瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:綾氏

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牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

1櫛梨神社3233
神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説


参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

中世の多度郡の郡司を綾氏の一族が務めていた史料があります。

善通寺一円保の位置
善通寺一円保の範囲

弘安三年(1280)、善通寺の本寺随心院の政所が善通寺一円保の寺僧や農民たちに発した下知状です。

随心院下知状(1280)
書き下し文は
随心院政所下す、讃岐國善通寺一円寺僧沙汰人百姓等
右営一円公文職は、大師御氏人郡司貞方の末葉重代相博し来る者也。而るに先公文覺願後難を顧りみず名田畠等或は質券に入れ流し或は永く清却せしむと云々。此条甚だ其調無し。所の沙汰人百姓等の所職名田畠等は、本所御進止重役の跡也。而るに私領と稀し自由に任せて売却せしなるの条、買人売る人共以て罪科為る可き也。然りと雖も覺願死去の上は今罪科に処せらる可きに非ず。彼所職重代相倅の本券等、寺僧真恵親類為るの間、先租の跡を失うを歎き、事の由を申し入れ買留め畢んぬ。之に依って本所役と云い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば、彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。活却質券の名田畠等に於ては皆悉く本職に返付す可し。但し買主一向空手の事不便烏る可し、営名主の沙汰と為して本錢の半分買主に沙汰し渡す可き也。今自り以後沙汰人百姓等の名田畠等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科篤る可き也。寺家
沙汰人百姓等宜しく承知して違失す可からずの状、仰せに依って下知件の如し。
弘安三年十月廿一日       上座大法師(花押)
別営耀律師(花押)        上座大法師
法 眼
意訳変換しておくと
一円保の公文職は、弘法大師の氏人である郡司綾貞方の子孫が代々相伝してきたものである。ところが先代の公文覚願は勝手に名田畠を質に入れたり売却したりした。これは不届きなことである。所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。
 しかし、覚願はすでに死亡しているので、今となっては彼を処罰することはできない。それに公文職相伝の本券=基本証書は、寺僧の真恵が公文の親類として先祖伝来の所職が人手に渡るのを歎いて買いもどした。そして公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。覚願が売却したり質入れしたりした名田畠は、公文職に付随するものとして返却しなければならない。しかし、買手が丸損というのも気の毒だから、当名主(現在の名主)として代銭の半分を買主に渡すようにせよ。今後沙汰人、百姓等の名田畠を勝手に売買することは固く禁止する

ここからは次のようなことが分かります。
①善通寺一円保の公文職は、代々に渡って多度郡司の綾貞方の子孫が務めてきたこと
②綾氏一族の公文職覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので彼を罷免したこと
③そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻したので、代わって公文に任じた
冒頭に出てくる「大師の氏人郡司貞方の末裔」とは 、平安末期に多度郡司であった綾貞方という人物です。
綾氏は讃岐の古代以来の豪族で、綾郡を中心にしてその周辺の鵜足・多度・三野郡などへの勢力を伸ばし、中世には「讃岐藤原氏」を名乗り武士団化していた一族です。彼らが13世紀には、佐伯氏に代わって多度郡の郡司を務めていたことが分かります。彼らは多度郡に進出し、開発領主として成長し、郷司や郡司職をえることで勢力を伸ばしていきます。
 さらに、この史料には「公文職の一族である寺僧眞恵」とあります。
ここからは寺僧真恵も綾氏の一族で、公文職を相伝する有力な立場の人物だったことが分かります。真恵は、ただの寺僧ではなく、先の公文が失った田畠をすべて買い戻すほどの財力の持主であり、一円保の役人の首である公文に任命されています。つまり真恵は、寺僧であるとともに、綾氏という有力武士団の一族に属し、地頭仲泰と対峙できる力を持っていた人物だったことを押さえておきます。

 綾氏は、讃岐の古代からの有力豪族です。
綾氏は平安末期に阿野郡郡司綾貞宜(さだのり)の娘が国主藤原家成(いえなり)の子章隆(あきたか)を生みます。その子孫は讃岐藤原氏と称して、香西・羽床・福家・新居氏などに分かれて中讃に勢力を広げ、讃岐最大の武士団に発展していました。また、源平合戦では、平家を寝返っていち早く源頼朝について御家人となり、讃岐国衙の在庁役人の中心として活躍するようになることは以前にお話ししました。一族は、綾郡や鵜足郡だけでなく、那珂・多度・三野郡へも勢力を伸ばしてきます。その中で史料に出てきた綾貞方は、多度郡司でもあり、善通寺一円保の公文職も得ていたことになります。この綾貞方について、今回は見ていくことにします。テキストは 「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領 411P」です。

先ほどの史料冒頭「一円公文職者大師御氏人郡司貞方之末葉重代相博来者也」とある部分を、もう少し詳しく見ていくことにします。
「公文」とは文書の取扱いや年貢の徴収などにあたる荘園の役人です。善通寺の公文には、郡司綾貞方の子孫が代々この一円保の公文職に任ぜられていることが分かります。そして、その貞方が初代公文のようです。しかし、この時期には、一円領はまだ寺領として確定せず、基本的には国衙支配下にあったはずです。だとすると貞方を一円領の公文に任じたのは国衙ということになります。貞方は、荘園の公文と同じように、国衙の特別行政地域となった一円寺領の官物・在家役の徴収をまかされ、さらに地域内の農民の農業経営の管理なども行った人物と研究者は考えています。
「郡司貞方」とあるので、多度郡司でもあり「一円保公文」職は、「兼業」であったことが推測できます。
もし、貞方が一円地の徴税権やは管理権を国衙から与えられていたとすれば、彼の次のねらいはどんな所にあったのでしょうか。つまり、一円保を国衙や本寺随心院から奪い、自分のものにするための戦略ということになります。直接それを示している史料はないので、彼のおかれていた状況から想像してみましょう。
綾貞方は古代讃岐豪族綾氏の一族で、多度郡の郡司でもありました。
この時代の他の多くの新興豪族と同じ様に、彼も律令制の解体変化の中で、有力領主への「成長・変身」をめざしていたはずです。
 まず一円領内の彼の置かれていた立場を見ておきましょう。
①在家役を負担しているので、彼の田畠は他の農民と同じく国衙から官物・雑役を徴収されていた
②公田請作のほかに、先祖伝来の財力と周辺農民への支配力を利用して未開地を開発して所領に加えていた
②多度郡郡司として、行政上の権力や特権的所領も持っていた
しかし、これらの権限や特権を持っていたとしても国衙からの支配からは自立できません。新興有力者と国衙の関係は、次のような矛盾した関係にあったのです。
①一方では国衛から与えられた権限に依拠しながら領主として発展
②一方では国衙の支配下にある限り、その安定強化は困難であること

①については貞方が、徴税権と管理権を通じて領域農民を掌握できる権限を与えらたことは、彼の領主権の確立のためにの絶好の手がかりになったはずです。しかし、この権限は永続的なものではなく不安定なものでした。例えば、国司交代で新たな国司の機嫌を損なうようなことをすれば、すぐに解任される恐れもあります。
では権力の不安定さを克服するには、どうすればいいのでしょうか。
それは善通寺と協力して一円寺領地を国衙支配から切り離し、その協力の代償として寺から改めて一円公文に任命してもらうことです。その時に、それまでの権限よりも、もっと有利な権限を認めさせたいところでしょう。
 このように綾貞方とその子孫たちは、徴税、勧農を通じて、一円領内の農民への支配力を強め、在地領主への道を歩んでいたようです。 別の視点から見ると、形式上は一円保の名田や畠は、随心院~善通寺という領主の所有になっているけれども、実質的な支配者は公文職を世襲していた綾氏だったとも云えそうです。だから公文職について覚願は、名田や畠を勝手に処分するようになっていたのです。


善通寺の寺領
善通寺一円保と周辺郷名

公文職の綾氏の領主化にピリオドを打つ人物が真恵です。
真恵が公文職に就いてから12年後の正応五年(1292)3月に、善通寺から六波羅探題へ地頭の押領に関する訴状が出されています。
訴訟相手は、良田荘の地頭「太郎左衛門尉仲泰良田郷司」です。彼は良田郷の郷司でもあったようです。仲泰が後嵯峨法皇御菩提料や仏への供物などに当てるための多額の年貢を納めずに、「土居田(どいでん)と号して公田を押領す」とあります。仲泰は「土居田=直属の所領」と称して一般の農民の田地を奪っていたようです。善通寺は、その不法を訴えますが、六波羅の奉行の阿曽播磨房幸憲と地頭仲泰と結託していて、寺領侵害を長年にわたって止めることはできませんでした。
このような寺領紛争に、のり出しだのが綾氏出身の真恵でした。
 先ほど見たように真恵は、弘安三年(1280)十月に善通寺一円保の公文職についた人物です。当時の彼は善通寺大勧進になっていました。大勧進というのは堂塔の造営や修理、寺領の管理など寺院の重事にその処理の任に当たる臨時職です。大勧進の職についた真恵は、その職権を持って地頭の仲泰と交渉を進め、永仁六年(1298)に、良田郷を下地中分することにします。
  下地中分(しもちちゅうぶん)というのは、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半し、それぞれの領有権を認めて互いに干渉しないことにする方法です。荘園領主としては領地の半分を失うことになりますが、そのまま地頭の侵害が進めば荘園は実質的に地頭の支配下に入ってしまうかもしれません。それを防いで半分だけでも確保したいという荘園領主側の意向から行われた処置でした。
 善通寺が地頭仲泰の荘園侵害を防ぎきれず、下地中分をせざるを得なかったのは、結局善通寺が荘園に対して地頭に対抗できるだけの支配力を持たなかったからだといえます。したがって寺の支配力の強化が計られなければ、下地中分後の寺領もまた在地武士の侵害を受ける可能性があります。一円保公文として荘園管理の経験があり、また彼自身在地領主でもあった真恵は、そのことを痛感したのでしょう。
そこで真恵が計画した中分後の寺領支配の方法は次のようなものでした。大勧進真恵寄進状(A・B通)に、次のように記されています。

大勧進真恵寄進状A.
大勧進真恵寄進状A

意訳変換しておくと
(地頭との相論で要した訴訟費用)一千貫文は、すべて真恵の私費でまかなったこととにする。その費用の代として、一町別五〇貫文、一千貫文分二〇町の田を真恵の所有とする。そのうえで改めてその田地を金堂・法華堂などに寄進する。その寄進の仕方は、金堂・法華堂の供僧18人に一町ずつの田を配分寄進し、町別に一人の百姓(名主)を付ける。残りの2町については、両堂と御影堂の預僧ら3人に5段ずつ、合わせて1町5段、残る5段は雑役を勤める下級僧侶の承仕に配分する。別に2町を大勧進給免として寄進する

大勧進真恵寄進状B
大勧進真恵寄進状B

真恵寄進状とありますが、その実態は「大勧進ならびに三堂供僧18人口、水魚の如く一味同心せしめ、仏法繁栄を専らにすべし」とあるように、田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする「善通寺挙国(寺)一致体制」作りにほかなりません。真恵が訴訟費用の立替分として自分のものとし、次いで善通寺に寄進した土地は、中分で得たほとんどすべてです。このようなもってまわった手続きを行ったのは、新しい支配体制が、それまでの寺僧の既得権や名主百姓の所有権を解消して再編成するものであったことを著しています。普通の移行措置では、今まで通りで善通寺は良くならないという危機意識が背景にあったかもしれません。真恵の考えた「寺僧による集団経営体制」ともいえるこの体制は、当時としてはなかなかユニークなものです。

「B」の冒頭の「眞惠用途」とは 、大勧進としての真恵の用途(=修理料)を指すと研究者は考えています。内容を整理すると、
① 大勧進の真恵が良田郷の寺領について、地頭との間で下地中分を行ったこと
②その際に領家分となった田畠2町を供僧等に割り当てたこと
③それに加えて、寺僧中二人の學頭とも断絶したときには 、大勧進沙汰として修理料とすること
④Aとは別に良田郷内の2 町の田畠を大勧進給免として配分すること
⑤大勧進職には自他の門弟の差別をせずに器量のあるものを選ぶこと
⑥適任者がいないときには 「二十四口衆」の沙汰として修理料とすること

   以上のように、真恵は綾氏出身の僧侶で、寺院経営に深く関わり、地頭と渡り合って下地中分なども行える人物だったことが分かります。現在の我々の「僧侶」というイメージを遙かに超えた存在です。地元に有力基盤をもつ真恵のような僧が、当時の善通寺には必要だったようです。そういう目で見ると、この後に善通寺大勧進として活躍し、善通寺中興の祖と云われる道範も、櫛梨の有力者岩崎氏出身です。また、松尾寺を建立し、金比羅堂を建てた宥雅も西長尾城主の弟と云われます。地方有力寺院経営のためには、大きな力を持つ一族の支えが必要とされたことがうかがえます。
大勧進職の役割についても、見ておきましょう。
 Bの冒頭には「大勸進所者、堂舎建立修理造營云行學二道興行云偏大勸進所可爲祕計」とあります。ここからは伽藍修造だけでなく、寺院経営までが大勧進職の職掌だったことがうかがえます。Aでみたように、下地中分や、供僧への田畠を割り当てることも行っていることが、それを裏付けます。

 B によって設定された大勧進給免田畠2町は、観応3年(1352)6月25日の誕生院宥範譲状で 「同郷(良田郷)大勸進田貳町」と出てきて、宥源に譲られています。善通寺の知行権を伴う大勧進職の成立は、真恵譲状の永仁6年から始まると研究者は考えています。

 しかし、真恵がめざした「大勧進+寺僧集団」による良田荘支配は、本寺随心院の干渉によって挫折します。
真恵のプランは、随心院からみれば本寺の権威を無視した末寺の勝手な行動です。そのまま見逃すわけにはいきません。末寺善通寺と本寺随心院との良田荘をめぐる争いは徳治2年(1306)まで約10年間続きます。
TOP - 真言宗 大本山・隨心院

随心院は、摂関家の子弟が門跡として入る有力寺院です。
善通寺の内にも真恵の専権的なやり方に不満を持った僧がいたのでしょう。争いは次第に善通寺側に不利になっていきます。結局、真恵の行った下地中分は取り消され、良田荘は一円保と同じように随心院を上級領主とする荘園になったようです。真恵による寺領経営プランは、本所随心院の圧力により挫かれたことになります。そして、真恵は失脚したようです。

以上をまとめておくと
①古代讃岐の有力豪族であった綾氏は、鵜足郡や阿野(綾)郡を拠点にして、その勢力を拡大した。
②西讃地方でも、中世になると那珂郡・多度郡・三野郡などで綾氏一族の末裔たちの動きが見えるようになる。
③13世紀末の史料からは、綾定方が多度郡の郡司で、善通寺一円保の公文職を務めていたことが分かる、
③綾貞方の子孫は、その後も善通寺一円保公文職を務めていたが、覚願が、本寺随心院に無断で名田などを処分したので罷免された。
④そこで、綾氏一族の寺僧真恵が売られた田畑を買い戻し、公文に就任した
⑤それから18年後に真恵は、善通寺大勧進となって良田荘の地頭と渡り合って下地中分を成立させている。
⑥そして田地と百姓の配分を受けた寺僧らが大勧進を中心に結束して寺領を維持していこうとする体制造りをめざした
⑦しかし、これは本寺随心院の支持を得られることなく、真恵は挫折失脚した。

ここからは、中世には綾氏の武士団化した一族が多度郡に進出し、多度郡司となり、善通寺一円保の公文職を得て勢力を拡大していたことがうかがえます。そして、その中には僧侶として善通寺大勧進職につきて、寺院経営の指導者になるものもいたようです。善通寺など地方有力寺院は、中世には、このような世俗的な勢力の一族を取り込み、寺院の経済基盤や存続を図ろうとしていたことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山之内 誠  讃岐国善通寺における大勧進の性格について 日本建築学会計画系論文集 第524号.,305−310,1999年
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    平安時代末期の11世紀中期以降になると、郡・郷のほかに保・名・村・別符その他の称号でよばれる「別名」という所領が姿を見せるようになります。つまり、郡郷体制から「別名」体制に移行していくのです。この動きは、11世紀半ばの国制改革によるもので、一斉に全国に設置されたのでなくて、国政改革以後に漸次、設置されたとされていったようです。
それでは、讃岐には、どんな「別名」が設置されたのでしょうか?
讃岐の「別名」を探すには、嘉元四(1306)年の「昭慶門院御領目録案」がいい史料になるようです。
讃岐国
飯田郷  宝珠丸 氷上郷 重方新左衛門督局
円座保  京極準后     石田郷 定氏卿 
大田郷  廊御方    山田郷 廊御方
粟隅郷  東脱上人  林田郷 按察局
一宮   良寛法印秀国  郡家郷 前左衛門督親氏卿
良野郷  行種    陶 保 季氏
法勲寺  多宝院寺用毎年万疋、為行盛法印沙汰、任供僧
三木井上郷 冷泉三位人道
生野郷 重清朝臣    田中郷 同
「坂田勅旨行清入道、万五千疋、但万疋領状」
梶取名 親行    良野新           
万乃池 泰久勝    新居新          
大麻社 頼俊朝臣    高岡郷 行邦
野原郷 覚守    乃生 行長朝臣
高瀬郷 源中納言有房 垂水郷 如来寿院科所如願上人知行
ここに出てくる地名を見ると、それまでの律令体制下の郷以外に、それまではなかったあらたな地名(別名)が出てきます。それが「円座保  陶保 梶取名 良野新名 新居新名 乃生浦 万乃池」などです。これらの別名の成立背景を、推察すると次のようになります。
乃生浦は海辺にあって、塩や魚海などを年貢として納める「別名」
梶取名は、梶取(輸送船の船長)や船首など水運関係者の集住地
良野新名・新居新名は、本村に対して新たに拓かれた名
万乃池(満濃池)は、源平合戦中に決壊した池跡に、新たに拓かれた土地
それでは、円座保・陶保とは、何なのでしょうか。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。

11世紀になると「別名」支配形態の一つとして「保」が設けられるようになります。
保の成立事情について、研究者は次のように考えているようです。
①竹内理二氏、
保の中には在地領主を公権力に結集するため、国衙による積極的な創出の意図がみられる
②橋本義彦氏、
大炊寮の便補保が年料春米制とつながりをもちつつ、殿上熟食米料所として諸国に設定されていった
③網野義彦氏、
内蔵寮が御服月料国に対する所課を、国によって保を立てて徴収している。そのほか内膳保・主殿保など、官司の名を付した保は各地に存在している
 以上からは、は保の中には、国衛や中央官司によって設定されたものがあること分かります。

讃岐の国では、陶保・円座保・善通寺・曼荼羅寺領一円保・土器保・原保・金倉保などがありました。この中で、善通寺・曼荼羅寺領一円保については、以前にお話したように古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。そして、保延4年(1138)に讃岐国司藤原経高が国司の権限で、一円保が作られます。それでは、陶保と円座保は、どのようにして成立したのでしょうか


十瓶山窯跡支群分布図1
十瓶山(陶)窯跡分布図

陶保の成立から考えてみることにします。
陶保がおかれた一帯は、現在の綾川町の十瓶山周辺で奈良時代から平安時代にかけて、須恵器や瓦を焼く窯がたくさん操業していたことは、以前にお話ししました。
平安時代に成立した『延喜式』の主計式によると、讃岐国からは次のような多くの種類の須恵が、調として中央へ送ることが義務づけられていたことが分かります。
「陶盆十二口、水盆十二口、盆口、壺十二合、大瓶六口、有柄大瓶十二口、有柄中瓶八十五口、有柄小瓶三十口、鉢六十口、碗四十口、麻笥盤四十口、大盤十二口、大高盤十二口、椀下盤四十口、椀三百四十口、壺杯百口、大宮杯三百二十口、小箇杯二千口」

これらの「調」としての須恵器は、坂出の国衙から指示を受けた郡長の綾氏が、支配下の窯主に命じて作らせて、綾川の水運を使って河口の林田港に運び、そこから大型船で畿内に京に納められていたことが考えられます。
須恵器 編年表3
十瓶山窯群の須恵器編年表
 十瓶山(陶)地区での須恵器生産のピークは平安中期だったようですが、11世紀末までは、甕・壷・鉢・碗・杯・盤などの、いろいろな器種の須恵器の生産が行なわれいたことが発掘調査から分かっています。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
それまでのいろいろな種類の須恵器を生産していたのが、甕だけの単純生産に変わります。その他の機種は、土師器や瓦器に置き換えられていったことが発掘調査から分かっています。その中でもカメ焼谷の地名が残っている窯跡群は、その名の通り甕単一生産窯跡だったようです。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土3

 十瓶山(陶)窯群が綾氏が管理する「国衙発注の須恵器生産地」という性格を持っていたことは以前にお話ししました。陶保は平安京への須恵器を生産するための「準官営工場」として国衙直結の「別名」になっていた研究者は考えています。
そのよう中で窯業の存続問題となってくるのが燃料確保です。
「三代実録』貞観元年4月21日条には、次のように記されています。
河内和泉両国相争焼陶伐薪之山。依朝使左衛門少尉紀今影等勘定。為和泉国之地。

  意訳変換しておくと
河内と和泉の両国は焼須恵器を焼くための薪を刈る薪山をめぐって対立した。そこで朝廷は、朝使左衛門少尉紀今影等に調査・裁定をさせて、和泉国のものとした。

ここからは、貞観年間(859―876)の頃から、須恵器を焼く燃料を生産する山をめぐっての争いがあったことが分かります。
十瓶山窯跡支群分布図2

このような薪燃料に関する争いは、須恵器の生産だけでなく、塩の生産にもからんでいました。
筑紫の肥君は、奈良時代の頃から、観世音寺と結んで広大な塩山(製塩のための燃料を生産する山)を所有していました。讃岐の坂本氏も奈良時代に西大寺と結託して、寒川郡鴨郷(鴨部郷)に250町の塩山をもっています。薪山をめぐる争いを防ぐために、薪山が独占化されていたことが分かります。塩生産において燃料を生産する山(汐木山)なくしては、塩は生産できなかったのです。
 瓦や須恵器、そして製塩のために周辺の里山は伐採されて丸裸にされていきます。そのために、燃料の薪山を追いかけて、須恵器窯は移動していたことは、三野郡の窯群で以前にお話ししました。
古代から「環境破壊」は起きていたのです。
 内陸部で後背地をもつ十瓶山窯工場地帯は、薪山には恵まれていたようですが、この時期になると周辺の山や丘陵地帯の森林を切り尽くしたようです。窯群を管理する綾氏の課題は、須恵器を焼くための燃料をどう確保するのか、もっと具体的には薪を切り出す山の確保が緊急課題となります。

古代の山野林沢は「雑令』国内条に、次のように記されています。
山川薮沢之利、公私共之。

ここからはもともとは、「山川は公有地」とされていたことが分かります。しかし、燃料確保のためには、山林の独占化が必要となってきたのです。陶地区では、須恵器の調貢が命じられていました。そのために国府は、綾氏の要請を受けて窯群周辺の薪山を「排他的独占地帯」として設定していたと研究者は考えています。
それが11世紀半ばになって地方行政組織が変革されると、陶地区一帯は保という国衛に直結した行政組織に改変されたと研究者は推察します。陶地区では、11世紀後半になっても須恵器の生産は盛んでした。その生産のための燃料を提供する山に、保護(独占化)が加えられたとしておきましょう。
それが実現した背景には、綾氏の存在ががあったからでしょう。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
ところが12世紀になると、先ほど見たように須恵器の生産の縮小し、窯業は衰退していきます。その中で窯業関係者は、保内部の開発・開墾を進め百姓化していったというのがひとつのストーリーのようです。
『鎌倉遺文』国司庁宣7578には、建長八年(1256)に萱原荘が祇園社に寄進された際の国司庁の四至傍示の中に、陶の地名が出てきます。ここからは陶保の中でも荘園化が進行していたことがうかがえます。
 最初に見た「昭慶門院御領目録案」嘉元四(1306)年には、「陶保 季氏」と記されていました。つまり季氏の荘園と記されているので、14世紀初頭には水田化が進み、一部には土師器や瓦生産をおこなう戸もあったようですが、多くは農民に転じていたようです。あるいは春から秋には農業を、冬の間に土師器を焼くような兼業的な季節生産スタイルが行われていたのかも知れません。

以上をまとめておくと
①陶保は、本来は須恵器や瓦生産の燃料となる薪の確保などを目的に保護され保とされた。
②しかし、13世紀頃から窯業が衰退化すると、内部での開墾が進み、荘園としての性格を強めていった。
須恵器 編年写真
十瓶山窯群の須恵器

次に、円座保の成立について、見ていくことにします。
もう一度「昭慶門院御領目録案」を見てみると、円座保は「京極准后定氏卿知行」と記されています。ここからは、京極准后の所領となっていたことが分かります。京極准后とは、平棟子(後嵯峨天皇典待、鎌倉将軍宗尊親母)だったようです。
菅円座制作記 すげ円座(制作中)
菅円座
円座保では、讃岐特産の菅円座がつくられていたようです。
『延喜式』の交易雑物の中に、「菅円座四十枚」とあります。
藤原経長の日記である『古続記』文永8(1271)年正月十一日条に、次のように記されています。
円座は讃岐国よりこれを進むる。件の保は准后御知行の間、兼ねて女房に申すと云々。

「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。

円座・円坐とは - コトバンク
 円座作り
円座が、国に直結する保に指定された背景は、何だったのでしょうか?
それは陶保と同じように、特産品の円座生産を円滑にしようとの意図が働いていたと研究者は考えています。円座は敷物として都で暮らす人々の必需品でした。その生産を保護する目的があったと云うのです。
菅円座制作記
讃岐の円座

このように、陶保と円座保では、須恵器と円座といった生産品のちがいはあつても、その生産をスムーズに行なわせようという国衙の意図がありました。それが「保」という国衙に直結した行政組織に編入された理由だと研究者は考えています。

研究者は「保」を次の三種類に分類します。
①荘園領主のため設定された便補の保
②領主としての在庁宮人が荘園領主と争う過程で成立した保
③神社の保、神人の村落を基礎に成立した保
円座・陶保は①になるようです。中央官庁が財源確保のために諸国に設定した保とよく似ています。中央官庁の命を受けた国司(在庁官人)が①の便補の保として設定したものと研究者は考えています。

以上、陶保と円座保についてまとめておきます。
①陶保と円座保は、それぞれ須恵器と菅円座の生産地として、繁栄していた。
②都における須恵器や菅円座の需要は大きく国衙にも利益とされたので、国衙の保護が与えられるようになった。
③11世紀半ばになって、「別名」体制が生み出された時に、陶保と円座保は国衙によって、保という国衛に直結した行政組織とされた。
④それは「別名」のうちの一つであった
⑤この両保が保とされた直接の原因は、その生産品の生産を円滑にするためであった。
⑥保に指定された陶や円座には、その内部に農地として開墾可能な荒地があった。それを窯業従事者たちが開墾し、農業を始る。
⑦その結果、14世紀には『昭慶門院御領目録案」には荘園として記されることになった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
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図書館の発掘調査報告書のコーナーを見ていると、ひときわ厚い冊子がありました。引っ張り出して見ると「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」とあります。いままでの発掘調査の総括となるもののようです。国の史跡指定に向けての報告書でもあるのでしょう。
 発掘調査の各報告書の巻頭「概観」には、それまでの研究史や研究到達点がコンパクトに紹介されています。もうひとつの楽しみは、いままでに見たことのないデーターが視覚化され載せられていることです。そのためできるだけ報告書類には目を通すようにしています。この報告書にも充実した「概観」が載せられています。今回はこの報告書をテキストにして、どうして讃岐国府が府中に造られたのかを追ってみます。
綾北 綾北平野の横穴式古墳分布
中央を流れるのが綾川 赤が横穴式石室をもつ古墳 青が古代寺院
右下が府中で青四角が国府跡推定地

讃岐国府は、広いとは云えない「綾北平野」の最奥にあります
この平野は綾川下流域にできた沖積平野で、海際の最大幅でも3、5kmしかありません。国府周辺はさらに狭まくなります。東西と南の三方を丘陵で囲まれ、平野側の間は約500~600mしかありません。高松平野や丸亀平野に比べると、狭い平野が意図的・選択的に選ばれたようです。
 国府周辺で、綾川は谷間から出て阿野北平野に流れ込みますが、その周辺で不自然に屈曲します。かつては歴史地理学の視点から

「人為的な流路変更が古代に行われ、そこに国府が造られた」

という説もありました。私も、この説を主張する本を読んで信じていました。しかし、その後の研究で江戸期の絵図「高松藩軍用絵図」には、直角に屈曲する流路形状は描かれていないことが分かりました。明治21年の陸地測量部作成地図には、現在の流路になっています。そのため、この屈曲は明治の河川改修によるものとされるようになりました。

讃岐の郷分布図
讃岐の郷分布図
讃岐国には『和名類衆抄』によると11郡、90郷がありました。
全国的に見ると上位の郷総数となり(15位)、面積に比べると郷数がかなり多いことが分かります。上図は位置が分かる郷名を地図上に示したものです。このような形で、各郷の位置と広さが示された分布地図を見たのは初めて見ました。興味深く眺めてしまいました。
地図では、郷が次の3つの類型に分けられています
①類型1は、1~2km四方の領域で、後背地となる山野がなく、各平野の中央部にある。
②類型Ⅱは各平野の周縁部にあり、幅2 km、長さ5㎞程度で、一方に丘陵部をもつ
③類型Ⅲは各平野の外周部にあり、5 km四方を大きく超える領域で、その大半は山野である
 こうしてみると各平野の中央部に類型1が集中し、その縁辺に類例Ⅱ、その外周に類型Ⅲが分布する傾向が見て取れます。丸亀平野と高松平野では同心円状の郷分布になっています。これは丸亀・高松平野の郷分布が弥生時代以降の伝統的な生産基盤や地域的なまとまりの中から形成されてきた結果だと見ることができます。
 そこで国府のある綾北平野周辺をみてみると、丸亀・高松平野とは明らかにちがいます。府中のある甲知郷は類型3に分類されます。中心地域ではなかったところに、国府は置かれたことになります。ここには、不自然さを感じます。逆に政治的な働きかけがあったことがうかがえます。「政治的な働きかけ」を行い、国府の「地元誘致」に成功した勢力がいたようです。讃岐国府ができる前の阿野北平野の動向を見ておきましょう。

綾北平野の古墳 讃岐横穴式古墳分布
讃岐の大型石室を持つ古墳分布図 阿野北平野に集中しているのが分かる。

まず注目すべきは大型横穴式石室墳の多さです
阿野北平野には、古墳時代中期までに造られた古墳は少ないのですが、蘇我氏政権下の7世紀前葉になると、突然のように新宮古墳、それより少し遅れて醍醐3号墳が姿を現します。これを皮切りに
①綾川左岸の城山北東部(醍醐古墳群)
②城山東部、東岸の連光寺山西麓(加茂古墳群)
③五夜嶽西麓(北山古墳群)
などに大型横穴式石室墳が相次いで築かれるようになります。その石室スタイルは観音寺市(後の刈田郡)にある大野原古墳群の影響を受けた複室構造を採用しています。その後は、前室の形骸化、羨道との一体化という方向で全ての古墳に共通した変遷が見られます。ここからは次のようなことがうかがえます。
①阿野北平野の横穴式石室をもつ古墳は共通性があり、一族意識をもっていた
②三豊の刈田郡勢力との何らかの関係をもつ集団であった。
それよりも注目すべき点は、その後の築造動向です。

綾北 香川の横穴式古墳規模2
阿野北の横穴式石室は、規模も大きい 紫が阿野北平野の石室

醍醐・加茂・北山の各古墳群では、その後も大型石室墳が築造され続け、これまで讃岐の盟主的地位にあった大野原古墳群を凌駕するようになります。また讃岐各地の古墳が築造停止する7世紀中葉以降も築造が続けられていきます。

こうした阿野北平野の背景には何があるのでしょうか
大久保氏は、綾北平野周辺諸地域勢力が結集し、共同して綾北平野とその周辺の開発を進め、港津や交通路、各種の生産基盤の整備を進めたからと指摘しています。ここでは、7世紀中頃まで空白地帯(未開発地帯)だった阿野北平野に、突然のように大型古墳が何基も造られるようになり、3,4グループが同じ石室のタイプをもつ古墳を造り続けたことを押さえておきます。その上で古墳造営の背景を考えて見ましょう。
『日本書紀』天武天皇十三(684)年11条に、綾君氏が「朝臣」の姓を賜ったという記事が出てきます。
古墳が続けられた後のことです。「綾」は「氏」集団の名称で、「君」は「姓」というもので「朝臣」も同じです。氏というのは、実際の血縁関係や疑似血縁的意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団のことです。しかし、一般民衆の血縁的集団を指すのではなく、大和政権に奉仕する特別な有力者集団を示します。ここがポイントで、綾氏は「君」や「朝臣」を貰っているので、朝廷と直接的な関係を持つ集団だと認められていたことになります。
 氏の首長である氏上は、氏を代表して政治に参与します。その政治的地位に応じて称号である姓を与えられ、血縁者も姓を称することを許されます。6世紀後半以後、阿野北平野の開発などの進展で、新たに開発された所に拠点を移す「分家」が現れ、一族の中でも居住地が離れていきます。その結果、氏内部に小集団(別氏)の分離・独立化の傾向が起きて分裂していきます。つまり、いくつもの綾氏の分家が6世紀後半には阿野北平野に現れたということになります。そして「各分家」も、新拠点で古墳造営を始めます。その際の石室スタイルは「本家」のものと同じにします。このようにして大型石室を持つ古墳は造営されたと研究者は考えているようです。大型石室の被葬者たちは綾氏一族の分家した各首長としておきましょう。本家の仏壇を真似て、分家の仏壇も設置されているのと同じなのかもしれません。

次に、国府以前に建立されていた古代寺院を見ていきます。
阿野北平野には、開法寺跡、醍醐寺跡、鴨廃寺の3つの古代寺院があります。醍醐寺跡や鴨廃寺は大型石室を持つ古墳群が築かれた場所の目の前に寺院が建立されています。ここからは、古墳群を造った勢力が、古墳築造停止後に氏寺建立に転換したことがうかがえます。
 先ほど見たように綾北平野の古墳は石室形態を共有していました。同じように寺院建立の際にも、同じ瓦が使われています。ここにも相互の強い結びつきが見られます。同時に狭い阿野北平野に3つの寺院が並び建つ状況は他では見られません。有力勢力が密集していたエリアだったことがうかがえます。これらの古墳や寺院を築造した勢力は、綾氏に繋がり、684年の八色の姓では朝臣の姓をもらっています。善通寺市の大墓山・菊塚古墳から仲村廃寺・善通寺へと移行していく佐伯直氏と同じ動きがここでも見えます。
坂出 海岸線復元3
坂出の古代海岸線復元図の中の国府と城山

阿野北平野のことを考える際に、避けて通れないのが古代山城・城山城です  
 屋島と城山の古代山城は備讃瀬戸をはさんで西と東にあり、前面には塩飽諸島、後者には直島諸島が連なり、多島海の眺望を眺めるには最高の場所です。これを戦略的に見ると、防衛ラインを築くには城山や屋島は最も適した立地となります。近年では対岸の吉備の山城と対で設置された可能性も指摘されています。
 古代山城は地方豪族が立地場所を決めたわけではありません。中央政府の視点で、選択的選地がなされています。もちろん地方有力者の助言・意向は反映された可能性はあります。
 讃岐国内の2城は同時着工で短期間で築城されたようで、地元から動員された労働力は膨大な数だったはずです。築城には中央から監督役人が派遣され、亡命百済技術者集団が指揮したと私は考えています。派遣された築造担当の中央役人は、地元の有力豪族を使いながら強制的な労働力徴発を行ったのでしょう。山城築造や南海道整備などの強制は、結果的には律令国家体制が急速に、地方豪族に身に泌みる形で浸透していく契機になったのかもしれません。そうだとすると山城築造が讃岐に与えた影響は計り知れないものだったと云えそうです。

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城山頂上に残る礎石群

 その後、山城が完成すると、その管理・運営が問題になります。
城だけ造っても防備にはなりません。そこに兵員の組織・配置・訓練・移動も行わなければなりません。唐・新羅連合軍の来襲という危機意識の中で、複数の国を統括する太宰・総領が置かれます。この時期、讃岐は伊予総領の管轄下にあったようです。伊予総領の課題としては、今治・城山・屋島の戦略要衝の機動的な運用が目指されたはずです。そのためには兵員・戦略物資の融通移動や情報の迅速交換のためにも基幹交通路となる南海道の整備は、最重要課題のひとつになります。

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こうして、東から大坂峠を越えて南海道が城山を目指して一直線に伸びてくることになります。幸いにして南海道が戦略的な機能を果たすことはありませんでいたが、この時期の投下された社会資本整備が後世に大きな意味を持つことになります。国府が置かれる府中周辺は、白村江の敗北への対応策として、大きな社会資本が継続的に投下され整備されたエリアだったと報告書は指摘します。

氏名の由来と八色の姓
綾という氏名の由来は、地名の阿野郡からきているとされます。綾氏は、古代阿野郡を本拠とする豪族で、今までに見てきたように古墳や寺院跡などの分布から綾川下流域が中心拠点だったことが分かります。次に姓というのは、政治的地位に応じて与えられる称号で、臣・連・君などがありました。綾君に朝臣という姓が贈られる1ヵ月前に「八色の姓」が制定されています。これは、従来からあった臣・連などの姓をすべて改めて、新たに真人・朝臣・宿而・忌寸・道師・臣・連・稲置などの8級の姓を制定したものです。ここには伝統的な氏姓制度を再整備し、天武一族を最上位に置き、その当時の勢力関係をプラスして、厳然たる身分制度を新たに作ったものです。
 綾君氏は「朝臣」をもらっています。
この姓は、大和政権を支えた畿内とその周辺地域の有力氏族52氏に与えらました。地方豪族としては群馬の上毛野君・下毛野君氏、二重の伊賀臣・阿閉臣氏、岡山の下道臣氏・笠臣氏、北部九州の胸方(宗像)君氏だけです。彼らは地方の大豪族で、讃岐はもとより四国内では綾君氏のみです。ここからは、綾氏がこれらの地方有力豪族と肩を並べる存在であったことがうかがえます。
 さらに綾君氏で研究者が注目するのは、祖先系譜です。
『日本書紀』景行天皇五十一年八月条に、妃である古備武彦の女吉備穴戸武媛が、武卵王(たかけかいこう)と十城別王(とをきわけのみこ)を生み、兄の武卵王は讃岐綾君の始祖であると、記されています。『古事記』にも同じような記事があります。景行天皇は実在が疑われているので、これらの記事が史実かどうかは別として、天皇家に直結する始祖伝承が『日本書紀』、『古事記』に記されていることは事実です。ということは、この紀記の原史料成立時期の7世紀前半頃、または『日本書紀』、『古事記』の編纂時の8世紀に、綾君氏が大和政権の中で一定の地位を築いていたことを物語ります。
 当時讃岐では、高松以東では凡直氏、高松市域では秦氏、善通寺市域では佐伯直氏、それと観音寺市域では氏姓は分かりませんが罐子塚・椀貸塚・平塚・角塚古墳を造り続けていたいた豪族(紀伊氏?)がいました。これらの中で天皇家に連なる祖先系譜を持っているのは綾氏だけです。ここからは、7世紀前半において、讃岐における綾氏の政治的位置や政治力の大きさがうかがえます。
5讃岐国府と国分寺と条里制

  以上、どうして讃岐国府は坂出・府中に置かれたのかという視点に立って、その理由を報告書の中から選んでしるしてみました。それをまとめておきます。

①讃岐国府は現在の坂出市府中に置かれた
②しかし、府中は丸亀平野や高松平野などの後背地がなく、また古墳時代以来の開発蓄積があった場所でもなかった。また6世紀後半までは国造クラスの有力豪族もいなかった。
③阿野北平野の豪族は6世紀後半以後に急速に力を付けていく。
④彼らの首長は、観音寺市の大野原古墳群の石造スタイルを真似て、新宮古墳を築く。
④これをスタートに阿野北平野の4つのグループも、新宮古墳をコピーしたスタイルのものを造営するようになる。これには統一性が見られる
⑤この被葬者たちは、新宮古墳の被葬者の末裔で一族意識(祖霊意識)をもつ同族で「本家と分家」の関係にあった。
⑥彼らは7世紀後半には、古墳に代わって氏寺を建立するようになる。
⑦これが古代の綾氏の祖先で、綾氏は讃岐でもっとも勢力のある豪族に成長し、城山城や南海道の建設に協力し、中央政権とのパイプを強め、信頼を得ていく。
⑧それが坂出府中への「国府誘致」の原動力となった。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献  讃岐国府跡の位置と地理的環境 
    「讃岐国府跡2 第1分冊 2019、3」所収
        香川県教育委員会

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

香西漁民の讃留霊王信仰の高まりの背景は?

イメージ 1

飯山町下法勲寺には、讃留霊王神社があります。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会

   飯野山と讃留霊王墓・法勲寺跡(讃岐国名勝図会 幕末)
讃留霊王の古墳とされる後円部の上が玉垣で囲われ聖域となっています。そこに近世以後に新しく神社が建てられます。その背景には、讃岐における讃留霊王伝説の広がりがあります。

讃留霊王神社 讃岐国名勝図会
讃留霊王神社拡大図 「讃王明神」とあり、背後に陵墓がある

讃岐のローカルストーリであった讃留霊王説話を本居宣長が「古事記伝」にとりあげると「讃留霊王=讃岐の国造の始祖=綾氏の祖先」とする認識が全国的に広がり、認知度もアップします。これも、綾氏を祖先とする人々の讃留霊王信仰の拡大につながりました。

 なぜ讃留霊王神社が香西漁民の信仰を集めたのでしょうか?
 讃留霊王は、悪魚退治に従った漁民に瀬戸内海での漁業の自由をゆるした

とも言われはじめ、漁民の信仰も集めるようになります。この神社の境内には明治に建立された際の王垣が立っています。
その中に高松の香西港の漁民「香西久保利作、漁方中」の名が見えます。また、境内に建つ旅所由緒之碑には、次のように記されています。
神社氏子は、明治初期まで香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上を恒例としていたと伝えり。」
意訳変換しておくと
(当社の)氏子は、明治初期までは香西浦や直島にもいた。その方々の崇敬は厚く、祭礼行事に参加するとと共に、春の初鯛の献上を恒例としていたと伝わる」

香西浦や直島の漁民が祭事に係わり、春の初鯛献上を毎年行っていたとと刻まれています。香西漁民が讃留霊王説話をどのように受け止め、歴史意識を形作っていったのでしょうか? 探ってみることにします。
香西漁港の三和神社 「瀬居島漁場碑」を読む

香西湊の三和神社と讃留霊王顕彰碑
三和神社(高松市香西)と「瀬居島漁場碑」 
高松市の西にある香西漁港には漁民達から信仰を集めた三和神社が鎮座しています。もとは海神社と呼ばれていたことからも海に関係した神社であることが分かります。この神社の境内に「瀬居島漁場碑」が立っています。120年ほど前の明治32年(1899)に立てられた碑です。読んでみましょう。
「相伝う。景行の朝、讃の海に巨魚有り。漁民之を畏れ敢えて出漁せず。天皇、皇孫武殼王を遣わす之を除く。王、網を結び魚を掩い殺し、遺類莫し。百姓慶頼す。因って其の地を称して網の浦と曰うと云う。嗚呼往昔は皇威悪魚を駆りて民の害を除き、今は官裁漁域を定めて争訟をおさむ
意訳変換しておくと
 景行天王の時代(4世紀)、讃岐の海に巨大な悪魚が現れた。そのため漁民はこれお怖れて出漁出来なかった。景行天皇は、皇孫武殼王(神櫛王=讃留霊王)に命じて、討伐することを命じた。そこで王は、網を結んで悪魚を捕獲し、憂いをなくした。これを見て、百姓は大喜びした。そのためその地を「網の浦」と呼ぶようになった。このように香西は、往昔は皇威を駆りて悪魚を駆逐し、今は国家の裁定で漁域を保証されて、漁業権を巡る争訟に勝利した。

武殼王は景行の孫、日本武尊の子として記紀にも出てきます。
しかし、悪魚退治は讃岐で付け加えられた讃岐独特の伝説です。悪魚退治ののち讃岐に留まったので讃留霊王と呼んだと讃岐では言い伝えています。
 この碑の内容は、香西漁民の先祖の活躍には比重は置かれていないように感じます。それよりも、先祖が悪魚退治をおこなった讃留霊王に世話になった話として書かれています。最後に、むかし讃留霊王の世話になったように今は官(明治政府)のお陰で白分たちの漁域が守れたと結んでいます。
 この官裁というのは、明治19年に下津井の漁場争いで、香西漁民に有利な裁決が大阪控訴院によって下されたことをさします。つまり、自分たちの漁場が守れた嬉しさから武殼王(讃留霊玉)を連想し、敬っているのが「瀬居島漁場碑」です。

4344102-66鯛網漁 大槌
香西漁民による大槌島での鯛網漁(讃岐国名勝図会)

 ところが、大正期に入ると歴史意識がさらに進化します

大正5年(1916)に香川県水産試験場が発行した「鯛漁業調査」には鯛網の起源として、次のように書かれています。 
鯛網ノ起源ハ、十二代景行天皇廿四年、当漁場大槌島・小槌島ノ南二海上ノ通航船呑ム悪鱒棲み居り候故、鱒又卜云フ。廿五年皇子日本武尊ノ御子讃留霊王、大鱒退治ノ勅ヲ奉じ、三月ヨリ弥々退治ノ御用意二付き、叫臣下ヲ召寄セ御評議色々工夫ノ上、始メテ網の事ヲ案出シ、魚引キ揚ゲ候段、
讃留霊王御感ジノ余り御褒美トシテ即ち網ヲ給リ、当網代ノ義、瀬居島海猟場御免許成られ候二付き、彼ノ網ヲ以テ鯛網当浦二於テ初メテ出来、瀬居島海ニテ猟業仕り候二付き、往古ヨリ瀬居島海香西浦漁場二相限り申し候。茲に因って香西鯛網ハ、当国ハ勿論、近国二於ケル網ノ元祖ニテ、是ヨリ追々諸網開キ候モノ也。鯛網ノ元祖讃留霊王御寿百廿五歳、仲哀天皇八年亮ゼラル。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓二讃王神号ヲ奉ルト言フ」
意訳変換しておくと
鯛網の起源は、十二代景行天皇24年、当漁場の大槌島・小槌島の南の海上に通航する船を飲み込む悪魚が棲み着いたことに始まる。25年に天王は皇子日本武尊の御子讃留霊王(神櫛王)に、悪魚退治を命じた。そこで王子は3月から準備を進め、臣下を呼び寄せて評議した結果、網で捕まえる案が出され、悪魚は引揚げられた。
讃留霊王は、この成果に感心し褒美として網を漁民に与えた。当漁港の漁場権については、瀬居島周辺が与えられ、王子から下賜された網で鯛網を行ったのは、香西浦が初めてである。また瀬居島周辺でも操業を行ってきたので、古くから瀬居島は香西浦の漁場とされてきた。よってここに香西鯛網はもちろん、近国における網の元祖であり、その他の網は、それから追々に開始された。鯛網の元祖である讃留霊王は寿125歳、仲哀天皇八年に亡くなった。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓に讃王神号を奉るという
ここでは、香西漁師が讃留霊王が悪魚退治の際に、網を初めて使用して大活躍し、その結果讃留霊王から漁場をもらったことになっています。
「自分たちが讃留霊王に従って悪魚退治を行った末裔である」だから、「瀬戸内海での特別な漁業圏を与えられた漁民」
という「選民意識」的な歴史意識を主張するようになっていることがうかがえます。
 「香西浦ノ漁夫御用子ア罷り出」というところは、江戸時代の御用水主そのままです。江戸時代は御用水主というだけで漁業権は保護されていましたから、讃留霊王の権威などは借りる必要はありませんでした。実際、近世の文書には漁民が讃留霊王のことに触れたものは見当たりません。
せい島の鯛網
瀬居島の鯛網漁(明治後期)

明治になり、香西浦はそれまでの水主浦としての特権を失います。
従来の漁業権が無効になり、漁場争いが激化していく中で、香西の漁民達は自分たちが「讃留霊王から保護を受けた特別な漁民集団」であることを主張し、いままでの権益を守っていく道を選んだのかもしれません。そのためにも遠く離れた讃岐富士の麓に鎮座する讃留霊王神社奉納品を贈ります。それが

「信徒は香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上」

と讃留霊王神社の碑文に記されることになったのでしょう。 香西漁民を習うかのように直島の漁民達もこの神社に多くの寄付をするようになります。いわば意識の伝播が見られるのです。民衆はその時代が必要とする歴史意識を生みだし、広げていくのです。

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