戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」
このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。
仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。
仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
坂出市史より
県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡②藤目城跡(観音寺市)③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)④西長尾城跡(丸亀市)⑤勝賀城跡(高松市)⑥上佐山城跡(同)⑦鳥屋城跡(同)⑧内場城跡(同)⑨雨滝城跡(さぬき市)⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。
他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
坂出市史より
ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。聖通寺
そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献