瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 冒頭が神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治伝説
綾氏系図

①香西氏は「綾氏系図」(『続群書類従』第七輯上・武家部)には、鳥羽院政期に讃岐国に知行国主であった中納言藤原家成の子章隆に始まる讃岐藤原氏の子孫と記されます。その氏祖は承久の乱頃の鎌倉御家人香西資村と記します。香西の地名は、平安時代後期の郡郷改編で香川郡が東西に分割されて成立した香西郡のことです。『兵庫北関入船納帳』の文安2年(1445)5月15日条に「香西」と見えるのが初見のようです。同文書の同年9月13日条には「幸西」との表記もあるので、「こ-ざい」と古くから呼ばれていたことが分かります。また、香西の名字は、『実隆公記』紙背文書(続群書類従完成会)の明応6年(1497)10月5日の女房奉書に「かうさいのまた六」(香西又六元長)と見え、地名の香西に因んでいたことが分かります。 香西氏は資村のあと中世を通じて勢力を伸ばし、南北朝期には足利尊氏方に付き、その後讃岐守護となった細川氏との結び付きを強めていきます。
香西氏に関する史料を年代順に並べて見ておきます。
建武2年(1335)11月 細川定禅(顕氏弟)に率いられて、香西郡坂田郷鷺田庄で挙兵 (『太平記』の諸国ノ朝敵蜂起ノ事)
建武4年(1337)足利尊氏方の讃岐守護細川顕氏に従った(西野嘉右衛門氏所蔵文書)

香西氏の成長2


室町期の香西氏は、管領細川京兆家の内衆として在京し、その分国丹波国の守護代や摂津国住吉郡守護代を務めています。(『康冨記』応永19(1412)年6月8日条)。また、讃岐では細川氏所領香西郡坂田郷代官や守護料所三野郡仁尾浦代官、醍醐寺領綾南条郡陶保代官を務めた。
『南海治乱記』『南海通記』等には、香西氏の系譜について次のように記します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏家譜
A 細川勝元より「元」字を与えられた①香西元資は、香川元明・安富盛長・奈良元安とともに「細川ノ四天王」と呼ばれて細川家内で重きをなした。
B ①元資の後、②長子元直とその子元継は丹波篠山城にいて上香西と呼ばれ、
C ③次子元網(元顕)は、讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれた。
D ④香西氏は、在京と在国の一族分業体制を採っていた
しかし、これらの内容は残された史料とはかみ合わないことは以前にお話ししました。南海通記の記述は長老からの聞き書きに頼っているようですが、その時点で香西氏の家譜については、記憶が失われていたようです。ただ室町~戦国時代の香西氏には、次の2系統があったことは史料からもうかがえます。
A 豊前守・豊前入道を名乗る豊前守系統と
B 五郎左(右)衛門尉を名乗る五郎左(右)衛門尉系統
Aは嘉吉年間、讃岐国仁尾浦代官職・春日社領越前国坪江郷政所職を務めた豊前(豊前入道)と、醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保代官職を務めた美濃守とに分かれたようです。応永21年(1414)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に、香西豊前入道常健は、のち丹波国守護代となる香西豊前守元資とともに列席しています。「松山百首和歌」にそれぞれ2首、1首が載せられていることから裏付けられます。香西氏が京兆家細川家の内衆として現れるのは、満元時代の常健が初見となります。
Bの香西氏について年表化しておきます
①嘉吉元年(1441) 仁尾浦神人等言上状に香西豊前とともに香西五郎左(右)衛門が見えるのが初見
②万嘉吉3年6月1日条 里小路時房の『建内記』に、香西五郎右衛門尉之長が京兆家分国摂津国住吉郡守護代であったこと
③文明18年(1486)『蔭凉軒日録』11月27日条 香西五郎左衛門が初めて登場し、細川政元の使者をしばしば務めていること
④長享元年(1487)12月 将軍足利義尚の近江六角氏追討に際して政元の伴衆に加わる政元の内衆の1人として登場
⑤長享3年(1489)8月13日の政元主催の犬追物に香西又六元長とともに射手を務める
⑥文明17年(1485)から永正4年(1507)の間、香西彦二郎長祐が、細川政元邸で開催される2月25日の「細川千句」の執筆役を務めていること。
こうしてみると香西氏は細川京兆家に仕えて、和歌・連歌・犬追物活動に従っていたことが分かります。 

香西氏と
                  勝賀城と佐料城

讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでこの城を拠点とします。

佐料城 高松市 城

佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。 
 香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
夢窓疎石(むそうそせき)という鎌倉時代から室町時代に活躍した枯山水の庭師・作庭家 - 枯山水めぐり

暦応5年(1342)に夢想礎石が阿波国丈六寺釈迦像開眼の導師のために阿波に渡ってきます。入仏の式を終えた後、礎石は讃州七観音霊地の巡礼を望みます。讃州七観音霊地とは「国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺」で、この観音霊場巡りの「中辺路」が、後の「四国遍路」につながると研究者は考えています。
『香西雑記』には、この時のことを次のように記します。

「平賀近山来由景象記」には「常世山其名殊に霊也。・・・往昔神仙の地也と謂いて、其名有といへり。・・・昔麓に常世山宗玄寺と云禅林有て、有時夢想国師の止宿を香西氏奔走せられし旧跡也。・又曰、往昔細川頼之阿国勝浦邑に梵宇を建、丈六の釈尊の像を刻彫し、夢想国師を請して開眼の導師とせられ、当地に 来られ常世山宗玄寺に止宿の時、城主香西氏奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲て喫茶を促。国師此名水を賞して、則泉房記を書れり、香西氏得之て大に悦寵賞せられしとなり」

意訳変換しておくと
「平賀近山来由景象記」には次のように記す。「常世山は、まさに霊山である。・・・往昔は神仙の地とされ、この名がつけたらたと云う。昔はその麓に常世山宗玄寺と禅寺があって、夢想国師が来訪したときに香西氏が宿として提供した旧跡である。また次のようにも記す。その昔、川頼之が阿波の勝浦邑に梵宇を建立し丈六の釈尊像を刻彫し、夢想国師に開眼の導師を依頼した。その際にこの地にやってきて常世山宗玄寺に止宿した。城主香西氏は奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲んで喫茶で接待した。国師はこの名水を賞して、泉房記を香西氏に与えた。香西氏はこれを手にして大に悦んだという」

ここからは香西氏の居城である佐料城近くに常世山があり、そこに宗玄寺という香西氏と関係の深い禅宗寺院があったことが分かります。
礎石はその禅寺に止宿したとあるので、宗玄寺にも旦過寮または仮宿院・接待庵にあたる宿泊施設があったことがうかがえます。中世後期には、国人領主の城館の周辺には重臣の館や迎賓館的禅宗寺院が姿を見せるようになります。そして日常的な居所は山城に移転し、麓の居館 (公務の場)と城下に2分されるようになります。宗玄寺も香西氏の迎賓館的性格を持った禅宗寺院ではなかったかと研究者は推測します。ここからは香西氏が禅宗の学僧との接触を通じて、詩賦の教養を高めたていたことがうかがえます。
室町時代の讃岐では、守護細川氏の保護もあって、臨済宗、特に五山派の受容が広がっていました。
例えば、細川顕氏は父頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺を建立して無德至孝を招いています。細川頼之は夢窓疎石や絶海中津を讃岐に招いています。五山派が守護の保護を受けたのに対して、林下は守護代や国人クラスの地方武士に積極的に取り入り、仁尾に常徳寺を開くなど教線の拡大を図ります。一方、曹洞宗も寛正年中(1460~1466)に細川勝元によって大内郡東山の宝光寺が再興され、讃岐禅門洞家の最初の道場としたといわれています。禅宗の地方展開は、このような地方有力武士と名の知れた禅僧との特別な関係だけではないようです。法系図に名前が残されていない「参学ノ小師」とされる無名の禅僧と、それを庇護した中小の在地武士や土豪層に支えられていた面も大きかったと研究者は指摘します。 
室町~戦国時代の武士にとって戦いの中で生み出された怨霊を鎮魂し、安穏をはかることは欠かせない行為でした。『足利季世記』には、次のように記されています。

「かの法師を陣僧に作り、廻状を書て彼の陣に送りける」

ここからは、陣僧と呼ばれる従軍僧が軍団の中に多数いことが分かります。陣僧とは右筆的性格や使僧的性格だけではないようです。大橋俊雄氏は次のように指摘します。

「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にもあたった『従軍僧』というのが実際の姿に近かったのではないか」

ここからは陣僧には、従軍医的側面もあったことがうかがえます。そのため易学・兵学中心の講義が行われた足利学校の卒業生(軍配者)たちは、軍師として各地の大名に招かれることが多くなり、そのブレーンとなケースも出てきます。
 
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 禅僧は、戦闘はしなくても合戦の行程を管理して「頸注文」のような報告書の作成にも関与していました。
南北朝時代から軍忠状には、寺院は祈祷と具体的な合戦における死者手負が列挙されるようになります。室町時代の『蔭凉軒日録』には「分捕頸注文」と呼ばれる戦果報告書群が数多く記載されています。これは合戦の大将に提出する軍忠状の一種で、大将や軍奉行の承認を受けて、後日、恩賞の給付や安堵を受ける際の証拠資料となるものです。
 延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。

「頸五十余、名が判明するもの  十二名、 未詳のもの  四十余り、 死者 三百余人、 安富筑後守元家方の負傷者   安富修理亮・三上与三郎 討死」

同年4月4日付の「頸注文」には、3月29 日巳~午の刻合戦分として「安冨筑後守元家  手勢が討ち取った頸六十七」と記されています。
これらの首見分や死体処理に携わったのも従軍僧侶(陣僧)です。彼らは、戦争のときには、まず先に調伏祈祷行為を行い、南北朝時代には和議の斡旋にも関わり、和議が破れた際には両者の間に立って調整に務めます。戦国時代になると、自ら軍師となったり、陣僧と称して軍陣において敵味方の間を往復周旋して和平交渉を務める者も出てきます。
 一方で、血まみれになり修羅と化した武士達に、心の平安をもたらしたのが従軍を厭わない禅僧たちであったのです。こうして陣僧達は武士の心を摑みます。武士が禅僧を保護するようになるのには、こんな背景があるようです。そういう流れの中で、香西氏も氏寺として禅寺を建立し、迎賓館として整備し、そこに賓客として夢想礎石を迎えたという話になります。

香西氏の和歌や連歌などの文化活動を年表化してみます。
・応永21年(1414)12月8日 讃岐守護細川満元が、法楽和歌会を催して詠んだ百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺(白峰寺)へ奉納。この中に香西常建と香西元資が詠んだ歌が載せられている。
文明17年(1485)2月25日、香西彦二郎長祐は細川政元の「北野社法楽一日千句連歌」に参加、以後永正4年(1507)2月25日まで政元の命により御発句御脇付第三の執筆担当
長享3年(1489)7月3日   細川政国主催の禅昌院詩歌会に飛鳥井雅親・細川政元・五山僧侶らとともに香西又六・牟禮次郎が列座
延徳3年(1491)3月3日    細川政元は馬の買い付けのために香西又六元長や冷泉爲広らを同行して奥州へ出発。その途中の3月11日に、加賀国白江荘で細川政元が道端の桜を見て歌を詠み、それに続いて冷泉爲広・香西元長・鴨井元朝も続けて歌を詠んでいます。ここから細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことがうかがえます。
明応元年(1495)8月11日 香西藤五郎元綱が歌会主催。この歌会には『松下集』の作者である僧の正広も参加。
明応5年(1496)2月22日、香西元資が勧進して東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って連歌会を主催。「神谷神社法楽連歌」1巻を神谷神社に奉納。端書並びに端作には「明應五年二月廿二日」「神谷社法楽」「賦三字中畧連歌」とあり、神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。
香西元資は、細川勝元の家臣で、連衆は、安富元家・同元治など29名です。神谷神社所蔵の鎌倉期古写の『大般若経』600巻のうち、巻591は享徳4年(1455)に宗安、巻593は同じ年に宗林、巻451 は文明13年(1481)に祐慶法師が補写されています。ここからは、宗堅・宗高・宗勝など「宗」の字を持つ人物や、「祐」の字を持つ祐宗らのうち何人かは神谷神社の神官や僧侶ではないかと研究者は推測します。
 また、年代不明ながら身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書に、香西又六元長の連歌会での百韻連歌懐紙の名残りの折に、句上げを掲げて次のように記されています。

「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(7人略)長祐十二、業祐一」

ここからは、香西又六元長を筆頭とし彦六、元秋、孫六元能(孫六元秋、彦六元能か)、4人おいて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、長祐は香西彦二郎長祐の順で座っていたことがうかがえます。

犬追物

犬追物
 管領細川政元と香西孫五郎との親密な関係がうかがえるのが犬追物の頻繁な開催です。
犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです
それが細川政元の時代になると、次のように頻繁に行われるようになります。
1484年3月9日   細川政元邸の犬追物で香西孫五郎・香西又五郎・安富與三左衛門尉らが射手を務める(『萩藩旧記雑録』前編)。
1488年正月20日  細川政元が犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎が参加(『後鑑』)
1489年正月20日  香西又六元長が細川政元の犬追物で射手を務める(小野均氏所蔵文書)。
1489年8月12日  細川政元邸の犬追物に備えて京に香西党300人程が集まり注目を集める。牟禮・鴨井・行吉等は香西一族(『蔭凉軒日録』)
1490年8月13日 細川政元、犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎・安富又三郎・安富與三左衛門尉・安富新兵衛尉・香西五郎左衛門尉・奈良備前守が参加(『犬追物日記』)。
1493年7月7日 細川政元亭の犬馬場で犬追物があり、「天下壮観也。・・・香西又六、牟禮次郎十二騎」と記される(『蔭凉軒日録』)
1493年8月23日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎らが参加し「天下壮観也」 (『蔭凉軒日録』)。
1493年11月16日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎が参加(『犬追物日記』)

1491年に実施されていないのは、先ほど見たように細川政元が香西又六元長や冷泉爲広馬とともに奥州へ馬の買付に出向いていたからと思われます。1492年は吉備での戦争従軍のためのようです。それを除くと、年に1回だったのが2回へと増え、1493年には3回になっています。
蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には次のように記します。

「塗師花田源左衛門尉来る。雑話剋を移す。勧むるに斎をもってす。話、京兆(政元)の件同に及ぶ。来る十三日三手の犬大義なり。二百匹過ぎ一献あり。一献おわりてまた百匹。三十六騎これあり。(中略)また香西党はなはだ多衆なり。相伝えて云く。藤家七千人。自余諸侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

塗師の花田源左衛門尉が依頼品を収めに来て、いつものように讃岐の情勢を話して帰る。話は京兆家の細川政元のことに及んだ。13日の犬追物では、3回に分かれて行われた。1回目が二百匹あまり、2回目が百匹。これを36騎で追った。(中略)
中でも香西衆は数が多い。伝え聞くところによると、讃岐藤家は七千人という。他の侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」


ここからは、細川政元邸の犬追物に備えて讃岐から京に香西党300人程が集まって犬追物がおこなわれたことが分かります。300騎というのは軍事集団で、ある種の示威行動でもあり、人々から注目されています。讃岐では香西氏が属する讃岐藤原氏は7、000人もいて他の侍はこれに及ばず、香西氏は集団からなる党的武士団であるとされています。京都の人々から「天下壮観也」と表されています。香西氏一門の名を誇示する場となっていたがうかがえます。こうして香西又六元長は、政元の寵愛をうけることで、京都の警察力を握り権力中枢に最接近していきます。そして、己の力を過信して永世の錯乱を招くことになると私は考えています。
以上をまとめておくと
①香西氏は細川氏の内衆として、丹波など畿内で守護代をつとめるなどいくもの傍流が存在した。
②その中で、讃岐に拠点を置いた香西氏は勝賀城と佐料城を拠点に、阿野北平野方面まで勢力を伸ばしていた。
③香西氏が建立した宗玄寺は迎賓館的性格を持った禅宗寺院で、禅宗の学僧との接触を通じて、教養を高めようとしていた。
④香西元資は、東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って神谷神社で法楽連歌会を開催し、一族や幕下との連帯強化を図っている。
⑤香西孫五郎は、細川政元の寵愛を受けて一族で犬追物に参加し、最有力の内衆となり、京都の警察権を握った。
⑥それが細川政元の後継者問題への介入につながり、永世の錯乱へ続き墓穴を掘ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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  香西氏については、戦国末期に惣領家が没落したために確かな系譜が分からなくなっています。
百年以上後に、一族の顕彰のために編纂されたのが『南海通記』です。
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南海通記
そこには香西氏は応仁の乱後には、在京した上香西と在国した下香西とに分かれたと記します。ところが、南海通記に出てくる香西氏歴代の名は、確かな古文書・古記録出てくる名前と、ほとんど一致しません。それは残された系図も同じです。
香西氏系図
香西氏系図(玉藻集1677年)

「南海通記」は百年後に書かれた軍記もので、根本史料とはできないものです。しかし、頼るべき史料がないので近代になって書かれた讃岐郷土史や、戦後の市町村史は「南海通記」を史料批判することなく、そのまま引用して「物語郷土史」としているものが多いようです。そのため南海通記の編纂意図の一つである「香西氏顕彰」が全面に押し出されます。その結果、戦国史では長宗我部侵攻に対する「讃岐国衆の郷土防衛戦」的な様相を呈してきます。そこでは侵攻者の長宗我部元親は、悪役として描かれることになります。

 そのような中で、高瀬町史などで秋山文書や毛利文書など根本史料との摺り合わせが進むと、『南海通記』の不正確さが明らかになってきました。阿波勢の天霧城攻撃や元吉城攻防戦も、「南海通記」の記述は誤りでありとされ、新たな視点から語られるようになってきました。そのような中で求められているのが、一次資料に基づく精密な香西氏の年譜です。そんな中で南海通記に依らない香西氏の年譜作成を行った論文に出会いましたので紹介しておきます。
 テキストは、「香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年」です。これは、1987年度に香川大学へ提出したある生徒の卒業論文「室町・戦国初期における讃岐国人香西氏について」の作成のために収集・整理した史料カードをもとに、指導教官であった田中健二がまとめたものです。この作業の中では、『南海通記』や「綾氏系図」等の後世の編纂物の記事は、排除されています。どんな作業が行われ、どんな結果になったのでしょうか。見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
古代綾氏の流れを汲むとされる讃岐藤原氏系図   

古代豪族の綾氏が武士団化して、讃岐藤原氏に「変身」します。
これについては以前にお話ししましたので省略します。讃岐藤原氏は総領家の羽床氏の下に、大野氏・新居氏・綾部氏が別れ、その後に香西氏が登場すると南海通記は記します。それを系図化したものが上のものです。この系図と照らし合わせながら香西氏年譜の史料をみていきます。

史料で香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期に活動する香西彦三郎です。
1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。
讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg
綾氏系図 史料に出てくる人名と合わない

例えばウキには南海通記を下敷きにして、香西氏のことが次のように記されています。

① 平安時代末期、讃岐藤原氏二代目・藤原資高が地名をとって羽床氏を称し、三男・重高が羽床氏を継いだ。次男・有高は大野氏、四男・資光は新居氏を称した。資高の子の中でも資光は、 治承7年(1183年)の備中国水島の戦いで活躍し、寿永4年(1185年)の屋島の戦いでは、源義経の陣に加わって戦功を挙げ、源頼朝から感状を受けて阿野郡(綾郡)を安堵された。

鎌倉時代の承久3年(1221年)の承久の乱においては、幕府方に与した新居資村が、その功によって香川郡12郷・阿野郡4郷を支配することとなり、勝賀山東山麓に佐料館、その山上に詰めの城・勝賀城を築いた。そして姓を「香西氏」に改めて左近将監に補任された。一方、後鳥羽上皇方についた羽床氏・柞田氏らは、それぞれの所領を没収され、以後羽床氏は香西氏の傘下に入った。

しかし、南北朝以前の史料の中には「香西」という武士団は出てこないことを押さえておきます。また承久の乱で活躍した新居資村が香西氏に改名したことも史料からは裏付けることはできません。

香西氏系図3
           讃州藤家香西氏略系譜
次に史料的に登場するのは、丹波の守護代として活動する香西入道(常建)です。彼の史料は以下の通りです。

4 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

5 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。
 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
6 同年12月8日
 管領細川満元、法楽和歌会を催し、百首及び三十首和歌を讃岐国頓澄寺(白峰寺)へ納める。百首和歌中に香西常建・同元資の詠歌あり。(「白峯寺文書」『大日本史料』第七編之二十、434P)

7 応永23年(1416)8月23日
  丹波守護代香西入道常建、同国大山荘領家方の後小松上皇御所造営段銭を免除し、催促を止めることを三上三郎左衛門尉に命ずる。 (「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之二十五、30P)
8 応永27年(1420)4月19日
丹波守護細川満元、同国六人部・弓削・豊富・瓦屋南北各荘の守護役免除を守護代香西豊前入道常建に命ずる。(「天竜寺重書目録」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

9 応永29年(1422)6月8日
 細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」  (「康富記」『増補史料大成』本、1巻176P)
意訳変換しておくと
 聞き及ぶ。細河右京大夫内者 香西今日死去すと云々。丹波国守護代なり。六十一と云々。

以上が香西常建の史料です。
資料9で死去した香西氏とは資料7から香西入道と呼ばれていた常建であったことが分かります。資料5で即位段銭の催促停止するよう命じられている香西豊前入道も常建のようです。常建は、資料6では、細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に列席し、白峯寺所蔵の松山百首和歌に二首が載せられています。このとき、常建とともに一首を詠んでいる元資が、のちに丹波守護代として名の見える香西豊前守元資になるようです。両者は、親子が兄弟など近親者であったと研究者は考えています。
 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。しかし、その中には香西氏はいません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、どうして畿内で活動するようになったのでしょうか。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
そのきっかけとなったのが、香西常建が細川頼之に仕えるようになったからのようです。細川頼之は、観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しました。その際に京都の政争で失脚して南朝方に降り、阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐します。この結果、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。そして細川家は頼之の後は、本宗家と阿波守護家に分かれます。
家系図で解説!細川晴元は細川藤孝や三好長慶とどんな関係? - 日本の白歴史

①本宗家 
頼元が継いだ本宗家は「右京大夫」を継承して「京兆家」  京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承

②庶流家 
詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」は和泉、淡路、阿波、備中の各国を継承

阿波守護家が「讃州家」とよばれるのがややこしいところです。

細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之です。
香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕えます。細川氏が1392(明徳3)年に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国だった丹波の守護職を獲得すると、1414(応永21)年には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。
香西氏 丹波守護代
丹後の守護と守護代一覧表(1414年に香西常建が見える)
1422年6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたのです。
 ここで注意しておきたいのは、細川氏は管領職のために在京しています。そのため細川家の各国の守護代達も、同じように在京し、周辺に集住していたということです。香西氏が実際に丹後に屋形を構えて、一族が出向いていたのではないようです。
次に登場してくるのが常建の近親者と考えられる香西豊前守元資です。
10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 
以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、守護代の役目を果たしている常建の姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、守護代であったことが確認できます。
そして資料14の丹波守罷免記事です。
細川満元のあと丹波守護となっていた子の持之は、醍醐寺三宝院の満済を介して、将軍足利義教に丹波守護代交代の件を願い出ています。『満済准后日記』当日条を見ておきましょう。

右京大夫(持之)来臨す。丹波守護代、内藤備前人道たるべきか。時宜に任すべき由申し入るなり。(中略)右京大夫申す、丹波守護代事申し入るる処、この守護代香西政道以っての外正体なき間、切諫すべき由仰せられおわんぬ。かくのごとき厳密沙汰もっとも御本意と云々。しかりといえども内藤治定篇いまだ仰せ出だされざるなり。

意訳変換しておくと
右京大夫(細川持之)が将軍義教を訪ねてやってきた。その協議内容は丹波守護代を、香西氏から内藤備前人道に交代させるとのことだった。(中略)それに対して将軍義教は香西氏は「もってのほかの人物で、失政を責め、処罰するよう命ずるべきとの考えを伝えた。このため守護代の交代については承認しなかった。
しかし、翌年5月には、香西政道に代わって内藤備前入道が丹波国雀部庄と桑田神戸田について遵行状を出しています。ここからは、守護代が香西氏から内藤氏への交代したことが分かります。香西氏罷免の原因は、永享元年の丹波国一揆を招いた原因が元資にあったと責任を取らされたと研究者は考えています。ここでは、香西元資は失政のために丹波守護代を罷免されたことを押さえておきます。

南海通記は「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介します。
しかし、その父の常建については何も触れません。元資が丹波守護代であったことも記されていません。その理由について、「常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないか」とする説もあります。
 南海通記に、最初に出てくるのは香西氏は香西元資からです。そして丹波守護代であった彼を、「備後守」と誤記します。ここからも南海通記は基本的情報が不正確なことが多いようです。通記の著者には、香西元資以前のことを知る資料は、手元にはなかったことがうかがえます。
この時期には、讃岐でも別の香西氏が活動していたことが次のような資料からうかがえます。
15 1431年9月6日
香西豊前入道常慶、清水坂神護寺より寺領讃岐国坂田郷の年貢未進を訴えられる。この日、幕府は神護寺の主張を認め、「其の上、彼の常慶においては御折檻の間、旁以て御沙汰の限りにあらず」として、常慶の代官職を罷免し寺家の直務とする判決を下す。 
16 嘉吉元年(1441)10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父死去する。(「仁尾賀茂神社文書」県史116P

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門所見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)


資料16からは「香西豊前の父」が死去したことが分かります。この人物が資料15に登場する常慶だと研究者は判断します。香西氏のうち、讃岐系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。この系統の香西氏は、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。時期からみてこの香西豊前入道は、仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
 また資料16からは、当時の仁尾浦代官は香西豊前常慶であったこと、そして父も浦代官として、仁尾の支配を任されていたことが分かります。以前にお話ししたように、細川氏の備讃瀬戸制海権確保のために、塩飽と仁尾の水軍や廻船の指揮権を香西氏が握っていたことが裏付けられます。17は、それに対して仁尾浦の神人達の自立の動きであり、その背後には西讃守護代の香川氏が介入がうかがえます。
   以上からは、15世紀に香西氏には次の二つの流れがあったことを押さえておきます。
①丹波守護代として活動していた豊前守(元資)
②讃岐在住で、仁尾の浦代官など細川氏の瀬戸内海戦略を支える香西氏
以上をまとめておくと
①香西氏が史料に登場するのは南北朝時代に入ってからで、守護細川顕氏に従った香西彦三郎が、建武4 年(1337)に財田凶徒の蜂起鎮圧を命じられているのが初見であること
②観応の擾乱期には、四国での忠節を足利義詮から賞されていること
③その後、香川郡坂田郷の代官を務め、阿野郡陶保・南条山西分の代官職を請け負っていること。
④さらに香西浦を管理するとともに、細川氏の御料所仁尾浦の代官を務めるなど、細川氏の瀬戸内海航路の制海権支配の一翼を担っていたこ
⑤15世紀前半には、細川京兆家分国の1つである丹波国の守護代を務めていたこと
しかし、南海通記には香西氏の祖先が登場するのは、⑤以後で、それ以前のことについては江戸時代には分からなくなっていたことがうかがえます。

今回はここまでにします。以下は次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香西氏の年譜 香西氏の山城守護代就任まで  香川史学1988年
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悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 (系図前に載せられているのが神櫛王の悪魚退治)

古代の綾氏の系譜をひくとされる讃岐藤原氏は讃岐の武士の中で最大の勢力を持っていたとされます。それは讃岐藤原氏が、いち早く源頼朝の御家人となったことに要因があることを前回は見てきました。今回は、源氏の御家人となった人々のリストを「綾氏系図」を見比べながら、見ていきたいと思います。

源平の戦いが始まる前の讃岐の情勢を見ておきましょう。
讃岐国司一覧表12世紀
院政期の讃岐国守一覧(坂出市史)
上の表で確認したいことは、次の点です

讃岐藤原氏の蜂起

①保延四(1138)年頃、藤原家成が讃岐国を知行した後は、清盛がクーデターを起こす1179年まで30年近くにわたって、家成とその一族が讃岐国の国務を執っていたこと
②「国主 藤原家成一族 → 目代 橘公盛・公清父子 →  在庁官人 綾氏一族」という支配体制が、この30年間に形成されたこと。
③清盛は政権を握ると、讃岐守に平氏一門の維時を任命し、院分国讃岐国は没収された。
④平氏の支配下に置かれた知行国では、在庁官人や有力な武士が家人に組織され、国衙の機能を通じて国内の武士たちを支配下においた。
⑤それは藤原氏の国守時代とは違い「平家にあらずんば、人に非ず」を体験する場となった。『平家物語』には、平氏から離反した讃岐武士について「昨日今日まで我らが馬の草切ったる奴原」と見下されていたことがうかがえる。
⑥特に、平氏が屋島に本拠を構えたのちは、讃岐の武士たちは平氏の直接支配下に置かれ、不満と反発を募らせた。
⑦このような中で、かつての讃岐目代の橘氏が源頼朝を頼って、東国に下った。これを聞いて、かつての上司である橘氏と行動を共にしようとする在庁官人が現れる。それが綾氏一族を中心とする讃岐武士達である。

橘公業が名簿にリストアップして、頼朝に送った武士名簿を見てみましょう。まず「藤」の姓を持つA~Fの6人を見ていきます。「藤」とは「藤原氏」のことで、古代綾氏が武士化して以後に使うようになる名勝です。また、かれらの多くが名乗りに用いている大夫とは、五位の官人の呼称です。
A  藤大夫    資光   (新居)
 B 同子息新大夫 資重   
 C 同子息新大夫 能資
D 藤次郎大夫   重次(重資) 
 E 同舎弟六郎  長資
F 藤新大夫    光高   

なぜ綾氏は、藤原氏と名乗るようになったのでしょうか?
「藤=藤原」氏で、古代の綾氏の系譜を引くとされます。讃岐綾氏は、平安時代の文書に「惣大国造綾」と見え、国造の系譜を引く在庁官人として、勢力をのばしてきたことは以前にお話ししました。彼らが中世に武士化していきます。
「綾氏系図」は、この綾氏の女性と、先ほど見た讃岐国司・藤原家成との間に生まれた章隆(藤太夫)を初代とする讃岐在住の藤原氏の系譜を記します。

羽床氏系図

讃岐藤原氏の初代となる章隆が、国司の家成と綾氏の女性との間に生まれた子だとします。
これは「貴種」との落とし胤を祖先とするよくある話です。当時の国司は遙任で、実際には赴任しません。藤原家成が讃岐にやって来た記録も残っていません。研究者達が無視する「作り話」です。
 しかし、先ほども述べたように、在庁官人として仕える綾氏と、家成・俊盛二代の知行国主の間には、30年間に培われた主従関係があったことは事実です。「綾氏系図」に登場する章隆は、古代綾氏が、中世の讃岐藤原氏に生まれ変わるターニングポイントなのです。そして彼は国司藤原家成の「落とし胤」とされます。しかし、章隆の実在性は史料からは確認されないことは押さえておきます。

讃岐藤原氏系図1

讃岐藤原氏の始祖は藤原章隆で、その子資高が2代目とされます。
DSC05414羽床城
羽床城縄張り図
資高は名乗りが「羽床庄司」とあるので羽床を拠点にしていたようです。
羽床城の主の祖先になるのでしょう。そして、系図が正しいとすれば、つぎのようなことがうかがえます。
①羽床が当時の藤原氏の本拠地であったこと
②実質的な讃岐藤原氏の祖先は、資高であったこと

資高には5人の子が記されます。その4番目が「新居藤太夫資光」です。この系図からは、高の子たちの代に「大野・新居・香西」などの分家が行われたことになります。 
頼朝に送られた名簿リストの筆頭にあるのは資高の子「A藤大夫資光」です。名乗りからみて綾南条郡新居郷を本拠としていた人物でしょう。彼が、この讃岐グループのリーダーであったようです。
名簿リストにはA藤大夫資光の息子として「B同子息新大夫①資重」「C同子息新大夫 能資」と記されます。しかし「綾氏系図」を見ると、資光の子は資幸だけです。
 資光の子孫としては康元元年(1256)の讃岐国杵田荘四至膀示(ぼうじ)注文に見える讃岐国の使を勤めている「散位藤原朝臣資員」がいます。この人物が「綾氏系図」に資光の孫として掲げられている資員と研究者は考えているようです。新居の資光の子孫は在庁官人として、国府で活躍していることが分かります。
 名簿リストにでは資光の子として載せられている、B資重・C能資は、どこへいったのでしょうか? 分からないまま次に進みます。名簿リストの4人目から見ていきます。
D藤次郎大夫  重次(重資) 
  E同舎弟六郎  長資
F藤新大夫     光高   
 「綾氏系図」には、D重次の名はありません。
その弟とされる「E長資」については、光高の父方の従兄弟に羽床六郎と称した長資がいて名前が一致します。その兄重資の名乗りは「藤次郎大夫」で、先の重次と名乗りが同じです。讃岐藤原氏の通字は「資」ですから、名簿リストの「重次」の「次」は「資」の誤りで「重資」と研究者は考えているようです。そうするとA資光から見ると兄重高の息子「重資」で、甥にあたります。
 藤氏の最後に記された「F藤新大夫光高」は、系譜にも記されていて、父の名乗りは「大野新太夫」とあります。

讃岐藤原氏系図3羽床氏jpg

杵田荘四至膀示注文には、資員とともに国使を勤めた者に「散位藤原朝臣長知」がいます。
これが「綾氏系図」に「羽床六郎 長資」の子として出てくる長知のことでしょう。この家は綾南条郡の羽床郷を苗字の地としています。のち、建治二(1276)年10月19日の讃岐国宣に出てくる「羽床郷司」が、この一族にあたるようです。
最後の「F藤新大夫光高」は? 
「綾氏系図」に資光の兄で大野新大夫と称した有高の子に「新大夫光高」がいます。この人物だろうと坂出市史は考えています。大野郷は香東郡と三野郡にありますが、讃岐藤原(綾)氏の勢力範囲からすると、香東郡の大野郷が苗字の地なのでしょう。

大野郷
香東郡大野郷
源平合戦の時の綾氏の行動が「綾氏系譜」には、どのように反映されているのかを見ておきましょう。
「綾氏系譜」は、讃岐藤原氏の初代章隆は、母が綾貞宣の女子で、父が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子なので藤原姓を継いだと記します。実在が確かめられるのは、章隆の孫やひ孫の世代で、彼らは源氏方にいち早く馳せ参じることで、御家人の立場を得ることになります。これは、綾氏にとって非常に有利に働くことになります。それを体感した後世の子孫達は、源氏側についた祖先への感謝と、自分たちの功績を誇る意味でも、先祖を英雄化する系譜を作りだしたことが考えられます。その際に、結びつけられたのがかつての国守である藤原家成ということになります。

 綾姓から藤原姓への転換の背景をまとめておくと
①反平氏の立場にあった藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった
②古代の在庁官人から中世の武士団への脱皮
③讃岐武士団の中で源平合戦で、いち早く源氏方につき御家人となった祖先の顕彰と一族統合シンボル化
この系譜に綾氏の氏寺とされる法勲寺(飯山町)の流れをひく島田寺の僧侶達によってもうひとつの物語が付け加えられていきます。それが神櫛王の悪魚伝説です。古代綾氏は、讃岐国造となった神櫛王の子孫であり、源平合戦ではいち早く源頼朝の陣に馳せ参じた武士達という話がプラスされていきます。讃岐藤原氏の伝説がこうして一人歩きしていきます。
野三郎大夫高包の名乗りに見える「野」とは、小野・三野など「野」の字が付く姓の略称のようです。
『源平盛衰記』巻人の讃岐院事には、讃岐国へ配流された崇徳上皇は、まず「在庁一の庁官野大夫高遠」の堂へ入ったと記します。『保元物語』では、この堂を「二の在庁散位高遠」の松山の御堂とします。両者は同じもので、在庁官人の高遠の持仏堂のようです。なお、一とか、二の数字は、経験年数による順位を示すもので、在庁間の序列のようです。
在庁の「野大夫高遠」については、『古今讃岐名勝図絵』(国立国会図書館)の「蒲生君平来る」の項に掲げる寛政十二(1800)年、白峯寺に詣でた蒲生君平の「白峯縁起跛」に次のようにあります。
白峯寺に宿す、その住僧明公と一夜談話す、いささか憂いを写すなり、公実言として曰く、崇徳の南狩なり、伝うるに松山、野大夫高遠の所に三年を遂げおわす、高遠の世、すなわち林田氏なり、その家今に至り絶えず、事なお口碑を存ず、
意訳変換しておくと
白峯寺に宿泊し、住僧の明公と一夜話した。その時に住僧の話したことを書き留めておくと、崇徳上皇は松山の野大夫高遠の所で三年ほど生活した。高遠の家は林田氏で、その家は今も存続していて、そのことが伝えられている

ここでは、白峯寺の僧は野大夫高遠の子孫は林田氏であって今も続いていると君平に伝えています。
高遠については、「玉藻集」(『香川叢書』第二)にも次のように記されています。
「阿野の矢大夫高任 阿野郡林田の田令と云う。後白河院御宇と云々」

「讃岐国名勝図会』(国立公文書館DA)の鳴村正蓮寺の項には
「当寺は永正年中、沙門常清草創なり、常清は林田村在庁野大夫高遠が末葉なりという」

とあり、正蓮寺を創建した常清が高遠の子孫で、本領が林田村にあったことが記されます。
雲井御所
雲井御所の石碑と林田家
近世の林田氏については『古今讃岐名勝図絵』の雲井御所とその碑、林田の綾家の項にも見え、本姓は綾氏で、高遠の子孫とされています。生駒時代は林田村の小地頭で、松平頼重の人国の時には、林田太郎右衛門綾高豊が同村の大政所になったと伝えられます。
これらの伝承から、高遠の本姓は阿野(綾)氏のようです。名簿リストの「野二郎大夫高包」は、右の「野大夫高遠」と名乗りの一部と通字が共通しているから高速の一族、阿野(綾)氏の一人で林田郷を本拠としていた在庁官人と坂出市史は考えているようです。

橘大夫盛資 について
応徳元(1084)年12月5日の讃岐国留守所下文(東寺百合文書)などに讃岐在庁の橘氏の名があります。寛元元(1243)年2月、高野山の道範が讃岐国に流された際、守護代長尾氏から、一旦「鵜足津の橘藤衛門高能」という御家人のもとに預けられています(『南海流浪記』)。ここからは守護所が置かれていた宇多津周辺に橘氏がいたこと、高能が在庁官人系の御家人であったことがうかがえます。ここでも、京都に上ったグループの子孫は、御家人として守護所などの管理運営に携わり、地方支配機構を支える立場になっていたことが分かります。
三野首領盛資・三野九郎有忠・ 三野首領太郎・三野次郎一族と藤原純友の乱
「三野首領」とあるので、三野郡の郡司(大領)の流れをもつ者のようです。『南海通記』は、「信州綾姓記」の中で「讃州嶋田寺過去帳」を引用して、純友の乱と三野氏との関わりについて次のように記します。
純友の乱の際、伊予国諸郡の郡司とともに三野郡大領である綾高隼が純友軍に加わった。後に反逆の罪を糾正させられた際に罪を陳謝したため、死刑を許され信濃国小県に流された。
 さらに「通考」には、流された高隼の後には、当国の大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領となり、三野氏の祖となった。

  ここには純友の乱に参加した三野郡大領の綾高隼が更迭され、大庁官(在庁官人?)の綾大夫高親が三野郡大領(郡司)に就任したと記されます。そうだとすれば、三野氏も綾氏の一族だということになります。『南海通記』は後世の編纂書であり、戦記物でもあり誤りが多いことが指摘されています。そのままは信じられませんが、三野郡司になったのが綾大夫高親の末裔であったとすると、本家の綾氏と共に行動を共にして京都に上るのは納得がいく話です。三野氏も武装した在庁官人や郡司から成長した武士団であったようです。

仲(那珂)行事貞房について                
永久四(1116)年に讃岐国で、国衛が興福寺の仕丁(雑役夫)に乱暴を加えるという事件が起こります。興福寺の訴えで、国司・藤原顕能は停任され、目代以下国衛の官人など五人が禁獄されます。この官人の中に「検非違所散位貞頼・行事貞久」の名があります。
 この検非違所は国街の事務を分掌する「所」の1つで警察に当たるもので、行事は職務の担当者のことです。「仲行事貞房」の名乗りに見える「行事」は検非違所の行事のことで、かつ「貞」字を実名に用いていることから、貞房は、貞頼・貞久と同族と考えられます。
讃岐国で「貞」を通字とする一族は、多度郡の郡司綾氏です。
たとえば、久安元(1145)年12月日の善通・曼茶羅寺領注進状案には郡司として綾貞方の名があります。この文書の寺領は多度郡にあるので、貞方は多度郡の郡司になります。名簿リストの貞房については「仲行事」と称しているので、那珂(仲)郡の綾氏と考えられます。
 時代は下って、応永十二(1405)年10月29日の室町将軍家御判御教書写に細川頼之知行の欠所(没収地)のひとつに「讃岐国小松庄・同金武名」とあり「中(那珂)首領跡」と注記されています。ここが現在のどこに当たるのかは分かりませんが、小松の荘は現在の琴平一帯で、那珂郡に属します。「中(那珂)首領跡」とは武士化した那珂郡の首領郡司の館跡のことのようです。那珂郡でも多度郡と同じように、綾氏が首領郡司の地位に有り。国衙では検非違所を務めていたと坂出市史は記します。
大麻藤太家人  大麻藤太という武士の家人(家臣)です。
淡路福良の戦いでは、讃岐蜂起軍の130人が討ち死にしています。主人が討死した後も、行動を共にした家人でしょうか。大麻山の麓に式内社の大麻神社(善通寺市大麻町)があり、古代は忌部氏の拠点とされる所です。中世に、この周辺を本拠とする武士がいたようです。
以上、元暦元(1184)年に、讃岐から上京して源氏方に参加し、御家人と認められた武士たちを見てきました。名簿にリストアップされた讃岐武士達は、記録には残りませんが源範頼の軍に加わり、西海道の戦線に赴いたようです。源氏方に味方する讃岐の武士たちは、その後も増え、屋島合戦で源氏方戦ったようです。
讃岐国でも武士団が組織され、武家の棟梁のもと、より大きな武士団に組織されていくようになります。
その典型が綾氏を祖とするという讃岐藤原氏です。
讃岐の在庁官人については平安時代までは
讃岐国造の子孫と称する東讃の凡氏
空海を輩出した多度郡の豪族佐伯氏
など古代豪族の系譜を引くものが多いようです。阿野郡を本拠とする綾氏もその中のひとつでした。しかし、鎌倉以後は在庁官人としての綾氏の存在は突出した存在になっていきます。源平合戦まえの1056年に綾氏は、勘済使に任じられています。この職は、田地の調査あるいは官物の収納に関わる職です。「綾氏系図」(『続群書類従』)には、綾氏の先祖は押領使であったと記します。これは国内の兵を動員して凶徒を鎮圧する職で軍事警察機構の長です。綾氏が押領使となったのは、10世紀前半の藤原純友の乱の時と研究者は考えているようです。
春日神社神主の日記『春日神社祐賢記』永久四(1116)年五月十二日の記事には、讃岐国検非違使所の役人貞頼・貞久があります。彼らは綾氏の一族とみなされています。このように綾氏は、軍事・警察を担当する押領使・検非違使の地位を世襲的に継承していたようです。これは重要な意味を持ちます。武装蜂起を鎮圧する戦士としての地位をもとにして、綾氏は讃岐第一の武士団に発展していったことが考えられます。

先ほど見てきたように「綾氏系図」には、阿野郡の大領綾貞宣は、鳥羽法皇の近臣藤原家成が讃岐守となった時に、これに娘を入れ、生まれた子章隆は藤原氏を名乗って讃岐藤原氏の祖になったと記します。章隆の子資高は羽床郷を本拠として羽床氏を称し、さらにその子息たちは、
①香川郡大野郷を本拠とする大野氏
②阿野郡新居郷の新居氏
③香西郡の香西氏
などの諸家に分かれていきます。こうして讃岐藤原氏は、鎌倉時代以後は中・西讃に勢力を振るう武士団に成長していきます。
彼らは一族の結束を保つために、同族意識を高める祭礼などを行うようになります。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治
その一環として、後世に綾氏系譜が作られ、その巻頭を飾るのが島田寺の僧侶達が創作した神櫛王の悪魚退治伝説です。これらは、各氏寺や氏神の祭礼で社僧達が語り伝え、民衆にも広がっていきます。
 自らが神櫛王の子孫で、源平合戦の折には京都にいち早く源氏の御家人となったことは、武士の誉れでもあったでしょう。「寄らば大樹の陰」で、周辺の中小武士もこの伝説を受入て、讃岐藤原氏の一族であると称するものが出てきます。これは讃岐藤原氏の勢力の拡大にもなりますので、この動きを容認します。こうして「藤」を名乗る武士があそこ、ここに増えて系図に加えられていきます。
 ちなみに先ほど紹介した南海通記が綾氏の一族と紹介していた三野氏には、神櫛王伝説は伝わっていないようです。讃岐藤原氏の流れを引く一族は、「あすこも、ここも讃岐藤氏」とする傾向があるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編 2020年
 

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

 

 一ノ谷の戦い - Wikipedia
暦元(1184)年二月、源頼朝の弟範頼・義経らが一の谷で平氏を破ると、これを見て、讃岐国の武士たちの中には、いち早く京都に上って源氏の陣に馳せ参じた者達が出てきます。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、次のように記されています。

  元暦元年(1184)九月小十九日乙巳。平氏一族。去二月被破攝津國一谷要害之後。至于西海。掠虜彼國々。而爲被攻襲之。被發遣軍兵訖。以橘次公業。爲一方先陣之間。着讃岐國。誘住人等。欲相具。各令歸伏搆運志於源家之輩。注出交名。公業依執進之。有其沙汰。於今者。彼國住人可隨公業下知之由。今日所被仰下也。
 在御判
 下 讃岐國御家人等
  可早隨橘公業下知。向西海道合戰事
 右國中輩。平家押領之時。無左右御方參交名折紙。令經御覽畢。尤奉公也。早隨彼公業下知。可令致勳功忠之状如件。
    元暦元年九月十九日
意訳変換しておくと
平氏一族は、二月に摂津国一谷の砦で敗北し、九州方面に撤退し、西国諸国を略奪・占領しました。逃亡した平氏を討つために、橘次公業を一方の先陣として軍隊を組織し出発させました。その際に橘次公業の祖先は、讃岐の国司名代だったので、その縁で讃岐国へ行き、平家討伐軍の組織化を行いました。源氏の御家人になっていない讃岐の武士達を勧誘し、討伐軍に参加させようと考えたのです。源氏に対して忠誠を誓い、共に戦おうとするものは、名簿を提出するように。橘次公成が呼びかけました。

この報告に対して、次のような頼朝様の命令と花押があります。
 命令する 讃岐国の御家人等へ
 早々に橘公業の命令に従って、山陽・九州の西海道の合戦に出かけること 右の讃岐の武士達、平家に占領されていながら、源氏に味方するとの名簿を見て、頼朝様は、殊勝である。早々に橘次公成の指揮に従って、手柄を立てるようにとおっしゃった。これが証拠書である。
    元暦元年九月十九日
讃岐国の武士たちに対し、公業の命令に従つて九州へ向かい合戦に参加することを命じています。本文中に見える「交名折紙」に当たるのが、続けて掲げられている讃岐国御家人交名(名簿リスト)です。
  讃岐國御家人
注進 平家當國屋嶋落付御坐捨參源氏御方奉參京都候御家人交名事
 ①藤大夫資光
  同子息新大夫資重
  同子息新大夫能資  
  藤次郎大夫重次
  同舎弟六郎長資   
 ②藤新大夫光高
 ③野三郎大夫高包
 ④橘大夫盛資
 ⑤三野首領盛資
 ⑥仲行事貞房
 ⑦三野九郎有忠
  三野首領太郎
  同次郎
 ⑧大麻藤太家人
右度々合戰。源氏御方參。京都候之由。爲入鎌倉殿御見參。注進如件。
     元暦元年五月日

藤は藤原氏の略です。讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。
①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。
③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
④橘大夫盛資は、鵜足郷(現宇多津町)
⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町。行事は郡衙の役人。
⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子。
⑧大麻藤太家人は、香川県善通寺市大麻神社で金毘羅山の隣。

ここには14名の讃岐武士の名前が挙げられています。讃岐武士団の中で、最も早い源氏の御家人となった人たちになります。今回は彼らの動きと、源氏方についた背景を追ってみたいと思います。
テキストは「坂出市史通史上 中世編2020年」です。

一ノ谷の戦い』 | The One and Only …

一の谷合戦での敗北後、平氏は讃岐の屋島を本拠として瀬戸内海を中心とする西国支配を行おうとします。これに対して頼朝は、まず北九州を攻撃させるために、範頼を平氏追討の指揮官として派遣します。範頼が京都から出発したのは9月1日のことです。これに先んじて、先陣として橘公業は讃岐国に赴いて味方になる武士を募ろうと動いています。実は、この橘公業の存在が大きいようです。

橘公業(きみなり)とは、どんな人物なのでしょうか?  
橘 公業は、橘公長の次男として誕生します。吾妻鏡治承(1180)年12月19日条には、この日に、右馬弁橘公長が子息の橘公忠・橘公成(業)を伴い鎌倉にやって来たと記します。父公長は、もともと平知盛の家人で、弓馬の道の達者で、戦場に望んでの智謀は人に勝っていたと記されています。しかし、平氏の運が傾き、故源為義への恩儀もあつて源氏に付くことにしたとされます。彼らは頼朝に認められて源氏の御家人となります。息子の公業は弓術に優れており、鎌倉将軍家の正月に行われる御的始や代替わりの御弓始などでしばしば射手を勤めていたようです。中世の武士のたしなみは、近世のように刀ではなく、乗馬と弓でした。壇ノ浦の那須与一に代表されるように、弓道にすぐれた武人がヒーローだったのです。弓道にすぐれた公業は、武士としての名声も、すでに得ていたようです。
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公業の経歴で注目されるのは、『吾妻鏡』の建久六(1195)年2月4日条の次のような記述です。
 東大寺再建の落慶供養のため上洛していた頼朝が、勢多橋を渡る際、比叡山の衆徒たちが集まつている中を通るとき下馬の礼を取る必要があるか心配します。頼朝は公業を召し、衆徒たちのもとヘ遣わして、事情を説明させます。
 公業は、衆徒の前に脆いて、次のとおり伝えます。鎌倉将軍家が東大寺供養に結縁するため上洛したところ、この群衆は何事か、神慮を恐れていらつしゃいます。ただし、武将の法にはこのような場所での下馬の礼はありません。そこで、乗馬のまま通るが、これをとがめてはなりません。
 こう言い残して、衆徒の返事を聞かずに通り過ぎ、衆徒の前で弓を取り直す姿勢を見せたら、かれらは平伏した。
 公業は武士ですが、平家出身者として小さいときから京都で暮らしていました。そのため色々な場面で、どのように対応するかのマナーを、身につけていたようです。京下りの平家出身者として、鎌倉幕府草創期の頼朝の側近で何かと重宝する人物だったようです。

 彼の祖先は衛門府や馬寮などの中央武官として活躍しています。
そればかりでなく讃岐の国司目代を務めていたことが東かがわ市大内町の水主神社所蔵の「大般若経函底書」の記事から分かります。
一 二条院御宇 国司藤原秀(季)能、兵衛佐 七条三位殿
  内蔵頭俊盛御息 応保三年正月一十四日任
  御神拝御目代橘馬大夫公盛これを勤む、
長寛元年十月二十七日 甲申
次御神拝目代右衛門府橘公清これを勤む、
公盛息男なり、仁安二年十月一一十五日 己未
ここからは次のようなことが分かります。
①二条天皇の在位中の長寛元(1163)年正月24日に藤原季能が讃岐守に任じられたこと
②1163年10月27日に国司藤原季能の初任神拝を、讃岐国目代橘馬大夫公盛が勤めたこと
③仁安二(1167)年正月20日に藤原季能の父俊盛が讃岐国を知行したこと
④同年の10月25日に公盛の息子公清が初任神拝を勤めていること。国司は季能のままです。
 藤原俊盛は、保元二(1157)年から永暦元(1160)年の間、讃岐守を勤めています。その後は息子の季能が国司を務めたことになります。讃岐国は、保元二年以降、長期にわたって俊盛が国司や知行国主を務めていたようです。国司と同じように、目代の地位も父子で相伝されています。ここから橘公盛・公清父子は、藤原俊盛に仕えていた家司だと研究者は考えているようです。
讃岐国司 藤原家成
院生時代の讃岐国司一覧(坂出市史) 藤原家成の一族が独占している

「国司・藤原季能 ー 目代・橘馬公盛」という体制下に置かれた讃岐武士の中には、目代の橘氏との関係を深めた者達が出てきます。
かれらの多くは、府中の国衛で一緒に仕事をしていた在庁官人や郡司の一族であり、目代橘氏の指揮に従って国務を行っていました。その子孫の橘公業が平氏を見捨てて鎌倉に下ると、橘氏との関係が深かった讃岐武士たちの中には、公業を頼って源氏方につくことを願う者達が出てきます。その時期は、京都を占領した木曽義仲と頼朝が派遣した範頼・義経の軍勢が戦っている隙に、平氏が屋島から旧都福原へ拠点を移した元暦元(1184)年1月頃のことです。
1183年頃の勢力分布図 赤が平家

ところが、源氏方は讃岐武士たちの寝返りを、すんなりとは受けいれません。
それまで平氏に仕えていた者達を、そのまま味方にはできなかったのでしょう。そこで平氏に一矢を報い、それを土産にして源氏方に受け入れてもらおうと考えます。その標的としたのが瀬戸内海の対岸・備前国下津丼にいた平氏一門の平教盛・通盛・教経父子です。これに対して、見かけだけの攻撃を仕掛けたようです。ところが、裏切りを怒った教経から徹底的な反撃・追跡を受けることになります。讃岐国の武士たちは京都へ逃げ上る途中、淡路島の南端福良にいる源為義の孫たち、掃部冠者(掃部頼仲の子)・淡路冠者(頼賢の子)を頼みにして追撃してきた通盛・教経軍を迎え討ちますが、敗れ去ります。このとき、敗れて斬られた者は130人以上の多数に及んだと『平家物語』巻第九は記します。

 京都に上つて公業の指揮下に入った讃岐国の武士たちは、在庁官人・郡司系の武士です。
彼らはかつて讃岐国庁で公業の祖父の下で、働いていた者達です。淡路島福良で平氏軍に敗れた讃岐国の武士たちが「讃岐国在庁」軍と呼ばれていることがそれを裏付けます。かれらは福良で敗れた後も、京を目指します。それは公業を頼りとしていて、公業ももとへ馳せ参じればなんとかなるという思いがあったからでしょう。
 公業が頼朝に提出した名簿について「度々合戦、源氏御方に参り、京都に候」と記しているのは、下津井と福良での平氏方との合戦を戦い、京都に上って来たことを念頭においているようです。
こうして、公業は讃岐には源氏の味方になる武士たちがいることを知り、それを組織化して平家討伐軍とするアイデアを思いついたとしておきましょう。京都にまでやってきた讃岐武士の拠点を見ておきましょう
参考①藤大夫資光は、新居氏で香川県高松市国分寺町新居
参考②藤新大夫光高は、大野郷で香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。
参考③野三郎大夫高包は、阿野郡林田郷
参考④橘大夫盛資は、鵜足郷で現在の宇多津周辺
参考⑤三野首領盛資の首領は、三野郡の郡司。
参考⑥仲行事貞房は、那珂郡で丸亀市に郡家町あり。行事は郡衙の役人。
参考⑦三野首領太郎は、郡司盛資の息子?
参考⑧大麻藤太家人は、善通寺市大麻神社周辺で金毘羅山の隣。
これらの武士たち本拠地や特徴をまとめると次のようになります。
①本拠地は、香東・綾南北両条・鵜足・那珂・多度・三野で讃岐国の西半部に限られている。
②讃岐藤原氏や綾・橘両氏の本拠は、新居・羽床・大野・林田・鵜足津と国府の府中を取り巻くように分布している。
③ほとんどが在庁官人や郡司で、国府の中核を担っていた武士団である

①については阿波国は、在庁官人粟田氏の一族である阿波民部大夫重能(成良)が平氏の有力な家人で、その勢力下にありました。それに加えて、讃岐の屋島には平氏の本拠地である屋島内裏が置かれています。そのため東讃地域に本拠を持つ武士たちは、平氏の軍事力に圧倒されていたはずです。逆に西隣の伊予国は早くから源氏方についた在庁官人河野氏の勢力下にあって、平氏とたびたび衝突していました。ここからは、中西讃地域の武士達は、東讃地域の武士たちと比べると平氏による圧力が弱かったと研究者は考えているようです。

②③については、讃岐国衛の在庁官人の中でも重要なメンバーであったことが分かります。
それが平氏に反逆したことになります。その背景を考えると「平氏あらずんば人に非ず」という平氏中心の政治運営にあったのかもしれません。平家支配下に置かれた讃岐においても、在庁・郡司系の武士たちはその抑圧に耐えかねて離反したのかもしれません。『平家物語』には、淡路島での合戦で打ち取られた讃岐国の在庁以下の武士は130余人とありますから、平氏に対しての集団的な離反が起きていたことがうかがえます。
讃岐藤原氏の蜂起

  まとめておくと
①平家は瀬戸内海の交易ルートを押さえて、西国を重視した下配体制を作り上げた。
②そのため讃岐も平氏支配下に置かれ、平氏の利益追求が露骨となり、在庁・郡司系の讃岐武士の中にも平家に対する反発が高まるようになった。
③そのような中で、中・西讃に拠点を置く古代綾氏の系譜を引く讃岐藤原氏を中心に、平家を見限り源氏に寝返ろうとする武士達が現れる。
④彼らは、平家と一戦を起こした後に、都に駆け込み源氏方の陣に加わることを計画する
⑤その頼りとなったのは、かつて平家方にいたが今は源氏方についていた橘氏であった。
⑥橘氏は、かつては讃岐目代を30年間以上も務めており、在庁官人の武士達と親密な関係にあった。橘氏の子孫公業を頼って、源頼朝へ御家人となることの斡旋を依頼した。
こうして、先駆けて頼朝の御家人となった14人の武士達は、鎌倉幕府の支配下の讃岐において、恩賞や在庁官人や守護所代理として活躍し、大きな発言権を手にするようになる。
 綾氏が武士団化した讃岐藤原氏の繁栄も、この時に平家を見捨てて京都に駆け上がり、頼朝の御家人となったことが大きな要因と考えられる。
  「綾氏系図」には、讃岐藤原氏の初代章隆は、綾貞宣の女子が「家成卿讃州国務の時、召さるるにより」生まれた子で、その関係により藤原姓を継いだとされます。この話から綾姓から藤原姓への転換が行われたのも、讃岐藤原氏が反平氏の立場にある藤原家成一族との結びつきを示すために藤原姓を称するようになった坂出市史は指摘します。


最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「坂出市史通史上 中世編 2020年」

   
5讃岐国府と国分寺と条里制
 讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。私もこれまでに何回かとりあげましたが、今回は視点を変えて地名から地理的なアプローチを行っている研究を紹介します。

  最初に『綾氏系図』をもとに悪魚退治伝説を意訳したものを紹介します。
 景行天皇23年、土佐の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。船を飲み込み、人々を食べた。また舟が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。天皇は兵士を派遣したが、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公(別名神櫛王)に命じて欲しいと言った。天皇は喜び、ただちに霊公に命じた。
 霊公はわずか10日で土佐に到着、そこにとどまった。悪魚は阿波の鳴門へと移動、24年1月に霊公も鳴門へ向かった。3月1日、讃岐の槌の門に悪魚が現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。2日後、霊公は讃岐に移動し、軍船をつくって1,000人の兵士を集めた。
 25年5月、霊公らは船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は倒れず10日経っても平然としていた。そして霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ出た。
   悪魚の死体は福江湊の浦へと流れ着いた。
そこで一人の童子が波打ち際に現れ、瓶に入った水を霊子に碑げた。霊公がこの水を飲んでみるとせ露のように美味だった。霊公が「この水はどこにあるのか」と問うと、童子は「八十場の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。霊公と童子は水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
5月5日14時、霊公は兵士を連れて上陸した、
 霊公は薬師如来の威神力で悪魚を退治することができた。霊公は病を除け九横の難を排することを誓い、浦の陸地に精舎を建てて薬師如来像を安置し、法勲寺と名付けた。以後、人々は貢物をおさめられるようになり、船舶や船員の煩いはなくなった。
 童子は日光菩薩が姿を変えた横潮明神であった。この童子の姿にちなみ浦を児ヶ浜と名付けた、水は瑠璃水、瓶は薬壷であるため、薬壷水と言った。
 霊公は鵜足郡に移住し、兵士たちから讃留霊公(讃留霊王)と呼ばれた。また、井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤の四人の将軍がいた。人々は彼らを四天王と呼んだ。
 霊公は三男一女をもうけた。現在の首領、郡司、戸主、長者たちは、すべて三男一女の子孫である霊公の胸には阿耶の黒点があったため、子孫は綾姓を名乗った。仲哀天皇8年9月15日、霊公は123歳で亡くなった。
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話を要約すると 
讃留霊王は、もともとは景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王でした。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、神櫛王がその退治に向かった
②しかし、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。そこで大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
③その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
④これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
⑤彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 子孫は綾姓を名乗った。
⑥彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①②です。しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
 悪魚退治伝説は中世末から近世にかけての讃岐のいくつかの史料に載せられるようになります。
このうち最も古いのは『綾氏系図』です。この系図は、景行天皇に連なる綾氏の系図で、その前段に綾氏の成立にかかわる悪魚退治伝説が載せられています。この成立時期は15世紀中葉から17世紀後葉で古代に遡ることはありません。神櫛王という名前は紀記にはありますが、悪魚退治伝説はありません。つまり、この伝説は中世讃岐で作られたお話なのです。
 しかし、この中には綾氏の歴史が語られている部分もあるのではのではないかと考える研究者もいます。つまり、綾川流域を地盤としていた古代の豪族・綾氏の「鵜足郡への進出」を深読みするのです。その仮説につきあってみることにします。その際にポイントになるのは地名のようです。
3坂出湾1
「綾氏系図」の悪魚退治説話は、伝承を重ねいくつもの書に書き写され姿を変えていきます。そのために記載内容が少しずつ異なるようになります。その辺りを含んだ上で登場する地名を見ていきましょう。
  悪魚の登場場所は? 槌の門
 悪魚出現地には土佐、鳴門、水崎などもありますが12の史料に共通するのが槌の門(椎門、槌途など)です。槌の門とは、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡のようです。確かに、小さな円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。瀬戸内海を行く船からすれば、異界への関門のように思えたかもしれません。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。同時に、この物語が書かれた中世においても、多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。
 退治された悪魚が流れ着く場所は9/12の史料が福江としています。
残りの4史料でも悪魚の死骸が埋められるのは福江です。つまり「悪魚の最期の地は福江」ということになります。福江については前々回に紹介しました。「古・坂出湾」の西部で、西の金山・常山、東の角山に挟まれた現在の坂出市福江町周辺で、近世の埋め立て以前には大きく湾入し、瀬戸内海に面する湊がありました。
 童子の姿をした横潮明神は11/12の史料で登場し、いずれも福江の浜に登場します。
 その童子が持ってくる蘇生の水はすべての史料で八十場(安庭、八十蘇など)の水です。
現在の坂出市西庄町にある八十場の湧水は、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年、1847)で「国中第一の清水」と評されており、近世には広く知られていたようです。
  ここまでで、多くの史料に共通するのは、槌の門、福江、八十場の地名です。
これらの地名を地図上でみると阿野郡の沿岸地域にすべてあります。ここからは、この伝説を聞いた人たちは、少なくとも槌の門、福江、八十場の地名とその位置関係
を知っていたと推測できます。そうでないと説話は時代を超えて伝わりません。

3坂出湾2
 悪魚退治伝説で、イヴェントが発生する回数が多いステージは福江です。
①悪魚の死骸がなんらかの理由で福江にあり、
②横潮明神の化身である童子が現れて倒れた兵士を蘇生させ、
③魚御堂、もしくは法勲寺が建立される、
④讃留霊王が悪魚退治後に上陸したのも、文脈からは福江のようです
ここからは福江が伝説における重要ステージと考えられます。

福江 中世
坂出市史から
 
次に福江について、考古学の発掘調査を見てみることにします。
坂出市西庄
坂出市史より

 考古学者は「福江の景観復元」を次のように述べます「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観

『玉藻集』(延宝5年、1677)には天正7年(1579)、香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあります。そこには、次のように記されています。
①「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと
②「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」であること
坂出の復元海岸線3

 浜堤Aには文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります
文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しています。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。
 両遺跡の調査結果からは、陸地側の浜堤上では7世紀前半に製塩活動が行われ、やや地点を違えて7世紀後半に飯蛸壷漁が開始、8世紀までは続きます。この間、8世紀中~後葉には、生産用具(飯蛸壷)に加えて日用雑器(須恵器など)が増えてきます。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落がここにはあったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
坂出の復元海岸線2

下川津遺跡との関係は?
   文京町のふたつの遺跡(福江湊)から約1.5km南西の大東川下流の右岸には下川津遺跡があります。復元図のように、古代以前には下川津遺跡は直近まで海岸線が湾入し、大束川の河口に近い場所だったと研究者は考えているようです。
この遺跡は坂出IC工事に伴う発掘調査の結果、大規模で異色な集落群が出てきて注目を集めました。遺構は、周りを低地帯に挟まれた四つの微高地の上に次のように展開します。
①6世紀後葉に集落が出現
②7世紀中葉には建物が急速に増加、企画性をもつ大型建物も出現
③8世紀後半から9世紀にかけて集落規模が縮小
④9世紀後葉以降には再び建物群が再出現
建物規模や配置の企画性などから、②と④の時期は官街的な性格持ち郡衙跡とも考えられているようです。また②の時期には土師器や飯蛸壷の製作、鍛冶、紡織などの諸生産活動が活発に行われていたようです。
鎌田池2
古代の旧大束川は坂出に流れ出ていた

 浜堤A(福江湊?)と下川津遺跡を合わせてみるとどんなことが分かるの?
5HPTIMAGE
下川津遺跡に集落が出現した時点、浜堤A(文京町)は製塩の場でした。下川津遺跡が官街的性格をもつ7世紀後葉~8世紀中葉には浜堤Aで飯蛸壷漁が行われると同時に港湾機能が充実し活発化したとみられます。「断絶期」を挟み、再び官管的性格が下川津遺跡に現れるのはれた9世紀後葉です。その時期も浜堤Aは継続して利用されたようです。ここからは、7世紀から中世まで両者が共に活動を続けていたことが分かります。
 ふたつの遺跡は直線距離で約1.5kmしかありません。途中に大束川(旧河道)がありますが郡衙とその外港のような関係にあったという「仮説」は考えられます。それは、国府と林田湊、善通寺と白方湊のような関係を私に思い描かせてくれます。
 この仮説を頭に入れて、再び悪漁退治伝説をみてみましょう。
悪魚退治伝説は『綾氏系図』に記され、主人公である讃留霊王もしくはヤマトタケルは綾氏の祖先とされます。このことから悪魚退治伝説は、綾氏によって生み出されたと研究者は考えているようです。綾氏は7世紀後半には有力豪族であり、8世紀にかけて阿野郡で大きな力を持っていたようです。国府が阿野郡に設置された背景には、綾氏の政治力の影響があったとも考えられます。
伝説の共通する槌の門、福江、八十場がいずれも阿野郡にあるのは、伝説と綾氏との関連性を裏付けるものです。
 一方、『綾氏系図』には法勲寺や鵜足郡の地名が出てきます。
これは綾氏の「鵜足郡への進出」が表現されていると考える研究者もいます。また
①嶋田寺本「讃留霊公胤記」にも「讃留霊王が鵜足に居住した」
②『讃岐国大日記』では「讃留霊王が鵜足津(宇多津)へ上陸」
③嶋田寺本「讃留霊公胤記」では「法勲寺か登場」
④『綾北問尋鈴』でも「悪魚の霊を鎮めるために魚御堂または法軍寺を建てた」
とあります。
法勲寺は現在の丸亀市飯山町上法軍寺・下法軍寺にあたります。この地には飛鳥時代~奈良時期の建立とされる寺院跡があり、この寺院跡が古代の法勲寺であった可能性は高いようです。『讃岐国名所図会』では、この地を法勲寺跡とし、福江にあった魚御堂を移して法勲寺としたという内容を『宇野忠春記』から引用しています。

 法勲寺が『綾氏系図』に登場することから「法勲寺は綾氏の氏寺ではないか」と考える研究者もいるようです。法勲寺跡と国府の開法寺跡からは、同文の軒瓦が出土していることも、「」法勲寺=綾氏の氏寺」説を補強します。
 福江湊の位置づけ役割については?
古代の阿野郡には、福江のほかに現在の綾川河口付近(坂出林田町)にも港湾施設があったことは前々回にお話ししました。ふたつの湊の位置を比較すると福江は阿野でも西端に位置し、国府との距離があります。しかし、福江は鵜足郡や下川津(郡衙跡?)へのアクセスが便利です。鵜足郡を流れる大束川は、古代は川船輸送にも使われていたと考えられています。そうすると大束川へ陸揚げルートとしても重要であったはずです。つまり、悪魚退治伝説で福江が重要視されているのは、福江が阿野郡と鵜足郡をつなぐ地であったからと研究者は考えているようです。綾氏が国府のある阿野郡に本拠地をもちながらも鵜足郡への影響を強めていたとするならば、伝説の中で福江が強調されていても不思議ではないというのです。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄

以上を仮説も含めてまとめると次のようになります。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。

このように考えると古墳時代の川津周辺の前方後円墳の立地などもしやすくなります。大束川の河口から流域沿いに開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。その入口が福江湊だったというストーリーが描けるようになります。
 もうひとつ曖昧なのは、宇多津の位置づけです。宇田津が港湾機能を発揮するのはいつ頃からなのでしょうか。宇多津と福江と下川津遺跡の関係はどうなのか?
 その辺りは、また別の機会に
 参考文献
乗松真也
「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



讃留霊玉の悪魚退治伝説が、どのように生まれてきたのか 

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古代寺院法勲寺跡の礎石を眺めるために讃岐富士の見える道を原付バイクを走らせていると・・
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讃留霊王(さるれお)神社が現れました。
ここに祀られている讃留霊王について、少し考えてみました。

讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 

讃留霊王とは、もともとは景行天皇の御子神櫛(かんぐし)王でした。
①彼が瀬戸内海で人々を困らせていた悪魚(海賊)を退治し、海の平和を取り戻します。
②しかし、その後も京に帰らず、宇多津に本拠を構えました。
③彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
④諱を讃留霊公というのは、京師に帰らず、讃岐に留まったからです。
⑤彼が讃岐の国造の始祖です。
さて、この話を作った人は何を一番伝えたかったのでしょうか。
それは、③と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。
讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
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この説話は、いつごろできたかのでしょうか?

話の中に瓦経という経塚の要素が見られることから平安末期と推定できます。その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
先祖を同じくする伝説のヒーローの下に、集い結束を深めるというのはいつの時代にも行われます。その頃に、この説話の骨格はできあがったのではないでしょうか。

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この説話が初めて書物となったのは、いつ頃でしょう

 天正一五年(一五八七)讃岐に入った生駒親正は、法勲寺(高田寺 現飯山町)の良純に帰依し、讃岐武士の始祖としての讃留霊王を再評価し顕彰します。そのための伝説のリメイクと書物化が行われます。それを担ったのが
法勲寺 → 嶋田寺 →  弘憲寺
の学僧ラインではないでしょうか。
法勲寺は親正の子一正の代になって飯山から高松西浜に移され、今の弘憲寺になります。その弘憲寺には、近世に描かれた立派な武士の姿をした讃留霊王の肖像画が伝えられています。讃留霊王を祀っていたことがうかがえます。
 こうして、生駒藩の新参の武土層にも悪魚退治の話と綾氏=讃留霊王の子孫という話は広がっていきます。

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江戸時代になると多少余裕が出てきますから、庶民の中にも悪魚退治の話を写して読む人が現れます。そのためかいくつかの讃留霊王説話の写本が残っています。戦前に編纂された『香川叢書』には、それらの説話集の何種類かが「讃留霊公胤記」として収められています。 現時点で成立年が判明しているものを年代順に並べてみると次のようにります。
1 承応元年 1652 年 友安盛貞 『讃岐大日記』
2 享保三年 1718 年 香西成資 『南海通記』 「讃留霊記」
3 享保二十年 1735 年 書写 嶋田寺本 「讃留霊公胤記」
4 明和五年 1768 年 菊池黄山 『三大物語』
5 文政十一年 1828 年 中山城山 『全讃史』綾君世紀 「霊王記」
6 安政五年 1858 年 丸亀藩京極家 『西讃府史』 
最も古いものでも、江戸時代を遡ることはないことがわかります。
つまり讃留霊王伝説のリメイク本は、近世以後に現れたと言うことがここからも分かります。

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讃留霊王説話に熱い思いを持ち続けた人たちが香西氏です。
香西氏は戦国の戦いの中で、生駒氏が来る前に滅びてしまっています。しかし、庶民としては生き続けていました。香西氏というのは讃岐藤原氏、すなわち綾氏の直系を自負する人たちなんです。香西氏の子孫、香西成資が享保四年(一七一九)に白峯寺に奉納した『南海通記』には「綾讃留王記」が入っています。同じ讃岐藤原氏の血を引く新居直矩が寛政四年(一七九三)に香西の藤尾八幡に奉納した『香四記』にも「讃州藤家香西氏略系譜」が入っていて、讃留霊王のことが出てきます。

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讃岐のローカルヒーローを全国的認知度に高めたのは誰?

 讃留霊王説話はあくまで讃岐独自の物語で全国的には殆ど知られていませんでした。この説話がもともとは地方武士である綾氏の先祖を飾るローカルな話であったことからして、当然なことです。
   しかし、全国的に認知される機会がやってきます
   本居宣長が「古事記伝」で、この讃岐独特の説話を次のように引用したのです。
「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と云う祠あり。そは彼の国に古き書ありて記せるは、景行天皇廿二年、南海に悪き魚の大なるが住みて往来の船をなやましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て討ち平らげ給ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に讃留霊王と申し奉る。これ綾氏・和気氏等の祖なりと云うことを記したり。或いは此を景行天皇の御子神櫛玉なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。讃岐の国主の始めは倭建命の御子武卵王の由、古記に見えたれば武卵王にてもあらむか。今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事どもを記せる物に云えり」
 
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 何を見て書いたのかはわからないのですが、本居宣長は讃岐で書かれた悪魚退治の本を入手して、これを書いたのでしょう。宣長が「古事記伝」で引用したことで、讃留霊王説話は全国の知識人に知られることになります。そして、明治にかけてその認知度をアップさせていきます。
   宣長の記述から次のような事が分かります
(1)讃岐に讃留霊王という祠があること。
(2 『讃留霊記』という古書があること。 
(3)倭建命の御子が讃岐に来て悪しき魚を退治し、讃留霊王と呼ばれたこと。
(4)讃留霊王は神櫛王・大碓命・武卵王の諸説があること。
(5 「讃留霊」は後の当て字で 「さるれい」の 意味は不明であること。
こうして戦前の皇国史観においては、讃留霊王は郷土の英雄として故郷学習などにも登場し、知らない人がいませんでした。そういう讃留霊王信仰の高まりの中で、元々は、八坂神社の中にあった祠が讃留霊王の古墳とされる上に建立されたのでしょう。

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