瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:美馬市安楽寺

   前回は「金毘羅神」創作の中心となった宥雅と法勲寺や櫛梨神社とのつながりを見てきました。今回は、宥雅の一族である長尾氏について、探って見ようと思います。宥雅は、西長尾城主(まんのう町長尾)の長尾大隅守の甥とも弟とも云われています。長尾氏周辺を見ることで、金毘羅神が登場してくる当時の背景を探ろうという思惑なのですがさてどうなりますか。
 最初に、長尾氏の由来を押さえておきます
  長尾氏については、多度津の香川氏などに比べると残された史料が極端に少ないようです。また、南海治乱記などにも余り取り上げられていません。ある意味「謎の武士団」で、実態がよくわからないようです。そのため満濃町史などにも、一つのストーリーとしては書かれていません。
 県史の年表から長尾氏に関する項目を抜き出すと以下の4つが出てきました。
①応安元年(1368) 
西長尾城に移って長尾と改め、代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 
長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月 
長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物
④天文9年(1540)
7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進
荘内半島

まず①の長尾にやって来る前のことから見ていくことにします。
『西讃府志』によると、長尾氏は、もともとは庄内半島の御崎(みさき)に拠点を持つ「海の武士=海賊」で「海崎(みさき)」を名乗っていたようです。その前は「橘」姓であったといいます。讃岐の橘氏には、二つの系譜があるようです。
一つは、神櫛王の子孫として東讃に勢力を持っていた讃岐氏の一族が、橘氏を称するようになります。讃岐藤家の系譜を誇る香西氏に対して讃岐橘姓を称し、以後橘党として活躍する系譜です。しかし、これは、東讃中心の勢力です。
もう一つは、藤原純友を討ち取った伊予の警固使橘遠保の系譜です。
 この一族は、純友の残党を配下に入れて「元海賊集団を組織化」して「海の武士」として各地に土着する者がいたようです。例えば源平合戦の際に、屋島の戦いで頼朝の命を受けて源氏方の兵を集めに讃岐にやって来た橘次公業は、橘遠保の子孫といわれます。橘姓の同族が瀬戸内海沿岸で勢力を持っていたことがうかがえます。海崎氏は、こちらの系譜のように思います。

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荘内半島から望む瀬戸内海(粟島方面)
 想像を膨らませると、平安時代の末ごろから橘氏の一族が讃岐の西の端に突きだした庄内半島に土着します。あるときには海賊として、あるときには武士団として瀬戸内海を舞台に活躍していた海民集団だったのではないでしょうか。それが、源平の合戦で源氏側につき、海上輸送や操船などで活躍し、軍功として地頭職を与えられ正式な支配権を得るようになったとしておきます。

船越八幡神社 (香川県三豊市詫間町大浜 神社 / 神社・寺) - グルコミ
            船越八幡神社
この地は、陸から見れば辺境ですが、海から見れば「戦略拠点」です。なぜなら燧灘沿岸の港の船は、紫雲出山の麓にある「船越運河」を通過していたからです。興味のある方は、船越八幡神社を訪れると、ここに運河があったことが分かります。仁尾や観音寺、川之江の船は、この運河を通って備讃瀬戸へ出ていたようです。その運河の通行税を、取っていたはずです。それは「村上水軍」が通行税を、沖ゆく船から「集金」していたのと同じです。つまり、三豊南部の海上輸送ルートの、のど元を押さえていた勢力だったと私は考えています。
海崎(新田の)城 お薦め度 低 | 脱サラ放浪記(全国城郭便覧)
庄内半島の海崎(みさき)城跡
 山城の海崎(みさき)城跡は、紫雲出山に連なる稜線上にあります。ここからは360度のパノラマ展望で、かつては沖ゆく船の監視センターの役割も果たしていたのでしょう。
「海の武士」だった海崎氏が、どうして丘上がりしたのでしょうか?
  南北朝の動乱期に、細川頼之が南朝の細川清氏と戦った白峰合戦で、海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として預けられます。頼之の中国筋から宇多津進出に船団を提供し、海上からの後方支援を行ったのかもしれません。
庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。

長尾氏 居館
長尾氏居館跡の超勝寺(まんのう町長尾)

 居館があったのは城山の西側の長尾無頭(むとう)地区で、現在の超勝(ちょうしょう)寺や慈泉(じせん)寺付近とされています。この当たりには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っています。           

 どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)
西長尾城のあった城山の麓にある超勝寺

 拠点を構えた長尾を取り巻く情勢を見ておきましょう
 この居館の背後の城山に作られたのが西長尾城になります。ここに登ると360度の大パノラマで周囲が良く見渡せます。北は讃岐富士の向こうに瀬戸内海が広がり、備讃瀬戸にかかる瀬戸内海まで見えます。西は土器川を挟んで大麻山(象頭山)がゆったりと横たわります。そして、南には阿讃山脈に続く丘陵が続きます。この西長尾城から歴代の長尾氏の当主たちは領土的な野望を膨らませたことでしょう。しかし、庄内半島からやってきたばかりの14世紀の丸亀平野の情勢は、長尾氏のつけいる隙がなかったようです。

長尾城2
 西長尾城本丸跡からのぞむ丸亀平野
承久の乱から元寇にかけて西遷御家人が丸亀平野にもやってきます。例えば、西長尾城から土器川を挟んだ眼下に見える如意山(公文山)の北側の櫛梨保の地頭は、島津氏でした。薩摩国の守護である島津氏です。その公文所が置かれたので公文の地名が残っているようです。宗教的文化センターが櫛梨神社で、有力地侍として岩野氏がいたこと、その一族から「善通寺中興の祖・宥範」が出たことを前回はお話ししました。どちらにしても「天下の島津」に手出しはできません。
西長尾城概念図
西長尾城概念図 現在残された遺構は長宗我部元親時代のもの

 それでは北はどうでしょうか
西長尾城は那珂郡(現まんのう町)と綾郡(現丸亀市綾歌町)の境界線である稜線上に建っています。その北側は現在のレオマワールドから岡田台地に丘陵地帯が広がります。領地であるこのあたりがに水が引かれ水田化されるのは、近世以後の新田開発によってです。その北の大束川流域の穀倉地帯は、守護・細川家の所領(職)が多く、聖通寺山城の奈良氏がこれを管理支配していました。この方面に勢力を伸ばすことも無理です。

西長尾城縄張り図
西長尾城縄張り図 曲輪は北に向かって張り出している
それでは東はと見れば、
綾川流域の羽床・滝宮は、結束を誇る讃岐藤原氏(綾氏)一族の羽床氏が、羽床城を拠点にしっかりと押さえています。さらに羽床氏は綾川上流の西分・東方面から造田にも進出し在地の造田氏を支配下に組み入れていました。つまり、長尾氏が「進出」していけるのは「南」しかなかったようです。
 この時期の神野や炭所では、丘陵地帯の開発が有力者によってを地道に行われていたようです。中世城郭調査報告書(香川県)には、炭所を開いた大谷氏について次のように記します。
 谷地の開墾 大谷氏
 中世の開墾は、国家権力の保護や援助に依頼することができなかったので、大規模な開墾は行われなかった。平地部の条里制地域の再開墾田は年貢が高く、検田も厳重であった。そこで、開墾は小規模で隠田などが容易な、湧水に恵まれた谷地などで盛んに行れた。
 鎌倉時代になってからまんのう町域でも、平地部周辺の谷地が盛んに開墾されたものと思われる。小亀氏と共に南朝方として活躍した大谷氏(大谷川氏)は、炭所東の大谷川・種子・平山などの谷地を開墾して開発領主となり、惣領が大谷川から大井手(現在の亀越池地)にかけての本領を伝領し、庶子がそれぞれの谷地の所領を伝領して、惣領制によって所領の確保が図られた。
  このように台頭してきた開発領主と姻戚関係を幾重にも結び「疑似血縁関係」を形成し、一族意識を深めていったのでしょう。
  『全讃史』には、長尾元高は長尾を拠点に、自分の息子たちを炭所・岡田・栗熊に分家し、その娘を近隣の豪族に嫁がせて勢力を伸ばしたと記します。長尾氏は、周辺の大谷氏や小亀氏と婚姻関係を結びつつ、岡田・栗熊方面の所領(職)には、一族を配置して惣領制をとったようです。
城山 (香川県丸亀市綾歌町岡田上 ハイキング コース) - グルコミ

西長尾城の西には象頭山があり、その麓には早くから九条家の荘園である小松荘(現琴平町)がありました。しかし、15世紀になると悪党による侵入や押領が頻発化し、荘園としては姿を消していきます。その小松荘の地侍に宛てた「感状」があります。金刀比羅宮所蔵の「石井家由緒書」の「感状」には、次のように記されています。
  去廿二日同廿四日、松尾寺城に於て数度合戦に及び、父隼人佐討死候、其働比類無く候、猶以って忠節感悦に候、何様扶持を加う可く候、委細は石井七郎次良申す可く候、恐々謹言
     十月州日            久光(花押)
    石井軽法師殿
 ここには松尾寺城(小松庄周辺)で、数度の合戦があり、石井軽法師の父隼人佐が戦死を遂げた。その忠節を賞し、後日の恩賞を約束した久光の石井軽法師にあてた感状のようです。久光という人物は、誰か分かりませんが、彼自身によって感状を発し、所領の宛行いも行っているようです。
   この花押の主・久光は、かつて細川氏の被官であった石井氏などの小松荘の地侍たちを自らの家臣とし、この地域を領国的に支配していることがうかがえます。これは誰でしょう。
長尾城全体詳細測量図H16
西長尾城 精密測量図

周辺を見回して、第1候補に挙げられるのが長尾大隅守だと研究者は考えています。九条家の小松荘を押領し、自らの領国化にしていく姿は戦国大名の萌芽がうかがえます。

③については、多度津町葛原の加茂神社所蔵の大般若経奥書に、永正9年(1512)4月の日付で次のように書かれています。

「当社壬申、長尾大隅守衆、卯月二十九日乱入して社内破却神物取矣云々」

 この時期、京都では管領細川氏の内部分裂が進行中でした。山伏大好きの讃岐守護の細川政元が選んだ養子・澄之が殺害され、後継者をめぐる対立で讃岐国内も混迷の仲にたたき込まれました。残された養子である澄元派と高国派に分かれて、讃岐は他国よりも早く戦国の状況になります。多度津の加茂社は、天霧城主の香川氏が実効支配する領域です。そこへ中央の混乱に乗じて長尾氏は侵入し、略奪を働いたということです。これは、香川氏に対しての敵対行為で、喧嘩を売ったのです。
 つまり、丸亀平野南部の支配権を固めた長尾氏が、北部の多度津を拠点とする香川氏のテリトリーに侵入し軍事行動を行ったことが分かる史料です。以後、香川氏と長尾氏は、対立関係が続きます。
 香川氏は西遷御家人で、多度津を拠点とする讃岐守護代で西讃地域のリーダーです。それに対して、長尾氏は、どこの出かも分からない海賊上がりです。そして、香川氏が阿波の三好氏から自立する方向に動き「反三好」的な外交を展開するのに対して、長尾氏は三好氏に帰属する道を選びます。丸亀平野の北と南で対峙する両者は、何かと対立することが多くなります。

浪打八幡宮 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
浪打八幡宮
④は、詫間町の浪打八幡宮に、天文9(1540)年7月11日に調製された「御遷宮奉加帳」が伝えられています
そこには 長尾左馬尉・長尾新九郎など、長尾一族と思われる氏名が記録されています。長尾氏は、もともとは庄内半島を地盤とする「海賊」であったという話を最初にしました。その関係で長尾に移って160年近く経っても、託間の浪打八幡宮との関係は切れていないようです。氏子としての勤めは律儀に果たしていることがうかがえます。あるいは、託間の港関係の利権が残っていたのかもしれません。そうだとすれば、長尾氏の海の出口は三野郡の詫間であったと考えられます。敵対する香川氏に多度津港は押さえられています。
長尾城10
西長尾城 本丸北側の曲輪郡
 『西讃府志』によると、戦国末期の当主高晴の時には、三野・豊田・多度・那珂・鵜足・阿野などの諸郡において六万五〇〇〇石余の地を領したと云います。『西讃府志』には生駒藩時代の慶長二年(1597)に神余義長がその家の覚書によって記したという「高晴分限録」があり、小松荘の地侍らしい名前と石高が次のように載っています。
五〇〇石 石井掃部、
五〇〇石 守屋久太郎、
四〇〇石 三井五郎兵衛、
四〇〇石 岡部重内、
二〇〇石 石川吉十郎
彼らは金毘羅大権現出現の松尾寺の守護神・三〇番社の祭礼の宮座を勤めた姓と一致します。小松庄の地侍たちを長尾氏が支配下においていたと考えることはできるようです。
 65000石と云えば、後の京極丸亀藩の石高に匹敵しますので、そのまま信じることはできませんが丸亀平野で香川氏と肩を並べるまでに成長してきた姿が見えるようです。

長尾氏の宗教政策
 当時の有力者は、周辺の付近の神社や寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握するという「勢力拡大策」が取られていました。 前回、お話しした善通寺中興の祖・宥範も櫛梨の名主層・岩野氏出身です。師弟を僧門に入れて、高野山で学ばさせるのは、帰国後有力寺院の住職となり権益を得ようとする実利的な側面もありました。寺院自体が土地や財産を持つ資産なのです。それが、「教育投資」で手に入るのです。これは、日本ばかりでなく、西欧キリスト教世界でも行われていた名家の「処世術」のひとつです。

 「周辺の寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握」するという「勢力拡大策」の一貫として16世紀前後から長尾氏が取ったのが、浄土真宗の寺院を建立することです。丸亀平野南部の真宗寺院は阿波の郡里(現美馬市)の安楽寺を布教センターとして、広められたことは以前お話ししました。阿波の安楽寺から阿讃山脈の三頭峠を越えて讃岐に広がり、土器川上流の村々から信者を増やしていきました。その際に、これを支援したのが長尾氏のようです。15世紀末から16世紀初頭にかけて、真宗寺院が姿を現します。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 この早い時期に建立された寺院は、民衆が坊から成長させたものではなく長尾氏の一族が建立したもののようです。ここには、一族の僧侶がこれらの寺に入ることによって門徒衆を支配しようとする長尾氏の宗教政策がうかがえます。
浄土真宗が民衆の中に広がる中で登場するのが宥雅(俗名不明)です。
彼は長尾大隅守高勝の弟とも甥とも云われます。彼は真言密教の扉を叩きます。なぜ、浄土真宗を選ばなかったのでしょうか?
彼が選んだのは空海に連なる真言宗で、一族の支援を受けて地元の善通寺で真言密教を学びます。それ以上のことはよく分かりません。基本的史料は、金毘羅大権現の一番古い史料とされる金比羅堂の棟札です。そこに彼の名前があります。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
  宥雅は、象頭山に金毘羅神という「流行神」を招来し、金比羅堂を建立しています。その際に、導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職です。この寺は数多くある高野山の寺の中でも別格です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。
世界遺産高野山 金剛三昧院

北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建されお寺で、将軍家の菩提寺となります。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などを建立されます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多く、落慶法要にやってきた良昌も讃岐出身の僧侶です。そして、彼は飯山の島田寺(旧法勲寺)住職を兼務していました。
 ここからは私の想像です
宥雅と良昌は旧知の間柄であったのではないかとおもいます。宥雅が長尾一族の支援を受けながら小松荘に松尾寺を開く際には、次のような相談を受けたのかも知れません。

「南無駄弥陀ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺は信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が院主を勤める金光院を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、近頃世間で知られるようになってきた島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」

「なるほど、新しい神を登場させるのですか、大変参考になりました。もし、その案が成就したときには是非、お堂の落慶法要においでください」

「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」

という会話がなされた可能性もないとは云えません。
 もちろん宥雅の金比羅堂建立については、長尾一族の支援があってできることです。その参考例は、前回お話しした宥範が実家の岩野氏の支援を受けて、善通寺を復興したことです。その結果、当時の善通寺には岩野氏に連なる僧侶が増え、岩野氏の影響力が増していたのではないでしょうか。それは、高野山と空海、その実家の佐伯家の高野山での影響力保持とも同じ構図が見えます。長尾家も、第二の佐伯家、岩野家をもくろんでいたのかもしれません。
 以上、今回は宥雅登場前後の長尾家とその周辺の様子をみてきました。まとめておきます。
①長尾家は庄内半島の箱を拠点とする「海賊=海の武士」であった。
②南北朝の混乱の中、白峰合戦で細川頼之側につき長尾(まんのう町)に拠点を移した。
③移住当初は、周辺部はガードの堅い集団が多く周囲に勢力を伸ばすことは出来なかった。
④その中で周辺の丘陵部を開発する領主と婚姻関係を結び着実に、基盤を固めた。
⑤細川氏の分裂以後の混乱に乗じて、周辺荘園の押領や略奪を重ね領域を拡大した。
⑥戦国末には、西讃岐守護代の香川氏と肩を並べるまでに成長した。
⑦当時の武士団は、近親者に教育をつけ寺社に送り込み影響下に置くという宗教政策がとられていた⑧その一貫として、小松の荘松尾寺に送り込まれたのが宥雅である
⑨宥雅は金光院主として、金毘羅神を創り出し、金比羅堂を建立する
⑩これは、当時西讃地方で拡大しつつあった浄土真宗への対抗策という意味合いもあった。
⑪しかし、宥雅の試みは土佐長宗我部の讃岐侵攻で頓挫する。宥雅は堺への亡命を余儀なくされる。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 長尾大隅守の系譜 満濃町史 第4編 満濃町の民俗1169P~

中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?

掛け軸 六字名号・南無阿弥陀仏 安田竹葉 (肉筆) :YT66000:掛け軸の ...
中讃地域では仏さんの前で正信偈があげられ「南無陀弥陀仏」の六文字が称えられることが多く、真宗信者の比率が非常に高いと感じます。資料を見ると

県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗です。

次が真言宗で、この二つで8割以上を占めています。四国の他県の真宗比率を見てみると、阿波では13%、伊予ではわずか9%、土佐では24%です。阿波では、中世に阿波を支配していた三好氏が禅宗を保護したからです。伊予では臨済宗が多のですが、これは伊予の河野氏が禅宗に帰依し、保護したためのようです。それぞれの県に「背景」と「歴史」があるようです。それでは、讃岐に真宗が多いのはなぜでしょう?問題を過去に遡って考えるというのが歴史的な考え方です。それに従うことにしましょう。
正信偈 - 生涯学習の部屋

いつごろどのようなルートで讃岐へ、真宗が入ってきたのか?

 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された高松の法蔵院とされます。ここへ入ってきて、そこから周辺へ広かったのではないか、という推測ができます。しかし、残念ながら裏付ける資料がありません。
珍種】常光寺のラッパイチョウが世にも珍しい件 | ガーカガワ 香川県の ...
讃岐への真宗伝来を伝えるのは、三木郡の常光寺に残る文書です。
 史料①『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
当寺草創之濫腸者、足利三代之将軍義満公御治世之時、泉洲大鳥之領主生駒左京太夫光治之次男政治郎光忠と申者、発心仕候而、法名浄泉と相改口口口引寵り、仏心宗二而罷在候、其後京都仏口口口常光寺と号ヲ与へ給候、爰二又浄泉坊同詠之者二秀善坊卜申者在之候是も仏光寺門下と相成、安楽寺卜号ヲ給候、
然二仏光寺了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、応安元年四国之地江渡り、秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
この文書は江戸時代に書かれたものですが、比較的信憑性が高いとされています。要約すると
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依していった。
 ちなみに仏光寺というお寺は、そこにいた経豪上人が蓮如上人に仕えて、蓮如の一字をもらって蓮教と名を改めます。そして後に、興正寺というお寺に発展していきます。現在は京都の西本願寺の南に隣接してあります。
興正寺について|本山興正寺
ここが真宗の讃岐伝播のひとつのポイントのようです。
真宗といえば、すぐに本願寺を連想しますが、讃岐に真宗を伝えたのは「仏光寺(興正寺) → 秀善坊」なのです。興正寺によって讃岐に真宗が伝わってくるのですが直接ではありません。興正寺(仏国寺)の伝播は、まず阿波に入ります。
イメージ 1

阿波の美馬市郡里寺町に安楽寺というお寺があります。

安楽寺はもともと浄土宗の寺院でしたが、真宗に改宗していきます。安楽寺を拠点にして阿波と讃岐へと広がっていくのです。
安楽寺について資料を見てみましょう。
 史料②は篠原長政書状とありますが、これは安楽寺が焼かれ讃岐ヘー時的に「亡命」した時に出されたものです。この時に、財田駅の北側に宝光寺が創建されますが、私は「仏難を避け亡命政権」と考えています。
どこいっきょん? 宝光寺の紅葉(三豊市)

この寺が後には、三豊方面への「真宗布教前線基地」になります。しばらくして、もとの美馬へ帰ることになります。阿波守護代の三好氏の許可状とともに、この長政の添状が「亡命政権」に届いたためです。
    史料②篠原長政書状〔安楽寺文書〕
 就興正寺殿ヨリ被仰子細、従子熊殿以折紙被仰候、早々還住候て、如先々御堪忍可然候、諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候、則承可申届候、於今度山科二御懇之儀共、不及是非候、堅申合候間、急度御帰寺肝要候、恐々謹言
      永正十七年十二月十八日          篠原大和守
長政(花押)
      郡里  安楽寺

①「興正寺殿ヨリ被仰子細」とあります。先ほど紹介したように、安楽寺の本寺である興正寺が和解に向けて働いたことが分かります。
②財田への「亡命」の背景には「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」という、賦役や課役をめぐる対立があったことが分かります。さらに「念仏一向衆」への宗教的な迫害があったのかもしれません。
④要は、相談なしの新しい課役などは行わないことを約束して「阿波にもどってこい」と云っている内容です。安楽寺側の勝利に終わったようです。
 この領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後
急速に末寺を増やしていきます。安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。
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安楽寺は阿波にありながら、なぜ讃岐に布教拡大できたのか。

讃岐と阿波との国境の阿讃山脈を越えて讃岐へと伝わります。
現在は三頭トンネルができて早くいけるようになりましたが、これは安楽寺と中讃を結ぶルートに当たります。三頭越のルートで伝わったのです。讃岐へ下りていくと土器川の上流に当たります。これを下れば丸亀平野です。国境を越えるといえば大変なように考えますが、当時はこれが「国道」で街道には人が行き交っていました。
安楽寺の末寺はほとんど中讃地域で、それも山に近い所に多いのはその「地理的な要因」がありそうです。

 真宗寺院の分布は、高松周辺と丸亀周辺にかたまっています。
これは比較的新しくできた寺院が多いようです。一方、農村部に沢山の寺院があります。この農村部にある寺院の多くが安楽寺の末寺です。そして、山沿いのお寺の方が古いようです。これは山から平野に向けて真宗の「教線拡大」が進んだことを示しています。ここからも、讃岐の真宗の伝播は、一つには興正寺から安楽寺を経て広がっていったということが分かります。
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ところで、吉野川の南側には安楽寺の末寺は見当たりません。

どうしてでしょうか。
わたしは、吉野側の南側は高越山や箸蔵寺に代表される山岳密教の修験者達のテリトリーで、山伏等による民衆教導がしっかり根付いていた世界だったからだと思っています。そこには新参の真宗がは入り込む余地はなかったのでしょう。そのためにも阿讃の山脈を越えた讃岐が安楽寺の「新天地」とされたと思います。そして財田への「亡命」時代に布教のための「下調べと現地実習」も終わっています。こうして、阿讃の山々を越えての安楽寺出身の若き僧侶達の布教活動が展開されていきます。それは、戦国時代の混乱期でもありました。

参考文献 橋詰 茂讃岐における真宗の展開             

  
  
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安楽寺山門(赤門)美馬市
 徳島県の美馬市郡里は、吉野川北岸の河岸段丘の上に早くから開けた所です。
古墳時代には、吉野川の綠岩を積み重ねた横穴石室を持つ国指定の「段の塚山」古墳。そして、その系譜を引く首長によって造営されたと思われる郡里廃寺跡(国指定)の遺跡をたどることが出来ます。
 その段丘の先端に地元人たちから「赤門寺」と親しみを込めて呼ばれているお寺があります。安楽寺です。この寺は元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されています。

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安楽寺の赤門
真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。
その経緯は、1247年(宝治元年)に、上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したようです。長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文が寄進されます。15世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させます。

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安楽寺の親鸞像
安楽寺火災後に、讃岐に「亡命」し宝光寺を建てた背景は?

ところが、永正12年(1515)に寺の危機が訪れます。寺の歴史には次のように記されています。
永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」
 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか?
伝来の場所を離れたのは、そうせざるえない事情があったからではないでしょうか。ただの火災でなく、周辺武士団による焼き討ち追放ではなかったのでしょうか。
2013年11月 : 四国観光スポットblog
三豊市財田 宝光寺(安楽寺の亡命先だった)

後の安堵状の内容からすると、諸権利を巡ってこの地を管轄する武士団との間に対立があった事がうかがえます。あるいは、高越山や箸蔵寺を拠点とする真言系の修験道集団等からの真宗への宗教的・経済的な迫害があったのかもしれません。それに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な「一時退避」行動ではなかったと私は考えています。
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安楽寺本堂と親鸞・蓮如像
 その際に、寺だけが「移動」したのではないでしょう。
一向門徒の性格からして、多くの信徒も寺と共に「逃散」したはずです。寺をあげての大規模な逃散。この時代は、平和な江戸時代と異なり、土地は余剰気味で労働力が不足した時代です。安楽寺の取った逃散という実力行使は、領主にとっては大きな打撃となったはずです。


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安楽寺山門と松
なぜ、讃岐山脈の向こうの山里に避難したのか。

私は、そこにすでに有力信徒がいたからと考えています。
背景には、阿波から讃岐への「人口流出」があります。讃岐側のソラの集落は、阿波からの人たちによって開かれました。そして時代と共に、山沿いや、その裾野への開墾・開発事業を進め「阿波コロニー」を形成していきます。
 そこへ、故郷阿波から真宗宣教師団が亡命して来て、新たな寺院を開いたのです。箸蔵街道の讃岐側の入口になる財田側の登口に位置する荒戸に「亡命避難センター」としての「宝光寺」が建立されます。その設立の経過からこの寺は、阿讃両国に信徒を抱える寺となります。

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安楽寺本堂の屋根瓦
本寺興正寺の斡旋で美馬への帰郷成功

 同時に、安楽寺は本寺の興正寺を通じて阿波領主である三好氏への斡旋・調定を依頼する政治工作を行います。その結果、5年後の永正十七年(1520)に、三好千熊丸(元長または 長慶)の召還状が出され、郡里に帰住することができました。それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」と題された文書です。
興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世中候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言‐、
永正十七年十二月十八日                                  三好千熊九
郡里安楽寺
意訳変換しておくと
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに成敗を加える
郡里への帰還の許可と、諸役を免除すると記されています。
三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。安楽寺は領主三好氏から課役を免ぜられていたことになります。三好氏の庇護下で地元の武士団の圧迫から寺領等を守ろうとしています。

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安楽寺の屋根
この免許状は、興正寺の口添えがあって発給されたものです。

 ここでもうひとつの注目しておきたいのは文頭の「興正寺殿からの口添えがあった」という部分です。永正十七年の興正寺の住持は蓮秀上人ですので「興正寺殿」は蓮秀のことでしょう。免許状の発給のルートとしては
財田亡命中の安楽寺から興正寺の蓮秀に口添えの依頼 → 
蓮秀上人による三好千熊丸に安楽寺のことの取りなし → 
その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
という筋立てが考えられます。ここから、安楽寺の存亡に係わる危機に対して、安楽寺は本寺である興正寺を頼り、本寺の興正寺は末寺の安楽寺を保護していることが分かります。
 それとともに、三好氏が蓮秀の申し入れを聞きいれていることから、興正寺の社会的な地位と政治力をうかがい知ることも出来ます。同時に、安楽寺も地域社会に力をもつ存在だからこそ、三好氏も免許状を与えているのでしょう。力のない小さな道場なら、領主は免許状など与えません。
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安楽寺
「讃岐亡命」から5年後に、興正寺の斡旋で寺領安堵という条件を勝ち取っています。「三好千熊丸諸役免許状」は、安楽寺にとっては勝利宣言書でもありました。だからこそ、この文書を安楽寺は大切に保存してきたのです。 

郡里復帰後の安楽寺の使命は?  讃岐への真宗伝道

 郡里の地へ復帰し、寺の復興を進める一方、安楽寺の進むべき方向が見えてきます。それは、讃岐への真宗布教という使命です。5年間の讃岐への「逃散」と帰還という危機をくぐり抜け、信者や僧侶の団結心や宗教的情熱は高まったはずです。
 そして「亡命政権」中に讃岐財田の異郷の地で暮らし、寺の指導者達は多くのことを学んだはずです。「亡命中」の宝光寺で、教宣拡大活動をを行う一方、その地の情報や人脈も得ました。それを糧に讃岐への布教活動が本格化します。
  浄土真宗の中讃地域での寺院数が十四世紀からはじまり、十六世紀に入って急増するのは、そんな背景があるからだと私は考えています。
「徳島県 三頭越」の画像検索結果
三頭越
安楽寺から讃岐への布教ルートは、どうだったのでしょうか。
ひとつは、現在、三頭トンネルが抜けている三頭越から旧琴南へ。
2つ目は、二本杉越(樫の休み場越え)を越えて旧仲南の塩入へ、
3つめが箸蔵から二軒茶屋を越えて財田へのルートが考えられます。
 このルート沿いの讃岐側の山沿いには、勝浦の長善寺や財田の宝光寺など、真宗興正寺派の有力寺院がいまもあります。これらの寺院を前線基地にして、さらに土器川や金倉川、財田側の下流に向かって教線を伸ばして行ったようです。
DSC00879現在の長楽寺
長善寺(まんのう町勝浦)かつては安楽寺の末寺だった 

 こうして、戦国時代の末期から江戸時代にかけて安楽寺の末寺は、まんのう町から丸亀平野へとひろがります。江戸時代中期には安楽寺の支配に属する寺は、阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し、四国最大の末寺を持つ真宗寺院へと発展していくのです。
四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布
安楽寺末寺の分布図(寛永3(1626)年)

上の分布図から分かることは
①阿波は吉野川流域沿いに集中しており、東部海岸地域や南部の山岳地帯には末寺はない。
②土佐の末寺は、浦戸湾沿岸に集中している。
③讃岐の末寺が最も多く、髙松・丸亀・三豊平野に集中している。
④伊予は、讃岐に接する東予地域に2寺あるだけである。
少し推察しておくと
①については、経済的な中心地域である吉野川流域が、新参者としてやってきた真宗にとっては、最も門徒を獲得しやすかったエリアであったことが考えられます。吉野川よりも南部は、高越山を拠点とする忌部修験道(真言宗)が根強く、浸透が拒まれた可能性があります。
 阿波東部の海岸線の港も、中世は熊野からやって来た修験系真言勢力が根強かった地域です。また、このエリアには堺を拠点に本願寺の末寺が開かれていきます。安楽寺にとっては、阿波では吉野川流域しかテリトリーにできなかったようです。
②の浦戸湾一帯に道場を開いたのは、太平洋ルートで教線ラインを上してきた本願寺でした。それが伸び悩んだのを、安楽寺が末寺に繰り入れたようです。
③④については、以前にお話ししましたので省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐に多い真宗。
その中でも興正寺派の割合が多いのが大きな特徴と言われています。
わが家も興正寺派。集落の常会ではいまだに正信偈のお勤めをする習慣が残ります。そんな讃岐への真宗布教の拠点のとなったのが阿波の安楽寺。かねてより気になっていたお寺を原付ツーリングで訪ねてみました。
美馬市 観光情報|寺町
   安楽寺
吉野川北岸の河岸段丘上に、寺町と呼ばれる大きな寺院が集まる所があります。三頭山をバックに少し高くなった段丘上に立つのが安楽寺。かつては、洪水の時にはこのあたりまで浸水したこともあったようです。吉野川を遡る川船が、寺の前まで寄せられたような雰囲気がします。 新緑の中 赤い門が出迎えてくれました。
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安楽寺の赤門

四国各地から真宗を治めるために集った学僧の修行の寺でもあったようです。
この門から「赤門寺」と呼ばれていたようです。
桜咲く美馬町寺町の安楽寺 - にし阿波暮らし「四国徳島散策記」

境内は手入れが行き届いた整然とした空間で気持ちよくお参りができました。
本堂前の像は誰?
安楽寺本堂 文化遺産オンライン

親鸞です。私のイメージしている親鸞にぴったりときました。こんな姿で、旅支度した僧侶が布教のために阿讃の峠を越えていったのかな。
ベンチに座りながら教線拡大のために、使命を賭けた僧たちの足取りを考えていました。
徳島県美馬市美馬町の観光!? | 速報 嘆きのオウム安楽寺

阿波にある安楽寺の末寺はすべて古野川の流域にあります。阿讃の山向こうはかつての琴南・仲南・財田町の讃岐の山里にあたります。この山越のルートを伝道師たちは越えて行きました。国境を越えるといえば大変なように思えますが、かつては頻繁な行き来があったようです。このためか中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は、山に近い所に多いようです。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像します。しかし、この時代の真宗寺院は、むしろ「道場」と呼ばれていました。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。



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