瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:美馬町願勝寺

 阿波の霊山と修験道史をまとめた田中善龍は、高越山と忌部十八坊の関係について、かつて次のように記しました。

  高越山周辺地域には、古代に中央から忌部氏の移住があった。さらに、中世にはその後裔と自称する家族による支配があり、彼らは忌部神社のある山崎の地(吉野川市山川町)などで寄り合いを開いた。これら忌部氏、ないしはその後裔と称する集団は、忌部神社を精神的連帯の核としたが、この神社の別当だったのが高越山頂にある高越寺だった。このような阿波忌部の聖地を前提とするのが、地方的な修験である忌部修験であり、大滝山系真言修験と対立関係にあった。

 そして「忌部修験」の内で現存するものは、吉野川市、美馬市、美馬郡、三好市にあり、室町時代に連帯組織を形成したこと、その中でもつるぎ町半田の神宮寺が中心であり、忌部神社を共通の聖地としていたとします。

私も田中氏の説にもとづいて、高越山=忌部修験の聖地と考えてきました。しかし、近年になっていろいろな批判が出ているようです。どこが問題なのか、何が批判されているのかを見ていくことにします。テキストは 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店 です。
 長谷川賢二の批判点は、以下の四点です。
第1に、高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについて、
この根拠となる史料が示されていない。「あたりまえ」の前提とされている。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、一八坊の相互関係(山伏結合としての実態)や個々の内部構造も、史料から明らかにされていない。
第2に、つるぎ町半田の神宮寺が「忌部十八坊」の中心だったという点について。
 田中説を進めると半田町の神宮寺は、山崎に鎮座する忌部神社の「神宮寺」ということになる。また、忌部神社と高越山とが一体であるなら、神宮寺は高越山が遥拝可能な場所か、高越山周辺にあるのが自然だろう。しかし、半田町にある神宮寺は、いずれの条件も満たさない。高越山をセンターとするはずの山伏集団が、そこから離れた場所に中核寺院をもつのも不自然で疑問に思わざるえない。
以上、忌部修験をめぐる田中の所説には、論拠の不明確さや論理の不整合があり、
忌部神社 ー 高越山 ー「忌部十八坊」

をつなぐ明確なつながりは見えてこないとします。議論の前提として忌部修験の存在が語られていて、それがいかなる存在だったのかが語られていないとします。そこで、長谷川賢二氏は史料をして語らしめるという実証史学の原点に戻ります。「忌部十八坊」について記された史料を見ていくことから再出発します
忌部修験に関する根本史料は①『願勝寺系譜』と②『麻殖系譜」とされます。
①『願勝寺系譜』には、九代神党の項に
「安和二年巳己九月十九日、忌部十八坊ヲ定メ」
②『麻殖系譜』には基光・徳光の項に、それぞれ次のようにあります。
「安和三年己巳九月卜九日、忌部神社ハ坊ヲ別」
「忌部授社本社ノ別当、皆福ノ一字無キ寺ハ、福ノ一字ヲ加エテ寺号ヲ改メシム」
と記され、 一八か寺の名が挙げられています。しかし、これだけなのです。実態は何もわかりません。

1『願勝寺系譜』とは、どんな史料なのでしょうか。
美馬町には、浄土真宗興正寺派の讃岐への布教センターとなった安楽寺や、その分院が大きな屋根を並べる寺町というエリアがあります。このその寺町の一角にあるのが真言宗の願勝寺です。この寺には『願勝寺系譜』という文書が残されています。歴代住持の事績集成という形をとった寺史で、文禄二年(1594)の奥書があるようです。従来は、これが全面的に信頼され同時代史料的な価値が認められてきたようです。
その中に天正三(1575)年に発生した「法華騒動」が記されています。その概略は、阿波国支配の実権を掌握していた三好長治が、国内に日蓮宗への改宗を強制したため、日蓮宗の教線が急速に拡大する。それに危機感を抱いて反発した真言宗など諸宗の僧侶が結集し、三好氏の拠点である勝瑞城下での宗論に至るというものです。史料を見てみましょう。

快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ、阿波へ帰リテ同意ノキ院ヲ訪ラヒ、阿波国ノ念行者多数ノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗へ対シ、不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遣ス処、妙同寺普伝上人返答延引ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト(中略)本行寺へ押入り騒動二及フ、共魁トナル人々ニハ大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、忌部郷忌部十八坊ヲ始、其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者ハ此事二与セスト雖、国中ノ騒動大方ナラス
意訳変換しておくと
願勝寺の快弁は、まず高野山で法華退治の一策を講じて、阿波へ帰ってきて、これに賛同する寺院を訪ねた。阿波国の多くの「念行者」や多数の山伏の賛同を得て、持妙院へ訴訟した。日蓮宗に対して、不当申立状を三尺坊に持参させて本行寺へ遣ったところ、妙同寺の普伝上人は、法華坊主を打殺スベシトという返答であった(中略)
 そこで本行寺へ押入り騒動に及んだ、共に立ち上がったメンバーは次の通りである。
大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、
しかし、忌部郷忌部十八坊ヲ始、その他の神宮寺別当附属の修験や神坊の行者は、この騒動に与しなかったが、国を揺るがす大騒動となった。
 ここには、願勝寺の快弁の活躍ぶりがまず描かれています。そして「法華退治ノ一策」への協力要請を受け人れた「念行者」を核とする山伏集団の蜂起と、それに対する「忌部十八坊」などの非協力があったとします。

長谷川賢二氏は『願勝寺系譜』のテキスト・クリニックを行います
①外見的には、書体が稚拙であり、16世紀末の古文書の書体ではないこと
②書き損じとそれに伴う訂正筒所がいくつかあること
③末尾には「法印権大僧都快盤」の署名と花押の位置関係が不自然なこと
以上から、現存本は16世紀末のものではないとの疑義を持ちます。もし、『願勝寺系譜』が文禄三年(1594)の作成としても、現在本は写本であると推察します。
次に、奥書の記載内容から、史料の性格を見ていきます
右、福聚寺殿ョリ御尋二付、当院古来旧記取調、早速其概略ヲ写収候テ奉備高覧、預御感難有仕合候間、為後来之亀鑑控置候者也、

奥書によると「願勝寺系譜』は「福衆寺殿(峰須賀家政の父である正勝)」の求めに応じて、作成したものの控えであると記されています。ここからは、『願勝寺系譜』の原形は、蜂須賀氏の入国後間もない時期に書かれたことになります。ところが、本文中の記事には後世のことが何カ所か含まれていて、奥書の日付をそのまま信じるわけにはいかないようです。
 「奥書にある「文禄三年」は、現実的な年記ではなく、「古さ」を強調するための虚構である可能性が高い」

と長谷川賢二氏は指摘します。なお、前年の文禄二年は、願勝寺が脇城主稲田氏から美馬郡中諸寺の監督を命じられたとされる年です。美馬地域における願勝寺の卓越性の主張を込めた年紀の設定と研究者は考えているようです。

次に『願勝寺系譜』の歴代住職について見てみましょう。ここにも疑義があるといいます。
初代 福明 「阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿面ノ庶弟」
二代 福淵 「麻殖忌部布刀淵ノ三男」
三代 人福 「忌部大祭卜玉淵宿爾第ニノ庶子」
四代 実厳 「忌部麻殖正信ノニ男」
六代 智由 「母ハ阿波忌部石勝ノ女」
八代 智光 「忌部高光ノ庶弟」
九代 智党 「忌部氏人麻殖正種二寺」
10代 徳光 「忌部大祭主信光ノ一弟」
11代 随伝 「共姓モ忌部氏」
12代 了海 一麻殖I遠ノ一男」(随伝の項にあり)
14代 行智 「麻殖正径ノ次男」
16代 行真 「忌部大祭寺麻殖親光内室ノ弟」
21代 月心 「忌部大祭主麻殖利光ノ庶弟」
32代 鏡智 父は「忌部ノ祭主麻殖利光ノ家二客タリ」
33代 観月 「阿波忌部大輔成良ノ子田内ノ‐‥工門成直ノ後胤也」
34代 快念 「忌部人祭主麻殖因幡守ヲ頼」
35代 快弁 「麻殖因幡守猶子トログシ」

「忌部」姓、「麻殖」姓、「麻殖忌部」姓、「忌部麻殖」姓が同系とみられます。歴代住職18人のうち17人までが忌部氏との関係が記されています。当時は僧侶は妻帯できませんから世襲ではありません。この姓から住職は選ばれたとします。
『願勝寺系譜』に見られる忌部伝承は、多くの点で「麻殖系譜』と一致するようです。
『麻殖系譜』とは、忌部神社の祭祀に携わり「忌部大祭主」や「麻殖人宮司」などを務めた者が多数いたという麻殖氏なる一族(当然のように忌部氏を称した)の系図です。成立時期は分かりません。『願勝寺系譜』と「麻殖系譜』は、次の項目は一致します
①住職名
②「忌部十八坊」についての記事内容
③願勝寺の名の由来伝承
このように、両系譜の相関性は高いようです。

これは何を意味するのでしょうか・
その手がかりは『麻殖系譜』が式内忌部神社の所在地論争の際に資料として提出されたことにあるようです。この論争は、明治四年(1871)に政府が忌部神社の国幣中社へのランクアップを行おうとしたときに、次の2つの神社間でどちらが式内社の系譜を引く正統な忌部神社であるかめぐって、起こったものです
①麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の天日鷲神社
②美馬郡西端山村(つるぎ町貞光)の五所(御所)神社
最終的には、明治18年(1885) に、妥協案として新たに徳島市に社地が選定され、決着がつけられます。
 しかし、古代の阿波忌部の本拠は麻殖部でしたし『延喜式』巻10(神祗10 神名)には、「麻殖郡八座」の一つに「忌部神社」と明記されています。したがって、美馬郡から式内忌部神社の名乗りがあるのは奇妙なことです。
 ところが、これについては、貞観二年に美馬郡が分割され、三好部が置かれたという独特の解釈を加えた説が主張され、美馬郡鎮座説の根拠とされます。つまり美馬部を三好部とし、麻殖郡を分割して美馬・麻殖の2郡としたというのです。この考え方に従えば、式内忌部神社が美馬那であっても、もと麻殖郡であるから、問題ないということになります。その証拠として出されたのが『阿陽記」などの史書です。
これについて、山崎村鎮座説に立つ小杉檻椰(阿波出身の神学者)は、次のように述べて「阿陽記」は証拠としては無意味であると断じています。
「明文トスル所ノ阿陽記・国鏡ノ類ハ(中略)寛政(1789~1801)ノ比二雑録セシ俗書

 これに対して、美馬郡鎮座説を唱え、小杉と対決した細矢席雄(讃岐の田村神社権宮司)は、『阿陽記」等を「文禄(1592~96年―引用註)或ハ大和(1681~84年)ノ旧記」と主張したようです。
 結局は、麻殖郡分割による郡境変更説が古代史料によるものではなく、成立期も不明確な史料を盾にとったものであることを美馬郡鎮座説派も認めていたわけです。今日では『阿陽記』については、明和年間(1764~72年)の成立とされているようです。やはり、江戸時代中期の論争後に「創作」されたものだったのです。
 このような論争のなかで、「麻殖系譜』は西端山村側の証拠資料として提出されたものです。    
これには、次のような郡境変更説が記されています。まず、玉淵の項に
麻殖上郡・阿波寺郡ヲ合シテ美馬郡トス、麻内山ハ神領ナル故、麻殖中郡トシテ之ヲ別」

たとあります。「麻内山」は、別の項目では、「麻殖内山」と記されています。麻殖郡分割説を唱え、神領である地域(忌部神社を含む)のみが一部とされたという説明です。ここからは『麻殖系譜」は「式内忌部神社美馬郡鎮座説」の擁護のために書かれたことがうかがえます。
郡境変更説は「願勝寺系譜」にも受容されます。
『麻殖系譜』のような細かい記述はありませんが、願勝寺10代徳光の項に「麻殖下郡」という地名が記されます。これは麻殖郡の分割があったということをフォローする内容になります。
 また、先ほど見たように『願勝寺系譜』の忌部伝承が『麻殖系譜』と一致することあわせて考えると、その記述は式内忌部神社美馬郡鎮座説を前提としたものであることが見えてきます。しかも、全編にわたって忌部氏との関係などが記されています。初代福明の項には、玉垣宿爾について「阿波忌部ノ正統」とあり、麻殖氏系譜の正統性が強調されています。以上から長谷川賢二氏は次のように指摘します。
  「こうしたことから考えれば、美馬郡鎮座説の影響は、転写過程での部分的な潤色によるものではなく、『願勝寺系譜』全体の成立にかかわって意識的に取り込まれたものとすべきであろう。

式内忌部神社美馬郡鎮座説の正当化するために『願勝寺系譜』や『麻殖系譜』が書かれたものであるとすれば、それが唱えられ始めた時期に着目すれば、両系譜の成立期も自ずと分かってくるはずです。そこで、忌部神社論争の起点を確認します。
  この明瞭な時期は、文化11年(1815)完成の藩供地誌『阿波志』に次のように記されています。
元文中、山崎・貞光両村祀官、相争忌部祠

ここからは元文年間(1736~41年)、麻殖郡山崎村と美馬郡貞光村の神職の間で、忌部神社の所在をめぐり争われていたことが分かります。つまり、近代以前にも忌部神社の所在をめぐる争論があったのです。
 このときの争論では、麻殖郡の種穂神社が忌部神社とされ、寛保三年(1743)完成の『阿波国神社御改帳』には「種穂忌部神社」と記載されています。しかし、種穂神社の神職だった中川氏に伝わつた史料によれば、その後も問題は続いていたことがうかがえます。
 貞光村と西端山村は、近接しています。明治の忌部神社論争においては、貞光村の忌部旧跡も取り上げられ、西端山村と一体となって美馬郡鎮座説の焦点となった地域のようです。
 どうやら18世紀前半の忌部神社=貞光村説は、近代における西端山村説とほぼ同じエリアの中での式内忌部神社の所在地を廻る争論であったようです
 以上から美馬郡鎮座説を正当化する伝承が必要となったのは、18世紀前半のことのようです。都境変更説が記された『阿陽記』の成立は18世紀後半とみられています。忌部神社をめぐる争論との関係からしても、納得がいく時期です。
 このようにみてくると、「願勝寺系譜』『麻殖系譜』の式内忌部神社美馬郡鎮座説を意識した記述は、争論との関係から定形化されるようになってきたと研究者は指摘します。ここからも『願勝寺系譜』を奥書の文禄三年(1594)に成立していたとは、見なせないというのが研究者の結論になるようです。
  『麻殖系譜』についても、近代の忌部神社論争時までには成立していて、論争に利用されました。そのため、江戸時代の論争がはじまった18世紀前半には出来上がっていたようです。しかし、『願勝寺系譜』と比較して、その先後関係は分かりません。
 どちらにしても両系譜は、式内忌部神社をめぐる論争という、きわめて政治的な動きの中で書かれたものであるようです。そのため「創作された伝承」が含まれていることを、想定する必要があります。す。このことについて、長谷川賢二氏は次のように記します

  こうした史料に関する問題を考慮するなら、先に虚構と断定できないとした忌部修験についても、中世史の問題として議論するには慎重を要する。美馬郡鎮座説が本格的に展開する18世紀以後に、当該神社の社会基盤の広がりや権威を誇張するために名目的に創り出された可能性も含んでおく必要があるように思うのである。

以上をまとめておくと
①「忌部修験」は、イメージが先行して、それを証拠立てる史料がないこと
②「忌部修験」の根本史料である『願勝寺系譜』『麻殖系譜』は、式内忌部神社美馬郡鎮座説をフォローするために後世に書かれたもので、18世紀以前に遡るとは考え難いこと
③史料にもとづかないイメージを無理に組み立てても、研究の深化にはつながらないこと
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店


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