瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 美濃田大橋

  美濃田大橋から長い瀞場になる。同時に景色が大きく替わる。
県の名勝・天然記念物に指定されている美濃田の淵にさしかかるのだ。北岸に高速道路のサービスエリアが設けられ、付属する施設も充実し「吉野川中流域の景勝地」として知られるようになった。

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美濃田の淵
 しかし、ここはかつては「網場」であったという。最初聞いたときには、鮎を捕るための仕掛網の設置場所かと思ったが、大外れ。
 三好町誌には次のような記載がある

 網場と筏流し

 明治11年ころの美濃田の渕の見取図には千畳敷岩の上の岩に「アバカケ岩」の名が記されている。水かさが増えると、丸太を結び付けた太いワイヤーを岩間に渡し川をせく。鰹つり岩からは、黒川原谷の谷尻まで斜にワイヤーを渡し、川の北側をせいたという。
 上流からは出水を利用して木材を流出する。この流材をせき止め、筏に組んで下流へ運ぶのである。 これを筏流しといい、それを操る人を筏師といった。足代村には筏師が7、8人いたようである。一艘が約一万才(当時の木運家屋1戸分の木材)で、腕の良い筏師は一度に二艘運んだとのことである。これを一週間かけて徳島の木材市場へ運ぶのである。
 山から切り出され、荷車や馬車で川まで運ばれてきた木材や洪水にのって流れついた木材を集めて、これも筏にした。小山の西内には大量の木材が流れ着いたとのこと。流木を集める組合のようなものがあったようである。また、流木を集める世話人がいて流木を拾った人にはいくらかお金を渡して引き取っていた。
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美濃田の淵

流れのない美濃田の淵は、上流で流した木材を集積し、筏に組んで下流に運んでいく木材集積地の機能を果たしていたようだ。
もうひとつ川を下っていて気になったのがこれ。河の上に立つ橋脚跡。かつての鉄橋の跡かなと考えていた。しかし、この橋脚にも物語が隠されていた。

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「まぼろしの美濃田観光大橋」について

 終戦直後、吉野川を渡る橋が美濃田の渕に計画され、期成同盟会が結成された。
当初は延長一五〇メートル・幅員二・九メートル・工事費四五〇万円の鉄橋であった。後には観光兼人道橋に変更している。
 美濃田の渕の川中の岩に橋台を建て、現在の三加茂町加茂西町に至るつり橋にして、開通後は工事に要した経費の立替金の支払が終わるまで「賃取橋」にする計画であった。
 橋脚工事は発注され、昭和二十八年の秋に着工している。
 起工式には早期架橋を願って美濃田・小山地区の全戸が出席した。
北岸の橋台が完成し、中央の橋脚が岩の上に雄姿を現した時は、開通した橋を想像し胸をおどらせ、地域の発展を期待したものである。
 しかし、工事半ばにして資金難に陥り、加えて施工主が病に倒れ、役員はハ方手を尽くし努力したがままならず、勤労奉仕で労力を提供した小山地区の人たちの願いもむなしく、資金が全く絶えるとともに工事は中止となった。
 一六〇余万円を投じたといわれているが、残ったのは北岸と中央の橋脚と負債であった。役員は負債の返済に大変な苦労をしたとのことである。
  美濃田の奇勝をめでる観光と吉野川南北の生活道として計画された「観光大橋」があったこと。その痕跡が河に建つ橋脚であるようだ。
現在の美濃田大橋は、その数年後の1969年に完成している。

ゆるやかにゆるやかに流れはカヌーを運んでいく。

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阿波池田の親三好大橋の上流からから出港。
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三好大橋下の落ち込みをなんとか通り抜けて、鉄橋と高速の橋をくぐる。
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吉野川鉄橋を土讃線の普通列車が通過していった。

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昼間の長いザラ瀬抜けると最後に落ち込みがあり、宮下の台地にぶつかり大きく流れを変える。そして正面に見えてくるのが美濃田大橋。
この橋が1960年竣工。上流にあった三好大橋より1年若く「56歳」
ここから長い瀞場が始まる。
プールがなかった1970年頃までは、この付近は川原が広がり遠浅であったので、子供の楽しい水泳場であったようだ。夏休み中は、PTAの監視下で水泳が行われたという。

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「上陸」してみると、こんな石碑が建てられていた。
昼間と辻を結ぶ「辻の渡し」とある。
この渡場について三好町史にはこんな記述がある。
 「明治から大正・昭和の戦後まで、辻地区は面積は狭いが、井内谷・祖谷谷という後背地を有し、特に刻み煙草で繁盛しており、人家が密集し商店が軒を連ねた。特に渡し場上がりの浜地区には、大きな商店や、料理店まであり、その賑やかさは北岸の比でなかった。こうした状況から、北岸から南岸へ渡る人は増加していった。」

 明治四十四年(1912)ごろに、中屋から辻渡船場への道も道路改修が行われた。大正三年(1914)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されるにいたって、人はいうに及ばず、物資輸送もこの駅が起点となった。北岸の昼間側からの利用者は急増し、特に朝夕の通勤・通学時には非常に混雑した。
 大正十五年現在の町道・昼間中屋線(通称新道)が完成し、同時に南岸は岩場を掘り抜いた道が新設され、北岸も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができた。
 昭和三十四年、美波田大橋の架橋で廃止となった。船頭さんの逸話、施与米、賃取、昭和二十三年県営化、借耕牛、カンドリ舟、転覆の惨事など、悲喜・哀歓の長い歴史を両岸の岩場に残して、幕を下ろした。
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美濃田大橋から上流をながめた風景。
向こう側(南岸)の井内谷川の流入点とこちら側(北岸)を渡し船は結んでいたという。渡場につながると思われる道路は残っているが、ここが上陸点という地点は分からない。

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 現在では早明浦・池田ダム等による香川用水等への取り込みによるものかこの当たりの吉野川の水位はニメートル以上低くなっているという。地理や風景も大きく変わっている。
 56歳の美濃田大橋が「遠い昔のことだよ」と呟いた気がした。
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