瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:綾子踊りの起源

 まんのう町には真野の諏訪神社に奉じられた「諏訪大明神念仏踊図」が保存されています。
私が最初に、この絵図を見たのは香川県立ミュージアムでの展示でした。その時には、次のような短い説明が付けられていました。(番号は図中番号と一致)
諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

①2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、
②日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知
③同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
④花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子踊りもいる。
⑤頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。」  
 この絵を最初に見たときには佐文の綾子踊りを描いたものと思いました。そのくらい似ているのです。その共通点を挙げて見ると
A舞台が神社の境内であること
B中央に大きな団扇を持った下司
C花笠を被った中踊りと6人の子踊り  
D警固の棒突や棒振・長刀衆など
ここからは念仏踊りが佐文の綾子踊りに大きな影響を与えていることがうかがえます。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
 また、念仏踊りの構成メンバーは、真野だけでなく、佐文・七箇村(東西)・岸上・塩入・吉野・榎井・五条・苗田などで編成され、総勢は二百人を越えていました。滝宮に踊り込む前には、各村の鎮守を何日も掛けて、奉納しています。ここで押さえておきたいのは、佐文も念仏踊りの構成メンバーで、この念仏踊りを踊っていたことです。

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踊りの周りの人たちと、その後の見物小屋

 現在の綾子踊りと異なるのは、踊りの周りに見物の桟敷小屋がぐるりと回っていることです。この見物小屋は真野村の有力者の特等席で、財産として売買もされていました。念仏踊組には、誰でも参加できたわけではなかったようです。中世以来の「宮座」のメンバーだけが参加を許されました。家によって演じる役目も「世襲」されていました。ある意味では念仏踊りを踊ることは、その家柄を誇示することでもあり、名誉あることだったようです。
  この絵を描かせたのは誰なのでしょうか?
満濃町誌は描かれた時期と、描かせた人物を次のように推測しています。右側の仮桟敷に「カミマノ(上真野)大政所、三原谷蔵」とあります。三原谷蔵が那珂郡の大政所を勤めたのは、文久二(1862)年のことです。

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  拝殿の正面に、袴姿で床几に座しているが各村の役人たちでしょう。⑥の日の丸の団扇を持っているのが総触頭の三原谷蔵のようです。ここからは、この絵を描かせた人物は、三原谷蔵で、自分の晴れ姿を絵師に描かせたという説を満濃町誌は採っています。

IMG_0011綾子踊り 綾子
佐文綾子踊り 
参考文献  満濃町誌「諏訪神社 念仏踊の絵」1100P  
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      諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
                   
中世以来、子松・真野・吉野郷で郷社に奉納されていた風流踊りが「那珂郡七か村念仏踊り」でした。
これは東西2組で構成され、二百人のを越える大部隊で編成されました。この2つの踊り組の西組は、下司(芸司)や子踊り・棒振・薙刀振・棒振りを佐文村が占めていて、佐文を中心に編成されていた組です。ところが19世紀末に、滝宮への奉納を廻って、なんらかのトラブルがあったようで西組は廃止され、1編成だけになります。そして佐文村のスタッフは、「棒付10人」だけに大幅に縮小されます。ここからは佐文をめぐって何らかのトラブルや不祥事があり、その責任をとらされたことがうかがえます。
 今まで踊りの中心を担っていた佐文衆にとって、これはある意味で屈辱的なことだったと思われます。それに対して、佐文が起こしたアクションが、新たな踊りを雨乞い踊りとして出発させるということです。こうして雨乞い踊りは生まれたのではないかというのが私の仮説です。
それでは綾子踊りは、どのようにして作り出されたのでしょうか。
新たな踊りを考える際に参考にしたのは、それまで自分たちが参加してきた「那珂郡七か村念仏踊り」です。もう一度、真野郷の諏訪大明神(諏訪神社)に奉納されていた「念仏踊図」を見てみましょう。この絵と現在の綾子踊りの共通点を挙げてみましょう。

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「七か村念仏踊り」の芸司(下司)と子踊り
①花笠をかぶった芸司が「月と星」の団扇をもって踊っている
②赤い花笠を被った六人の子踊り(稚児)がそれに従っている
③棒振と薙刀振が試技や問答を行っている
④棒付きが場内警備について踊り区域を確保している。
⑤幟持ちがいる。
ここからは佐文がメンバーとして参加していた「那珂郡七か村念仏踊り」から多くのものを学び、綾子踊りに引き継いでいることがうかがえます。荒っぽく云うと、役目や衣装は、「七か村念仏踊り」そのまんまです。ちがうのは、まわりに建てられた宮座衆の「見物小屋」だけとも云えそうです。この見物小屋を消して「これが江戸後期の綾子踊りです」と云われても「ああそうですか」と答えそうになります。ここでは、綾子踊りの役目や衣装・持ち物は「七か村念仏踊り」から引き継いだものであることを押さえておきます。DSC01887
七箇村念仏踊図の棒振りと薙刀振り

問題は、この絵図の題名が「諏訪大明神念仏踊之図」とあり、歌われていた風流歌は念仏系であったことです。
現在の綾子踊りは、以前にお話ししたように「瀬戸内海の港町ブルース」のように、男と女の情話が数多く歌われる風流踊歌です。これが「七か村念仏踊り」で歌われていたとは思えません。この風流踊歌は、どこからやって来たのでしょうか。
 
ここで思い出されるのが以前に紹介した、高瀬町上栂の昔話に伝えられる「綾子踊り」です。
そこには次のようなことが語られています。
①時代は、東山天皇の時代とされるので、17世紀後半の元禄年間のこと。
②綾子踊りを伝えたのは、流刑で流された京都の公家の娘・綾子姫。
③綾子姫が船で向かう途中に嵐にあって金毘羅神に救われ、高瀬の上麻に住み着いた。
④旱魃が続いたときに、人々はいろいろな雨乞祈願をしたが効き目がなかった
⑥そこで綾子姫は「京の雨乞い踊り」を、上栂で踊ることを思い立つ。
その制作過程を、次のように記しています。

 「雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました」
 
ここからは、当時の畿内で踊られていた「雨乞い踊り」が上麻の上栂に導入され経緯がうかがえます。
畿内で踊られていた「雨乞い踊り」とは、どんなものだったのでしょうか。
風流舞には、つぎのような融通性があったことは前々回にお話ししました
      「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

これは、雨乞い踊りにも適応されます。綾子姫が踊った踊りも、当時の流行っていた風流踊りであったことが予想されます。また、「綾子」という伝説上の人物を、取り去ってしまうと、当時の仁尾や観音寺・多度津などの港町で歌われていた風流踊歌が雨乞い踊りの中に「転用」されたことが考えられます。
 「上栂綾子踊り」の起源については、綾子自体が17世紀の人物になります。
また、「金毘羅神=海の神様」として登場します。金毘羅神が海上安全祈願の対象として世間に認知されるのは19世紀になってからであることは以前にお話ししました。ここからは、この物語が江戸時代後半になって作られたものであることが分かります。
 また京都や奈良などでは、雨乞いは真言僧侶や修験者(山伏)など呪力のある修行を積んだ人物が行うもので、雨が降った時にそれに感謝して踊るのが雨乞踊りでした。人々は「雨乞い祈願」のために踊っていたわけではないようです。「雨乞成就感謝」のために、自分たちが普段踊っていた風流踊りを踊ったのです。これは滝宮念仏踊りも同じです。坂本念仏踊りの由来には「菅原道真が祈願して雨が降ったことに感謝して踊る」と記されています。ここでも「降雨成就感謝踊り」であったことが分かります。
 ところが、「上栂綾子踊り」は、京から流刑された綾子姫が京都の雨乞い踊りを参考にして「創作」した踊りで、その目的は「雨乞い祈願」だったというのです。ある意味、民衆による民衆の手による雨乞いがここに生まれたと云えるのかもしれません。18世紀後半から19世紀にかけて上栂では、雨乞いのために綾子踊りが踊られるようになったとしておきます。
 以上をまとめておきます
①「上栂綾子踊り」の起源は、18世紀末から19世紀にかけてのものであること。
②綾子踊り以前に、すでに「善女龍王信仰」などの雨乞祈願の行事が行われていたこと
③先行する雨乞行事があるにもかかわらず、あらたな百姓主導の雨乞い踊りが導入されたこと
④そして、それは時宗念仏系の踊りではなく、近畿で流行っていた風流系のものあったこと。

上栂には、この「上栂綾子踊り」の祈念碑が戦後に建てられています。
そこには、佐文より前から綾子踊りを踊っていたことが記されています。綾子踊りの本家本元は上栂であるとの主張にも読み取れます。そうだとすると、上栂から佐文へはどのように移植されたのでしょうか。
 尾﨑傳次氏が書き写したという綾子踊りの由来には、弘法大師伝説が語られています。
それは旅の僧(弘法大師)が綾子に、踊りを伝授したという内容です。しかし、綾子踊りは中世の風流踊りで、歌われている歌も風流歌です。弘法大師のずーと後に作られたものです。弘法大師が生まれた時には、こんな歌や踊りもなかったのです。
 また「善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。」と雨乞いの神として善女龍王の力を讃えますが、この神も讃岐にもたらされるのは近世になってからであることは以前にお話ししました。つまり、この由来は古代にまで遡るものがなにもないことになります。描いた人物は弘法大師信仰をもつ山伏か聖が考えられます。
 
以上の状況証拠の上に、想像力を膨らませて綾子踊り誕生物語を描いて見ましょう。
山伏 七箇村念仏踊りの件の顛末については、聞きましたぞ。大変なことになりましたな。
庄屋 わたしども佐文にとっては厳しいお裁きです。棒付十人の参加しか認められなくなりました。
山伏 それは村の衆も気落ちしていることでしょう。
庄屋 その通りです。念仏踊りへ芸司や子踊りを出すのは佐文の誇りでもありまたので。若衆の中   には、棒振りや薙刀振りは憧れでもありました。それが出せないのは辛いことです。村の空気も沈んでしまします。
山伏 それでは、新しい踊りを佐文だけで始めてはどうですか。
庄屋 そんなことができるのですか
山伏 わたしがよく通う上栂では、新しく綾子踊りという雨乞い踊りを近頃、踊るようになっています。お上も毎年踊る盆踊りには目くじらたてて取り締まりも行いますが、日照りの時の「雨乞い踊り」と云えば、見て見ぬ振りをしているようです。
庄屋 はいはい、そのことは隣村なので知っております。それを佐文で踊るというのですか?
山伏 もちろん隣村で踊られているのを、そのまま佐文に持ってきて踊るのでは芸がありません。
庄屋 それでは、どうするのですが。
山伏 佐文には、今まで参加してきた「七か村念仏踊り」のやり方が伝わっています。衣装もあります。それを使って、踊りや歌はまったく別のものにするのです。上栂綾子踊りで歌われているものや、近辺の村々の盆踊りなどで踊られている歌や踊りを使えばいいのです。それは私が考えましょう。
庄屋 それはありがたいことです。村の衆の気持ちも、晴れるでしょう。よろしくお願いします。
こうして、佐文単独の雨乞い踊りである綾子踊りが、山伏の手でプロデュースされていきます。
    高瀬町史には、 寛政二年(1790)に大水上神社(二宮神社)に奉納された「エシマ踊り」が次のように記されています。
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
意訳変換しておくと
 羽方村(高瀬町)のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷に関する文書(森家文書「諸願覚」)
 旱魃の時に、羽方村の庄屋へ雨請いを願い出た。その際に上ノ村(財田町)と、お上から酒二本と御鯛五つが雨乞いのためにと捧げられた。頂戴の役人と太左衛門が罷り出で、代銀で羽方村に下された。雨請いについては、村々でそれぞれのやり方で行うようにと仰せ付けられた。そこで、7月7日、ニノ宮社の神前、千五百御神前、金出水神二高松王子でエシマ踊りを興行した。踊り子は30人ほどで、歌い手は6人、肝煎、触れ頭サシ、村中は今通りで、百姓・役人・寺社・庄屋が立ち合って奉納した。寺社は御初尾米一升宛と御神酒を御神前え供え、寺社への礼については相談の上で、米五升ほどを送ることを協議手して決めた。この神前への支度供えについては次の通りである。(以下略)

ここには、干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞い踊りが興行されたことが記されています。それに対して、藩からもお供え物が送られ、雨乞い祈祷のやり方については、それぞれの村のやり方で置こうなうように指示されたとあります。

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大水上神社境内の千五百王皇子祠

そこで、羽方村では二宮神社、境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。ここからは雨乞祈願に関しては、踊りを踊ることも含めて各村の独自性に任されていたことが分かります。
エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。
どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。しかし、盆踊としても当時三豊周辺で踊られいた風流系小歌踊の可能性が高いことは、財田の「さいさ踊り」と、綾子踊りに共通する歌がいくつもあることから推測できます。ここからは次のような流れも考えられます。

①京の風流踊り
②瀬戸内海の港町で女達が踊った風流踊り
③港町の後背地への風流踊りの拡大
④雨乞い踊りへの転用とエシマ踊りの誕生
⑤高瀬町麻上栂の「綾子踊り」
⑥佐文綾子踊り

以上をまとめておくと
①「七ヶ村念仏踊り」の中心的な存在を追われた佐文は、新たな雨乞い踊りを作り出した
②その際に役目や衣装、隊系などは今まで参加していた「七ヶ村念仏踊り」を継承した。
③一方、踊りや歌に関しては、高瀬の二宮神社に奉納されていた「エシマ踊り」のものを採用した。
④その結果、服装や役目など見た目には「七ヶ村念仏踊り」に近い形で、歌や踊りは風流系のものが採用されることになった。
こうして、綾子踊りは「七箇村地か念仏踊り + エシマ踊り」というスタイルになった。

こうして誕生した綾子踊りは、次のように今までにない風流踊りの性格をもちます。
①雨乞成就感謝の躍りではなく、農民が雨乞い祈願のために踊る雨乞祈願の踊りであること。
②宮座制でなく、盆踊りのように誰でもが参加できる風流踊りであること。
②については、綾子踊りの由緒書きの中に、次のように記します。
    降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はない。

ここにも、中世的な宮座制から村人全員参加制への転換が、この機会に行われたことがうかがえます。以上は、私の推論であくまで仮説です。事実ではありませんので悪しからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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