瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:聖宝と真雅

 醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝の師真雅は時の権力者である藤原良房に近づき、その力を背景に宮廷を中心とする活動を繰りひろげ、真言宗の拡張につとめました。それは弟子の聖宝からは「天皇家専属の護摩祈祷師」のように見えたこと、それが聖宝と真雅の歩む道を次第に遠ざけていったことを前回は見てきました。
 そのような中で貞観十三年(871)、応天門が再建された年に、四十歳になった聖宝は、師の真雅から無量寿法を受学しています。真言密教をより深めていくと同時に、山林修行の道も極めようとします。顕教と密教を研究し、ふたつを包み込んで実践する道をえらんだのでしょう。聖宝は、行動する人でした。
研究者は聖宝を次のように評します。
  「貴族社会に進出し、有力な貴族の援助のもとにつぎつぎと建立する大寺院の中に真言宗の勢力を扶植して真雅のような道を行くのではなく、そうした方向に批判を感じながら、山林料藪の修行を重ね、日本の土着の信仰と仏教との関係の中に新しいものを摸索しっづけた」(大隅和雄『聖宝理源大師』)。

 このころの聖宝は、山林修行に活動の場を求めつづけ、諸方の山々を縦横に歩きまわっていたようです。そして真雅との距離を保つためにも、聖宝は新たな自分の活動拠点を創り出す必要に迫られていました。そうしたなかで捜しあてた地が、山城の宇治郡の笠取山(京都市伏見区醍醐)でした。
岩間山から東海自然歩道で宇治へ 岩間寺は西国三十三観音霊場 十二番札所(大津市石山千町)です。 2016・2・17  先週、千頭岳へ登った時、岩間山への分岐で石山寺へ下山してしまったので少し気になっていました。この日の朝、なんとなく岩間寺 ...

今回は、どうして聖宝がこの山を選んだのか、そこで何を行おうとしていたのかを見ていくことにします。

  テキストは 参考文献 佐伯有清 聖宝と真雅の確執 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館です。

笠取山は高さ370mほどの醍醐山地の一山で、北に485mの高塚山、南に251mの天下峯が連なります。
そのありさまを『醍醐寺要書』は弟子の観賢の言葉をは、次のように引用しています。
適々(たまたま)、貞観の末を以て此の峰(笠取山)に攀じ昇り、欣然として故郷に帰るが如し。黙示として精舎を建てんことを思ふ。樹下の草を採り奄居を結成し、石上の苔を払ひ尊像を安置す。

これが醍醐寺創建の端緒のようです。
理源大師 醍醐寺発祥の地 醍醐水
醍醐寺発祥の地 醍醐水

『醍醐寺縁起』には、聖宝が醍醐寺を開創するまでの経緯が記されています。その書きだしの部分を意訳してみましょう。
聖宝は、諸名山を遍歴し、仏法の久住の地を求めていた。たまたま普明寺において七日間、仏法相応の霊地を祈念していたところ、その祈請に答えて、五色の雲が笠取山の峯にたなびくのを見た。聖宝は、この峯に登つて、このうえなく喜び、あたかも故郷に帰ったかのようであった。物も言わないで、ただ精舎を建てようとしたのである。そうすると谷あいに一人の老翁がいて、泉の水を嘗めて、醍醐味であると褒めたたえた。
 聖宝は、その老翁に、
「ここに精舎を建てて、仏法を弘めたいのだが、永く久住の地となるかどうか」

と訊ねた。老翁は、
「この山は、むかし仏が修行したところで、諸天が仏を護衛し、仏が遊行なさったところであり、名神のおられたところである。如意宝生の嶺、功徳の集まる林、法燈がつづいて、龍幸の開くに及び、僧侶は絶えず鶏足山に弥勒かあらわねる時に至るのである。
 私はこの山の地主神(横尾明神)である。この山を永く和尚に献ずるが、仏法を弘め、広く人びとを救うために、わたしは、ともにお護りしたい」
と答え、たちまち見えなくなってしまった。梢に飛び交う鳥が三宝を唱え、聖宝は、感涙にむせぶばかりであった。

聖宝の前に現れた地主神(横尾明神)については、『醍醐雑事記』巻第二に、次のように記されています。
「横尾明神、往古の本所は薬師堂の跡と云々。御願の勝地に立つ可き為るに依り、尊師(聖宝)、今の横尾に勧請し奉らると云々。本は地主明神と申すと云々」

ここからはもともとが「地主明神」で後世になって「横尾明神」と呼ばれるようになったことが分かります。
東海自然歩道放浪記

聖宝が笠取山の地に「醍醐水の霊泉」を見つけ、そこに草庵を設けるようになった理由は何なのでしょうか。
 第一に考えられることは、笠取山周辺は聖宝にとって通い慣れた地であった研究者は次のように指摘します。
 つまり聖宝が奈良・東大寺に遊学していたころ、近江の国の石山寺は東大寺の末寺で修練の道場でした。そのためこの間を何度も行き来して、その間に山中の踏査を行なったのであろうというのです。
 また笠取山は、山城、近江、大和への道の要衝であって、笠取山の西麓を南北に走る道は、この時代の京都と奈良を結ぶ主要な道でもありました。東山から山科に入り、勧修寺、小野、下醍醐、日野、六地蔵と山麓の隈を抜けて宇治に抜ける道を見おろす地点に笠取山はあります。さらに、笠取山の山頂から尾根伝いに東に進めば、石山を経て琵琶湖の南岸に至り、山頂から南へ山伝いに行けば宇治に至るようです。笠取山を通る尾根伝いの道は、山林修行の行者道でもあったと研究者は考えているようです。
 笠取山の山頂に草庵を構えた聖宝は、貞観十六年(874)六月一日に、准胆(じゅんでい)・如意輪のふたつの観音像を造像するための木材を、みずから斧を手にして切り出したと云います
 聖宝と宇治の宮道氏             
  新たに寺院を建立するには経費が必要です。つまり保護者や支援者がいなければできることではないのです。聖宝の背後にいた人物は誰なのでしょうか。聖宝の支援者は、都の皇族や貴族でなく、山城の国宇治郡の大領であった宮道弥益だったと研究者は考えているようです。
  正史の記すところによると、宮道弥益は朝臣の姓をもち、聖宝が笠取山に堂舎を建立した翌年の貞観十九年(877)、正月に漏刻博士の任についています。そして外従五位下から従五位下に昇っています(『三代実録』元慶九年正月三日乙亥条)。
理源大師 宮道氏と醍醐天皇

 
 宮道弥益は、その後に醍醐天皇の外曾祖父になる人物でもあるようです。
弥益と醍醐天皇が誕生されるまでのいきさつは『今昔物語集』巻第二十二の第七「高藤の内 鴨大臣の語」に詳しく物語られています。長くなるのでここでは触れませんが、後の醍醐天皇との結びつきがこのあたりから見えてきます。宮道弥益の勢力下にあったのは、現在の下醍醐の一帯であったようです。
聖宝が笠取山に醍醐寺を創建した大きな理由を、研究者は次のように指摘します。
「聖宝が笠取山を開き、醍醐寺が醍醐天皇の勅願寺となったことの背景に、宮道氏の存在があったこと」
「聖宝が笠取山に入って山上に堂を建てる際に力を貸したのがこの宮道氏であった」 (大隅和雄『聖宝理源大師」参照)
以上をまとめておくと、聖宝が上醍醐の笠取山に醍醐寺を開いたのは、次の2点が考えられるようです。
①山林修行の中で適地だと考えていたから
②支援者の宮道弥益のテリトリーであったから
聖宝は、この寺院をどんな性格の宗教施設にしようとしていたのでしょうか。
それは本堂に安置されたふたつの観音さまからうかがうことができるようです。それは 准抵(じゅんでい)観音と如意輪観音です。こののふたつの観音さまを安置する堂舎が笠取山の山上に姿を現したのは、貞観十八年(876)六月十八日のことでした。
准胝観音 - Wikipedia

その堂舎が准胝堂で、三間四面の檜皮葺でした。ここに安置された観音さまは今までの観音さまとは違っていたようです。これは聖宝が創り出したニュータイプの観音たちで、彼独自の信仰を表現したものとされます。
京都の仏像その3 醍醐寺 | 京都大好き隆ちゃん - 楽天ブログ

准胝観音は、当時の「円珍入唐求法日録」などの経典で仏母(准瓜仏母、七倶抵仏母)とされる観音さまです。
この観音の効験については、経典では次のように説かれていました
「准胝陀羅尼を誦すれば、薄福無善根の人々も、仏の教えを受けて真実の悟りに達することができ、聡明になり、湖善不善をよく知るようになり、悪と戦う争いには勝っことができ、夫婦は敬愛し、愛し合わなかった夫婦も制愛を得て子を生み、望みの子が与え婿られ、諸病は治癒して長寿を得、降雨などの祈りに効験がある」

不思議体験日記(京都 醍醐寺展~真言密教の宇宙~ 仏様たちからの心暖まる慈愛のメッセージ 1) |  菊水千鳳の不思議体験日記~神仏の声を聴いて、人と神仏との橋渡し役をさせていただいております。視えない世界をご紹介しています。

 一方、如意輪観音の効験については、『如意輪陀羅尼経』で次のように説かれています。
「一切の衆生の苦を救い、すべて福を求める事業において意の如く成就させる」
「世間の願、つまり富貴、資財、勢力、威徳などをすべて成就させるとともに、出世間の願、つまり福徳、慧解、資糧などをととのえて慈悲の心を増大させて人々を救うことを成就させる力がこめられている」
「如意輪観音を深く信仰し、如意輪陀羅尼を念誦する者は、珍宝を授けられ、延寿、宇宙宙や心の災を除き、安心・治病を得、鬼賊の難を免かれる」

聖宝の造立した如意輪観音像は、現在は残っていませんが、六腎の尊像だったと研究者は考えているようです。
醍醐寺 如意輪観音坐像 - はんなりマンゴー
 
『醍醐寺縁起』には、聖宝の如意輪観音像について、次のような伝説が記されています。
 聖宝が如意輪観音像を准抵堂に奉安しようとしたところ、その尊像は、みずから東の峯に登って、石上の苔がはびこっている所に座していた。そこで聖宝は堂を建て、崇重にあつかい昼夜にわたって行じつづけた。すると如意輪観音は、聖宝に 

「この山は補陀落山であり観音菩薩が住む山である。この道場は、補陀落山の中心であって、金剛宝葉石があり、自分は、この上に座って十方世界を観照し、昼も夜も、いつも衆生の苦しみを抜き去り、楽しみをあたえているのだ」

と語ったと伝えられます。
この伝説からは、聖宝がとくに如意輪観音を信仰の中心に置いたのは、衆生救済のためであったと研究者は考えているようです。
理源大師 准胝堂跡
准胝堂跡 落雷により焼失
   聖宝が笠取山(醍醐山)に今までにない二つの観音さまを安置する安置する堂舎を完成させたのは貞観十八年(876)でした。
この年の11月に、清和天皇は位を皇太子貞明親王に譲っています。その時、右大臣の藤原基経は、九歳の新天皇陽成を補佐するために摂政となります。
 清和天皇の譲位の詔は次のように述べます。
君臨漸久しく、年月改る随に、熱き病頻に発り、御体疲弱して、朝政聴くに堪へず。加以、比年の間、災異繁く見れて、天の下寧きことなし。此を思ふ毎に、憂へ傷み弥 甚し。是を以て此の位を脱展りて御病を治め賜ひ、国家の災害をも鎮め息めむと念し行すこと年久しくなりぬ。(『三代実録』貞観十八年十一月二十九日千宙
条)
   ここからは、清和天皇の譲位の理由が、自身の病気と国家の災異・災害にあったことが分かります。清和天皇はこの時にまだ27歳です。それでも退かなければならないところへ追い詰められてとも考えられます。この背景には、4月10日の大火があります。大極殿から出た火は、小安殿、蒼龍・白虎の両楼、延休堂、および北門(照虜門)、北東西三面の廊百余間に延焼し、数日にわたって燃えつづけます。清和天皇をはじめとして、すべての人びとは、先の応天門の変という忌まわしい事件が思い浮かんだでしょう。
理源大師 如意輪堂(重文)
如意輪堂(重文) 准胝堂と共に最初に建てられた建物とされます

一方聖宝の師真雅は、どのような動きを見せていたのでしょうか 
  
 聖宝が上醍醐に堂舎を完成させる2年前の貞観16年2月23日、真雅は絶頂の極みにいました。貞観寺に道場が新しくできたのを祝って大斎会(だいさいえ)が設けられたのです。その催しのさまは、「三代実録』貞観十六年二月のように記されています。
「荘厳、幡蓋灌頂等の飾、微妙希有にして、人の日精を奪ひ、親王公卿、百官畢く集ひ、京畿の士女、観る者填喧(みちあふれる)しき」

 この時の真雅の誇らしげな顔貌は、際立って人びとの目に映ったのかもしれません。ところが大斎会が終ってから三カ月余り経ったころから真雅は、病気勝ちとなり、肉体の衰えを感じたのか、しきりに僧正の地位からおりることを申しでるようになります。しかし、 その辞任は認められないまま亡くなっていくのです。
 真雅の死と共に、聖宝には今まで考えられなかったような道が開けてくることになります。

理源大師 願堂として創建された「五大堂」
醍醐天皇の御願堂「五大堂」 真ん中が聖宝
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 佐伯有清 聖宝の笠取山開山 人物叢書「聖宝」所収 吉川弘文館


聖宝3
聖宝(理源大師)
 前回は、聖宝が王族出身で大和を本貫地としていたこと、そして生まれも大和であることを見てきました。今回は、聖宝の青年期に当たる東大寺での修学と、そこに残された伝説を見ていくことにします。
 聖宝が真雅(801~79)のもとで剃髪し、仏教の修行に励むようになったのは、承和14年(847)、十六歳の時のことのようです。真雅は、空海の末弟で兄空海から真言宗を学び、当時は、東大寺の別当に補任されています。この時、真雅は四十七歳です。真雅は16歳でしたから30歳の年の開きがある師弟だったことになります。聖宝が真雅を選んだのは、真雅が栄達の極みにあると同時に、聖宝の母が、佐伯直氏の出身であったことによるのかもしれないと研究者は考えているようです。
弟子入りした聖宝は、真雅の下ではなく東大寺で修業したようです。
そのころの聖宝をめぐる著名な伝説に、次のようなものがあります。
修学の比(ころ)、東大寺の東僧房の南第二室に住めり。件の房は、本願の時従り、鬼神が栖(すみか)たるに依り、内作(内部の造作)もせず、並びに荒室と号し、人が住むこと能はず。而して居住の房無きに依りて、件の室に寄住す。其の間、鬼神種々の形を現し、戟を持ちて遂に勝つことを得ず。鬼神、他処に去り畢んぬ。
意訳変換しておくと
聖宝が居住していた東大寺の東僧房の南第二室は、建立した時から鬼神の栖となっていたようで、内部の造作もしないままに放置され、「荒室」と名づけられていたのです。僧侶が住める状態の部屋ではありません。しかし聖宝は住む所がなかったので、その部屋に寄宿することになった。鬼神は、さまざまな形であらわれたけれども、聖宝に対抗することができないで、ついに退散していったというのです。

 この伝説は、聖宝が亡くなった後、28年がたった承平七年(937)九月に書かれた『醍醐根本増正略伝」に、すでに書きとめられていて、かなり早くから語られていた伝説のようです。
 ここには、後の大蛇伝説のように蛇は登場しません。この話をベースにして、要約や潤色が加えられていろいろな物語にとして残されています。それだけ聖宝が伝説化しやすい人物であったのでしょう。
これには省略されたところあるようです。それを補って、研究者が「完成版」としたのが次の物語です
聖宝が少年の時に、東大寺にやって来たがまだ住む房舎がなかったので、師資相承の次第を書き記して、寺務に住房をあたえてくれるように願いでたのである。その時、聖宝には、まだ一人の弟子もいなかったので、寺司は嘲笑いを浮べながら住房を認める判を押してくれた。それを受け取った聖宝は、鬼神が住むと畏れられていた東僧坊の南第2室に居住することになった。
 その夜、聖宝は燈をもやし、徹夜で学問に励んだ。眠気覚ましに茶を一杯用意して鬼神かあらわれるのを待りていた。真夜中になると、天井から大蛇がが頭を垂れ、目を開いて、まさに聖宝を呑みこもうとした。大蛇の頭が、茶碗の底に写ったので、聖宝は上を向いて、剣を抜いて大蛇を斬り落とした。
 翌朝になると、雌の蛇が人になってあらわれ、聖宝に、「この部屋は、近年、私たちの住んでいた部屋です。私は、いま夫を喪い、住居もまた失ってしまいました。どうか、慈しみ哀れんでくださって、住まわせてください」と懇願した。そこで聖宝は、その雌の蛇を他の所に住まわせた。その間、多くの奇妙なことが、数えきれないほどあった。
 すなわち一匹の蛇が命にかえて、多くの人びとの寿命を延ばしてくれることになったのである。蛇であるこの小菩薩は、戒律を堅く遵奉したので、饒益有情(もろもろの衆生を救済すること)と名づけられた。道理にはずれている行ないをしたものでも、仏の説いた道によく熟達するというのは、これを言うのである。
この伝説の奥にかくされている意味を、研究者は次のように汲みとります。
ひとつは、東大寺の破戒僧の存在が浮びあがってくるといいます。
それは、ここに出てくる寺務です。彼は鬼神の住処だと触れまわって、人びとを恐れさせ、その部屋に人を住まわせないでいた。それは、そしてこっそりと「妻」をその空き部屋に置いていたためだった。寺司は鬼神が出ると語ったのに、聖宝は、いっこうに怯まず、その部屋に長く住みこむ気配であった。これでは寺司にとって、まことに都合が悪い。蛇の姿に化けた寺司が、聖宝を驚かせ、部屋から退散させようとして夜中にあらわれたのはよいが、逆に聖宝に剣で打ち殺されてしまう結果となった。
 ここからは一人の破戒僧の姿と、腐敗した東大寺の姿がダブって見えてきます。
この伝説で研究者が注目する二つ目は、「金峯山の聖宝の大蛇退治伝説」よりも、こちらの東大寺の方が成立が早いことです。
金峯山の大蛇退治伝説の成立は、13世紀末期のことです。
 ちなみに『元亨釈書』の大蛇伝説では、聖宝がただ蛇を叱りつけただけで、剣で斬り落とした話がありません。これは僧侶である聖宝が剣を身のまわりに置き、大蛇を斬るといった話は、ふさわしいことではないから、故意に抜剣のことを取捨選択した結果のようです。醍醐寺の『東大寺具書』には、大蛇を斬ったのは聖宝ではなく、「誰人」かが斬った「異朝伝来」の剣であるとします。もっとも早い『醍醐根本僧正略伝』には、鬼神伝説だけが記されていて、大蛇伝説はありませんでした。鬼神伝説に潤色が加えられて大蛇伝説が添えられたようです。鬼神伝説の背後には、次の3点があったことを確認しておきます
①当時の東大寺の中に派閥的争いがあったこと
②東大寺の僧侶の破戒行為や腐敗堕落した状況があったこと
③聖宝の霊力と正義感を伝えようとしていた
僧侶の乱れに聖宝が抵抗していたことを物語る説話があります。「聖宝僧正一条大路渡る事」

『宇治拾遺物語』巻第十二の「聖宝僧正一条大路渡る事」を見てみましょう。
その昔、東大寺に上座法師(僧侶集団において上座(かみざ)に座るべき高僧のこと)で、きわめて富裕な僧侶がいた。取るに足りない物でも他の人に与えることをせず、物惜しみをし、貪欲で罪深く思われた。
 聖宝は、そのころまだ若い僧であったが、この上座の僧侶の物を惜しむ罪の極端さを見るにみかねて、故意に争いごとをもちかけ「あなたは何をしたら多くの僧たちに供養をしますか」と問いかけた。
 上座の僧侶は「争いごとをして、もし負けた時に供養してもつまらない。そうかといって、多くの僧侶のなかで、こういうことについて何も答えないのも残念なことである」と思い、聖宝には、とてもできそうにないことを思いついた。
 そこで聖宝に「賀茂祭の日に、まる裸になり、揮だけで、千鮭を太刀としてさし、やせた牝牛に跨がって、 一条大路を大宮(皇居)から賀茂川の河原まで、『わたしは、東大寺の聖宝である』と大声で名乗りをあげて通ってみよ。そうすれば、東大寺の大衆から下部にいたるまで、すべての僧達に大いに供養することにする」と語った。

上座の僧侶達は心の中で、そんなことを聖宝がするはずがないと思い、かたく賭の約束をしたのである。上座の僧侶は、聖宝をはじめ東大寺の大衆をすべて呼び集めて、大仏の前で鐘を打って誓い、仏に告げて去って行った。上座の僧侶が約束した日が近くなって一条の富小路に桟敷を構え、聖宝が通るのを見ようと東大寺の大衆がすべて集まってきた。上座の僧侶も、もちろん群集のなかに顔を見せていた。

聖宝僧正渡一條大路図

しばらくして、 一条大路の見物の人たちが、ひどく騒がしくなった。何事が起こったのかと思って、頭を突きだして西の方を見てみると、牝牛に跨がつた裸の聖宝が、千鮭を太刀としてさし、牛の尻を鞭で打ち、そのあとから何百何千という子供たちがついてきて、「東大寺の聖宝が、上座の僧侶と賭をして、今こそお通りだ」と大声をはりあげてやつて来たのである。この年の賀茂祭において、これが、まさに第一の見ものであった。
こうして東大寺の大衆は、それぞれ寺に帰り、上座の僧侶に大いに供養を施させたのである。これを聞いた天皇は、「聖宝は、自分の身を捨てて、他の人を導く立派な人物である。現代に、どうしてこのような尊い人物がいたのであろうか」と聖宝を召しだして、僧正に昇任させたのである。
 聖宝が権僧正になったのが71歳、僧正になったのが75歳のことです。ここからすると、結びの部分が説話らしい誇張であることはすぐに分かります。しかし、聖宝ならばこんなこともやりそうだという雰囲気を持っていたのかも知れません。彼の豪放な性格を語り、東大寺修業時代の姿をしのばせるものだと研究者は考えているようです。
同時に、強欲な東大寺の上層部僧侶にたいして、聖宝が批判の眼をそそぎ、敢然として上座の僧に抵抗する姿勢がうかがえます。

聖宝は、奈良の東大寺で誰から何を学んだのでしょうか
①真言を真雅から
②三論宗を願暁と円宗に、
③法相宗を平仁に
④華厳宗を玄永に、
⑤律宗を真蔵に
いくつかの宗派の教学を併せて修めることは、当時の僧侶の間だでは、さして珍しいことではなかったようですが、聖宝の場合は際立っています。それは聖宝の強い探究精神によるものなのでしょうが、それだけではなく当時の仏教界の置かれた状況が背景にあったと研究者は考えているようです。つまり、仏教界の腐敗堕落の傾向がなかで、仏教の真理を求められるのは、どの宗派なのかを模索していたとも考えられます。
 後世の東大寺の凝然(ぎょうねん 1240~1321)が著わした「三国仏法伝通縁起』の三論宗の項において、凝然は聖宝のことを次のように評します。

「三論を以て本宗と為し、法相、華厳、因明、倶舎、成実を兼学す。顕宗の義途は、精頭にして究暢し、秘蔵の真言は、旨帰を研致す。包括の徳は、敵対する者無し
意訳変換しておくと
三論を本宗とし、法相・華厳・因明・倶舎・成実を兼学し、顕教の正しい道を詳しく調べて、究め広げ、密教の真言の趣旨を深く明らめ究めた。その包括した教化に対抗できる者はいなかった

と評しています。 いろいろな宗派の研鑽につとめた聖宝にたいする評価の言葉です。
 このような中で聖宝は、自分が歩むべき方向を見つけ出していきます。
それは、空海が大学をドロップアウトした後に歩んだ山林修行の道であったようです。師である真雅は「天皇のお抱え祈祷師」として、貴族世界への寄生する存在であり、そして東大寺の上座たちと同じように写ったのかもしれません。師弟の対立は避けられないものとなっていきます。
今回はこのあたりで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐伯有清 聖宝 吉川弘文館人物叢書

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