瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:聖通寺城

  戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」

  このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺山

聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
聖通寺城 曲輪2

この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
聖通寺城 曲輪

 北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
それを「聖通寺山には石垣がない」をキーワードに解いていくことにします。織豊政権のお城に石垣はつきものです。ところが聖通寺城は、戦国時代の終末期まで存続しながら石垣跡がありません。

聖通寺山 仙石秀久

 天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 |  サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
 織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。
仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。 
 仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。

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仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
 仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。
生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】 | でも、日本が好きだ。

 讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
  以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
聖通寺 岡豊城の石垣 長宗我部元親
長宗我部元親の居城 土佐・岡豊城の石垣

讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
聖通寺 長宗我部元親の侵攻
坂出市史より

県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
  長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡
②藤目城跡(観音寺市)
③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)
④西長尾城跡(丸亀市)
⑤勝賀城跡(高松市)
⑥上佐山城跡(同)
⑦鳥屋城跡(同)
⑧内場城跡(同)
⑨雨滝城跡(さぬき市)
⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。

他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引田城 - お城散歩
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。
「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
聖通寺城 坂出の城郭
坂出市史より

ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙名島 石垣
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。
その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
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聖通寺山・南峰山中の磐座
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
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聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。

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 聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
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聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。
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聖通寺

 そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。

聖通寺 復元図
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
 それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
 聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある
①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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讃岐の戦国史は、史料的な制約もあり『南海通記』など後世の戦記物の記述に頼らざるえない状況にありました。こうした状況に風穴を開けようとする動きが、昭和の終わり頃から始まります。まず国島浩正氏は、毛利側の一次資料を利用した元吉合戦解明を提唱し、その概要を次のように明らかにします(1993年)
①元吉城の所在地を琴平町の櫛梨山(櫛梨山城)に比定
②合戦の性格を、毛利・足利義昭・石山本願寺連合と織田信長の瀬戸内海制海権をめぐる一連の抗争の中での戦闘
そしてこの戦いが、小さな戦闘ではなく瀬戸内海の制海権をめぐる戦略的な戦闘であったことを明らかにします。続いて多川真弓氏は、毛利氏の対織田戦争における瀬戸内海の海上支配の観点から次のような検討を加えました
①合戦に参加した毛利勢、讃岐惣国衆の具体的な陣容
②毛利氏の備前児島~塩飽~宇多津の備讃海峡支配との様相と関連
 そしてこの合戦の性格が備讃瀬戸海峡の支配権をめぐるものという視点から、元吉城は海に近い綾歌郡宇多津町の聖通寺城に比定します。
 橋詰・多田氏両氏の成果は、元吉合戦が讃岐だけでなく阿波三好氏や毛利氏・長宗我部元親氏の動きとも関連してくることを明らかにすることで、各方面の研究者の注目と関心を引くようになります。
そこで改めて問題になるのが元吉城が、どこにあったかです
①橋詰氏は、琴平町の櫛梨山城
②多川氏は、宇多津の聖通寺城
と見解が分かれました。
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櫛梨山城のある櫛梨山 ふもとには式内社の櫛梨神社が鎮座

 川島好弘氏は橋詰氏・多田氏の成果をふまえながら、元吉合戦に至る経緯、戦いの具体的な状況を再度検証し、元吉城の所在地を明らかにしていきます。そのうえで、讃岐に侵攻した毛利氏の合戦の意図についても検討をすすめていきます。その足取りを追ってみましょう。
テキストは「川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット」です。

まず元吉合戦までの動きを見てみましょう。

元吉合戦の経過

1577(天正五)年7月、冷泉元満は小早川隆景から次のように命じられています。

「二十日至讃州乗渡、其儘岩屋可有上着候」

舟で讃岐に渡り、そのまま淡路岩屋に向かえという指示内容です。讃岐のどこに渡ったのかは、分かりません。ただ、ここからは讃岐国内で合戦になるような緊張した動きはうかがえません。七月以前の毛利側の史料に元吉城は、まだ現れてきません。ここからは毛利氏は、当初においては元吉城の確保を戦略的な目的としてはいなかったと研究者は考えているようです。
元吉合戦は、どのように戦われたのか?
その後、閏7月12日頃に冷泉元満が再び讃岐に渡たります。この頃から元吉城が史料に現れるようになります。18日付けの冷泉元満宛小早川隆景書状には、次のように記されています。
「其表数日御在陣、殊普請等之儀」
20日付の毛利輝元書状にも
「至元吉城城番衆 御馳走候而頓被差籠之由」

とあることから、閏7月20日以前の段階で冷泉元満は元吉城の普請をおこない、軍勢を送り込んていたことがうかがえます。そして、閏7月20日、讃岐惣国衆が元吉城を攻撃し、毛利勢との間で合戦が繰り広げられます。この戦いが元吉合戦です。
川島好弘氏は、合戦の詳細を史料で検討していきます
史料1天正五年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、

天正五年閏七月二十二日   
乃美兵部      宗勝
児玉内蔵太夫  就英
井上又右衛門肘 春忠
        香川左衛門尉  広景
桂民部大輔      広繁
杉次郎芹衛門尉 元相
粟屋有近助      元之
古志四郎五郎  元清
杉民部大輔      武重
村上弾正忠      景広  (笠岡)
村上形部人輔  武満 (上関)
包久宮内少輔  景勝
杉七郎        重良
冷泉民部大輔  元豊(満)   (元吉城普請)
岡和泉守殿
この史料は、小早川家臣の岡就栄に元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状です。意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この史料から合戦の推移や参加者の顔ぶれがうかがえます。
毛利勢は、元吉城の普請に関わった冷泉元満のほか、乃美宗勝や井上本忠など毛利・小早川配下の水軍を中心とした部隊のようです。笠岡の村上景広や上関の村上武満のほか、この史料には名前がありませんが、海賊大将とよばれた能島村上氏の村上元吉も動員されていることが他の史料から分かるようです。機動力のある毛利・小早川水軍が燧灘を越えて、備讃瀬戸になだれ込んできたようです。

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櫛梨城から眺める丸亀平野 備讃瀬戸も見渡せる

これに対する讃岐勢のメンバーを見ておきましょう
①長尾氏は、西長尾城の長尾氏で、丸亀平野南部がテリトリーです。
②羽床氏は、綾川中流の羽床城を拠点に滝宮エリアを拠点とします
③安富氏は、西讃岐守護代
④香西氏は、名門讃岐綾氏の嫡流を自認し勝賀城を拠点にします
⑤田村氏は、鵜足郡の栗熊城主で長尾一族の田村上野介なる人物がいたようです。
⑥三好安芸守については、同時期に阿波三好郡の大西氏と対立関係にあったことから、阿讃国境付近に所領をもつ勢力のようです。
織田信長と結んでいた三好氏は、信長の意向を受けて毛利氏の備讃瀬戸制海権確保を防ぐために元吉城への派兵に応じたとも考えられます。そうだとすれば、派遣部隊の指揮を執ったのは、⑥の阿波の三好安芸守ではないでしょうか。「元吉城奪還」の命に応じた讃岐勢のメンバーの思惑は、丸亀平野北部の分割です。

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櫛梨城からの南方方面 琴平を経て阿讃山脈を望む

合戦は、閏7月20早朝、長尾氏・羽床氏ら讃岐勢が元吉城に攻めかかることから戦いの火ぶたが切って降ろされました。しかし、事前に補強普請が行われた山城は墜ちません。
 これに対し、毛利の援軍である警固衆は、元吉城の向かいの摺臼山に陣を敷いていたようです。
頃合いを見て讃岐勢に攻め掛かり、数百人を討ち取って勝利を収めました。讃岐連合の大敗北に終わったようです。しかし、合戦後も讃岐勢は、依然として不穏な動きをみせます。そこで毛利氏は、8月に湯浅宗将を派遣し、元吉城のさらなる補強普請を行っています。
 9月になると、信長に追放された後に鞆に亡命していた元将軍足利義昭が「儂の出番だ」とばかりに、阿波三好氏と和議交渉に乗り出してきます。毛利氏は11月に長尾・羽床両氏から人質を受け取り、一部の軍を撤収します。

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櫛梨から望む西方 大麻山に続く摺臼山が張り出す 

ここからは1577年秋の時点で、丸亀平野の中央部の櫛梨城には毛利軍が駐屯し、丸亀平野の北部までを守備エリアとしていたことが分かります。毛利水軍は、このような中で安全に備讃瀬戸を航行することが出来たわけです。
 以上のように元吉合戦に至る経緯をみると、閏七月に入り冷泉元満が元吉城に軍勢を入れて、城の普請をおこなったあたりから、状況が急変し合戦に至った様子がうかがえます。
改めて1577年前後の毛利氏や周辺勢力の動向を見ておきましょう
天正4年12月、阿波の三好長治は細川真之に敗北自刃。
この結果、三好家は当主不在の状況となり、阿波周辺は混乱状態へ
天正4年以降 毛利氏の瀬戸内海地域における制海権確保のためのはたらきかけが活発化
天正5年正月 小早川隆景が淡路の海上勢力に対織田氏への軍事行動に協力するよう協力依頼
  同年3月 信長が塩飽船の堺への航行を保証し、塩飽勢力の取込みに成功
毛利氏が、織田氏との抗争において重視したのは、畿内最大の勢力である石山本願寺でした。本願寺への支援をおこなうためには、第一次木津川合戦のように、淡路岩屋を経由して大坂湾に至る海上輸送ルートの確保が重要戦略となります。そのような中で、瀬戸内海中央部に位置する塩飽に織川氏の調略の手が伸びてきたのです。これは毛利氏に、少なからず動揺を与えたようです。その対応策を考えなければならなくなります。そこで毛利氏は、七月に大坂・淡路(岩屋)・阿波・讃岐への警固衆の派遣を画策します。
 閏7月には、毛利側の史料に
「阿讃両国任存分候」「抑阿州両国之儀、如御存分伎仰何候」

などの記述が見えるようになります。ここからは元吉合戦以前に、すでに阿波・讃岐に毛利氏の軍隊が駐屯していたことがうかがえます。織田信長の塩飽取り込み策への対抗として、阿波・讃岐の陸地寄りの別航路を確保しようとしていたと研究者は考えているようです。
 元吉合戦の際に、「堀江口」でも毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したと記されています。

道隆寺 堀越津地図

堀江津は、現在の四国霊場道隆寺の北側に開けていた潟湖の入口にあった中世の港町です。この湊は活発な交易活動を行っていたようで、毛利水軍の兵站輸送湊としても機能していたようです。後には村上元古が警固船を、残し置いています。それも堀江湊であったと思われます。
 こうしてみてくると橋詰・多田両氏が指摘しているように、元吉合戦は「毛利 対 織田」の備讃瀬戸の海上覇権抗争の一環だったようです。

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一方で、元古合戦直後に小早川降景は乃美宗勝に、次のように書送っています。
他国渡海之儀候条、無心元候処、存之外之太利、祝着此事候」
             〔「浦家文書」「戦瀬」五三二号〕

合戦がおこなわれた讃岐を「他国」と認識していることが分かります。ここから毛利による讃岐への直接的な領域支配は行われていなかったと研究者は考えているようです。阿波についても同じで、毛利氏の侵攻は確認できません。同時期に毛利氏は、阿波の大西氏と結び、足利義昭の上洛戦に協力する申し合わせをしています。毛利方の「阿讃両国任存分候」という認識は、毛利よる直接支配ではなく、三好家当主不在という混乱のなか、毛利氏と提携する道を選んだ阿波や讃岐の諸勢力との結びつきを指すようです。

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櫛梨山から望む丸亀平野と瀬戸内海
元吉合戦の直接の直接のきっかけは、何だったのでしょうか?
元吉合戦後に小早川隆景が冷泉元満に送つた書状に、次のように記されています。
史料2 天正五年閏七月二十九日付 小早川隆景書状〔「冷泉家文書」「県史」中世二、二〓号〕
今度元吉現形之刻、御方御人数被差籠、初中後御気造令察候、殊彼城へ敵取詰及難儀候 別而被致御辛労此由、淵底承候、至三原此由可申達候、尚自是申候、恐々謹言、
天正五年七月二十九日  小早川隆景(花押)
冷泉民部少輔殿 御陣所
ここに「今度元吉現形之刻」とあります。現形とは寝返りを意味することのようです。つまり、元吉城の「現形(=寝返り)」をきっかけに毛利氏は、兵士を配備させたこと。それが讚岐勢と合戦となったことがうかがえます。
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櫛梨城跡の展望台
毛利方に寝返った元吉城主とは、誰なのでしょうか
元古合戦に参加した乃美宗勝の家に伝わる記録には次のように記されています。
「讃州多戸郡元吉城城二 三好遠江守籠リケル」
〔『萩藩評録』浦主計元伴〕、

毛利側の岩国藩の編纂資料の『御答吉』(岩国徴占館蔵)には
「讃州多戸郡二三好遠江と申者、元吉と申山ヲ持罷居候、是ハ阿州ノ家人ニテ候、其節此方へ御味方致馳走仕候」

ここには元吉城の主は、阿波の三好遠江守であった、それが寝返ったと記されています。
 三好遠江守は冷泉元満が、再度讃岐にやって来た閏七月中旬には、毛利方についていたことがうかがえます。毛利方が「阿讃両国任存分候」と配下の武将達に触れていたことと合わせて考えると、三好遠江守に対しても毛利氏から何らかの領土的報償をえさに寝返り工作が行われたこと、それが功を奏したとしておきましょう。三好遠江守の寝返りが、長尾氏・羽床氏ら讃岐惣国衆を刺激することになり、元吉合戦の直接の契機となったと研究者は考えているようです。

   1 櫛梨城
 
元吉城はどこにあったのか?
先に見たとおり元吉城の候補地は、櫛梨山城と聖通寺城のふたつの説があります。研究者は「史料1」を検証して、城の具体的な構造や周囲の状況を明らかにして、所在地を特定していきます。

尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条

ここには元吉城を攻撃した讃岐勢が最初に攻めかかった所が記されています。それが「尾頚・水手」です。「尾頚」は、山の尾根筋の一番狭くなった場所で「馬の背」とも呼ばれるところです。「尾頚」があるということは、平城ではなく山城であったことが分かります。
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「尾頚」とおもわれる所
 「水手」とは、井戸などの水場がある所で、ここが奪われたら長くは籠城できません。城の防衛上、最重要なポイントです。しかし、この史料からは、これ以上の情報を得ることはできません。

②「警固三里罷上 元吉向摺臼山与申二陣取」

ここには「警固衆(毛利氏の援軍)は、(堀江港から)三里ほど上がり、元吉城の向かいの「摺臼山」に陣取った」とあります。
毛利側の別史料には、次のようにも記されています。
「今度於元吉城山下敵罷出候刻、従船本被罷出、以堅同之党語相副候」(「萩藩閥閲録」山内源右衛門〕)

ここからは毛利側の援軍は「船本」から元吉城の救援に向かっています。「三里」とは、沿岸部からの距離であったことがうかがえます。「御答書』には「元吉ノ城より坤二 摺臼と申ス山候へ」とあり、摺臼山は元古城の「坤(ひつじさる=南西」に位置すると記されています。
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大麻山から張り出した尾根の先端が摺臼山

③「従摺臼山悉打下仕懸候、河縁二立合候、河口思切渡懸候間、 一息二追崩数百人討取之候」

 元吉城に攻め寄せた讃岐勢が攻めあぐねているのを見て、摺臼山に陣取っていた毛利の援軍は、山を下って敵に仕掛ます。その際に、y敵前渡河を行っています。川を一気に渡り、敵数百人を討ち取る戦果をあげというのです。ここからは摺臼山と元吉城の間には河川があったことが分かります。

DSC05457櫛梨城

史料を並べて、比べて検討して元吉城を比定してみると
以上の情報を、櫛梨山城・聖通寺城に対照させながら研究者は検討していきます。まず櫛梨山城の位置を確認します。
①この城は、堀江津の海岸より南に約8㎞の位置にあること
②西側を金倉川が南北に流れ、対岸に摺臼山があること
③古墳時代に築かれた前方後円墳の摺臼山古墳がある丘で、ここに中世には山城もあったこと
ここからは、金倉河口付近の堀江津を連絡湊として、上陸した毛利軍の援軍が道隆寺から金倉寺を経て金倉川沿いに進軍し、摺臼山に陣を構えるというあらすじが描けそうな立地条件です。
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すぐ西に位置する大麻山

 それでは、聖通寺城はどうでしょうか
 聖通寺城は、現在の聖通寺の上に築かれた山城で、津の山から北に伸びた半島の上に位置します。川は飯野山と城山の間を大束川が流れ、宇多津で海に流れ込みます。宇多津は中世の守護所があったとされ、聖通寺城と対峙する関係にあります。しかし、地図を見れば分かるとおり海のすぐそばに位置する城で、「三里罷上(海より三里)」という条件を満たしません。
 『毛利輝元卿伝」は、坂出市の西庄城を元吉城とします。
ここも海からは三里も離れていません。そこで堀江津から東方に三里移動したと解釈しているようです。なにかしら「邪馬台国比定」を思い浮かべてしまいます。
 この時の状況をもう一度確認すると、讃岐に確保した元吉城が包囲されたために毛利の警固衆(増援部隊)が急遽、舟で安芸から送り込まれたという場面です。求められるのはスピードです。私が海の司令官であれば、海上輸送部隊を元吉城に一番近い湊に着けて、陸戦隊を上陸させます。毛利・小早川水軍は、機動力に富みます。この時には、能島村上武吉も参陣しているのです。堀江口に上陸して、わざわざ坂出の西ノ庄まで陸上を進軍するは下策です。西ノ庄を目指すのなら宇多津や林田湊などに着岸下船を考えます。
  これらの検討から、元吉城は橋詰氏や『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』が指摘する仲多度郡琴平の櫛梨山城と研究者は比定します。そして、毛利氏と長尾氏・羽床氏が交戦したとされる堀江口は、多度津町の堀江とします。毛利氏の丸亀平野方面への進出拠点湊は、多度津港か堀江港としておきましょう。

  次に研究者は櫛梨山城(=元吉城)の立地や遺構の状況について検討します
元吉城は、九亀平野西端に連なるる山々(天霧山~五岳山~象頭山)から突出した独立丘陵の櫛梨山にあり、那珂郡と多度郡の境目にあたります。この山の麓には、式内神社の櫛梨神社があり、古代以来一つの宗教ゾーンを形成していたと琴平町史「ことひら」は指摘します。
櫛梨神社の裏から続く遊歩道を登ると10分程で、城跡の丘陵頂上部に立てます。
1櫛梨神社32

櫛梨山の頂上からの眺望を見ておきましょう

1 櫛梨城2

北側は条里制の残る丸亀平野が広がります。山の直ぐ下を古代南海道が東西に善通寺に伸びていました。その向こうには瀬戸内海が見え、多度津の桃陵公園や丸亀城も見渡すことができます。当時は、堀江港に入港する毛利の輸送船団も見えたでしょう。
1櫛梨神社322
櫛梨山から西を望む 眼下に金倉川 その向こうが摺臼山
はるかに五岳の我拝師山

 西側には、眼下に金倉川、対岸には毛利の増援部隊が陣を敷いた摺臼山が見え、その背後に大麻山が迫っています。さらに善通寺の背後の五岳の連山や、天霧山も見えます。ここには香川氏の天霧城がありました。
 南側には、金倉川を辿ると琴平です。さらに金倉川を遡ると、阿波へと続く峠越えの道につながります。
 東側からは宇多津・飯野山方面が一望でき、反毛利勢力の長尾氏の西長尾城や羽床氏などの動きを制することができます。
こうしてみると元吉城は丸亀平野の中央部を押さえる戦略的重要ポイントであったことが頷けます。毛利氏はこの元吉城を掌握することで、周辺勢力の動きを抑えることができるようになったとも考えられます。逆に言えば、丸亀平野のど真ん中に毛利氏に、このような拠点を構えられたのでは近接する長尾氏や羽床氏はたまりません。毛利氏の打ち込んだ拠点を排除するという「共通目的」のために激しく抵抗するのは当然です。
櫛梨城について「香川県中世城館跡詳細分布調査報告』所収の縄張図には
1 櫛梨城1

頂上部の主格を中心に、周囲を帯曲輪を巡らせ、南西の尾根先端部に出曲輪を配した比較的堅固な構造となっています。毛利側の史料からは、元吉合戦の前後に改修普請を行ったことが記されています。どこを補強強化したのかは、この縄張図の説明では触れていません。ちなみに城の南東の二重堀切は、その後に讃岐に侵攻した長宗我部氏による改修とされます。長宗我部元親もこの城を軍事的な拠点として重視していたことがうかがえます。
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櫛梨城堀切
なぜ毛利氏が丸亀平野に拠点を作ることができたのか?
丸亀平野を取り巻く当時の有力武士団としては、次の3つが挙げられます。
①天霧城   香川氏
②聖通寺山城  奈良氏
③西長尾城  長尾氏
この中で②③は反毛利陣営で三好方に与していたようです。ところが①の香川氏の動向が見えてこないのです。
亡命中の香川氏は毛利氏の援助で讃岐に帰国した?
元吉城から西北を見ると、五岳の向こうに天霧山が見えます。ここには西讃守護代を務めてきた香川氏の居城天霧城がありました。ところが香川氏は、永禄年間(1558~70)初頭から讃岐を支配下に置こうとする三好氏の攻撃を受け守勢にまわされます
1558年には、東讃の讃岐国衆を従えた三好軍が善通寺を拠点にして天霧城と対峙しています。その前後から、周辺での小規模の軍事的衝突が繰り返されていたことは以前に見た秋山文書からも分かります。こうして永禄6(1563)年8月の発給文書には、香川之景が天霧城を退出する際の家臣の奮戦に対しての感状が何通か残されています。ここからは香川氏の天霧城退去が実際あったことが分かります。
 『南海通記』には、引き続き香川氏讃岐で活動している様子が描かれますが、永禄8(1565)年を最後に、香川氏の発給文書が確認できなくなります。このような状況から香川氏は、讃岐を追われ毛利氏のもとに身を寄せていたが、元吉合戦に前後して讃岐帰国を果たしたと考える研究者が多いようです。

1 櫛梨城 縦堀
櫛梨城竪堀
改めて、元吉合戦を中心に据えて、香川氏の讃岐帰国問題について考えてみましょう。
永禄11(1568)年9月 篠原長房ら三好勢は備前児島に攻め込み毛利氏と交戦しています。(第一次本太合戦)。この合戦後、毛利方の細川通童と足利義昭家臣細川藤賢とのやりとりのなかで、香川氏の存在が確認できるようです〔「下関文書館蔵文書´細川家文書)」「県史」中世四、 一三号〕。
 それ以後、将軍義昭の御内書やその副状に香川氏の讃岐帰国を促す記述が出てくるようになります。しかし、実行されることはなかったようです。
その後、天正五年(1577)になり、再び香川氏の発給文書が確認できるようになります
〔史料3〕(天正五(1577年)八月一日付足利義昭御内書〔『大日本古文圭[ 家わけ第九 吉川家文書之一」七五号〕
至讃州、香川入国之儀、最可然候、弥彼表之儀可令馳走事肝要候、自然阿州之者共和談旨申候共、不可許容候、於此方、和平之儀申聞半候間、以其上可申遣候、委細申含元政候、猶藤長可申候也、
天正五年八月朔日   (義昭花押)
古川駿河守とのヘ
小早川左衛門佐とのヘ
毛利右馬頭とのヘ
この史料は、毛利輝元・古川元春・小早川隆景に宛てた足利義昭の御内書になるようです。毛利輝元への「右馬頭」の官途授与は、元亀四年二月のことになります。元吉合戦直後に小早川隆景が讃岐を「他国」と認識していたことから、それ以前の段階とは考えがたく、香川氏の発給文書再開と同じ天正五年のことと研究者は考えているようです。
ここには「至讃州、香川人国之儀、最可然候」とありますから、香川氏が讃岐帰国を果たしたことが確認できます。
香川氏はこの年(1557)の二月以降に、家臣たちに三野郡の所領安堵をおこなっています「帰来秋山家文書」『高瀬町史」史料編、号・四号、「秋山家文書」『高瀬町史』史料編、〕
 これは、帰国後の合戦に備えて家臣団を再編成したのでしょう。元吉合戦の前後に毛利氏が使用していた湊は、多度津や堀江だったのは、先ほど見てきたとおりです。多度津は、西讃守護代として香川氏が代々掌握してきた港で、現在の桜川河口一帯だったと考えられます。毛利氏が容易に安芸から多度津へ海を渡って帰国できているのも、毛利氏の支援があったと考えると納得がいきます。元吉合戦と香川氏の讃岐帰国は、深く結びついているようです。
 香川氏の居城天霧城と、元吉城の立地と合わせて考えると
①天霧城は多度津を抑える要害
②天霧城からみて元吉城は、東方からの勢力の侵入を防ぐ、出城のような機能を果たした
③両城は丸亀平野を東西に走る古代の旧南海道や中世の「大道」を挟む位置関係にもある。
以上から、帰国した香川氏にとっても元吉城を押さえることは、丸亀平野に侵入してくることが予想される敵対勢力に備える最重要戦略課題であったのではないでしょうか。

1 櫛梨城
   以上をまとめておくと
①1577年の元吉合戦の舞台となった元吉城は、櫛梨山城である
②元吉合戦は、備讃瀬戸の制海権確保の観点から注目されてきた
③しかし、元吉城は丸亀平野のど真ん中にあり、軍事的拠点の掌握をめぐる合戦でもあった。
④毛利氏は、西讃岐の影響力を握るために亡命中の香川氏の後ろ盾となり、讃岐帰国運動を進めた。

このような動きの背景には、「①石山本願寺救援のための瀬戸内海交易ルートの確保 、制海権確保」があることが従来から言われてきました。しかし、もうひとつの要因もあるようです。
 それは、吉備方面で三好氏と対立してきた毛利氏は、讃岐から渡海してくる三好勢にたびたび悩まされてきた苦い経験があります。元吉合戦の頃は、三好氏は当主不在の混乱状態にありました。毛利氏はこうした混乱期に三好支配下の讃岐の諸勢力を押さえ込み、あわせて香川氏を帰国させることによって、沿岸部を含めた西讃岐一帯を安定的に影響下に置こうとしたと研究者は指摘します。
 帰国してきた香川氏を通じて、親毛利勢力を西讃岐に培養しようとしたというのです。しかし、それは叶わぬ夢と消えます。土佐を統一し、阿波池田に進出してきた長宗我部元親が讃岐に進行して来たのです。元親は、分散する三豊の諸勢力を次々と破り、配下に加えていきます。
天霧城主の香川氏も毛利氏から離れ、長宗我部元親に降伏し、元親の息子を養子に迎えることで生き残りを図ります。こうして西讃には土佐軍による占領時代が始まるのです。元親は占領者として、様々な新政策を実施していきます。そのひとつができあがったばかりの金毘羅寺を修験道化することでした。そのために呼ばれたのが足摺で修行を積んだ延光寺の南光院でした。彼が第2代金光院として、「四国鎮護の寺」作りを始めるのです。これが金毘羅大権現へと変身していきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川島好弘 元吉合戦再考 城の所在と合戦の意図  四国の中世城館 岩田書院ブックレット
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