暫く 先以て当年の雨乞い 諸願成就 天下泰平 国土安穏 氏子繁昌 耕作一粒万倍と振り出す棒 は 東に向かって降三世夜叉 
薙 抑某(ソモソレガシ)が振る薙刀は 南に向かって輦陀利(ぐんだり)夜叉 
棒 今打ち出す棒は 西に向かって大威徳(だいいとく)夜叉 
薙 又某が振る薙刀は 北に向かって金剛夜叉
棒 中央大日大聖不動明王と打ち払い 薙 切り払い 棒 二十五の作物 薙 根は深く
棒 葉は広く 薙 穂枯れ 棒 虫枯れ 薙 日損 水損 風損なきように 
棒 善女龍王の御前にて 悪魔降伏と切り払う薙刀 柄は八尺 身は三尺 
薙 神の前にて振り出すは 棒 礼拝切り 薙 衆の前は 棒 立趾切り 薙 木の葉の下は 
棒 埋め切り 薙 茶臼の上は 棒 廻し切り 薙 小づまとる手は 棒 違い切り 
薙 磯打つ波は 棒 まくり切り 薙 向かう敵は 棒 唐竹割り 薙 逃る敵は 
棒 腰のつがいを車切り 薙 打ち破り 棒 駈け通し 薙 西から東 棒 北南 薙 雲で書くのが 棒 十文字 薙 獅子奮迅 棒 虎乱入 薙 篠鳥の 棒 手を砕き 雨の八重雲 雲出雲の 池湧きに 利鎌を以って 打ち払い 薙 切り払い 棒 今神国の祭事 薙 東西 棒 南北と振る棒は 陰陽の二柱五尺二寸 薙 ヤッと某使うにあらねども 棒 戸田は 薙 三つ打ち 棒 自現は 薙 身抜き刀軍 古流五法の大事 命

問答の最初に登場するのは、東西南北の守護神と不道明王の五大明王たちです。これらは、修験者たちの崇拝する明王です。続く問答も、山伏たちの存在が色濃くします。
小仏】東寺形五大明王セット 柘植 金泥仕様

宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」を見てみましょう。
「はなとり踊り」には、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に増田集落では修験者がやっていたと伝えられます。山伏と民俗芸能の関係を考える際の史料になるようです。
増田はなとりおどり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
    はなとりおどり(愛南町増田)
「さやはらい」の問答部分は次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ちだが、鎌はさしていない。南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。
 ここからは「さやはらい」に登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったのです。この視点で、讃岐の佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また棒振と薙刀振が登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、綾子踊の誕生には山伏が関与していたことがうかがえます。

山伏(修験者)武術と深く関わっていた例を見ておきましょう。
 幕末に、まんのう町の公文の富隈神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道んだことでも有名です。
  また上人は修験者として武道にも熟練して、その教えを受けていた者もたくさんいたといいます。特に、丸亀藩・岡山藩等の家中に多く、死後には眼鏡灯(摩尼輪灯)2基が、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置されています。このように山伏の中には、薙刀や棒術、鎖鎌などに熟練し、道場的な施設を持つ者もいたのです。そういう視点から見れば、山伏たちが雨乞い踊りや風流踊りをプロデュースする際に、踊りの前に武術的な要素をお披露目すすために取り入れたのかも知れません。
市指定 お伊勢踊り - 宇和島市ホームページ | 四国・愛媛 伊達十万石の城下町
伊勢踊り
もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートで導入された可能性もあります。

綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 6人の子踊り
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0009綾子踊り由来
佐文綾子踊 入庭(いりは)
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
DSC09453
大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

   佐文5
        高瀬町の上栂 金刀比羅宮のある象頭山の裏側にあたる                
高瀬町の上栂には、次のような雨乞いおどりの話が伝わっています。
江戸時代の話です。東山天皇の御代に、京都に七条実秀という人がおりました。七条実秀(さねひで)の綾子姫は、小さいころから美しくかしこい女性でした。ところが、あるとき、どんなことがあったのかわかりませんが、おしかりを受けて、讃岐の国へ送られることになりました。当時、女の人の一人旅はなにかと不自由がありましたから、姫のお世話をするために沖船という人が付きそってきました。
瀬戸内海を渡る途中、船があらしにあいました。綾子姫は、船の中で
お助けください、金刀比羅様。無事に港へ着きますように。たくさんの人が乗っています。
お助けください、金刀比羅様
と、一心においのりをしました。
金刀比羅様は海の神さまです。船は無事に港へ着くことができました。綾子姫はたいへん感謝して、金刀比羅宮へ行き、ていねいにお礼参りをしました。
その後、綾子姫は、金刀比羅様の近くに住みたいと思い、象頭山の西側の上栂の土地に家を定めました。沖船さんは少し坂を下った所にある東善の集落に住むことになりました。

綾子姫と沖船さんがこの地に住むようになってから何年かたちました。
ある年、たいへんな日照りがありました。何日も何日も雨がふらず、カラカラにかわいて、田んぼに入れる水がなくなり、農家の人たちはたいへん困りました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした。この様子に心をいためられた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。
なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。
あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」

   わかりました。やってみます」

沖船さんは家に帰るとすぐ、紙とふでを出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました
綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。

準備ができた日、綾子姫と沖船さんは、農家の人たちに伝えました。

あすの朝早く、村の空き地へ集まってください。雨を降らせるおいのりをするのです

次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。家の人たちも、雨が降ることをいのりながら、いっしょにおどりました
すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。
その後、綾子姫も沖船さんも、つつましく過ごして、 一生を終えたたいうことです。

 ふたりのことは年月とともにだんだん忘れられていきました。
このときの雨乞いの歌とおどりも、行われることがなくなりました。
ふたりのことが忘れられかけたあるとき、東善の人びとは沖船さんをしたって沖船神社を建てました。昔は東善にありましたが、今は麻部神社の中へ移されています。綾子姫のことも忘れないようにと、石に刻まれて、上栂の墓所に建てられています。

 この昔話には、高瀬町の上栂で「綾子踊り」が踊られたことが伝えられています。
① 時代は東山天皇の時代(1675年10月21日 - 1710年1月16日)で、17世紀後半の元禄年間にあたります。
② 綾子踊りを伝えたのは、七条実秀(さねひで)の娘・綾子姫ということになっています。七条家は藤原北家水無瀬流の公家で、江戸時代の石高は200石です。
③ 綾子姫が讃岐に流刑になり、船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われたとされます。金毘羅信仰が海難救助と結びつくのは19世紀になってからですから、この話の成立もこのあたりのことだったのでしょう。
④ 旱魃が続いたときに「農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたが、ききめはありませんでした」とあります。
 ④からは、すでにいろいろな雨乞祈願がされていたことがうかがえます。
5善通寺
          善通寺東院境内の善女龍王社 
高瀬地方で「雨乞いのために神に祈ること」は、高瀬町の威徳院や地蔵寺で行われていた「善女龍王信仰」が考えられます。山で火を焚くことは、山伏たちの祈祷でしょう。それでも効き目がなかったので、綾子姫は「京の雨乞い踊り」の上栂への導入を思い立つのです。
その制作過程を、次のように記しています。
 
 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が導入されたことがうかがえます。さてそれでは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。

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        なむて踊りの絵馬(奈良県高取町 小島神社)

これについては奈良で踊られた「なむて踊り」を紹介したときに、お話ししました。ここでは、百姓たちが雨を降らせるために踊ったのではなく、雨を降らせた神様へのお礼のために踊っていました。言うなれば「雨乞い踊り」ではなく「雨乞い成就感謝」のための踊りだったのです。
 雨乞いは山伏や寺院の僧侶など、特別な霊力をつけた人が行うものです。当時の人たちにとって、霊力のない普通の百姓が雨を降らせるなどというのは、恐れ多い考えでした。滝宮念仏踊りの由来にも、「菅原道真が祈願して雨が降ったので、そのお礼に百姓たちが念仏踊りを踊った」と記されています。ここからも雨乞いのために踊られたという「綾子踊り」は、江戸時代の終わりになって登場したものであることがうかがえます。
5善通寺22
佐文の綾子踊り

 綾子姫が踊った踊りも、当時の畿内で踊られていた雨乞い成就のりを踊りをアレンジしたもののようです。それでは、畿内の百姓たちは雨乞い成就の時には、どんな踊りを踊っていたのでしょうか。それが当時の盆踊りなどで踊られていた風流踊りと研究者は考えています。 佐文に伝わる綾子踊りの歌詞を見ても、雨乞いを祈るようなフレーズはどこにもありません。そこにあるのは、当時の百姓たちの間で歌われ、踊られていた風流踊りなのです。

 以上から分かることは、
①綾子踊りの起源は18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

以前に紹介したように高瀬町史には、大水上神社(二宮神社)に「エシマ踊り」という風流系の雨乞い踊りが伝わっていたことが記されています。これが上栂の綾子踊りの原型ではないかと私は推測します。しかし、上栂には綾子踊りを伝えるのは昔話だけで、史料も痕跡も何もありません。
 佐文の綾子踊りが国指定の無形文化財に指定されるのに刺激されて建てられた碑文があるだけです。この碑文の前に立って、いろいろなことを考えています。

前回には、次のようなことを見てきました
①中世讃岐では高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
③それが雨乞いの「満願成就のお礼」として、菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
  今回は、念仏踊りがどのようにして、各郷村で組織されていたのかを見ていくことにします。
 滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は西四郡而已に成り申し候」
「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」
意訳変換しておくと
かつては、讃岐国内の13郡すべての郡が念仏踊りを滝宮に奉納に来ていた、ところが近年は西4郡だけになってしまった。そこで寅7月23日に、押さえのための高札をお立てなされるように承知いたした

 ここには大幅な省略があるので補足しておくと、もともと讃岐国13郡全てのから奉納されていたが、近年は中断されていた。それを松平頼重が初代髙松藩主としてやってきて、慶安三(1650)年に西四郡のみで再興させたというのです。西とついているのは、高松藩領の西部という意味でしょう。ですから、四郡は 阿野郡の南と北、那珂郡、多度郡ということになるようです。
  しかし、私は讃岐全郡からはやってきていなかったと思っています。もともと滝宮周辺の四郡だけで、これが滝宮牛頭天王社(別当龍燈院滝宮寺)の信仰圏だったと考えています。
松岡調編の「新撰讃岐風土記」には、近世初頭の滝宮踊について次のように記します。
此踊りは村人の踊るには非ずして、往古は本国の人民こぞりて七月二十五日に菅原神社境内に集ひ来て踊れるが、今は僅かに阿野部の村々又那珂郡七箇の村、鵜足郡坂本村等の者の務むることなれり。共式厳重にして踊曲の前後を争へる事最も甚だし。其村々より踊の前後を争はむと数十人行列をなして旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を具したる者数多太刀抜きかざし長刀振りまわしつつ押し寄せ来て既に踊むとするに到て互いに撃合ひ殴合ひて人を害し己をも害せらるる状いかにも野蛮めきて見るにしのびぎるなり。是は元亀天正の野武士の悪癖の遺風たらむと思はれていといと片腹いたくなむ故に国主より官吏を派遣させ制札をも立て警固する事になりしに遂には隔年に二組づ務めめさせることしていと穏便になれるが、今も猶然かり。

意訳変換しておくと
この踊りは村人だけが踊るのではなく、昔(中世)は讃岐の人民がこぞって、7月25日に滝宮神社境内にやってきて踊っていた。それが今は僅かに阿野部(北条組)の村々や那珂郡七箇村、鵜足郡坂本村の者達だけが務めている。かつては組通しで踊りの順番をめぐって争いが絶えなかった。そのため各組は数十人行列を作って、旗幟を翻し、鉦鼓を鳴し、甲冑を着けた者が多数、太刀を抜きかざし、長刀振りまわしながら押し寄せ来て、踊ろうとしている組に襲いかかり、撃合い殴合いが起こり、多くの人達が傷つく野蛮で見るにしのびない惨状でもあった。まさに元亀天正の戦国時代の野武士の悪癖の遺風のような有様であった。そこで国主(高松藩藩主松平頼重)は、官吏を派遣し、制札を立てて警固を厳重にして、隔年に二組ずつ務めめさせることした。それ以後は、次第に穏便になった。

 ここからは、滝宮への踊り込みは大イヴェント行事で、ただの踊りでなく、各組の示威行動の場でもあったこと、そのため暴れるためやってきている連中が数多くいて、争いが絶えなかったこと。そのため甲冑を着け、刀を振り回すような連中に対抗するためにも警固衆が必要だったことが分かります。

滝宮念仏踊り1

その時に、国守(高松藩の松平頼重)によって立てられた高札には次のように記されていたようです。
      滝宮念仏踊の節 御制札左の通
一 於当社 会式之場意趣切喧晩無願仕者在之者 不純理非双方可為曲事・縦雖為敵討無断者可為  越度事附闘落之者見出候共其主人届出会式過重而以い断可相済事
一 於当社・桟敷取候義堅停止事 次鳥居之外而辻踊同寿満別之事
一 宮林竹木不可伐採一併作毛之場江 牛馬放入間敷事
      慶安元子年七月廿三日
意訳変換しておくと
      滝宮念仏踊の節  御制札左の通
一 滝宮神社における念仏踊り会場においては、喧嘩やもめ事などの騒動は厳禁する。たとえ敵討ちであろうとも許可なく無断で行ったものについては、その主人も含めて処罰する。
一 当社においての見物用の桟敷場設置は堅く禁止する 鳥居の外での辻踊や寿舞は別にすること
一 宮林の竹木は伐採禁止、また境内へ牛馬放入はしないこと
   慶安元子(1650)年7月廿三日
 この制札は、幕府よりの下知で、滝宮の念仏踊の日だけ立てられたものです。内容の書き換えについては、その都度、幕府・寺社奉行の許可が必要でした。正保元申年・慶安元子年・寛文三卯年に書き換えられたことが、取遺留に特記されています。

こうして、回が重ねられ、順年毎の出演する組や、演ずる順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが行われるようになったのは、享保三年(1717)頃からになるようです。

滝宮に躍り込んでくる念仏踊りは、どんな単位で構成されていたのでしょうか?

滝宮念仏踊り3 坂本組

『瀧宮念仏踊記録』は坂本念仏踊りについて、次のように記します。

坂本郷踊りも七十年計り以前までは上法軍寺・下法軍寺の二村が加わっており、合計十二ヶ村で踊りを勤めていた。ところが、黒合印幟が出来て、それを立てる役に当たっていた上法軍寺二下法軍寺の二村の者が滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者共と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなった。このことで踊り・人数で支障が出るのではと尋ねてみたが、坂本郷の方では十ケ村で相違ないように勤めるからと答えたこともあって、今日(寛政三年)まで坂本郷十ヶ村で勤めてきている

 坂本郷十ヶ村というのは、どういう村々でしょうか?
  東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

 この村々について、『瀧宮念仏踊記録』は、次のように記します
「坂本郷は以前は一郷であったが、その後東坂本・西坂本・川原・真時と分けられ、他の六ヶ村は、前々から付村 (枝村)であった」

これは誤った認識です。和名抄で鵜足郡を見てみると、小川郷・二村郷・川津郷は当初からあった郷名であることが分かります。
和名抄 讃岐西部

坂本念仏踊りは「鵜足郡念仏踊り」と呼んだ方がよさそうです。どちらにしても、もともとは近世の「村」単位ではなく、郷単位で構成されていたこと分かります。具体的には、坂本郷・小川郷・二村郷・川津郷の中世の郷村連合によって構成されたものと云えそうです。
讃岐郷名 丸亀平野
坂本念仏踊りを構成する郷エリア
 滝宮へ踊り入る年(4年に一度)は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを決めていたようです。その数は300人を越える大編成です。編成表については以前に紹介したので省略します。
川津・二村郷地図
滝宮神社に躍り込んだのではありません。次のようなスケジュールで各村の鎮守にも奉納しています。
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社
那珂郡郷名
那珂郡の郷名
もうひとつ記録の残る七箇村念仏踊りを見ておきましょう。
 滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組も、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領にまたがる大編成の踊組でした。その村名を挙げると、次の13の村です。

真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文

これも郷単位で見ると、吉野・真野・小松の3郷連合組になります。

次の表は、文政十二(1829)年に、岸上村(まんのう町)の庄屋・奈良亮助が念仏踊七箇村組の総触頭を勤めた時に書き残した「諸道具諸役人割」を表にしたものです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

 総勢が2百人を越える大スッタフで構成されたいたことが分かります。そして、スタッフを出す村々は次の通りです。
高松藩 真野村・東七ヶ村・岸上村・吉野上下村
丸亀藩 西七ヶ村・塩入村・佐文村
天 領  小松庄4ケ村(榎井・五条・苗田・西山)
どうして、藩を超えた編成ができたのでしょうか。
それは讃岐が、丸亀藩と髙松藩に分けられる以前から、この踊りが3つの郷で踊られていたからでしょう。滝宮に躍り込んでいた念仏踊りは、中世の郷村に基盤があったことがここからもうかがえます。

踊りが奉納されていた各村の神社と、そこでの踊りの回数も、次のように記されています。
七月十六日 満濃池の宮五庭
七月十八日 七箇春日宮五庭、新目村之官五庭
七月廿一日 五条大井宮五庭、古野上村営七庭
七月廿二日 十郷買田宮七庭
七月二十三日 岸上久保宮七庭、真野宮九庭、
       吉野下村官三庭、榎井興泉寺三庭
              右寛保二戌年七月廿一日記
満濃池遊鶴(1845年)
満濃池の堰堤の右の丘の上に鎮座するのが池の宮
7月16日の 満濃池の宮とは、後の神野神社のことで、この頃は現在の堰堤南付近にありました。今は池に沈んでしまったので、現在地に移っています。

DSC03770満濃池ウテメ
池の宮の拡大図

「7月18日の七箇春日宮五庭、新目村之官五庭」とあるのは、西七箇村(旧仲南町)の春日と新目の神社です。全部の村社に奉納することは出来ないので。その年によって、奉納する神社を換えていたようです。それでも2百人を越える大部隊が、暑い夏に歩いて移動して奉納するのは大変だったでしょう。
文久二(1862)年の時には、榎井の興泉寺と、金毘羅山を終えて、岸上村の久保宮で踊り、最後に真野村の諏訪神社で九庭踊って、その年の踊奉納を終了することになっていたようです。ここからは真野村の諏訪神社がこの組の中核神社であったことがうかがえます。
 それぞれの宮での、踊る回数が違うのに注目して下さい。「真野宮九庭」とあります。数が多いほど重要度が高い神社だったことがうかがえます。また、「下知」を出しているのも真野村です。後にも述べますが、このメンバーは宮座構成員で世襲制です。村の有力者だけが、この踊りのメンバーになれたのです。

 七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。
その時の真野村の諏訪神社の「巡業」の時の様子を描いたものが次の絵図です。
滝宮念仏踊 那珂郡南組

 この絵図については以前にお話ししたので、ここでは踊りの廻りに設置されている見物桟敷小屋だけを見ておきましょう。これについては、以前に次のように記しました。
①風流化した念仏踊り奉納の際に、境内に桟敷席が設けられて、所有者の名前が記されていること。
②彼らは、村の有力者で、宮座の権利として世襲さしていたこと
③桟敷小屋には、間口の広さに違いがあり、家の家格とリンクしていたこと。
④後には、これが売買の対象にもなっていたこと。
 この特権が何に由来するかと言えば、中世の宮座のつながるものなのでしょう。このようにレイアウトされた桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流化した念仏踊りなのです。ここからも、この念仏踊りが雨乞い踊りではなく風流踊りであったことがうかがえます。

IMG_1387
佐文綾子踊り 
これも風流踊りが雨乞い踊りとして踊られるようになったもの

念仏踊りが風流化して、郷社で踊られるようになるまでの過程を見ておきましょう
    中世も時代が進むと、国衛や荘園領主の支配権は弱体化します。それに反比例するように台頭するのが、「自治」を標榜する惣郷(そうごう)組織です。惣郷(そうごう)は、寄合で構成員の総意によって事を決します。惣郷が権門社寺の支配を排除するということは、同時に惣郷自らが、田畑の耕作についての一切の責任を負うということです。つまり灌漑・水利はもとより、祈雨・止雨の祈願に至るまでの全ての行為を含みます。荘園制の時代には、検注帳に仏神田として書き上げられ、免田とされていた祭礼に関する費用も、惣郷民自身が捻出しなければならなくなります。雨乞いも国家頼みや他人頼みではやっていられなくなります。自分たちが組織しなくてはならない立場になったのです。この際の核となる機能を果たしたのが宮座です。
IMG_1379

 中世期の郷村には「宮座」と呼ぶ祭祀組織が姿を現します。
各村々に、村の鎮守が現れるようになるのは近世になってからです。 
各郷の鎮守社で、春秋に祭礼が行われていました。そこでは共通の神である先祖神を勧請し、祈願と感謝と饗応が、地域の正式構成員(基本的には土地持ち百姓)によって行なわれました。また同時に、神社境内に設けられた長床では、宮座構成員の内オトナ衆による共同体運営の会議が開催されます。宮座構成員は、各地域の有力者で構成されます。彼らが念仏踊りの担い手(出演者)でもあったのです。   
宮座 日根野荘
            日根野荘の宮座

近世初頭の「村切り」によって、小松郷や真野郷は分割され、多くの村ができました。

それでも「村切り」の後も、かつて同じ郷村を形成していた村々の結びつきは、簡単にはなくなりません。しかし、一方で「村切り」によって、年貢は村ごとに徴収されるようになります。次第に、村それぞれがひとつの共同体として機能するようになります。また、直接に村が領主と対峙するようになると、次第に村としての共同意識が生まれ育っていきます。そして各々の村は、新たに神社を勧請したり、村域内にある神社を村の結集の軸として崇めるようになります。「村切り」後の村は、結集の核として新たな村の神社を作り出すことになります。つまり、「村氏神(村社)」の登場です。
 こうして、村人たちは2つの神社の氏子になります、
①中世以来の荘郷氏神(真野の諏訪神社や、小松荘の大井神社?)
②「村切り」以降に生まれた「村氏神」
 例えば、綾子踊りの里の佐文村は、中世以来の郷社である小松郷の大井神社の氏子であり、あらたに村切り後に生まれた佐文村の鴨神社の氏子でもあることになります。氏子の心の中では、二つの神社の綱引きが行われることになります。
 新しく登場した村の神社は、宮座はありません。
村の百姓たちに開かれた開放制です。そこで新たに採用される祭礼も、原則全員です。祭礼行事には、後には「獅子舞」が採用されます。これは、各組で獅子を準備さえすれば後発組でも参加できます。宮座制のような排他性はありません。
 宮座祭祀の郷社では、従来の有力者が、宮座のメンバーを独占し、祭祀を独占していたことは先ほど見てきました。ところが新たに作られた村社では、開放性メンバーの下で獅子舞が採用されたと私は考えています。
   人々は郷社のまつりと、村社の祭りのどちらを支持したのでしょうか。
これは地元の村氏神ではないでしょうか。これを加速するような出来事が起きます。それが讃岐の東西分割と金毘羅領や天領の出現です。
生駒騒動で生駒藩が取りつぶしになった後に、讃岐は高松藩と丸亀藩の東西に分割されます。この境界が旧仲南町の佐文や買田との間に引かれます。その上に、小松庄は、金毘羅大権現を祀る松尾寺金光院の寺領と、満濃池御料として天領に組み込まれます。つまり、念仏踊りの構成員エリアが丸亀藩と高松藩と金毘羅寺領と天領の4つに分割されることになったのです。これは地域の一体感を奪うことになりました。こうして時代を経るに従って、それまでの荘郷氏神との関係は薄れていくことになります。かつての郷社での念仏踊りよりも、地元の村社での獅子舞重視です。
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「讃岐国名勝図会』に描かれた水主神社の獅子頭

 それでも念仏踊りは松平頼重のお声掛かりで滝宮神社への定期的な奉納が決められていたこと、また、宮座で役割が世襲制で、これに参加できることは名誉なこととされてもいたこと、などから中止されることはなかったようです。しかし、異なる藩や天領・寺領などからなる構成員をまとめていくことはなかなか大変で、不協和音を奏でながらの運営であったことは以前にお話ししました。
以上を前回のものと一緒にしてまとめておきます。
①中世の讃岐では、高野の念仏聖たちのプロデュースで、念仏踊りが広く踊られるようになっていたこと。
②念仏踊りは、宮座によって、郷社の祭礼や盂蘭盆会に奉納されるようになったこと
③これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかったこと。
④それが菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社に奉納されるようになったこと。
⑤江戸時代に復活され際には、盆踊りでは大義名分に欠けるので雨乞への「満願成就のお礼」とされ、それがいつの間にか「雨乞踊り」とされるようになったこと。
⑥各踊り組は、かつての中世郷村が、近世に「村切り」で生まれた村の連合体であった。
⑦そのため各村にも「村氏神」が生まれたので、ここに奉納した後に滝宮へ躍り込むというスタイルがとられた。
⑧踊組のメンバーは中世以来の宮座制で、あったために役割は世襲化され、一般農民が参加することは出来なかった。
⑨そのため時代が下るにつれて「村氏神」の重要度が高まるにつれて、念仏踊組は機能しなくなる。
 それは「村氏神」に獅子舞が登場する時期と重なり合う。宮座制のない獅子舞が、祭礼行事の中核を占めるようになっていき、風流踊りの念仏踊りも地域では踊られることがなくなっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」


  江戸時代の讃岐では、次の4つの系統の雨乞信仰が行われていたようです。
①善通寺など真言系寺院での善女龍王信仰
②村々を越えた念仏踊り系の滝宮念仏踊り
③山伏たちによる龍が住むという山や川渕での龍神信仰
④各村々での風流踊(盆踊り)が雨乞い踊りとして踊られる風流踊り系の雨乞い
今回は①の善女龍王の三野郡における拡大過程について見ていきたいと思います。テキストは、 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」です。
2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図

善女(如)龍王については、以前に次のようにまとめておきました。
①空海が神泉苑で、善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王の姿は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、高野山では唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、新たな祈雨神として清滝権現を創造した。
⑥醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑦さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し流布させた
⑧その結果、それまでは男性とされたいた善如(女)龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

善女龍王
女性化した善女龍王

 善如龍王が善女龍王になったのは、醍醐寺の布教戦略があったようです。しかし、高野山では、その後も唐風官人の男神の「善女(如)龍王」が描かれています。こうして、国家による祈雨祈願は真言僧侶が善女龍王に対しておこなうという作法が出来上がります。これを受けて江戸時代になると、各藩主は真言寺院に祈雨祈願を命じることが多くなります。祈祷の際には、善女龍王に祈願するのでその姿を描いた絵図が必要になります。絵図を掲げて、その前で護摩が焚かれたのでしょう。そのため善女龍王信仰を行っていた寺には、その絵図や像が残されていることになります。
善女龍王 本山寺
本山寺の善女龍王像
国宝本堂を持つ本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像が伝わっています。  見て分かるのは女神ではなく男神です。先ほどお話したように、善女龍王の姿は歴史の中で次のように変遷します。
①小蛇
②唐服官人の男神          (高野山系)
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系)
  ②の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ここにあるのは木像で3Dなのです。木像善女龍王像は、全国でも非常に珍しいもののようです。
5善女龍王4j本山寺pg
本山寺の善女龍王像
 本山寺の善女龍王像を見ておきましょう。
①腰をひねり、唐服の両袖をひるがえして動きがある
②悟空のように飛雲(きんとんうん)に、乗っている。
③向かって左に、龍の尻尾が見える。
  この彫像は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元年1145)が描いたとされる善女龍王とよく似ているように見えます。
  研究者はこの善女龍王像を次のように評価しています。
 像容は、桧の寄木造であり眼は玉眼がん入である。光背は三方火焔付き輪光で、台座は、須弥座の上に岩座及び雲座を重ねてある。顔は青く長いひげをつけ、爪の長い左手には宝珠を持つ。服装の表面は全面に装飾があり、緑青・金泥で描かれた文様などによく彩色が残っている。
上に乗る本像の形姿は動勢が巧みに表現され、また載金、金泥盛上手法などを交えた入念な彩色などに小像ながら当代の彫像としては佳品として評価できる。像高47.5センチで製作年代については南北朝時代と思われる。
  研究者は14世紀の南北朝時代のものとします。そこまで遡れるのでしょうか。
善女龍王安置 本山寺鎮守堂
本山寺鎮守社
この善女龍王像が安置されていたのが鎮守堂です。
昭和の解体修理で、棟木・肘木から「天文十二年」 「天文十六年」の墨書がでてきました。ここからは、鎮守社が1543(天文十二年)年着手、1547(天文十六年)年の建立であることが明らかになりました。解体前は江戸時代のものとされていたのですが、室町時代末期の当初材を残す中世以来の伝統様式を踏まえた建築物なのです。その後、大修理が1714(正徳四年)年に実施きれたようです。
 香川県内の国・県指定の木造建造物は46棟あるそうですが、この守堂は9番目に古いことになります。善女龍王像は、この建物にずっと安置されてきたようです。
 とすると、善通寺で善女龍王が勧進されて雨乞祈願が行われるのは17世紀後半のことですから、それ以前に本山寺では善女龍王信仰がてあったことになります。私は善女龍王信仰の流れとして、高野山から善通寺に真言僧侶によって持ち込まれ、善通寺を拠点に三豊の本山寺や威徳院に広がったと考えていたのですが、そうではないことになります。善通寺以前に、本山寺には南北朝時代に善女龍王が勧進されていたのです。
善女龍王 威徳院
威徳院(三豊市高瀬町下勝間)にも、紙本著色善女龍王画幅が伝来しています。
これも男神の善女龍王です。威徳院と本山寺は、何人もの住職が兼帯したり転住・隠居して、深いつながりがありました。  室町時代末期には、本山寺では善女龍王に雨を祈る修法が行われていたことは見てきましたが、それが住職の兼帯などを通じて、威徳院へと広がったことが推察できます。
 文化十三(1816)年成立の「讃州三野郡上勝間村山王権現社並所々構社遷宮社職書上帳」には、下勝間村の威徳院の上の三野氏の居城跡とされる城山には、石製の善女龍三社が祀られていて、

「雨乞之節仮屋相営祈雨法執行仕候」

と記されています。祈雨祈願の際には、ここに仮屋が建てられて雨乞いが行われていたことが分かります。勝間地区には威徳院によって善女龍王社が勧請され、その周囲にも信仰が広まっていたようです。
   岩瀬池に善女龍王伝説が付け加えられたりするのも、威徳院周辺に善女龍王信仰の広がりを物語るものなのでしょう。
威徳院の末寺である地蔵寺には、善女龍王の勧進記録があります。そこには、次のように記されています。
善女龍王勧進記 地蔵院
善女龍王勧請記 (文化7(1810年 地蔵寺)
善女龍王勧請記                                       
当国上勝間村地蔵寺主智秀阿遮梨耶一日与村民相議而日、財田郷上之村善女龍王者中之村伊舎那院之所司而当国中之擁護神也、霊験異他而古今祈雨効験掲焉、如響應音焉、幸八山頂有龍神勧請の古跡願於此所建小社勧請、潤道龍王以為此村鎮護恒致渇仰永蒙炎早消除五穀成就之利益実、諸人歓喜一同来告如是、予日善哉此事也遂不日如誓焉、記以胎之後世云維文化七年庚午林鐘十八日
中之村伊舎那院  現住法印宥伝欽記
上勝間村地蔵寺現住 智秀
同庄屋 安藤彦四郎
同組頭 弥兵衛
                        願主         惣氏子中
        別当         地蔵寺
意訳変換しておくと
①上勝間村の地蔵寺住職の智秀が村民と相談し、②財田郷上之村の善女龍王を勧進した。善女龍王は、財田中之村にある③伊舎那院の管理するものであるが、霊験があらたかで、特に④祈雨祈願にすぐれた力があることが知られている。すでに⑤龍神が勧進されていた八つ山山頂に小社を建てて勧請した。⑥潤(渓)道龍王(善女龍王)は、渇水や熱射からこの村を鎮護し、五穀成就の利益と人々に歓喜をもたらすであろう。

ここからは、次のようなことが分かります。
①地蔵寺住職が文化七年(1810)に②財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したこと。
③これは伊舎那院管理下のもので、④祈雨祈願に効力があること
⑤それ以前に上勝間では八つ山に竜神の小社が建立されていたこと
⑥その上に⑥渓道龍王を勧進してパワーアップを図ったこと
 威徳院に関係する寺院や末寺では、本寺に習って善女龍王の勧進が進められていたようです。同時に、財田の伊舎那院管理下の渓道龍王が祈雨祈願に効力があると近隣の村ではされていたことがうかがえます。

渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王

 この「勧請記」には、八ツ山は龍神勧請之古跡だったと記されています。
善女龍王 般若心経 地蔵院
 この勧進に先立つ40年前の地蔵寺「摩訂般若波羅蜜多心経」(明和八(1771)年は、般若心経一字一字に「雨」冠をつけ、善女龍王諸大龍王に雨と五穀豊穣を祈った願文です。この願文からは、澗(渓)道龍王の勧請以前に、八ツ山には龍神が勧請されていたことがうかがえます。

善女龍王 地蔵院
地蔵寺には像高19㎝の小さな木造「善女龍王像」が伝来しています。これも男神の善女龍王像で、飛雲の台座に立つ像です。両手先・右足先・尾が欠損しています。顎髭をたくわえ、やや笑みを浮かべた柔和な面相をしています。像は唐服をまとい、その両腕の肘あたりに広がるフリル様の表現が本山寺のものと似ているような気もします。ところがこの善女龍王像の特徴は、左腰に刀を差しているのです。これは初めて見ましょう。この像が文化年間に財田から勧請された時に造られ、八ツ山の社に安置されていたものかもしれません。

  本山寺・威徳院・地蔵院に伝わる善女龍王についてまとめておきます。
1 本山寺の善女龍王は、高野山金剛峰寺蔵の定智筆本(久安元1145)によく似て、高野山の影響を受けた早い時期のものである。
2 本山寺周辺では室町時代末期には、善女龍王信仰が村われていた
3 威徳院には、紙本著色善女龍王画幅がある。
4 威徳院と本山寺は、住職が転住(隠居)または兼帯し、深い関係にあった。そのため本山寺から善女龍王信仰は伝わってきたと考えられる。
5 威徳院周辺には善女龍王を祀った祠もあり、19世紀初頭には高瀬地区で善女龍王信仰が広がっていた
6 威徳院の末寺(隠居寺)である地蔵院は、善女龍王を勧進した記録があり、小さな木像も伝わる。
7 この木像は、佩刀している善女龍王像で全国的にも例がない。高瀬地方での「地方的変容」を遂げた像でる。
以上からは、三野郡の善女龍王信仰は南北朝時代に本山寺で始まり、それが本末関係を通じて威徳院や地蔵院に広がっていたことが考えられる。ここからは善女龍王の招来ルートは、善通寺を通すことなく高野山から本山寺に直接的に伝来したことがうかがえます。その間には、独自のルートがあり、高野聖などの廻国聖の動きが考えられます。
5善通寺22

 善女龍王信仰は土着的な雨乞祈願にも影響を与え、「善女龍王」の幟を立てて、風流踊りを雨乞いとして踊る村も出てきます。
それが大水上神社(二宮神社)に奉納されていた雨乞い踊りの「エシマ踊り」です。これは那珂郡佐文へ麻地区を経由して伝わります。佐文に伝わる綾子踊りに、善女龍王の幟が立てられるのは、このような経緯があるようです。
イメージ 11
綾子踊りに立てられる善女龍王の幟(まんのう町佐文賀茂神社)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「高瀬町史324P 高瀬町の雨乞」

   前回は、近世初頭に高野聖たちが四国辺路の札所に定住していく過程を見てみました。今回は、四国辺路にとらわれずに全国の村々に、どのように定着していったのか。また、その結果として何が生まれ、何が残されているのかを見ていくことにします。
テキストは 五来重 高野聖 です。

高野聖の地方定着していく方法のひとつは、荒地の開墾開発です。
越中の中新川郡山加積村(現、上市町)の開谷と護摩堂の二集落は、高野聖による開村を伝える集落です。そして、開谷には踊念仏系の棒踊や太刀踊がのこっています。ここからは踊念仏と高野聖と関係がうかがえます。
越中是安村松林寺の、『文政七年書上帳』には、松林寺の先祖について次のように記されています。

祖先は「高野山雲水知円」という者で、文禄二年(1593)以前に越中砺波郡山田野に小庵をかまえて定住した。このとき神明宮も一緒にまつったが、文禄二年に修験道をまなんで、神明宮の別当になった。宝暦12年(1761)に山号寺号を免許されて、山田山松林寺と称した

ここからは高野聖が修験者に「転進」し、神社の別当社の社僧として定着したことがわかります。
 これとおなじような例は越中高宮村法船寺にもあります。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。

①高野聖→ ②修験道者 →③地域の神社別当職の真言系僧侶 →④明治以後の神職

  また、越中には高野聖のつたえたものとおもわれる踊念仏系の願念坊踊が分布しています。
2016願念坊踊り | 見て来て体験メルヘンおやべ:富山県小矢部市観光協会
越中願念坊踊
 
越中願念坊踊で有名なのは、石動(いするぎ)町(小矢部市)綾子のものです。
ここでは黒衣に小袈裟・白脚絆・白足袋・白鉢巻の僧形の踊り手や、浴衣の下に錦のまわしを締め込んだ踊り手が、万燈梨花傘を立てて踊ります。花笠は二段に傘を立て、音頭取りはその傘の柄をたたいて音頭をとるのは住吉踊とおなじです。楽器は拍子木と三味線です。こうした願念坊踊は婦負郡八尾町付近、上新川郡大沢野町大久保でも行われていたようで、このときには伊勢音頭が謡われたようです。

 伊勢音頭をうたいながら願人坊踊をするところは、長野県下伊那郡天龍村坂部の冬祭です。これの芸能の始まりに、高野聖が関わったと研究者は考えているようです。
願人坊主(がんにんぼうず) : あるちゅはいま日記
「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の大道芸。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。
願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたりして銭を乞うた。

 越中の中新川・婦負・東砺波・西砺波では、祭礼行列に「願念坊」という仮装道化が現れます。
「オドケ」とか「スリコン」、または「スッコン棒」と呼ばれる黒衣に袈裟の坊主頭で、捕粉木やオシャモジやソウケ(宗)をもって道化踊をします。これを「スッコン棒」とも「願人」とも云います。スッタカ坊主やスタスタ坊主は「まかしょ」ともいい、高野聖の異称のようです。また江戸時代には高野聖は「高野願人」ともよばれていました。ここからは、これらの仮装道化も高野聖や願人坊が伝えた念仏踊の道化だったことが分かります。そして、越中砺波地方には、高野聖の碑が各地にのこります。
八郎潟町〉願人踊 ▷エネルギッシュな踊りを繰り広げる | webあきたタウン情報
八郎潟町の願人踊り

願人坊踊は願念坊踊とか道心坊踊ともよばれるもので、もともとは卑猥な踊りをして人をわらわせるものでした。
この「願人」とは鞍馬願人や淡島願人などもいて、有名社寺への代願人(「まかしょ」)たちのことです。願人は、代参人として喜捨をえていたので、高野聖だけをさすわけではありません。しかし近世にはいって、高野山へかえることのできなくなった高野聖の大部分が、願人の群に入っていたようです。その数は相当数にいたことが予想できます。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
  門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。念仏踊や雨乞踊りなど風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったという仮説が示されます。本当なのでしょうか。史料的な裏付けはあるのでしょうか。
住吉踊とは - コトバンク
住吉踊り

『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第11巻、三一書房、昭和45年)には、次のように記されています。
躍り(伊勢踊)の手は、願人坊主、手を付て願人躍りの如く、
三味線・太鼓・すりがね等にてはやし、傘をさし、
住吉躍りのごとし

意訳変換しておくと
伊勢踊の手の動きは、願人坊主(高野聖)が(振り付けて)た願人踊りとよく似ている。三味線・太鼓・摺鐘などではやし、傘をさすのは住吉踊りのようでもある。

ここからは、高野聖が関わった願人踊りが、伊勢踊りや住吉踊りの起源になっていることがうかがえます。高野聖たちは「願人」として、風流踊念仏から伊勢踊や住吉踊り、そして住吉踊りの変化した阿波踊までも関係していたことを研究者は指摘します。

住吉踊り奉納2015 : SENBEI-PHOTO
住吉踊り

そのような役割を、どうして高野聖が果たすことができたのでしょうか。
研究者は次のように指摘します。

 高野聖が遊行のあいだに、雨乞や虫送り、あるいは非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることからおこったのであろう。

 つまり、雨乞いや虫送りの年中行事や、ソラの集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、新たに作り上げる役割を果たしたのが高野聖であったのです。つまり、僧侶や神主などの宗教者よりも、彼らは庶民信仰に近い位置にいたことがおおきいと研究者は指摘します。

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聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。

それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。

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聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが高野聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのも、高野聖でした。さらに以前にお話しした庚申信仰も、彼らが庚申講を組織していったようです。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
滝宮念仏踊り
こういう視点で、讃岐の民俗芸能を改めて見返してみるといろいろと新しい事が見えてきます。
例えば念仏踊りです。現在の由来では、菅原道真や法然との結びつきが説かれています。しかし、これを高野聖によってプロデュースされたものという仮説を立てれば、次のように見えてきます。
①近世において、善如(女)龍王信仰に基づいて真言寺院による雨乞祈祷の展開。それに対して、庶民側からの雨乞行事の実施要求を受けた高野聖(山伏)による雨乞念仏踊りの創始
②宮座中心の祭りに代わって、獅子と太鼓打を登場させ祭りを大衆化させたのも高野聖
③佐文の綾子踊りも風流踊りと弘法大師信仰を結びつけたののも、高野聖

今まで見てきたように、高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。

修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったことがうかがえます。


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諏訪大明神念仏踊(まんのう町諏訪神社)

高野聖そのものが、神としてまつられた所もあるようです。
 三河の北設楽郡東栄町中在家の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖がきて窟に住んでいたと云います。やがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」としてまつるようになります。子供の夜晴きや咳や腫れ物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えないといいます。
大林寺
 おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も、廻国の高野聖が重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話したと伝えられます。童達と仲良くした聖は亡くなる時に次のような話を残します。
「・・私は死んでも魂はこの村に残って、この村の繁栄と皆さんの病気を治してあげます。病気になったら私の名を3べん呼んで下さい。治ったら私の好きな松笠を・・・・・・・・」
 お聖様が亡くなってからも、お聖様の評判は一層高くなり、近郷の村々にまで伝わって行き、お願いに来る人や、お礼参りに来る人でにぎわい、お墓は松笠で埋まってしまう程でした。やがて心ある村人によって聖神(ひじりがみ)としてお祠が建てられ、さらに大林寺の横に聖堂(ひじりどう)が建てられ、参詣者があとを絶たない。
鳳来の伝説(鳳来町文化協会発行)より引用

聖の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと云い残して亡くなったようです。
聖堂(大林寺)
大林寺住職は、この聖のために聖堂を建ててまつり、また神主・夏□八兵衛は、これを「聖神」として祀ったと伝えられます。
聖神宮
昔から高野聖と笠は、深い関係があるので、笠のかわりに松笠をあげて願をかけたようです。
聖堂には松笠がいまでも供えられています。


神としてまつられた高野聖は、四国の土佐長岡郡本山町にいます。
この聖の子孫は本山町の門脇氏で、 一枚の文書が残っています。(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年) ここには「衛門四郎という山伏」が出てきます。この人物は、弘法大師とともに四国霊場をひらいた右衛門三郎との関係を語っていた高野聖だったようです。
門脇家に残る「聖神文書」は、これを次のように記しています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、
奥大田へやって来て、 杖を置いて
木能津に着いて、蛇石に誓い 
鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた
分家は 下関にある。吉三という家である
門脇氏の若宮八幡を祀り
井戸(釣井)注連縄を引き、
八大龍王を清浄に祀ることするること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」とまつったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社とされてきました。本山町のものは、高野聖が自分の形見をのこして、聖神として祀ったことが分かります。
日吉大社御朱印②(日吉大社上七社権現) | 出逢いは風の中
聖真子(ひじりまご)社のお札

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑のあとが斜面いっぱいにのこっていたと云います。今ではすっかり萱藪におおわれています。しかし、耕地の一番上に、袈裟と衣を埋めたという聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)は残っているようです。

本山町付近では、始祖を若宮八幡または先祖八幡としてまつることが多いので、聖神と同格になります。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
 また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。

以上をまとめておくと
①高野山が全国的霊場になったのは、高野聖の活躍の結果であった。
②高野聖は高野山の経済と文化の裏方として中世をささえてきたが、つねにいやしめられ迫害される存在でもあった。
③高野山は真言宗の総本山としてのみ知られているが、かつては念仏や浄土信仰の山でもあった
④日本総菩提所の霊場となった高野山と庶民をつないだのが高野聖であった。
⑤弘法大師信仰は、高野聖が庶民のなかに広めた
⑥官寺的性格の高野山は、「密教教学の山で真言宗徒の勉学と修行の場」であり、庶民にとっては垣根が高く、無縁の存在だった。
⑧一方、高野聖たちは、弘法大師を「真言宗の開祖」というよりも、「庶民の病気を癒やす、現世の救済者」と捉えた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑩近世の高野聖は、地域への定着を迫られ、村々の文化的宗教的行事のプロデューサーの役割を果たすようになる。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献

    
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諏訪大明神念仏踊之の図(まんのう町)

まずは絵図をご覧ください。神社の境内で団扇を持って、踊りが踊られているようです。手前(下部)では薙刀振りが、薙刀を振り上げて警護をしているようです。そして、それを取り巻く境内いっぱいの人たち。最初にこの絵図を香川県立ミュージアムの「祭礼百態」展で見た時には、「綾子踊り」だと思いました。綾子踊りは、国の無形文化財に指定されている風流踊りで佐文の賀茂神社で、2年に一度奉納されています。その雰囲気とよく似てるのです。

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桟敷席から念仏踊りを見る長百姓たち 
桟敷席にはそれぞれの家の名前が記されている

しかし、よく見ると少し違うことに気付いてきました。見物客の後側に並んで建つ小屋群です。これは各村の支援テントかなと現代風に考えたのですが、よく見ると人の名前が入れられています。小屋の所有者の名前のようです。さらによく見ると2階から踊りを見ている人たちが描かれています。これはどうやら見物小屋(桟敷小屋)のようです。この絵図に付けられた説明文には、次のように記されています。
諏訪大明神念仏踊之の図
本図はまんのう町真野の諏訪神社に奉納される念仏踊りの様子を描く。2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
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 また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子どもがいる。下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。
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これは綾子踊りではなく念仏踊りなのです。場所も、加茂神社ではなくまんのう町真野の諏訪神社だというのです。しかし、綾子踊りとの共通点が非常に多いのです。また、見物小屋については何も触れていません。この念仏踊りは諏訪神社以外の周辺の神社でも奉納されています。佐文の賀茂神社でも踊られていたようです。そして、最後に滝宮神社に奉納されていました。
images (6)綾子踊り

佐文の綾子踊り

滝宮念仏踊りについて確認しておきましょう。
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。(意訳)
   喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日①菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、②道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。③国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

要点を挙げておくと
①菅原道真が讃岐国司として赴任中に、大干ばつが起きた
②菅原道真は、城山で雨乞祈祷を行い雨を降らせた
③国中の百姓が喜びお礼のために「滝宮の牛頭天皇社」に、雨い成就のお礼踊りを奉納した。

  綾川中流の滝宮にある滝宮神社は、もともとは牛頭天皇社として中世から農耕作業で重要な働きをしていた牛の神様として、地域の農民から信仰を集めてきました。そして、中讃での牛頭信仰の拠点センターとして、周辺にいくつものサテライト(牛頭天皇社)を持つようになります。こうして滝宮牛頭天皇社は、毎年牛舎や苗代などに祭る護符を配布する一方、煙草・棉・砂糖などの御初穂を各村々から徴集します。滝宮牛頭神社は、農民の生活の中に根を下ろした神社として多くの信者を得ます。この神社の別当寺が龍燈院でした。龍燈院は現在の滝宮神社と天満宮の間に、広大な伽藍を持つ有力寺院で、この寺の社僧(真言系修験者)が滝宮神社を管理運営していました。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)とその別当寺龍燈院
 ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りは、菅原道真の雨乞いに成就に対して百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った」のです。感謝の踊りであって、もともとは雨乞い踊りではないのです。

滝宮念仏踊り
滝宮神社の念仏踊り
滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

かつては、念仏踊りは讃岐国内の13群すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていたというのです。続けて

「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」

とあり、高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させたといいます。念仏踊りは風流踊りで、雨乞いだけでなく当時の人にとってはレクレーションでもあったので大勢の人が集まります。そのため喧嘩などを禁ずる高札を掲げることで騒ぎを防止したようです。4つの組の踊りの順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが毎年行われるようになったのは、享保三年(1718)からのようです。

滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領の13ヶ村にまたがる大編成の踊組でした。
その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。そのため、踊組の内部でも、天領民の優越感や丸亀・高松両藩の対抗意識が底流となって、内紛の絶えることがなかったようです。そのため中断も何回もありました。これを舵取る当番の各村の庄屋は、大変だったようです。
 さて七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
 さて、諏訪神社の見物桟敷小屋の謎にもどりましょう。
その謎を解く鍵は、隣の村の久保神社に残されていました。

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 岸上村の庄屋・奈良亮助が残したもので「天保9年再取極 滝宮念仏踊 久保宮(久保神社)桟敷図 
七箇村組記録 奈良亮介書」と真ん中に大きく記されています。これは久保神社で念仏踊りが行われる時の桟敷の配置図です。よく見ると、境内の周りに桟敷小屋を建てる位置が記入してあります。
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そして、次のように記されています。
 戌八月十日、於久保宮において念仏踊見物床場の之義について、去る七日に長百姓・社人・朝倉石見が出会い相談の上、床場所持の人は残らず相揃い、一同相談の上、昔のことなども確認した結果、以下のような配置に改めることになった。
 御殿占壱間後江引込東手二而
     真南向弐間  神余一統(神職 朝倉氏)
       同弐間  奈良氏(岸の上の庄屋)
 同所東占西江向壱間半 同性分
 右一間半之分へ先年権内権七と申者一統之床場二而御座候所、文政三辰年彼是故障申出候二付、其節朝倉加門・優益・庄次郎・太郎兵衛四人之衆中占、右権七占法外之申出候義ハ、困窮二相成居申候二付彼是申義二付、少々為飯料 指遣候様申出候二付、四人之取扱二而米五斗銀拾五匁指遣、
壱間半之場所買取、都合本殿前三間半ハ奈良家之床場二相究せ候事。(中略)
意訳変換しておくと
御殿(拝殿?)前の一間後へ引込んだ東手の二面については
  真南向の二間  神余一統(神職 朝倉氏)
  同弐間     奈良氏(岸の上の庄屋)
  同所東の西向壱間半 同性分
 この一間半之分は、もともとは権内権七の一族床場(桟敷席権利)であった。しかし、文政三(1813)辰年に、一族から、経済的な困窮で維持が困難となったたので、適当な飯料で売却したいという申し出があった。そこで相談役の四人衆で協議した上で、庄屋の奈良家が米五斗銀拾五匁で、権内権七から壱間半の床場を買取ることになった。こうして、本殿前の奈良家の床場は、従来のものと合わせて三間半の広さとなった。(下略)
この史料からは、桟敷床場の権利をもつ構成員が、経済的な困窮のためにその権利を手放したこと、それを庄屋奈良家が買い取ったことが分かります。つまり、久保神社の床場配置の「再取極」(再確認書)のようです。本殿真南の一番いい場所は、神職朝倉氏と庄屋の奈良氏が2間の広さで占めます。問題は、その隣の一間半の部分です。ここはかつては、権内権七一族のものでしたが、経済的な困窮からこれを庄屋の神職の朝倉家が買い取り、朝倉氏が持つ本殿前の床場(桟敷占有面)は、「本殿前三間半は奈良家之床場二相究せ候」と記します。ここからは久保神社では「床場」が売買されていたことが分かります。
南 面申内川問
御殿方西脇壱間後へ引込
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方束向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 右嘉十郎之ハ、明和年中二大坂表向稼ニ罷(まかり)越候ニ付き、床場ヲ舎人朝倉氏に預け置き之あり。同所へ太郎兵衛床場之由申出、口論ニ及び候ニ付き、奈良亮助方双方へ理解申聞せ、右弐間半之内壱間半朝倉氏二、残ル壱間ハ太郎兵衛床場二相究遣シ、万一嘉十郎子孫之者村方へ罷帰り相応相暮候様相成候得バ、両人之分を山下家江表口弐間半分指戻候様申聞せ、相談之上相済候事。
意訳変換しておくと
南 面申内川問
御殿(拝殿)西脇の壱間後へ引込んだ場所
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方東向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 この嘉十郎については、明和年中(1761~)に大坂に稼ぎに行って、床場を社人朝倉氏に預け置いていた。ところがここの権利は自分にあると太郎兵衛が申出で、朝倉氏と口論になった。そこで庄屋の奈良亮助が双方の仲裁に立って、次のように納めた。二間半の内の一間半は朝倉氏、残りの一間は太郎兵衛の床場とする。もし嘉十郎の子孫が村へもどってきて、相応の暮らしぶりであれば、両人分二間半を山下家に返却することに同意させた上で、相済とした。

 山下嘉十郎については、一家で大坂に出向く際に、床場の権利を朝倉氏に預けたようです。その分について、朝倉氏と太郎兵衛が分割して使用することになったようです。面白いのは、もし嘉十郎の子孫が村に帰ってきた場合は
「相応の暮らし」をするようになれば、床場を返還するという条件です。貧困状態で還ってきたのでは、床場権利は健脚出来ないというのです。ここからは、床場は長百姓階層や高持百姓などの、富裕な人々だけに与えられた権利であったことが分かります。
 諏訪神社の絵図には見物桟敷の前に、頭だけを目玉のように描かれた見物人がぎっしりと描かれていたことを思い出して下さい。あれが、一般の民衆の姿なのです。そして有力者がその背後の見物桟敷の高みから念仏踊りを風流踊りとして楽しんでいました。絵図には、見物桟敷の持ち主の名前が全て記入されていました。このことから考えると、この絵図の発注者は、諏訪神社の「宮座」を構成する有力者が絵師に書かせて奉納したものとも考えられます。

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以上から分かることは次の通りです
①祭礼の桟敷席が、村の有力者の権利として所有され、売買の対象だったこと
②桟敷席には、間口の広さに違いがあり、その位置とともに家の家格と関係していたこと。
③困窮し手放した場合は、その子孫が無条件で返還されるものではなく「相応の暮らしを維持できる」という条件がつけられていたこと。
「桟敷席」の権利が、村での社会的地位とリンクしていたこと押さえておきます。
この特権は、中世の「宮座」に由来すると研究者は考えています。このように桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流踊り(=念仏踊り)なのです。そして、それが描かれているのが最初に見た諏訪神社の祭礼図ということになるようです。
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風流踊りが奉納された久保神社(久保の宮)の境内
どんなひとたちが、この踊りを踊っていたのでしょうか?
 岸上村の庄屋・奈良亮助が残した記録の中に「諸道具諸役人割」があります。これによって天保十五年の七箇村組の踊役の構成を知ることができます。
   踊子当村役割
 一、笛吹        朝倉石見(久保の宮神職)
 一、関鉦打        善四郎
 一、平鉦打       長左衛門
 一、同         徳左衛門
 一、同         与左衛門
 一、同          権 助
   同 古来?仁左衛門 助左衛門
  、同 古来?全左衛門 宇兵衛
       宇兵衛右譲受 五左衛門
 一、同 古来右九左衛門 十五郎
   当辰年廻り鐘当村へ相当り候事 是ハ公事人足二而指出候事
 一、地踊         彦三郎
 一、同 宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
 一、同 利左衛門    孫七出ル
            清左衛門出ル
 一、同 又左衛門   五左衛門
 一、同 善次郎    伴次郎出ル
 一、旗    弐木 内壱木 社面
            壱本 白籐
 一、長柄鑓  五本
 一、棒突   三本 内壱本新棒と申 分二而御座候。
 右之通相究在い之候事
 右の役割表を見ると一番最初の笛吹きは、久保の宮住職です。
そして「株」「譲渡」の文字が目立ちます。元々は、中世の宮座と同じように各村で踊子の役割はそれぞれの家の特権(株)として伝承されてきたようです。
 「同 古来?仁左衛門 助左衛門」とあるのは、元々は仁左衛門が持っていた株を、助左衛門が持っていて出演する権利を持つということでしょうか。「同 宇兵衛同人譲渡 熊蔵出ル」というのは宇兵衛株が譲渡した株で熊蔵が出演するということでしょう。先ほどの床場の権利と同じように、「出演権」も譲渡や売買の対象になっていたようです。株が固定していない廻り鐘は、公事人足が勤めていたようです。そのため旗持、長柄鑓、棒突は、人名が記されていません。
  ちなみに「公事人足」とは、村の共同の仕事に当たる人足のことです。高松藩では村から年貢米を徴収する時に、百姓の持高の一割を公事米として徴集しました。これを村の道普請などの公事役に出た人々の扶持米(サラリー)としました。念仏踊の食料なども、この公事米から支出されていたようです
 念仏踊の起源は中世末まで遡れれますが、その発生から名主や長百姓の特権的な結びつきで編成されたようです。祭祠的、仏教的な風流であったと同時に、その村の有力者がその地位と勢力を村の人々に誇示する芸能活動として伝承されてきたという面もあります。念仏踊りの踊り手の出演権や見物桟敷(床屋)にも、その痕跡が残されているのです。
ここからは、鎮守は村のメンバーの身分秩序の確認の場であったことが分かります。中世以来、鎮守の宮座は名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていました。新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていました。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。荘郷鎮守で毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちは荘郷内での身分秩序の形成や確認の場でもあったのです。それが、この念仏踊りにも、しっかりと現れています。

さて、それではなぜ幕末から明治にかけて念仏踊りは奉納されなくなるのでしょうか?
この疑問に答えるキーワードを並べて見ます。
①「氏神」から「産土社」への転換
②庄屋などの村の有力者層に対する百姓達の発言権の高まり
獅子舞と太鼓台(ちょうさ)の登場
この3つの要素を、まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社は造田一族の氏神と伝えられています。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が山熊神社の造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。
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どうして久保神社では、宮座的な特権が再確認されたのか?
 同じころ讃岐山脈の阿讃境に近い勝浦の落合神社でも、祭礼の時の桟敷が全廃されています。藩政時代の記録には、山間僻地の代名詞として、中熊集落の名がよく登場します。その中熊集落で、幕末の天保二年に祭礼の桟敷が全廃されているのに、岸上村久保神社では長百姓階層の間で、先例と古格を堅く守って伝えられてきた念仏踊の桟敷が同じ時期に、再協定されて維持されています。どうしてでしょうか?時代の流れに棹さす動きのようにも思えます。
 幕末天保年間になると、岸上村でも長百姓層の盛衰交替によって、踊役の株が譲渡されることが多くなります。引受手のない踊役の株は、公事役によって演じられる状態になっています。小間者層の間から念仏踊の桟敷撤廃の動きがあったことも考えられます。
  そこには岸上村の置かれた特殊事情があったのではないかと研究者は考えているようです。
   岸野上村・吉野村・七箇村は、池御料(天領)や金毘羅領に隣接しています。そのため条件のいい金比羅領や天領に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、末耕作地が多くなる傾向が続きました。そこで、高松藩としては他領や他郡村からこの地域へ百姓が移住することを歓迎した様子がうかがえます。建家料銀三百目(二一万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。
 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。
そういう意味では、ここは人口流動が他の地域に比べると大きかったようです。そのような中で、旧来からの有力者層と新しく入ってきた小間者層の間に秩序付けを行うための空間として神社の祭礼空間は最適なハレの場だったでしょう。移住者に権威を示し、長百姓層の優越した立場を目に見える形で住民に知らせるという、一つの宗教・社会政策の一環と考えられていたのかもしれません。それが、久保神社の桟敷床場の再協定だったのではないかと研究者は指摘します。
この祭礼時の桟敷席の変化バージョンが小豆島にあります。
sDSCN4999小豆島 池田の桟敷

初めてこれを見たときには「一体これはなあーに?」と考え込んでしまいました。
瀬戸内海の島に現れた野外劇場? ここで演劇が行われた? 
しかし「当たらずとも遠からず」。
芝居ではなくちょうさ(太鼓台)のかきくらべを見物する桟敷席なのです。
DSC_0486亀山八幡宮祭礼
小豆島池田のちょうさ桟敷
今でもここに薦掛け(現在はビニールシート)して、豪華なお弁当持参で一日中見物するのです。
youkame-semi (6-1)1811年に三木算柳によって描かれた亀山八幡宮祭礼
今から約200年前の小豆島池田の亀山八幡の祭礼 ちょうさが姿を見せています
ちょうさが大阪から瀬戸内海を通じてこの島に姿を現すのは18世紀後半です。そしてすぐに祭礼行列の主役になっていきます。ここには中世の宮座的な特権的な要素があまりありまっせん。氏子がみんなでお金を出し合い、みんなの力でちょうさを担ぐというスタイルは平等志向が強い祭礼行事です。これは当時の社会的な機運にマッチするものでした。新しい祭礼の主役であるちょうさの勇壮な姿を見るために氏子達は、その舞台を作りあげたのです。そして、それは建設資金を出した氏子達に平等に分割されました。その所有権は、後には売買の対象にもなります。
小豆島 池田の桟敷 3

もうひとつ、祭礼の主役として登場してくるのが獅子舞です。
獅子も近世の半ば以降に讃岐の祭礼に姿を現します。そして村の中の家格に関係なく参加することができました。念仏踊りの役割が宮座の系譜に連なる権利で、有力者の家柄でないと参加できなかったのとは対照的です。
  
時代の流れに棹さした組織・システムで運営された中世的な色合いが強かった念仏踊りは人々の支持を失い村々の神社で踊られることは少なくなっていきます。代わって讃岐の祭礼の主役となって現れるのがちょうさと獅子舞です。
現在時点での大まかな私の推論です。

参考文献
大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年



 
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綾子踊りを見ていて、不思議に思うことがあります。

1 なぜ、男が女装して踊るのか
2 雨乞い踊りと言いながら詠われている内容は、祈雨祈願とはほど遠い恋の歌など、当時の「流行歌」の歌詞ではないか
3 弘法大師が伝えたと言うが歌われている歌詞の内容は近世のもの。成立年代も近世以後ではないのか
そんな疑問を持ちながら綾子踊りの周辺の雨乞い踊りをもう一度見てみることにします。

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 「綾子踊りの里」佐文は金毘羅さんの裏側にあり、三豊郡との郡境に位置します。隣接する三豊郡では、やよな八千歳踊(県無形民俗文化財)やさいさい踊(市無形民俗文化財)などの小歌踊系の雨乞踊が伝わっています。彌与苗(やよな)踊は地名をとって、「入樋の盆踊」とも呼ばれており、その名の通り元々は盆踊り歌ではないかとされています。当時の人々は、日照り旱魅などの天災や虫害などを、非業の死を遂げたものの崇りと考えていました。そのため死者供養としての盆踊が各地で踊られていました。この盆踊りが雨乞踊のときにも踊られ、神社に奉納された記録が残っています。
  祈雨祈願の成就判定を鰻の白黒で行った大水上神社
三豊市高瀬町の羽方に鎮座する大水上神社は、延喜式で「讃岐二宮」とされている神社で、境内を宮川の源流が流れ、周辺には磐境が散在します。この神社には、雨乞の聖地というべき渕があります。現在の私から見ると岩に囲まれた小川の淵ですが、昔の人たちは鰻渕と呼び、戦前までは霊験が知られた雨乞の聖地でした。二百年前ほど前の天保12年(1812)年「地志撰述草稿(羽方村控)」には、ここで行われた雨乞祈祷について次のように記されています。
一、鯰淵龍王 雨乞之節 里人共渕ヲ干シ 供物持参法施仕候、中黒キ鯰出候時八不日二御利生御座候、白キ鯰出候時八照続キ申候、黒白共不定、往古より今二至迄如何成旱魅二渕水涸る事無御座候」
意訳変換しておくと
 この神社には鯰淵龍王が住んでいる渕がある。雨乞の時には、この渕を干して、お供え物を供える。黒い鰻(史料には「鯰」とありますが鰻の誤り)が出れば利生(雨が降り)、白い鰻が出れば照り続ける。昔から今に至るまで、どんな干ばつでも鰻淵は水が涸れたことがない。
 大勢の村人が見守る中、境内の淵を干し、祈雨の判定を現れた鰻の白黒で行ったということです。このイベントを取り仕切ったのは、真言修験道系の山伏達だったのでないかと私は想像しています。 

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 雨乞祈祷の後に奉納したエシマ踊りとは?

注目したいのは、この後に何が行われたかです。
別の記録では、寛政二年(1790)の大水神神社の記録として次のような記事があります。 
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞いを行った際に、上ノ村やお上から雨乞用に酒と鯛をいただき御神前に供えたことが記されています。その後、二宮神社、同境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。
 エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。
しかし、盆踊としても踊られる風流系小歌踊の可能性が高く、現在は伝承されていないものの上麻地区の綾子姫・綾子踊伝承と関わりがある可能性があります。そのような系譜の上に佐文の綾子踊りがあるのだと私は推測しています。
 「昔は雨が降るまで、踊り続けていた」
という古老の言葉は、何時間も踊っていたことを示しています。その長丁場の中、盆踊歌や風流歌など当時の村々に伝わっていた歌を全て歌って、踊って奉納したと言うことではないでしょうか。
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 雨乞いの特徴は、御利生(雨が降ること)が得られるまで、いくつかの方法を段階的に行ったり、組み合わせて行います。また降雨という願いが叶うまで、踊る対象を次第に大きくしていきます。綾子踊でも、村踊、郡踊、国踊と、雨がなければ、次第に規模を大きくして行ったと伝わっています。
 そして、願いかなって雨が降った場合は、御礼参りや御礼踊をすることが通例でした。
願ほどきだったのでしょうが、近代に盛んに行われた金刀比羅宮への火もらいでも、雨が降ると必ず御礼参りにいっていました。
 
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