瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:綾子踊歌

綾子踊りユネスコ登録
 綾子踊りのユネスコ登録が間近と言われます。それは全国の「風流踊」のひとつとして登録されるようです。雨乞い踊りも風流踊りのひとつのジャンルとして分類されていることをおさえておきます。綾子踊で歌われている歌も風流踊歌のひとつということになります。
たまさか
綾子踊歌 たまさか(邂逅)
 前回までの綾子踊歌を見てみて気づいたことは、歌詞の中に雨乞いについての内容は、ほとんどないことです。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。

綾子踊り風流パンフレット

風流踊歌には、次の3系統があると研究者は考えています。
①田楽系統
もともとは広島の囃子田のように太鼓を打ってはやす田の行事が、丘に上がって風流化したもの
②念仏踊系統
中央に本尊を置いて、その周りを念仏を唱えながらめぐる一遍の念仏踊りが風流踊となったもの
③疫病神送り乱舞が風流踊化したもの
  風流踊りの特徴の一つが、老若男女が誰でも参加して踊るという点にあります。  それは以上の3つの系統が入り交じっていることが、それを可能にしていると研究者は指摘します。風流踊については①②については、なんとなく知っていました。しかし、③の「疫病神送り乱舞が風流踊化したもの」という系統については、私は知りませんでした。この系統について見ておきましょう。

京都やすらい踊り

風流踊りでよく知られているのは、京都の「やすらい花」です。
 春に花が散る際に疫神も飛び散ると言われ、その疫神を鎮める行事として行われきたと言われます。現在の行事について、今宮神社のHPには次のように記されています。
 (前略)
 祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。
祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。
    今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。
 ここからは、花を飾った風流花傘を中心に行列を組み、町の辻々で踊りながら今宮神社境内の疫神社に送るというものであることが分かります。
やすらい祭

この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
はなやさきたるや やすらい花や
やとみくさの花 やすらい花や
 梁塵秘抄口伝集巻第十四「花笠、歌笛太鼓」には、柴野神社の踊りが次のように記されています。
「ちかきころ久寿元年(1151年)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、歌笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。
傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気(原註:悪鬼とも)と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事数におよぶ。
京中きせん市女笠をきてきぬにつつまれて上達部なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の為にもなるべきと書はんべるぞ。」
意訳変換しておくと
「久寿元年(1151年)3月頃、京周辺の男女が紫野社へ風流踊り服装で、歌や笛太鼓、摺鐘などを持って「神あそび」と称して群がり集まっている。今様でもなく、乱舞の音もなく、早歌の拍子どりともちがって歌い囃す。その調子は今までに聞いたことがない。
傘の上に風流の花を指して、童子に「はんじり」を着せて、胸に「かつこ」をつけて、数十人で拍子に合せて乱舞のまねをして、悪気(悪鬼)という鬼の姿をした赤い垂れを首につけて、魚口の貴徳の面を被って12月の鬼洗いのような姿で現れ、わめき叫び狂う。そして神社に参り、神前を回ること数度におよぶ。
京中の貴賤が市女笠を被って、この様子を見に来る。夜は松のあかりを灯して、皆々が遊び狂う。その時に歌われることばをここに書き付けておく。それが今様の為になるかもしれない。」
柴野の今宮さんは、もともとは疫病神でした。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
ここで注目したいのは「はなさきたるや」の風流踊歌です。
この歌はもともとは、美濃の田歌だと研究者は指摘します。どうして田歌が、疫病神送りに歌われるようになったのでしょうか? これに対して研究者は次のように答えます。
  「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」

  この答えには、私は拍子抜けしてしまいました。疫病神送りには、それなりの「テーマソング」が考えられ、そのテーマに沿った歌詞が歌われているものという先入観があったのです。しかし、当時は、参加者のよく知っている流行歌でもよかったのです。そのために疫病神送りに、「はなやさきたるや やすらい花や」という雅な歌が歌われたのです。このミスマッチが「鎮花(はなしずめ)祭」という名称とともに、私たちにシュールさを感じさせるのかも知れません。一昔前なら、村の盆踊りに、流行の昭和演歌が歌われ踊られたのと似ているようにも思えます。
鹿島踊り(伊豆)
鹿島踊り(伊豆)
もうひとつ「鹿島踊り」を見ておきましょう。
 鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があるようですが、今では茨城県鹿島神宮では踊られていません。相模湾沿いに小田原市から伊豆東海岸一帯にかけて21ケ所の神社で伝承されていますが、本家の茨城県鹿島神宮には今は伝承されていません。伊豆の鹿島踊りは、歌も、踊りも、衣装も、よく似ているので、そのルーツは一つのようです。白丁という白装束で、踊り手がけがれない白の乱舞を見せてくれます。
 鹿島踊りのルーツは、その名の通り常磐の鹿島地方にあるようでが、ここでは、疫病神や疱瘡神を送るために弥勒歌が歌われていました。弥勒歌とは、弥勒の来訪を賛美する祝歌です。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊るのですが、その発祥の地が鹿島なので鹿島踊りとも呼ばれたようです。疫病神送りに、祝歌というのもミスマッチのような気がしますが、ここでも先ほどの「参加者が知っている歌ならなんでもOK」というルールが適用されたようです。

現在伝わっている風流踊歌の中には、次のような点が見えると研究者は指摘します。
①踊り手自身がアドリブ的に、互いに歌い返すタイプ
②音頭的に、歌詞がどんどん継ぎ足されて、延々と詠い踊られるタイプ
こんなタイプは、踊り手と歌い手が一緒なので、踊るだけでなく、歌も満足しようとする気持ちが強かったようです。そのため踊歌には長いものが選ばれる傾向があります。そして、その延長線上には、知っている歌なら何でも、歌って踊ってみようということになります。これはかつての田舎の盆踊りと一緒です。最初はお決まりの歌詞がありますが、次第に飛び込みでアドリブ的な歌が歌われ、その内に流行演歌などが歌われるようになります。先祖供養というよりも「デスコ的雰囲気」が生まれ、「なんでもありあり」状態になります。これが雑多な庶民性で、新たな創造物が生まれ出す源になったのかもしれません。
  「疫病神送りの乱舞(風流踊)には、何を歌ってもOK」という指摘を受けて、綾子踊りの成立について、次のような過程を考えてみました。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
②多度津や仁尾・観音寺などの港町の女達が歌った風流踊歌がその後背地に拡大した。
③そして郷村の盆踊りなどに、風流踊歌が「転用・混在」することになった。
④その例が、真野郷の郷社である諏訪神社に奉納された「那珂郡七か村念仏踊り」で、これは念仏系の風流踊りであった。
⑤この踊りは真野郷の村々で編成され、宮座によって運営された。
⑥「那珂郡七か村念仏踊り」、各村々の鎮守社にも奉納され、最後に牛頭天王を祭る滝宮神社にも奉納されるようになった。
⑦については、三豊市財田町のさいさい踊りの歌詞の中に、綾子踊りと共通するものがあることなどからもうかがえます。同じような風流踊りが中世の三豊やまんのう町周辺では歌い踊られていたのでしょう。それが盆踊歌に「転用・混合」されて入り込み、神社などに奉納されるようになった。
 南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。

風流踊り

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  本田安次「風流踊考」
関連記事

     綾子踊り 塩飽船
 
綾子踊り 塩飽船
しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ 津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ 津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
塩飽船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も塩飽船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われています。
港に入ってくる碇泊した塩飽船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりだというのです。

「梶を押へて名告りあふ」の類例を、見ておきましょう。
①しはくふね(塩飽船)かや君まつは 風をしづめて名のりあをと 花ももみぢも一さかり ややこのおどりはふりよや見よや いつおもかげのわすられぬ…(天理図書館蔵『おどり』・やゝこ)
②しわこふね(塩飽船)かやきぬ君松わ かち(梶)おをさへてなのりあう(越後・綾子舞、嘉永本.『語り物風流二』・常陸踊)
③イヨヲ 塩飽船 彼君まつわ/ヽ イヨヲゝ梶をしつめて名乗りあふトントン(土佐手結・ツンツクツン踊歌・塩飽船)
④四百(塩飽)船かよ君まつは 五百舟かよ君まつは 梶をしづめて名のりあふ(『巷謡編』安芸郡土佐おどり・十五番 おほろ)72
⑤しわこおぶね君待つは 風をひかえておまちあれ(兵庫。加東郡・百石踊・しわこ踊『兵庫県民俗芸能誌』)

「名告りあお」は、船同士で、相手を確かめる約束事だったようです。
説教浄瑠璃「さんせう(山椒)太夫」では、夜の直江浦沖で、人買船同志が相手をたしかめあう場面があります。そこでは自分を名告り、相手の存在もたしかめています。

「塩飽船かや君待つは」の展開例を、研究者は次のように挙げられています。
①兵庫県・加東郡・東条町秋津 百石踊(『兵庫県の民俗芸能誌』
一、しわこおぶね(塩飽船) 君待つは 風をひかえておまちあれ
二、心ないとはすろすろや 冴えた月夜にしら紬
三、抱いて寝た夜の暁は 名残り惜しやの 寝肌やうん
四、君は十七 俺ははたち  年もよい頃よい寝頃
五、こなた待つ夜の油灯は 細そて長かれとろとろと
港の女と船乗りが奏でる港町ブルースの世界につながりそうです。

  ここで思い出されるのが「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」です。
法然上人絵図 室津の遊女
「法然上人絵伝」の室津での遊女の「見送りシーン」
 この絵図は、讃岐に流刑となる法然上人の舟が室津を出港する場面を描いているとされてきました。この絵図からは、次のようなことが分かります。
①当時の瀬戸内海を行き来していた中世廻船が描かれている。
②船には、法然一行以外にも、商人たちなどが数多く乗船している。
③この船は塩飽までいくので、塩飽廻船として瀬戸内海を行き来していたのかもしれない。
一隻の小舟が近寄ってきます。乗っているのは、友君という遊女です。当時室津の町は、瀬戸内海でも有数の港町で、都からの貴人を今様や朗詠などで接待することを仕事とする遊女が多くいたようです。友君も、源平合戦で没落した姫君の一人とされます。

法然と友君の間で次のような事が話されたと伝えられます。
友君が遊女としての行く末への不安を拭うことができず、法然上人に、次のようにを尋ねた。
「私のこれまでの行いによる罪業の重さは承知しております。どうすればこのような身でも、死後の救いの道は開かれるのでしょうか」
法然上人は、「たしかに、あなたの罪は軽くない。ほかに生きる道があれば生き方を変えるのもひとつ。もし変えることができないのであれば、阿弥陀さまを信じてひたすらにお念仏を申しなさい。阿弥陀さまは罪深いものこそ救ってくださるのです。決して自分を卑下してはいけません」
友君はその答えに涙を流して喜んだ。その後、彼女は出家して、近くの山里に住み念仏一筋に生きて往生を遂げたとされる。
   つまり、この場面は出港する法然上人が船上から友君を教化する場面だとされます。高僧に直接話しかけることが難しかったため、友君は舟に乗って上人のもとまで向かったというのです。

法然上人絵伝を読む - 歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー
 
しかし、「塩飽船」の歌詞などから推測できるのは、このシーンは「出船」ではなく、「入港」場面ではないのかという疑問です。
つまり、「しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ」シーンが描かれているのではないかということです。 
  神崎も、神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えた港町です。平安時代には「天下第一の楽地」とまでいわれていました。ここでは法然と遊女の話が次のように伝えられます。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました

 ここで注目したいのは、「宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました」とある点です。これも見方を変えると「君まつは 梶を押へて名乗りあふ」のシーンになります。そういう目でもう一度、室津の遊女船を見てみると、梶を押しているのは、女(遊女)です。

道行く人たち―法然上人絵伝 : 座乱読無駄話日記live
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
以上から、これは瀬戸の港町で一般的に見られた遊女船の名告りシーンと私は考えています。
当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。
遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 舵を取ったのは一番の年長者の「老」で、少が一座の主役「若」に笠を差し掛けます。主役の遊女は、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘うのです。
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このような場面を歌ったのが「塩飽船」ということになります。
 そうだとすると、遊女は法然上人に身のはかなさを身の上相談しているのでなく、船のお客に対して「どうぞお上がりになって、休んでいかれませんか」と「客引」していることになります。

法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
『法然上人行状絵図』室津の遊女(拡大図)
そういう目で船上の法然を見てみると、確かに説法をしているようには見えません。困惑している様子に見えます。

港に入港する船は、「塩飽船」→「堺船」→「多度津船」の順番に詠われます。塩飽と多度津は備讃瀬戸の海上交通の重要な港町でした。堺は繁栄ずる瀬戸の港町の頂点に立つ町です。綾子踊りで一番最初に踊られる「水の踊り」にも、登場していました。

三味線組歌では、次のような類例があります。
堺踊りはおもしろや、堺踊はおもしろや、堺表で船止めて、沖の景色をながむれば、今日も日吉や明日のよやあすのよや、ただいつをかぎりとさだめなのきみ(『日本伝統音楽資料集成』(3)

瀬戸内海の港町へ、船が入港しそれを出迎える遊女船の出会いシーンがうかがえます。今までに見てきた綾子踊歌の中の「四国船」「綾子」「小鼓」「花籠」「たまさか」「六調子」、「塩飽船」は、この続きになります。そういう意味では、瀬戸内海を行き来する船と港と船乗りと女達の「港町ブルース」であると私は考えています。廻船の航海活動が風流歌から連続性をもって見えてきます。


『巷謡編』土佐郡神田村・小踊歌・じゆうごかへり踊・豊後(『新日本古典文学大系』・64巻)には、塩飽が次のように歌われます。
○備後の鞆をも今朝出して ヤアー 今は塩飽の浜へ着く
○塩飽の浜をも今朝出して  ヤア今は宇多津の浜へつく
  広島県の鞆の浦 → 塩飽へ → 讃岐宇多津へと、潮待ちしながら航海を続ける廻船の姿が歌われています。

室津の遊女
揚洲周延筆「東絵昼夜競」室の津遊女(江戸時代)

以上をまとめておくと
①「塩飽船」に歌われる「梶を押へて名乗りあふ」というのは、入港する船とそれを迎える遊女船の名乗りのシーンを歌ったものである。
②当時は入港する船を、遊女船が出迎え招き入れたことが日常的に行われていたことがうかがえる。③江戸時代の御手洗などでも、このような風習があったので近世になっても遊女たちが「梶を押へて名乗りあふ」ことは行われていた。
④そういう目で、「法然上人行状絵図」の室津での遊女教化場面は、「見送りシーン」でなく、遊女の名告シーンとも思える。

  どちらにしても「塩飽船」というフレーズが、中世には瀬戸内海を行き来する廻船の代名詞になっていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 綾子踊り 六調子
綾子踊り 六調子

五嶋(ごとう)しぐれて雨ふらはば  千代がなみたと思召せ    千代がなみたと思召せ
ソレ リンリンリンソレリンリンリンソレリンリンリン

八坂八坂が七八坂 中の八坂が女郎恋し 中の八坂が女郎恋し
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン

雨もふりたが水も出た 水も出た 渡りかねたが横田川 渡りかねたが横田川
ソレ リンリンリンリンリンソレリンリンリンリンリン
意訳変換しておくと
(一)女 あなたが帰ってゆく道中、時雨が来たら、それは、わたし(千代)が、別れを惜んで流す涙だと思って下さい。
(二)男 道中の坂を越えるたびに、あなたへの恋しさが募るばかり)
(三)男 帰りの道中、横田川を渡りかねています。そのわけは、雨が降り水量が増したからばかりではなさそうです。あなたの宴でのおもてなしが、とてもたのしかったから、お別れがつらいのです。

六蝶子には「勇ましくうたう。速い調子でうたう。」という注がついています。
「六蝶子」は「六調子」です。1番の歌詞から見ていきましょう。最初に出てくる「ごとう=五島」のようですが、九州長崎の五島列島を中心とする島々なのかどうか、よく分かりません。登場する「ちよ」は女性名で、後朝(きぬぎぬ)の別れの台詞です。千代が名残惜しんで歌います。「ちよ」は、この歌の歌い手(自身)です。
2番の「七坂八坂と越えて行く」の歌い手は、「ちよ」と別れてゆく男の科白です。七坂八坂と越えて分かれていく「千代」との別れを詠います。
3番目では、大雨となって道中の横田川が増水して超すに越せない状態になったようです。恋の名残が暗にうたわれているようです。千代と別れて帰る男の道行。別れが辛くて恋しさが募ってくるという所でしょうか。

  ○ごとう(語頭)がしぐれて雨ふらす 
  これもをどり(踊り)のご利生かや

◎千代の男を送り出す別れ涙が雨となった。別れ雨は「涙雨」で、「七坂八坂」の坂を、別れ難くて、越えかねるというの心情が伝わってきます。この心情は、現在の演歌で詠われる「酒は女の涙か、別れ雨」的な心情に受け継がれてきています。こんな歌が、どんな場面で歌われたのでしょうか?
六調子は「酒宴歌謡」で、中世には宴会で踊り付で詠い踊られたと研究者は考えています。
①「ごとうしぐれて」 =送り歌
②「八坂八坂」 =立ち歌
③「雨もふりたつ」 =立ち歌
さらに酒宴の送り歌と立ち歌の関係で見ると、次の通りです。
○もはやお立ちかお名残り惜しや もしや道にて雨などふらば(大分県・直入郡・送り歌)
○もはや立ちます皆様さらば お手ふり上げて ほろりと泣いたを忘りようか(同。立ち歌)
宴会もお開きとなり、招待側が送り歌を歌い、見送られる側が席を立って「立ち歌」を歌います。

「六調子」は、次のように各地に伝わっています。
①広島県・山県郡・千代田。本地・花笠踊・六調子(本田安次『語り物風流二』)
②広島県・山県郡加計町「太鼓踊」。六調子(同)
③広島県・安芸郡田植歌の六調子。(『但謡集』)
④山口県・熊毛郡・八代町・花笠踊・六調子踊(本田安次『語り物風流二』)
⑤熊本県・人吉市・六調子は激しいリズムで、ハイヤ節の源流ともされる。
⑥鹿児島県・熊毛郡の六調子。岡山県の「鹿の歌」の歌を「六調子」と呼ぶ。(『但謡集』)
六調子は、調子(テンポ・リズム)のことで、綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたわれる記されています。

中世の酒宴の流れを、研究者は次のように図解します。
綾子踊り 六調子は宴会歌

酒宴(酒盛)は歌謡で始まり、やがて座が盛り上がり、時が流れて歌謡で終わります。祝いやハレの場の儀礼的な色合いの濃い酒宴においては、次のように進行されます。
①まずめでたい「始め歌」があり、人々の間にあらたまった雰囲気を作り出す
②次にその時々の流行小歌や座興歌謡として、参加者によって詠われる。
③宴もたけなわになると、酒宴でのみ歌うことを許されている卑猥な歌やナンセンス歌謡、参加者のよく知っている「思い出歌謡」なども詠われる。
④最後に終わ歌が詠われる。

①では、迎え歌に対して、招いてくれた主人やその屋敷を讃めて挨拶とする客側の挨拶歌謡があって、掛け合いとなります。
②の終わ歌は、送り歌と立ち歌が詠われます。これも掛け合いのかたちをとります。

 このように中世の宴会場面で歌われたものが16世紀初頭に当時の流行歌集『閑吟集(かんぎんしゅう)』に採録されます。
   南北朝から室町の時代になると白拍子や連歌師、猿楽師などの遊芸者が宮中に出入りするようになり、彼らの歌う小歌が宴席に列する女中衆にも唄われるようになります。それらを収めたのが『閑吟集』です。流行歌集とも言える閑吟集が編纂されたのは、今様集『梁塵秘抄』から約350年後の室町時代末期(16世紀初頭)のことです。  
 巫女のような語り口調で謡わているのが特徴のようですが、後の小唄や民謡の源になっていきます。これらの小唄や情歌は宴会歌として、人々に歌い継がれ、船乗りたちによって瀬戸の港町に拡がり、風流踊りの歌として、「盆踊り」や「雨乞い踊り」などにも「転用」されていったようです。
綾子踊の「六調子」は「至って勇ましく(はやい調子)」でうたうと注記されています。ここまでの歌と踊りは、緩やかですがこの当たりからアップテンポにしていく意図があるのかも知れません。詠われる内容も「別れの浪が雨」で「大雨となって川が渡れない」です。雨乞い歌に「転用」するにはぴったりです。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

 DSC07257
綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
綾子踊りに詠われている歌詞の内容について、前回までは見てきました。そこには中世の小歌などに詠われた瀬戸内海を行く船や港町の様子、そして男と女の恋歌が詠われていました。雨乞い踊りの歌なので祈雨を願う台詞がでてくると思っていたので、ある意味期待外れの結果に終わっています。
 さて今回は6番目の「たまさか(邂逅)」です。
たまさか
綾子踊り たまさか(邂逅)

一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番の「解釈」を見ておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でしたから、私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っている様のようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。用例は次の通りです
○かづいた水が、ゆりゆりたぶつき(『松の葉』・巻一・裏組・賤)
○許させませよう 汲んだる水は ゆうりたぶと、とき溢れる(広島市・安芸町・きりこ踊『芸備風流踊り歌集』)
この歌の題名は「たまさか(邂逅)」ですが、これは「たまたま。まれに」という意味のようです。
○恋ひ恋ひて、邂逅に逢ひて寝たる夜の、夢は如何見る、ぎしぎしと抱くとこそ見れ(今様・『梁塵秘抄』・四六〇番、
○思ひ草 葉末にむすぶ白露の たまたま来ては 手にもたまらず
(『金葉和歌集』・巻七・恋・源俊頼)
○恋すてふ 袖志の浦に拾ふ王の たまたまきては 手にだにたまらぬ つれなさは(『宴曲集』・巻第三・袖志浦恋)
○枯れもはて なでや思草 葉末の露の、玉さかに 来てだに手にも たまらねば(同・巻第二・吹風恋)
以上を見てみると「たまさかに」は、港や入江の馴染みの女達・遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面だと研究者は推測します。なじみの男に、対して話しかけたことばが「たまさかに」で、女達の常套句表現だったことがうかがえます。
○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)
この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評しています。何度も読み返してみると、なるほどポルノチックにも思えてきます。それを堂々と詠っているのが中世らしい感じがします。「たまさかに」という言葉は、当時は女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。

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綾子踊り
  それを理解した綾子踊りの歌詞を改めて見てみましょう。
1番が「たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ」で、たまたまやってきた男と、夜明けの鐘が鳴るまで・・・」とあからさまです。
2番の歌詞は、「ここに寝よか ここに寝よか さて菜の中に しかも御寺の菜の中」と続きます。アウトドアsexが、あっけらかんと詠われています。丸亀藩の編纂した西讃府志には、初期のものには載せられていますが、後になると載せられていません。艶っぽすぎで載せられなかったと私は考えています。そして、この歌詞をそのまま直訳して載せることは、町史などの公的な機関の出す刊行物では、できなかたのかもしれません。それほど詠われている内容はエロチックを越えて、ポルノチックでもあるのです。
綾子踊り たまさかに2
遊女と船乗りの男との「たまさか」の世界を見ておきましょう。
たまさかは、遊女達が男たちに対して、口にしていた常套句でした。酒盛りや同衾する男へ、遊女がその出逢いを、「たまさかの縁」「たまさかに来て」と言った伝統があるようです。
『万葉集』以来の雨乞風流踊歌・近世流行歌謡に出てくる「たまさかの恋」の代表的なものは次の通りです。
古代
○たまさかに我が見し人をいかならむ よしをもちてかまたひとめ見む(『万葉集』・巻十一・二三九六)
中古中世
○恋ひ恋ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寝たる夜の 夢は如何見る ぎしぎしぎしと抱くとこそ見れ(『梁塵秘抄』・二句神歌・四六〇番
中世近世
〇たまさかに逢ふとても、猶濡れまさる袂かな、明日の別れをかねてより、思ふ涙の先立ちて(『艶歌選』・3番)
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綾子踊り
3番の歌詞に出てくる「せはせはと」を見ておきましょう。
「閑吟集』には、次の小歌があります。
○男 わごれうおもへば安濃の津より来たものを をれふり事は こりやなにごと(77)
○女 なにをおしやるぞ せはせはと うはの空とよなう こなたも覚悟申した(78)
意訳変換しておくと
男「おまえのことを思って、安濃の津よりわざわざやってきたのに、その機嫌の悪さは何事か」
女「何をおっしゃるのか せはせはと・・」と女が言い返しています。
「せはせはと(忙々)」とは「せわせわしい人。しみったれて こせこせしており その態度のいやらしい人」の意味で使われています。言いわけをしたり、しみったれたことを言ったして、なかなかやって来なかった男をなじっているようです。それが小歌になって、宴会の席などで詠われていたのです。ちなみに、このやりとりからは、男は安濃の津の船乗りで、その女は馴染の人、または遊女かそれに近い存在と研究者は推測します。
せわせわの類例を見ておきましょう。
○何とおしやるぞ せわせわと 髪に白髪の生ゆるまで  (兵庫県・加東郡・百石踊・『兵庫県民俗芸能誌』)
○うき人は なにとおしやるぞ せわせわと 申事がかなうならば からのかゝみ(で)、ななおもて  (徳島県・板野郡・嘉永四年写『成礼御神踊』)


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綾子踊り
佐文に近い三豊市財田町「さいさい踊」には、「豊後みさきおどり」が伝承しています。
ぶんごみのさき からのかがみは のをさて たかけれど みたいものかよ のをさて 
ぶんごみのさき ぶんご女郎たち 入江入江で 船のともづなに のをさて 針をさす
船のともづなに のをさて 針をさすよりも あさぎばかまの のをさてひだをとれ なおもだいじな のをさて すじの小袴
意訳変換しておくと
豊後の岬 唐の鏡は美しく磨かれ 高価だけれども 見たいものよ、 
豊後の岬 豊後女郎たちは 入江入江で 船のともづなに  針をさす
船のともづなに  針をさすよりも 浅黄袴ひだをとれ なおもだいじな  すじの小袴

詠っているのは、船乗りの男です。詠われている「ぶんご女郎」は、豊後の入江入江の港に、入港する船を待っている女達です。船乗りたちからすると、恋女であり、馴染の女性で、つまり遊女です。研究者が注目するのは、「船のともづなに針をさす」という行為です。これには、どんな意味があったのでしょうか?
参考になるのが 三豊郡和田雨乞踊歌「薩摩」の、次の表現です。
①薩摩小女郎と 一夜抱かれて朝寝し(て)起きていのやれ ボシャボシャと薩摩のおどりを一踊り
②薩摩の沖に船漕げば 後から小女郎が出て招く 舟をもどしやれ わが宿へ 舟をもどしやれ わが宿ヘ
この歌に詠われているのは、港町での船乗りの男達と、港の女達との朝の別れの場面です。船出した舟を曳き戻し、船乗りの男を我がもとに留めておこうとする遊女の姿がうたわれています。そのひとつの行為が、船のトモ綱に針を刺す「呪術」だったと云うのです。男たちを行かせまいと、遊女は船のとも綱に針を刺し留めようとしたのです。これは遊女達の間に、受け継がれてきた「おまじない」だったのでしょう。遊女が男の心意と行動を、恋の針でしっかりと刺して、射とめる呪的行為としておきましょう。こんな行為は、歴史の表面や正史には現れません。浦々の女達の、その世界だけの「妖術」とも云えます。そんな行為が、風流歌には「化石」となって残されています。綾子踊歌「たまさか」は、瀬戸内海を行き来する廻船と女達の「入江の文化」を、伝えているといえそうです。
 これらの小歌が讃岐の港町でも宴会の席などでは、船乗りと女達の間で詠われたのでしょう。
観音寺や仁尾・三野の港町に伝えられた小歌や風流踊りが、背後の村々にも伝えられ、それが盆踊りとして踊られ、神社に奉納されるようになったと推測できます。中世の郷社では、この風流踊りの奉納は宮座によって行われていました。そのため神社の境内には、宮座を形成する有力者が桟敷小屋を建てる権利を得ていたことは以前にお話ししました。今では村の鎮守の祭りは、ちょうさや獅子舞が主流ですが、これらが登場するのは近世後半になってからです。中世の郷社では、風流踊りが奉納されていたことを押さえておきます。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
諏訪神社の風流踊り(まんのう町真野 19世紀半ば)

 それを示すのが財田の「さいさ踊り」や綾子踊りであり、諏訪神社(まんのう町真野)の風流踊りということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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今までに12ある綾子踊歌の4つを見てきました。
「1水の踊り」「2 四国船」は、瀬戸内海航路の港や難所、そして、水夫たちが歌われて「港町ブルース」の世界でした。「3綾子」には、綾子の恋の歌で、「4小鼓(こづつみ)」は、情事を詠った艶っぽい歌でした。ここまで見る限りは、雨乞いを一生懸命に祈る、願うというような歌は見当たりません。そろそろ「雨乞い歌」らしい台詞が出てくるのでしょうか。
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花籠

今回は5番目に踊られる「花籠」を見ていくことにします。

綾子踊り 花籠
綾子踊り 花籠
一、花寵に 玉ふさ入れて もらさし人に しらせしんもつが辛苦の つんつむまえの ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ ソレ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かな たまらぬ ハア とに角に
二、花寵に 我恋いれて もらさし人に 知らせしん もつがしんくの つむ前の ヒヤ 一花つむ前の ヒヤ ソレ  つきや恋かな せうたいなしヤ  うきや恋かな砲まらぬ ハア とに角に
三、花寵に うきなを入れて もらさし人に しらせしん もつが辛苦の つむ前の ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ うきや恋かな  せうたいなしや  うきや恋かなたまらぬ ハア 兎二角に
意訳変換しておくと
花籠に恋文を入れて、人には知られないようにと、秘めておくのは、辛いことだよ。しかし、花籠では、すぐに漏れてしまいますよね.

花籠に入れるものが「たまふさ(恋文)→ わが恋 → 浮き名」と変化していきます。この花籠の原型は、 『閑吟集』の中にあると研究者は指摘します。
中世の歌謡 『閑吟集』の世界の通販/真鍋 昌弘 - 小説:honto本の通販ストア

『閑吟集(かんぎんしゅう)』は、16世紀初頭に成立した、当時の流行歌集です。 室町時代に流行した「小歌」226種と、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂言歌謡」「放下歌(ほうかうた」などを合わせて、311首が収録されています。
座頭 - Wikipedia
座頭
これらは座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌とされます。そのため艶っぽいものや時には、ポルノチックなものまで含まれています。また自由な口語調で作られた小歌で、実際に一節切り、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われたものです。内容的には、恋愛を中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸歌謡の基礎ともなります。
没後50年、松永安左エ門 「電力の鬼」の信念を支えた茶の心|【西日本新聞me】

『閑吟集』の最後を締めくくるのが、「花籠」です。
①花籠に月を入て 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な(三一〇番)
②籠かなかな 浮名漏らさぬ籠がななふ(311番)
①を意訳変換しておくと
縁側の花籠に 月の光が差し込む
この光を逃さないように 遮るものがないように  この貴重な時間を出来るだけ長く保ちたい
(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)
 花かごの中に閉じこめられた月をしっかり持っている女性、という幻想的なイメージも浮かんできます。それはそれで美しい歌ですが、『閑吟集』は、それだけでは終わりません。

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「花籠」が女性、「月」が男性というお約束があるようです。
そうすると、漏らすまいとしているものは何なのでしょうか、それを持つ(持たせる)事が大切なようです。つまりは、性行為の比喩を描いていると研究者は指摘します。
『閑吟集』は、宴席での小歌なども再録されているので、掛け言葉・縁語を交えての猥歌も出て当然なのです。今で云うとエロチックで、ポルノ的な解釈ができる場面が沢山出てきて楽しませてくれます。
 別の見方をすれば、遊女の純愛の歌と解釈することも出来ます。

愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、

 さらには、“月”は男女の間の愛情とか、自分の幸福とか、つかめそうでつかめない、努力しなければすぐに網目をすり抜けいってしまう、そんなもの比喩と考えても意味が通りそうです。
 エロチックでポルノチックで清純で、幻想的で、いろいろに解釈できる「花籠」は、戦国時代には最も人気があって、人々にうたわれた流行小歌でした。それが各地に広がって行きます。そして、花籠には「月」に代わっていろいろなものが入れられて、恋人に届けられることになります。綾子踊りの花籠では、花籠に次のものが入れられています。
1番に 玉ふさ(玉章)で「書状=恋文」
2番に わが恋
 3番に  浮き名
綾子踊り 花籠3

前回見た「小鼓」と同じように、『閑吟集』の小歌に遡ることができます。綾子踊歌が中世小歌の流れの上に歌い継がれていることが分かります。

佐文周辺でに伝わる「花籠」を見ておきましょう。
①花籠に浮名を入れて 洩らさでのう人に知らせしん もつがしん     (徳島県板野郡・神踊・花籠)『徳島県民俗芸能誌』
財田 さいさい踊り
財田町石野のさいさい踊

香川県三豊市財田町石野・さいさい踊の「花籠たまずさ踊」では次のように歌います。
②花籠にたまずさ(恋文)入れて ひんや 花籠にたまずさ入れて む(も)らさじの人にしらせずや ア もとがしんく(辛苦)で つむわいの つむわいの
③花籠にうきなを入れて(以下同)
④花籠に匂ひ入れて (以下同)
ここからは、佐文の近隣の財田でも、「花籠」が歌い踊られていたことが分かります。佐文だけに伝えられたのではなく、風流歌として、三豊一帯で謡い踊られていたようです。
つぎの「漏らさじ」とは、「人に知らせまいとして、大事に、秘めやかに・・」という意味です。
311番の類歌には、次のような歌われます。
竹がな十七八本ほしやま、浮名や洩らさじのな籠に組も(『松の葉』・巻一・裏組・みす組)

 以上をまとめておきます
①『閑吟集』には、座頭などの芸能者が宴席などで詠っていた歌などが311首載せれている。
②これは自由な口語調で作られた小歌で、縦笛によって伴奏され、口謡として歌われた。
③これが風流歌として各地に拡がり、この小唄を核にして替歌や、小唄の合体などを行われ各首の風流歌が生まれた。
④綾子踊りの花籠と財田のさいさ踊りの「花籠」の歌詞は、よく似ているので、西讃一帯で歌われていたことがうかがえる。
⑤盆踊りなどでは、最初は先祖供養のオーソドックスなものから始まり、時を経るに連れて次第に猥雑な歌詞も歌われた。
⑥郷社では小屋掛けがされて風流歌が盆踊りとして踊られた。その中に人気のあった「花籠」なども紛れ込んだ。
⑦雨乞成就のお礼のために踊りが奉納されるときに、盆踊りが「転用」された。
こんなところでしょうか。
どちにしても、綾子踊りに「花籠」が詠い踊られている事実は、その由来で述べられている「綾子踊り=弘法大師伝授」説とは、次の点で矛盾します。
①歌われている歌詞が16世紀までしか遡ることは出来ない。
②弘法大師が、こんな艶っぽい歌を綾子に伝えたとは、考えられない。
あくまで弘法大師伝授というのは、伝説のようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」

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