瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝の師真雅は時の権力者である藤原良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめました。それは弟子の聖宝からは「天皇家専属の護摩祈祷師」のように見えたこと、それが聖宝と真雅の歩む道を次第に遠ざけていったことを前回は見てきました。
 そのような中で貞観十三年(871)、応天門が再建された年に、四十歳になった聖宝は、師の真雅から無量寿法を受学しています。真言密教をより深めていくと同時に、山林修行の道も極めようとします。顕教と密教を研究し、ふたつを包み込んで実践する道をえらんだのでしょう。聖宝は、行動する人でした。
研究者は聖宝を次のように評します。
  「貴族社会に進出し、有力な貴族の援助のもとにつぎつぎと建立する大寺院の中に真言宗の勢力を扶植して真雅のような道を行くのではなく、そうした方向に批判を感じながら、山林料藪の修行を重ね、日本の土着の信仰と仏教との関係の中に新しいものを摸索しっづけた」(大隅和雄『聖宝理源大師』)。

 このころの聖宝は、山林修行に活動の場を求めつづけ、諸方の山々を縦横に歩きまわっていたようです。そして真雅との距離を保つためにも、聖宝は新たな自分の活動拠点を創り出す必要に迫られていました。そうしたなかで捜しあてた地が、山城の宇治郡の笠取山(京都市伏見区醍醐)でした。
岩間山から東海自然歩道で宇治へ 岩間寺は西国三十三観音霊場 十二番札所(大津市石山千町)です。 2016・2・17  先週、千頭岳へ登った時、岩間山への分岐で石山寺へ下山してしまったので少し気になっていました。この日の朝、なんとなく岩間寺 ...

今回は、どうして聖宝がこの山を選んだのか、そこで何を行おうとしていたのかを見ていくことにします。

  テキストは 参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館です。

笠取山は高さ370mほどの醍醐山地の一山で、北に485mの高塚山、南に251mの天下峯が連なります。
そのありさまを『醍醐寺要書』は弟子の観賢の言葉をは、次のように引用しています。
適々(たまたま)、貞観の末を以て此の峰(笠取山)に攀じ昇り、欣然として故郷に帰るが如し。黙示として精舎を建てんことを思ふ。樹下の草を採り奄居を結成し、石上の苔を払ひ尊像を安置す。

これが醍醐寺創建の端緒のようです。
理源大師 醍醐寺発祥の地 醍醐水
醍醐寺発祥の地 醍醐水

『醍醐寺縁起』には、聖宝が醍醐寺を開創するまでの経緯が記されています。その書きだしの部分を意訳してみましょう。
聖宝は、諸名山を遍歴し、仏法の久住の地を求めていた。たまたま普明寺において七日間、仏法相応の霊地を祈念していたところ、その祈請に答えて、五色の雲が笠取山の峯にたなびくのを見た。聖宝は、この峯に登つて、このうえなく喜び、あたかも故郷に帰ったかのようであった。物も言わないで、ただ精舎を建てようとしたのである。そうすると谷あいに一人の老翁がいて、泉の水を嘗めて、醍醐味であると褒めたたえた。
 聖宝は、その老翁に、
「ここに精舎を建てて、仏法を弘めたいのだが、永く久住の地となるかどうか」

と訊ねた。老翁は、
「この山は、むかし仏が修行したところで、諸天が仏を護衛し、仏が遊行なさったところであり、名神のおられたところである。如意宝生の嶺、功徳の集まる林、法燈がつづいて、龍幸の開くに及び、僧侶は絶えず鶏足山に弥勒かあらわねる時に至るのである。
 私はこの山の地主神(横尾明神)である。この山を永く和尚に献ずるが、仏法を弘め、広く人びとを救うために、わたしは、ともにお護りしたい」
と答え、たちまち見えなくなってしまった。梢に飛び交う鳥が三宝を唱え、聖宝は、感涙にむせぶばかりであった。

聖宝の前に現れた地主神(横尾明神)については、『醍醐雑事記』巻第二に、次のように記されています。
「横尾明神、往古の本所は薬師堂の跡と云々。御願の勝地に立つ可き為るに依り、尊師(聖宝)、今の横尾に勧請し奉らると云々。本は地主明神と申すと云々」

ここからはもともとが「地主明神」で後世になって「横尾明神」と呼ばれるようになったことが分かります。
東海自然歩道放浪記

聖宝が笠取山の地に「醍醐水の霊泉」を見つけ、そこに草庵を設けるようになった理由は何なのでしょうか。
 第一に考えられることは、笠取山周辺は聖宝にとって通い慣れた地であった研究者は次のように指摘します。
 つまり聖宝が奈良・東大寺に遊学していたころ、近江の国の石山寺は東大寺の末寺で修練の道場でした。そのためこの間を何度も行き来して、その間に山中の踏査を行なったのであろうというのです。
 また笠取山は、山城、近江、大和への道の要衝であって、笠取山の西麓を南北に走る道は、この時代の京都と奈良を結ぶ主要な道でもありました。東山から山科に入り、勧修寺、小野、下醍醐、日野、六地蔵と山麓の隈を抜けて宇治に抜ける道を見おろす地点に笠取山はあります。さらに、笠取山の山頂から尾根伝いに東に進めば、石山を経て琵琶湖の南岸に至り、山頂から南へ山伝いに行けば宇治に至るようです。笠取山を通る尾根伝いの道は、山林修行の行者道でもあったと研究者は考えているようです。
 笠取山の山頂に草庵を構えた聖宝は、貞観十六年(874)六月一日に、准胆(じゅんでい)・如意輪のふたつの観音像を造像するための木材を、みずから斧を手にして切り出したと云います
 聖宝と宇治の宮道氏             
  新たに寺院を建立するには経費が必要です。つまり保護者や支援者がいなければできることではないのです。聖宝の背後にいた人物は誰なのでしょうか。聖宝の支援者は、都の皇族や貴族でなく、山城の国宇治郡の大領であった宮道弥益だったと研究者は考えているようです。
  正史の記すところによると、宮道弥益は朝臣の姓をもち、聖宝が笠取山に堂舎を建立した翌年の貞観十九年(877)、正月に漏刻博士の任についています。そして外従五位下から従五位下に昇っています(『三代実録』元慶九年正月三日乙亥条)。
理源大師 宮道氏と醍醐天皇

 
 宮道弥益は、その後に醍醐天皇の外曾祖父になる人物でもあるようです。
弥益と醍醐天皇が誕生されるまでのいきさつは『今昔物語集』巻第二十二の第七「高藤の内 鴨大臣の語」に詳しく物語られています。長くなるのでここでは触れませんが、後の醍醐天皇との結びつきがこのあたりから見えてきます。宮道弥益の勢力下にあったのは、現在の下醍醐の一帯であったようです。
聖宝が笠取山に醍醐寺を創建した大きな理由を、研究者は次のように指摘します。
「聖宝が笠取山を開き、醍醐寺が醍醐天皇の勅願寺となったことの背景に、宮道氏の存在があったこと」
「聖宝が笠取山に入って山上に堂を建てる際に力を貸したのがこの宮道氏であった」 (大隅和雄『聖宝理源大師」参照)
以上をまとめておくと、聖宝が上醍醐の笠取山に醍醐寺を開いたのは、次の2点が考えられるようです。
①山林修行の中で適地だと考えていたから
②支援者の宮道弥益のテリトリーであったから
聖宝は、この寺院をどんな性格の宗教施設にしようとしていたのでしょうか。
それは本堂に安置されたふたつの観音さまからうかがうことができるようです。それは 准抵(じゅんでい)観音と如意輪観音です。こののふたつの観音さまを安置する堂舎が笠取山の山上に姿を現したのは、貞観十八年(876)六月十八日のことでした。
准胝観音 - Wikipedia

その堂舎が准胝堂で、三間四面の檜皮葺でした。ここに安置された観音さまは今までの観音さまとは違っていたようです。これは聖宝が創り出したニュータイプの観音たちで、彼独自の信仰を表現したものとされます。
京都の仏像その3 醍醐寺 | 京都大好き隆ちゃん - 楽天ブログ

准胝観音は、当時の「円珍入唐求法日録」などの経典で仏母(准瓜仏母、七倶抵仏母)とされる観音さまです。
この観音の効験については、経典では次のように説かれていました
「准胝陀羅尼を誦すれば、薄福無善根の人々も、仏の教えを受けて真実の悟りに達することができ、聡明になり、湖善不善をよく知るようになり、悪と戦う争いには勝っことができ、夫婦は敬愛し、愛し合わなかった夫婦も制愛を得て子を生み、望みの子が与え婿られ、諸病は治癒して長寿を得、降雨などの祈りに効験がある」

不思議体験日記(京都 醍醐寺展~真言密教の宇宙~ 仏様たちからの心暖まる慈愛のメッセージ 1) |  菊水千鳳の不思議体験日記~神仏の声を聴いて、人と神仏との橋渡し役をさせていただいております。視えない世界をご紹介しています。

 一方、如意輪観音の効験については、『如意輪陀羅尼経』で次のように説かれています。
「一切の衆生の苦を救い、すべて福を求める事業において意の如く成就させる」
「世間の願、つまり富貴、資財、勢力、威徳などをすべて成就させるとともに、出世間の願、つまり福徳、慧解、資糧などをととのえて慈悲の心を増大させて人々を救うことを成就させる力がこめられている」
「如意輪観音を深く信仰し、如意輪陀羅尼を念誦する者は、珍宝を授けられ、延寿、宇宙宙や心の災を除き、安心・治病を得、鬼賊の難を免かれる」

聖宝の造立した如意輪観音像は、現在は残っていませんが、六腎の尊像だったと研究者は考えているようです。
醍醐寺 如意輪観音坐像 - はんなりマンゴー
 
『醍醐寺縁起』には、聖宝の如意輪観音像について、次のような伝説が記されています。
 聖宝が如意輪観音像を准抵堂に奉安しようとしたところ、その尊像は、みずから東の峯に登って、石上の苔がはびこっている所に座していた。そこで聖宝は堂を建て、崇重にあつかい昼夜にわたって行じつづけた。すると如意輪観音は、聖宝に 

「この山は補陀落山であり観音菩薩が住む山である。この道場は、補陀落山の中心であって、金剛宝葉石があり、自分は、この上に座って十方世界を観照し、昼も夜も、いつも衆生の苦しみを抜き去り、楽しみをあたえているのだ」

と語ったと伝えられます。
この伝説からは、聖宝がとくに如意輪観音を信仰の中心に置いたのは、衆生救済のためであったと研究者は考えているようです。
理源大師 准胝堂跡
准胝堂跡 落雷により焼失
   聖宝が笠取山(醍醐山)に今までにない二つの観音さまを安置する安置する堂舎を完成させたのは貞観十八年(876)でした。
この年の11月に、清和天皇は位を皇太子貞明親王に譲っています。その時、右大臣の藤原基経は、九歳の新天皇陽成を補佐するために摂政となります。
 清和天皇の譲位の詔は次のように述べます。
君臨漸久しく、年月改る随に、熱き病頻に発り、御体疲弱して、朝政聴くに堪へず。加以、比年の間、災異繁く見れて、天の下寧きことなし。此を思ふ毎に、憂へ傷み弥 甚し。是を以て此の位を脱展りて御病を治め賜ひ、国家の災害をも鎮め息めむと念し行すこと年久しくなりぬ。(『三代実録』貞観十八年十一月二十九日千宙
条)
   ここからは、清和天皇の譲位の理由が、自身の病気と国家の災異・災害にあったことが分かります。清和天皇はこの時にまだ27歳です。それでも退かなければならないところへ追い詰められてとも考えられます。この背景には、4月10日の大火があります。大極殿から出た火は、小安殿、蒼龍・白虎の両楼、延休堂、および北門(照虜門)、北東西三面の廊百余間に延焼し、数日にわたって燃えつづけます。清和天皇をはじめとして、すべての人びとは、先の応天門の変という忌まわしい事件が思い浮かんだでしょう。
理源大師 如意輪堂(重文)
如意輪堂(重文) 准胝堂と共に最初に建てられた建物とされます

一方聖宝の師真雅は、どのような動きを見せていたのでしょうか 
  
 聖宝が上醍醐に堂舎を完成させる2年前の貞観16年2月23日、真雅は絶頂の極みにいました。貞観寺に道場が新しくできたのを祝って大斎会(だいさいえ)が設けられたのです。その催しのさまは、「三代実録』貞観十六年二月のように記されています。
「荘厳、幡蓋灌頂等の飾、微妙希有にして、人の日精を奪ひ、親王公卿、百官畢く集ひ、京畿の士女、観る者填喧(みちあふれる)しき」

 この時の真雅の誇らしげな顔貌は、際立って人びとの目に映ったのかもしれません。ところが大斎会が終ってから三カ月余り経ったころから真雅は、病気勝ちとなり、肉体の衰えを感じたのか、しきりに僧正の地位からおりることを申しでるようになります。しかし、 その辞任は認められないまま亡くなっていくのです。
 真雅の死と共に、聖宝には今まで考えられなかったような道が開けてくることになります。

理源大師 願堂として創建された「五大堂」
醍醐天皇の御願堂「五大堂」 真ん中が聖宝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 佐伯有清 聖宝の笠取山開山 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館



理源1
左から観賢僧正、理源大師、神変大菩薩像(役行者) 上醍醐

前回は聖宝(理源大師)が、空海の弟真雅に入門し、奈良の東大寺で次のような師からいくつもの宗派について学んだことを見てきました
①三論宗を元興寺の願暁と円宗に
②法相宗を東大寺の平仁に
③華厳宗を同寺の玄永(玄栄)に
④真蔵のもとで律宗を
もちろん師である真雅からは密教も学んだでしょう。聖宝の南都奈良での修学が何年までのことかは分かりません。南都での修学を終えて都に帰ってきた年代を確定することはできませんが、聖宝20歳の半ば、すなわち斉衡三年(856)頃としておきましょう。これは空海没後約20年後のことになります。
理源6
八経ケ岳の聖宝像

この時期から聖宝は、山林修行をすでに行っていた形跡があるようです。
 聖宝が師真雅の犬をめぐって怒りを受けて破門同然になり、四国へ巡錫の旅に出たり、乞食の行をしたりしたという説話があります。これも、聖宝の山林修行が反映していると研究者は考えているようです。
聖宝の山林修行については、『醍醐寺要書』の延喜十三年(913)十月二十五日付の「太政官符」に引用されている観賢の奏状に、次のように記されています。
先師(聖宝)、音、飛錫を振つて、遍く名山に遊び、翠嵐、衣を吹きて、何れの巖を踏まず、白雲、首を払めて、何れの岨を探らざるはなし。然らば則ち徒、遁世長往のい収を側めんとす
意訳変換しておくと
聖宝は、むかし錫杖を手にして、数多くの霊山・高山を遊行・修行した。緑の山の気が、衣を動かし、いずれの大きな岩(巨石信仰)を踏まないことがなく、白い雲が頭をかすめて、いずれの山の洞穴を探らないことはなかった。こうしてただ、山林に隠遁し、修行を行う場所をさだめようとした。

とあります。ここからは、聖宝が霊山の行場で、岩籠もりして、巨石や霊石に座して山林修行を行ったことが分かります。
理源5

それでは、聖宝が修行の霊山として選んだのはどこだったのでしょうか?
 聖宝が修行の地としたのは吉野の山々だったようです。
善無畏三蔵(637~735)が訳出した『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』一巻の所説にもとづく虚空蔵求聞持法という行法があります。この行法の分別処法には、空閑静処・浄室・塔廟・山頂・樹下の場所を選ぶという条件があげられていて、山林修行を一つの重要な行法としています。これを実践したのが若き日の沙門空海でした。
空海は「三教指帰」の序文で次のように記します。
爰(ここ)に一の沙門有り。余に虚空蔵聞持の法を呈す。……
ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて飛焔を鑽燧に望む(精進努力し、道を求めてやまない)。阿国大瀧嶽に踏り攀ぢ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星来影す(修行につとめた結果、虚空蔵菩薩の応化があった)。

ここからは、空海が虚空蔵求聞持法にもとづいて阿波の国の大瀧嶽(徳島県太龍寺)や土佐の国の室戸岬(高知県室戸市)で山林修行をし、虚空蔵菩薩の応化をえたことを語っています。空海が求聞持法を行ったことは、その弟子たちにもつながっていたと研究者は考えているようです。
 以前にお話ししましたが、空海に虚空蔵求聞持法を教えた「一の沙門」は、大安寺三論宗の碩学勤操とされてきました。しかし、今では勤操説に疑いをかける研究者が増えているようです。ただ、勤操と空海とのあいだに師弟関係がなくても、両者は親密な間柄であったことはうかがえます。入唐して、虚空蔵求聞持法をももたらした道慈から善議へ、そして善議から勤操へと伝えられた同法の影響を空海が受けたとしておきましょう。聖宝は空海の高弟真雅のもとで、出家したのですから空海が持っていた虚空蔵求聞持法の行法の流れのなかにいたことになります。
 元興寺法相宗の大成者とされる護命(750~834)は、空海と同時代人です。彼は吉野山に入って苦行した学僧ですが、次のような事を実践していたと記されています。
「月の上半は深山に入り、虚空蔵法を修し、下半は本寺(元興寺)にありて、宗旨を研鑽」

彼が入った「深山」とは吉野山の現光寺とされます。そこで、月の半分は虚空蔵法(山林修行)を行い、残りの半分は元興寺で修学していたようです。ここからは、 元興寺の法相宗唯識では、学僧のあいだに虚空蔵求聞持法の行法が伝えられ、法相を学んだ願暁にも、その行法の知識が受けつがれ、実践されていたようです。この時代には、山林修行と修学が一体と考えられるようになっていたことがうかがえます。そのような機運の中で、讃岐の中寺廃寺のような山岳寺院が各地に建立されていくことになるようです。
 そのような中で、いろいろな宗派に関心を持った若き聖宝も虚空蔵求聞持法を実践するようになり、霊山に入るようになったとしておきましょう。

聖宝の山林修行で、もっとも有名なのは金峯山への入峯です。
その中で最も信憑性のある『醍醐根本僧正略伝』には、次のように記されています。
「金峯山に堂を建て、並に居高六尺の金色如意輪観音、並びに彩色一丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造る。……
金峯山の要路、吉野河の辺に船を設け、渡子、倍丁六人を申し置けり」

ここからは聖宝の業績として次のようなことが記されています。
①金峯山における堂舎の建立、造像
②金峯山への要路である吉野川の渡船の設置と船頭、人夫の配備
しかし、これは聖宝が南都奈良で学んでいた若い頃のことではないようです。研究者は次のように指摘します。
「そうした活動が可能で、しかも実際に山岳を跛渉して激しい修行を続けることができた年齢を考慮す」              (大隅和雄「聖宝理源大師』)

聖宝の宗教的活動が、かなり熟していた時期のことだというのです。

金峯山は大峰山(山上が嶽 標高1720m)を盟主とする連山の総称です。
聖宝が金峯山に入峯したことを伝えるもっとも古い伝説は『諸山縁起』です。この書には聖宝は念怒月緊菩薩の峯に二部経(『無量義経』『法華経』『観音賢経』の法華の二部か)と天台大師智顎の『摩訂止観』などを埋納し、醍醐天皇の使いとなって天皇震筆の『法華経』を般若菩薩波羅蜜の峯に安置したと記します。天皇の使いとして、金峯山の峯のに経塚を作り納経したというのです。
 これに対して研究者は次のように指摘します。
『醍醐根本僧正略伝』以外に金峰山における聖宝の修行を語るものは、すべてが伝説である」 (大隅和雄「聖宝理源大師』)

その根拠を見てみましょう。
聖地に残る怖い信仰(5)(金峯山寺と大峰山) - 慶喜

金峯山での埋経は、寛弘四年(1004)八月に入峯した藤原道長の事績がよく知られています。
 寛弘四年(1004)8月11日に、大峯山に登った藤原道真は、前年に書写した『妙法蓮華経』をはじめ、あらたに書写した『弥勒経』三巻、『阿弥陀経』一巻などあわせて十五巻を銅筐に納めて埋め、その上に金銅燈楼を立て、常燈を奉った(『御堂関白記』寛弘四年八月十一日条裏書、金峯山出土「経筒銘」参照)とされます。その経筒が金峯山経塚遺跡から出土していて、遺物と記録とが一致します。道長の埋経が確認できます。出土した銅筐の銘文には、次のように記されています。
「先年、書き奉り資参せんと欲するの間、世間病悩の事に依りて、願ひと違ふ」

 金峯山などへの埋経は、この時に初めて道長が行なったものではなく、すでに埋経の風習はあったようです。しかし、9世紀の聖宝の時代には「経塚」が普及していません。埋経が盛んに行われるのは、11世紀の後半から12世紀になってからのことです。聖宝の金峯山への埋経も、そのころから語られだした伝説であって、事実を物語るものではないと研究者は考えているようです。

聖宝は「強力」だったという伝説が金峯山には伝えられてます
 もっとも古いものは『東大寺要録』諸院章第四、三面僧房に次のように記されています。
「件の房、椚の下に赤石一丈ばかりを埋む。僧正(聖宝)、金峯山従り脇に爽み持ち来れりと」
意訳変換すると
「この房の椚の下に赤石が一丈ほど埋まっていた。これは僧正(聖宝)が金峯山から脇に抱えて持ち帰ってきたものである」

十三世紀後半に書写された『尊師御一期日記』の「私に云はく」には
「嶽獄(金峯山)従りして自ら大石を持ち来り、斯を履脱の所と為す。即ち今にいたる迄、之に有り。其の力、等倫(同じ仲間)には無し。事已に以て顕然たるものか」
意訳変換しておくと
「金峯山から大石を持ち来り、これが現在の靴脱ぎ場の大石である。聖宝の力は、同じ仲間にはない。飛び抜けた力を持ていたことが分かる」

というかたちで伝えられます。
さらに時代を下った14世紀前半の『元亨釈書』になると、
庭上に巌石有り。世に日ふ、宝(聖宝)、金峯山従り負ひ来れりと。而して其の大なること人の力の耐する所に非ざるなり。宝、修練を好み、名山霊地を経歴す。金峯の瞼径、役君の後、榛塞ぎて行く路無し。宝、葛苗呻を撥ひて踏み開く。是れ自り苦行の者、相ひ継ぎて絶えず。
意訳変換すると
庭に巌石がある。これが宝(聖宝)が金峯山から背負って持ち帰った伝えられる石である。その大きさは人の力で動かせるものではない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴した。。金峯の険しく危険な小径は、役行者の後は廃絶されて路もなくなっていた。これを聖宝は再び踏み開いた。こうして、苦行の者(修験者)は、再び多くのものがこの道を辿って修行を行うようになった。

という話に「成長」して、聖宝の強力伝説となって、ひろく世に伝えられます。同時に聖宝は、役小角ののちに絶えていた金峯山への入峯を開いた人物として人びとのあいだで信じられることになります。なかでも修験者から聖宝は、「金峯山修験道再興の祖」として崇められるになります。
理源大師 (江戸後期)
聖宝(江戸時代)
修験者は、霊山などで修行することによって超自然的な力を獲得した者のことです。
聖宝が金峯山から大きな巌石を持ってきたという強力伝説も、聖宝を修験者とみなすことから生まれた伝説でしょう。そして、聖宝が厳しい修行の末に、超自然的な験力を持っていたと信じられていたことがうかがえます。ある伝記には、聖宝が一日で醍醐を出て、大峯山の蔵王堂に参詣し、ついで東大寺に立ち寄り、正午には醍醐寺に帰って勤行をしたと記します。これは聖宝は、醍醐寺から山上(大峯山)へ日参修行していたことになります。まさにスーパーマンです。

理源4

『真言伝』は、栄海が正中二年(1325)ごろに撰述したものです。
その聖宝の伝には、次のように記されています。
「凡ソ幼少ヨリ斗藪ヲ業トシテ大峯等ノ名山霊地経行セズト云事ナシ」
「又、大峯ハ役行者、霊地ヲ行ヒ顕シ給シ後、毒蛇多ク其道ヲフサギテ参詣スル人ナシ。然ルヲ僧正、毒蛇ヲ去ケテ山門ヲ開ク。ソレヨリ以来斗藪ノ行者相続テ絶ル事無シ」
意訳変換しておくと
「聖宝は幼少の頃から、山林修行を行っており、大峯などの名山霊地を遍歴していた」
「また、大峯は役行者が開いた霊地であるが、その後毒蛇が多く、この道を塞ぎ参詣する行者は途絶えていた。そこで聖宝は、毒蛇を退散させて山門を再び開いた。以後、山林行者も絶えることなく訪れるようになった
ここに初めて、聖宝の大峯山での大蛇退治に関する有名な伝説が登場します。
この大蛇退治の話は、承平七年(九二七)九月に書かれた『醍醐根本僧正略伝』にはないので、後世になって付け足された伝説のようです。
 正安元年(1299))四月に定誉によって『醍醐寺縁起』が書写されたころに金峯山での大蛇退治伝説が付け加えられたとすれば、その伝説の成立は、13世紀末期のことになります。前回に大蛇退治伝説は、東大寺の住房での大蛇伝説に影響を受けて成立したものであるとしましたが、それと合致するようです。

最後に聖宝伝説がどのようにして生まれてくるのか、大蛇退治伝説で見ていくことにします。
金峯山には、素材となる話が「人に危害を加える竜の話」として10世紀前半にあったようです。まず、これを語ったのが聖宝の門弟・貞崇であることを押さえておきたいと思います。その話は、醍醐天皇の皇子重明親王の日記である『吏部王記』の承平二年(932)二月十四日条にありましたが、今は伝わっていません。しかし、逸文が九条家本『諸山縁起』と『古今著聞集』にあって、次のように記されています。
 古老が伝えている話によると、昔、中国に金峯山という山があって、金剛蔵王菩薩がそこに住んでいた。ところが、その山は飛び去って大海を越えて日本に移ってきた。それが吉野の金峯山である。山に捨身の谷があって、阿古谷(あこだに)といわれ、 一頭八身の竜がいた。
 昔、本元興寺の僧のもとに童子がいて、阿古と名づけられていた。幼少なのに聡明であったので、得度を受ける前に行なわれる試験の時に、師は阿古に身代わり受験させる。合格すると、かわりに他人を得度させてしまうことが三度ほどあった。阿古は恨み怒って、この谷に身を投げ、竜となった。師は阿古が投身したことを聞き、驚き悲しんで谷に行って見ると、阿古は、すでに竜に化していて、頭はなお人の顔をしており、走ってきて師を害しようとした。その時、金剛蔵王菩薩の冥護があって、石を崩して竜を押しつけてしまったので、師は害をのがれた。
 貞観年中(859)に観海法師が竜を見ようとして、その谷に行ってみると、夢に竜があらわれて、翌朝お目にかかりたいと頼んだのであった。夜明けごろになると、雲が湧き起こり、雹が降ってきて、竜が首をあげるのを見ると、高さは二丈ばかりで、一頭八身であった。
 観海は竜に祈って、「八部の『法華経』を写し奉って、汝の苦を救いたいから、私を害しないでくれ」と言った。竜は、なお毒気を吐きつづけたので、害が観海の身におよぼうとした。観海は、大いに恐れ、心神が迷い惑った。そこで金剛蔵王菩薩に帰命して、『法華経』を写すことを願った。すると雲霧が立ちこめて暗くなり、竜のいるところが見えなくなってしまった。
 しばらくして雲霧が晴れると、たちまち菩薩の御座します所に至った。観海は祈感して願いのように経を写し、これを供養しようと善祐法師を請じて、講師とした。善祐法師は、それを固辞した。夢に菩薩が告げて、「我は今、汝を請じるのだ。あまり固辞するな。すべからく『法華経』方便品まで漢音で読まなければならぬ」と言った。善祐は感じ悟って起請し、菩薩が告げたとおりにした。『法華経』の第二品である方便品に至るころになって、大風が経をひるがえして、経典の飛び去った所がわからなくなってしまった。したがって、八部の『法華経』は、現に、その一巻が欠けているのである。
この説話からは、十世紀の前半以前に、すでに金峯山には竜が住んでいた話があったことが分かります。
物語は、そして人を害する竜に化身した阿古という童子の悲しい物語です。そのなかで活躍するのが僧観海法師です。この人物は、聖宝の同時代人として、実在の人物だったことが他史料から分かります。
  観海のことは、それ以外には分かりませんが、「状況証拠」から真言密教系の僧で、金峯山で山林修行をして、金剛蔵王菩薩に帰依していたのでしょう。修験者としても有名だったので世に伝わっていたのでしょう。これを親王に語ったのが聖宝の門弟の貞崇なのです。
 ここから研究者は次のように推察します
①吉野の鳥栖に住んだ貞崇が親王に観海のこととして語った話だった
②貞観年間に阿古谷の竜の障害を止めさせた観海が、聖宝であるかのように受けとられた
③この時期は、聖宝が南都で修行中の時期でもある。
つまり、「観海=聖宝」と「株取り」「接ぎ木」されたと指摘します。 たしかに『理源大師是録』に引用されている『源運僧都記』には、次のように記されています。
金峯山は、聖宝僧正以前は 一切参詣人なし。その故は、大蛇ありて参詣すれば、悉く是を嗽食(たんしょく)す。尊師彼山に参詣し玉ふに、蛇是を悦びて尊師を嗽食せんとす。
尊師蛇尾を踏玉ふに、起んとすれども、強力に踏付られて起事能はず。尊師蛇に宣し含め仰せらるゝは、永く遠く此御山を去るべし。若猶来らば命根を断べし。如此降伏して後、阿古谷に追ひ入給ひ畢云々
意訳変換しておくと
金峯山は、聖宝がやって来る前までは、一切参詣人はいなかった。それは大蛇がいて、参拝人を嗽食(たんしょく)したからだ。聖宝が参詣すると、蛇は悦んでこれを取って食おうとした。聖宝は蛇の尾を踏んだ。蛇は起きようとするが、強力に踏付られて起きられない。聖宝は、蛇に次のように言い含めた。「この金峯山から去るべし。もし、この山に近づけば命根を絶つ。」
 こうして大蛇を退治して行場に入って行かれた。

ここでは蛇退治の主役は観海でなく、聖宝にすり替えられています。
ただ入峯した人を食らうのは、竜ではなく大蛇です。大蛇が竜にとってかわるのは、聖宝に理源大師の論号が贈られた宝永四年(1707)正月前後のころからです。
理源の龍退治

その翌年に刊行された雲雅の『理源大師行実記』には次のように記されています。
悪竜、威ヲ和(やまと)ノ金峯山二檀(ほしいまま)ニシテ、毒ヲ吐(はき)人ヲ害スルフモツテ、斗撤(とそう)ノ行者、峯二入ルコト能ズ、修験ノ一道、既二断絶ニヲヨブガユヘニ、此災アリト云云。コレニヨツテ、上皇師二詔シテ而モ衣裳宝剣ヲ賜り、用テ竜ヲ伏シ、道フ開シム。
 師、勅命ヲ奉テ剣ヲ侃ビ、錫ヲ持チ、芳野二発向シ、径(ただち)二金峯二今り、安居谷(あこたに)ニ至テ、遙二コレノ観察スルニ 幸ヒナルカナ毒龍首ヲ南ニシテ障臥ス。師、右手に独古(独鈷)ヲ持、左手二錫杖ヲ付いて,僅カニ其尾ヲ踏メ、竜大二古痛シ鬣(たてがみ)ヲ揺シ、鱗ヲ振ヒ、頭ヲ撃(ささ)ゲ身ヲ煩(もだえ)へ後ヘニ顧ミ、前二躍テ山谷二宛転(えんてん)シテ毒ヲ吐コト尤劇(はなはだ)シ。
 師、燿怖(くふ)シ玉フコト無シテ、印ヲ結ビ明ヲ誦シテ、遂ニコレヲ降伏シテ、即上皇賜トコロノ宝剣ヲ以テ其鱗爪ヲ抜採コト三枚、時ニ竜首ヲ低(た)レ救ヒヲ求ム、憐ンデタメニ法ヲ授ケ、帰戒ヲ受シメテ、以テ他処二永ク移シ、霞ヲ喰ヒ、雲二臥ルノ輩ヲシテ悩害アルコト無ラシム。
ここには次のようなことが記されています。
①金峯山の悪龍のために修験者たちが参拝できなくなっていたこと
②悪龍退治のために上皇は、衣装と宝剣を聖宝に授け勅命を与えたこと
③安居谷=阿古谷(あこたに)で龍を退治したこと
④上皇から与えられた宝剣で悪龍の鱗を3枚採集したこと
これが現在に伝わる聖宝の悪龍退治のモデルになったようです。この原型は、貞崇が重明親王に語った金峯山の竜伝説を下敷きにして、登場人物を聖宝に置き換える「接ぎ木」が行われていることがうかがえます。しかも、悪龍退治は上皇による勅命であったと権威付けが行われます。 
 その背景には、聖宝が「修験道中興の祖」として、当山派の修験者たちの信仰対象となっていたからでしょう。こうして、いくつもの聖宝伝説が、当山派山伏たちによって創作されていくことになります。それは弘法大師伝説を彷彿させるものです。しかし、違う視点から見れば、それほど聖宝(理源大師)が庶民信仰化していったともいえます。

理源2
神変大菩薩像とは役行者のこと 役行者と並ぶ存在になった聖宝

 こうして聖宝の誕生地とされるようになった讃岐の本島には、多くの信者達が訪れ、沙弥島にも聖宝(理源大師)のお堂が作られるようになったことは、前々回にお話ししました。
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坂出市沙弥島の理源大師堂
そして聖通寺は「聖宝の学問寺」を称するようになっていきます。それでは、このエリアで聖宝伝説を流布した宗教勢力は、どんな勢力だったのでしょうか。それは今の私には分かりません。今後の課題です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝の山林修行 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館

聖宝3
聖宝(理源大師)
 前回は、聖宝が王族出身で大和を本貫地としていたこと、そして生まれも大和であることを見てきました。今回は、聖宝の青年期に当たる東大寺での修学と、そこに残された伝説を見ていくことにします。
 聖宝が真雅(801~79)のもとで剃髪し、仏教の修行に励むようになったのは、承和14年(847)、十六歳の時のことのようです。真雅は、空海の末弟で兄空海から真言宗を学び、当時は、東大寺の別当に補任されています。この時、真雅は四十七歳です。真雅は16歳でしたから30歳の年の開きがある師弟だったことになります。
 聖宝が真雅を選んだのは、真雅が栄達の極みにあると同時に、聖宝の母が、佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。
弟子入りした聖宝は、真雅の下ではなく東大寺で修業したようです。
そのころの聖宝をめぐる著名な伝説に、次のようなものがあります。
修学の比(ころ)、東大寺の東僧房の南第二室に住めり。件の房は、本願の時従り、鬼神が栖(すみか)たるに依り、内作(内部の造作)もせず、並びに荒室と号し、人が住むこと能はず。而して居住の房無きに依りて、件の室に寄住す。其の間、鬼神種々の形を現し、戟を持ちて遂に勝つことを得ず。鬼神、他処に去り畢んぬ。
意訳変換しておくと
聖宝が居住していた東大寺の東僧房の南第二室は、建立した時から鬼神の栖となっていたようで、内部の造作もしないままに放置され、「荒室」と名づけられていたのです。僧侶が住める状態の部屋ではありません。しかし聖宝は住む所がなかったので、その部屋に寄宿することになった。鬼神は、さまざまな形であらわれたけれども、聖宝に対抗することができないで、ついに退散していったというのです。

 この伝説は、聖宝が亡くなった後、28年がたった承平七年(937)九月に書かれた『醍醐根本増正略伝」に、すでに書きとめられていて、かなり早くから語られていた伝説のようです。
 ここには、後の大蛇伝説のように蛇は登場しません。この話をベースにして、要約や潤色が加えられていろいろな物語にとして残されています。それだけ聖宝が伝説化しやすい人物であったのでしょう。
これには省略されたところあるようです。それを補って、研究者が「完成版」としたのが次の物語です
聖宝が少年の時に、東大寺にやって来たがまだ住む房舎がなかったので、師資相承の次第を書き記して、寺務に住房をあたえてくれるように願いでたのである。その時、聖宝には、まだ一人の弟子もいなかったので、寺司は嘲笑いを浮べながら住房を認める判を押してくれた。それを受け取った聖宝は、鬼神が住むと畏れられていた東僧坊の南第2室に居住することになった。
 その夜、聖宝は燈をもやし、徹夜で学問に励んだ。眠気覚ましに茶を一杯用意して鬼神かあらわれるのを待りていた。真夜中になると、天井から大蛇がが頭を垂れ、目を開いて、まさに聖宝を呑みこもうとした。大蛇の頭が、茶碗の底に写ったので、聖宝は上を向いて、剣を抜いて大蛇を斬り落とした。
 翌朝になると、雌の蛇が人になってあらわれ、聖宝に、「この部屋は、近年、私たちの住んでいた部屋です。私は、いま夫を喪い、住居もまた失ってしまいました。どうか、慈しみ哀れんでくださって、住まわせてください」と懇願した。そこで聖宝は、その雌の蛇を他の所に住まわせた。その間、多くの奇妙なことが、数えきれないほどあった。
 すなわち一匹の蛇が命にかえて、多くの人びとの寿命を延ばしてくれることになったのである。蛇であるこの小菩薩は、戒律を堅く遵奉したので、饒益有情(もろもろの衆生を救済すること)と名づけられた。道理にはずれている行ないをしたものでも、仏の説いた道によく熟達するというのは、これを言うのである。
この伝説の奥にかくされている意味を、研究者は次のように汲みとります。
ひとつは、東大寺の破戒僧の存在が浮びあがってくるといいます。
それは、ここに出てくる寺務です。彼は鬼神の住処だと触れまわって、人びとを恐れさせ、その部屋に人を住まわせないでいた。それは、そしてこっそりと「妻」をその空き部屋に置いていたためだった。寺司は鬼神が出ると語ったのに、聖宝は、いっこうに怯まず、その部屋に長く住みこむ気配であった。これでは寺司にとって、まことに都合が悪い。蛇の姿に化けた寺司が、聖宝を驚かせ、部屋から退散させようとして夜中にあらわれたのはよいが、逆に聖宝に剣で打ち殺されてしまう結果となった。
 ここからは一人の破戒僧の姿と、腐敗した東大寺の姿がダブって見えてきます。
この伝説で研究者が注目する二つ目は、「金峯山の聖宝の大蛇退治伝説」よりも、こちらの東大寺の方が成立が早いことです。
金峯山の大蛇退治伝説の成立は、13世紀末期のことです。
 ちなみに『元亨釈書』の大蛇伝説では、聖宝がただ蛇を叱りつけただけで、剣で斬り落とした話がありません。これは僧侶である聖宝が剣を身のまわりに置き、大蛇を斬るといった話は、ふさわしいことではないから、故意に抜剣のことを取捨選択した結果のようです。醍醐寺の『東大寺具書』には、大蛇を斬ったのは聖宝ではなく、「誰人」かが斬った「異朝伝来」の剣であるとします。もっとも早い『醍醐根本僧正略伝』には、鬼神伝説だけが記されていて、大蛇伝説はありませんでした。鬼神伝説に潤色が加えられて大蛇伝説が添えられたようです。鬼神伝説の背後には、次の3点があったことを確認しておきます
①当時の東大寺の中に派閥的争いがあったこと
②東大寺の僧侶の破戒行為や腐敗堕落した状況があったこと③聖宝の霊力と正義感を伝えようとしていた
僧侶の乱れに聖宝が抵抗していたことを物語る説話があります。
絹本著色 聖宝僧正渡一條大路図
小堀鞆音作 「聖宝僧正一条大路渡る事」

『宇治拾遺物語』巻第十二の「聖宝僧正一条大路渡る事」を見てみましょう。
その昔、東大寺に上座法師(僧侶集団において上座(かみざ)に座るべき高僧のこと)で、きわめて富裕な僧侶がいた。取るに足りない物でも他の人に与えることをせず、物惜しみをし、貪欲で罪深く思われた。
 聖宝は、そのころまだ若い僧であったが、この上座の僧侶の物を惜しむ罪の極端さを見るにみかねて、故意に争いごとをもちかけ「あなたは何をしたら多くの僧たちに供養をしますか」と問いかけた。
 上座の僧侶は「争いごとをして、もし負けた時に供養してもつまらない。そうかといって、多くの僧侶のなかで、こういうことについて何も答えないのも残念なことである」と思い、聖宝には、とてもできそうにないことを思いついた。
 そこで聖宝に「賀茂祭の日に、まる裸になり、揮だけで、千鮭を太刀としてさし、やせた牝牛に跨がって、 一条大路を大宮(皇居)から賀茂川の河原まで、『わたしは、東大寺の聖宝である』と大声で名乗りをあげて通ってみよ。そうすれば、東大寺の大衆から下部にいたるまで、すべての僧達に大いに供養することにする」と語った。

上座の僧侶達は心の中で、そんなことを聖宝がするはずがないと思い、かたく賭の約束をしたのである。上座の僧侶は、聖宝をはじめ東大寺の大衆をすべて呼び集めて、大仏の前で鐘を打って誓い、仏に告げて去って行った。上座の僧侶が約束した日が近くなって一条の富小路に桟敷を構え、聖宝が通るのを見ようと東大寺の大衆がすべて集まってきた。上座の僧侶も、もちろん群集のなかに顔を見せていた。しばらくして、 一条大路の見物の人たちが、ひどく騒がしくなった。何事が起こったのかと思って、頭を突きだして西の方を見てみると、牝牛に跨がつた裸の聖宝が、千鮭を太刀としてさし、牛の尻を鞭で打ち、そのあとから何百何千という子供たちがついてきて、「東大寺の聖宝が、上座の僧侶と賭をして、今こそお通りだ」と大声をはりあげてやつて来たのである。この年の賀茂祭において、これが、まさに第一の見ものであった。
こうして東大寺の大衆は、それぞれ寺に帰り、上座の僧侶に大いに供養を施させたのである。これを聞いた天皇は、「聖宝は、自分の身を捨てて、他の人を導く立派な人物である。現代に、どうしてこのような尊い人物がいたのであろうか」と聖宝を召しだして、僧正に昇任させたのである。

 聖宝が権僧正になったのが71歳、僧正になったのが75歳のことです。ここからすると、結びの部分が説話らしい誇張であることはすぐに分かります。しかし、聖宝ならばこんなこともやりそうだという雰囲気を持っていたのかも知れません。彼の豪放な性格を語り、東大寺修業時代の姿をしのばせるものだと研究者は考えているようです。
同時に、強欲な東大寺の上層部僧侶にたいして、聖宝が批判の眼をそそぎ、敢然として上座の僧に抵抗する姿勢がうかがえます。

聖宝は、奈良の東大寺で誰から何を学んだのでしょうか
①真言を真雅から
②三論宗を願暁と円宗に、
③法相宗を平仁に
④華厳宗を玄永に、
⑤律宗を真蔵に
ついて学んだようです。いくつかの宗派の教学を併せて修めることは、当時の僧侶の間だでは、さして珍しいことではなかったようですが、聖宝の場合は際立っています。それは聖宝の強い探究精神によるものなのでしょうが、それだけではなく当時の仏教界の置かれた状況が背景にあったと研究者は考えているようです。つまり、仏教界の腐敗堕落の傾向がなかで、仏教の真理を求められるのは、どの宗派なのかを模索していたとも考えられます。
 後世の東大寺の凝然(ぎょうねん 1240~1321)が著わした「三国仏法伝通縁起』の三論宗の項において、凝然は聖宝のことを次のように評します。
「三論を以て本宗と為し、法相、華厳、因明、倶舎、成実を兼学す。顕宗の義途は、精頭にして究暢し、秘蔵の真言は、旨帰を研致す。包括の徳は、敵対する者無し
意訳変換しておくと
三論を本宗とし、法相・華厳・因明・倶舎・成実を兼学し、顕教の正しい道を詳しく調べて、究め広げ、密教の真言の趣旨を深く明らめ究めた。その包括した教化に対抗できる者はいなかった

と評しています。 いろいろな宗派の研鑽につとめた聖宝にたいする評価の言葉です。
 このような中で聖宝は、自分が歩むべき方向を見つけ出していきます。
それは、空海が大学をドロップアウトした後に歩んだ山林修行の道であったようです。師である真雅は「天皇のお抱え祈祷師」として、貴族世界への寄生する存在であり、そして東大寺の上座たちと同じように写ったのかもしれません。師弟の対立は避けられないものとなっていきます。
今回はこのあたりで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館人物叢書

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坂出市沙弥島の柿本人麻呂碑と瀬戸大橋

いつものように原付ツーリングで宇多津から坂出方面をドライブしていて、海を身近で見たくなったのでやって来たのが沙弥島です。この島は今は坂出と陸続きになっていますが、名前だけは住民の意志で「島」を名乗っています。「その心意気やよし」と応援したくなる島です。
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小さいけれど、箱形石棺から方墳の千人塚、ナカンダ濱の製塩遺跡、柿本人麻呂の碑と、掘り下げれば瀬戸内海の島らしい歴史が出てくるところでもあります。そして、なによりこの島からの瀬戸大橋は絶景です。あまり知られていませんが海に沈む夕陽が見える讃岐の数少ないヴィユーポイントでもあります。

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 さて、千人塚を報告書を片手に見て帰って来ると見つけたのがこの標識。「理源太子堂」と書かれています。今まで気付かなかった標識です。道標の示すとおりにお堂を訪ねてみます。
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おもっていたよりもおおきな規模の敷地とお堂です。
かつては、祭事には多くの信者達が集まってきたことがうかがえます。しかし、管理はされているようですが、境内の手入れはされていません。今は、訪れる人もいないようです。このままで朽ち果ててしまいそうな雰囲気もします。
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沙弥島は近世初頭には、無人島になっていました。そこへ、塩飽から人名が入ってきて「入植開発」を始めます。そして、その宗教的センターとして、新たに建てられたのがこのお堂のようです。

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なぜここに理源大師のお堂があるの?
そういえばこの沙弥島に来る前に立ち寄ってきた聖通寺には「理源大師学問所?」という看板も掛かっていたように思います。後で知ったのですが、聖通寺は聖宝(しょうぼう=理源大師)が通った寺だという言い伝えでその名がつけられたのだとも云われています。この周辺は、理源大師との関係が深いようです。
 その後、四国辺路に関わる修験者たちのことを調べて行くにつれて、理源大師を避けては通れなくなってきました。読書メモ代わりにアップしておこうと思います。テキストは、佐伯有清 「聖宝」 吉川弘文館です
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沙弥島の理源大師堂

聖宝(しょうぼう=理源大師)の業績とされるものを、まず押さえておきましょう
①京都山科の醍酬寺創建
修験道中興の師 後に当山派による伝説化
③真言宗教団の主柱として活躍
④准紙、如意輸観音像の造像と″観音信仰″の祖
  聖宝1
 
  次に聖宝の出自を見てみましょう。
 聖宝の俗名は恒蔭王(つねかげ)といい、父は正六位下の位に相当する兵部大丞の官職にあった葛声(かつな)王だというのです。名前から分かるように、聖宝は王氏の家柄のようです。遡ると天智天皇の皇子である施基皇子(しきのみこ)を始祖としていた名門のようです。
施基(志貴・志紀・芝基)皇子の子には、後に光仁天皇となる白壁王や湯原王・榎井王・春日王などの兄弟がいました。聖宝は、その中の春日王の子孫といわれます。
『三代実録』仁和九年二月十五日辛丑の条には、次のような記事があります
左京の人、大舎人助正六位上氏宗王の男峯兄、峯行、峯良、峯安、峯依、峯永、正六位上氏世王の男俊実、正六位上浜並王の男有相、正六位上弥並王の男善益、秋実、秀範、春淑、正六位上富貞王の男恒並、恒世、今恒、浄恒、良並、恒身、恒秀等の十九人に姓惟原朝臣を賜ふ。其の先は田原天皇の後春日親王自り出づるなり。

 例の如く、賜姓記事です。田原天皇は、施基皇子のことです。施基皇子の子白壁王が天皇になったので、施基皇子にも田原天皇の称が後から贈られたようです。その子の春日王も、天皇の皇子に準じて親王と呼ばれるようになります。

聖宝系図1

そして、仁和元年(885)二月に惟原朝臣の氏姓を賜わった峯兄以下、十九名の人たちの続柄は、上のような系図が伝えられています。
次頁に掲げた系図によって明らかなように、惟原朝臣の氏姓を賜わった峯兄らの父親、すなわち氏宗王、氏世王、浜並王、弥並王、富貞王は、ともに五世の王であって、聖宝と同じ世代です。
 系図を見て分かるのは、五世の上の富貞王の子の多くが「恒」の字を通り名としていることが分かります。「恒」の字は、聖宝の俗名にもふくまれています。この一族のあいだでは、「氏」「並」「世」「実」などの字が、兄弟をこえて、ひろく名前にもちいられています。ここからは恒蔭王(聖宝)は、恒並、恒世ら兄弟の近親者であって、恒並らの父富貞王とは従兄弟の続柄にあったと研究者は考えているようです。
 その関係を系図にしたのが下図になるようです。
聖宝2


もし、聖宝が僧籍に入らなかったら、その氏姓が惟原朝臣であったことは確かなようです。聖宝は、史料的にも王族出身であることが裏付けられるようです。
王族出身の聖宝が、どうして讃岐で岐で生まれたとされるのでしょうか?
聖宝は、讃岐の塩飽の島で生まれたする説が地元にはあります。
その伝説によると、聖宝の母がこの地に流されてきた時、もしくは、ある罪をきて大宰府に流されていた夫の葛声王を慕って大宰府ヘ行く途中、この地に着いて聖宝を産んだと伝えます。そして天安二年(858)ごろに、空海の弟真雅から破門され聖宝が讃岐の国を巡錫したさいに、沙弥島に一堂を建てて、亡き母を供養したというのです。(竜海『理源大師完録』上)

 沙弥島の権現山の山頂(28m)の方墳千人塚は、聖宝の母の墓であると、地元では言い伝えられてきました。
さらに塩飽の沖の塩飽諸島の本島(丸亀市本島町)にある正覚院(妙智山観音寺、本島町泊)の地が聖宝の誕生地であるという異伝もあります。
 聖宝の誕生地に関しては、明治の初めに沙弥島と本島との間で、裁判沙汰にまでなっています。その結果、明治12年8月26日に下された和解案は、次のようなものでした。

本島正覚院は誕生地、沙弥島は母(綾子姫)御着船のところなり

母が乗った船が着いたのが沙弥島で
母が聖宝を生んだのは本島
と、両者の顔が立つ「名調停」です。こうして、近代になって香川県では聖宝は、讃岐の本島生まれで、「讃岐人」であるかのようにあつかわれてきました。
聖宝3

 しかし、同時代史料には聖宝が、塩飽の島で生まれたという記録はありません。
死後、300年以上経った鎌倉時代の「明匠略伝」や「元亨釈書」から登場する話なのです。それを受けて江戸時代に書かれた聖宝伝「理源大師完録」にも塩飽生まれと書かれています。
近世になると、聖宝は醍醐寺の当山派修験道の祖として、神聖視されるようになります。その結果、修験者たちがいろいろな伝説を作り出し、付け加えていくようになります。聖宝伝説の始まりです。私には、醍醐寺系の修験者たちによって作られ、広められた伝説のように思えます。
 同時代史料に、何も書かれていないことが、後の時代に新たに付け加えられるのは、書き手の作為がある場合が多いようです。聖宝の場合も、生誕地を塩飽生まれとすることは、後の時代になって布教上必要な勢力や教団によって、作られ流布されたと私は考えています。それを流布する背景があったはずです。そのような視点にたって、聖宝と修験道の関係を見ていきたいと思います

それでは、なぜ「聖宝=讃岐誕生説」が広まったのでしょうか。
聖宝は讃岐と、なにも関係がなかったのでしょうか?
 聖宝の誕生地が讃岐の国と結びついているのは、聖宝の母が、讃岐の国の佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。聖宝が讃岐の国の佐伯直氏の一族である空海の実弟真雅の門に入って出家したのも母方の縁によるものかもしれません。佐伯直氏一族であることを前面に出した方が、真言宗教団の中では何かと有利だったようです。

それでは聖宝は、どこで生まれたのでしょうか。
多くの研究者は、大和の国の人と考えているようです。その根拠を見ていきましょう。
『密宗血脈抄』には、「大和の国の人、兵部丞葛声王の息」
同書に引く『或記』に「大和の国の兵部大丞葛声王の息」
『石山寺座主伝記』が引用している『石山寺僧宝伝』には、
「大和の国の人、兵部郎中葛声王の子」

と記されているようです。どれも、同時代史料は、父葛声王と共に大和の国の人と明記しています。
また、竜海『脚測対師息瞭』上には「葛声王大和より左京に移り玉ふか」とあり、平安京に都が移されるまで葛声上の家は、大和の国を本貫の地(本籍地)としていたことがうかがえます。大和で生まれたとするのが自然なようです。
 父が九州に流刑になっていたということを証明する史料もありません。流刑された夫を折って身重の母が、瀬戸内海を舟で行くというのは物語としては面白いですが現実的ではありません。聖宝伝説のひとつとしておきましょう。
最後に史料として「香川叢書 第1巻 386Pの沙弥島嶋縁起」を意訳して載せておきます。
 沙弥自派は、人郊遠ク、蒼海を四方に囲まれた波浪静な瀬戸の島である。この島の南方に、壺平山があり、そこは佛法が繁榮し、聖宝の霊場で、聖通寺がある。北の海は塩飽七嶋山が並び、峰峰が高くそびえている。雲佛霊社がいくつも鎮座し、堂塔佛閣の数はしれない。寺院坊舎は甍をならべ、朝暮勤行が止むことはない。東は白峯の山脈で、山頭に雲霧をいただき、断崖巖石がそびえ立つ。西は湖のような瀬戸内海が漫漫と波を写す。誠に曼茶九品の言葉通りである。その中にこの嶋は、決然とある。
 嶋の周辺は一里にも足らないほどの小島であるが、清浄霊地である。昔、光仁天皇ノ孫葛馨王は、ここで生を受けた。その後、入京・出家して聖宝尊師と称し、醍醐寺を開山した。聖宝は修練を好み、名山を遍歴して、霊地を巡った。金峯の峨峨の峻嶽瞼嶺で修行した。 役小角以後、空飛ぶ鳥や、地を走る獣も通わなくなった行場の再開拓を聖宝は行い、踏み跡を残した。こうして苦行修行を行う人(修験者)たちの活動は、今に続くことになった。
 清浄な霊地は、不思議なほど美しい。聖宝は権化の身となったが、その生を辺境異域に受けている。聖宝は古郷を忘れがたく、群情利済の霊佛なので萬民之塗炭を救い、四輩の迷方を導く。こうして聖宝の名はますます高く広まり、生地に伽藍を建立し、その島を沙弥島と名付けた。華臓を心海に観て、実相をこの嶋で念ずる。峨々な巖嶋は率法の華台を現す。白砂が敷き詰められた様は、化仏浄土にも似ている。煩悩は、乃ち菩薩を観ているようにも思えてくる。深海の浮船は彼岸の船筏。波浪揺動は生界の彼方。波濤寂静なことが則ち佛界の智水である。生佛の二界の霊地が目の前に拡がっている。瀬戸の海を東西南北に行き交う船は、上韓下韓の法でもある。生死は寂静の道場。と察すべし。

役行者の縁起に曰く。行者の叔父願行に云う。行者は角帽子をつけ、九條を用いる。嚢を被り、錫杖ついて、獨鈷を持つ。義學は初て頭巾や不動袈裟を来て、剣を持つ。義玄は寶冠架裟を着て、笈を担ぐ。義真は賓冠を着て、珠敷袈裟を持つ。壽元は角帽子袈裟を着て、索を持つ。(以上は山伏五代の次第である)
 木集に掲載された歌は次のようにある。葛城屋木間仁比加留稲妻渡、山伏乃宇津火加登許曾兄礼。三井寺の山伏の入峯が、私に云ったことに「昔は、入峯する者の神名を問うていた。神が答えて入山の許可を出した。琥は一言主ノ神とされる。光仁帝の孫恒蔭王の子葛磐王は、出家して聖宝を名のった。聖宝は讚岐國の人である。真雅(空海の弟)の弟子として、東大寺で学んだ。その庭上に岩石があった。聖宝は、その岩を背負って金峯山にやってきたと伝えられる。その力は人力の及ぶところでない。聖宝は修練を好み、名山霊地を遍歴し、役行者以後は通うことのなかった金峯の険しい行場を再興させた。このため、苦行者(修験者)たちの行場は閉ざされることなく今に続いている。また、金峯山に衛役を置いて、渡舟を設け、人々の吉野川の行き来を助けた。

興福寺の坤の隅に、葛城一言主神の祠がある。祠前には木忠樹が植えられている。平家が南都を焼き討ちした際に、煙がこの木忠樹の孔に入って、くすべられた。人々は火を消そうと灌水したが、七十餘日たってもくすぶり続けた。平清盛が熱病にかかったときに、この樹穴からは煙が強く上がった。ところが清盛が亡くなると、その火は忽ち消えて、再び枝葉が繁茂した。人々は奇っ怪なことだと噂した。

聖宝尊師は、生を讚州の小さな名小島受けた。それは延喜九年七月六日ノ暁天のことで、寛文13年には764年目のことになる。そして醍醐寺で亡くなった。無上菩提の台に眠り、永く常槃我浄睡の床についた。
 その後、この島は浪高く陸遠いため、澄む人もいなくなり、伽藍佛閣は零落破烈した。そして、信仰は中絶し、日往き月落チ、歳霜は積み重なった。その間に、水緑の草は秦々とし、青苔は年々に厚く、島は森に埋もれた。そのため近年まで、人影は絶え、往時の姿は見る影もなくなった。
 このような中で、溝縁庄兵衛の尉宗重がこの嶋のに渡って、主人となった。そして、開墾を進める中でかつての伽藍古跡を発見して、それが聖宝の遺跡であることを知った。そんななかで宗重は奇異な霊夢を観た。そこには聖宝尊師の御影を拝む姿であった。そこで、新たにお堂を建立し、御影と形像を安置し、青蓮之眸を開いた。五限具足は備り、形は醍醐寺に、心魂は、この島にある。こうして、寛文十一辛亥之暦林鐘中旬に、一堂を旧伽藍跡にお堂を建立した。
佛法守護の鎮守は、葛城一言主紳を勧進し安置した。この地は、濁世末代の衆生の印身成佛の直路を祈念する場である。島の翁・宗重は、この中古開山である。これは聖賓が再び出世し給ふと信じるが為である。
右の一巷は、先徳師が古歴を捜し、旧訳を集め、新たに書いたものである。誤りがあるであろうが、それは後の世の人達に正してもらいたい。悉く皆世上の咲卓である。盲者の怖さ知らずで書かれたものである。
讚陽賀郁桑門の沙門捨典稽へ綴りし之畢ス。
寛文十三天夷則中旬                           溝淵庄兵衛尉宗重
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館 平成3年

2善女龍王4
もともとの善女(如)龍王(唐服姿の男性像)
 雨乞の竜として最も有名なのは、善如竜王です。無形文化財の讃岐の綾子踊り奉納の際にも「善女龍王」の幟を持った参加したことが何度かあります。しかし、その頃は「善女龍王」がいったい何者で、どんな姿をしているのかも知りませんでした。
 善通寺の境内を歩いていて善女龍王を祀る祠と池がある事に気付いてから、これが空海の祈雨祈願と密接に関係する神であることを知りました。そのことに付いては、以前にお話ししました。

2善女龍王 神泉苑2g
京都の神泉苑
善如竜王は、空海が天長元年(824)に京都の神泉苑で祈雨を行った際に現れ、雨を降らせたとされ「空海請雨伝承」として伝わっています。
神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...

 この話については、どうも後の「創作」と考える研究者の方が多いようです。その「創作話」が空海伝説とともに発展していきます。
 この話の中に登場する善如竜王が果たした役割としては、次の二点があります。
①善如竜王が棲む神泉苑が祈雨を行うのに最もふさわしい場所である
②空海が勧請した竜であることから、真言宗が神泉苑での祈雨に最も深く関わるべきである
 この話を聞くと、以上のふたつが自然に納得できるのです。そういう意味でも善如竜王は空海請雨伝承において、重要な役割を果たしています。

2善女龍王2

 それでは、善女龍王とはどんな姿をしているのでしょうか?
分からなけば辞書をひけという教えに従って、密教学会編『密教大辞典』(法蔵館、1983年)で「善如竜王」を調べてみると、次のようにあります。
[形像]御遺告には、彼現形業宛如金色、長八寸許蛇、此金色蛇居在長九尺許蛇之頂也と説けども、世に善如竜王として流布せるものは女形にして、金色の小蛇を戴き宝珠を持てり。

とあり、『御遺告』には蛇の姿で表されているが、世に流布しているものは女形であると記されています。グーグルで「善女龍王」を画像検索すると、女性の姿で描かれているのが殆どです。ところが男性形のものも少数出てきます。

2善女龍王 神泉苑g
空海の神泉祈祷で現れた善女龍王(蛇の姿)

 例えば、高野山に残されている平安時代後期作の善如竜王の図は、唐風の礼服姿の男神像です。ここからは善如竜王は次の3つの姿があるようです
①へび
②男性の唐風官人
③女性の龍女
いったい、どうして3つに描き分けられるのでしょうか。権現のように姿を変えるのでしょうか。そこがよく分かっていませんでした。今回は、そこを探ってみます。

 空海の伝記類の中で初めて善如竜王が登場するのは『御遺告』のようです。
 (前略)従爾以降。帝経四朝 奉為国家 建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺。御願修法祈雨霊験其明。上従殿上下至四元 此池有竜王善如 元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心 以何知之。御修法之比託人示之。即敬真言奥旨従池中 現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色 長八寸許蛇。此金色蛇居二在長九尺許蛇之頂也。(後略)

 ここには次の事が記されています。
①祈雨祈願場所として神泉薗が聖地であること
②そこに住む善女龍王の姿は「八寸ばかりの金色の蛇で九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っている」
ここで押さえておきたいのは、善女龍王に人間の姿ではなく蛇で、男神・女神という表現もないことです。つまり蛇なのです。
 この『御遺告』の記述が、その後の空海の伝記類にも受け継がれていきます。平安時代から江戸時代にかけて成立した数多くの伝記類のほとんどは、善如竜王の姿を『御遺告』の記述のままに受け継ぎます。『御遺告』が空海の遺言として信じられてきた所以でしょう。ここでは、伝記類には善如竜王は、蛇の姿として描かれていることを押さえておきます。
12世紀半ば頃に、善如龍王を男性として描いた絵図が現れます。


2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図 

これは高野山にある絵図で『弘法大師と密教美術』には、次のように解説されています。
冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。『高野山文書』の古い裏書によれば、本図は久安元年(1145)に三井寺の画僧定智によって描かれたことがわかる。
 
ここからは、12世紀の半ば頃には、高野山では善女龍王を男神として描くようになっていたことが分かります。これは、雨を降らせる龍神(蛇)が権化し、人間に似た神として描かれるという変身・進化で真言密教の修験道僧侶の特異とするところです。この絵を掲げながら祈雨が行われたのかもしれません。
 この高野山の善女龍王の模写版が醍醐寺に2つあるようです。

2善女龍王 醍醐寺2
 
これが建仁元年(1201)の模写版です。
2善女龍王 醍醐寺22

上のもうひとつは、さらに模写し着色したものです。
50年前に絵仏師定智が描いた高野山の「善女竜王図」と細かい所まで一致します。ここからは、次のような事が分かります。
①それまで蛇とされていた善女龍王が12世紀中頃には、唐の官僚姿で描かれるようになった。
②醍醐寺は、高野山のものを模写したものを、無色版と着色版の2つ持っていた
どうやら醍醐寺でも祈雨祈願が行われるようになっていたようです。 
2 清滝権現
善如竜王と密接な関係にあるのが、醍醐寺の清滝権現です。
『密教大辞典』の「清滝権現」には、次のようにあります。
 娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり。密教に如意輪観音の化身として尊崇す。印度無熱池に住し密教の守護神たり。唐長安城青竜寺に勧請して鎮守とす、故に青竜と号せり。弘法大師帰朝の際これを洛西髙尾山麓に勧請す。海波を凌ぎて来朝せることを顕して水扁を加え清滝と改む。山麓の川を清滝川と名け地名を清滝と称するはこれに由る。(中略)
 其後聖宝尊師高雄より醍醐山に移す。故に小野醍醐の法流を汲む寺院には多く清滝権現を祀る。又醍醐山にては西谷に鎖座せしが、三宝院勝覚寛治二年山上山下に分祀す。(後略)

 最初に「娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり」とあり、清滝権現は娑掲羅竜王の第三女であって、善如竜王と同体であるとされます。善如竜王と清滝権現は、「二竜同体」ということになるようです。長安の青竜寺の守護神であった青龍を空海が連れ帰り、高尾山に清滝と改名し勧進します。その後、醍醐山に移されたとあります。
ここで確認したいのは「善如龍王=清滝権現」ということです
 清滝権現の図像には四種類あり、その一つに先ほど見た高野山にある定智本善如竜王像、つまり唐風の礼服姿の男神像が示されます。つまり、善如竜王と清滝権現は図像の上でも同じ姿をとる「二竜同体」のようです。両者の関係は非常に密接であるとされていたことが分かります。
 しかし、このふたつの龍神の成立当初の伝承には、両者の関係は全く説かれていません。
 善如竜王の登場は、『御遺告』からです。その記事の中に清滝権現に関係するようなことは、一切書かれていません。
 
下醍醐の清瀧宮 - 京都市、醍醐寺 清滝宮の写真 - トリップアドバイザー
上醍醐 清滝宮
 
清滝権現は、『醍醐雑事記』によると寛治三年(1089)に勝覚によって上醍醐の地に清滝宮が建立されたとあります。11世紀末の登場です。『醍醐雑事記』の清滝権現に関係する記事の中にも、善如竜王との関係は一切記されていません。
 このように、二竜の成立当初の伝承では、両者の関係は全く見られず、無関係の関係だったようです。それぞれ別個の竜として存在していたようです。それが、いつの間にか『密教大辞典』の記事のように、「二竜同体」となったようです。
 
善女龍王 変化

なぜ善女龍王と清滝権現は一体化したのでしょうか
 善如竜王と清滝権現の同体視は、祈雨を通して行われたと研究者は考えているようです。雨乞祈雨を接点として両者が次第に接近し一体化したというのです。そこには、醍醐寺の祈雨戦略があったようです。
  醍醐寺が祈雨に関して「新規参入」を果たそうとします。しかし、当時の国家的な祈雨の舞台は空海が祈雨し、善女龍王が住む神泉苑が聖地でした。やすやすと醍醐寺が入り込む余地はありません。そこで醍醐寺は、次のような祈雨戦略活動を展開します。
①神泉苑から醍醐寺の清滝宮への祈雨場所の移動 
②善女龍王に変わる祈雨神の創造
この戦略を、どのように実行していったのかを見てみましょう。
醍醐寺で行われた祈雨を表にしたの下の図です。
2善女龍王 醍醐寺の祈雨g
これによると、醍醐寺での祈雨が初めて行われるのは寛治三年(1089)のことです。それまでは、空海が祈雨を行った聖地・神泉苑で行われていました。ところが院政期以降に、醍醐寺での祈雨の記事が見られるようになります。これは何を意味するのでしょうか?
  研究者は、醍醐寺が祈雨に「参入」しようとしているのではないかと指摘します。
醍醐寺での祈雨は、初め釈迦堂において行われています。それが大治5年(1130年)に、清滝権現を祀る清滝宮で行われるようになります。そして、それが主流となって定着していきます。
 その当時は、神泉苑が祈雨の聖地とされていましたから、そこへ醍醐寺が参入することは難しかったはずです。そういう中で、醍醐寺が独自性を主張していくためには、善女龍王に変わる新たなアイテムが必要でした。そこで新たに作り出された雨乞神が清滝権現だったのではないかというのです。しかし、まったく馴染みのない神では人々は頼りにせず不安がります。そこで、真言密教お得意の「権化」の手法が使われます。つまり、清滝権現は善女龍王の権化で、もともとは一体であるという手法です。こうして清滝権現は醍醐寺の新たな祈雨の神として、成長をしていくことになります。その成長を促すためには「清滝権現=善如竜王」の二龍同体説が醍醐寺にとっては必要だったと研究者は考えているようです。
 この二龍同体説の醍醐寺が創造したという裏付け史料は、例えば『醍醐寺縁起』の中の清滝権現に関わる部分を研究者は指摘します。
『縁起』では、清滝権現を醍醐寺の本尊である准肌如意輪の化身とします。そして、醍醐寺を開いた聖宝の前に現れた最も重要な神として位置づけらます。しかし、この『縁起』の内容をそのまま史実として受け入れることはできないようです。その理由の一つとして、空海の帰朝の際に、青龍が唐の青竜寺からやって来たという伝承があります。しかし、これは空海の多くの伝記類には見られないものです。醍醐寺においてのみ唱えられた伝承のようです。空海が伝記の中でもっとも強く結びついている竜は善如竜王です。清滝権現の名前は、伝記にはありません。
 清滝権現を紹介する際に、よくこの『縁起』の内容が語られますが、これは後世に付け加えられた話と研究者は考えているようです。
2善女龍王男性山
善如竜王
 そして、もうひとつ重要なことは、この時点では清滝権現と善如竜王の両龍神たちは男神だったようです。先ほど見た醍醐にに残る善女龍王絵図を思い出して欲しいのですが、これは高野山のものを模写した男神姿でした。つまり、この時点では醍醐寺では、唐風の官僚姿の善女龍王を祀っていたのです。そして善龍王と表記されていたのです。
2「善」から「善女」へ
書物に登場してくる善女龍王の表記を見てみると下表のようになります。
2善女龍王の表記1
この表を見ると、平安時代末期までは、「善女」ではなく「善如」と表記されていたことが分かります。12世紀半ばの『弘法大師御伝』以後に、「善女」の表記が主流となっています。「善如」から「善女」へ変化したようです。最初は「善如」と呼ばれていたのです。
 どうして、「善如」から「善女」へ変わったのでしょうか
 その理由は、清滝権現がサーガラ竜王の三女とされることからきているようです。彼女は「竜女」とも呼ばれ『法華経』の「提婆達多品十二」に登場する竜女成仏譚で有名な竜女です。それまでの仏教界では、女性は五障の身であるために成仏できないとされてきました。そころが竜女は「変成男子=男子に変身」することによって成仏を遂げます。仏教に心を寄せた女性たちにとっては、この『法華経』の竜女成仏譚は、救いの道を示す大きな意味を持つ存在だったようです。平安時代末期の『梁塵秘抄』には。
  竜女も仏になりにけり、などかわれらもならざらん
と詠まれています。それほど竜女成仏譚が広く一般に広がっていたことが分かります。そのような中で、醍醐寺の密教僧侶たちは、竜女も善如竜王と清滝権現と権化関係の中に入れて同一視する布教戦略をとるようになったと研究者は考えます。
  善女龍王=清滝権現=竜女です。
そして最後に、権化した竜女は女性です。そうなると、三位一体同心説の元では、清滝権現も、善女龍王も女性であるということに自然となっていきます。それを醍醐寺は広めるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①空海が神泉苑で善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは、真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤さらに醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、祈雨場所を醍醐寺でも行うと同時に、新たな祈雨神として、清滝権現を創造した。
⑦醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑧さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し、流布させた
⑥その結果、竜女が女性であるので、それまでは男性とされたいた善女龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

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