
綾氏系図 冒頭が神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治伝説


①香西氏は「綾氏系図」(『続群書類従』第七輯上・武家部)には、鳥羽院政期に讃岐国に知行国主であった中納言藤原家成の子章隆に始まる讃岐藤原氏の子孫と記されます。その氏祖は承久の乱頃の鎌倉御家人香西資村と記します。香西の地名は、平安時代後期の郡郷改編で香川郡が東西に分割されて成立した香西郡のことです。『兵庫北関入船納帳』の文安2年(1445)5月15日条に「香西」と見えるのが初見のようです。同文書の同年9月13日条には「幸西」との表記もあるので、「こ-ざい」と古くから呼ばれていたことが分かります。また、香西の名字は、『実隆公記』紙背文書(続群書類従完成会)の明応6年(1497)10月5日の女房奉書に「かうさいのまた六」(香西又六元長)と見え、地名の香西に因んでいたことが分かります。 香西氏は資村のあと中世を通じて勢力を伸ばし、南北朝期には足利尊氏方に付き、その後讃岐守護となった細川氏との結び付きを強めていきます。
香西氏に関する史料を年代順に並べて見ておきます。
建武2年(1335)11月 細川定禅(顕氏弟)に率いられて、香西郡坂田郷鷺田庄で挙兵 (『太平記』の諸国ノ朝敵蜂起ノ事)
建武4年(1337)足利尊氏方の讃岐守護細川顕氏に従った(西野嘉右衛門氏所蔵文書)室町期の香西氏は、管領細川京兆家の内衆として在京し、その分国丹波国の守護代や摂津国住吉郡守護代を務めています。(『康冨記』応永19(1412)年6月8日条)。また、讃岐では細川氏所領香西郡坂田郷代官や守護料所三野郡仁尾浦代官、醍醐寺領綾南条郡陶保代官を務めた。
『南海治乱記』『南海通記』等には、香西氏の系譜について次のように記します。

南海通記の香西氏家譜

南海通記の香西氏家譜
A 細川勝元より「元」字を与えられた①香西元資は、香川元明・安富盛長・奈良元安とともに「細川ノ四天王」と呼ばれて細川家内で重きをなした。B ①元資の後、②長子元直とその子元継は丹波篠山城にいて上香西と呼ばれ、C ③次子元網(元顕)は、讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれた。D ④香西氏は、在京と在国の一族分業体制を採っていた
しかし、これらの内容は残された史料とはかみ合わないことは以前にお話ししました。南海通記の記述は長老からの聞き書きに頼っているようですが、その時点で香西氏の家譜については、記憶が失われていたようです。ただ室町~戦国時代の香西氏には、次の2系統があったことは史料からもうかがえます。
A 豊前守・豊前入道を名乗る豊前守系統とB 五郎左(右)衛門尉を名乗る五郎左(右)衛門尉系統
Aは嘉吉年間、讃岐国仁尾浦代官職・春日社領越前国坪江郷政所職を務めた豊前(豊前入道)と、醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保代官職を務めた美濃守とに分かれたようです。応永21年(1414)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に、香西豊前入道常健は、のち丹波国守護代となる香西豊前守元資とともに列席しています。「松山百首和歌」にそれぞれ2首、1首が載せられていることから裏付けられます。香西氏が京兆家細川家の内衆として現れるのは、満元時代の常健が初見となります。
Bの香西氏について年表化しておきます
①嘉吉元年(1441) 仁尾浦神人等言上状に香西豊前とともに香西五郎左(右)衛門が見えるのが初見
②万嘉吉3年6月1日条 里小路時房の『建内記』に、香西五郎右衛門尉之長が京兆家分国摂津国住吉郡守護代であったこと
③文明18年(1486)『蔭凉軒日録』11月27日条 香西五郎左衛門が初めて登場し、細川政元の使者をしばしば務めていること
④長享元年(1487)12月 将軍足利義尚の近江六角氏追討に際して政元の伴衆に加わる政元の内衆の1人として登場
⑤長享3年(1489)8月13日の政元主催の犬追物に香西又六元長とともに射手を務める
⑥文明17年(1485)から永正4年(1507)の間、香西彦二郎長祐が、細川政元邸で開催される2月25日の「細川千句」の執筆役を務めていること。
勝賀城と佐料城
讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでこの城を拠点とします。

佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。
香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでこの城を拠点とします。
佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。
香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
暦応5年(1342)に夢想礎石が阿波国丈六寺釈迦像開眼の導師のために阿波に渡ってきます。入仏の式を終えた後、礎石は讃州七観音霊地の巡礼を望みます。讃州七観音霊地とは「国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺」で、この観音霊場巡りの「中辺路」が、後の「四国遍路」につながると研究者は考えています。
『香西雑記』には、この時のことを次のように記します。
「平賀近山来由景象記」には「常世山其名殊に霊也。・・・往昔神仙の地也と謂いて、其名有といへり。・・・昔麓に常世山宗玄寺と云禅林有て、有時夢想国師の止宿を香西氏奔走せられし旧跡也。・又曰、往昔細川頼之阿国勝浦邑に梵宇を建、丈六の釈尊の像を刻彫し、夢想国師を請して開眼の導師とせられ、当地に 来られ常世山宗玄寺に止宿の時、城主香西氏奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲て喫茶を促。国師此名水を賞して、則泉房記を書れり、香西氏得之て大に悦寵賞せられしとなり」
意訳変換しておくと
「平賀近山来由景象記」には次のように記す。「常世山は、まさに霊山である。・・・往昔は神仙の地とされ、この名がつけたらたと云う。昔はその麓に常世山宗玄寺と禅寺があって、夢想国師が来訪したときに香西氏が宿として提供した旧跡である。また次のようにも記す。その昔、川頼之が阿波の勝浦邑に梵宇を建立し丈六の釈尊像を刻彫し、夢想国師に開眼の導師を依頼した。その際にこの地にやってきて常世山宗玄寺に止宿した。城主香西氏は奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲んで喫茶で接待した。国師はこの名水を賞して、泉房記を香西氏に与えた。香西氏はこれを手にして大に悦んだという」
ここからは香西氏の居城である佐料城近くに常世山があり、そこに宗玄寺という香西氏と関係の深い禅宗寺院があったことが分かります。
礎石はその禅寺に止宿したとあるので、宗玄寺にも旦過寮または仮宿院・接待庵にあたる宿泊施設があったことがうかがえます。中世後期には、国人領主の城館の周辺には重臣の館や迎賓館的禅宗寺院が姿を見せるようになります。そして日常的な居所は山城に移転し、麓の居館 (公務の場)と城下に2分されるようになります。宗玄寺も香西氏の迎賓館的性格を持った禅宗寺院ではなかったかと研究者は推測します。ここからは香西氏が禅宗の学僧との接触を通じて、詩賦の教養を高めたていたことがうかがえます。
室町時代の讃岐では、守護細川氏の保護もあって、臨済宗、特に五山派の受容が広がっていました。
例えば、細川顕氏は父頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺を建立して無德至孝を招いています。細川頼之は夢窓疎石や絶海中津を讃岐に招いています。五山派が守護の保護を受けたのに対して、林下は守護代や国人クラスの地方武士に積極的に取り入り、仁尾に常徳寺を開くなど教線の拡大を図ります。一方、曹洞宗も寛正年中(1460~1466)に細川勝元によって大内郡東山の宝光寺が再興され、讃岐禅門洞家の最初の道場としたといわれています。禅宗の地方展開は、このような地方有力武士と名の知れた禅僧との特別な関係だけではないようです。法系図に名前が残されていない「参学ノ小師」とされる無名の禅僧と、それを庇護した中小の在地武士や土豪層に支えられていた面も大きかったと研究者は指摘します。
室町~戦国時代の武士にとって戦いの中で生み出された怨霊を鎮魂し、安穏をはかることは欠かせない行為でした。『足利季世記』には、次のように記されています。
「かの法師を陣僧に作り、廻状を書て彼の陣に送りける」
ここからは、陣僧と呼ばれる従軍僧が軍団の中に多数いことが分かります。陣僧とは右筆的性格や使僧的性格だけではないようです。大橋俊雄氏は次のように指摘します。
「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にもあたった『従軍僧』というのが実際の姿に近かったのではないか」
ここからは陣僧には、従軍医的側面もあったことがうかがえます。そのため易学・兵学中心の講義が行われた足利学校の卒業生(軍配者)たちは、軍師として各地の大名に招かれることが多くなり、そのブレーンとなケースも出てきます。

禅僧は、戦闘はしなくても合戦の行程を管理して「頸注文」のような報告書の作成にも関与していました。
南北朝時代から軍忠状には、寺院は祈祷と具体的な合戦における死者手負が列挙されるようになります。室町時代の『蔭凉軒日録』には「分捕頸注文」と呼ばれる戦果報告書群が数多く記載されています。これは合戦の大将に提出する軍忠状の一種で、大将や軍奉行の承認を受けて、後日、恩賞の給付や安堵を受ける際の証拠資料となるものです。
延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。
延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。
「頸五十余、名が判明するもの 十二名、 未詳のもの 四十余り、 死者 三百余人、 安富筑後守元家方の負傷者 安富修理亮・三上与三郎 討死」
同年4月4日付の「頸注文」には、3月29 日巳~午の刻合戦分として「安冨筑後守元家 手勢が討ち取った頸六十七」と記されています。
一方で、血まみれになり修羅と化した武士達に、心の平安をもたらしたのが従軍を厭わない禅僧たちであったのです。こうして陣僧達は武士の心を摑みます。武士が禅僧を保護するようになるのには、こんな背景があるようです。そういう流れの中で、香西氏も氏寺として禅寺を建立し、迎賓館として整備し、そこに賓客として夢想礎石を迎えたという話になります。
香西氏の和歌や連歌などの文化活動を年表化してみます。
・応永21年(1414)12月8日 讃岐守護細川満元が、法楽和歌会を催して詠んだ百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺(白峰寺)へ奉納。この中に香西常建と香西元資が詠んだ歌が載せられている。
文明17年(1485)2月25日、香西彦二郎長祐は細川政元の「北野社法楽一日千句連歌」に参加、以後永正4年(1507)2月25日まで政元の命により御発句御脇付第三の執筆担当
長享3年(1489)7月3日 細川政国主催の禅昌院詩歌会に飛鳥井雅親・細川政元・五山僧侶らとともに香西又六・牟禮次郎が列座
延徳3年(1491)3月3日 細川政元は馬の買い付けのために香西又六元長や冷泉爲広らを同行して奥州へ出発。その途中の3月11日に、加賀国白江荘で細川政元が道端の桜を見て歌を詠み、それに続いて冷泉爲広・香西元長・鴨井元朝も続けて歌を詠んでいます。ここから細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことがうかがえます。
明応元年(1495)8月11日 香西藤五郎元綱が歌会主催。この歌会には『松下集』の作者である僧の正広も参加。
明応5年(1496)2月22日、香西元資が勧進して東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って連歌会を主催。「神谷神社法楽連歌」1巻を神谷神社に奉納。端書並びに端作には「明應五年二月廿二日」「神谷社法楽」「賦三字中畧連歌」とあり、神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。
香西元資は、細川勝元の家臣で、連衆は、安富元家・同元治など29名です。神谷神社所蔵の鎌倉期古写の『大般若経』600巻のうち、巻591は享徳4年(1455)に宗安、巻593は同じ年に宗林、巻451 は文明13年(1481)に祐慶法師が補写されています。ここからは、宗堅・宗高・宗勝など「宗」の字を持つ人物や、「祐」の字を持つ祐宗らのうち何人かは神谷神社の神官や僧侶ではないかと研究者は推測します。
また、年代不明ながら身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書に、香西又六元長の連歌会での百韻連歌懐紙の名残りの折に、句上げを掲げて次のように記されています。
「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(7人略)長祐十二、業祐一」
ここからは、香西又六元長を筆頭とし彦六、元秋、孫六元能(孫六元秋、彦六元能か)、4人おいて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、長祐は香西彦二郎長祐の順で座っていたことがうかがえます。
犬追物
管領細川政元と香西孫五郎との親密な関係がうかがえるのが犬追物の頻繁な開催です。犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです
それが細川政元の時代になると、次のように頻繁に行われるようになります。
1484年3月9日 細川政元邸の犬追物で香西孫五郎・香西又五郎・安富與三左衛門尉らが射手を務める(『萩藩旧記雑録』前編)。
1488年正月20日 細川政元が犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎が参加(『後鑑』)
1489年正月20日 香西又六元長が細川政元の犬追物で射手を務める(小野均氏所蔵文書)。
1489年8月12日 細川政元邸の犬追物に備えて京に香西党300人程が集まり注目を集める。牟禮・鴨井・行吉等は香西一族(『蔭凉軒日録』)
1490年8月13日 細川政元、犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎・安富又三郎・安富與三左衛門尉・安富新兵衛尉・香西五郎左衛門尉・奈良備前守が参加(『犬追物日記』)。
1493年7月7日 細川政元亭の犬馬場で犬追物があり、「天下壮観也。・・・香西又六、牟禮次郎十二騎」と記される(『蔭凉軒日録』)
1493年8月23日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎らが参加し「天下壮観也」 (『蔭凉軒日録』)。
1493年11月16日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎が参加(『犬追物日記』)
1491年に実施されていないのは、先ほど見たように細川政元が香西又六元長や冷泉爲広馬とともに奥州へ馬の買付に出向いていたからと思われます。1492年は吉備での戦争従軍のためのようです。それを除くと、年に1回だったのが2回へと増え、1493年には3回になっています。
『蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には次のように記します。
「塗師花田源左衛門尉来る。雑話剋を移す。勧むるに斎をもってす。話、京兆(政元)の件同に及ぶ。来る十三日三手の犬大義なり。二百匹過ぎ一献あり。一献おわりてまた百匹。三十六騎これあり。(中略)また香西党はなはだ多衆なり。相伝えて云く。藤家七千人。自余諸侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
塗師の花田源左衛門尉が依頼品を収めに来て、いつものように讃岐の情勢を話して帰る。話は京兆家の細川政元のことに及んだ。13日の犬追物では、3回に分かれて行われた。1回目が二百匹あまり、2回目が百匹。これを36騎で追った。(中略)
中でも香西衆は数が多い。伝え聞くところによると、讃岐藤家は七千人という。他の侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
ここからは、細川政元邸の犬追物に備えて讃岐から京に香西党300人程が集まって犬追物がおこなわれたことが分かります。300騎というのは軍事集団で、ある種の示威行動でもあり、人々から注目されています。讃岐では香西氏が属する讃岐藤原氏は7、000人もいて他の侍はこれに及ばず、香西氏は集団からなる党的武士団であるとされています。京都の人々から「天下壮観也」と表されています。香西氏一門の名を誇示する場となっていたがうかがえます。こうして香西又六元長は、政元の寵愛をうけることで、京都の警察力を握り権力中枢に最接近していきます。そして、己の力を過信して永世の錯乱を招くことになると私は考えています。
以上をまとめておくと
①香西氏は細川氏の内衆として、丹波など畿内で守護代をつとめるなどいくもの傍流が存在した。
②その中で、讃岐に拠点を置いた香西氏は勝賀城と佐料城を拠点に、阿野北平野方面まで勢力を伸ばしていた。
③香西氏が建立した宗玄寺は迎賓館的性格を持った禅宗寺院で、禅宗の学僧との接触を通じて、教養を高めようとしていた。
⑤香西孫五郎は、細川政元の寵愛を受けて一族で犬追物に参加し、最有力の内衆となり、京都の警察権を握った。
⑥それが細川政元の後継者問題への介入につながり、永世の錯乱へ続き墓穴を掘ることになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
関連記事