瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:羽床盆地

 讃岐国府跡を流れる綾川上流の、羽床盆地は古墳の密集地で、大規模な古墳群を形成しています。
しかし、時期・内容がよく分からないものが多く、私には空白地帯となっていました。その中で手がかりとなる資料に出会えましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
まずは編年表にしたがって出現順に古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳分布図JPG

最初に羽床盆地の古墳を5つにグループ化します。
A 北部        快天塚古墳 浦山12号墳
B 北西部 
C 中央北部
D 中央南部
E 東部
その編年表が以下になります。
羽床盆地の古墳編年2
羽床盆地の古墳編年表
羽床盆地の古墳編年

羽床盆地の古墳編年表(拡大版)
古墳編年表2

Ⅰ期 羽床盆地で最も古いのは、盆地北部の快天山古墳です。

快天塚古墳6
快天塚古墳5


                     快天塚古墳
この古墳については何度も取り上げたので副葬品などは省略します。研究者は注目するのは3基の刳抜式石棺です。
快天塚古墳石棺
快天塚古墳の3つの石棺

これらは国分寺町鷲ノ山の石材で造られたもので、1号・2号石棺は割竹形木棺を忠実に模した初期モデルで、全国で最も古い刳抜式石棺とされます。古墳の立地場所は、羽床盆地から丸亀平野へ出口にあたる丘陵上で、鵜足郡との境になります。阿野郡と鵜足郡に跨いで勢力をもっていた首長墓のようです。快天塚の被葬者達は、刳抜式石棺を最も早く使用しているので、その生産地の国分寺町鷲ノ山の石工集団を支配下に置いていたようです。また、刳抜式石棺が製作されるようになると国分寺町では有力古墳が造られなくなります。ここからは、快天山古墳の被葬者は国分寺町域までも勢力に置いていたと研究者は推測します。
 しかし、快天塚古墳の被葬者に続く首長達は、その勢力をその後は維持できません。ヤマト政権は鷲の山の石棺製造集団を引き離し、播磨などの石の産出地に移動させることを命じています。つまり、ヤマト勢力によって快天塚の後継者達は押し込められたようです。それは快天塚続く前方後円墳がこのエリアからは姿を消すことからうかがえます。つまり、快天山古墳の後継者達はヤマト政権に飲み込まれていったと研究者は考えています。
快天塚古墳に続く盟主的な古墳を見ていくことにします。

羽床盆地の古墳4
羽床盆地の古墳
よっちゃんの文明論 | SSブログ

北流してきた綾川が大きく東方向に流れを変えるポイントが「白髪(しらが)渕」です。この左岸(北側)の丘陵を浦山(うらやま)、対岸の突き出す地形を津頭(つがしら)と呼びます。
Ⅱ期 浦山12号墳は、快天塚と同時期の古墳で、綾川の北の「A 北部」に位置します。
直径10m前後の円墳で、割竹形木棺を粘土で覆い、墳丘構築のため丘陵部を切断した溝状部には、墳丘側、丘陵側双方に貼石しています。さらに平野側には墳丘を挟むようにハ字形の列石を配し、配石のない中央を通路として使用しています。古墳時代前期を特色づける割竹形木棺をもつ一方で、弥生時代の墳丘墓の特徴を色濃く残した古墳で、Ⅱ期のものと研究者は判断します。その隣の浦山11号古墳は組合式木棺を粘土被覆していることと、刀子・斧・鎌が出土しているのでⅡ期~Ⅲ期に比定されます。

善通寺・丸亀の古墳編年表

Ⅲ期 快天山古墳に続く大型古墳(盟主墳)は「A 北部」に位置する津頭東古墳です。
①径35mの円墳、葺石・埴輪あり。
②多葬墓で、竪穴式石槨4基と粘土槨2基があり、
③1号石槨は、板状安山岩を小口積みした竪穴式石槨
④内行花文鏡、鉄剣2、太刀1、鉄斧2、(ヤリガンナ)1、鉄鏃を出土

 津頭東古墳から400mほど下流にあるのが「A 北部」の津頭西古墳(蛇塚)です。
①径7mの円墳
②竪穴式石槨から、画紋帯環状乳四神四獣鏡(径14.8cm)、三環鈴、銀製垂飾り付き耳飾りの残穴、衝角付き冑、眉庇付き冑、横矧板鋲留式短甲3、頸甲1、小札括り、金銅製鏡残片、鉄矛2、直刀、直弧文付き鹿角製刀装具、槍身2、石突きの残穴、鉄鏃残片、鉄斧、須恵器(高杯3、蓋杯2)などと、副葬品が豊富
③5世紀後半の築造。
羽床津頭西古墳 津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」
             津頭西古墳出土「画文帯環状乳髪獣鏡」

副葬品の多さと優秀さからみて、Ⅲ期の津頭東古墳に続く首長の古墳と研究者は考えています。

羽床盆地の古墳分布図JPG
羽床盆地の古墳群
綾川をさかのぼって上流へ向かうと「C 中央北部」に、8~10基の円墳で構成される「末則古墳群」あります。その盟主墳が「末則(すえのり)1号墳」です。ここも末則湧水の下に、弥生時代から拓かれた谷田があります。谷田と背後の山林を経済的基盤とした勢力の築いた古墳群のようです。

末則古墳 羽床古墳群
①径約25mの円墳で、葺石と埴輪が2重にめぐり、
②円筒・朝顔形埴輪、石製獣形品(猪か馬)、須恵器片が採集。
③埋葬部は、隅丸長方形の土壙のなかに竪穴式石槨があり、石材は川原石で、最上段には板石
④鉄刀(90.5cm)、鉄剣(62.5cm)、鉄鏃10を出土

末則古墳の出現は、これまで羽床盆地の「A 北部」に築造されていた有力古墳(盟主墳)が、はじめて盆地中央部でも築造されたことに意義があると研究者は考えています。しかし、この古墳は墳丘規模だけ見ると「A 北部」の有力古墳と同規模ですが、副葬品を見ると「鉄刀1・鉄剣1・鉄鏃10」だけで、短甲や馬具などが出てきません。副葬品の「貧弱」さは、「A 北部地区」との経済的・政治的格差を示すものと研究者は評します。5世紀後半の時点では、中央部は「発展途上地域」だったとしておきます。
末則古墳の被葬者が拠点としたしたのが末則遺跡です。
この遺跡は、農業試験場の移転工事にともない発掘調査が行われました。鞍掛山から伸びて来た尾根の上には、末則古墳群が並んでいます。この付近には、快天塚古墳のある羽床から綾川上流部に沿って、丘陵部には特色のある古墳群がいくつか点在しています。この丘にある末則古墳の被葬主も、この下に広がる低地の開発主だったのでしょう。
末則古墳 羽床古墳群.2jpg

現在の末則の用水路網
 末則古墳群の丘は「神水鼻」と呼ばれる丘陵が北から南へ張り出しています。
そのため南にある丘陵との間が狭くなっていて、古代から綾川の流路変動が少ない「不動点」だったようです。これは河川の水を下流に取り入れる堰や出水を築くには絶好の位置になります。そこには水神も祭られていて、聖なる場所でもあったことがうかがえます。神水鼻の対岸(羽床上字田中浦)には「羽床上大井手」(大井手)と呼ばれる堰があります。これが下流の羽床上、羽床下、小野の3地区の水源となっています。宝永年間(1704~1710年)に土器川の水を引くようになるまで、東大束川流域は、渡池(享保5(1720)年廃池、干拓)を水源としていました。大井手は、綾川から取水するための施設でした。
その支流である岩端川(旧綾川)にも出水が2つあります。
その1つが「水神さん」と呼ばれている水神と刻まれた石碑が立つ羽床下出水です。
この出水は、直線に掘削した出水で、未則用水の取水点になります。末則用水は、岩端川から直接段丘面上の条里型地割へ導水していることから条里成立期の開発だと研究者は考えています。
弥生時代 末則遺跡概念図

上図は、弥生時代の溝SD04と現在の末則用水や北村用水との関係を示したものです。
流路の方向や位置関係から溝SD04は、現在の末則用水の前身に当たる用水路と研究者は考えています。つまり、段丘Ⅰ面の最も標高の高い丘陵裾部に沿って溝を掘って、西側へ潅水する基幹的潅概用水路だったというのです。そうするとSD04は、綾川からの取水用水であったことになり、弥生時代後期の段階で、河川潅概が行われていたことになります。そこで問題になるのが取水源です。
   現在の取水源となっている羽床下出水は、近世に人為的に掘られたものです。考えられるのは綾川からの取水になります。しかし、深さ1mを越えるような河川からの取水は中世になってからというのが一般的な見解です。弥生時代にまで遡る時期とは考えにくいようです。
これに対して、発掘担当者は次のような説を出しています
弥生時代 綾川の簡易堰
写真10は現在、綾川に設けられている井堰です。
これを見ると、河原にころがる礫を50cmほど積み上げて、礫間に野草を詰めた簡単な構造です。大雨が降って大水が流れると、ひとたまりもなく流されるでしょう。しかし、修復は簡単にできます。弥生時代後期の堰も、毎年春の潅漑期なると写真のような簡単な構造の堰を造っていたのではないか、大雨で流されれば積み直していたのではないかと研究者は推測します。こうした簡単な堰で中流河川からの導水が弥生時代後半にはおこなわれていたこと、それが古墳時代や律令時代にも引き継がれていたと研究者は考えています。この丘に眠る古墳の被葬者も、堰を積み直し、用水を維持管理していたリーダーだったのかもしれません。
Ⅳ期 浦山11号・12号墳の北側の丘陵上に立地する白梅古墳
①直径10m前後の円墳で、2基の箱式石棺の双方から鉄刀を出土
②時期を半田する遺物が出土していないが、須恵器や馬具が出ていないのでⅣ期までに編年
V期(5世紀後半)の羽床盆地の特徴は
①大型古墳が姿を消し、直径20m前後の中規模古墳が小地域ごとに成立
②そこに古式群集墳が多く築造され、古墳築造が急激に拡大する。

その他の有力古墳としては、滝宮小学校に隣接する岡の御堂1号・2号墳があります

岡の御堂古墳 羽床盆地
岡の御堂1号・2号墳の説明版

羽床盆地のⅤ期(中期古墳)の代表的な例として「岡の御堂古墳群」を見ておきましょう。
滝宮小学校の移転新築のために1976年に発掘調査され、2、3号墳はなくなりました。埋葬施設が移築保存された1号墳を見ておきましょう。
①径13mの円墳で、幅2,5mの周濠で葺石、円筒・朝顔形埴輪出土
②埋葬部は川原石と板石による箱式石棺が東頭位にあった
③盗掘を受けていたが、鉄刀(長さ107.5cm)、鉄剣3、鉄矛1、鉄鏃25以上、横矧板鋲留式短甲1、轡1、鮫具1、帯金具9以上、鉄鎌1、鋤先2、鉄斧2、刀子2、須恵器・土師器多数を出土。
④5世紀後半の築造。
中期古墳には、武具と鉄製武具が多いことに気がつきます。「武具・馬具」は、鉄を得るために朝鮮半島南部にヤマト連合政権が足がかりを確保しようとして苦労していた時代の特徴とされます。

横矧板鋲留式短甲2

横矧板鋲留式短甲

この時期の短甲は、ヤマト政権が一括大量生産して地方に分与していたものもあります。ここからは以前は次のような説が一般的でした。

高句麗の南下政策に対応するために、国内の豪族が動員され、その功績として威信財としての短甲や馬具が支給された。

しかし、近年の研究からは短甲は「倭系甲冑」として日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもおよんでいたことが分かっています。

韓半島出土の倭系甲冑
朝鮮半島出土の倭系甲冑分布図
倭と伽耶の鎧比較
伽耶と京都宇治二子山の甲冑比較


倭と伽耶のかぶと
左が倭の甲冑、右が伽耶の甲冑
倭と伽耶の武器比較2
左が倭 右が伽耶
ここからは、半島の渡来有力者を列島に招き入れて、各地に「入植」させたということも考えられます。そうだとすれば、羽床盆地の開発者は渡来人であったということになります。

 私が気になるのは、津頭西(蛇塚)古墳から出てきている「銀製垂飾り付き耳飾りの残穴」です。
この時代に、百済の「特産品」である耳飾りが「海の民(倭人)」によって列島にもたらされています。


女木島丸山古墳5

伽耶のイヤリング
朝鮮半島の百済のネックレス

そのひとつが女木島の丸山古墳から出土していることを以前にお話ししました。
女木島丸山古墳4
5世紀の東アジアの海洋交易

内陸部の羽床盆地から百済やヤマト政権で造られた威信財が出てくること、被葬者がそれをどのようにして手に入れたのか考えると、いろいろな想像が浮かんできます。
倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルもあったようです。そして、女木島の丸山古墳の被葬者と羽床盆地のリーダー達は、ネットワークで結ばれていたことになります。ヤマト政権以外にもいろいろな交流チャンネルがあったことを押さえておきます。

5世紀後半の羽床盆地で古墳築造が爆発的に増加するのは、どうしてなのでしょうか?
その背景は、このエリアが馬の飼育に適していたからだと研究者は考えています。羽床盆地東部の綾川町陶には洪積台地が広がっていて、水の便が悪く、大規模な灌漑施設がなかった時代には水田耕作が難しかったようです。そのため古墳時代には森林や森林破壊後の草地が広がる地域だったと研究者は考えています。そのため、5世紀後半頃の羽床盆地では、馬の飼育が盛んに行われるようになります。このエリアから馬具や甲冑をもった有力古墳や古式群集墳を盛んに築造したのも渡来系集団の存在が考えられます。そうした中で、蛇塚古墳は羽床盆地で最も力をもった首長の墓で、岡の御堂1号・2号墳は地域的首長を支える有力構成員であったと研究者は考えています。

 この時期の羽床盆地で形成された群集墳を挙げて見ます。
A 盆地北部に浦山古墳群(3号・4号墳の2基)・滝宮万4古墳群(4基)
B 盆地北西部の羽床に中尾古墳群(5基)
A 盆地北部の三石古墳群(3基)・白石北古墳群(3基)
B 盆地北西部(羽床)の浄覚寺山古墳群(4基)
C 盆地中央部の北側では末則古墳群(7基)
E 盆地奥部の川北1号墳は竪穴式石室をもつことから、この時期に築造された可能性が高い
Ⅵ期 横穴式石室の導入期
綾川流域では河口の雄山に最初の横穴石室を持った古墳が築かれます。それは九州の竪穴系横口式石室の影響を受けて羨道をもたない小規模な横穴式石室です。それに対して、羽床盆地の横穴式石室導入期の本法寺西古墳浦山5号墳は横長の玄室に狭い羨道です。これは両者が異なった地域から影響を受けて横穴式石室を導入したと研究者は考えています。つまり、この時期までは阿野北平野と羽床盆地の勢力は別系統に属していたということになります。

  研究者が注目するのは、羽床盆地のⅥ期の古墳が小規模で、有力古墳が見当たらないことです。
 羽床盆地のⅦ期の特徴を見ておきましょう。
①横穴式石室の築造は羽床盆地全体に広がるが、大型横穴式石室は出現しない
②これまで古墳築造の中心であった盆地北部では古墳築造が減少する。
③それに代わって、古墳築造活発地が盆地北西部の羽床地域に移動する。
 羽床勢力は、平芝2号墳、奥谷1号墳、膳貸1号・2号墳などの横穴式石室をもつ小型古墳を造り続けます。これらの群集墳はいずれも後期群集墳で、羽床地区全体ではこの時期に20基をこす古墳が築造されたと研究者は考えています。
 これに対して、盆地北部では浦山10号墳、小野内聞1号~3号古墳・岡田井古墳群などが築造されていますが十数基程度です。盆地中央部の南側(綾上町牛川・西分)では、梶羽1号・2号墳・小川古墳の3基で横穴式石室が確認されています。また、盆地中央部北側の末則古墳群の近くにある菊楽古墳も横穴式石室をもち、Ⅶ期に属するものとされます。そして、羽床盆地では7世紀前半以後には羽床盆地では古墳は造営されなくなっていきます。そして、終末期の巨石墳や、それに続く古代寺院も建立されません。羽床盆地の勢力は群集墳は造られ続けるが、それをまとめ上げる盟主がいなかったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか?
善通寺・丸亀の古墳編年表

快天塚古墳をスタートとする羽床盆地の勢力推移を整理しておきます

羽床盆地の古墳と綾氏

①盆地北部に快天山古墳(Ⅱ期)→津頭東古墳(Ⅲ・Ⅳ期)→蛇塚古墳(V期)と続く盟主墳の系譜がある。
②中心は盆地北部で、4世紀から5世紀後半には、このエリアの集団が主導的地位を握っていた
③北部集団は、快天塚の被葬者の頃(4世紀中頃)には羽床盆地ばかりでなく、国分寺町域も支配領域に含めていた。
④Ⅴ期(5世紀後半頃)になると、盆地北西部の羽床に浄覚寺山古墳群・中尾古墳群が、盆地中央部の北側に末則古墳群が築造され、古墳築造が拡大し、盆地奥部にも古墳が築造され周辺開発が進んだ。kこの背景には馬の飼育が関係することが考えられる。
⑤Ⅶ期には盆地の各所で横穴式石室の群集墳が築造されるようになった
⑥北部勢力は、その後に大型横穴式石室を築造できずに、6世紀末頃に弱体化した。
⑦代わってⅦ期に主導権を握るようになるのが、北西部の羽床地区の集団である。
⑧羽床の群集墳は密集したものではなく、比較的広い範囲に5基前後のグループが散在したものである
⑨羽床盆地全体に大型横穴式石室の築造がないことと併せて考えると6世紀末頃の羽床盆地では地域権力の集約が行われなかった
⑩その結果、綾川下流の阿野北平野を拠点とする勢力(綾氏)の勢力下に入れられた。

⑩の「地域首長の墳墓とみられる大型横穴式石室の不在」 + ⑨の「坂出地域と比べると、後期群集墳の分布がやや散漫」=阿野北平野南部(坂出市府中周辺)に比べて権力集中が進まず、劣勢の立場で、阿野北平野の勢力(綾氏?)に飲み込まれて行ったと研究者は考えています。

 6世紀末になると、羽床盆地では地域権力が衰退します。そこに進出してくるのが綾氏です。
綾氏は、農業、漁業、製塩に加え、羽床盆地の馬も掌握し、舟だけでなく、馬を用いた交通、軍事を背景に勢力を築いていきます。さらに、陶に豊かな粘土層があるのに気がつくと、そこに中央政権の支持を取り付けて最先端の窯業技術を持つ渡来集団を入植させて須恵器の工業地帯を作り上げます。こうして奈良時代になると綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。つまり、十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。そのプランナーは綾氏だったことになります。陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群であったことを押さえておきます。
須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
奈良時代以前の讃岐の須恵器の市場分布図(十瓶山窯独占化以前)
 
陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。
これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不便なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆われた原野で、燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。
 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得します。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。
 こうして綾氏によって整備された「坂出府中=陶・滝宮」という綾川水運ルートに乗って、後には国司となった菅原道真が滝宮に現れると私は考えています。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは、渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年
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   前回は3世紀後半に前期の前方後円墳を積石塚で造営した坂出周辺の次の3つの勢力を見てきました。そのうちの
①金山勢力(爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳)
②林田勢力(坂出平野北東)
の集団は,5世紀になると前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,小規模古墳しか造れなくなっていることが古墳編年表からも分かります。その背景には、ヤマト政権の介入があったのではないかと考えらることを紹介しました。
 かつては「前方後円墳」祭儀を通じて同盟者であった綾川周辺の首長達の子孫は、ヤマト政権からは遠ざけられ勢力をそぎ取られていったのです。これは西日本においては、よく見られる事のようです。
 さて、かつての首長達に替わって勢力を伸ばす集団が現れます。新興勢力の新たな首長は6世紀後半頃には、前方後円墳の築造をやめて、大型横穴式石室の築造を始めます。これを古墳編年表で確認すると大型横穴式石室を築造した地域は,5世紀後半に有力古墳を築造した地域とは重ならないことが分かります。改めて「勢力交替」が行われたことがうかがえます。新たなリーダーとなった3つの勢力を見ておきましょう
坂出古墳3

  平野南西端部の勢力は、
白砂古墳から新宮古墳まで有力古墳を,4世紀から6世紀にかけて一貫して造り続けています。この集団が最も強い勢力をもち,坂出平野における指導的地位を持っていたと考えて良さそうです。
 平野南西部の勢力は、
4世紀には勢力が弱かったのが、王塚古墳の時期(5世紀後半頃か)以降になって勢力を伸ばし,大型横穴式石室をもつ醍醐古墳群を作り上げます。巨石墳を集中的に築造した6世紀末頃から7世紀前半にかけて大きな力を持っていたようです。
 平野南東端部の勢力は,
弥生時代後期から墳墓を築造していたようですが、4世紀から6世紀中頃までは勢力は強くありませんでした。それが6世紀末になって穴薬師(綾織塚)古墳を築造し,勢力を強化したようです。
坂出古墳編年
 これに対して,平野北東部(雌山周辺)に古墳を築造した集団は、4世紀には積石塚の前方後円墳を築造し勢力を保持していたようですが、5世紀以降になると徐々に勢力を失い、6世紀末以降には弱体化しています。

羽床盆地の古墳
坂出周辺部の羽床盆地と国分寺を見ておきましょう。
羽床盆地では,快天塚古墳を築造した勢力が4世紀から5世紀後半まで盆地の指導的地位を保っていました。この集団は,快天山古墳の圧倒的な規模と内容からみて,4世紀中頃には羽床盆地ばかりでなく,国分寺町域も支配領域に含めていたと研究者は考えているようです。このため国分寺町域では、4世紀前半頃に前方後円墳の六ツ目古墳が造られただけで、その後に続く前方後円墳が現れません。つまり、首長がいない状態なのです。
羽床古墳編年
 その後も羽床盆地北部では、大型横穴式石室が造られることはありませんでした。羽床勢力は6世紀末頃になると勢力が弱体化したことがうかがえます。坂出地域と比較すると,後期群集墳の分布があまり見られないことから、坂出平野南部に比べて権力の集中が進まなかったようです。そして、最終的には坂出平野の勢力に併合されたと研究者は考えているようです。

国分寺の古墳
 国分寺町域は、4世紀前半頃に小さな前方後円墳が築かれますが,先ほど述べたように快天山古墳を代表とする羽床盆地の勢力に併合され,古墳の築造がなくなります。
 以上をまとめると,阿野郡では6世紀末頃には坂出平野南部に大型横穴式石室を築造した三つの集団が勢力をもち、全域を支配領域としていたと研究者は考えているようです。注目しておきたいのは、これはヤマト政権における蘇我氏の台頭と権力掌握という時期と重なり合うことです。
綾川周辺の三つの集団は,7世紀中頃以降になると古墳を造ることをやめて,氏寺の建立を始めます。
平野南西端部に古墳を築造した集団は7世紀中頃に開法寺
南西部に古墳を築造した集団は7世紀末頃に醍醐廃寺
南東端部に古墳を築造した集団は7世紀後半に鴨廃寺
この三つの寺院は奈良時代にも存続していますから奈良時代にも勢力をもっていたことが分かります。
れでは綾川周辺に巨石墳を造り、氏寺を建立する古代豪族とは何者でしょうか?
  文献史料見る限りに,7世紀後半から8世紀以降の阿野郡の有力氏族としては綾公しかいません。
  これについては
  ①三つの集団はそれぞれ別の氏族であったが,その中の一つの氏族だけが残ったとする解釈
  ②三つの集団を総称して綾氏と呼んでいた
 の2つが考えられます。
 三つの集団のそれぞれが建立した開法寺,醍開醐廃寺,鴨廃寺については綾南町陶窯跡群で瓦が一括生産され,各寺院に配布されています。このことは,綾南町陶窯跡群の経営管理権を,これら3寺院を建立した集団が持っていたことがうかがえます。
 また、この三つの集団は綾川周辺の約3km四方ほどの狭い地域に近接して古墳群(墓域)を営んでいました。坂出平野の中で近接して居住していたため,日常的に密接な交流があったことがうかがえます。そうした関係を背景にしておそらくは婚姻関係を通じて,綾氏として一つの擬似的な氏族関係を作り上げていたと考えられます。6世紀末頃になると綾氏は羽床盆地,国分寺地域へも勢力を拡大し,その領域が律令時代に阿野郡と呼ばれるようになったというストーリーが描けそうです。
   以上のように、綾氏は坂出平野南西端部(新宮古墳)に古墳を築造した集団を中心として,平野南部に三つの古墳群を築造した集団からなり,古墳時代初期まで系譜をたどることができることになります。さらに,平野東南端部の方形周溝墓は,弥生時代後期まで系譜が遡る可能性もあります。そうだとすれば,綾氏は古墳時代のある段階に外部から移住してきた氏族ではなく,この地域で成長した氏族だといえます。
 綾川河口の綾氏の成長を古墳から見てきました。
ここまでやって来て気づくことは善通寺の佐伯氏との共通する点が多いことです。佐伯氏も中村廃寺と善通寺のふたつの氏寺を建築しています。接近して建立されたふたつの古代寺院は謎とされますが、佐伯氏という氏族の中の「本家と分家」と考えることも出来そうです。同じく時期的に隣接する王墓山古墳と菊塚古墳の関係も、佐伯氏の中の構成問題とも考えることもできます。

こうして、綾川流域を支配下に治めた綾氏は大束川河口から鵜足郡方面への進出を行い、飯野山周辺へも勢力を伸ばしていくことになります。同時に、讃岐への国府設置問題においても地理的な優位性を背景に、自分の勢力圏内に誘致をおこない、讃岐の地方政治の指導権を握ったのかもしれません。さらに、白村江敗北後の軍事的緊張の中で造営された城山城建設にも中心として関わっていたかもしれません。そのような功績を通じて綾川上流に最新のテクノロジーをもつ須恵器・瓦の大工場を誘致し、その管理・運営を通じてテクノラートへの道も切り開き、在郷官人としても活躍することになります。
 そして、平安末期からは武士化するものも現れ、讃岐最大の武士団へと成長していきます。それが香西・福家・羽床など一門は、出自は綾氏と信じられていたのです。そこに「綾氏系譜」が作られ、神櫛王伝説が創作され、一門の団結を図っていこうとしたのでしょう。どちらにしても綾氏は古代から中世まで、阿野郡や鵜足郡で長い期間にわたって活躍し一族のようです。
参考文献
渡部 明夫      考古学からみた古代の綾氏(1)    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


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