綾子踊りのユネスコ登録が間近と言われます。それは全国の「風流踊」のひとつとして登録されるようです。雨乞い踊りも風流踊りのひとつのジャンルとして分類されていることをおさえておきます。綾子踊で歌われている歌も風流踊歌のひとつということになります。
綾子踊歌 たまさか(邂逅)
前回までの綾子踊歌を見てみて気づいたことは、歌詞の中に雨乞いについての内容は、ほとんどないことです。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。
ほとんどが瀬戸内海を行き交う船と、船乗りと港の女達の恋歌や情歌で、まるで演歌の世界でした。その内容も、わかったような、分からない歌が多いのです。その理由のひとつが、歌詞の意味を伝えようとするのが主眼ではなく、当時流行の風流なフレーズが適当に繋がれているからでしょう。まるで、サザンオールスターズの歌詞のようです。意味不明で、適当な固有名詞やフレーズが雰囲気を作り出していくのです。そのため、解釈せよと云われても、「解釈不能」な歌も数多くありました。最初は、もともとの歌詞が歌い継がれる中で、崩されり、替え歌となって、こうなったのかと思っていましたが、そうではないようです。どうしてこんな歌詞が雨乞い踊りとされる綾子踊りに歌われるようになったのでしょうか。
風流踊歌には、次の3系統があると研究者は考えています。
①田楽系統もともとは広島の囃子田のように太鼓を打ってはやす田の行事が、丘に上がって風流化したもの②念仏踊系統中央に本尊を置いて、その周りを念仏を唱えながらめぐる一遍の念仏踊りが風流踊となったもの③疫病神送り乱舞が風流踊化したもの
風流踊りの特徴の一つが、老若男女が誰でも参加して踊るという点にあります。 それは以上の3つの系統が入り交じっていることが、それを可能にしていると研究者は指摘します。風流踊については①②については、なんとなく知っていました。しかし、③の「疫病神送り乱舞が風流踊化したもの」という系統については、私は知りませんでした。この系統について見ておきましょう。
風流踊りでよく知られているのは、京都の「やすらい花」です。
春に花が散る際に疫神も飛び散ると言われ、その疫神を鎮める行事として行われきたと言われます。現在の行事について、今宮神社のHPには次のように記されています。
(前略)祭の中心は「花傘」です。「風流傘」(ふりゅうがさ)とも云い、径六尺(約180㎝)位の大傘に緋の帽額(もっこう)をかけた錦蓋(きぬかさ)の上に若松・桜・柳・山吹・椿を挿して飾ります。この傘の中に入ると厄をのがれて健康に過ごせると云われています。祭礼日は町の摠堂に集まり「練り衆」を整え街々を練りながら当社へ向かいます。春の精にあおられ陽気の中で飛散するといわれる疫神。「やすらい花や」と囃子や歌舞によって疫神を追い立てて、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込みます。花傘に宿った疫神は、摂社疫社へと鎮まり、この一年の無病息災をお祈りしています。今宮神社の境内では、2組8人の大鬼が大きな輪になってやすらい踊りを奉納します。桜の花を背景に神前へと向かい、激しく飛び跳ねるように、そしてまた緩やかに、“やすらい花や”の声に合わせ安寧の願いを込めて踊ります。
ここからは、花を飾った風流花傘を中心に行列を組み、町の辻々で踊りながら今宮神社境内の疫神社に送るというものであることが分かります。
この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
この祭りの起源については、鳥羽法皇が亡くなり、保元の乱が起きた1156年3月に京中の子ども達が柴野神社に参って、太鼓や笛を鳴らして乱舞したのが始まりとされます。風流の花笠を指し飾って、みんなが声を揃えて次のような風流歌を歌いながら踊ったとあります。
はなやさきたるや やすらい花ややとみくさの花 やすらい花や
梁塵秘抄口伝集巻第十四「花笠、歌笛太鼓」には、柴野神社の踊りが次のように記されています。
「ちかきころ久寿元年(1151年)三月のころ、京ちかきもの男女紫野社へふうりやうのあそびをして、歌笛たいこすりがねにて神あそびと名づけてむらがりあつまり、今様にてもなく乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにもにずしてうたひはやしぬ。その音せいまことしからず。傘のうへに風流の花をさし上、わらはのやうに童子にはんじりきせて、むねにかつこをつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、悪気(原註:悪鬼とも)と号して鬼のかたちにて首にあかきあかたれをつけ、魚口の貴徳の面をかけて十二月のおにあらひとも申べきいで立にておめきさけびてくるひ、神社にけいして神前をまはる事数におよぶ。京中きせん市女笠をきてきぬにつつまれて上達部なんど内もまいりあつまり遊覧におよびぬ。夜は松のあかりをともして皆々あそびくるひぬ。そのはやせしことばをかきつけをく。今様の為にもなるべきと書はんべるぞ。」
意訳変換しておくと
「久寿元年(1151年)3月頃、京周辺の男女が紫野社へ風流踊り服装で、歌や笛太鼓、摺鐘などを持って「神あそび」と称して群がり集まっている。今様でもなく、乱舞の音もなく、早歌の拍子どりともちがって歌い囃す。その調子は今までに聞いたことがない。傘の上に風流の花を指して、童子に「はんじり」を着せて、胸に「かつこ」をつけて、数十人で拍子に合せて乱舞のまねをして、悪気(悪鬼)という鬼の姿をした赤い垂れを首につけて、魚口の貴徳の面を被って12月の鬼洗いのような姿で現れ、わめき叫び狂う。そして神社に参り、神前を回ること数度におよぶ。京中の貴賤が市女笠を被って、この様子を見に来る。夜は松のあかりを灯して、皆々が遊び狂う。その時に歌われることばをここに書き付けておく。それが今様の為になるかもしれない。」
柴野の今宮さんは、もともとは疫病神でした。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
疫病神を祀って疫病が流行らないことを祈ったことになります。これがやがて年中行事になります。その季節が、花の散る頃なので「鎮花(はなしずめ)祭」という雅な言葉で呼ばれるようになります。平安の現実と、それを伝えるフレーズはかけ離れていることに、驚かされます。
ここで注目したいのは「はなさきたるや」の風流踊歌です。
この歌はもともとは、美濃の田歌だと研究者は指摘します。どうして田歌が、疫病神送りに歌われるようになったのでしょうか? これに対して研究者は次のように答えます。
「疫病神送りの乱舞には、何を歌ってもよかったから」
この答えには、私は拍子抜けしてしまいました。疫病神送りには、それなりの「テーマソング」が考えられ、そのテーマに沿った歌詞が歌われているものという先入観があったのです。しかし、当時は、参加者のよく知っている流行歌でもよかったのです。そのために疫病神送りに、「はなやさきたるや やすらい花や」という雅な歌が歌われたのです。このミスマッチが「鎮花(はなしずめ)祭」という名称とともに、私たちにシュールさを感じさせるのかも知れません。一昔前なら、村の盆踊りに、流行の昭和演歌が歌われ踊られたのと似ているようにも思えます。
鹿島踊り(伊豆)
もうひとつ「鹿島踊り」を見ておきましょう。
鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があるようですが、今では茨城県鹿島神宮では踊られていません。相模湾沿いに小田原市から伊豆東海岸一帯にかけて21ケ所の神社で伝承されていますが、本家の茨城県鹿島神宮には今は伝承されていません。伊豆の鹿島踊りは、歌も、踊りも、衣装も、よく似ているので、そのルーツは一つのようです。白丁という白装束で、踊り手がけがれない白の乱舞を見せてくれます。
鹿島踊りのルーツは、その名の通り常磐の鹿島地方にあるようでが、ここでは、疫病神や疱瘡神を送るために弥勒歌が歌われていました。弥勒歌とは、弥勒の来訪を賛美する祝歌です。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊るのですが、その発祥の地が鹿島なので鹿島踊りとも呼ばれたようです。疫病神送りに、祝歌というのもミスマッチのような気がしますが、ここでも先ほどの「参加者が知っている歌ならなんでもOK」というルールが適用されたようです。
現在伝わっている風流踊歌の中には、次のような点が見えると研究者は指摘します。
①踊り手自身がアドリブ的に、互いに歌い返すタイプ②音頭的に、歌詞がどんどん継ぎ足されて、延々と詠い踊られるタイプ
こんなタイプは、踊り手と歌い手が一緒なので、踊るだけでなく、歌も満足しようとする気持ちが強かったようです。そのため踊歌には長いものが選ばれる傾向があります。そして、その延長線上には、知っている歌なら何でも、歌って踊ってみようということになります。これはかつての田舎の盆踊りと一緒です。最初はお決まりの歌詞がありますが、次第に飛び込みでアドリブ的な歌が歌われ、その内に流行演歌などが歌われるようになります。先祖供養というよりも「デスコ的雰囲気」が生まれ、「なんでもありあり」状態になります。これが雑多な庶民性で、新たな創造物が生まれ出す源になったのかもしれません。
「疫病神送りの乱舞(風流踊)には、何を歌ってもOK」という指摘を受けて、綾子踊りの成立について、次のような過程を考えてみました。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
①瀬戸内海を行き来する船乗りと港の女の恋歌や情歌が風流歌として、各港を中心に広がった。
②多度津や仁尾・観音寺などの港町の女達が歌った風流踊歌がその後背地に拡大した。
③そして郷村の盆踊りなどに、風流踊歌が「転用・混在」することになった。
④その例が、真野郷の郷社である諏訪神社に奉納された「那珂郡七か村念仏踊り」で、これは念仏系の風流踊りであった。
⑤この踊りは真野郷の村々で編成され、宮座によって運営された。
⑥「那珂郡七か村念仏踊り」、各村々の鎮守社にも奉納され、最後に牛頭天王を祭る滝宮神社にも奉納されるようになった。
⑦については、三豊市財田町のさいさい踊りの歌詞の中に、綾子踊りと共通するものがあることなどからもうかがえます。同じような風流踊りが中世の三豊やまんのう町周辺では歌い踊られていたのでしょう。それが盆踊歌に「転用・混合」されて入り込み、神社などに奉納されるようになった。
南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
南北朝統一から応仁の乱、明応の政変と戦乱の中で庶民が力を蓄えるようになります。そんななかで、一遍が普及させた踊り念仏が、庶民の民間信仰に娯楽を伴う念仏長田となり、盂蘭盆会と結びつくようになります。そして、それは当時の人の意表をついた派手な様相である風流(ふりゅう)とも合流し、いろいろな風流踊りが誕生します。さらに、江戸時代になると盆踊りに風流踊歌が取り込まれていくようになります。そのような流れの中で綾子踊りも生まれたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
本田安次「風流踊考」
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